三菱重工業:長崎造船局の借受による創業と三菱造船の設立
長崎造船所の払下げから三菱造船の分離独立へ
1884年〜海運の修繕を自前で担うための造船所取得
三菱重工業は1884年7月7日を創立日としている。岩崎弥太郎氏が工部省から長崎造船局を借り受け、長崎造船所と命名した日である。その造船所の起源は幕府にさかのぼり、徳川幕府が1857年10月に長崎稲佐郷飽ノ浦で鎔鉄所の建設に着手し、1861年3月に落成させた。1871年4月に明治政府工部省の所管へ移り、長崎造船所と改称されている。岩崎氏が1870年に設立した九十九商会は三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱社と社名を変更して海運で伸びたが、運航する船舶の修繕を英国まで持ち出す不便を抱えていた。借受から3年後の1887年6月、三菱は同造船所を政府から正式に買い受けた。
- 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1884年7月7日 三菱重工業の創立日
- [2]岩崎弥太郎による工部省からの長崎造船局借受
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
- [3]1857年10月 徳川幕府が長崎稲佐郷飽ノ浦で鎔鉄所建設に着手、1861年3月落成
- [4]1871年4月 明治政府工部省の所管となり長崎造船所と改称
- [7]1887年6月 三菱が長崎造船所の払下げを受ける
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
- [5]1870年 岩崎弥太郎が九十九商会を設立、三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱社と改称
- [6]船舶修繕を英国へ持ち出す不便が造船所取得の動機
1893年7月の商法実施に伴い、三菱社は経営形態を会社組織へ改め、資本金500万円の三菱合資会社を組織した。鉱山・造船所・土地家屋・各支店の財産と業務は一切が新会社へ譲渡され、造船所はその傘下で三菱合資三菱造船所となった。国内各社が外国航路を開設して外航船舶の需要が増え、日清・日露の両戦争を機に海軍艦艇の建造も相次いだ。設備の拡充は造船所の増設に及び、1905年7月に神戸三菱造船所、1914年12月に彦島三菱造船所が開設されている。1917年3月には長崎兵器製作所も設けられた。これら三造船所と兵器製作所が三菱合資の造船部を構成し、長崎・神戸・彦島という三拠点の配置が固まった。
- 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
- [8]1893年7月 商法の実施に伴い資本金500万円で三菱合資会社を組織し、鉱山・造船所ほかの財産と業務一切を譲渡
- [9]三菱社所属の鉱山・造船所・土地家屋・各支店の財産と業務一切を三菱合資会社へ譲渡し、造船所は三菱合資三菱造船所となった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
- [10]外国航路開設による外航船需要増と、日清・日露戦争を機とした海軍艦艇建造
- [11]1905年7月 神戸三菱造船所開設、1914年12月 彦島三菱造船所開設
- [12]1917年3月 長崎兵器製作所開設
- [13]三造船所と長崎兵器製作所が三菱合資の造船部を構成
払下げを受けた当時の長崎造船所は修理が主で、三菱社は直ちに造船工場の新設へ着手した。官営時代の同所には113万円の政府資本が投下されており、45万9,000円での払下げは三菱を最初から同業者間の優位に置いた。1890年に大阪商船の註文で建造した筑後川丸は、我国鋼製汽船の嚆矢であり、主機も国産最初の三聯成機関であった。当時の我国最大の商船となった須磨丸(総屯数1,590屯)は、1894年に始まった日清戦争のさなかに同所で完成した。戦時には船舶が軍隊と軍需品を運ぶために徴発され、力の乏しい国内の造船業は艦艇や御用船の修理だけで手一杯だった。1896年、政府は航海奨励法と造船奨励法を施行した。同所が1898年に完成させた日本郵船の常陸丸は、その大きさが6,172屯に及んだ。1,500屯級までしか手がけたことのなかった造船所が、これで6,000屯級へ一段跳んだことになる。
- 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第一章 三菱創業時代」
- [14]払下げ当時の長崎造船所は修理が主で、直ちに造船工場の新設に着手
- [16]1890年 大阪商船註文の筑後川丸を建造、我国鋼製汽船の嚆矢で主機は国産最初の三聯成機関
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-世界一の土台を築く」
- [15]官営時代に113万円の政府資本が投下された長崎造船所を45万9,000円で払下げ、三菱は最初から同業者間で優位に立った
- 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
- [17]長崎造船所が総屯数1,590屯の須磨丸を建造し、我国最大の商船となった
- [18]日清戦争で船舶が軍隊・軍需品の輸送に徴発され、造船業は艦艇と御用船の修理に追われた
- [19]1896年 航海奨励法・造船奨励法の実施による海運・造船の一貫した保護政策
- [20]1898年 長崎造船所が日本郵船の常陸丸(6,172屯)を建造、1,500屯級から6,000屯級への飛躍
参考文献[1]-[20]
- 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1884年7月7日 三菱重工業の創立日
- [2]岩崎弥太郎による工部省からの長崎造船局借受
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
- [3]1857年10月 徳川幕府が長崎稲佐郷飽ノ浦で鎔鉄所建設に着手、1861年3月落成
- [4]1871年4月 明治政府工部省の所管となり長崎造船所と改称
- [7]1887年6月 三菱が長崎造船所の払下げを受ける
- [10]外国航路開設による外航船需要増と、日清・日露戦争を機とした海軍艦艇建造
- [11]1905年7月 神戸三菱造船所開設、1914年12月 彦島三菱造船所開設
- [12]1917年3月 長崎兵器製作所開設
- [13]三造船所と長崎兵器製作所が三菱合資の造船部を構成
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
- [5]1870年 岩崎弥太郎が九十九商会を設立、三菱商会・郵便汽船三菱会社・三菱社と改称
- [6]船舶修繕を英国へ持ち出す不便が造船所取得の動機
- 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
- [8]1893年7月 商法の実施に伴い資本金500万円で三菱合資会社を組織し、鉱山・造船所ほかの財産と業務一切を譲渡
- [9]三菱社所属の鉱山・造船所・土地家屋・各支店の財産と業務一切を三菱合資会社へ譲渡し、造船所は三菱合資三菱造船所となった
- [17]長崎造船所が総屯数1,590屯の須磨丸を建造し、我国最大の商船となった
- [18]日清戦争で船舶が軍隊・軍需品の輸送に徴発され、造船業は艦艇と御用船の修理に追われた
- [19]1896年 航海奨励法・造船奨励法の実施による海運・造船の一貫した保護政策
- [20]1898年 長崎造船所が日本郵船の常陸丸(6,172屯)を建造、1,500屯級から6,000屯級への飛躍
- 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第一章 三菱創業時代」
- [14]払下げ当時の長崎造船所は修理が主で、直ちに造船工場の新設に着手
- [16]1890年 大阪商船註文の筑後川丸を建造、我国鋼製汽船の嚆矢で主機は国産最初の三聯成機関
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-世界一の土台を築く」
- [15]官営時代に113万円の政府資本が投下された長崎造船所を45万9,000円で払下げ、三菱は最初から同業者間で優位に立った
1899年〜海軍の建艦計画に合わせた設備の先行拡張
当時、近代的な軍艦はほとんど外国から輸入するほかなく、日清戦争を経て、海軍力を増やす必要と、それと裏表の関係にある造船業を保護し育てる必要が強く意識されていた。政府はすでに横須賀を海軍工廠として手元に置き、長崎は岩崎弥太郎に、兵庫は川崎正蔵に払い下げており、民間への建艦の下命はこの配置を前提としていた。こうしたなか、1895年12月に三菱合資会社は海軍大臣西郷従道あてに願書を出し、民間工場にも軍艦の建造を命じるよう求めた。願書は、船渠や各工場の新設・改正にすでに取りかかり、大艦巨舶を新しく造るにも直すにも支障はないと体制を説明したうえで、相当の御用を任されたいと願い出ていた。長崎造船所は1899年に水雷艇を建造して我国民間造船所における軍艦建造の端緒を為し、以後は駆逐艦や巡洋艦へ歩を進めた。海軍の需要は、受注を待つ相手ではなく設備を先に合わせる相手になった。
- 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
- [21]当時の近代化された軍艦は殆どを外国からの輸入に頼っていた
- [22]日清戦争後に海軍力の増強と、表裏一体をなす造船業の保護助長が痛感された
- [24]1895年12月 三菱合資会社が海軍大臣西郷従道へ願書を提出し、軍艦建造の民間工場への下命を要請
- [25]願書は長崎造船所の船渠・各工場の新設改正に着手済みとして相当の御用を求めた
- [26]1899年 長崎造船所が水雷艇を建造、我国民間造船所における軍艦建造の端緒となり、以後駆逐艦・巡洋艦へ進んだ
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-世界一の土台を築く」
- [23]政府は横須賀を海軍工廠として確保し、長崎造船所を岩崎弥太郎へ、兵庫造船所を川崎正蔵へ払い下げた
兵庫ではすでに川崎正蔵が造船所を経営しており、岩崎弥太郎とほぼ同じ時期に海運から造船へ移った競争相手だった。三菱合資会社はその兵庫の和田岬に新しい造船所を設けて造船事業を広げようと、1892年から93年にかけて準備に入ったが、必要な土地を買い終えたのは7年後の1900年だった。難点は和田岬の地質で、乾船渠を築けるかどうかが大いに疑われた。工学博士白石直治の調査では築造は不可能ではないとされたものの、岩崎弥之助監務が最終的に浮船渠を採ると決裁した。浮船渠の工事は工場建設と並んで進み、1905年7月に神戸三菱造船所が営業に入った。はじめは修理船が中心で、小型の補機や電機品をつくり、新船の建造は1907年に砂原に船台を設けてから始まった。
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-世界一の土台を築く」
- [27]川崎造船所の創立者川崎正蔵は岩崎弥太郎と相前後して海運業に従事し、のち造船業へ転じて互いに競争者の立場にあった
- 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
- [28]1892〜93年の交から神戸市和田岬での造船所新設の準備を開始
- [29]1900年 和田岬の所要土地の買収を完了
- [30]乾船渠の築造適否を工学博士白石直治が調査し、岩崎弥之助監務の決裁で浮船渠を採用
- [31]1905年7月 神戸三菱造船所として営業開始
- [32]当初は修理船が主で小型補機・電機品を製作、1907年に砂原へ船台を築造し新船建造に着手
1905年、三菱合資会社は傘下事業の発展に即応して公称資本金を一躍三倍の1,500万円とし、業務組織へ新たに造船部を加えて庶務部・鉱業部・銀行部と併せた4部とした。翌1908年には各部ごとに資本額を定めて独立採算制を採り、造船部の資本額は1,000万円で4部のうち最大の割当を受けている。長崎造船所の業績は増進の一途をたどり、我国造船界のトップを切って二位以下に大きく水をあけていた。同所は海軍当局の指示に基づいて大型戦艦建造のための設備拡張を進め、それが成るに及んで1911年に巡洋戦艦霧島を起工する。排水屯数2万7,500屯の同艦は、同型艦4隻のうち金剛が比較研究のため英国で建造されたなかで、同所の設備・能力・技術が海軍工廠はもちろん先進国と比べて遜色の無いことを証明するものであった。
- 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
- [33]1905年 三菱合資会社が公称資本金を三倍の1,500万円とし、業務組織に造船部を加えて四部とした
- [34]1908年 各部ごとに資本額を定めて独立採算制を採り、造船部の資本額は1,000万円
- [36]長崎造船所が海軍の指示で大型戦艦建造のための設備拡張を行い、1911年に巡洋戦艦霧島を起工
- [37]霧島は排水屯数2万7,500屯で、同型艦金剛は英国建造。長崎造船所の設備・能力・技術が海軍工廠・先進国に遜色ないことを示した
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-世界一の土台を築く」
- [35]三菱の長崎造船所は業績が増進の一途をたどり、わが国造船界のトップを切って二位以下に大きく水をあけた
参考文献[21]-[37]
- 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
- [21]当時の近代化された軍艦は殆どを外国からの輸入に頼っていた
- [22]日清戦争後に海軍力の増強と、表裏一体をなす造船業の保護助長が痛感された
- [24]1895年12月 三菱合資会社が海軍大臣西郷従道へ願書を提出し、軍艦建造の民間工場への下命を要請
- [25]願書は長崎造船所の船渠・各工場の新設改正に着手済みとして相当の御用を求めた
- [26]1899年 長崎造船所が水雷艇を建造、我国民間造船所における軍艦建造の端緒となり、以後駆逐艦・巡洋艦へ進んだ
- [28]1892〜93年の交から神戸市和田岬での造船所新設の準備を開始
- [29]1900年 和田岬の所要土地の買収を完了
- [30]乾船渠の築造適否を工学博士白石直治が調査し、岩崎弥之助監務の決裁で浮船渠を採用
- [31]1905年7月 神戸三菱造船所として営業開始
- [32]当初は修理船が主で小型補機・電機品を製作、1907年に砂原へ船台を築造し新船建造に着手
- [33]1905年 三菱合資会社が公称資本金を三倍の1,500万円とし、業務組織に造船部を加えて四部とした
- [34]1908年 各部ごとに資本額を定めて独立採算制を採り、造船部の資本額は1,000万円
- [36]長崎造船所が海軍の指示で大型戦艦建造のための設備拡張を行い、1911年に巡洋戦艦霧島を起工
- [37]霧島は排水屯数2万7,500屯で、同型艦金剛は英国建造。長崎造船所の設備・能力・技術が海軍工廠・先進国に遜色ないことを示した
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-世界一の土台を築く」
- [23]政府は横須賀を海軍工廠として確保し、長崎造船所を岩崎弥太郎へ、兵庫造船所を川崎正蔵へ払い下げた
- [27]川崎造船所の創立者川崎正蔵は岩崎弥太郎と相前後して海運業に従事し、のち造船業へ転じて互いに競争者の立場にあった
- [35]三菱の長崎造船所は業績が増進の一途をたどり、わが国造船界のトップを切って二位以下に大きく水をあけた
1917年〜三菱造船の分離独立と、軍縮が断った建艦の需要
三菱合資会社は各事業の発展で機構が膨らみ、事業部門を独立させる方針を採った。造船部門は1917年10月、三菱合資会社から造船部所属業務の一切を引き継いで三菱造船株式会社として設立された。資本金は5,000万円、初代会長には岩崎小弥太氏が就任している。所属工場は長崎・神戸・彦島の三造船所と長崎兵器製作所で、長崎造船所は1915年に三菱造船所から改称されたものであった。その4年前の1913年に長崎造船所で進水した2万7,500トンの巡洋戦艦霧島は、民間造船所として初の主力艦建造である。この造艦技術は、のちに6万9,600トンの巨艦武蔵の建造へつながった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
- [38]三菱合資会社が各事業部門を独立させる方針を採用
- [40]三菱造船の資本金 5,000万円
- [41]三菱造船の初代会長 岩崎小弥太
- [42]三菱造船の所属工場は長崎・神戸・彦島の三造船所と長崎兵器製作所
- [43]1915年 三菱造船所を長崎造船所へ改称
- 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
- [39]1917年10月 三菱合資会社から造船部所属業務を引き継ぎ三菱造船を設立
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
- [44]1913年 長崎造船所で2万7,500トンの巡洋戦艦霧島が進水
- [45]民間造船所として初の主力艦建造
- [46]6万9,600トンの戦艦武蔵
戦前の高速客船を代表する日本郵船の浅間丸・竜田丸・秩父丸も同社の建造にかかる。舶用主機の製作から始まった原動機部門は次第に陸用へも進出し、ボイラ・タービンは発電用と産業用で容量と性能を伸ばして国内外の発電所や大工場への納入を重ねた。車両では1917年に乗用車、1923年に日本最初の電気機関車を送り出している。1919年5月には自動車・航空機・内燃機関の製作を主とする神戸内燃機製作所を神戸造船所から分離独立させ、翌1920年5月に三菱内燃機製造として会社へ切り出した。1921年1月には米ウエスチングハウス社との提携を前提に三菱電機を設立し、神戸電機製作所の設備一切を譲渡している。造船で培った素材と機械の技術は陸上の製品群へ横に広がり、その一部は別会社となって出て行った。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
- [47]日本郵船の浅間丸・竜田丸・秩父丸を建造
- [48]舶用主機から陸用への原動機部門の進出
- [49]ボイラ・タービンの発電用・産業用への展開と国内外の発電所・大工場への納入
- [50]1917年 乗用車、1923年 日本最初の電気機関車を開発
- [53]造船由来の技術が陸上製品群へ展開
- 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第三章 三菱造船株式会社時代」
- [51]1919年5月 神戸内燃機製作所を神戸造船所より分離独立、1920年5月 三菱内燃機製造株式会社を設立して設備を譲渡
- [52]1921年1月 米ウエスチングハウス社との提携を前提に三菱電機株式会社を設立し、神戸電機製作所の設備一切を譲渡
1921年にワシントンで開かれた海軍々備制限会議は、米英日の主力艦保有量の比率を5・5・3と決め、八八艦隊建造計画に当たっていた業界へ甚大な影響を与えた。三菱造船は1932年上半期、創立以来初の赤字決算を計上した。発端は、建造中の超弩級艦がすべて工事を止めたことにある。八八艦隊を見込んで1919年に設けた長崎製鋼所も、開設から2年しかたたずに規模を縮め、長崎造船所へ吸収された。造船界はその後も世界貿易の停滞と船腹の余剰に苦しみ、1930年には金解禁とロンドン軍縮会議による補助艦艇の建造制限が重なって、不況は深刻になった。新たに手がけた航空機でも、軍の予算は会社の数に対して小さく、1932年から33年ごろまでは各社とも受注の確保に苦労した。条約が海軍の建艦計画を止めると、その計画に合わせて整えてきた設備は、そのまま過剰となって残った。
- 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第三章 三菱造船株式会社時代」
- [54]1921年 ワシントン海軍々備制限会議で米英日の主力艦保有量比率を5・5・3と決定、八八艦隊建造計画に当たった業界へ甚大な影響
- [55]1932年上半期 三菱造船が創立以来はじめての赤字決算
- [56]建造中の超弩級艦は工事中止となり、1919年5月設立の長崎製鋼所は開設後2年で縮小され長崎造船所へ合併
- [57]造船界は世界貿易の不振と船腹過剰で不況が続き、1930年の金解禁の影響とロンドン軍縮会議の補助艦艇建造制限が重なって再び深刻な不況に陥った
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
- [58]航空機関係は会社数の割に軍の予算が少なく、昭和7〜8年まで各社は注文をとるのに苦心した
参考文献[38]-[58]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
- [38]三菱合資会社が各事業部門を独立させる方針を採用
- [40]三菱造船の資本金 5,000万円
- [41]三菱造船の初代会長 岩崎小弥太
- [42]三菱造船の所属工場は長崎・神戸・彦島の三造船所と長崎兵器製作所
- [43]1915年 三菱造船所を長崎造船所へ改称
- 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
- [39]1917年10月 三菱合資会社から造船部所属業務を引き継ぎ三菱造船を設立
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
- [44]1913年 長崎造船所で2万7,500トンの巡洋戦艦霧島が進水
- [45]民間造船所として初の主力艦建造
- [46]6万9,600トンの戦艦武蔵
- [47]日本郵船の浅間丸・竜田丸・秩父丸を建造
- [48]舶用主機から陸用への原動機部門の進出
- [49]ボイラ・タービンの発電用・産業用への展開と国内外の発電所・大工場への納入
- [50]1917年 乗用車、1923年 日本最初の電気機関車を開発
- [53]造船由来の技術が陸上製品群へ展開
- 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第三章 三菱造船株式会社時代」
- [51]1919年5月 神戸内燃機製作所を神戸造船所より分離独立、1920年5月 三菱内燃機製造株式会社を設立して設備を譲渡
- [52]1921年1月 米ウエスチングハウス社との提携を前提に三菱電機株式会社を設立し、神戸電機製作所の設備一切を譲渡
- [54]1921年 ワシントン海軍々備制限会議で米英日の主力艦保有量比率を5・5・3と決定、八八艦隊建造計画に当たった業界へ甚大な影響
- [55]1932年上半期 三菱造船が創立以来はじめての赤字決算
- [56]建造中の超弩級艦は工事中止となり、1919年5月設立の長崎製鋼所は開設後2年で縮小され長崎造船所へ合併
- [57]造船界は世界貿易の不振と船腹過剰で不況が続き、1930年の金解禁の影響とロンドン軍縮会議の補助艦艇建造制限が重なって再び深刻な不況に陥った
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
- [58]航空機関係は会社数の割に軍の予算が少なく、昭和7〜8年まで各社は注文をとるのに苦心した
筆者考察
三菱が長崎造船所で買ったのは、船を造る場所ではなく、官需の受け皿になれる規模であった。官営時代に113万円を投じた設備を45万9,000円で引き取ったこの造船所は、最初から同業者に対する優位を抱えていたが、その優位を保つには需要の側の都合へ設備を合わせ続けるほかなかった。1895年に海軍大臣へ差し出した願書の骨子は、船渠と工場の新設・改正にすでに着手したという説明と、御用の要請であった。仕事を得てから設備を足すのではなく、設備を持っていることを理由に仕事を求める順序である。和田岬の用地買収に13年、彦島に3年を費やし、1908年には造船部へ4部で最大の1,000万円を割り当てた。
この順序は、需要が続く限りは強い。1911年に起工した排水2万7,500屯の巡洋戦艦霧島は、同型艦の金剛を英国で建造した海軍に対して、民間造船所の技術が工廠にも先進国にも劣らないことを示した。だが需要の側が一枚の条約で消えると、先に持った設備はそのまま行き場を失う。1921年のワシントン会議が主力艦の比率を5・5・3と定めると、建造中の超弩級艦は止まり、八八艦隊のために2年前に建てた長崎製鋼所は開設2年で長崎造船所へ畳まれた。1932年上半期の創立以来はじめての赤字は、設備を先に持つという型が、官需の消滅をそのまま損益へ通す型でもあったことを示している。
- 須磨丸と常陸丸は総屯数、霧島は排水屯数。出所は三菱重工業株式会社史(1956年)第二沿革編。
出典・参考
8件
- 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
- 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第二章 三菱合資会社時代」
- 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第一章 三菱創業時代」
- 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第三章 三菱造船株式会社時代」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「三菱重工業」の項
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-世界一の土台を築く」
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」