トヨタ自動車の豊田自動織機製作所の自動車研究とトヨタ自動車工業の設立
織機事業の収益を元手とした、需要に先行する量産工場の整備
1926年〜豊田自動織機製作所の設立と、特許対価10万ポンドの自動車への投入
トヨタ自動車の出発点は、1926年11月18日に愛知県碧海郡刈谷町で設立された資本金100万円の豊田自動織機製作所である。父の豊田佐吉氏の指示を受け、豊田喜一郎氏は同年2月、刈谷に新工場を建てる計画をまとめた。社長には豊田利三郎氏が就任し、豊田喜一郎氏は常務取締役として実務を担った。工場の完成までは豊田紡織の日置町修繕工場の設備でG型自動織機を生産し、1927年6月に月産300台の工場を本格稼働させた。技術に習熟しながら生産能力を段階的に拡充するこの手順は、のちの自動車事業でも採られた。1929年には英国のプラット・ブラザーズ社が豊田自動織機の性能に着目し、その特許権を10万ポンド(当時の約100万円)で譲り受けた。
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第1章第4節 豊田自動織機製作所の設立』(トヨタ自動車, 2012年)
- [1]1926年4月26日の豊田紡織の株主総会で新会社設立が了承され、同年11月18日に愛知県碧海郡刈谷町で資本金100万円(25万円払込済み)の株式会社豊田自動織機製作所が設立された
- [2]1926年2月 父佐吉氏からの指示もあり、豊田喜一郎氏が刈谷への新工場の建設を立案した
- [3]豊田自動織機製作所の社長は豊田利三郎氏、常務取締役は豊田喜一郎氏
- [4]刈谷の工場が建設中はG型自動織機を豊田紡織の日置町修繕工場の設備を引き継いで生産し、1927年6月に月産300台の織機製作工場が本格稼働した
- [5]生産技術の習熟を図りながら段階的に生産能力を拡充していく方法は、自動車事業への進出の際にも採用された
- 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
- [6]1929年 英国のプラット・ブラザーズ社が豊田自動織機の高性能に着目して権利譲渡を申し込み、豊田・プラット協定により特許権を10万ポンド(当時の約100万円)で譲渡した
自動車が日本で実用品の地位を得た境は、1923年9月1日の関東大震災だった。鉄道が壊滅的な被害を受け、人命の救出から復興工事に至る輸送をトラックが担った。東京市電気局は路面電車の復旧に時間を要すると見て、米国フォード社にトラック・シャシー800台を発注し、市バスとして運行した。震災後の需要を取り込んだのは米国メーカーで、米国車は欧州車より2〜3割安く、注文から3か月で届いた。豊田喜一郎氏はこの震災に東京で遭遇し、10年後の1933年9月1日に自動車製作部門を豊田自動織機製作所内に設置した。設置の時機は、紡績機械が自動織機に加わって業績が上向いた機会をとらえたものだった。
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第1節 日本の自動車市場』(トヨタ自動車, 2012年)
- [7]1923年9月1日の関東大震災で、それまで贅沢品と見られていた自動車が実用品としてその公共性・利便性を広く理解されるようになった
- [8]関東大震災では鉄道が壊滅的な被害を受け、火災からの人命救出から震災の後始末・復興事業までトラックが全面的に使われた
- [9]東京市電気局は路面電車の復旧に時日を要することから米国フォード社にトラック・シャシー800台を発注し、ボデーを架装して市バス(円太郎バス)として運行を開始した
- [10]震災後の需要急増に対応したのは大量生産体制の米国メーカーで、米国車は欧州車より価格が2〜3割安く注文から3カ月で到着した
- [11]豊田喜一郎氏は1923年9月1日に東京で関東大震災に遭遇し、10年後の1933年9月1日に自動車製作部門を豊田自動織機製作所内に設置した
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第2節 自動車試作』(トヨタ自動車, 2012年)
- [12]1933年9月1日の自動車製作部門の設置は、自動織機に紡績機械が加わって業績が向上に転じた機をとらえたものだった
1933年9月に置かれた自動車製作部門は職制上の正式な組織ではなく、豊田喜一郎氏のもとで自動車を調査してきたチームだった。これに先立つ同年6月、取締役の大島理三郎氏は海外視察の名目で渡米し、調べておいた自動車製造用の工作機械を購入して1934年3月に帰国した。1935年7月9日の増資では上海の豊田紡織廠が新株をすべて引き受け、自動車の設備拡充に充てる資本金は300万円から600万円へ倍増した。設備の拡張に着手したのは、G1型トラックの品質が安定し、1936年1月に月産150台の生産目標を定めた後である。同年5月には、織機工場から北東へ約1kmの中央紡織の借地に自動車組立工場が完成した。紡織の事業と資本が、試作から量産の手前までの資金と用地を供給したとみられる。
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第2節 自動車試作』(トヨタ自動車, 2012年)
- [13]自動車製作部門は職制上の正式な組織ではなく、従来から喜一郎氏のもとで実質的に自動車を調査・研究してきたチームだった
- [14]1933年6月 大島理三郎取締役が海外視察の名目で渡米し、かねて調査済みの自動車製造用工作機械を購入したうえで1934年3月に帰国した
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第4節 自動車部組立工場と挙母工場の建設』(トヨタ自動車, 2012年)
- [15]1935年7月9日 自動車の生産設備を増強するため、上海の豊田紡織廠の全額引き受けにより資本金を300万円から600万円へ倍額増資することを決定した
- [16]設備拡張に着手したのは、G1型トラックの品質が安定し1936年1月に1日5台・月産150台の生産目標を設定してからだった
- [17]自動車組立工場は豊田自動織機製作所から北東に1kmほどの中央紡織の所有地を借用して建設され、1936年5月に完成した
参考文献[1]-[17]
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第1章第4節 豊田自動織機製作所の設立』(トヨタ自動車, 2012年)
- [1]1926年4月26日の豊田紡織の株主総会で新会社設立が了承され、同年11月18日に愛知県碧海郡刈谷町で資本金100万円(25万円払込済み)の株式会社豊田自動織機製作所が設立された
- [2]1926年2月 父佐吉氏からの指示もあり、豊田喜一郎氏が刈谷への新工場の建設を立案した
- [3]豊田自動織機製作所の社長は豊田利三郎氏、常務取締役は豊田喜一郎氏
- [4]刈谷の工場が建設中はG型自動織機を豊田紡織の日置町修繕工場の設備を引き継いで生産し、1927年6月に月産300台の織機製作工場が本格稼働した
- [5]生産技術の習熟を図りながら段階的に生産能力を拡充していく方法は、自動車事業への進出の際にも採用された
- 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
- [6]1929年 英国のプラット・ブラザーズ社が豊田自動織機の高性能に着目して権利譲渡を申し込み、豊田・プラット協定により特許権を10万ポンド(当時の約100万円)で譲渡した
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第1節 日本の自動車市場』(トヨタ自動車, 2012年)
- [7]1923年9月1日の関東大震災で、それまで贅沢品と見られていた自動車が実用品としてその公共性・利便性を広く理解されるようになった
- [8]関東大震災では鉄道が壊滅的な被害を受け、火災からの人命救出から震災の後始末・復興事業までトラックが全面的に使われた
- [9]東京市電気局は路面電車の復旧に時日を要することから米国フォード社にトラック・シャシー800台を発注し、ボデーを架装して市バス(円太郎バス)として運行を開始した
- [10]震災後の需要急増に対応したのは大量生産体制の米国メーカーで、米国車は欧州車より価格が2〜3割安く注文から3カ月で到着した
- [11]豊田喜一郎氏は1923年9月1日に東京で関東大震災に遭遇し、10年後の1933年9月1日に自動車製作部門を豊田自動織機製作所内に設置した
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第2節 自動車試作』(トヨタ自動車, 2012年)
- [12]1933年9月1日の自動車製作部門の設置は、自動織機に紡績機械が加わって業績が向上に転じた機をとらえたものだった
- [13]自動車製作部門は職制上の正式な組織ではなく、従来から喜一郎氏のもとで実質的に自動車を調査・研究してきたチームだった
- [14]1933年6月 大島理三郎取締役が海外視察の名目で渡米し、かねて調査済みの自動車製造用工作機械を購入したうえで1934年3月に帰国した
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第4節 自動車部組立工場と挙母工場の建設』(トヨタ自動車, 2012年)
- [15]1935年7月9日 自動車の生産設備を増強するため、上海の豊田紡織廠の全額引き受けにより資本金を300万円から600万円へ倍額増資することを決定した
- [16]設備拡張に着手したのは、G1型トラックの品質が安定し1936年1月に1日5台・月産150台の生産目標を設定してからだった
- [17]自動車組立工場は豊田自動織機製作所から北東に1kmほどの中央紡織の所有地を借用して建設され、1936年5月に完成した
1933年〜他社の補給部品に合わせた設計と、許可会社への指定
豊田喜一郎氏は試作車の構想段階で、国内に多いフォード車とシボレー車の補給部品を流用できる互換設計を方針とした。エンジンは構造が原理に忠実なシボレー車を、トラック・シャシーは頑丈なフォード車を手本とした。1933年10月には33年型シボレー乗用車を分解して部品を採寸し、エンジン試作用の図面を起こした。分解した部品は材質・強度・硬度を調べ、国内の外国車用イミテーション・パーツの製造業者や材料の供給業者も調査した。当時の日本では材料と工作機械が不十分だったため、鋼材と工作機械は内製した。自前の部品網を持たない新規参入者が、米国車の補修網を自社の供給網として使う設計だったと考えられる。
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第2節 自動車試作』(トヨタ自動車, 2012年)
- [18]喜一郎氏は、当時わが国で広く普及していたフォード車やシボレー車の補給部品をユーザーが利用できるよう、これらの車と互換性のある部品として設計する方針を固めた
- [19]エンジンは原理的な構造のシボレー車を、トラック・シャシーは丈夫な構造のフォード車をモデルとした
- [20]1933年10月 33年型シボレー乗用車を分解して部品をスケッチ(採寸、図面化)し、エンジン試作用図面をつくった
- [21]分解した自動車部品は材質や強度、硬度などを調査するだけでなく、国内の外国車用イミテーション・パーツ製造業者や材料の供給業者も調べた
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第7節 設備近代化』(トヨタ自動車, 2012年)
- [22]豊田喜一郎氏が自動車事業への進出に際し鋼材と工作機械を内製したのは、当時の日本では材料と工作機械が不十分であったからである
自動車事業の経験がなかったため、豊田自動織機製作所は経験者を相次いで招聘した。乗用車アツタ号に関係した菅隆俊氏が1933年11月に、白楊社でオートモ号の開発に携わった池永羆氏が1934年3月に入社した。日本GMに在籍した神谷正太郎氏、花崎鹿之助氏、加藤誠之氏は1935年に加わった。豊田喜一郎氏は実際技術とともに学術的研究を重んじ、1936年5月に東京芝浦に研究所を開設した。担当は同年4月に自動車部へ入った豊田英二氏で、当初は豊田英二氏のほかに誰もおらず、机や製図板の買い集めから始めた。研究所ではラジエーターや木炭車のガス発生器、国産の自動車部品を調べた。
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第2節 自動車試作』(トヨタ自動車, 2012年)
- [23]自動車事業の経験がまったくなかったところから、それに携わったことがある経験者を招聘した
- [24]乗用車「アツタ号」に関係した菅隆俊氏が1933年11月に、白楊社で「オートモ号」の開発・製造に携わった池永羆氏が1934年3月に豊田自動織機製作所へ入社した
- [25]日本GMに在籍した神谷正太郎氏、花崎鹿之助氏、加藤誠之氏が1935年に入社した
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第3節 基礎技術の研究、開発』(トヨタ自動車, 2012年)
- [26]喜一郎氏は実際技術(実技)とともに学術的研究を重視し、1936年5月に東京芝浦に研究所を開設した
- [28]芝浦の研究所ではラジエーター、木炭車のガス発生器、国産自動車部品などの調査が行われた
- 豊田英二『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1987年)
- [27]芝浦の研究所は1936年4月に自動車部へ入社した豊田英二氏が担当し、当初は英二氏のほかに誰もおらず、机やいす、製図板や定規の買い集めから始まった
1936年9月、豊田自動織機製作所は自動車製造事業法による許可会社の指定を受けた。許可の規模は年産で乗用車2,500台、バス1,000台、トラック2,500台の計6,000台だった。豊田喜一郎氏は、受注生産の紡織機と大量生産の自動車では労務の構成も管理の方式も異なるとみて、自動車部門を分離する構想を持っていた。許可会社の指定により、この構想は予想より早く実現した。1937年8月27日、自動車部が資本金1,200万円で分離独立し、トヨタ自動車工業が発足した。社長には豊田利三郎氏が、副社長には豊田喜一郎氏が就任した。同年9月、豊田喜一郎氏は全国のトヨタ車販売店の代表に創立の経緯と経営方針を説明した『『トヨタ丸』は『廉価で優秀な車の製造』という旗印を立てて、嵐の海に出帆するのであります。ますます強固な結束と献身的な努力によってこの目的を実現してゆきたいと思います。いかにして安く製作し、従って安く提供するか、いかにして優秀な車を製作するかという以外にわれわれの進路はないのであります』。
- 『会社銀行八十年史』2篇 日本会社史「トヨタ自動車業」(1955年)
- [29]1936年9月 年産で乗用車2,500台、バス1,000台、トラック2,500台、合計6,000台の自動車製造事業の営業許可を得た
- [30]1936年9月 年産で乗用車2,500台、バス1,000台、トラック2,500台、合計6,000台の自動車製造事業の営業許可を得た
- [33]1937年8月27日 豊田自動織機製作所の自動車部が分離独立し、資本金1,200万円でトヨタ自動車工業が発足した
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- [31]喜一郎氏は自動車製造事業に進出してまもなく、受注生産の紡織機製造と大量生産の自動車とは労務構成も管理方式も異なる点に留意し、自動車部門を分離独立させる構想を持っていた
- [32]分離独立の構想は1936年9月の自動車製造事業法による許可会社の指定で予想外に早く実現した
- [34]設立時の社長には豊田利三郎氏、副社長には豊田喜一郎氏が就任した
- [35]1937年9月 豊田喜一郎副社長は全国のトヨタ車販売店の代表に対し、創立のいきさつと経営方針について挨拶を行った
参考文献[18]-[35]
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第2節 自動車試作』(トヨタ自動車, 2012年)
- [18]喜一郎氏は、当時わが国で広く普及していたフォード車やシボレー車の補給部品をユーザーが利用できるよう、これらの車と互換性のある部品として設計する方針を固めた
- [19]エンジンは原理的な構造のシボレー車を、トラック・シャシーは丈夫な構造のフォード車をモデルとした
- [20]1933年10月 33年型シボレー乗用車を分解して部品をスケッチ(採寸、図面化)し、エンジン試作用図面をつくった
- [21]分解した自動車部品は材質や強度、硬度などを調査するだけでなく、国内の外国車用イミテーション・パーツ製造業者や材料の供給業者も調べた
- [23]自動車事業の経験がまったくなかったところから、それに携わったことがある経験者を招聘した
- [24]乗用車「アツタ号」に関係した菅隆俊氏が1933年11月に、白楊社で「オートモ号」の開発・製造に携わった池永羆氏が1934年3月に豊田自動織機製作所へ入社した
- [25]日本GMに在籍した神谷正太郎氏、花崎鹿之助氏、加藤誠之氏が1935年に入社した
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第7節 設備近代化』(トヨタ自動車, 2012年)
- [22]豊田喜一郎氏が自動車事業への進出に際し鋼材と工作機械を内製したのは、当時の日本では材料と工作機械が不十分であったからである
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第3節 基礎技術の研究、開発』(トヨタ自動車, 2012年)
- [26]喜一郎氏は実際技術(実技)とともに学術的研究を重視し、1936年5月に東京芝浦に研究所を開設した
- [28]芝浦の研究所ではラジエーター、木炭車のガス発生器、国産自動車部品などの調査が行われた
- 豊田英二『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1987年)
- [27]芝浦の研究所は1936年4月に自動車部へ入社した豊田英二氏が担当し、当初は英二氏のほかに誰もおらず、机やいす、製図板や定規の買い集めから始まった
- 『会社銀行八十年史』2篇 日本会社史「トヨタ自動車業」(1955年)
- [29]1936年9月 年産で乗用車2,500台、バス1,000台、トラック2,500台、合計6,000台の自動車製造事業の営業許可を得た
- [30]1936年9月 年産で乗用車2,500台、バス1,000台、トラック2,500台、合計6,000台の自動車製造事業の営業許可を得た
- [33]1937年8月27日 豊田自動織機製作所の自動車部が分離独立し、資本金1,200万円でトヨタ自動車工業が発足した
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- [31]喜一郎氏は自動車製造事業に進出してまもなく、受注生産の紡織機製造と大量生産の自動車とは労務構成も管理方式も異なる点に留意し、自動車部門を分離独立させる構想を持っていた
- [32]分離独立の構想は1936年9月の自動車製造事業法による許可会社の指定で予想外に早く実現した
- [34]設立時の社長には豊田利三郎氏、副社長には豊田喜一郎氏が就任した
- [35]1937年9月 豊田喜一郎副社長は全国のトヨタ車販売店の代表に対し、創立のいきさつと経営方針について挨拶を行った
1938年〜挙母工場の流れ作業と、戦時下の乗用車の消失から戦後の小型車試作へ
1938年11月3日、挙母町論地が原に挙母工場が完成し、竣工式の後ただちに操業を始めた。日本初の大衆車専門の量産一貫工場で、トヨタ自動車工業はこの日を創業記念日と定めた。それまでの刈谷工場では、鋳物の半製品をいったん倉庫へ入れ、伝票が回るたびに次の加工へ進めていた。豊田喜一郎氏はこれを流れ作業へ置き換えるため、詳細なパンフレットを作成した。仕掛品がたまらなければ倉庫は要らず、ランニングストックが減って余分な資金を寝かせずに済む。代金の支払い前に仕入れた物が売れれば運転資金さえ不要になる、という考え方だった。ジャスト・イン・タイムという和製英語も、この移転のときに作られた。
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- [36]1938年11月3日 挙母町論地が原(現・豊田市トヨタ町)に挙母工場が完成し、竣工式を行ってただちに操業を開始した
- [37]挙母工場はわが国初の大衆車専門量産一貫製造工場で、この日を創業記念日と定めた
- 豊田英二『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1987年)
- [38]刈谷工場では鋳物からできた半製品をいったん倉庫に入れ、何個つくれという伝票が回り、それが終わると次に穴を開けろという指示が来る形で加工していた
- [39]喜一郎氏は流れ作業を導入するため、克明なパンフレットを作った
- [40]流れ作業にすれば品物のたまりがなくなって倉庫も要らず、ランニングストックが減って余分な金が出なくなる
- [41]買ったものが金を払う前に売れてしまうため、この方式が定着すれば運転資金すら要らなくなるという考えだった
- [42]「ジャスト・イン・タイム」は挙母工場への移転時に作られた和製英語である
トヨタ自動車工業の乗用車の生産は時局の影響で年々減少し、1937年の年間577台が最高にとどまった。全体の生産台数は1937年の4,013台から1939年に11,981台となり、1942年の16,302台が終戦前の最高だった。戦時中の仕事は車づくりより資材の確保が中心となり、陸軍や海軍と直接交渉して材料を調達した。軍は材料を省いた簡易型を求め、ヘッドランプは1つ、ブレーキは後輪だけという車まで生産された。資本金は1939年7月に3,000万円、1943年1月に6,000万円へ増えた。同年11月には企業整備で中央紡績を吸収合併し、9,150万円となった。大衆乗用車のために建てた工場は、戦時下では軍用トラックの工場として稼働したことになる。
- 『会社銀行八十年史』2篇 日本会社史「トヨタ自動車業」(1955年)
- [43]トヨタ自工の乗用車の生産状況は時局の関係上、年々低下し、1937年の年間577台が最高だった
- [44]生産台数は1937年に年間4,013台、1939年に11,981台、1942年には16,302台へ達し終戦前の最高を記録した
- [47]資本金は1939年7月に3,000万円、1943年1月に6,000万円へ増額され、同年11月には企業整備により中央紡績を吸収合併して9,150万円となった
- [48]資本金は1939年7月に3,000万円、1943年1月に6,000万円へ増額され、同年11月には企業整備により中央紡績を吸収合併して9,150万円となった
- 豊田英二『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1987年)
- [45]戦時中の仕事の中心は車をつくることよりモノを集めることで、陸軍や海軍に直談判して資材を集めた
- [46]軍はなるべく材料を使わない簡易型の車をつくるよう求め、ヘッドランプは1つ、ブレーキは後輪だけという車までつくられた
1945年8月14日、挙母工場は空襲で約4分の1を破壊され、翌15日は復旧工事のさなかに終戦を迎えた。8月16日、副社長の赤井久義氏は幹部を前に、トラックは日本の復興にも欠かせない道具でありトヨタに供給の責任があると表明した。生産は8月17日に再開され、資材を節約した戦時規格を廃して標準規格のKC型トラックを生産した。9,500人余りいた従業員は動員者の離職と自発的な退社で、10月末には3,700人まで減少した。1947年1月には小型のS型エンジンを積んだSA型乗用車の試作第1号車が完成した。同年6月、GHQは1,500cc以下の乗用車の生産を年間300台に限って許可した。乗用車は年300台の枠にとどまり、トラックを主力とする事業のまま1949年の緊縮財政に臨んだと推察される。
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第6節 戦後の事業整理と労働争議』(トヨタ自動車, 2012年)
- [49]1945年8月14日 トヨタ自工の挙母工場は空襲を受けて工場の約4分の1が破壊され、翌15日は爆撃被害の復旧工事のさなかに終戦の玉音放送があった
- [50]1945年8月16日 赤井久義副社長が幹部を前に、トラックは日本を復興する際にも重要な道具でトヨタにはそれをつくって供給する責任があると表明した
- [51]1945年8月17日から工場生産が再開され、資材を節約した戦時規格を廃止して標準規格のKC型トラックを生産することとした
- [52]勤労動員などで9,500人余りに増えていた従業員は終戦で動員者が去って7,400人程度となり、その後も自発的な退社が多く10月末には3,700人まで減少した
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第8節 本格的乗用車トヨペット・クラウンの登場』(トヨタ自動車, 2012年)
- [53]S型エンジンは1946年11月に試作第1号が完成し、1947年1月にSA型乗用車の試作第1号車が誕生した
- [54]GHQは1947年6月に1,500cc以下の乗用車の生産を年間300台に限り許可した
参考文献[36]-[54]
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- [36]1938年11月3日 挙母町論地が原(現・豊田市トヨタ町)に挙母工場が完成し、竣工式を行ってただちに操業を開始した
- [37]挙母工場はわが国初の大衆車専門量産一貫製造工場で、この日を創業記念日と定めた
- 豊田英二『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1987年)
- [38]刈谷工場では鋳物からできた半製品をいったん倉庫に入れ、何個つくれという伝票が回り、それが終わると次に穴を開けろという指示が来る形で加工していた
- [39]喜一郎氏は流れ作業を導入するため、克明なパンフレットを作った
- [40]流れ作業にすれば品物のたまりがなくなって倉庫も要らず、ランニングストックが減って余分な金が出なくなる
- [41]買ったものが金を払う前に売れてしまうため、この方式が定着すれば運転資金すら要らなくなるという考えだった
- [42]「ジャスト・イン・タイム」は挙母工場への移転時に作られた和製英語である
- [45]戦時中の仕事の中心は車をつくることよりモノを集めることで、陸軍や海軍に直談判して資材を集めた
- [46]軍はなるべく材料を使わない簡易型の車をつくるよう求め、ヘッドランプは1つ、ブレーキは後輪だけという車までつくられた
- 『会社銀行八十年史』2篇 日本会社史「トヨタ自動車業」(1955年)
- [43]トヨタ自工の乗用車の生産状況は時局の関係上、年々低下し、1937年の年間577台が最高だった
- [44]生産台数は1937年に年間4,013台、1939年に11,981台、1942年には16,302台へ達し終戦前の最高を記録した
- [47]資本金は1939年7月に3,000万円、1943年1月に6,000万円へ増額され、同年11月には企業整備により中央紡績を吸収合併して9,150万円となった
- [48]資本金は1939年7月に3,000万円、1943年1月に6,000万円へ増額され、同年11月には企業整備により中央紡績を吸収合併して9,150万円となった
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第6節 戦後の事業整理と労働争議』(トヨタ自動車, 2012年)
- [49]1945年8月14日 トヨタ自工の挙母工場は空襲を受けて工場の約4分の1が破壊され、翌15日は爆撃被害の復旧工事のさなかに終戦の玉音放送があった
- [50]1945年8月16日 赤井久義副社長が幹部を前に、トラックは日本を復興する際にも重要な道具でトヨタにはそれをつくって供給する責任があると表明した
- [51]1945年8月17日から工場生産が再開され、資材を節約した戦時規格を廃止して標準規格のKC型トラックを生産することとした
- [52]勤労動員などで9,500人余りに増えていた従業員は終戦で動員者が去って7,400人程度となり、その後も自発的な退社が多く10月末には3,700人まで減少した
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第8節 本格的乗用車トヨペット・クラウンの登場』(トヨタ自動車, 2012年)
- [53]S型エンジンは1946年11月に試作第1号が完成し、1947年1月にSA型乗用車の試作第1号車が誕生した
- [54]GHQは1947年6月に1,500cc以下の乗用車の生産を年間300台に限り許可した
筆者考察
トヨタ自動車工業の創業から終戦後までの23年は、売れる車を作った歴史ではなく、織機の稼ぎを自動車へ移し続けた歴史である。元手は1929年に英プラット・ブラザーズ社へ特許権を譲って得た10万ポンドであり、1935年に資本金を300万円から600万円へ倍にした増資も、上海の豊田紡織廠が全額を引き受けた。豊田喜一郎氏は自前の部品網も販売網も持たないまま、エンジンをシボレー車に、トラック・シャシーをフォード車に合わせて設計した。すでに日本中へ出回っていた米国車の補給部品が、そのまま自社の部品供給網になるからだった。持たざる会社が市場へ参入するための設計である。
1938年の挙母工場は大衆乗用車のために建てられ、そのために倉庫を置かない流れ作業が敷かれた。ジャスト・イン・タイムという言葉もこのとき生まれた。ところが工場が動き出した年から乗用車は減り続け、1937年の年間577台を超える年は戦時下に二度と来なかった。伸びたのはトラックだけで、1942年の16,302台が戦前の頂である。戦後もGHQが1947年に認めた乗用車は年300台までで、豊田喜一郎氏が掲げた廉価で優秀な大衆車は、工場だけが先に完成した状態で10年据え置かれた。
- 年間生産台数。1942年の16,302台が終戦前の最高で、このうち乗用車は1937年の年間577台が最高だった。
- 出所は『会社銀行八十年史』2篇 日本会社史「トヨタ自動車業」(1955年)。
出典・参考
12件
- 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第1章第4節 豊田自動織機製作所の設立』(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第1節 日本の自動車市場』(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第2節 自動車試作』(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第4節 自動車部組立工場と挙母工場の建設』(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第7節 設備近代化』(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第3節 基礎技術の研究、開発』(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第6節 戦後の事業整理と労働争議』(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第8節 本格的乗用車トヨペット・クラウンの登場』(トヨタ自動車, 2012年)
- 『会社銀行八十年史』2篇 日本会社史「トヨタ自動車業」(1955年)
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
- 豊田英二『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1987年)