東芝:電信機の田中製造所と電球の白熱舎の二つの源流
1875年〜田中久重の電信機工場から芝浦製作所への強電の系譜
東芝の源流のひとつは、幕末から明治にかけて活動した発明家、田中久重氏の工場にさかのぼる。1875年7月、田中久重氏は東京・新橋に田中製造所を創設し、電信機の製作を始めた。東芝はこの年を創業年とし、工場が田中製造所の名を用いたのは1882年からである。田中久重氏が1881年に世を去ったあと、事業は養子の田中大吉氏が引き継ぎ、工場を東京・芝浦へ移した。工場は1893年に三井銀行の手に移り、芝浦製作所と改称された。背景には、同行への負債が23万5000円に上っていたことがある。1904年6月25日、資本金100万円の株式会社芝浦製作所となったが、株主はその後もほぼ三井一家に限られた。事業の中心は一般機械類で、発電機・電動機のほか、変圧器や電灯器具を含む電気機械も手がけた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
- [1]東芝の源流の一つ 発明家 田中久重の工場
- [2]1875年7月 田中久重が東京・新橋に田中製造所を創設し電信機の製作を開始
- [7]1904年6月25日 資本金100万円で株式会社芝浦製作所へ改組
- [9]創業当初の製品 一般機械類と発電機・電動機・変圧器・電灯器具
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [3]東芝の創業年 1875年/田中製造所の名は1882年から
- 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
- [4]田中久重の死後 養子の田中大吉が事業を継承し工場を芝浦へ移転
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第2章「株式会社芝浦製作所」
- [5]1893年 三井銀行が田中製造所を継承し芝浦製作所と改称
- [6]田中製造所の三井銀行に対する負債 23万5000円
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章「東京電気と芝浦製作所の合併」
- [8]株式会社への改組後も芝浦製作所株式の大半を三井一家が保有
株式会社となった芝浦製作所は、国内の電力開発の活況に伴い、大型発電機・変圧器・電動機など強電機器の製造へ重点を移した。1920年6月には資本金を500万円から2000万円へ引き上げ、1922年2月には現在の鶴見工場の所在地に工場を建設した。容量や規模で記録を更新する製品を次々に完成させ、1926年には国産最大の73トン電気機関車を製作して南満州鉄道撫順炭鉱へ納め、輸入品に依存していた重電の分野を国産で置き換えた。同年末には資本金2000万円・従業員4383名を擁するわが国最大の電機メーカーとなり、官営工場や電力会社に大型設備を納めることで、発電から送配電に至る電力インフラの一角を担った。個人の発明工房として始まった事業は、資本と組織を備えた重電メーカーへ姿を変え、のちの東芝の重電・産業機器部門の母体となった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
- [10]電力開発の活況に伴う強電機器への重点移行
- [12]1922年2月 現鶴見工場所在地に工場を建設
- [14]記録を更新する重電機器の完成と重電分野の国産化
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第2章「株式会社芝浦製作所」
- [11]1920年6月 資本金を500万円から2000万円へ増資
- [13]1926年 国産最大の73トン電気機関車を製作し南満州鉄道撫順炭鉱へ納入
- [15]1926年末 資本金2000万円・従業員4383名 わが国最大の電機メーカー
- 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
- [16]官営工場・電力会社への大型設備の納入
- [17]芝浦製作所 のちの東芝の重電・産業機器部門の母体
その最大手を、関東大震災の傷が癒えぬうちに昭和恐慌が襲った。1927年の金融恐慌に続き、1930年には世界恐慌と政府の金解禁が重なり、不景気は慢性化した。芝浦製作所は1926年6月に始まる第45期から1933年4月に終わる第58期まで無配を続けた。1928年8月に常務取締役となった納富磐一氏は、岩原謙三氏(社長)を助けて組織を簡素化し、経費の節約に努めたが、不況の大勢は動かせなかった。それでも会社は縮むだけではなかった。不況の絶頂にあった1929年に鶴見工場の第2期工事を起こし、1931年12月に5棟・3万4500平方メートルを完成させ、翌年春には東京工場の大部分を鶴見へ移した。1930年11月、健康を害した岩原謙三氏に代わり、三井物産取締役を歴任した平田篤次郎氏が社長に就任し、会社の復興に当たった。
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第2章「株式会社芝浦製作所」
- [18]関東大震災の復旧途上での昭和恐慌の襲来
- [19]1927年の金融恐慌 1930年の世界恐慌と金解禁による慢性不況
- [20]芝浦製作所 第45期(1926年6月〜11月)から第58期(1932年12月〜1933年4月)まで無配
- [21]1928年8月 納富磐一が常務取締役に就任 組織の簡素化と経費節約に努める
- [22]1929年着工 1931年12月 鶴見工場第2期工事で5棟・3万4500平方メートルを建設
- [23]1932年春 東京工場の大部分を鶴見工場へ移転
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章「東京電気と芝浦製作所の合併」
- [24]1930年11月 岩原謙三の辞任により平田篤次郎が社長に就任 昭和初年の不況下で芝浦製作所の復興に尽力
参考文献[1]-[24]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
- [1]東芝の源流の一つ 発明家 田中久重の工場
- [2]1875年7月 田中久重が東京・新橋に田中製造所を創設し電信機の製作を開始
- [7]1904年6月25日 資本金100万円で株式会社芝浦製作所へ改組
- [9]創業当初の製品 一般機械類と発電機・電動機・変圧器・電灯器具
- [10]電力開発の活況に伴う強電機器への重点移行
- [12]1922年2月 現鶴見工場所在地に工場を建設
- [14]記録を更新する重電機器の完成と重電分野の国産化
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [3]東芝の創業年 1875年/田中製造所の名は1882年から
- 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
- [4]田中久重の死後 養子の田中大吉が事業を継承し工場を芝浦へ移転
- [16]官営工場・電力会社への大型設備の納入
- [17]芝浦製作所 のちの東芝の重電・産業機器部門の母体
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第2章「株式会社芝浦製作所」
- [5]1893年 三井銀行が田中製造所を継承し芝浦製作所と改称
- [6]田中製造所の三井銀行に対する負債 23万5000円
- [11]1920年6月 資本金を500万円から2000万円へ増資
- [13]1926年 国産最大の73トン電気機関車を製作し南満州鉄道撫順炭鉱へ納入
- [15]1926年末 資本金2000万円・従業員4383名 わが国最大の電機メーカー
- [18]関東大震災の復旧途上での昭和恐慌の襲来
- [19]1927年の金融恐慌 1930年の世界恐慌と金解禁による慢性不況
- [20]芝浦製作所 第45期(1926年6月〜11月)から第58期(1932年12月〜1933年4月)まで無配
- [21]1928年8月 納富磐一が常務取締役に就任 組織の簡素化と経費節約に努める
- [22]1929年着工 1931年12月 鶴見工場第2期工事で5棟・3万4500平方メートルを建設
- [23]1932年春 東京工場の大部分を鶴見工場へ移転
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章「東京電気と芝浦製作所の合併」
- [8]株式会社への改組後も芝浦製作所株式の大半を三井一家が保有
- [24]1930年11月 岩原謙三の辞任により平田篤次郎が社長に就任 昭和初年の不況下で芝浦製作所の復興に尽力
1890年〜藤岡市助の白熱舎とマツダランプによる電球国産化
東芝のもうひとつの源流は、電球の国産化に挑んだ弱電の系譜にある。1890年4月、電気工学者の藤岡市助氏と三吉正一氏らが東京・京橋に白熱舎を創立し、白熱電球の製造を開始した。当時の電球はほぼ輸入品で占められており、白熱舎は舶来電球と競いながら国産電球の開拓に努めた。1896年1月には資本金5万円の東京白熱電燈球株式会社となり、1899年1月に社名を東京電気と改めた。1907年5月には現在の川崎工場の所在地に堀川町工場を建設し、照明用電球のほかX線管や電気計器、各種真空管へ製品を広げた。電球は一つひとつが小さく、値段も安い。一台ごとに仕様を受けて作る芝浦製作所の重電とは、要る設備も売り方も異なる事業から出発した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
- [25]東芝のもう一つの源流 電球国産化の弱電系譜
- [26]1890年4月 藤岡市助・三吉正一らが東京・京橋に白熱舎を創立
- [27]舶来電球との競争のなかでの国産電球の開拓
- [28]1896年1月 資本金5万円の東京白熱電燈球株式会社を設立
- [30]1907年5月 現川崎工場所在地に堀川町工場を建設
- [31]製品の広がり 照明用電球・X線管・電気計器・各種真空管
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [29]1899年1月 東京電気へ社名変更
東京電気を率いた藤岡市助氏は、日本のエジソンとも呼ばれた電気事業の先駆者であった。藤岡市助氏は1905年に米国のゼネラル・エレクトリック社と資本・技術の提携を結び、電球の特許と量産の技術を取り込んだ。ゼネラル・エレクトリック社の持株は最も多い時期に東京電気株式の57パーセント、ほかの外国人株主を合わせれば70パーセントに達し、資本の側から技術の移転を支えた。1911年には長寿命のタングステン電球"マツダランプ"を発売し、安価で丈夫な国産電球として全国に広めた。マツダの名は光の神に由来し、1910年に世界の主要な電球会社が集まってタングステン電球をマツダランプと称すると決めた際、東京電気もこれを製品に付けることにした。輸入品に対抗できる品質と価格を手にしたことで、東京電気は日本の照明の近代化を電球の側から支えた。
- 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
- [32]藤岡市助 東京電気を率いた電気事業の先駆者
- [33]1905年 ゼネラル・エレクトリックと資本・技術提携
- [35]1911年 タングステン電球「マツダランプ」の発売
- [38]輸入品に対抗する品質と価格の獲得
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章「東京電気と芝浦製作所の合併」
- [34]東京電気に対するGE社の持株 最大時57パーセント(外国人株主を含め70パーセント)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
- [36]1910年 世界の主要電球会社がタングステン電球をマツダランプと称すると決定
- [37]東京電気による製品へのマツダランプ名称の採用
東京電気は電球にとどまらず、弱電の広い分野へ製品を伸ばした。1917年には最初の国産真空管を製作し、1925年には内面艶消電球の研究を世界に先がけて完成させ、1926年には国産ネオンサインの先鞭をつけた。蛍光灯を日本で初めて製作したのも東京電気で、1936年には世界最初の二重コイル電球の製作に成功した。放送の開始に伴い、子会社の東京電気無線は東京中央放送局へ150キロワットの大電力放送機を納めたが、これを働かせるには水銀整流器や電動発電機など多くの強電機械が要り、それを作ったのは芝浦製作所であった。強電機械と弱電器具を組み合わせて使う場面が増えるにつれ、両社の関係はいっそう密接になった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
- [39]東京電気 電球以外の弱電分野への製品拡大
- [40]1917年 最初の国産真空管を製作
- [41]1925年 内面艶消電球の研究を世界に先がけて完成
- [42]1926年 国産ネオンサインの先鞭
- [43]日本初の蛍光灯製作 東京電気
- [44]1936年 世界最初の二重コイル電球の製作に成功
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章「東京電気と芝浦製作所の合併」
- [45]東京中央放送局の150kW大電力放送機は東京電気無線が製作 水銀整流器・電動発電機など強電機械は芝浦製作所が製作
- [46]強電機械と弱電器具の組み合わせの増加による両社の関係の緊密化
参考文献[25]-[46]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
- [25]東芝のもう一つの源流 電球国産化の弱電系譜
- [26]1890年4月 藤岡市助・三吉正一らが東京・京橋に白熱舎を創立
- [27]舶来電球との競争のなかでの国産電球の開拓
- [28]1896年1月 資本金5万円の東京白熱電燈球株式会社を設立
- [30]1907年5月 現川崎工場所在地に堀川町工場を建設
- [31]製品の広がり 照明用電球・X線管・電気計器・各種真空管
- [36]1910年 世界の主要電球会社がタングステン電球をマツダランプと称すると決定
- [37]東京電気による製品へのマツダランプ名称の採用
- [39]東京電気 電球以外の弱電分野への製品拡大
- [40]1917年 最初の国産真空管を製作
- [41]1925年 内面艶消電球の研究を世界に先がけて完成
- [42]1926年 国産ネオンサインの先鞭
- [43]日本初の蛍光灯製作 東京電気
- [44]1936年 世界最初の二重コイル電球の製作に成功
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [29]1899年1月 東京電気へ社名変更
- 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
- [32]藤岡市助 東京電気を率いた電気事業の先駆者
- [33]1905年 ゼネラル・エレクトリックと資本・技術提携
- [35]1911年 タングステン電球「マツダランプ」の発売
- [38]輸入品に対抗する品質と価格の獲得
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章「東京電気と芝浦製作所の合併」
- [34]東京電気に対するGE社の持株 最大時57パーセント(外国人株主を含め70パーセント)
- [45]東京中央放送局の150kW大電力放送機は東京電気無線が製作 水銀整流器・電動発電機など強電機械は芝浦製作所が製作
- [46]強電機械と弱電器具の組み合わせの増加による両社の関係の緊密化
1908年〜資本系統の重なりが30年かけて実らせた両社の合併
両社を一つにする案が最初に持ち上がったのは、合併の30年前であった。東京電気は1905年にゼネラル・エレクトリック社との提携に調印し、芝浦製作所も1909年11月に同社との提携を実現している。その前年の1908年末、ゼネラル・エレクトリック社の外国部長ウダン氏が来日したのを機に、両社を合併して資本を増し事業を拡げるのが得策だとの議が起こり、契約書の立案にまで進んだ。ところが三井物産が条項の一部について再協議を求め、日時が延びるうちに1909年末、何も決まらないまま中止となった。それでも交渉の余波として、芝浦製作所の増資株式のうち4000株を東京電気の株主から募ることが約され、1910年5月30日に満株となった。合併は流れたが、両社の資本の距離はこのとき一段縮まった。
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章「東京電気と芝浦製作所の合併」
- [47]東京電気と芝浦製作所の合併案 1939年の合併の30年前にあたる明治末年に浮上
- [48]1905年 東京電気がGEと提携調印/1909年11月 芝浦製作所がGEと提携
- [52]合併交渉の中止後も東京電気と芝浦製作所の関係はいっそう密接になった
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章 所収 東京電気第22回営業報告書(1908年12月〜1909年5月)
- [49]1908年末 GE外国部長ウダンの来日を機に合併の議が起こり契約書の立案に至る
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章 所収 東京電気第23回営業報告書(1909年6月〜11月)
- [50]三井物産が条項の再協議を希望し 1909年末に合併交渉が中止
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章 所収 東京電気第24回営業報告書(1909年12月〜1910年5月)
- [51]合併中止後 芝浦製作所の増資株式4000株を東京電気株主から募集 1910年5月30日に満株
両社を合併へ導いた条件の第一は、資本系統の重なりであった。ゼネラル・エレクトリック社は芝浦製作所の株式についても1909年11月の提携以来25から32パーセントを保有し、1933年以後は21パーセントを持っていた。三井は1893年に芝浦製作所を管理下に置いてからの大株主で、昭和に入ると一時は株式の69パーセントを握った。これとは別に東京電気へ出資していた側も、昭和に入って持株こそ減らしたが、両社の双方に資本を置く関係は変えなかった。さらに両社自身が株を持ち合い、東京電気は1916年下期に芝浦製作所株763株を初めて取得してから、1935年に全株式の10パーセント余、翌1936年には24パーセントまで持ち分を増やした。芝浦製作所の側でも、1922年から東京電気の株を持っている。
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章「東京電気と芝浦製作所の合併」
- [53]両社を合併に導いた直接の要因の第一 資本系統の関連
- [54]芝浦製作所に対するGE社の持株 1909年11月の提携以来25〜32パーセント 1933年以後は21パーセント
- [56]東京電気に対するGE社の持株は昭和年代に入って減少
- [57]東京電気の芝浦製作所株保有 1916年下期に763株を初取得 1935年に10パーセント余 1936年に24パーセント
- [58]芝浦製作所による東京電気株式の保有 1922年以来
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第2章「株式会社芝浦製作所」
- [55]三井 1893年以来の芝浦製作所の管理と 昭和年代に一時69パーセントの株式保有
合併を推し進めたのは、東京電気社長の山口喜三郎氏であった。山口喜三郎氏は、重電の芝浦製作所と弱電の東京電気を結び付けて、日本におけるゼネラル・エレクトリックと呼ぶべき総合電機メーカーを作ることに理想を燃やしていた。1935年、東京電気は芝浦製作所株式の10.6パーセント・3万2000株を取得し、山口喜三郎氏が芝浦製作所の取締役に就任した。1937年には平田篤次郎氏の辞任で取締役会長を兼ね、両社の合併はほぼ確定的となった。1938年12月13日、合併契約書が取り交わされた。認可申請書は、研究機関の統合と工業所有権の相互利用を合理化の理由に挙げた。生産財の強電と消費財の弱電を併せ持てば、不況への抵抗力が生まれるという期待もあった。7年の無配を味わった芝浦製作所にとって、その期待は理屈ではなく実感だっただろう。
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章「東京電気と芝浦製作所の合併」
- [59]合併の推進力 東京電気社長 山口喜三郎
- [60]山口喜三郎の構想 重電の芝浦製作所と弱電の東京電気を結び「日本におけるGE」というべき一大総合電機メーカを実現する
- [61]1935年 東京電気が芝浦製作所株式の10.6パーセント・3万2000株を取得 山口喜三郎が芝浦製作所取締役に就任
- [62]1937年 平田篤次郎の会長辞任を受け山口喜三郎が芝浦製作所取締役会長を兼任
- [63]1938年12月13日 東京電気と芝浦製作所の合併契約書を締結
- 東京電気・芝浦製作所 合併認可申請書(1938年)※東京芝浦電気株式会社八十五年史 第1編第3章 所収
- [64]合併認可申請書の理由 研究機関の総合強化・営業所組織の単一化・工業所有権の相互無償使用・原材料の一括買付
- [65]合併への期待 生産財の強電と消費財の弱電の併有による不況抵抗力の強化
参考文献[47]-[65]
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章「東京電気と芝浦製作所の合併」
- [47]東京電気と芝浦製作所の合併案 1939年の合併の30年前にあたる明治末年に浮上
- [48]1905年 東京電気がGEと提携調印/1909年11月 芝浦製作所がGEと提携
- [52]合併交渉の中止後も東京電気と芝浦製作所の関係はいっそう密接になった
- [53]両社を合併に導いた直接の要因の第一 資本系統の関連
- [54]芝浦製作所に対するGE社の持株 1909年11月の提携以来25〜32パーセント 1933年以後は21パーセント
- [56]東京電気に対するGE社の持株は昭和年代に入って減少
- [57]東京電気の芝浦製作所株保有 1916年下期に763株を初取得 1935年に10パーセント余 1936年に24パーセント
- [58]芝浦製作所による東京電気株式の保有 1922年以来
- [59]合併の推進力 東京電気社長 山口喜三郎
- [60]山口喜三郎の構想 重電の芝浦製作所と弱電の東京電気を結び「日本におけるGE」というべき一大総合電機メーカを実現する
- [61]1935年 東京電気が芝浦製作所株式の10.6パーセント・3万2000株を取得 山口喜三郎が芝浦製作所取締役に就任
- [62]1937年 平田篤次郎の会長辞任を受け山口喜三郎が芝浦製作所取締役会長を兼任
- [63]1938年12月13日 東京電気と芝浦製作所の合併契約書を締結
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章 所収 東京電気第22回営業報告書(1908年12月〜1909年5月)
- [49]1908年末 GE外国部長ウダンの来日を機に合併の議が起こり契約書の立案に至る
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章 所収 東京電気第23回営業報告書(1909年6月〜11月)
- [50]三井物産が条項の再協議を希望し 1909年末に合併交渉が中止
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章 所収 東京電気第24回営業報告書(1909年12月〜1910年5月)
- [51]合併中止後 芝浦製作所の増資株式4000株を東京電気株主から募集 1910年5月30日に満株
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第2章「株式会社芝浦製作所」
- [55]三井 1893年以来の芝浦製作所の管理と 昭和年代に一時69パーセントの株式保有
- 東京電気・芝浦製作所 合併認可申請書(1938年)※東京芝浦電気株式会社八十五年史 第1編第3章 所収
- [64]合併認可申請書の理由 研究機関の総合強化・営業所組織の単一化・工業所有権の相互無償使用・原材料の一括買付
- [65]合併への期待 生産財の強電と消費財の弱電の併有による不況抵抗力の強化
筆者考察
東芝の始まりが二つあったことは、のちに総合電機と呼ばれる姿をあらかじめ決めていた。田中久重氏の工場は電信機から発電機・電動機・変圧器へ進み、官営工場や電力会社へ一台ごとの仕様で納める重電の会社になった。藤岡市助氏の白熱舎は、輸入品が占めていた電球を一つひとつ安く大量に作る弱電の会社になった。売る相手も、要る設備も、一品あたりの値段の桁も違う。この二つが同じ会社になるのに、事業の論理はほとんど働いていない。両社を近づけたのは製品ではなく、ゼネラル・エレクトリックと三井という共通の株主であり、そこから送り込まれた兼任の役員であった。強電と弱電を一社で持つという発想は、後から理由として整えられたものである。
資本の距離が縮まるのに30年かかったのは、合併を決めるのが当事者だけではなかったからである。1908年の最初の合併案は、両社とも賛成していながら、三井物産が条項に注文を付けたところで止まった。ゼネラル・エレクトリックと三井という二つの資本が両社にまたがっている限り、どちらかが動かなければ話は進まない。事態が変わったのは、東京電気が芝浦製作所の株式を10.6パーセントから24パーセントへ買い増し、山口喜三郎氏が相手方の会長席に座った1937年である。合併は交渉でまとまったのではなく、株式と役員席を押さえた東京電気が、最後に形式を整えた。1938年12月の契約書が芝浦製作所を存続会社としたのは、その形式にすぎない。
- 東京電気は1916年下期に芝浦製作所株763株を初めて取得した。
- 出所は東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)。
出典・参考
9件
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- 東京電気・芝浦製作所 合併認可申請書(1938年)※東京芝浦電気株式会社八十五年史 第1編第3章 所収
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第2章「株式会社芝浦製作所」
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章「東京電気と芝浦製作所の合併」
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章 所収 東京電気第22回営業報告書(1908年12月〜1909年5月)
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章 所収 東京電気第23回営業報告書(1909年6月〜11月)
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章 所収 東京電気第24回営業報告書(1909年12月〜1910年5月)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
- 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」