東芝:東京電気との合併による東京芝浦電気の発足と土光敏夫の権限委譲
1939年〜合併による総合電機の成立と戦時下の膨張
強電を担う芝浦製作所と、弱電を担う東京電気は、資本と技術の提携を重ねたのち、1939年9月に合併して東京芝浦電気株式会社となった。合併時の資本金は9417万5000円で、うち6417万5000円は合併に際して新たに増加したものである。東京電気が保有していた芝浦製作所株式14万3500株は償却され、資本金は8700万円となった。発電から重電機器、通信機、家庭電器、電球・真空管までを一社で手がける総合電機メーカーが生まれ、強電と弱電の両部門を兼ね備えた一大電機メーカーとして国内に並ぶものがなくなった。電気を消費する照明・家電が売れれば電気が不足して発電機の注文が増え、電気が余れば再び照明・家電が売れるという循環が、総合経営の狙いとして社内で語られた。
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [1]1939年9月 芝浦製作所と東京電気が合併し東京芝浦電気が発足
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
- [2]合併時の資本金 9417万5000円
- [4]合併後の事業範囲 発電・重電機器・通信機・家庭電器・電球・真空管
- [5]合併後の東芝 強電・弱電を兼備した一大電機メーカー
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章「東京電気と芝浦製作所の合併」
- [3]合併契約 芝浦製作所が資本金6417万5000円を新規に増加/東京電気保有の芝浦製作所株14万3500株を償却し資本金8700万円
- 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
- [6]総合経営の狙い 電気を消費する製品と電気を作る機器の需要循環
合併の形は、対等の精神で行なわれながら、書面の上では芝浦製作所が東京電気を吸収するものであった。契約書の第1条は芝浦製作所を存続させ東京電気を解散すると定めたが、これは第三会社を設立して2社を解散させる法律上の煩わしさを避けるための便宜であった。存続会社となった芝浦製作所は1939年5月31日の株主総会で定款を改め、社名を東京芝浦電気株式会社とした。株式の割当ては合併論が起こる前の6か月間の株価平均を基準に、東京電気1に対し芝浦製作所0.88と定まり、東京電気の全額払込済株式100株へ芝浦製作所株113株が交付された。規模でいえば東京電気のほうが大きく、合併直前の資本金は東京電気5950万円に対し芝浦製作所3000万円、従業員は1万2408人に対し1万532人であった。存続したのは小さいほうの会社である。
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章「東京電気と芝浦製作所の合併」
- [7]東京電気と芝浦製作所の合併は対等合併の精神で行なわれ 形式上は芝浦製作所が東京電気を合併
- [8]合併契約書第1条 芝浦製作所を存続し東京電気を解散 第三会社設立による法律上の煩瑣を避けるための便宜的措置
- [9]1939年5月31日 芝浦製作所第70期株主総会で定款を改正し社名を東京芝浦電気とする
- [11]合併直前の両社 資本金は東京電気5950万円・芝浦製作所3000万円 従業員は東京電気1万2408人・芝浦製作所1万532人
- 東洋経済新報 第1853号(1939年2月21日)
- [10]合併比率 合併論の起こる前6か月間の株価平均により東京電気1対芝浦製作所0.88/東京電気株100株に芝浦製作所株113株を交付
1941年10月に東邦鋼業、1942年10月に芝浦マツダ工業と日本医療電気、1943年7月に東京電気と東洋耐火煉瓦と、合併後の東京芝浦電気は軍需の広がりに合わせて相次いで他社を取り込んだ。こうして強電・弱電機器の枠を越え、製鋼・特殊合金・耐火物などの素材部門、乾電池などの電気化学工業、さらには薬品類までが事業に加わった。1945年4月には資本金が6億2200万円となり、戦時の東芝は全国に65を超える工場を構える最大の電気機器製作会社であった。柳町工場や小向工場では通信機製品の生産を拡充し、家庭電器製品の品目も広げた。合併の狙いであった強電と弱電の組み合わせは、平時の需要の循環ではなく、軍需という一つの需要先によって先に実現した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
- [12]1941年10月 東邦鋼業を吸収/1942年10月 芝浦マツダ工業・日本医療電気を吸収
- [14]合併後の軍需拡大に応じた事業拡張
- [15]事業範囲 製鋼・特殊合金・耐火物・電気化学工業・薬品類
- [16]1945年4月 資本金6億2200万円
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [13]1943年7月 東京電気・東洋耐火煉瓦を吸収
- [18]柳町工場・小向工場での通信機製品の拡充
- 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
- [17]戦争中 全国65超の工場を持つ最大の電気機器製作会社
参考文献[1]-[18]
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [1]1939年9月 芝浦製作所と東京電気が合併し東京芝浦電気が発足
- [13]1943年7月 東京電気・東洋耐火煉瓦を吸収
- [18]柳町工場・小向工場での通信機製品の拡充
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
- [2]合併時の資本金 9417万5000円
- [4]合併後の事業範囲 発電・重電機器・通信機・家庭電器・電球・真空管
- [5]合併後の東芝 強電・弱電を兼備した一大電機メーカー
- [12]1941年10月 東邦鋼業を吸収/1942年10月 芝浦マツダ工業・日本医療電気を吸収
- [14]合併後の軍需拡大に応じた事業拡張
- [15]事業範囲 製鋼・特殊合金・耐火物・電気化学工業・薬品類
- [16]1945年4月 資本金6億2200万円
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章「東京電気と芝浦製作所の合併」
- [3]合併契約 芝浦製作所が資本金6417万5000円を新規に増加/東京電気保有の芝浦製作所株14万3500株を償却し資本金8700万円
- [7]東京電気と芝浦製作所の合併は対等合併の精神で行なわれ 形式上は芝浦製作所が東京電気を合併
- [8]合併契約書第1条 芝浦製作所を存続し東京電気を解散 第三会社設立による法律上の煩瑣を避けるための便宜的措置
- [9]1939年5月31日 芝浦製作所第70期株主総会で定款を改正し社名を東京芝浦電気とする
- [11]合併直前の両社 資本金は東京電気5950万円・芝浦製作所3000万円 従業員は東京電気1万2408人・芝浦製作所1万532人
- 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
- [6]総合経営の狙い 電気を消費する製品と電気を作る機器の需要循環
- [17]戦争中 全国65超の工場を持つ最大の電気機器製作会社
- 東洋経済新報 第1853号(1939年2月21日)
- [10]合併比率 合併論の起こる前6か月間の株価平均により東京電気1対芝浦製作所0.88/東京電気株100株に芝浦製作所株113株を交付
1950年〜財閥解体による3分の1への縮小と高度成長への復帰
1950年2月、東芝は企業再建整備計画にもとづく大がかりな再編を迫られた。それまでに敗戦で膨らんだ事業構成は一転して縮み、戦火で焼けた工場や疎開先の工場の一部を閉じて、41工場・2研究所となっていた。15工場・1研究所は切り出され、東京電気器具を含む第二会社14社となった。ほかに10工場を売り、1工場を閉じたうえで、東芝は17工場・1研究所をもって新たに出発した。財閥解体と企業再建整備、持株会社の制限という一連の制約により、会社の規模は約3分の1へ縮小した。再建にも法律の制約が重く、東芝の立ち後れはこのときに始まった。
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [19]1950年2月 企業再建整備計画に基づく再編
- [21]15工場・1研究所を切り出し 東京電気器具を含む第二会社14社を設立
- [22]10工場を売却 1工場を閉鎖 17工場・1研究所で新発足
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
- [20]戦災焼失・疎開工場の一部廃止後 41工場・2研究所
- 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
- [23]財閥解体・企業再建整備・持株会社制限による規模の約3分の1への縮小
- [24]再建に対する法律上の制約と東芝の立ち後れ
1949年4月、石坂泰三氏が社長に就任した。労働攻勢の代表的な標的とされて数次のストライキが起きていた東芝は、石坂泰三氏(社長)のもとで労使の協調を得て、生産設備の増強と新製品の開発によって回復に向かった。重電では、1950年4月に東芝車輛を合併して鉄道車両を、1955年11月に電業社原動機製造所を合併して水車を、1961年11月に石川島芝浦タービンを合併して蒸気タービンを取り込み、発電設備メーカーとしての厚みを増した。1955年2月には資本金が60億円となり、本社・8営業所・15工場・2研究所に従業員2万5000人を擁した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
- [25]1949年4月 石坂泰三が社長に就任
- [26]労働攻勢の代表的な標的 数次のストライキの発生
- [27]石坂泰三社長のもとでの労使協調と生産設備の増強・新製品開発による回復
- [30]1955年2月 資本金60億円
- [31]1955年時点の体制 本社・8営業所・15工場・2研究所 従業員2万5000人
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [28]1950年4月 東芝車輛を合併/1955年11月 電業社原動機製造所を合併
- [29]1961年11月 石川島芝浦タービンを合併し蒸気タービンを取り込み
戦後10年を経た1955年の売上高は339億円だった。1960年には1539億円へ伸び、その内訳は家電製品が54パーセント、重電製品が34パーセント、残る12パーセントに電波機器・通信機器・医療機のほか半導体やコンピューターが含まれていた。1970年の売上高は6001億円に達し、家電グループが48パーセント、重電グループが34パーセント、産業用エレクトロニクス・グループが18パーセントを占めた。15年で売上高は17倍を超え、家電が全社売上の半分を割る一方、電子部門が2割に迫った。会社所得の番付で第1位となった年度も数回あり、総合経営はこの時期に成果を上げた。
- 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
- [32]1955年 売上高339億円
- [33]1960年 売上高1539億円
- [34]1960年の売上構成 家電54%・重電34%・その他12%
- [36]1970年の売上構成 家電48%・重電34%・産業用エレクトロニクス18%
- [37]1955年から1970年で売上高17倍超
- [38]会社所得の番付で第1位となった年度が数回
- 会社年鑑(1967年版・1976年版)半期合算
- [35]1971年3月期(1970年度)売上高6001億円(単体)
参考文献[19]-[38]
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- [19]1950年2月 企業再建整備計画に基づく再編
- [21]15工場・1研究所を切り出し 東京電気器具を含む第二会社14社を設立
- [22]10工場を売却 1工場を閉鎖 17工場・1研究所で新発足
- [28]1950年4月 東芝車輛を合併/1955年11月 電業社原動機製造所を合併
- [29]1961年11月 石川島芝浦タービンを合併し蒸気タービンを取り込み
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
- [20]戦災焼失・疎開工場の一部廃止後 41工場・2研究所
- [25]1949年4月 石坂泰三が社長に就任
- [26]労働攻勢の代表的な標的 数次のストライキの発生
- [27]石坂泰三社長のもとでの労使協調と生産設備の増強・新製品開発による回復
- [30]1955年2月 資本金60億円
- [31]1955年時点の体制 本社・8営業所・15工場・2研究所 従業員2万5000人
- 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
- [23]財閥解体・企業再建整備・持株会社制限による規模の約3分の1への縮小
- [24]再建に対する法律上の制約と東芝の立ち後れ
- [32]1955年 売上高339億円
- [33]1960年 売上高1539億円
- [34]1960年の売上構成 家電54%・重電34%・その他12%
- [36]1970年の売上構成 家電48%・重電34%・産業用エレクトロニクス18%
- [37]1955年から1970年で売上高17倍超
- [38]会社所得の番付で第1位となった年度が数回
- 会社年鑑(1967年版・1976年版)半期合算
- [35]1971年3月期(1970年度)売上高6001億円(単体)
1965年〜土光敏夫の全面的な権限委譲と、日立に開いた蓄積の差
1965年5月、土光敏夫氏が東京芝浦電気の社長に就任した。石川島播磨重工業で14年半社長を務め、1964年11月にその職を田口連三氏へ渡したばかりの人物を、東京芝浦電気会長の石坂泰三氏が懇請したものである。前任の岩下文雄氏と石坂泰三氏の話し合いが煮つまらないうちに人事は新聞へ出ており、土光敏夫氏には正式な要請から内定まで一週間しかなかった。与えられた責務は、減配が続く東芝の立て直しであった。1965年3月期の当期利益は74億円で、1963年3月期の194億円から半分以下へ減少していた。戦後の混乱期を除けば創業以来最大の危機と呼ばれた局面で、資本金も従業員数も石川島の3倍ある会社を引き受けたことになる。
- 私の履歴書 経済人20(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
- [39]1965年5月 石坂泰三(当時 東京芝浦電気会長)の懇請を受けて東京芝浦電気社長に就任
- [40]石川島播磨重工業で14年半社長を務め1964年11月に田口連三へ社長を引き継ぎ
- [41]前任の岩下文雄社長と石坂泰三の話し合いが煮つまる前に人事が新聞に出た 正式要請から内定まで一週間
- [42]就任時に与えられた責務は減配が続いていた東芝の立て直し
- [45]東芝は資本金・従業員数とも石川島の3倍程度の規模
- 会社年鑑(1967年版)半期合算
- [43]1965年3月期 当期利益74億円(1963年3月期は194億円)
- 日経ビジネス 1972年6月12日号
- [44]1965年不況 戦後の混乱期を除き東芝が創業以来最大の危機を迎えたとされた時期
土光敏夫氏がまず着手したのは、製品や設備ではなく組織を動かす人の側であった。自己申告制度と社内公募制度を設け、4年間で1600人以上を配置転換した。部課長1800人を集め、1967年度を起点とする長期経営計画を打ち出してもいる。自らの考えは毎月"トップ指針抄"の形で社内報に載せ、社員には3倍、重役には10倍働くよう呼びかけたうえで、自身も受注活動に飛び回った。生産の現場では合理化を徹底して進めた。売上高は1966年3月期の2213億円から1971年3月期には6001億円まで伸び、長期経営計画に掲げた売上目標は予定より2年早い1969年に達成された。沈滞していた社内に新しい空気が入り、東芝は一時的に持ち直したようにみえた。
- 私の履歴書 経済人20(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
- [46]就任後ただちに各事業部へ100パーセント権限を委譲する方策
- [47]自己申告・社内公募の制度を設け4年間で1600人以上が異動
- [48]1800人の部課長を集めて1967年度からの長期経営計画を発表
- [49]毎月「トップ指針抄」を社内報に掲載
- [53]長期経営計画の売上高目標を2年前倒しの1969年に達成
- 日経ビジネス 1972年6月12日号
- [50]チャレンジ経営 社員は3倍働け重役は10倍働けと呼びかけ自ら受注活動に従事
- [51]生産面での徹底した合理化の推進
- [54]土光体制で東芝は一度は立ち直ったかにみえた
- 会社年鑑(1967年版・1976年版)半期合算
- [52]1966年3月期 売上高2213億円/1971年3月期 売上高6001億円(単体)
収益は1970年度から急激に悪くなった。1971年度の利益78億円は、1969年度のピーク200億円のほぼ3分の1にすぎず、土光敏夫氏の就任直前にあたる1965年3月期の74億円に近い額まで落ちていた。利益という考え方が社内に定着したのは、この不況をくぐってからである。合理化は生産の現場が中心で、資材費や外注費にまで手が届くには6年かかった。先行投資を優先する姿勢はその間も続き、ルームクーラーや電子レンジの設備投資が投資効率の足を引っ張った。1966年度からの6年間の内部留保は東芝1539億円、日立製作所2494億円で、差は955億円に達し、外国人持株比率は1970年3月末の19.9パーセントから1972年3月末に14.5パーセントへ下がった。権限を配っても、稼いだものを社内に残す仕組みまでは届かなかった。
- 日経ビジネス 1972年6月12日号
- [55]1970年度からの急激な収益低下
- [56]1971年度 利益78億円(ピークの1969年度は200億円)
- [58]岩田弐夫(管理部門担当副社長)の認識 この不況でやっと利益観念が定着した
- [59]合理化の対象 当初は生産段階中心 のちに資材購入コスト・外注コストと責任体制へ
- [60]先行投資優先の行動 ルームクーラー設備・電子レンジ設備への投資による投資効率の悪化と安値受注
- [61]1966〜1971年度の内部留保 東芝1539億円・日立製作所2494億円 差955億円
- [62]外国人持株比率 1970年3月末19.9パーセント→1972年3月末14.5パーセント
- 会社年鑑(1967年版)半期合算
- [57]1965年3月期 当期利益74億円
参考文献[39]-[62]
- 私の履歴書 経済人20(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
- [39]1965年5月 石坂泰三(当時 東京芝浦電気会長)の懇請を受けて東京芝浦電気社長に就任
- [40]石川島播磨重工業で14年半社長を務め1964年11月に田口連三へ社長を引き継ぎ
- [41]前任の岩下文雄社長と石坂泰三の話し合いが煮つまる前に人事が新聞に出た 正式要請から内定まで一週間
- [42]就任時に与えられた責務は減配が続いていた東芝の立て直し
- [45]東芝は資本金・従業員数とも石川島の3倍程度の規模
- [46]就任後ただちに各事業部へ100パーセント権限を委譲する方策
- [47]自己申告・社内公募の制度を設け4年間で1600人以上が異動
- [48]1800人の部課長を集めて1967年度からの長期経営計画を発表
- [49]毎月「トップ指針抄」を社内報に掲載
- [53]長期経営計画の売上高目標を2年前倒しの1969年に達成
- 会社年鑑(1967年版)半期合算
- [43]1965年3月期 当期利益74億円(1963年3月期は194億円)
- [57]1965年3月期 当期利益74億円
- 日経ビジネス 1972年6月12日号
- [44]1965年不況 戦後の混乱期を除き東芝が創業以来最大の危機を迎えたとされた時期
- [50]チャレンジ経営 社員は3倍働け重役は10倍働けと呼びかけ自ら受注活動に従事
- [51]生産面での徹底した合理化の推進
- [54]土光体制で東芝は一度は立ち直ったかにみえた
- [55]1970年度からの急激な収益低下
- [56]1971年度 利益78億円(ピークの1969年度は200億円)
- [58]岩田弐夫(管理部門担当副社長)の認識 この不況でやっと利益観念が定着した
- [59]合理化の対象 当初は生産段階中心 のちに資材購入コスト・外注コストと責任体制へ
- [60]先行投資優先の行動 ルームクーラー設備・電子レンジ設備への投資による投資効率の悪化と安値受注
- [61]1966〜1971年度の内部留保 東芝1539億円・日立製作所2494億円 差955億円
- [62]外国人持株比率 1970年3月末19.9パーセント→1972年3月末14.5パーセント
- 会社年鑑(1967年版・1976年版)半期合算
- [52]1966年3月期 売上高2213億円/1971年3月期 売上高6001億円(単体)
筆者考察
総合電機という構想は、一社で電気の作り手と使い手の両方を持ち、需要の波を打ち消す仕掛けとして考えられた。だが1939年に生まれた東京芝浦電気がその仕掛けを最初に使ったのは、平時の循環ではなく軍需であった。東邦鋼業から東洋耐火煉瓦まで吸収して製鋼も耐火物も薬品も抱え、全国65を超える工場を持つ最大の電気機器会社になったところで敗戦を迎えた。1950年の企業再建整備では15工場と1研究所を第二会社14社へ切り出し、10工場を売り、1工場を閉じて、会社は3分の1に縮んだ。持株会社の制限と再建整備の手続きが重なり、どこまで縮むかを会社の側で決めることはできなかった。広げた範囲が、そのまま失うものの大きさになった。
縮んだ会社を元へ戻す速さと、戻したあとに何が残るかは別の問題である。1955年に339億円だった売上高は1970年に6001億円へ、15年で17倍を超えた。土光敏夫氏が1965年に持ち込んだのは、各事業部への全面的な権限委譲と、自己申告や社内公募で人を動かす仕掛けであり、それは確かに売上を押し上げた。ところが1971年度の利益は78億円で、就任直前の74億円とほとんど変わらない。同じ6年間の内部留保は日立製作所の2494億円に対し1539億円。決める権限は現場へ渡っても、決めた投資が利益として戻るかどうかを問う規律は、まだ社内のどこにも置かれていなかった。
- 単独決算。1964年度は土光敏夫が社長に就任する直前の期にあたる。
- 出所は日経ビジネス 1972年6月12日号「東京芝浦電気。失われた"株式会社への復元力"」。
1939年〜1972年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 430 | n/a | 48 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 625 | +45.3% | 86 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 858 | +37.3% | n/a | n/a | 73 | 8.5% | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 1,152 | +34.3% | n/a | n/a | 114 | 9.9% | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 1,539 | +33.6% | n/a | n/a | 144 | 9.4% | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 2,023 | +31.4% | n/a | n/a | 177 | 8.7% | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 2,366 | +17.0% | n/a | n/a | 194 | 8.2% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 2,413 | +2.0% | n/a | n/a | 134 | 5.6% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 2,313 | ▲4.1% | n/a | n/a | 74 | 3.2% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 2,213 | ▲4.3% | n/a | n/a | 15 | 0.7% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 2,583 | +16.7% | n/a | n/a | 53 | 2.1% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 3,334 | +29.1% | n/a | n/a | 109 | 3.3% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 4,331 | +29.9% | n/a | n/a | 162 | 3.7% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 5,502 | +27.0% | n/a | n/a | 200 | 3.6% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 6,001 | +9.1% | n/a | 144 | 113 | 1.9% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 6,151 | +2.5% | n/a | 101 | 78 | 1.3% | n/a |
出所:上場会社総覧(1959年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算
出典・参考
9件
- 東芝 有価証券報告書【沿革】
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気、1963年)第1編第3章「東京電気と芝浦製作所の合併」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
- 会社年鑑(1967年版・1976年版)半期合算
- 会社年鑑(1967年版)半期合算
- 東洋経済新報 第1853号(1939年2月21日)
- 日経ビジネス 1972年6月12日号
- 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
- 私の履歴書 経済人20(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」