トヨタ自動車の工販合併とGMとの合弁NUMMIによる米国生産
工販一体の国内経営から、北米を先頭とする海外生産への重心移動
- 売上高
- 1982/06期 3兆8,495億円単体 → 1995/03期 8兆1,209億円連結
- 転機
- 年 工販合併年 GMとの合弁NUMMIの設立年 ケンタッキー工場の稼働
1982年〜工販合併後の国内シェア40%回復と、GMとの合弁NUMMI・プラザ合意後の円高
1982年7月、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併し、トヨタ自動車が発足した。社長には、前年に自工副社長から自販社長へ移っていた豊田章一郎氏が就任した。豊田章一郎氏は、年間200万台の販売体制と長期の海外戦略を経営課題に据えていた。合併と同時に、販売店向けの卸手形の決済期間を10日延ばし、マージンも引き上げた。1983年のトヨタ車の国内登録台数は159万9,000台となり、シェアは9年ぶりに40%を超えた。営業利益は1984年6月期の4,064億円から、1985年6月期には5,058億円へ増えた。販売店への支援を生産側と調整せずに一社の判断で打てるようになったことが、シェアの回復を早めたのだろう。
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第2節』「第3項 国内販売200万台への挑戦」(トヨタ自動車, 2012年)
- [1]1982年7月に工販合併でトヨタ自動車が発足し、同時に販売店向けに卸手形サイトの10日延長とマージンの増額を打ち出した
- [4]1982年7月に工販合併でトヨタ自動車が発足し、同時に販売店向けに卸手形サイトの10日延長とマージンの増額を打ち出した
- [5]1983年の国内登録台数は159万9,000台、シェア40.2%で1974年以来9年ぶりの4割突破
- 日経ビジネス 1992年4月27日号(日経BP社)
- [2]豊田章一郎氏は1981年6月にトヨタ自動車販売社長、1982年7月の工販合併でトヨタ自動車社長に就任した
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第2節』「第1項 合併決断へ」(トヨタ自動車, 2012年)
- [3]1981年6月に自販社長となった豊田章一郎氏は、年間200万台販売体制の確立と長期的な海外戦略を経営課題に掲げた
- 日経ビジネス 1991年12月9日号(日経BP社)
- [6]営業利益は1984年6月期4,064億円、1985年6月期5,058億円
北米では、1981年7月にフォード・モーター社との合弁交渉が決裂した直後、ゼネラル・モーターズ(GM)社から提携の打診があった。GM社は小型車の自社開発でつまずいており、米国議会では現地調達率を義務づける法案の動きが強まっていた。1984年2月、両社は折半出資でNUMMIを設立し、トヨタは少ない投資で北米での生産を学ぶ場を得た。NUMMIの工場は、設立から10カ月後の1984年12月に生産を始めた。初代社長の豊田達郎氏は役員専用の食堂と駐車場を廃止し、幹部と作業者の意思疎通を図った。会長の豊田英二氏は1987年の回想で、GMとの提携による対米進出と工販合併をこの10年の出来事に挙げた。
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第3節』「第2項 GM社との合弁」(トヨタ自動車, 2012年)
- [7]1981年7月のフォード社との合弁交渉決裂の後にGM社から提携の打診。GM社は小型車開発でつまずき、米議会ではローカルコンテント法の動き。1984年2月に折半出資でNUMMIを設立し、少ない投資で現地生産を学べる利点があった
- [8]1981年7月のフォード社との合弁交渉決裂の後にGM社から提携の打診。GM社は小型車開発でつまずき、米議会ではローカルコンテント法の動き。1984年2月に折半出資でNUMMIを設立し、少ない投資で現地生産を学べる利点があった
- [9]1981年7月のフォード社との合弁交渉決裂の後にGM社から提携の打診。GM社は小型車開発でつまずき、米議会ではローカルコンテント法の動き。1984年2月に折半出資でNUMMIを設立し、少ない投資で現地生産を学べる利点があった
- トヨタ自動車 アニュアルレポート2004「海外生産会社一覧」(2004年3月31日現在)
- [10]NUMMI(New United Motor Manufacturing, Inc.)の生産開始は1984年12月、トヨタの議決権比率50%
- 日経ビジネス 1992年10月26日号(日経BP社)
- [11]豊田達郎氏はNUMMIの初代社長時代に役員専用の食堂と駐車場を廃止し、幹部とワーカーの意思疎通を図った
- 豊田英二『私の履歴書(経済人22 所収)』「前を見つめて」(日本経済新聞社, 1987年)
- [12]過去10年間の出来事として、米GMとの提携による対米進出と工・販合併を挙げた
1985年9月のプラザ合意を境に、1ドル240円前後だった円相場は1986年5月に160円まで上がった。1986年6月期は国内販売で売上高が4.0%増えたものの、円高による減益要因は2,900億円に達した。営業利益は34.9%減の3,293億円となり、合併後で初めての減益を記録した。トヨタは同年10月に全役員を委員とする円高緊急対策委員会を設け、業務の工数や会議時間を半分にするチャレンジ50を加速した。1987年1月には会長の豊田英二氏が仕入先の協豊会・栄豊会の合同大会で原価低減への協力を求めた。1987年6月期の合理化効果は1,600億円に上った。輸出の採算が崩れた2年間を、国内の販売と原価の引き下げで持ちこたえたことになる。
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第2章第2節』「第1項 急激な円高の進行」(トヨタ自動車, 2012年)
- [13]プラザ合意後、1ドル240円前後の円相場が1986年5月に160円まで上昇。1986年6月期は売上高4.0%増、円高による減益要因2,900億円、営業利益34.9%減の3,293億円で工販合併後初の減益
- [14]プラザ合意後、1ドル240円前後の円相場が1986年5月に160円まで上昇。1986年6月期は売上高4.0%増、円高による減益要因2,900億円、営業利益34.9%減の3,293億円で工販合併後初の減益
- [15]プラザ合意後、1ドル240円前後の円相場が1986年5月に160円まで上昇。1986年6月期は売上高4.0%増、円高による減益要因2,900億円、営業利益34.9%減の3,293億円で工販合併後初の減益
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第2章第2節』「第2項 徹底した原価低減活動」(トヨタ自動車, 2012年)
- [16]1986年10月に全役員が委員の円高緊急対策委員会が発足しチャレンジ50を加速。1987年1月の協豊会・栄豊会合同大会で豊田英二会長が原価低減への協力を訴えた
- [17]1986年10月に全役員が委員の円高緊急対策委員会が発足しチャレンジ50を加速。1987年1月の協豊会・栄豊会合同大会で豊田英二会長が原価低減への協力を訴えた
- 日経ビジネス 1991年12月9日号(日経BP社)
- [18]合理化効果は1987年6月期に1,600億円
参考文献[1]-[18]
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第2節』「第3項 国内販売200万台への挑戦」(トヨタ自動車, 2012年)
- [1]1982年7月に工販合併でトヨタ自動車が発足し、同時に販売店向けに卸手形サイトの10日延長とマージンの増額を打ち出した
- [4]1982年7月に工販合併でトヨタ自動車が発足し、同時に販売店向けに卸手形サイトの10日延長とマージンの増額を打ち出した
- [5]1983年の国内登録台数は159万9,000台、シェア40.2%で1974年以来9年ぶりの4割突破
- 日経ビジネス 1992年4月27日号(日経BP社)
- [2]豊田章一郎氏は1981年6月にトヨタ自動車販売社長、1982年7月の工販合併でトヨタ自動車社長に就任した
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第2節』「第1項 合併決断へ」(トヨタ自動車, 2012年)
- [3]1981年6月に自販社長となった豊田章一郎氏は、年間200万台販売体制の確立と長期的な海外戦略を経営課題に掲げた
- 日経ビジネス 1991年12月9日号(日経BP社)
- [6]営業利益は1984年6月期4,064億円、1985年6月期5,058億円
- [18]合理化効果は1987年6月期に1,600億円
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第3節』「第2項 GM社との合弁」(トヨタ自動車, 2012年)
- [7]1981年7月のフォード社との合弁交渉決裂の後にGM社から提携の打診。GM社は小型車開発でつまずき、米議会ではローカルコンテント法の動き。1984年2月に折半出資でNUMMIを設立し、少ない投資で現地生産を学べる利点があった
- [8]1981年7月のフォード社との合弁交渉決裂の後にGM社から提携の打診。GM社は小型車開発でつまずき、米議会ではローカルコンテント法の動き。1984年2月に折半出資でNUMMIを設立し、少ない投資で現地生産を学べる利点があった
- [9]1981年7月のフォード社との合弁交渉決裂の後にGM社から提携の打診。GM社は小型車開発でつまずき、米議会ではローカルコンテント法の動き。1984年2月に折半出資でNUMMIを設立し、少ない投資で現地生産を学べる利点があった
- [10]NUMMI(New United Motor Manufacturing, Inc.)の生産開始は1984年12月、トヨタの議決権比率50%
- 日経ビジネス 1992年10月26日号(日経BP社)
- [11]豊田達郎氏はNUMMIの初代社長時代に役員専用の食堂と駐車場を廃止し、幹部とワーカーの意思疎通を図った
- 豊田英二『私の履歴書(経済人22 所収)』「前を見つめて」(日本経済新聞社, 1987年)
- [12]過去10年間の出来事として、米GMとの提携による対米進出と工・販合併を挙げた
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第2章第2節』「第1項 急激な円高の進行」(トヨタ自動車, 2012年)
- [13]プラザ合意後、1ドル240円前後の円相場が1986年5月に160円まで上昇。1986年6月期は売上高4.0%増、円高による減益要因2,900億円、営業利益34.9%減の3,293億円で工販合併後初の減益
- [14]プラザ合意後、1ドル240円前後の円相場が1986年5月に160円まで上昇。1986年6月期は売上高4.0%増、円高による減益要因2,900億円、営業利益34.9%減の3,293億円で工販合併後初の減益
- [15]プラザ合意後、1ドル240円前後の円相場が1986年5月に160円まで上昇。1986年6月期は売上高4.0%増、円高による減益要因2,900億円、営業利益34.9%減の3,293億円で工販合併後初の減益
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第2章第2節』「第2項 徹底した原価低減活動」(トヨタ自動車, 2012年)
- [16]1986年10月に全役員が委員の円高緊急対策委員会が発足しチャレンジ50を加速。1987年1月の協豊会・栄豊会合同大会で豊田英二会長が原価低減への協力を訴えた
- [17]1986年10月に全役員が委員の円高緊急対策委員会が発足しチャレンジ50を加速。1987年1月の協豊会・栄豊会合同大会で豊田英二会長が原価低減への協力を訴えた
1985年〜ケンタッキー・カナダの単独工場と、米国製部品の調達拡大
1985年7月、トヨタは臨時取締役会で米国とカナダへの単独進出を決めた。北米でのトヨタ車の販売は、この時点で100万台に達していた。ケンタッキー州ジョージタウンのTMMは1988年5月に、カナダのTMMCは同年11月に生産を始めた。TMMの建設では、トヨタと州政府の間で物事を決め、地元の町には情報がほとんど流れなかった。最初の事務所を隣のレキシントンに置いたこともあり、ジョージタウンの住民には疎外感が広がった。TMMは1986年8月に米国人の上級幹部を迎え、地元と顔を合わせる機会を増やす対策に着手した。合弁で学んだ生産方式とは別に、地域社会との関係を単独で一から築く必要があったとみられる。
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第3節』「第3項 北米へ単独進出―TMMとTMMCの設立」(トヨタ自動車, 2012年)
- [19]トヨタ車の北米での販売が100万台に達し、1985年7月の臨時取締役会で米国・カナダへの単独工場進出を決定した
- [20]トヨタ車の北米での販売が100万台に達し、1985年7月の臨時取締役会で米国・カナダへの単独工場進出を決定した
- トヨタ自動車 アニュアルレポート2004「海外生産会社一覧」(2004年3月31日現在)
- [21]TMMK(ケンタッキー)の生産開始は1988年5月、TMMC(カナダ)は1988年11月
- Decide = 決断 1990年10月号
- [22]TMMは州との間で決定を進め地元に情報が流れず、事務所を隣のレキシントンに置いたことで疎外感が広がった。1986年8月に米国人トップが加わり地元対策に動いた
- [23]TMMは州との間で決定を進め地元に情報が流れず、事務所を隣のレキシントンに置いたことで疎外感が広がった。1986年8月に米国人トップが加わり地元対策に動いた
- [24]TMMは州との間で決定を進め地元に情報が流れず、事務所を隣のレキシントンに置いたことで疎外感が広がった。1986年8月に米国人トップが加わり地元対策に動いた
TMM社長の張富士夫氏は1990年、組立工場を日本人60人で立ち上げ、彼らをラインに入れず米国人課長の補佐役に置いたと説明した。当初公表したフル生産は年20万台で、1990年には年21万台前後のペースで生産していた。日本から送る部品は輸送に最短21日かかり、一定の在庫を持つことは避けられなかった。米国人幹部はビッグ3からではなく一般公募で採り、経営や労務管理の資質を重んじた。北米の生産台数は、1985年の6万4,690台から1990年には48万4,274台へ増えた。合弁のNUMMIで学んだ運営を、単独工場では現地の人材に委ねる比重を高めながら移したと考えられる。
- Decide = 決断 1990年10月号
- [25]張富士夫TMM社長は1990年、日本人60人で立ち上げラインに入れず課長のコーディネーターとした、フル生産20万台の公表に対し21万台前後のペース、日本からの部品は最短21日の流通時間、米国人副社長はビッグ3からでなく公募と述べた
- [26]張富士夫TMM社長は1990年、日本人60人で立ち上げラインに入れず課長のコーディネーターとした、フル生産20万台の公表に対し21万台前後のペース、日本からの部品は最短21日の流通時間、米国人副社長はビッグ3からでなく公募と述べた
- [27]張富士夫TMM社長は1990年、日本人60人で立ち上げラインに入れず課長のコーディネーターとした、フル生産20万台の公表に対し21万台前後のペース、日本からの部品は最短21日の流通時間、米国人副社長はビッグ3からでなく公募と述べた
- [28]張富士夫TMM社長は1990年、日本人60人で立ち上げラインに入れず課長のコーディネーターとした、フル生産20万台の公表に対し21万台前後のペース、日本からの部品は最短21日の流通時間、米国人副社長はビッグ3からでなく公募と述べた
- 『トヨタ自動車75年史 資料編 海外生産台数の推移』(トヨタ自動車, 2012年)
- [29]北米の海外生産台数は1985年64,690台、1990年484,274台
1991年11月、トヨタは1994年度の米国製部品の調達額を50億ドルとする目標を公表した。1991年度の実績見込み28.3億ドルのほぼ2倍にあたり、日米の市場重視型個別協議(MOSS)の合意を受けた計画だった。TMMの現地調達率は、1988年5月の操業開始時の60%から74.8%まで上がった。TMMはかんばんを使わず、トレーラーで部品メーカーを回るミルクラン方式で集荷し、部品在庫を1.4日分持った。張富士夫氏は、多い取引先では1日4〜5回集荷することで、不良の発見と対応も早まると説明した。技術指導を望んだ取引先にだけ技術者を送り、1992年初めの指導先は取引先126社のうち10社だった。
- 日経ビジネス 1992年1月13日号(日経BP社)
- [30]1991年11月に1994年度の米国製部品調達目標50億ドルを公表(1991年度実績見込み28.3億ドル)。MOSS合意を受けた計画。TMMの現地調達率は1988年5月操業開始時の60%から74.8%へ。カンバン方式は採らずミルクラン方式、部品在庫1.4日分。技術指導先は取引先126社中10社
- [31]1991年11月に1994年度の米国製部品調達目標50億ドルを公表(1991年度実績見込み28.3億ドル)。MOSS合意を受けた計画。TMMの現地調達率は1988年5月操業開始時の60%から74.8%へ。カンバン方式は採らずミルクラン方式、部品在庫1.4日分。技術指導先は取引先126社中10社
- [32]1991年11月に1994年度の米国製部品調達目標50億ドルを公表(1991年度実績見込み28.3億ドル)。MOSS合意を受けた計画。TMMの現地調達率は1988年5月操業開始時の60%から74.8%へ。カンバン方式は採らずミルクラン方式、部品在庫1.4日分。技術指導先は取引先126社中10社
- [33]1991年11月に1994年度の米国製部品調達目標50億ドルを公表(1991年度実績見込み28.3億ドル)。MOSS合意を受けた計画。TMMの現地調達率は1988年5月操業開始時の60%から74.8%へ。カンバン方式は採らずミルクラン方式、部品在庫1.4日分。技術指導先は取引先126社中10社
- [35]1991年11月に1994年度の米国製部品調達目標50億ドルを公表(1991年度実績見込み28.3億ドル)。MOSS合意を受けた計画。TMMの現地調達率は1988年5月操業開始時の60%から74.8%へ。カンバン方式は採らずミルクラン方式、部品在庫1.4日分。技術指導先は取引先126社中10社
- Decide = 決断 1990年10月号
- [34]張富士夫氏は、部品メーカーへ毎日トラックを出し多いところでは日に4〜5回取りに行くことで、不良品の発見と対応が早くなると述べた
参考文献[19]-[35]
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第3節』「第3項 北米へ単独進出―TMMとTMMCの設立」(トヨタ自動車, 2012年)
- [19]トヨタ車の北米での販売が100万台に達し、1985年7月の臨時取締役会で米国・カナダへの単独工場進出を決定した
- [20]トヨタ車の北米での販売が100万台に達し、1985年7月の臨時取締役会で米国・カナダへの単独工場進出を決定した
- [21]TMMK(ケンタッキー)の生産開始は1988年5月、TMMC(カナダ)は1988年11月
- Decide = 決断 1990年10月号
- [22]TMMは州との間で決定を進め地元に情報が流れず、事務所を隣のレキシントンに置いたことで疎外感が広がった。1986年8月に米国人トップが加わり地元対策に動いた
- [23]TMMは州との間で決定を進め地元に情報が流れず、事務所を隣のレキシントンに置いたことで疎外感が広がった。1986年8月に米国人トップが加わり地元対策に動いた
- [24]TMMは州との間で決定を進め地元に情報が流れず、事務所を隣のレキシントンに置いたことで疎外感が広がった。1986年8月に米国人トップが加わり地元対策に動いた
- [25]張富士夫TMM社長は1990年、日本人60人で立ち上げラインに入れず課長のコーディネーターとした、フル生産20万台の公表に対し21万台前後のペース、日本からの部品は最短21日の流通時間、米国人副社長はビッグ3からでなく公募と述べた
- [26]張富士夫TMM社長は1990年、日本人60人で立ち上げラインに入れず課長のコーディネーターとした、フル生産20万台の公表に対し21万台前後のペース、日本からの部品は最短21日の流通時間、米国人副社長はビッグ3からでなく公募と述べた
- [27]張富士夫TMM社長は1990年、日本人60人で立ち上げラインに入れず課長のコーディネーターとした、フル生産20万台の公表に対し21万台前後のペース、日本からの部品は最短21日の流通時間、米国人副社長はビッグ3からでなく公募と述べた
- [28]張富士夫TMM社長は1990年、日本人60人で立ち上げラインに入れず課長のコーディネーターとした、フル生産20万台の公表に対し21万台前後のペース、日本からの部品は最短21日の流通時間、米国人副社長はビッグ3からでなく公募と述べた
- [34]張富士夫氏は、部品メーカーへ毎日トラックを出し多いところでは日に4〜5回取りに行くことで、不良品の発見と対応が早くなると述べた
- 『トヨタ自動車75年史 資料編 海外生産台数の推移』(トヨタ自動車, 2012年)
- [29]北米の海外生産台数は1985年64,690台、1990年484,274台
- 日経ビジネス 1992年1月13日号(日経BP社)
- [30]1991年11月に1994年度の米国製部品調達目標50億ドルを公表(1991年度実績見込み28.3億ドル)。MOSS合意を受けた計画。TMMの現地調達率は1988年5月操業開始時の60%から74.8%へ。カンバン方式は採らずミルクラン方式、部品在庫1.4日分。技術指導先は取引先126社中10社
- [31]1991年11月に1994年度の米国製部品調達目標50億ドルを公表(1991年度実績見込み28.3億ドル)。MOSS合意を受けた計画。TMMの現地調達率は1988年5月操業開始時の60%から74.8%へ。カンバン方式は採らずミルクラン方式、部品在庫1.4日分。技術指導先は取引先126社中10社
- [32]1991年11月に1994年度の米国製部品調達目標50億ドルを公表(1991年度実績見込み28.3億ドル)。MOSS合意を受けた計画。TMMの現地調達率は1988年5月操業開始時の60%から74.8%へ。カンバン方式は採らずミルクラン方式、部品在庫1.4日分。技術指導先は取引先126社中10社
- [33]1991年11月に1994年度の米国製部品調達目標50億ドルを公表(1991年度実績見込み28.3億ドル)。MOSS合意を受けた計画。TMMの現地調達率は1988年5月操業開始時の60%から74.8%へ。カンバン方式は採らずミルクラン方式、部品在庫1.4日分。技術指導先は取引先126社中10社
- [35]1991年11月に1994年度の米国製部品調達目標50億ドルを公表(1991年度実績見込み28.3億ドル)。MOSS合意を受けた計画。TMMの現地調達率は1988年5月操業開始時の60%から74.8%へ。カンバン方式は採らずミルクラン方式、部品在庫1.4日分。技術指導先は取引先126社中10社
1988年〜国内250万台の前倒し達成と、経常利益7,338億円からの収益対策
国内の販売台数は1988年に212万台となり、1978年に掲げた年間200万台の目標を上回った。国内営業部門は続けて、1993年に250万台を売るK250計画を立てた。登録車市場が598万台に膨らんだ1990年には約250万4,000台を売り、計画を前倒しで達成した。1989年4月の消費税導入で物品税が廃止され、3ナンバー乗用車の税率は23%から6%へ下がった。この時期のトヨタは、90年代半ばに国内300万台・海外300万台の計600万台に達することを長期目標に置いていた。顧客の求める車をすぐに届ける方針のもとで、車種とオプションの数も増え続けた。台数の目標を上へ書き換えるたびに、品ぞろえの幅も広げていったと思われる。
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第2章第3節』「第1項 国内販売250万台を達成」(トヨタ自動車, 2012年)
- [36]1988年の販売台数212万台で1978年の年間200万台目標を達成。1993年の250万台体制を目標とするK250計画を、登録車市場598万台の1990年に約250万4,000台で前倒し達成。1989年4月の消費税導入で3ナンバー車の物品税23%に代わり消費税6%
- [37]1988年の販売台数212万台で1978年の年間200万台目標を達成。1993年の250万台体制を目標とするK250計画を、登録車市場598万台の1990年に約250万4,000台で前倒し達成。1989年4月の消費税導入で3ナンバー車の物品税23%に代わり消費税6%
- [38]1988年の販売台数212万台で1978年の年間200万台目標を達成。1993年の250万台体制を目標とするK250計画を、登録車市場598万台の1990年に約250万4,000台で前倒し達成。1989年4月の消費税導入で3ナンバー車の物品税23%に代わり消費税6%
- [39]1988年の販売台数212万台で1978年の年間200万台目標を達成。1993年の250万台体制を目標とするK250計画を、登録車市場598万台の1990年に約250万4,000台で前倒し達成。1989年4月の消費税導入で3ナンバー車の物品税23%に代わり消費税6%
- 日経ビジネス 1991年12月9日号(日経BP社)
- [40]90年代半ばに国内300万台・海外300万台の600万台体制を確立する長期目標。顧客の欲しい車を直ちに届けるため車種を増やし、様々なオプションを用意してきた
- [41]90年代半ばに国内300万台・海外300万台の600万台体制を確立する長期目標。顧客の欲しい車を直ちに届けるため車種を増やし、様々なオプションを用意してきた
1991年6月期の売上高は8兆5,640億円と7.1%増えた一方、営業利益は37.1%減の3,387億円にとどまった。売上高原価率は87.9%と3.25ポイント上がった。単独の経常利益は1990年6月期の7,338億円から、1994年6月期には2,140億円まで減った。社長の豊田章一郎氏は1992年4月、需要に合わせて増えた車種を整理し、部品の共通化を進める考えを示した。同年5月には第1次中長期収益対策プロジェクトを発足させ、商品ラインアップの再構築と直材費の低減を課題に据えた。1993年の第2次対策では、1996年の世界販売を460万〜520万台の幅で置いて採算の取れる体質を目指した。1995年3月期に経常利益は5期ぶりの増益へ転じた。
- 日経ビジネス 1991年12月9日号(日経BP社)
- [42]1991年6月期は売上高8兆5,640億円(7.1%増)、営業利益3,387億円(37.1%減)、売上高原価率87.9%で3.25ポイント上昇
- [43]1991年6月期は売上高8兆5,640億円(7.1%増)、営業利益3,387億円(37.1%減)、売上高原価率87.9%で3.25ポイント上昇
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第3章第1節』「第1項 バブル崩壊後の国内経済」(トヨタ自動車, 2012年)
- [44]単独経常利益は1990年6月期7,338億円、1994年6月期2,140億円。1992年5月に第1次中長期収益対策プロジェクト発足(商品ラインアップ再構築・直材費低減)、1993年の第2次は1996年世界販売460万〜520万台の変動幅を前提。1995年3月期は経常利益2,362億円で5期ぶり増益
- [46]単独経常利益は1990年6月期7,338億円、1994年6月期2,140億円。1992年5月に第1次中長期収益対策プロジェクト発足(商品ラインアップ再構築・直材費低減)、1993年の第2次は1996年世界販売460万〜520万台の変動幅を前提。1995年3月期は経常利益2,362億円で5期ぶり増益
- [47]単独経常利益は1990年6月期7,338億円、1994年6月期2,140億円。1992年5月に第1次中長期収益対策プロジェクト発足(商品ラインアップ再構築・直材費低減)、1993年の第2次は1996年世界販売460万〜520万台の変動幅を前提。1995年3月期は経常利益2,362億円で5期ぶり増益
- [48]単独経常利益は1990年6月期7,338億円、1994年6月期2,140億円。1992年5月に第1次中長期収益対策プロジェクト発足(商品ラインアップ再構築・直材費低減)、1993年の第2次は1996年世界販売460万〜520万台の変動幅を前提。1995年3月期は経常利益2,362億円で5期ぶり増益
- 日経ビジネス 1992年4月27日号(日経BP社)
- [45]豊田章一郎社長は、ユーザーニーズに合わせて増えた車種を削減する方向で取り組み、部品の共通化・点数削減を進めていると述べた
1992年1月に7項目のトヨタ基本理念を制定し、同年9月にはNUMMIの初代社長を務めた豊田達郎氏が社長に就任した。1991年時点のトヨタは約160の国・地域で車を売り、22の国・地域に生産拠点を持っていた。1995年8月には奥田碩氏が社長となり、豊田家以外からの社長は28年ぶりだった。奥田碩氏は1982年の合併と同時に取締役となり、北米事業を担当した。日米自動車摩擦のさなかには、北米での制裁発動だけは避けるべきだという考えを示していた。国内生産は1990年の421万2,373台から、1995年には317万1,277台へ減った。同じ5年間に海外生産は92万7,175台から152万2,653台へ増えた。北米で固めた現地生産の足場を世界の各地域へ広げる課題が、奥田碩氏の体制に引き継がれたことになる。
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第3章第3節』「第2項 「第2の創業」に向けて」(トヨタ自動車, 2012年)
- [49]1992年1月に7項目のトヨタ基本理念を発表し、同年9月に豊田達郎副社長が社長に就任した
- 日経ビジネス 1992年10月26日号(日経BP社)
- [50]豊田達郎氏はNUMMIの初代社長を務め、1992年9月に社長就任
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第3章第3節』「第1項 「トヨタ基本理念」を制定」(トヨタ自動車, 2012年)
- [51]1991年時点で約160の国・地域で販売し、22の国・地域に生産拠点を構えていた
- 日経ビジネス 1995年9月18日号(日経BP社)
- [52]奥田碩氏は1995年8月社長就任(28年ぶりに豊田家以外から)。1982年の合併と同時に取締役となり北米事業などを担当。日米自動車摩擦では北米での制裁発動だけは避けなければならないとの考え
- [53]奥田碩氏は1995年8月社長就任(28年ぶりに豊田家以外から)。1982年の合併と同時に取締役となり北米事業などを担当。日米自動車摩擦では北米での制裁発動だけは避けなければならないとの考え
- [54]奥田碩氏は1995年8月社長就任(28年ぶりに豊田家以外から)。1982年の合併と同時に取締役となり北米事業などを担当。日米自動車摩擦では北米での制裁発動だけは避けなければならないとの考え
- 『トヨタ自動車75年史 資料編 国内生産台数の推移』(トヨタ自動車, 2012年)/『トヨタ自動車75年史 資料編 海外生産台数の推移』(トヨタ自動車, 2012年)
- [55]国内生産は1990年4,212,373台、1995年3,171,277台/海外生産は1990年927,175台、1995年1,522,653台
- [56]国内生産は1990年4,212,373台、1995年3,171,277台/海外生産は1990年927,175台、1995年1,522,653台
参考文献[36]-[56]
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第2章第3節』「第1項 国内販売250万台を達成」(トヨタ自動車, 2012年)
- [36]1988年の販売台数212万台で1978年の年間200万台目標を達成。1993年の250万台体制を目標とするK250計画を、登録車市場598万台の1990年に約250万4,000台で前倒し達成。1989年4月の消費税導入で3ナンバー車の物品税23%に代わり消費税6%
- [37]1988年の販売台数212万台で1978年の年間200万台目標を達成。1993年の250万台体制を目標とするK250計画を、登録車市場598万台の1990年に約250万4,000台で前倒し達成。1989年4月の消費税導入で3ナンバー車の物品税23%に代わり消費税6%
- [38]1988年の販売台数212万台で1978年の年間200万台目標を達成。1993年の250万台体制を目標とするK250計画を、登録車市場598万台の1990年に約250万4,000台で前倒し達成。1989年4月の消費税導入で3ナンバー車の物品税23%に代わり消費税6%
- [39]1988年の販売台数212万台で1978年の年間200万台目標を達成。1993年の250万台体制を目標とするK250計画を、登録車市場598万台の1990年に約250万4,000台で前倒し達成。1989年4月の消費税導入で3ナンバー車の物品税23%に代わり消費税6%
- 日経ビジネス 1991年12月9日号(日経BP社)
- [40]90年代半ばに国内300万台・海外300万台の600万台体制を確立する長期目標。顧客の欲しい車を直ちに届けるため車種を増やし、様々なオプションを用意してきた
- [41]90年代半ばに国内300万台・海外300万台の600万台体制を確立する長期目標。顧客の欲しい車を直ちに届けるため車種を増やし、様々なオプションを用意してきた
- [42]1991年6月期は売上高8兆5,640億円(7.1%増)、営業利益3,387億円(37.1%減)、売上高原価率87.9%で3.25ポイント上昇
- [43]1991年6月期は売上高8兆5,640億円(7.1%増)、営業利益3,387億円(37.1%減)、売上高原価率87.9%で3.25ポイント上昇
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第3章第1節』「第1項 バブル崩壊後の国内経済」(トヨタ自動車, 2012年)
- [44]単独経常利益は1990年6月期7,338億円、1994年6月期2,140億円。1992年5月に第1次中長期収益対策プロジェクト発足(商品ラインアップ再構築・直材費低減)、1993年の第2次は1996年世界販売460万〜520万台の変動幅を前提。1995年3月期は経常利益2,362億円で5期ぶり増益
- [46]単独経常利益は1990年6月期7,338億円、1994年6月期2,140億円。1992年5月に第1次中長期収益対策プロジェクト発足(商品ラインアップ再構築・直材費低減)、1993年の第2次は1996年世界販売460万〜520万台の変動幅を前提。1995年3月期は経常利益2,362億円で5期ぶり増益
- [47]単独経常利益は1990年6月期7,338億円、1994年6月期2,140億円。1992年5月に第1次中長期収益対策プロジェクト発足(商品ラインアップ再構築・直材費低減)、1993年の第2次は1996年世界販売460万〜520万台の変動幅を前提。1995年3月期は経常利益2,362億円で5期ぶり増益
- [48]単独経常利益は1990年6月期7,338億円、1994年6月期2,140億円。1992年5月に第1次中長期収益対策プロジェクト発足(商品ラインアップ再構築・直材費低減)、1993年の第2次は1996年世界販売460万〜520万台の変動幅を前提。1995年3月期は経常利益2,362億円で5期ぶり増益
- 日経ビジネス 1992年4月27日号(日経BP社)
- [45]豊田章一郎社長は、ユーザーニーズに合わせて増えた車種を削減する方向で取り組み、部品の共通化・点数削減を進めていると述べた
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第3章第3節』「第2項 「第2の創業」に向けて」(トヨタ自動車, 2012年)
- [49]1992年1月に7項目のトヨタ基本理念を発表し、同年9月に豊田達郎副社長が社長に就任した
- 日経ビジネス 1992年10月26日号(日経BP社)
- [50]豊田達郎氏はNUMMIの初代社長を務め、1992年9月に社長就任
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第3章第3節』「第1項 「トヨタ基本理念」を制定」(トヨタ自動車, 2012年)
- [51]1991年時点で約160の国・地域で販売し、22の国・地域に生産拠点を構えていた
- 日経ビジネス 1995年9月18日号(日経BP社)
- [52]奥田碩氏は1995年8月社長就任(28年ぶりに豊田家以外から)。1982年の合併と同時に取締役となり北米事業などを担当。日米自動車摩擦では北米での制裁発動だけは避けなければならないとの考え
- [53]奥田碩氏は1995年8月社長就任(28年ぶりに豊田家以外から)。1982年の合併と同時に取締役となり北米事業などを担当。日米自動車摩擦では北米での制裁発動だけは避けなければならないとの考え
- [54]奥田碩氏は1995年8月社長就任(28年ぶりに豊田家以外から)。1982年の合併と同時に取締役となり北米事業などを担当。日米自動車摩擦では北米での制裁発動だけは避けなければならないとの考え
- 『トヨタ自動車75年史 資料編 国内生産台数の推移』(トヨタ自動車, 2012年)/『トヨタ自動車75年史 資料編 海外生産台数の推移』(トヨタ自動車, 2012年)
- [55]国内生産は1990年4,212,373台、1995年3,171,277台/海外生産は1990年927,175台、1995年1,522,653台
- [56]国内生産は1990年4,212,373台、1995年3,171,277台/海外生産は1990年927,175台、1995年1,522,653台
筆者考察
1982年から1995年のトヨタは、工販合併で国内の販売と生産の判断を一社にまとめたうえで、北米の現地生産を立ち上げた。合併直後は販売店への支援で国内シェアが9年ぶりに40%を超え、1985年6月期の営業利益は5,058億円まで増えた。北米では1984年にGMとの合弁NUMMIで生産を学び始め、1985年には米国・カナダへの単独進出を決めた。1988年にケンタッキーとカナダの工場が稼働し、北米の生産台数は1990年に48万4,274台となった。
国内では1990年に約250万台を売り、K250計画を3年早く達成した。翌1991年6月期は売上高が7.1%増えたのに、営業利益は37.1%減った。車種とオプションを増やして国内の需要を取り切るやり方のもとで、売上高原価率は87.9%まで上がっていた。1990年から1995年に国内生産は約104万台減り、海外生産は約60万台増えた。国内の台数が利益を生まなくなるなかで生産の重心は北米を先頭に海外へ移り、その流れを1995年就任の奥田碩氏が引き継いだ。
- 暦年の海外生産台数(完成車両)。北米・中南米・欧州・アフリカ・アジア・中国・オセアニアの合計。
- 1988年に米国・カナダの単独工場が稼働し、1995年は1985年の30万8,125台の約4.9倍になった。
- 出所は『トヨタ自動車75年史 資料編 海外生産台数の推移』(トヨタ自動車, 2012年)。
1982年〜1995年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1982年06月期 | 単体 | 38,495 | n/a | 3,061 | 1,415 | 3.7% | n/a |
| 1983年06月期 | 連結 | 53,236 | +38.3% | n/a | 2,281 | 4.3% | n/a |
| 1984年06月期 | 連結 | 59,089 | +11.0% | n/a | 2,948 | 5.0% | n/a |
| 1985年06月期 | 連結 | 67,702 | +14.6% | n/a | 4,058 | 6.0% | 士別試験場の第1期が完成NUMMIが生産を開始Canadian Autoparts Toyota Inc.が生産を開始 |
| 1986年06月期 | 連結 | 66,462 | ▲1.8% | n/a | 3,455 | 5.2% | 國瑞汽車が生産を開始貞宝工場が操業開始TMMの工場建設に着工 |
| 1987年06月期 | 連結 | 66,754 | +0.4% | n/a | 2,607 | 3.9% | 春日井住宅工場が操業開始 |
| 1988年06月期 | 連結 | 72,157 | +8.1% | n/a | 3,109 | 4.3% | 欧州トヨタテクニカルセンターが完成TMMが生産を開始 |
| 1989年06月期 | 連結 | 80,210 | +11.2% | n/a | 3,462 | 4.3% | TMMCが生産を開始広瀬工場が操業開始 |
| 1990年06月期 | 連結 | 91,928 | +14.6% | n/a | 4,413 | 4.8% | Siam Toyota Manufacturingが生産を開始 |
| 1991年06月期 | 連結 | 98,551 | +7.2% | n/a | 4,134 | 4.2% | Sabanciとの合弁でToyotasaを設立 |
| 1992年06月期 | 連結 | 101,633 | +3.1% | n/a | 2,378 | 2.3% | n/a |
| 1993年06月期 | 連結 | 102,107 | +0.5% | n/a | 1,764 | 1.7% | トヨタ自動車北海道が生産を開始トヨタ自動車九州が生産を開始TMUKが生産を開始 |
| 1994年06月期 | 連結 | 93,627 | ▲8.3% | n/a | 1,258 | 1.3% | n/a |
| 1995年03月期 | 連結 | 81,209 | ▲13.3% | n/a | 1,319 | 1.6% | Toyotasaの工場が操業開始 |
出所:会社年鑑
出典・参考
20件
- トヨタ自動車 アニュアルレポート2004「海外生産会社一覧」(2004年3月31日現在)
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第2節』「第3項 国内販売200万台への挑戦」(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第2節』「第1項 合併決断へ」(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第3節』「第2項 GM社との合弁」(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第2章第2節』「第1項 急激な円高の進行」(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第2章第2節』「第2項 徹底した原価低減活動」(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第1章第3節』「第3項 北米へ単独進出―TMMとTMMCの設立」(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 資料編 海外生産台数の推移』(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第2章第3節』「第1項 国内販売250万台を達成」(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第3章第1節』「第1項 バブル崩壊後の国内経済」(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第3章第3節』「第2項 「第2の創業」に向けて」(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 第3部第3章第3節』「第1項 「トヨタ基本理念」を制定」(トヨタ自動車, 2012年)
- 『トヨタ自動車75年史 資料編 国内生産台数の推移』(トヨタ自動車, 2012年)/『トヨタ自動車75年史 資料編 海外生産台数の推移』(トヨタ自動車, 2012年)
- Decide = 決断 1990年10月号
- 日経ビジネス 1991年12月9日号(日経BP社)
- 日経ビジネス 1992年4月27日号(日経BP社)
- 日経ビジネス 1992年10月26日号(日経BP社)
- 日経ビジネス 1992年1月13日号(日経BP社)
- 日経ビジネス 1995年9月18日号(日経BP社)
- 豊田英二『私の履歴書(経済人22 所収)』「前を見つめて」(日本経済新聞社, 1987年)