田中久重
経歴1873〜1881年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1873年主要役職の状況(推定含む目安)1881年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 田中工場(のち田中製造所・芝浦製作所。現・東芝) | 1875 | 設立 | ||
| 1881 | 死去 | ||||
| 官公庁 | 工部省電信寮 | 1873 | — |
社長就任までの出自
出自
1799年、九州久留米のべっこう屋田中弥右衛門氏の長男に生まれ、幼名を儀右衛門といった。15歳のとき、久留米絣の創始者として知られる井上伝氏のために、模様を織り出す仕掛けを考案した。21歳のときには久留米五穀神社の祭礼で水の力で動く人形の仕掛けを披露して評判をとり、「からくり儀右衛門」の名が郷里に広まった。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
田中久重氏は郷里を出て京阪に移り、懐中燭台や無尽灯などの照明器具、雲竜水と呼ぶ消火器を発明した。京都では「機巧堂」を構え、1850年に仕上げた万年自鳴鐘は、時刻に加えて太陽の運行や月の満ち欠け、潮の干満まで示す和時計として名声を得た。
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気, 1963)芝浦製作所 第1節 創業時代「初代田中久重のこと」
- [4]その後京阪地方に移り、懐中電灯・わずみ灯・無尽灯などの照明器や雲竜水という消火器を発明した
- 東芝百年史(東京芝浦電気, 1977)第1編第1章第1節 田中久重の創業/芝浦製作所六十五年史(芝浦製作所, 1940)久重翁小伝「萬年自鳴鐘」
- [5]長じては京都にあって「機巧堂」を経営、万年自鳴鐘(和時計)などの傑作で名声を博した。嘉永三年に製作した万年自鳴鐘は太陽の運行、太陰の盈蝕、潮汐の干満まで表明する
1853年、佐賀藩主の鍋島直正氏に招かれて佐賀へ移り、大砲などの新式兵器の製造を担った。1862年には佐賀藩の汽船電流丸の汽罐を、1865年には汽船凌風丸を手がけ、その後は郷里の久留米藩で兵器や機械の製造に携わった。
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気, 1963)芝浦製作所 第1節 創業時代「初代田中久重のこと」
- [6]嘉永6年(1853)佐賀の藩主鍋島直正(閑叟)に招かれて佐賀へ行き、大砲その他新式兵器の製造にあたった。文久2年(1862)佐賀藩の汽船電流丸の汽罐、慶応元年(1865)汽船凌風丸を造った。のち久留米藩の兵器その他機械類の製造に従事した
- [7]嘉永6年(1853)佐賀の藩主鍋島直正(閑叟)に招かれて佐賀へ行き、大砲その他新式兵器の製造にあたった。文久2年(1862)佐賀藩の汽船電流丸の汽罐、慶応元年(1865)汽船凌風丸を造った。のち久留米藩の兵器その他機械類の製造に従事した
明治政府は1869年に東京と横浜の間に電信線を架けて通信事業を始め、1871年以降はモールス電信機を採用したが、電信機も付属の機械もすべて輸入に依存していた。工部省はこれを不便とし、1873年に電信寮に製機掛を設けて田中久重氏を招き、田中久重氏は75歳で久留米から上京した。最初は麻布今井町の寺に仮住まいしてヘンリ電信機10台を試作し、続いて芝西久保神谷町に移ってモールス電信機50台を納めた。
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気, 1963)芝浦製作所 第1節 創業時代
- [8]明治2年(1869)明治新政府は東京―横浜間に電信線を架設し通信事業を開始。明治4年以後はもっぱらモールス電信機を使用したが、電信機と付属機械はすべて輸入にたよった。工部省はこれを不便とし、明治6年電信寮に製機掛を置き、田中久重は工部省の招きによって久留米から上京した。東京に出た時は75歳
- [9]明治2年(1869)明治新政府は東京―横浜間に電信線を架設し通信事業を開始。明治4年以後はもっぱらモールス電信機を使用したが、電信機と付属機械はすべて輸入にたよった。工部省はこれを不便とし、明治6年電信寮に製機掛を置き、田中久重は工部省の招きによって久留米から上京した。東京に出た時は75歳
- [10]最初は麻布今井町の大泉寺に間借りし、工部省の注文に応じてヘンリ電信機10台の試作に成功、つづいて芝西久保神谷町に移りモールス電信機50台を製作した
官の受注で見通しが立ったことから、1875年7月、東京新橋南金六町に店舗と工場を開設した。れんが造り2階建てで店舗と住まいを合わせて約80平方メートル、働き手は数名という規模で、店先には「万般の機械考案の依頼に応ず」と書いた看板を掲げた。東芝はこの日本最初の電信機工場を自社の発祥と位置づけている。工場は工部省の指定工場となったが、1878年に工部省が電信機を直営で作り始めると、電信機以外の一般機械や通信機へ品目を移した。工部省の電信機修理工場は門弟の田中精助氏が監督し、1874年には養子の大吉氏も汐留の電信寮製機所に招かれており、田中一門が草創期の電信機製作を担った。この製機所からは、のちに白熱舎の初代社長となる三吉正一氏ら、電機事業の先駆者が多く出た。
- 東芝百年史(東京芝浦電気, 1977)第1編第1章第1節 田中久重の創業
- [11]将来の見込みも立ち、明治8年(1875)7月、東京新橋南金六町9番地に店舗と工場を設けた。日本最初の電信機工場で、東京芝浦電気株式会社の発祥。れんが造り2階建てで店舗・工場・住宅を合わせて約80m2(25坪)、働く者は数名。店頭に「万般の機械考案の依頼に応ず」と大書した看板を掲げた
- [12]将来の見込みも立ち、明治8年(1875)7月、東京新橋南金六町9番地に店舗と工場を設けた。日本最初の電信機工場で、東京芝浦電気株式会社の発祥。れんが造り2階建てで店舗・工場・住宅を合わせて約80m2(25坪)、働く者は数名。店頭に「万般の機械考案の依頼に応ず」と大書した看板を掲げた
- [13]将来の見込みも立ち、明治8年(1875)7月、東京新橋南金六町9番地に店舗と工場を設けた。日本最初の電信機工場で、東京芝浦電気株式会社の発祥。れんが造り2階建てで店舗・工場・住宅を合わせて約80m2(25坪)、働く者は数名。店頭に「万般の機械考案の依頼に応ず」と大書した看板を掲げた
- [14]田中久重の創始した田中工場は工部省の指定工場となり事業は隆盛におもむいたが、明治11年工部省が電信機製造の直営を開始するに及んで、電信機以外の一般機械・通信機類を製作することとなった
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気, 1963)芝浦製作所 第1節 創業時代/東芝百年史(東京芝浦電気, 1977)第1編第1章第1節
- [15]当時、赤坂葵町に電信寮電信機修理工場があり、田中久重の門弟田中精助がその監督を勤めていた。明治7年(1874)には養子大吉(2代田中久重)が汐留の工部省電信寮製機所に招かれた。田中一門はわが国草創期の電信機械製作に大きな役割をになった。三吉正一(東京電気の前身、白熱舎の初代社長)らもこの電信寮製機所出身の技術者で、電信機・電機事業の先駆者たちがここから多く輩出した
- [16]当時、赤坂葵町に電信寮電信機修理工場があり、田中久重の門弟田中精助がその監督を勤めていた。明治7年(1874)には養子大吉(2代田中久重)が汐留の工部省電信寮製機所に招かれた。田中一門はわが国草創期の電信機械製作に大きな役割をになった。三吉正一(東京電気の前身、白熱舎の初代社長)らもこの電信寮製機所出身の技術者で、電信機・電機事業の先駆者たちがここから多く輩出した
田中久重氏は1881年11月7日、83歳で死去した。養子の大吉氏が2代田中久重を襲名し、電信寮に勤めながら工場を経営した。2代田中久重氏は海軍の水雷製造を引き受けるために官を辞し、1882年11月に芝浦へ大工場を建てて田中製造所と称した。工員は約200名で始まり、1887年ごろには680名に達した。だが海軍の発注が減少すると経営が行き詰まり、1893年11月に工場は三井銀行に引き継がれて芝浦製作所となった。1904年に株式会社芝浦製作所として独立し、1939年に東京電気と合併して東京芝浦電気が発足した。田中久重氏が率いたのは個人経営の工場で、会社組織の社長には就任していない。
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気, 1963)芝浦製作所 第1節 創業時代
- [17]初代田中久重は明治14年(1881)11月7日、83歳で永眠。養子大吉が久重を襲名し(2代田中久重)、電信寮に勤めるかたわら工場の経営にあたった
- [18]初代田中久重は明治14年(1881)11月7日、83歳で永眠。養子大吉が久重を襲名し(2代田中久重)、電信寮に勤めるかたわら工場の経営にあたった
- 東芝百年史(東京芝浦電気, 1977)第1編第1章第1節 田中久重の創業
- [19]海軍で水雷国防が唱えられ水雷の製造が田中工場に任されることとなり、2代田中久重は工部省を辞し、芝浦(芝金杉新浜町)にれんが造りの大工場を建設して移転した。明治15年(1882)11月。工員200名、これを田中製造所と称した。明治20年ごろには工員の数も680名に達した
- [20]海軍で水雷国防が唱えられ水雷の製造が田中工場に任されることとなり、2代田中久重は工部省を辞し、芝浦(芝金杉新浜町)にれんが造りの大工場を建設して移転した。明治15年(1882)11月。工員200名、これを田中製造所と称した。明治20年ごろには工員の数も680名に達した
- 東芝百年史(東京芝浦電気, 1977)第1編第1章第1節〜第2節
- [21]海軍の指名入札が競争入札に変わり注文が減少、横須賀海軍造兵廠の完成で民間発注が激減して経営が困難となり、2代田中久重は工場のいっさいを三井銀行に引き継いでもらうことにした。明治26年(1893)11月17日、田中製造所は三井銀行の手にゆだねられ、名称も芝浦製作所と改められた
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気, 1963)芝浦製作所 冒頭
- [22]芝浦製作所の歴史は明治8年に初代田中久重が東京新橋に工場を創設したに始まる。明治26年三井銀行が継承して芝浦製作所と改称、明治37年独立して株式会社芝浦製作所となり、昭和14年東京電気株式会社と合併した
- [23]芝浦製作所の歴史は明治8年に初代田中久重が東京新橋に工場を創設したに始まる。明治26年三井銀行が継承して芝浦製作所と改称、明治37年独立して株式会社芝浦製作所となり、昭和14年東京電気株式会社と合併した
参考文献3件
参考文献
- 東芝百年史(東京芝浦電気, 1977)第1編第1章第1節 田中久重の創業
- 東京芝浦電気株式会社八十五年史(東京芝浦電気, 1963)芝浦製作所 第1節 創業時代
- 芝浦製作所六十五年史(芝浦製作所, 1940)久重翁小伝
事実根拠:出所(東芝)