第2章 年〜年

三菱重工業:三菱重工の軍需集中と財閥解体による3社分割

三菱航空機の合併から東中西三社への分立へ

1934年〜三菱航空機の合併による軍需生産への一本化

反対を押し切って航空機を合併する

三菱造船と三菱航空機の合併は、三菱合資会社の岩崎小弥太社長の創意に係るものであった。三菱が航空機に入ったのは1920年の発動機、1921年の機体からであった。両社の内部からは、合併後の厖大な機構をどう運営するか、割拠的な相互の調整をどうするかという反対が出た。造船と航空機の合併には、時代に逆らうにもほどがあるという非難が寄せられた。社外の反対は、それだけにとどまらず入り組んでいた。会社は陸軍と海軍の両方から製作を請け負っていたため、海軍の艦政本部は航空機が絡むことを嫌い、航空本部は民間工場に出した助成金が合併後に造船へ回されるおそれがあるとして、それぞれ異を唱えた。これに対し岩崎氏は、軍人であれ政治家であれ理由なく反対する者に取り合う必要はないとし、合併で受注ができなくなってもかまわないとまで言い切った。合併契約の締結は1934年3月20日、合併は6月13日である。

  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第四章 三菱重工業株式会社時代」
    • [1]三菱造船と三菱航空機の合併は三菱合資会社の岩崎小弥太社長の創意によるもの
    • [3]両社内部から合併後の機構の運営と割拠的な相互調整をめぐる反対が出た
    • [4]造船と航空機の合併は時代逆行も甚しいと非難された
    • [5]海軍の艦政本部は航空機の介入を、航空本部は助成金が造船へ融通される虞を理由にそれぞれ反対した
    • [6]岩崎小弥太は反対するものは軍人・政治家を問わず相手にする要なく、受注が不可能となっても差支えないと断言した
    • [7]1934年3月20日 合併契約成立、4月11日 社名を三菱重工業株式会社と改称、6月13日 合併
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [2]航空機会社の大部分は大正年間に発足し、三菱重工業は大正9年に発動機、大正10年に機体へ着手した
軍需に合わせて資本金を八倍にする

三菱重工業は資本金5,000万円で発足し、三菱航空機の合併で5,500万円となった。三菱航空機の航空機工場は名古屋航空機製作所、戦車工場は東京機器製作所として傘下へ加わっている。合併に際しての岩崎氏の告辞は、性質の相近似する事業を一統制下で経営することを進歩と基礎確立の根本の要諦とし、適当の時期を図った株式の一部公開を予告するものであった。1935年11月に横浜船渠を合併して資本金6,000万円、日華事変以降は軍需生産拡充計画に設備の拡張を合わせ、1937年5月に1億2,000万円、1940年3月に2億4,000万円、1942年7月に4億8,000万円と増えた。1943年12月に日立造船彦島造船所を買収し、1945年6月の三菱工作機械の合併で5億円、同年8月には10億円に達している。

  • 株式会社年鑑 1950年版「三菱重工業」
    • [8]1934年4月 三菱造船を三菱重工業と改称し資本金5,000万円で発足、同年6月の三菱航空機合併で5,500万円
    • [11]1935年11月 横浜船渠を合併し資本金6,000万円
    • [12]1937年5月 資本金1億2,000万円、1940年3月 2億4,000万円、1942年7月 4億8,000万円へ増資
    • [13]1943年12月 日立造船彦島造船所を買収、1945年6月 三菱工作機械を合併し資本金5億円、同年8月 10億円
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第四章 三菱重工業株式会社時代」
    • [9]三菱航空機の航空機工場を名古屋航空機製作所、戦車工場を東京機器製作所として傘下に加えた
    • [10]岩崎小弥太の告辞は、性質の近似する事業の一統制下での経営を基礎確立の要諦とし、株式の一部公開を予告した
工場を分散して人員を40万人まで確保する

三菱の工場は中部地方から西に広がり、機体6製作所と発動機11製作所を抱えて、従業員は約20万人まで増えた。太平洋戦争を遂行するため、産業全体を航空機の生産を中心に組み替える方針が取られ、各社はそろって官設民営の分工場を全国に急いで設けていた。機数で最も多かったのは零式艦戦の1万430機で、次が一式陸攻の2,440機である。発動機では火星1万5,900基、金星1万5,680基、瑞星1万3,540基を生産した。従業員数は1939年に約10万名だったのが戦争末期には40万名となり、その中の24〜5万人を徴用工が占め、終戦時には直系工場だけでも31あった。生産のピークは1944年6月の約2,900機で、その後はじりじりと落ち、1945年に入ると、空襲で最大の被害を受けた三菱の落ち込みが各社のなかで最もひどかった。

  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [14]三菱は中部地方以西に機体6製作所・発動機11製作所を持ち、従業員は約20万人に達した
    • [15]太平洋戦争下で全産業を航空機生産を軸に編成替えする方針が採られ、各社が全国各地に官設民営の分工場を設立
    • [16]機体の生産概数は零式艦戦1万430機・一式陸攻2,440機
    • [17]発動機の生産概数は火星1万5,900基・金星1万5,680基・瑞星1万3,540基
    • [20]航空機生産は1944年6月の約2,900機を頂点に漸落し、1945年の低落は空襲被害の最も大きかった三菱が最もはなはだしかった
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第四章 三菱重工業株式会社時代」
    • [18]三菱重工業の従業員は1939年の約10万名から戦争末期に40万名へ達し、うち徴用工が24〜5万人
    • [19]終戦時の当社工場は直系工場のみで31
参考文献[1]-[20]
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第四章 三菱重工業株式会社時代」
    • [1]三菱造船と三菱航空機の合併は三菱合資会社の岩崎小弥太社長の創意によるもの
    • [3]両社内部から合併後の機構の運営と割拠的な相互調整をめぐる反対が出た
    • [4]造船と航空機の合併は時代逆行も甚しいと非難された
    • [5]海軍の艦政本部は航空機の介入を、航空本部は助成金が造船へ融通される虞を理由にそれぞれ反対した
    • [6]岩崎小弥太は反対するものは軍人・政治家を問わず相手にする要なく、受注が不可能となっても差支えないと断言した
    • [7]1934年3月20日 合併契約成立、4月11日 社名を三菱重工業株式会社と改称、6月13日 合併
    • [9]三菱航空機の航空機工場を名古屋航空機製作所、戦車工場を東京機器製作所として傘下に加えた
    • [10]岩崎小弥太の告辞は、性質の近似する事業の一統制下での経営を基礎確立の要諦とし、株式の一部公開を予告した
    • [18]三菱重工業の従業員は1939年の約10万名から戦争末期に40万名へ達し、うち徴用工が24〜5万人
    • [19]終戦時の当社工場は直系工場のみで31
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [2]航空機会社の大部分は大正年間に発足し、三菱重工業は大正9年に発動機、大正10年に機体へ着手した
    • [14]三菱は中部地方以西に機体6製作所・発動機11製作所を持ち、従業員は約20万人に達した
    • [15]太平洋戦争下で全産業を航空機生産を軸に編成替えする方針が採られ、各社が全国各地に官設民営の分工場を設立
    • [16]機体の生産概数は零式艦戦1万430機・一式陸攻2,440機
    • [17]発動機の生産概数は火星1万5,900基・金星1万5,680基・瑞星1万3,540基
    • [20]航空機生産は1944年6月の約2,900機を頂点に漸落し、1945年の低落は空襲被害の最も大きかった三菱が最もはなはだしかった
  • 株式会社年鑑 1950年版「三菱重工業」
    • [8]1934年4月 三菱造船を三菱重工業と改称し資本金5,000万円で発足、同年6月の三菱航空機合併で5,500万円
    • [11]1935年11月 横浜船渠を合併し資本金6,000万円
    • [12]1937年5月 資本金1億2,000万円、1940年3月 2億4,000万円、1942年7月 4億8,000万円へ増資
    • [13]1943年12月 日立造船彦島造船所を買収、1945年6月 三菱工作機械を合併し資本金5億円、同年8月 10億円

1945年〜軍需生産の禁止から、集中排除法による三社分割へ

定款から軍需を削る

1945年9月2日に発せられた連合国軍総司令部一般命令第一号により、我国における一切の軍需生産は終止符を打たれた。三菱重工業は同年10月29日の臨時株主総会で定款中の営業目的から該当するものを削除し、1917年の創立以来の営業目的はここで180度の転回をした。同じ総会では、規模の縮小に伴う機構の改革と人事の刷新のため、先任役員が第一線から一斉に退任している。11月には14工場の閉鎖と3工場の合併を発表し、数次にわたって過剰人員の整理を行った。整理は航空機に重点を置いて行われ、全従業員を4〜5万とすることが当時の目標であった。ただし名古屋だけは、何年か先に航空機の仕事もやり得るという見通しから、航空機整理工場と発動機整理工場の二つに分けて残されている。

  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第二章 戦後の制約」
    • [21]1945年9月2日 連合国軍総司令部一般命令第一号により一切の軍需生産が禁止
    • [24]1945年11月 14工場の閉鎖と3工場の合併を発表し、数次にわたり過剰人員を整理
    • [25]整理は航空機に重点を置く方針で、全従業員数を4〜5万とする目標が置かれた(玉井喬介の回想)
    • [26]名古屋は将来の航空機再開を見込み、航空機整理工場と発動機整理工場の二つに分けて残された(玉井喬介の回想)
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第五章 三菱重工業株式会社の分割」
    • [22]1945年10月29日 臨時株主総会で定款の営業目的から軍需関係を削除し、1917年の創立以来の営業目的が180度転回
    • [23]同総会で機構改革と人事刷新のため先任役員が第一線から一斉に退任
受け取った補償を課税で失う

戦後の兵器生産の打切りに伴う損害賠償は政府へ請求し、1946年春までに決済を受けた。決済はインフレ抑制のため現金によらず、主として政府特殊借入金証書という記名式無期限公債証書によっている。ところが同年10月に戦時補償特別措置法が公布施行されると、決済後いくらも経たない12月に、その全額が戦時補償特別税として没収された。軍需補償金と戦時保険金その他を合わせた額は約24億円に達し、これが特別損失の素因の大半となる。賠償指定も重なり、指定を受けなかったのは長崎・広島の両造船所と三原車輛製作所、茨城機器製作所の4工場のみであった。1949年1月1日現在で立案された特別損失は23億1,826万円で、資本金10億円の90%にあたる9億円の資本切捨と、14億1,826万円の債務切捨で補塡された。

  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第二章 戦後の制約」
    • [27]戦後の兵器生産打切りに伴う損害賠償を政府へ請求し、1946年春までに決済を受けた
    • [28]決済はインフレ抑制のため現金によらず主として政府特殊借入金証書(記名式無期限公債証書)によった
    • [29]1946年10月 戦時補償特別措置法の公布施行により、同年12月に軍需補償の全額が戦時補償特別税として没収
    • [30]軍需補償金・戦時保険金その他を合わせ約24億円に達し、特別損失の素因の大半となった
    • [31]賠償指定を受けなかった工場は長崎・広島の両造船所、三原車輛製作所、茨城機器製作所の4工場のみ
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第四章 再建整備」
    • [32]1949年1月1日現在で立案した特別損失は23億1,826万3,250円
    • [33]資本金10億円に対し90%の9億円を資本切捨、債務31億5,204万円に対し44.995%の14億1,826万円を債務切捨として補塡
分割案を23社から三社へ戻す

分割案は、第二会社の安定性を考えてなるべく大きく分ける3社案から始まった。1948年3月の臨時株主総会で岡野保次郎社長は、総司令部の財閥解体の意向が強かったこと、三井物産・三菱商事の解体指令で強硬な態度が表面に現われたこと、従業員組合にも各工場単独独立の熱意が強かったことを挙げ、案が8社案から23社案へ細分化した経緯を説明した。その後は人件費と原材料の昂騰で小規模経営の弱味が痛感され、分割案の再検討を決している。6社案を経て1社案を持株会社整理委員会へ打診したものの、1949年6月4日の決定指令書は、新造船23%・発電用ボイラー68%という全国生産能力比を挙げて過度の経済力の集中と認定し、地域別三社への分割を指示した。1950年1月11日、東日本重工業・中日本重工業・西日本重工業が発足し、旧三菱重工業は同日解散した。

  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第五章 三菱重工業株式会社の分割」
    • [34]第二会社の将来の安定性を考え、最初はなるべく大きく分割する三社案から折衝を始めた
    • [35]1948年3月 臨時株主総会で岡野保次郎社長が、GHQの財閥解体の強い意向・三井物産と三菱商事の解体指令・従業員組合の各工場単独独立の熱意を挙げ、八社案から二十三社案への細分化の経緯を説明
    • [36]人件費・原材料の昂騰で小規模経営の弱味が痛感され、分割案の再検討を決した
    • [37]六社案を経て一社案で持株会社整理委員会ほか関係方面の意向を打診した
    • [39]1950年1月11日 東日本重工業・中日本重工業・西日本重工業の三社が発足し、旧三菱重工業は同日解散
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第四章 再建整備」
    • [38]1949年6月4日 決定指令書が新造船23%・発電用ボイラー68%等の全国生産能力比を挙げて過度の経済力集中と認定し、地域別三社への分割を指示
参考文献[21]-[39]
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第二章 戦後の制約」
    • [21]1945年9月2日 連合国軍総司令部一般命令第一号により一切の軍需生産が禁止
    • [24]1945年11月 14工場の閉鎖と3工場の合併を発表し、数次にわたり過剰人員を整理
    • [25]整理は航空機に重点を置く方針で、全従業員数を4〜5万とする目標が置かれた(玉井喬介の回想)
    • [26]名古屋は将来の航空機再開を見込み、航空機整理工場と発動機整理工場の二つに分けて残された(玉井喬介の回想)
    • [27]戦後の兵器生産打切りに伴う損害賠償を政府へ請求し、1946年春までに決済を受けた
    • [28]決済はインフレ抑制のため現金によらず主として政府特殊借入金証書(記名式無期限公債証書)によった
    • [29]1946年10月 戦時補償特別措置法の公布施行により、同年12月に軍需補償の全額が戦時補償特別税として没収
    • [30]軍需補償金・戦時保険金その他を合わせ約24億円に達し、特別損失の素因の大半となった
    • [31]賠償指定を受けなかった工場は長崎・広島の両造船所、三原車輛製作所、茨城機器製作所の4工場のみ
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第五章 三菱重工業株式会社の分割」
    • [22]1945年10月29日 臨時株主総会で定款の営業目的から軍需関係を削除し、1917年の創立以来の営業目的が180度転回
    • [23]同総会で機構改革と人事刷新のため先任役員が第一線から一斉に退任
    • [34]第二会社の将来の安定性を考え、最初はなるべく大きく分割する三社案から折衝を始めた
    • [35]1948年3月 臨時株主総会で岡野保次郎社長が、GHQの財閥解体の強い意向・三井物産と三菱商事の解体指令・従業員組合の各工場単独独立の熱意を挙げ、八社案から二十三社案への細分化の経緯を説明
    • [36]人件費・原材料の昂騰で小規模経営の弱味が痛感され、分割案の再検討を決した
    • [37]六社案を経て一社案で持株会社整理委員会ほか関係方面の意向を打診した
    • [39]1950年1月11日 東日本重工業・中日本重工業・西日本重工業の三社が発足し、旧三菱重工業は同日解散
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第四章 再建整備」
    • [32]1949年1月1日現在で立案した特別損失は23億1,826万3,250円
    • [33]資本金10億円に対し90%の9億円を資本切捨、債務31億5,204万円に対し44.995%の14億1,826万円を債務切捨として補塡
    • [38]1949年6月4日 決定指令書が新造船23%・発電用ボイラー68%等の全国生産能力比を挙げて過度の経済力集中と認定し、地域別三社への分割を指示

1950年〜新三菱重工業と三菱造船が立てた別々の柱

提携を重ねて航空機へ戻る

中日本重工業は神戸造船所と名古屋製作所を含む五工場を譲り受け、資本金13億円で発足した。占領下で禁じられていた財閥商標と商号の使用が講和条約の発効で解除され、1952年5月に社名を新三菱重工業へ改めてスリーダイヤを復活させ、同時に許された艦艇・兵器・航空機を事業目的へ加えた。戦時中に星型エンジンのヘッド製作用として完成させたトランスファーマシンは稼働後間もなく爆撃を受けたが、戦後の国産第一号は三菱内部から生まれている。技術は提携でも取りに行き、1952年2月に米ウェスチングハウス社と蒸気タービン、同年5月に米コンバッション・エンジニアリング社と蒸気発生装置で提携した。1952年12月に愛知県小牧へ機体修理工場を建設、1955年3月期の総生産高131億7,000万円のうち造船は16.4%で、自動車が37.5%を占めた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [40]中日本重工業は神戸造船所・名古屋製作所・水島製作所・京都製作所・三原車輛製作所を譲り受け、資本金13億円で1950年1月に設立
    • [41]講和条約の発効で財閥商標・商号の使用が解除され、1952年5月に新三菱重工業へ改称しスリーダイヤを復活、艦艇・兵器・航空機の生産加工を事業目的へ追加
    • [43]1952年2月 米ウェスチングハウス社と蒸気タービン、同年5月 米コンバッション・エンジニアリング社と蒸気発生および燃焼装置の技術提携
    • [44]1952年12月 愛知県小牧に航空機機体修理工場を建設
    • [45]1955年3月期の総生産高131億7,000万円の構成比は造船16.4%・自動車37.5%
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [42]三菱重工が戦時中に星型エンジンのヘッド製作用として完成させたトランスファーマシンは稼働後間もなく爆撃を受け、戦後の国産第一号が三菱内部から生まれたのは偶然ではない
船型に合わせて設備を先に持つ

西日本重工業は長崎・下関・広島の三造船所ほかを承継し、1952年5月に三菱造船へ商号を変更した。1955年時点で造船部門が売上の6割以上を占め、造船能力は年間11万3,000トンと全国の約2割で業界第一位であった。戦後の造船は1947年4月設立の船舶公団と計画造船に支えられ、造船所は運輸省の指定と枠の中に横並びで置かれている。そこへスエズ運河の閉鎖が重なって油送船の大型化が前倒しになり、1956年11月、三菱造船はマンモスタンカーの建造に踏み切って設備の拡充へ進んだ。当時の話題は4万5,000重量トン級で、6万から8万重量トンが常態となるのは1960年ごろである。1961年の長崎造船所の進水実績は世界第1位となった。注文を取ってから設備を足すのではなく、設備の側を先に将来の船型へ合わせる順序が、この結果を用意した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [46]1949年6月の三分割指令を受けて1950年1月に西日本重工業が発足し、長崎・下関・広島の三造船所ほかを承継、1952年5月に三菱造船へ商号変更
    • [47]1955年時点で造船部門が売上の6割以上を占め、造船能力は年間11万3,000トンで全国の約2割・業界第一位
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-政府も手厚い援助」
    • [48]1947年4月 全額政府出資の船舶公団が設立され、計画造船では造船所を運輸省が指定した
  • 読売新聞(1956年11月22日)
    • [49]スエズ運河の閉鎖以降に油送船の大型化が強まり、1956年11月に三菱造船がマンモスタンカーの建造へ踏み切って設備の拡充に進んだ
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-超大型や自動化船」
    • [50]1955年前後は4万5,000重量トンのスーパータンカーが話題となる段階で、6万〜8万重量トンが常態化したのは1960年ごろ
  • 読売新聞(1962年1月9日)
    • [51]1961年の長崎造船所の進水実績が世界第1位
重なった投資が再合併を招く

三社が別々に設備を積んだ結果、製品の重複が現れた。新三菱重工業と三菱日本重工業の間ではトラック生産の二重投資の危険があり、新三菱重工業が米キャタピラー社と提携したブルドーザーは、既存の三菱日本重工業の製品と競合していた。造船と機械の双方で重複する研究投資も多く、合併により研究投資の効率を高められると見込まれた。1962年9月、三重工の合併が本決まりとなったことが報じられ、国際的な信用力の向上、三菱商事を通じた輸出の一本化、EEC対策としての船舶の大型化が合併の利点として挙げられている。1963年には合併準備室が発足し、公正取引委員会の独占禁止法上の審査へ進んだ。競争の制限を理由に分けられた三社は、国際競争を理由に一つへ戻ることになる。

  • 日経新聞(1962年9月19日)
    • [52]新三菱重工と三菱日本重工の間でトラック生産の二重投資の危険があり、新三菱重工が米キャタピラーと提携したブルドーザーは三菱日本重工の製品と競合した
    • [53]造船・機械の双方で重複する研究投資が多く、合併により研究投資の効率を高められると見込まれた
    • [54]1962年9月 三重工の合併が本決まりとなり、国際的信用力の向上・三菱商事を通じた輸出の一本化・EEC対策としての船舶大型化が利点として挙げられた
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1963年 合併準備室を発足し、公正取引委員会の独占禁止法審査へ進んだ
参考文献[40]-[55]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
    • [40]中日本重工業は神戸造船所・名古屋製作所・水島製作所・京都製作所・三原車輛製作所を譲り受け、資本金13億円で1950年1月に設立
    • [41]講和条約の発効で財閥商標・商号の使用が解除され、1952年5月に新三菱重工業へ改称しスリーダイヤを復活、艦艇・兵器・航空機の生産加工を事業目的へ追加
    • [43]1952年2月 米ウェスチングハウス社と蒸気タービン、同年5月 米コンバッション・エンジニアリング社と蒸気発生および燃焼装置の技術提携
    • [44]1952年12月 愛知県小牧に航空機機体修理工場を建設
    • [45]1955年3月期の総生産高131億7,000万円の構成比は造船16.4%・自動車37.5%
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
    • [42]三菱重工が戦時中に星型エンジンのヘッド製作用として完成させたトランスファーマシンは稼働後間もなく爆撃を受け、戦後の国産第一号が三菱内部から生まれたのは偶然ではない
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
    • [46]1949年6月の三分割指令を受けて1950年1月に西日本重工業が発足し、長崎・下関・広島の三造船所ほかを承継、1952年5月に三菱造船へ商号変更
    • [47]1955年時点で造船部門が売上の6割以上を占め、造船能力は年間11万3,000トンで全国の約2割・業界第一位
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-政府も手厚い援助」
    • [48]1947年4月 全額政府出資の船舶公団が設立され、計画造船では造船所を運輸省が指定した
  • 読売新聞(1956年11月22日)
    • [49]スエズ運河の閉鎖以降に油送船の大型化が強まり、1956年11月に三菱造船がマンモスタンカーの建造へ踏み切って設備の拡充に進んだ
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-超大型や自動化船」
    • [50]1955年前後は4万5,000重量トンのスーパータンカーが話題となる段階で、6万〜8万重量トンが常態化したのは1960年ごろ
  • 読売新聞(1962年1月9日)
    • [51]1961年の長崎造船所の進水実績が世界第1位
  • 日経新聞(1962年9月19日)
    • [52]新三菱重工と三菱日本重工の間でトラック生産の二重投資の危険があり、新三菱重工が米キャタピラーと提携したブルドーザーは三菱日本重工の製品と競合した
    • [53]造船・機械の双方で重複する研究投資が多く、合併により研究投資の効率を高められると見込まれた
    • [54]1962年9月 三重工の合併が本決まりとなり、国際的信用力の向上・三菱商事を通じた輸出の一本化・EEC対策としての船舶大型化が利点として挙げられた
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1963年 合併準備室を発足し、公正取引委員会の独占禁止法審査へ進んだ

筆者考察

岩崎小弥太が造船と航空機を一つの会社へ統合したとき、反対は社内より軍から強く出た。海軍の艦政本部は航空機の介入を嫌い、航空本部は助成金が造船へ回ることを警戒したからである。それでも合併が通ったのは、両者の顧客が同じ軍だったからであり、同じ理由で三菱重工業の資本金は1934年の5,500万円から1945年の10億円まで10年余で18倍に伸び、従業員は1939年の約10万名から戦争末期の40万名へ膨らんだ。一社に統合したことの利点も、統合で得た規模の大きさも、どちらも軍需という単一の需要が支えていた。

だからその需要が消えた時、失われたのは受注ではなく会社の輪郭のほうであった。1945年10月の臨時株主総会は定款の営業目的から軍需を削り、受け取った軍需補償約24億円は二か月後に戦時補償特別税として没収され、資本金10億円の9割が切り捨てられた。分割案が三社から23社へ細分され、六社を経て1社案まで戻ったのは、会社がどの規模なら生き残れるかを決めかねていたからだろう。結局は総司令部が地域で三つに割ったが、新三菱重工業は自動車と航空機へ、三菱造船は大型船へと別々の柱を立て、15年後にその重複が再合併の理由になった。

資本金の推移 三菱重工業の発足から解散まで(万円)

5,500 1934 6,000 1935 12,000 1937 24,000 1940 48,000 1942 100,000 1945 200,000 1949
  • 出所は株式会社年鑑 1950年版「三菱重工業」の備考欄。1949年11月の増資は第二会社三社の発足に先立つ事前増資。

出典・参考

14件
出典・参考
  • 三菱重工業 有価証券報告書【沿革】
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第四章 三菱重工業株式会社時代」
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第二章 戦後の制約」
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第二沿革編「第五章 三菱重工業株式会社の分割」
  • 三菱重工業株式会社史(三菱重工業株式会社社史編纂室編、1956年)第十二戦後編「第四章 再建整備」
  • 株式会社年鑑 1950年版「三菱重工業」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「新三菱重工業」の項
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱造船」の項
  • 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「航空機-技術の誇りゼロ戦」
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-政府も手厚い援助」
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「造船-超大型や自動化船」
  • 読売新聞(1956年11月22日)
  • 読売新聞(1962年1月9日)
  • 日経新聞(1962年9月19日)

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