第2章 年〜年

トヨタ自動車の経営危機による工販分離と元町工場の竣工

金融機関の再建条件を機とした、低コスト量産の土台の構築

売上高
単体 1954/11期 186億円 → 1964/11期 2,200億円 (CAGR +28.0%)
転機
年 販売部門をトヨタ自動車販売として分離年 元町工場の竣工年 パブリカの発売

1949年〜2億円の年末資金の危機と、日銀あっせん融資の条件による工販分離・2146人の退職

1949年、ドッジ・ラインの超緊縮財政で自動車の需要が急減し、月賦販売の代金を回収できないトヨタ自動車工業は製造資金を圧迫された。同じ年の5月には、東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場していた。11月に企業再建整備計画の認可を受け、12月には刈谷北工場を日本電装として分離独立させた。その12月、トヨタは2億円の年末資金を調達できなければ倒産する局面に立った。日本銀行名古屋支店長の高梨壮夫氏は、300社を超える下請けを抱えるトヨタを日銀の融資あっせんの対象に指定した。日銀名古屋支店の音頭で銀行団の協調融資がまとまり、トヨタは年を越した。上場と工場の分離だけでは、月賦の未回収で空いた資金の穴を埋めきれなかったとみられる。

  • 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第6節 戦後の事業整理と労働争議』(トヨタ自動車, 2012年)
    • [1]1949年 ドッジ・ラインによる超緊縮財政で自動車需要が急減し、月賦販売の代金回収が滞って製造側の資金繰りを圧迫した
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1949年5月 東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場した
  • 『会社銀行八十年史』2篇 日本会社史「トヨタ自動車業」(1955年)
    • [3]1949年11月 企業再建整備計画が認可され、同年12月に刈谷北工場が日本電装として分離独立した
  • 私の履歴書 経済人15「神谷正太郎」(日本経済新聞社、1981年)
    • [4]1949年12月 トヨタ自工は2億円の年末資金の調達に失敗すれば倒産という事態に至った
    • [5]日銀名古屋支店長 高梨壮夫氏が、300以上の関連下請けを持つトヨタ自工を日銀の融資あっせんの対象に指定した
  • 日経ビジネス 1977年4月25日号
    • [6]日本銀行名古屋支店長の音頭で銀行団のシンジケート融資が成立した

融資には、年明けに抜本的な再建計画を立てる条件が付いた。日銀名古屋支店が示した骨子は、販売会社の分離独立、売れるとする台数だけの生産、過剰人員の整理の3点だった。銀行団は、売れない車の生産を続けたことが資金繰りの行き詰まりを招いたと判断した。1950年3月末には4億6300万円を借り入れても、従業員の給与を全額は払えなかった。4月22日、会社は1600人の希望退職と、月産を計940台に絞る再建案を示した。36回の団体交渉を経て、退職者は分工場の378人を含む2146人に達した。豊田喜一郎氏は経営不振の責任をとり、1950年6月に社長を退任した。7月18日の臨時株主総会では、豊田自動織機製作所社長の石田退三氏が社長に選ばれた。

  • 私の履歴書 経済人15「神谷正太郎」(日本経済新聞社、1981年)
    • [7]融資の付帯条件として、年明け早々に抜本的な再建計画を検討することが義務づけられた
    • [8]日銀名古屋支店の再建構想の骨子は、販売会社の分離独立・販売会社が売れるという台数だけの生産・過剰人員の整理の3点だった
    • [9]銀行団は、資金繰りの行き詰まりは売れもしないのに生産を強行した結果と判断した
  • 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
    • [10]1950年3月末、運転資金として4億6300万円を借り入れても借入金返済・資材代金の支払いに足りず、従業員給与も完全には支払えなかった
    • [11]1950年4月22日の第8回団体交渉で、1600人の希望退職募集を含む会社再建案を発表。生産台数は月産BM型590台ほか車両940台とした
    • [12]1950年4月11日から7月17日まで計36回の団体交渉が行われ、退職者は分工場の378人を含めて2146人、残留者は5994人となった
    • [14]1950年7月18日の臨時株主総会で全役員が辞任・改選され、豊田自動織機製作所社長の石田退三氏が取締役社長に選任された
  • 豊田英二『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1987年)
    • [13]1950年6月 豊田喜一郎氏が経営不振の責任をとって社長を退任し、後任に豊田自動織機出身の石田退三氏が就いた

販売会社の分離は、融資の条件となる前から社内で検討されていた。1946年から1948年にかけて3度構想が立てられ、いずれも占領政策の変転のなかで見送られた。トヨタ自動車販売は1950年4月3日に設立された。発起人の神谷正太郎氏と大西四郎氏は、その前日付でトヨタ自動車工業の取締役を退任した。証券保有制限令と私的独占禁止法が、役員の兼任と新会社の株式保有を禁じていたためである。発足時の株主は神谷正太郎氏ら個人18人の計160万株で、設立資金は神谷正太郎氏個人の信用で調達した。銀行団は販売会社に月賦の金融を期待した。神谷正太郎氏は、販売の計画から実行までを担う組織として構想していた。資金の出し手と経営者の期待の差が、販売会社の役割の幅を広げたのだろう。

  • 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
    • [15]トヨタ自工は制限会社の指定解除後に販売部を分離独立させる準備を進めていたが、1949年末に金融筋から再建計画の条件として分離独立を要請された
    • [18]発起人となる常務取締役神谷正太郎と取締役大西四郎は、1950年4月2日付けでトヨタ自工の取締役を退任した
    • [19]役員の兼任と新会社の株式保有は、証券保有制限令ならびに私的独占禁止法により禁止されていた
    • [20]販売会社発足時の株主は神谷正太郎ら18人・計160万株で、設立資金は神谷正太郎個人の信用で調達した
  • 私の履歴書 経済人15「神谷正太郎」(日本経済新聞社、1981年)
    • [16]販売会社の設立は1946年6月・1947年4月・1948年5月の3回検討されたが、GHQの経済政策が流動するなかで見送られた
    • [21]銀行団は主として金融機能を販売会社に期待したが、神谷氏はマーケティング全般を推進する機能を持たせたいと考えていた
    • [22]銀行団は主として金融機能を販売会社に期待したが、神谷氏はマーケティング全般を推進する機能を持たせたいと考えていた
  • 株式会社年鑑 1954年版「トヨタ自動車販売」
    • [17]トヨタ自動車販売 設立 昭和25年4月3日
参考文献[1]-[22]
  • 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第6節 戦後の事業整理と労働争議』(トヨタ自動車, 2012年)
    • [1]1949年 ドッジ・ラインによる超緊縮財政で自動車需要が急減し、月賦販売の代金回収が滞って製造側の資金繰りを圧迫した
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1949年5月 東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場した
  • 『会社銀行八十年史』2篇 日本会社史「トヨタ自動車業」(1955年)
    • [3]1949年11月 企業再建整備計画が認可され、同年12月に刈谷北工場が日本電装として分離独立した
  • 私の履歴書 経済人15「神谷正太郎」(日本経済新聞社、1981年)
    • [4]1949年12月 トヨタ自工は2億円の年末資金の調達に失敗すれば倒産という事態に至った
    • [5]日銀名古屋支店長 高梨壮夫氏が、300以上の関連下請けを持つトヨタ自工を日銀の融資あっせんの対象に指定した
    • [7]融資の付帯条件として、年明け早々に抜本的な再建計画を検討することが義務づけられた
    • [8]日銀名古屋支店の再建構想の骨子は、販売会社の分離独立・販売会社が売れるという台数だけの生産・過剰人員の整理の3点だった
    • [9]銀行団は、資金繰りの行き詰まりは売れもしないのに生産を強行した結果と判断した
    • [16]販売会社の設立は1946年6月・1947年4月・1948年5月の3回検討されたが、GHQの経済政策が流動するなかで見送られた
    • [21]銀行団は主として金融機能を販売会社に期待したが、神谷氏はマーケティング全般を推進する機能を持たせたいと考えていた
    • [22]銀行団は主として金融機能を販売会社に期待したが、神谷氏はマーケティング全般を推進する機能を持たせたいと考えていた
  • 日経ビジネス 1977年4月25日号
    • [6]日本銀行名古屋支店長の音頭で銀行団のシンジケート融資が成立した
  • 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
    • [10]1950年3月末、運転資金として4億6300万円を借り入れても借入金返済・資材代金の支払いに足りず、従業員給与も完全には支払えなかった
    • [11]1950年4月22日の第8回団体交渉で、1600人の希望退職募集を含む会社再建案を発表。生産台数は月産BM型590台ほか車両940台とした
    • [12]1950年4月11日から7月17日まで計36回の団体交渉が行われ、退職者は分工場の378人を含めて2146人、残留者は5994人となった
    • [14]1950年7月18日の臨時株主総会で全役員が辞任・改選され、豊田自動織機製作所社長の石田退三氏が取締役社長に選任された
    • [15]トヨタ自工は制限会社の指定解除後に販売部を分離独立させる準備を進めていたが、1949年末に金融筋から再建計画の条件として分離独立を要請された
    • [18]発起人となる常務取締役神谷正太郎と取締役大西四郎は、1950年4月2日付けでトヨタ自工の取締役を退任した
    • [19]役員の兼任と新会社の株式保有は、証券保有制限令ならびに私的独占禁止法により禁止されていた
    • [20]販売会社発足時の株主は神谷正太郎ら18人・計160万株で、設立資金は神谷正太郎個人の信用で調達した
  • 豊田英二『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1987年)
    • [13]1950年6月 豊田喜一郎氏が経営不振の責任をとって社長を退任し、後任に豊田自動織機出身の石田退三氏が就いた
  • 株式会社年鑑 1954年版「トヨタ自動車販売」
    • [17]トヨタ自動車販売 設立 昭和25年4月3日

1950年〜朝鮮特需4679台の受注から、月産3000台の設備近代化と国産技術のクラウンへ

1950年6月に朝鮮戦争が始まると、在日米軍の兵站本部は7月10日、トヨタと日産自動車・いすゞ自動車に軍用トラックの発注を内示した。トヨタは7月31日の1000台を皮切りに、1951年3月までに計4679台を受注した。警察予備隊の需要も加わって滞貨は一掃され、生産は急速に回復した。神谷正太郎氏が進めていたフォードとの技術提携の交渉は、米国政府の禁足令で白紙に戻った。代わりに常務の豊田英二氏が1950年7月から約1か月半、フォードのルージュ工場で研修を受けた。豊田英二氏と斎藤尚一氏の米国での調査は、1951年初めに生産設備近代化5か年計画としてまとまった。人員を増やさずに1956年3月までに生産能力を月産3000台へ倍増させる計画で、所要資金は57億8745万円と見積もられた。

  • 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
    • [23]1950年7月10日、米軍在日兵站本部からトヨタ・日産自動車・いすゞ自動車に軍用トラックの正式発注の内示があった
    • [24]トヨタは1950年7月31日付で1000台、8月29日に2329台、1951年3月1日に1350台、合計4679台のトラックを受注した
    • [25]1950年8月に警察予備隊が作られその車両需要も加わり、滞貨は一掃され生産は急上昇した
    • [28]渡米した常務取締役豊田英二・斎藤尚一の調査研究の成果が、1951年初めの生産設備近代化5か年計画となった
    • [29]計画は1951年4月から1956年3月まで。人員を増加せずに生産能力を2倍の月産3000台に引き上げる目標で、所要資金は合計57億8745万円と見積もられた
  • 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第7節 設備近代化』(トヨタ自動車, 2012年)
    • [26]神谷正太郎氏のフォード社との技術提携交渉が米政府の禁足令で白紙化した
    • [27]1950年7月から約1カ月半、豊田英二常務がフォードのルージュ工場で研修した

1954年から、トヨタは工程間の仕掛品をなくすスーパーマーケット方式を工場に広げた。前工程が加工済みの部品を後工程へ運ぶやり方を改め、後工程の作業員が1回5台分ずつ前工程へ引き取りに行く段取りにした。指示より多く作ることを過剰在庫の発生と評価し直し、部品が欠けたり余ったりすればコンベヤーを止めて問題を表面に出した。中間在庫が減って原価が下がり、協力工場のラインの速さもトヨタの工程に同調させる効果が生まれた。考え方の源は、1938年の挙母工場への移転に際して豊田喜一郎氏が発案した流れ作業と生産量管理にあった。

  • 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
    • [30]1954年以来、スーパーマーケット方式を採用し、昭和20年代の機械工場にみられた工程中の仕掛品の堆積をなくした
    • [31]前工程の作業員が加工済み部品を後工程へ運ぶやり方を改め、後工程の作業員が前工程へ1回5台分ロットで引き取りに行く方式に変更した
    • [32]計画より多くつくることを過剰ストックの発生と評価し直し、部品のストックの過不足が生じればコンベヤーを止めて問題を表面に出すようにした
    • [33]中間在庫が減少して原価低減と原材料回転率の向上に効果をあげ、協力工場の生産ラインタクトをトヨタのそれに同調化させる結果となった
    • [34]創業当時に豊田喜一郎の発案で行われていた生産量管理方式は、考え方としてスーパーマーケット方式と同じものだった
  • 豊田英二『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1987年)
    • [35]喜一郎氏は流れ作業を導入するため、克明なパンフレットを作った

日産自動車・いすゞ自動車・日野ヂーゼル工業・新三菱重工業の4社は、外国メーカーと技術提携を結んで乗用車の組立に入った。社長の石田退三氏は1953年の年頭、国産車の確立を創業以来の方針として続けると従業員に示した。トヨタは1952年1月から、国内で組み立てられる欧州車に対抗する本格的乗用車の設計を進めた。1953年1月には挙母工場の東側で研究施設テクニカルセンターの建設に着手し、1954年10月に完成させた。そのトヨペット・クラウンを、1955年1月に国産技術だけで開発した乗用車として発表した。販売では神谷正太郎氏が1956年に一県一店制を改め、トヨエースとコロナのために複数の販売店を置く体制へ切り替えた。販売店を増やして量を先にさばき、全体の原価を下げることが既存店の利益にもなると説いた。

  • 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
    • [36]外国メーカーと技術提携契約を結んだのは日産自動車・いすゞ自動車・日野ヂーゼル工業・新三菱重工業の4社だけだった
    • [37]1953年の年頭、石田退三社長は外車陣営と国産車陣営に分かれるなかで、創業以来の方針である国産車確立の道を選ぶと述べた
    • [38]国内組立ての欧州車に対抗して、1952年1月以来本格的乗用車トヨペット・クラウンならびにマスターの設計を進めた
    • [39]1953年1月、挙母工場の東側に総合的研究施設テクニカルセンターの建設に着手し、1954年10月に完成した
    • [40]1955年1月に純国産技術で開発したトヨペット・クラウンを発表した
  • 私の履歴書 経済人15「神谷正太郎」(日本経済新聞社、1981年)
    • [41]1956年に一県一店制を改め全国的に複数販売店制を導入した。SKB(後のトヨエース)と新発売のコロナの販売体制を一気に作るためだった
    • [42]神谷氏は、一気に量販を果たしオールトヨタでコストダウンを挙げることが旧店の利益につながると説いて既存店の理解を得た
参考文献[23]-[42]
  • 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
    • [23]1950年7月10日、米軍在日兵站本部からトヨタ・日産自動車・いすゞ自動車に軍用トラックの正式発注の内示があった
    • [24]トヨタは1950年7月31日付で1000台、8月29日に2329台、1951年3月1日に1350台、合計4679台のトラックを受注した
    • [25]1950年8月に警察予備隊が作られその車両需要も加わり、滞貨は一掃され生産は急上昇した
    • [28]渡米した常務取締役豊田英二・斎藤尚一の調査研究の成果が、1951年初めの生産設備近代化5か年計画となった
    • [29]計画は1951年4月から1956年3月まで。人員を増加せずに生産能力を2倍の月産3000台に引き上げる目標で、所要資金は合計57億8745万円と見積もられた
    • [30]1954年以来、スーパーマーケット方式を採用し、昭和20年代の機械工場にみられた工程中の仕掛品の堆積をなくした
    • [31]前工程の作業員が加工済み部品を後工程へ運ぶやり方を改め、後工程の作業員が前工程へ1回5台分ロットで引き取りに行く方式に変更した
    • [32]計画より多くつくることを過剰ストックの発生と評価し直し、部品のストックの過不足が生じればコンベヤーを止めて問題を表面に出すようにした
    • [33]中間在庫が減少して原価低減と原材料回転率の向上に効果をあげ、協力工場の生産ラインタクトをトヨタのそれに同調化させる結果となった
    • [34]創業当時に豊田喜一郎の発案で行われていた生産量管理方式は、考え方としてスーパーマーケット方式と同じものだった
    • [36]外国メーカーと技術提携契約を結んだのは日産自動車・いすゞ自動車・日野ヂーゼル工業・新三菱重工業の4社だけだった
    • [37]1953年の年頭、石田退三社長は外車陣営と国産車陣営に分かれるなかで、創業以来の方針である国産車確立の道を選ぶと述べた
    • [38]国内組立ての欧州車に対抗して、1952年1月以来本格的乗用車トヨペット・クラウンならびにマスターの設計を進めた
    • [39]1953年1月、挙母工場の東側に総合的研究施設テクニカルセンターの建設に着手し、1954年10月に完成した
    • [40]1955年1月に純国産技術で開発したトヨペット・クラウンを発表した
  • 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第7節 設備近代化』(トヨタ自動車, 2012年)
    • [26]神谷正太郎氏のフォード社との技術提携交渉が米政府の禁足令で白紙化した
    • [27]1950年7月から約1カ月半、豊田英二常務がフォードのルージュ工場で研修した
  • 豊田英二『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1987年)
    • [35]喜一郎氏は流れ作業を導入するため、克明なパンフレットを作った
  • 私の履歴書 経済人15「神谷正太郎」(日本経済新聞社、1981年)
    • [41]1956年に一県一店制を改め全国的に複数販売店制を導入した。SKB(後のトヨエース)と新発売のコロナの販売体制を一気に作るためだった
    • [42]神谷氏は、一気に量販を果たしオールトヨタでコストダウンを挙げることが旧店の利益につながると説いて既存店の理解を得た

1957年〜元町工場の先行投資と、国民車構想から生まれたパブリカ

国内ではタクシーなどの営業車と法人の需要が増え、豊田英二氏は社長の石田退三氏に乗用車専用工場の建設を提案した。クラウンの月販が2000台の時期で、豊田英二氏は月産1万台を望みながら5000台を案として出し、石田退三氏が建設を決めた。1958年7月に建設委員会が置かれ、委員長に豊田章一郎氏が就任した。1959年8月に完成した元町工場は、設備を月産5000台、建屋を月産1万台の規模で整え、資金は増資と借入金で賄った。同年12月、トヨタの生産は乗用車とトラックを合わせて月産1万台に達した。売上高は1955年11月期の170億円から、1959年11月期に712億円へ増えた。石田退三氏は元町工場の稼働を見届け、1961年8月に副社長の中川不器男氏へ社長を譲った。

  • 豊田英二『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1987年)
    • [43]クラウンは国内でタクシーをはじめとする営業車・法人需要が増え、英二氏が石田社長に乗用車専門工場の建設を進言した
    • [44]クラウンの月販は2000台で、英二氏は内心月産1万台を望んだが5000台を提案し、石田社長が新工場の建設を決断した
    • [45]1958年7月 社内に乗用車専門工場建設委員会を設置、委員長は豊田章一郎氏
    • [46]元町工場は1959年8月に完成。設備は月産5000台、建屋は月産1万台の規模とし、建設資金は増資と借入金で賄った
    • [47]1959年12月に乗用車・トラック合わせて月産1万台を達成した
    • [49]石田氏は元町工場の成功を見届け1961年8月に退き、後任は中川不器男副社長に決まった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
    • [48]トヨタ自動車工業の売上高 1955年11月期170億円、1959年11月期712億円(単体)

通商産業省は1955年5月に国民車育成要綱を発表し、神谷正太郎氏は同年9月に同省の顧問に就任した。トヨタは要綱に沿う試作車を1956年8月に公開した。それでも費用と市場の両面から、大衆車は時期尚早と判断した。1960年には、パブリカをフォードとの合弁会社で共同生産する案を示した。交渉は1961年半ばまで続き、フォードの役員会が否決した。1961年6月30日、パブリカは東京店頭渡し38万9000円で発売された。販売ではパブリカ専門の販売店系列を新たに設けた。ただ買い手の多くは800ccの車で満足せず、1500ccクラスへ背伸びしてそこに需要が集まった。800ccと1500ccのあいだに残ったこの需要層が、トヨタが次に投入する大衆車の標的になったと思われる。

  • 私の履歴書 経済人15「神谷正太郎」(日本経済新聞社、1981年)
    • [50]通産省は1955年5月に国民車育成要綱を発表し、神谷正太郎氏は同年9月1日に通産省の顧問となった
    • [51]トヨタは要綱に沿って新小型乗用車を製作し1956年8月に試作第1号車を公開したが、コスト・市場の両面から大衆車は時期尚早と結論した
    • [52]トヨタは要綱に沿って新小型乗用車を製作し1956年8月に試作第1号車を公開したが、コスト・市場の両面から大衆車は時期尚早と結論した
    • [56]パブリカの発売にあわせてパブリカ店(後にカローラ店と改称)を新設した
  • 豊田英二『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1987年)
    • [53]1960年に国民車構想とからんでフォードとの合弁でパブリカを共同生産する案を提案(出資はトヨタ自工とフォード各40%・トヨタ自販20%)したが、交渉は1961年半ばまで続きフォードの役員会で否決された
    • [54]1960年に国民車構想とからんでフォードとの合弁でパブリカを共同生産する案を提案(出資はトヨタ自工とフォード各40%・トヨタ自販20%)したが、交渉は1961年半ばまで続きフォードの役員会で否決された
  • 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
    • [55]1961年6月14日にパブリカの東京店頭渡し価格を38万9000円と発表し、6月30日から国内販売を開始した
    • [57]本来800ccクラスの需要層までも1500ccクラスの車を指向し、このクラスにブームが現出していた
参考文献[43]-[57]
  • 豊田英二『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1987年)
    • [43]クラウンは国内でタクシーをはじめとする営業車・法人需要が増え、英二氏が石田社長に乗用車専門工場の建設を進言した
    • [44]クラウンの月販は2000台で、英二氏は内心月産1万台を望んだが5000台を提案し、石田社長が新工場の建設を決断した
    • [45]1958年7月 社内に乗用車専門工場建設委員会を設置、委員長は豊田章一郎氏
    • [46]元町工場は1959年8月に完成。設備は月産5000台、建屋は月産1万台の規模とし、建設資金は増資と借入金で賄った
    • [47]1959年12月に乗用車・トラック合わせて月産1万台を達成した
    • [49]石田氏は元町工場の成功を見届け1961年8月に退き、後任は中川不器男副社長に決まった
    • [53]1960年に国民車構想とからんでフォードとの合弁でパブリカを共同生産する案を提案(出資はトヨタ自工とフォード各40%・トヨタ自販20%)したが、交渉は1961年半ばまで続きフォードの役員会で否決された
    • [54]1960年に国民車構想とからんでフォードとの合弁でパブリカを共同生産する案を提案(出資はトヨタ自工とフォード各40%・トヨタ自販20%)したが、交渉は1961年半ばまで続きフォードの役員会で否決された
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
    • [48]トヨタ自動車工業の売上高 1955年11月期170億円、1959年11月期712億円(単体)
  • 私の履歴書 経済人15「神谷正太郎」(日本経済新聞社、1981年)
    • [50]通産省は1955年5月に国民車育成要綱を発表し、神谷正太郎氏は同年9月1日に通産省の顧問となった
    • [51]トヨタは要綱に沿って新小型乗用車を製作し1956年8月に試作第1号車を公開したが、コスト・市場の両面から大衆車は時期尚早と結論した
    • [52]トヨタは要綱に沿って新小型乗用車を製作し1956年8月に試作第1号車を公開したが、コスト・市場の両面から大衆車は時期尚早と結論した
    • [56]パブリカの発売にあわせてパブリカ店(後にカローラ店と改称)を新設した
  • 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
    • [55]1961年6月14日にパブリカの東京店頭渡し価格を38万9000円と発表し、6月30日から国内販売を開始した
    • [57]本来800ccクラスの需要層までも1500ccクラスの車を指向し、このクラスにブームが現出していた

筆者考察

トヨタ自動車工業が1950年に受け入れた工販分離は、銀行団が生産を販売の許す量に縛るために課した条件だった。1949年のドッジ・ラインで月賦の代金が回収できなくなり、2億円の年末資金に窮したトヨタに対し、日本銀行名古屋支店の再建案は販売会社が売れるとする台数だけを作ることを融資の前提に置いた。トヨタは2146人の退職とともに販売部門をトヨタ自動車販売として切り離した。ところが神谷正太郎氏は、この会社を月賦の金融機関ではなく、販売の計画から実行までを担う組織として立ち上げている。1956年に一県一店制を改めた複数販売店制も、1961年に新設したパブリカ店も、その構想の延長で置かれた。資金の出し手が課した分離によって、需要をつくる役に専念する会社がひとつ生まれたことになる。

その分業のもとで、トヨタは需要より先に工場を建てた。1954年からは後工程が部品を引き取るスーパーマーケット方式で仕掛品を減らし、クラウンの月販が2000台だった時期に、豊田英二氏は月産5000台の乗用車専用工場を提案し、石田退三社長は建屋を月産1万台の規模で建てる元町工場を決めた。1959年12月にトヨタの生産は月産1万台に達し、売上高は1955年11月期の170億円から1959年11月期の712億円へ4倍になった。1961年のパブリカでも、専用の販売店の系列を新たに設けて量を受け止めようとした。売れる台数だけを作れという1950年の条件は、工場を先に建て、販売会社の網で量を受け止める順序に置き換わった。

トヨタ自動車工業の売上高(単体) 1954年〜1959年(各年11月期)(億円)

186 1954 170 1955 316 1956 531 1957 512 1958 712 1959
  • 各年11月期の単体売上高。元町工場が完成した1959年11月期に712億円となり、1955年11月期の約4倍になった。
  • 出所はダイヤモンド会社産業総覧 1964年版。

1949年〜1964年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a 月産3,000台を目標に生産設備近代化5か年計画を策定
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a 約10億円の工作機械の設備合理化計画が完了
1954年11月期 単体 186 n/a 17 n/a n/a 設備近代化5か年計画の第2期に着手
1955年11月期 単体 170 ▲8.6% 14 n/a n/a 組立工場の設備改造が完了(月産3,000台体制)試作工場(技術第1工場)が完成
1956年11月期 単体 316 +85.9% 30 n/a n/a 設備近代化5か年計画が完了(設備投資額47億円)月産1万台体制の設備計画に着手テストコースの第1期工事が完成(周回路約200m)
1957年11月期 単体 531 +68.0% 48 n/a n/a 熱処理工場が完成
1958年11月期 単体 512 ▲3.6% 46 n/a n/a ブラジルトヨタを設立土橋工場(仮称)の建設計画を決定
1959年11月期 単体 712 +39.1% 72 n/a n/a n/a
1960年11月期 単体 1,027 +44.2% 96 n/a n/a 機械工場の増産整備が完了(月産能力1万5,000台)元町工場の第2期工事に着手元町工場の第2期工事が完成
1961年11月期 単体 1,381 +34.5% 128 n/a n/a 元町第2組立工場の建設に着手
1962年11月期 単体 1,468 +6.3% 148 n/a n/a パブリカ専用の元町第2組立工場が完成タイトヨタを設立ブラジルトヨタの工場が完成(月産能力250台)
1963年11月期 単体 1,795 +22.3% 132 n/a n/a テストコースを1周2,800mに延長
1964年11月期 単体 2,200 +22.6% 115 n/a n/a タイトヨタの組立工場が完成(月産能力300台)工場用地約67万m2を取得知多鍛造工場が完成
売上高(億円)

出所:ダイヤモンド会社産業総覧1964年版、会社年鑑

出典・参考

10件
出典・参考
  • トヨタ自動車 有価証券報告書【沿革】
  • 『トヨタ自動車30年史』(トヨタ自動車工業, 1967年)
  • 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第6節 戦後の事業整理と労働争議』(トヨタ自動車, 2012年)
  • 『トヨタ自動車75年史 第1部第2章第7節 設備近代化』(トヨタ自動車, 2012年)
  • 株式会社年鑑 1954年版「トヨタ自動車販売」
  • 『会社銀行八十年史』2篇 日本会社史「トヨタ自動車業」(1955年)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
  • 日経ビジネス 1977年4月25日号
  • 私の履歴書 経済人15「神谷正太郎」(日本経済新聞社、1981年)
  • 豊田英二『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1987年)

免責事項およびポリシー