豊田利三郎

トヨタ自動車・元取締役社長

(敬称略)

Toyoda Risaburo

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生年月日
学歴
出自
出自
豊田喜一郎氏の妹・愛子氏の夫として豊田家に入った。1926年11月に刈谷で設立された豊田自動織機製作所では社長を務め、常務取締役の喜一郎氏とともに織機事業を率いた。社内には本業の織機で稼いだ利益を成算の見えない自動車に投じることへの反発もあったが、利三郎氏は関連会社を含むグループの利益を投じて自動車部の開発を資金面で支えた。織機の経営を預かる立場から、自動車という不確実な事業へ金を回す判断を承認した人物である。
抜擢
1937年8月28日、豊田自動織機製作所の自動車部が資本金1,200万円のトヨタ自動車工業として分離独立し、社長には利三郎氏が、副社長には喜一郎氏が就いた。有価証券報告書の沿革も1937年8月を分離独立(会社創立)と記し、資本金を12,000千円と記録している。織機の一部門にとどめれば本体の信用まで巻き込みかねない自動車の設備投資と借入を、独立法人へ切り分けて負わせる選択であった。1938年3月時点の株主は豊田自動織機製作所が75.17%を占め、利三郎氏個人の持分は4.17%であった。織機の社長が新会社の社長を兼ねる形で、資本と経営の両面を織機側につないだ。
施策
在任中の自動車事業の実務は副社長の喜一郎氏が担い、利三郎氏は織機と自動車を併せ持つ豊田グループの経営を見た。1939年12月19日には、トヨタが30%、日産自動車が30%、フォードが40%を出資して日本に合弁会社を設立するという三社提携の契約書に、トヨタの社長として署名している。1941年1月28日、臨時株主総会後の取締役会で取締役副社長の喜一郎氏が取締役社長に昇格し、利三郎氏は取締役会長へ退いた。乗用車をやることに一番反対した人物として英二氏は記しているが、織機で稼いだ資金を自動車へ回す判断はその承認のうえに立っていた。
評価
執筆予定
就任前-
退任時-
変化-
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退任時-
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