伊藤忠商事:伊藤忠合名会社の設立と旧伊藤忠商事・伊藤忠商店への分割
伊藤糸店の綿糸卸から伊藤忠商事への分社独立
1893年〜伊藤糸店の開店と、10年続いた赤字
呉服太物の問屋として固まった商いを、忠兵衛は1893年にもう一度動かした。近代綿紡績糸の有望性に着目し、綿糸を扱うために大阪東区安土町2丁目へ伊藤糸店を開設したのである。この店がのちの伊藤忠商事発足の礎石になった。店主は忠兵衛、店主代理に伊藤忠次郎、後見支配人に田附源兵衛、主任に村岸休五郎を置く陣容で始めている。開店と同時に店法の成文化にも手を着け、各店の人事制度を確立して重役および店員の権限を規定した。読みは外れていない。1897年には日本の紡機が100万錘を超え、綿糸の輸出高が初めて輸入高を凌いで清国・朝鮮の市場へ向かった。呉服の卸で得た資金を、価格変動の激しい綿糸の商いへ振り向ける判断だった。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「伊藤忠」(経済春秋社、1968年)
- [1]1893年、近代綿紡績糸の有望性に着眼し、綿糸取扱いのため大阪東区安土町2丁目に伊藤糸店を開店した
- 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
- [2]伊藤糸店はのちの伊藤忠商事発足の礎石となり、現在の伊藤忠商事はこの店が根幹となって発展した
- [3]糸店開店当時の陣容は、店主が伊藤忠兵衛、店主代理が伊藤忠次郎、後見支配人が田附源兵衛、主任が村岸休五郎であった
- [4]糸店開業とともに店法の成文化に着手し、各店の人事制度を確立して重役および店員の権限を規定した
- [5]1894年の綿糸輸出税撤廃、1896年の綿花輸入税廃止などの綿業振興策もあって、1897年に日本の紡機は100万錘を超え、綿糸の輸出高もこの年はじめて輸入高を凌いで清国・朝鮮などの市場へ進出した
糸店の開業に合わせて、記帳の方法も入れ替えた。創業以来使っていた大福帳を4店とも廃止して洋式の商業簿記を採り入れ、1894年には大阪商業学校本科の卒業生・岡本一太郎を採用してこれに当たらせている。当時の呉服問屋としては画期的な改革だった。1887年に西店が英独から輸入した毛織物を積んだ船がコロンボ沖で沈没した際、出荷主を通じて英国で保険契約が結ばれていたため実損を免れた経験から、遠隔地へ送る商品にも保険を付けるようにしている。1898年3月には月刊誌「実業」を創刊し、主要織物の統計と産地の商況を載せて織物業界の指導誌となり、一部は市販された。当時の呉服問屋の商いは手形が一切取れず、集金の大半が盆と正月の得意回りに限られていたから、数字で計画を立てられる商売ではなかった。
- 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
- [6]創業以来の大福帳を4店とも廃止して洋式の商業簿記を採り入れ、1894年に大阪商業学校本科卒業生の岡本一太郎を採用した
- [7]大福帳の廃止と洋式簿記の採用は、当時の呉服問屋としては画期的な改革であった
- [8]1887年に西店が英独から輸入した毛織物を積んだ船がコロンボ沖で沈没したが、英国で出荷主を通じ保険契約が結ばれており実損はなかった。以後、遠隔地へ送る商品に保険を付けるようにした
- [9]1898年3月に月刊誌「実業」(英文名The Business)を創刊し、主要織物の統計・産地の商況・相場表を詳しく載せた。織物業界の指導誌となり一部は市販され、大正初期まで発行された
- 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
- [10]当時の呉服問屋は不規則で手形は一切取れず、集金の大半は盆と正月の得意回りに限られ、数学的な立案企画などが立つものではなかった
しかし糸店の経営は、開業から10年にわたって苦しんだ。綿糸はその国際性と需給関係から投機の対象となり、内外の情勢に敏感に反応して市況が乱調を繰り返したからである。1896年の恐慌以来、赤字を補うために数次にわたって本家の忠兵衛へ資本の追加を仰ぎ、1900年にも多額の資金がつぎ込まれてようやく再建にこぎつけた。この年に支配人は田附源兵衛から村岸休五郎へ代わっている。忠兵衛は各店共通の店法とは別に糸店のための「糸店法則」を定め、その序文に、得意の信用と相応の利益を得ながら種々の困難を生じて遂に無一物の結果を見たと記した。須磨で静養していた忠兵衛からは、再建後も数度にわたって資金の救援を受けている。
- 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
- [11]綿糸はその国際性と需給関係から投機の対象となり、内外の情勢に敏感に反応して市況が乱調を繰り返した
- [12]1896年の恐慌以来、赤字を補うため数次にわたり本家の忠兵衛へ資本の追加を仰ぎ、1900年に多額の資金がつぎ込まれて再建した
- [13]1900年に支配人の田附源兵衛が退店し、村岸休五郎が二代支配人になった
- [15]本店支配人の田中良蔵、糸店支配人の村岸休五郎らの回顧談によれば、須磨の別荘で静養していた忠兵衛から1900年の再建後も数度にわたり資金の救援を受けた
- 初代伊藤忠兵衛「糸店法則」序文(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
- [14]「糸店法則」の序文に、開業から約10年の間に得意の信用と相応の利益を得たが種々の困難を生じ遂に無一物の結果を見た、と記された
参考文献[1]-[15]
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「伊藤忠」(経済春秋社、1968年)
- [1]1893年、近代綿紡績糸の有望性に着眼し、綿糸取扱いのため大阪東区安土町2丁目に伊藤糸店を開店した
- 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
- [2]伊藤糸店はのちの伊藤忠商事発足の礎石となり、現在の伊藤忠商事はこの店が根幹となって発展した
- [3]糸店開店当時の陣容は、店主が伊藤忠兵衛、店主代理が伊藤忠次郎、後見支配人が田附源兵衛、主任が村岸休五郎であった
- [4]糸店開業とともに店法の成文化に着手し、各店の人事制度を確立して重役および店員の権限を規定した
- [5]1894年の綿糸輸出税撤廃、1896年の綿花輸入税廃止などの綿業振興策もあって、1897年に日本の紡機は100万錘を超え、綿糸の輸出高もこの年はじめて輸入高を凌いで清国・朝鮮などの市場へ進出した
- [6]創業以来の大福帳を4店とも廃止して洋式の商業簿記を採り入れ、1894年に大阪商業学校本科卒業生の岡本一太郎を採用した
- [7]大福帳の廃止と洋式簿記の採用は、当時の呉服問屋としては画期的な改革であった
- [8]1887年に西店が英独から輸入した毛織物を積んだ船がコロンボ沖で沈没したが、英国で出荷主を通じ保険契約が結ばれており実損はなかった。以後、遠隔地へ送る商品に保険を付けるようにした
- [9]1898年3月に月刊誌「実業」(英文名The Business)を創刊し、主要織物の統計・産地の商況・相場表を詳しく載せた。織物業界の指導誌となり一部は市販され、大正初期まで発行された
- [11]綿糸はその国際性と需給関係から投機の対象となり、内外の情勢に敏感に反応して市況が乱調を繰り返した
- [12]1896年の恐慌以来、赤字を補うため数次にわたり本家の忠兵衛へ資本の追加を仰ぎ、1900年に多額の資金がつぎ込まれて再建した
- [13]1900年に支配人の田附源兵衛が退店し、村岸休五郎が二代支配人になった
- [15]本店支配人の田中良蔵、糸店支配人の村岸休五郎らの回顧談によれば、須磨の別荘で静養していた忠兵衛から1900年の再建後も数度にわたり資金の救援を受けた
- 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
- [10]当時の呉服問屋は不規則で手形は一切取れず、集金の大半は盆と正月の得意回りに限られ、数学的な立案企画などが立つものではなかった
- 初代伊藤忠兵衛「糸店法則」序文(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
- [14]「糸店法則」の序文に、開業から約10年の間に得意の信用と相応の利益を得たが種々の困難を生じ遂に無一物の結果を見た、と記された
1903年〜初代の死と、京城・上海へ出した店
1903年7月8日、初代伊藤忠兵衛は須磨の別邸で61歳で没した。残した事業は伊藤本店・伊藤京店・伊藤西店・伊藤糸店・伊藤染工場の五つで、店員は100名に及んでいた。家督を継いだのは次男の精一で、二代伊藤忠兵衛を襲名した当時は満17歳、滋賀県立商業学校に在学中である。退学させてすぐ家業を継がせるという親族や番頭の案は、母やゑの強い意見で退けられ、卒業まで待つことになった。翌1904年、熱望していた東京高等商業学校への進学を思いとどまり、端午の節句を機に本店へ入店する。日露戦争の年で、53名の店員のうち7名が動員で軍務に服していた。主人の跡取りでありながら最下級の職務から始め、最も体力を要する荷造方に配されて、まる1か月は帯を解いて寝たことがなかったという。
- 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
- [16]1903年7月8日午前7時30分、初代伊藤忠兵衛は須磨の別邸で61歳で死去した。病名は肝臓がんであった
- [17]1903年の死去当時、初代が残した事業は伊藤本店・京店・西店・糸店・伊藤染工場の五つで、店員は100名に及んだ
- [18]次男の伊藤精一が家督を相続して伊藤忠兵衛を襲名した。当時満17歳で滋賀県立商業学校に在学中であった
- [19]親族や番頭には退学してすぐ家業を継ぐよう主張する者もいたが、母やゑの強い意見で卒業まで待つことになった
- [20]1904年に商業学校を卒業した二代忠兵衛は、熱望していた東京高商への進学を思いとどまり、端午の節句を機に本店へ入店した
- 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
- [21]入店したのは日露戦争の始まった1904年で、53名の店員のうち7名が動員で軍務に服していた
- [22]入店当初は最下級の職務に就き、そのうちでも最も体力を要する兵たん部と称する荷造方に回され、まる1か月は帯を解いて寝たことがなかった
日露戦争は、伊藤家の商いを国内の卸から大陸の輸出へ押し出した。1904年10月、韓国との貿易を見込んで田中清吉と高井兵三郎を視察に送り、報告を受けて本店内に輸出部を設け、1907年1月には京城へ出張所を開設している。中国本土へも1906年2月から田中と中村信太郎が奉天・営口・大連・天津・北京・漢口・上海を半年かけて回り、同年12月に中村を上海へ常駐させた。上海では日本綿花の上海支店の好意で「日信分行」の名義を借りて営業を始めている。ただし加工綿布は品質で英国品に及ばず、輸出は5年にわたって損失を重ね、利益の見込みが立たなかった。
- 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
- [23]1904年10月に田中清吉と高井兵三郎を韓国視察に派遣し、報告を受けて本店内に輸出部を設け、1907年1月に京城へ出張所を開いた
- [24]1906年2月から田中清吉と中村信太郎が奉天・営口・大連・天津・北京・漢口・上海を半年にわたり視察し、同年12月に中村信太郎を上海へ常駐させた
- [25]上海では英租界松江路に事務所を開き、日信洋行上海支店の好意により「日信分行」の名義で営業を始めた
- 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
- [26]開戦の年に朝鮮貿易を始め、翌年満州へ人を派し、戦後に上海へ出張所を設けたが、この5年間輸出は丸損で利益の見込みが立たなかった
五つに分かれた店をそのまま置けば、資金も人事も店ごとに閉じてしまう。伊藤本店・京店・染工場・西店は本家の伊藤忠兵衛家が、糸店は分家の伊藤孝太良家が分担して経営しており、初代の没後は統一が課題になっていた。1908年夏、本家と分家の事業を合同して同族組織の伊藤忠兵衛本部が設けられる。1872年の大阪開店以来の改革だった。本部は各店の基本方針の決定、業務の指導監督、人事の管理、資金の調達と配分、決算を統轄する機関である。同時に本店の輸出部を独立させて伊藤輸出店とし、京城と上海の出張所をその管下に置き、東京には糸店の支店を新設した。事業の分担も定まり、義兄の伊藤忠三が京店、義甥の伊藤竹之助が綿糸と輸出、二代忠兵衛が大阪の呉服と輸出入を受け持った。
- 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
- [27]伊藤本店・京店・染工場・西店は本家の伊藤忠兵衛家が、伊藤糸店は分家の伊藤孝太良家がそれぞれ分担して経営していた
- [28]初代の没後に伊藤家事業の統一を図るため本家・分家の事業を合同し、1908年夏に同族組織の伊藤忠兵衛本部を設けた
- [29]伊藤忠兵衛本部の設置は、初代忠兵衛が1872年に大阪本町へ開店して以来の改革であった
- [30]本部の任務は各店の基本方針の決定・業務の指導監督・人事の管理・資金の調達と配分・決算の統轄であった
- [31]本部創設と同時に本店の輸出部を独立させて伊藤輸出店とし、京城・上海の出張所をその管下に置き、東京に糸店の支店を開いた
- 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
- [32]事業の協力者として、義兄の伊藤忠三が京都店、義甥の伊藤竹之助が綿糸と輸出、二代忠兵衛が大阪の呉服と輸出入を受け持った
参考文献[16]-[32]
- 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
- [16]1903年7月8日午前7時30分、初代伊藤忠兵衛は須磨の別邸で61歳で死去した。病名は肝臓がんであった
- [17]1903年の死去当時、初代が残した事業は伊藤本店・京店・西店・糸店・伊藤染工場の五つで、店員は100名に及んだ
- [18]次男の伊藤精一が家督を相続して伊藤忠兵衛を襲名した。当時満17歳で滋賀県立商業学校に在学中であった
- [19]親族や番頭には退学してすぐ家業を継ぐよう主張する者もいたが、母やゑの強い意見で卒業まで待つことになった
- [20]1904年に商業学校を卒業した二代忠兵衛は、熱望していた東京高商への進学を思いとどまり、端午の節句を機に本店へ入店した
- [23]1904年10月に田中清吉と高井兵三郎を韓国視察に派遣し、報告を受けて本店内に輸出部を設け、1907年1月に京城へ出張所を開いた
- [24]1906年2月から田中清吉と中村信太郎が奉天・営口・大連・天津・北京・漢口・上海を半年にわたり視察し、同年12月に中村信太郎を上海へ常駐させた
- [25]上海では英租界松江路に事務所を開き、日信洋行上海支店の好意により「日信分行」の名義で営業を始めた
- [27]伊藤本店・京店・染工場・西店は本家の伊藤忠兵衛家が、伊藤糸店は分家の伊藤孝太良家がそれぞれ分担して経営していた
- [28]初代の没後に伊藤家事業の統一を図るため本家・分家の事業を合同し、1908年夏に同族組織の伊藤忠兵衛本部を設けた
- [29]伊藤忠兵衛本部の設置は、初代忠兵衛が1872年に大阪本町へ開店して以来の改革であった
- [30]本部の任務は各店の基本方針の決定・業務の指導監督・人事の管理・資金の調達と配分・決算の統轄であった
- [31]本部創設と同時に本店の輸出部を独立させて伊藤輸出店とし、京城・上海の出張所をその管下に置き、東京に糸店の支店を開いた
- 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
- [21]入店したのは日露戦争の始まった1904年で、53名の店員のうち7名が動員で軍務に服していた
- [22]入店当初は最下級の職務に就き、そのうちでも最も体力を要する兵たん部と称する荷造方に回され、まる1か月は帯を解いて寝たことがなかった
- [26]開戦の年に朝鮮貿易を始め、翌年満州へ人を派し、戦後に上海へ出張所を設けたが、この5年間輸出は丸損で利益の見込みが立たなかった
- [32]事業の協力者として、義兄の伊藤忠三が京都店、義甥の伊藤竹之助が綿糸と輸出、二代忠兵衛が大阪の呉服と輸出入を受け持った
1908年〜英国での直取引から合名会社化、そして会社分割へ
二代忠兵衛は満22歳の春に渡米し、ニューヨークで当時日本銀行理事だった井上準之助の世話を受けたのち、英国へ渡った。ロンドン大学の経済部で講義を受けたが聞き取れず、下宿で教科書を読めば大半が理解できたため通学をやめ、家業の織物の直輸入に精を出す。そこで見つけたのが取引の構造だった。ロンドンの商館の多くは代理店にすぎず、マンチェスターやブラッドフォードの商品はブローカーが仲介していた。彼はブラッドフォードへ移って直接取引を始め、問屋・ブローカー・商館の口銭を除くことで1割2分ほど安く買い、しま・ズボン地や高級外とう地では2割安く仕入れた。英国の低金利を使ったこの直輸入は帰国後も続き、持ち帰った技術書をもとに1913年8月には大阪安土町へ日本で最初の鉄筋コンクリート造3階建の倉庫を建てている。
- 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
- [33]二代忠兵衛は満22歳の春にまず渡米し、ニューヨークで日本銀行理事の井上準之助の世話を受けたのち英国へ渡った
- [34]ロンドン大学経済部の講義は聞き取れなかったが下宿で教科書を読むと大半が理解できたため、通学をやめて商売に精を出した
- [35]ロンドンの綿毛織物の商館の多くは代理店にすぎず、ブローカーがマンチェスターやブラッドフォードの商品の仲介をしていた
- [36]ブラッドフォードへ移って直接取引を始めた結果、問屋からブローカー・ロンドン・神戸の商館までの口銭を除いて1割2分ほど安く買え、しま・ズボン地や高級外とう地は2割安かった
- 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
- [37]二代忠兵衛が在英当時に英国の低金利を利用して始めた毛・綿織物の直輸入はその後も続けられ、1910年に英国から持ち帰った鉄筋コンクリート建築の技術書をもとに、1913年8月に大阪東区安土町3丁目へ日本で最初の鉄筋コンクリート造3階建の倉庫が建設された
帰国後の伊藤家は、店の集合から会社へ組織を替えた。1914年12月、伊藤家の各事業を統轄するため、二代忠兵衛を代表社員として伊藤忠合名会社が設立される。設立は同月29日で、伊藤忠兵衛本部を会社組織に改めたものだった。資本金200万円、社員4名の出資は伊藤忠兵衛120万円、伊藤とき30万円、伊藤忠三36万円、伊藤竹之助14万円で、英語ではC.ITOH&CO.、中華民国では伊藤洋行と称した。改組の大きな理由は、初代の没後に遺産の配分が済んでおらず、伊藤家各人の持分と責任の所在を明らかにする必要があったことである。同時に伊藤6家を同族と定める家憲を制定した。1915年1月の披露では総支配人の田中良蔵ら3名の長老が勇退し、経営は若手中心へ移った。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
- [38]1914年12月、伊藤家の各事業を統轄するため、二代伊藤忠兵衛を社長(代表社員)として資本金200万円の伊藤忠合名会社へ組織を変更した
- 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
- [39]1914年12月29日、伊藤忠兵衛本部を会社組織に改めて伊藤忠合名会社が設立された
- [40]資本金200万円、社員4名の出資額は伊藤忠兵衛120万円・伊藤とき30万円・伊藤忠三36万円・伊藤竹之助14万円で、英語名はC.ITOH&CO.、中華民国では伊藤洋行と称した
- [41]初代の没後、遺族に未成年者が多く遺産の配分ができていなかったため、伊藤家各人の持分を定めて責任の所在を明らかにすることが改組の大きな理由の一つであった
- [42]合名会社の設立に伴い、伊藤6家に限って同族とする家憲が制定された
- [43]1915年1月5日の組織変更と家憲制度の披露の席上、総支配人の田中良蔵、本店支配人の楡喜三、京店支配人の重森土蔵の3名の長老が勇退した
第一次大戦は商いの規模を変えた。日本の輸出額は1914年の5億9,100万円から1919年の21億円へ5年で3倍以上に増え、三品綿糸相場は1916年1月の118円95銭から翌1917年7月に470円の高値を付けている。1918年12月1日、伊藤忠合名会社は営業部門を二分する。資本金1,000万円の伊藤忠商事が糸店と神戸・東京・上海など国内外の支店を継ぎ、資本金500万円の株式会社伊藤忠商店が呉服太物とラシャの本店・京店を継いだ。合名会社は資本金2,000万円へ増資し、両社の株式を保有する側へ退いた。二代は披露の席で『時代が次第に軽佻となり、浮利にはしり、投機にながれる傾向が多くなってきたが、それはもっともうれうべきことで、あくまで着実を旨とする真個の実業を信条として進んでゆきたい』と述べ、着実を信条に掲げた。1919年11月30日に終わる第1期は税引前700万円余の利益、資本金に対する利益率70%だった。
- 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
- [44]日本の輸出額は1914年の5億9,100万円から1916年の11億2,700万円を経て1919年に21億円となり、5年間で3倍以上に増えた。三品綿糸相場は1916年1月の当限安値118円95銭から1917年7月21日に470円の高値記録をつけた
- [45]1918年12月1日、伊藤忠合名会社は営業部門を二分し、二つの株式会社を新設して営業部門を譲り渡した
- [46]資本金1,000万円の伊藤忠商事株式会社が糸店と東京・神戸・横浜・上海・漢口・天津・青島・ニューヨーク・マニラ・カルカッタの各支店出張所を、資本金500万円の株式会社伊藤忠商店が呉服太物とラシャ洋反物を扱う本店と京呉服の京店を引き継いだ
- [49]1919年11月30日に終わる伊藤忠商事の第1期決算は税引前700万円余の利益で、資本金に対する利益率は70%、株主配当は20%であった
- 二代伊藤忠兵衛の組織変更演説(社内誌「紅ノ華」大正8年第4号/伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
- [47]合名会社は資本金を2,000万円へ増資し、両社の株式を所有するほか関係会社の株券と不動産を保有する伊藤家の資本を保管する会社となった
- [48]二代忠兵衛は組織変更の披露の席上、時代が次第に軽佻となり浮利に走り投機に流れる傾向が多くなったことを憂うべきこととし、あくまで着実を旨とする真個の実業を信条として進みたいと述べた
参考文献[33]-[49]
- 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
- [33]二代忠兵衛は満22歳の春にまず渡米し、ニューヨークで日本銀行理事の井上準之助の世話を受けたのち英国へ渡った
- [34]ロンドン大学経済部の講義は聞き取れなかったが下宿で教科書を読むと大半が理解できたため、通学をやめて商売に精を出した
- [35]ロンドンの綿毛織物の商館の多くは代理店にすぎず、ブローカーがマンチェスターやブラッドフォードの商品の仲介をしていた
- [36]ブラッドフォードへ移って直接取引を始めた結果、問屋からブローカー・ロンドン・神戸の商館までの口銭を除いて1割2分ほど安く買え、しま・ズボン地や高級外とう地は2割安かった
- 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
- [37]二代忠兵衛が在英当時に英国の低金利を利用して始めた毛・綿織物の直輸入はその後も続けられ、1910年に英国から持ち帰った鉄筋コンクリート建築の技術書をもとに、1913年8月に大阪東区安土町3丁目へ日本で最初の鉄筋コンクリート造3階建の倉庫が建設された
- [39]1914年12月29日、伊藤忠兵衛本部を会社組織に改めて伊藤忠合名会社が設立された
- [40]資本金200万円、社員4名の出資額は伊藤忠兵衛120万円・伊藤とき30万円・伊藤忠三36万円・伊藤竹之助14万円で、英語名はC.ITOH&CO.、中華民国では伊藤洋行と称した
- [41]初代の没後、遺族に未成年者が多く遺産の配分ができていなかったため、伊藤家各人の持分を定めて責任の所在を明らかにすることが改組の大きな理由の一つであった
- [42]合名会社の設立に伴い、伊藤6家に限って同族とする家憲が制定された
- [43]1915年1月5日の組織変更と家憲制度の披露の席上、総支配人の田中良蔵、本店支配人の楡喜三、京店支配人の重森土蔵の3名の長老が勇退した
- [44]日本の輸出額は1914年の5億9,100万円から1916年の11億2,700万円を経て1919年に21億円となり、5年間で3倍以上に増えた。三品綿糸相場は1916年1月の当限安値118円95銭から1917年7月21日に470円の高値記録をつけた
- [45]1918年12月1日、伊藤忠合名会社は営業部門を二分し、二つの株式会社を新設して営業部門を譲り渡した
- [46]資本金1,000万円の伊藤忠商事株式会社が糸店と東京・神戸・横浜・上海・漢口・天津・青島・ニューヨーク・マニラ・カルカッタの各支店出張所を、資本金500万円の株式会社伊藤忠商店が呉服太物とラシャ洋反物を扱う本店と京呉服の京店を引き継いだ
- [49]1919年11月30日に終わる伊藤忠商事の第1期決算は税引前700万円余の利益で、資本金に対する利益率は70%、株主配当は20%であった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
- [38]1914年12月、伊藤家の各事業を統轄するため、二代伊藤忠兵衛を社長(代表社員)として資本金200万円の伊藤忠合名会社へ組織を変更した
- 二代伊藤忠兵衛の組織変更演説(社内誌「紅ノ華」大正8年第4号/伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
- [47]合名会社は資本金を2,000万円へ増資し、両社の株式を所有するほか関係会社の株券と不動産を保有する伊藤家の資本を保管する会社となった
- [48]二代忠兵衛は組織変更の披露の席上、時代が次第に軽佻となり浮利に走り投機に流れる傾向が多くなったことを憂うべきこととし、あくまで着実を旨とする真個の実業を信条として進みたいと述べた
筆者考察
1893年に開いた伊藤糸店は、儲かるから始めた商いではない。呉服太物の卸が安定していたのに対し、綿糸は投機の対象で市況が乱調を繰り返し、開業から10年は本家の追加出資で赤字を埋め続けた。初代伊藤忠兵衛はそれでも糸店に別途「糸店法則」を定めて手放さず、その序文に遂に無一物の結果を見たと書いている。1897年に日本の紡機が100万錘を超え、綿糸の輸出が輸入を上回ると、この赤字の店が伊藤忠商事の母体になった。呉服で稼いだ資金を値動きの荒い商品へ10年注ぎ込んだことが、繊維商社としての位置を決めている。
二代伊藤忠兵衛が英国から持ち帰ったのは商品ではなく、取引の階層を減らす方法だった。ロンドンの商館の多くが代理店にすぎないと見抜いてブラッドフォードへ移り、問屋とブローカーの口銭を外して1割2分安く仕入れている。中間を減らして利ざやを作るこの型は、組織にもそのまま当てられた。五つに分かれた店を1908年の伊藤忠兵衛本部へ統合し、1914年には伊藤忠合名会社として資本と責任を一つにまとめる。大戦景気で膨らんだ営業を1918年に伊藤忠商事と伊藤忠商店へ割ったのも、拡大の速さと危険を切り分ける同じ設計だった。
- 伊藤忠合名会社は1914年12月29日の設立で資本金200万円。1918年12月1日の営業部門の二分により、伊藤忠商事の資本金は1,000万円、株式会社伊藤忠商店は500万円となり、合名会社は同時に2,000万円へ増資して両社の株式を保有した。
- 出所は伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)、会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項。
出典・参考
6件
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「伊藤忠」(経済春秋社、1968年)
- 二代伊藤忠兵衛の組織変更演説(社内誌「紅ノ華」大正8年第4号/伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)
- 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
- 伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』(伊藤忠商事、1969年)
- 初代伊藤忠兵衛「糸店法則」序文(伊藤忠商事『伊藤忠商事100年』1969年 所収)