第1章 年〜年

三菱商事:岩崎弥太郎の九十九商会から郵便汽船三菱会社まで

1870年〜土佐藩の商いを継いだ九十九商会と、1万円で取得した吉岡銅山

岩崎弥太郎氏は1870年閏10月、土佐藩大阪商会の事業を私商社の九十九商会へ移し、藩の責任者として統轄した。新政府は1869年5月の布達で、諸藩が商会所を設けて物産を売買することを禁じていた。1870年8月には藩内でも谷干城氏が商会の縮小を求める改革意見を出し、大阪商会は藩の名で動けなくなった。九十九商会は藩船の紅葉賀丸・夕顔丸・鶴丸の貸与を受け、東京・神戸・大阪・高知を結ぶ飛脚船の免許を得た。海運と並行して、土佐や大阪の産物を朝鮮・中国の沿岸へ輸出する商いも手がけた。廃藩置県を見越して、職を失う藩士の受け入れ先となる事業を残すことも目的の一つである。藩の禁令を避けつつ人と船を温存する手立てとして、私商社という名目が選ばれたのだろう。

  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第一章 四 廃藩置県と岩崎彌太郎」
    • [1]1869年5月の布達で藩の商会所を禁止、1870年8月に谷干城の商会縮小意見、同年閏10月から大阪商会を九十九商会として通商司に届け出、藩船3隻を貸与され東京-神戸-大阪-高知の飛脚船を開業。藩職の受け入れ先の温存が主目的
    • [2]1869年5月の布達で藩の商会所を禁止、1870年8月に谷干城の商会縮小意見、同年閏10月から大阪商会を九十九商会として通商司に届け出、藩船3隻を貸与され東京-神戸-大阪-高知の飛脚船を開業。藩職の受け入れ先の温存が主目的
    • [3]1869年5月の布達で藩の商会所を禁止、1870年8月に谷干城の商会縮小意見、同年閏10月から大阪商会を九十九商会として通商司に届け出、藩船3隻を貸与され東京-神戸-大阪-高知の飛脚船を開業。藩職の受け入れ先の温存が主目的
    • [4]1869年5月の布達で藩の商会所を禁止、1870年8月に谷干城の商会縮小意見、同年閏10月から大阪商会を九十九商会として通商司に届け出、藩船3隻を貸与され東京-神戸-大阪-高知の飛脚船を開業。藩職の受け入れ先の温存が主目的
    • [6]1869年5月の布達で藩の商会所を禁止、1870年8月に谷干城の商会縮小意見、同年閏10月から大阪商会を九十九商会として通商司に届け出、藩船3隻を貸与され東京-神戸-大阪-高知の飛脚船を開業。藩職の受け入れ先の温存が主目的
  • 産業フロンティア物語 第1「商社〈三菱商事〉」(1965)
    • [5]1870年に岩崎弥太郎が九十九商会を設立し、海運のかたわら土佐・大阪の産物を朝鮮・中国沿岸へ輸出していた

1871年7月の廃藩置県で高知藩は解体され、藩職にあった岩崎弥太郎氏も職を失った。旧藩士の板垣退助氏と高知県大参事の林有造氏は、九十九商会を岩崎弥太郎氏の個人事業として引き受けるよう求めた。1872年1月に商会は三川商会と改称し、川田小一郎氏・石川七財氏・中川亀之助氏の3人が営業を担った。同年8月に三井・鴻池らの出資で日本国郵便蒸気船会社が発足し、東京・大阪間で貨客の争奪が始まった。岩崎弥太郎氏が自ら指揮を執ると3人は経営の全権を委ね、1873年3月に社名は三菱商会へ改められた。三菱商事は後年もこの九十九商会の創業を社の淵源に数えている。郵便蒸気船会社との競争が、同輩の結社を岩崎弥太郎氏を頂点とする組織へ変えたとみられる。

  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第一章 四 廃藩置県と岩崎彌太郎」
    • [7]1871年7月廃藩置県、板垣退助・林有造が九十九商会の引受けを懇請、1872年1月三川商会に改称(川田・石川・中川)、同年8月日本国郵便蒸気船会社設立と競争、1873年3月三菱商会に改称し彌太郎が社主に
    • [8]1871年7月廃藩置県、板垣退助・林有造が九十九商会の引受けを懇請、1872年1月三川商会に改称(川田・石川・中川)、同年8月日本国郵便蒸気船会社設立と競争、1873年3月三菱商会に改称し彌太郎が社主に
    • [9]1871年7月廃藩置県、板垣退助・林有造が九十九商会の引受けを懇請、1872年1月三川商会に改称(川田・石川・中川)、同年8月日本国郵便蒸気船会社設立と競争、1873年3月三菱商会に改称し彌太郎が社主に
    • [10]1871年7月廃藩置県、板垣退助・林有造が九十九商会の引受けを懇請、1872年1月三川商会に改称(川田・石川・中川)、同年8月日本国郵便蒸気船会社設立と競争、1873年3月三菱商会に改称し彌太郎が社主に
    • [11]1871年7月廃藩置県、板垣退助・林有造が九十九商会の引受けを懇請、1872年1月三川商会に改称(川田・石川・中川)、同年8月日本国郵便蒸気船会社設立と競争、1873年3月三菱商会に改称し彌太郎が社主に
  • 産業フロンティア物語 第1「商社〈三菱商事〉」(1965)
    • [12]三菱商事の淵源は1870年に岩崎弥太郎が九十九商会を創業したことに始まる

三菱商会は海運を本業としながら、1873年12月に岡山県の吉岡銅山を1万円で買収した。岩崎弥太郎氏は自前の船で自ら生産した貨物を運ぶ交易を構想し、その荷の確保に力を注いでいた。1871年には紀州の炭坑を借り入れ、1872年春には高知県から樟脳事業の払い下げを受けた。紀州炭の大半は社船の燃料に充当され、樟脳は独占への反発から1875年11月に県へ返還した。吉岡銅山は三菱が初めて保有した金属鉱山で、以後は産銅の販売が商事部門の大きな収益源になった。自社の石炭と非鉄金属の販売は、大正中期まで三菱の商事部門の主力を占めた。九十九商会の頃からの樟脳などの商いの経験が、自前の荷を生む鉱山への関心につながったと推察される。

  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第二章 一 商事分野の開拓」
    • [13]1871年紀州炭坑借入れ、1872年春樟脳事業の払下げ(1875年11月県に返還)、1873年12月吉岡銅山を1万円で買収し売銅が商事部門の大きな柱に。自己貨物の確保を理想とした
    • [14]1871年紀州炭坑借入れ、1872年春樟脳事業の払下げ(1875年11月県に返還)、1873年12月吉岡銅山を1万円で買収し売銅が商事部門の大きな柱に。自己貨物の確保を理想とした
    • [15]1871年紀州炭坑借入れ、1872年春樟脳事業の払下げ(1875年11月県に返還)、1873年12月吉岡銅山を1万円で買収し売銅が商事部門の大きな柱に。自己貨物の確保を理想とした
    • [16]1871年紀州炭坑借入れ、1872年春樟脳事業の払下げ(1875年11月県に返還)、1873年12月吉岡銅山を1万円で買収し売銅が商事部門の大きな柱に。自己貨物の確保を理想とした
    • [17]1871年紀州炭坑借入れ、1872年春樟脳事業の払下げ(1875年11月県に返還)、1873年12月吉岡銅山を1万円で買収し売銅が商事部門の大きな柱に。自己貨物の確保を理想とした
  • 産業フロンティア物語 第1「商社〈三菱商事〉」(1965)
    • [18]吉岡鉱山は1873年に払い下げ、以後大正中期まで自社炭・自社非鉄金属の取扱いが商事部門の主力
参考文献[1]-[18]
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第一章 四 廃藩置県と岩崎彌太郎」
    • [1]1869年5月の布達で藩の商会所を禁止、1870年8月に谷干城の商会縮小意見、同年閏10月から大阪商会を九十九商会として通商司に届け出、藩船3隻を貸与され東京-神戸-大阪-高知の飛脚船を開業。藩職の受け入れ先の温存が主目的
    • [2]1869年5月の布達で藩の商会所を禁止、1870年8月に谷干城の商会縮小意見、同年閏10月から大阪商会を九十九商会として通商司に届け出、藩船3隻を貸与され東京-神戸-大阪-高知の飛脚船を開業。藩職の受け入れ先の温存が主目的
    • [3]1869年5月の布達で藩の商会所を禁止、1870年8月に谷干城の商会縮小意見、同年閏10月から大阪商会を九十九商会として通商司に届け出、藩船3隻を貸与され東京-神戸-大阪-高知の飛脚船を開業。藩職の受け入れ先の温存が主目的
    • [4]1869年5月の布達で藩の商会所を禁止、1870年8月に谷干城の商会縮小意見、同年閏10月から大阪商会を九十九商会として通商司に届け出、藩船3隻を貸与され東京-神戸-大阪-高知の飛脚船を開業。藩職の受け入れ先の温存が主目的
    • [6]1869年5月の布達で藩の商会所を禁止、1870年8月に谷干城の商会縮小意見、同年閏10月から大阪商会を九十九商会として通商司に届け出、藩船3隻を貸与され東京-神戸-大阪-高知の飛脚船を開業。藩職の受け入れ先の温存が主目的
    • [7]1871年7月廃藩置県、板垣退助・林有造が九十九商会の引受けを懇請、1872年1月三川商会に改称(川田・石川・中川)、同年8月日本国郵便蒸気船会社設立と競争、1873年3月三菱商会に改称し彌太郎が社主に
    • [8]1871年7月廃藩置県、板垣退助・林有造が九十九商会の引受けを懇請、1872年1月三川商会に改称(川田・石川・中川)、同年8月日本国郵便蒸気船会社設立と競争、1873年3月三菱商会に改称し彌太郎が社主に
    • [9]1871年7月廃藩置県、板垣退助・林有造が九十九商会の引受けを懇請、1872年1月三川商会に改称(川田・石川・中川)、同年8月日本国郵便蒸気船会社設立と競争、1873年3月三菱商会に改称し彌太郎が社主に
    • [10]1871年7月廃藩置県、板垣退助・林有造が九十九商会の引受けを懇請、1872年1月三川商会に改称(川田・石川・中川)、同年8月日本国郵便蒸気船会社設立と競争、1873年3月三菱商会に改称し彌太郎が社主に
    • [11]1871年7月廃藩置県、板垣退助・林有造が九十九商会の引受けを懇請、1872年1月三川商会に改称(川田・石川・中川)、同年8月日本国郵便蒸気船会社設立と競争、1873年3月三菱商会に改称し彌太郎が社主に
  • 産業フロンティア物語 第1「商社〈三菱商事〉」(1965)
    • [5]1870年に岩崎弥太郎が九十九商会を設立し、海運のかたわら土佐・大阪の産物を朝鮮・中国沿岸へ輸出していた
    • [12]三菱商事の淵源は1870年に岩崎弥太郎が九十九商会を創業したことに始まる
    • [18]吉岡鉱山は1873年に払い下げ、以後大正中期まで自社炭・自社非鉄金属の取扱いが商事部門の主力
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第二章 一 商事分野の開拓」
    • [13]1871年紀州炭坑借入れ、1872年春樟脳事業の払下げ(1875年11月県に返還)、1873年12月吉岡銅山を1万円で買収し売銅が商事部門の大きな柱に。自己貨物の確保を理想とした
    • [14]1871年紀州炭坑借入れ、1872年春樟脳事業の払下げ(1875年11月県に返還)、1873年12月吉岡銅山を1万円で買収し売銅が商事部門の大きな柱に。自己貨物の確保を理想とした
    • [15]1871年紀州炭坑借入れ、1872年春樟脳事業の払下げ(1875年11月県に返還)、1873年12月吉岡銅山を1万円で買収し売銅が商事部門の大きな柱に。自己貨物の確保を理想とした
    • [16]1871年紀州炭坑借入れ、1872年春樟脳事業の払下げ(1875年11月県に返還)、1873年12月吉岡銅山を1万円で買収し売銅が商事部門の大きな柱に。自己貨物の確保を理想とした
    • [17]1871年紀州炭坑借入れ、1872年春樟脳事業の払下げ(1875年11月県に返還)、1873年12月吉岡銅山を1万円で買収し売銅が商事部門の大きな柱に。自己貨物の確保を理想とした

1874年〜台湾出兵の輸送を請けた郵便汽船三菱会社と、無償で下付された政府船13隻

1874年4月、三菱商会は本店を大阪から東京の南茅場町へ移した。同年5月に台湾出兵が起き、政府は7月28日に兵員・弾薬・物資の輸送を三菱へ委託。三菱は政府が購入した東海丸・高砂丸など外国船13隻の寄託を受け、この輸送を完遂した。委託書は三菱蒸気船会社の名義で交わされ、この名は台湾輸送に限って使った別名である。競争相手の日本国郵便蒸気船会社は官僚的な運営と老朽船を抱え、1873年の地租改正で政府米の輸送特権も失っていた。後ろ盾の小野組が倒産すると、日本国郵便蒸気船会社は資金繰りが悪化して解散に至った。政府は競争力を失った半官の会社より、東京・大阪間で実績を示した三菱を出兵輸送の担い手に選んだと思われる。

  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第二章 二 海運専業と会社組織の整備」
    • [19]1874年4月本店を東京南茅場町へ移転、同年7月28日台湾出兵の軍事輸送を受託し政府購入の外国船13隻の寄託を受ける(三菱蒸気船会社名義)。郵便蒸気船会社は老朽船・貢米廃止で劣勢、小野組倒産で解散
    • [20]1874年4月本店を東京南茅場町へ移転、同年7月28日台湾出兵の軍事輸送を受託し政府購入の外国船13隻の寄託を受ける(三菱蒸気船会社名義)。郵便蒸気船会社は老朽船・貢米廃止で劣勢、小野組倒産で解散
    • [21]1874年4月本店を東京南茅場町へ移転、同年7月28日台湾出兵の軍事輸送を受託し政府購入の外国船13隻の寄託を受ける(三菱蒸気船会社名義)。郵便蒸気船会社は老朽船・貢米廃止で劣勢、小野組倒産で解散
    • [22]1874年4月本店を東京南茅場町へ移転、同年7月28日台湾出兵の軍事輸送を受託し政府購入の外国船13隻の寄託を受ける(三菱蒸気船会社名義)。郵便蒸気船会社は老朽船・貢米廃止で劣勢、小野組倒産で解散
    • [23]1874年4月本店を東京南茅場町へ移転、同年7月28日台湾出兵の軍事輸送を受託し政府購入の外国船13隻の寄託を受ける(三菱蒸気船会社名義)。郵便蒸気船会社は老朽船・貢米廃止で劣勢、小野組倒産で解散
    • [24]1874年4月本店を東京南茅場町へ移転、同年7月28日台湾出兵の軍事輸送を受託し政府購入の外国船13隻の寄託を受ける(三菱蒸気船会社名義)。郵便蒸気船会社は老朽船・貢米廃止で劣勢、小野組倒産で解散

内務卿の大久保利通は1875年5月に海運政策を3案で検討し、民営の会社を助成する案を採った。これに先立つ同年1月、三菱は台湾輸送の13隻を使い続けて長崎・上海間の航路を開いた。日本初の外国定期航路であり、上海航路を持つ米国の太平洋郵便汽船会社と競うことになった。岩崎弥太郎氏は社員に、この競争の目的は航海の大権を日本へ取り戻すことだと示した。同年9月の第一命令書で政府は汽船13隻を無代価で下付し、年25万円の運航助成金を与えた。三菱は社名を郵便汽船三菱会社に改め、10月には太平洋郵便汽船会社の上海支線と汽船4隻などを78万ドルで買収した。太平洋郵便汽船会社が約したのは、以後30年間、日本沿岸と日清間の航路から撤収することである。

  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第二章 二 海運専業と会社組織の整備」
    • [25]1875年1月上海航路(長崎-上海)開設、日本初の外国定期航路。太平洋郵便汽船会社と競争。同年5月大久保利通の海運三策で民営助成を採択
    • [26]1875年1月上海航路(長崎-上海)開設、日本初の外国定期航路。太平洋郵便汽船会社と競争。同年5月大久保利通の海運三策で民営助成を採択
    • [27]1875年1月上海航路(長崎-上海)開設、日本初の外国定期航路。太平洋郵便汽船会社と競争。同年5月大久保利通の海運三策で民営助成を採択
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 三 彌太郎の三菱事業に対する経綸」
    • [28]1875年、太平洋郵便汽船会社との競争に際し、岩崎弥太郎は航海の大権を取り戻すためと社員に方針を示した
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 一 第一命令書」
    • [29]1875年9月第一命令書で汽船13隻を無代価下付・年25万円の助成、郵便汽船三菱会社に改称、10月太平洋郵便汽船の上海支線と汽船4隻等を78万ドルで買収し同社は30年間撤収
    • [30]1875年9月第一命令書で汽船13隻を無代価下付・年25万円の助成、郵便汽船三菱会社に改称、10月太平洋郵便汽船の上海支線と汽船4隻等を78万ドルで買収し同社は30年間撤収
    • [31]1875年9月第一命令書で汽船13隻を無代価下付・年25万円の助成、郵便汽船三菱会社に改称、10月太平洋郵便汽船の上海支線と汽船4隻等を78万ドルで買収し同社は30年間撤収

1876年8月までに、三菱は太平洋郵便汽船会社に続いて英国のP&O汽船会社との積荷競争を制した。P&O汽船会社と東京・大阪間の積荷を争った際、三菱は貨物を担保に荷主へ融資する荷為替金融を始めた。資金は大蔵省から年7分で借り入れ、1航海5万円を上限とし、1876年6月には大阪に為替局を開設した。同年9月の第二命令書の要点は、第一命令書の助成と監督の15年間の保証。1877年の西南戦争では全社船が軍事輸送に従い、御用船の運航収入は299万9,342円に達した。同じ年の一般貨客の運賃収入は116万3,040円である。1880年に郵便汽船三菱会社は汽船35隻・2万5,938トンを保有し、全国の汽船トン数の62.9%に及ぶ。軍事輸送の収益と15年の保証が、外国船との運賃競争に耐える資金の裏付けになったと考えられる。

  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 二 海運事業の軌跡」
    • [32]1876年8月までにPM・P&Oとの競争を制す。荷為替金融(大蔵省から年7分、1航海5万円上限)、1876年6月大阪に為替局。同年9月第二命令書で助成と管理を15年保証。1877年西南戦争の御用船収入2,999,342円(一般運賃収入1,163,040円)。1880年汽船35隻・25,938屯(全国比62.9%)
    • [33]1876年8月までにPM・P&Oとの競争を制す。荷為替金融(大蔵省から年7分、1航海5万円上限)、1876年6月大阪に為替局。同年9月第二命令書で助成と管理を15年保証。1877年西南戦争の御用船収入2,999,342円(一般運賃収入1,163,040円)。1880年汽船35隻・25,938屯(全国比62.9%)
    • [34]1876年8月までにPM・P&Oとの競争を制す。荷為替金融(大蔵省から年7分、1航海5万円上限)、1876年6月大阪に為替局。同年9月第二命令書で助成と管理を15年保証。1877年西南戦争の御用船収入2,999,342円(一般運賃収入1,163,040円)。1880年汽船35隻・25,938屯(全国比62.9%)
    • [35]1876年8月までにPM・P&Oとの競争を制す。荷為替金融(大蔵省から年7分、1航海5万円上限)、1876年6月大阪に為替局。同年9月第二命令書で助成と管理を15年保証。1877年西南戦争の御用船収入2,999,342円(一般運賃収入1,163,040円)。1880年汽船35隻・25,938屯(全国比62.9%)
    • [36]1876年8月までにPM・P&Oとの競争を制す。荷為替金融(大蔵省から年7分、1航海5万円上限)、1876年6月大阪に為替局。同年9月第二命令書で助成と管理を15年保証。1877年西南戦争の御用船収入2,999,342円(一般運賃収入1,163,040円)。1880年汽船35隻・25,938屯(全国比62.9%)
    • [37]1876年8月までにPM・P&Oとの競争を制す。荷為替金融(大蔵省から年7分、1航海5万円上限)、1876年6月大阪に為替局。同年9月第二命令書で助成と管理を15年保証。1877年西南戦争の御用船収入2,999,342円(一般運賃収入1,163,040円)。1880年汽船35隻・25,938屯(全国比62.9%)
    • [38]1876年8月までにPM・P&Oとの競争を制す。荷為替金融(大蔵省から年7分、1航海5万円上限)、1876年6月大阪に為替局。同年9月第二命令書で助成と管理を15年保証。1877年西南戦争の御用船収入2,999,342円(一般運賃収入1,163,040円)。1880年汽船35隻・25,938屯(全国比62.9%)
参考文献[19]-[38]
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第二章 二 海運専業と会社組織の整備」
    • [19]1874年4月本店を東京南茅場町へ移転、同年7月28日台湾出兵の軍事輸送を受託し政府購入の外国船13隻の寄託を受ける(三菱蒸気船会社名義)。郵便蒸気船会社は老朽船・貢米廃止で劣勢、小野組倒産で解散
    • [20]1874年4月本店を東京南茅場町へ移転、同年7月28日台湾出兵の軍事輸送を受託し政府購入の外国船13隻の寄託を受ける(三菱蒸気船会社名義)。郵便蒸気船会社は老朽船・貢米廃止で劣勢、小野組倒産で解散
    • [21]1874年4月本店を東京南茅場町へ移転、同年7月28日台湾出兵の軍事輸送を受託し政府購入の外国船13隻の寄託を受ける(三菱蒸気船会社名義)。郵便蒸気船会社は老朽船・貢米廃止で劣勢、小野組倒産で解散
    • [22]1874年4月本店を東京南茅場町へ移転、同年7月28日台湾出兵の軍事輸送を受託し政府購入の外国船13隻の寄託を受ける(三菱蒸気船会社名義)。郵便蒸気船会社は老朽船・貢米廃止で劣勢、小野組倒産で解散
    • [23]1874年4月本店を東京南茅場町へ移転、同年7月28日台湾出兵の軍事輸送を受託し政府購入の外国船13隻の寄託を受ける(三菱蒸気船会社名義)。郵便蒸気船会社は老朽船・貢米廃止で劣勢、小野組倒産で解散
    • [24]1874年4月本店を東京南茅場町へ移転、同年7月28日台湾出兵の軍事輸送を受託し政府購入の外国船13隻の寄託を受ける(三菱蒸気船会社名義)。郵便蒸気船会社は老朽船・貢米廃止で劣勢、小野組倒産で解散
    • [25]1875年1月上海航路(長崎-上海)開設、日本初の外国定期航路。太平洋郵便汽船会社と競争。同年5月大久保利通の海運三策で民営助成を採択
    • [26]1875年1月上海航路(長崎-上海)開設、日本初の外国定期航路。太平洋郵便汽船会社と競争。同年5月大久保利通の海運三策で民営助成を採択
    • [27]1875年1月上海航路(長崎-上海)開設、日本初の外国定期航路。太平洋郵便汽船会社と競争。同年5月大久保利通の海運三策で民営助成を採択
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 三 彌太郎の三菱事業に対する経綸」
    • [28]1875年、太平洋郵便汽船会社との競争に際し、岩崎弥太郎は航海の大権を取り戻すためと社員に方針を示した
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 一 第一命令書」
    • [29]1875年9月第一命令書で汽船13隻を無代価下付・年25万円の助成、郵便汽船三菱会社に改称、10月太平洋郵便汽船の上海支線と汽船4隻等を78万ドルで買収し同社は30年間撤収
    • [30]1875年9月第一命令書で汽船13隻を無代価下付・年25万円の助成、郵便汽船三菱会社に改称、10月太平洋郵便汽船の上海支線と汽船4隻等を78万ドルで買収し同社は30年間撤収
    • [31]1875年9月第一命令書で汽船13隻を無代価下付・年25万円の助成、郵便汽船三菱会社に改称、10月太平洋郵便汽船の上海支線と汽船4隻等を78万ドルで買収し同社は30年間撤収
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 二 海運事業の軌跡」
    • [32]1876年8月までにPM・P&Oとの競争を制す。荷為替金融(大蔵省から年7分、1航海5万円上限)、1876年6月大阪に為替局。同年9月第二命令書で助成と管理を15年保証。1877年西南戦争の御用船収入2,999,342円(一般運賃収入1,163,040円)。1880年汽船35隻・25,938屯(全国比62.9%)
    • [33]1876年8月までにPM・P&Oとの競争を制す。荷為替金融(大蔵省から年7分、1航海5万円上限)、1876年6月大阪に為替局。同年9月第二命令書で助成と管理を15年保証。1877年西南戦争の御用船収入2,999,342円(一般運賃収入1,163,040円)。1880年汽船35隻・25,938屯(全国比62.9%)
    • [34]1876年8月までにPM・P&Oとの競争を制す。荷為替金融(大蔵省から年7分、1航海5万円上限)、1876年6月大阪に為替局。同年9月第二命令書で助成と管理を15年保証。1877年西南戦争の御用船収入2,999,342円(一般運賃収入1,163,040円)。1880年汽船35隻・25,938屯(全国比62.9%)
    • [35]1876年8月までにPM・P&Oとの競争を制す。荷為替金融(大蔵省から年7分、1航海5万円上限)、1876年6月大阪に為替局。同年9月第二命令書で助成と管理を15年保証。1877年西南戦争の御用船収入2,999,342円(一般運賃収入1,163,040円)。1880年汽船35隻・25,938屯(全国比62.9%)
    • [36]1876年8月までにPM・P&Oとの競争を制す。荷為替金融(大蔵省から年7分、1航海5万円上限)、1876年6月大阪に為替局。同年9月第二命令書で助成と管理を15年保証。1877年西南戦争の御用船収入2,999,342円(一般運賃収入1,163,040円)。1880年汽船35隻・25,938屯(全国比62.9%)
    • [37]1876年8月までにPM・P&Oとの競争を制す。荷為替金融(大蔵省から年7分、1航海5万円上限)、1876年6月大阪に為替局。同年9月第二命令書で助成と管理を15年保証。1877年西南戦争の御用船収入2,999,342円(一般運賃収入1,163,040円)。1880年汽船35隻・25,938屯(全国比62.9%)
    • [38]1876年8月までにPM・P&Oとの競争を制す。荷為替金融(大蔵省から年7分、1航海5万円上限)、1876年6月大阪に為替局。同年9月第二命令書で助成と管理を15年保証。1877年西南戦争の御用船収入2,999,342円(一般運賃収入1,163,040円)。1880年汽船35隻・25,938屯(全国比62.9%)

1880年〜高島炭坑で得た自前の荷と、共同運輸との合併で生まれた日本郵船

1880年、岩崎弥太郎氏は福澤諭吉氏・大隈重信氏らと貿易商会を設立し、資本金20万円のうち8万円を出資した。貿易商会の主な事業は生糸の直輸出で、三菱から取締役兼支配人として入ったのは朝吹英二氏である。1881年3月には後藤象二郎氏と高島炭坑の譲渡契約を結び、5月に岩崎弥太郎氏が坑主となった。高島炭坑は1874年11月に後藤象二郎氏へ払い下げられた後、資金面で行き詰まっていた。三菱は1882年に高島炭坑で25万3,677トンを出炭し、上海・香港への輸出と長崎での船用炭に販売した。高島炭と吉岡銅は社炭・社銅と呼ばれ、岩崎弥太郎氏が求めてきた自己貨物の中心にあたる。1881年の高島炭坑取得に続く石炭輸出が、三菱にとって本格的な貿易進出の始まりとなった。

  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 五 海運会社下に於ける商事部門」
    • [39]1880年に福澤諭吉・大隈重信らと有限責任貿易商会を設立(資本金20万円のうち彌太郎8万円、生糸直輸出、朝吹英二が取締役兼支配人)。高島炭と吉岡銅は社炭・社銅として自己貨物の中心
    • [40]1880年に福澤諭吉・大隈重信らと有限責任貿易商会を設立(資本金20万円のうち彌太郎8万円、生糸直輸出、朝吹英二が取締役兼支配人)。高島炭と吉岡銅は社炭・社銅として自己貨物の中心
    • [41]高島炭坑は1874年11月後藤象二郎に払下げ、資金難で1881年3月彌太郎が譲渡契約、5月坑主。1882年出炭253,677屯、上海・香港等への輸出と長崎売炭
    • [42]高島炭坑は1874年11月後藤象二郎に払下げ、資金難で1881年3月彌太郎が譲渡契約、5月坑主。1882年出炭253,677屯、上海・香港等への輸出と長崎売炭
    • [43]高島炭坑は1874年11月後藤象二郎に払下げ、資金難で1881年3月彌太郎が譲渡契約、5月坑主。1882年出炭253,677屯、上海・香港等への輸出と長崎売炭
    • [44]1880年に福澤諭吉・大隈重信らと有限責任貿易商会を設立(資本金20万円のうち彌太郎8万円、生糸直輸出、朝吹英二が取締役兼支配人)。高島炭と吉岡銅は社炭・社銅として自己貨物の中心
  • 産業フロンティア物語 第1「商社〈三菱商事〉」(1965)
    • [45]三菱の本格的な貿易進出は1881年、後藤象二郎から高島炭礦を買収し石炭を輸出したのが最初

1881年10月の明治14年の政変で、岩崎弥太郎氏を支援してきた大蔵卿の大隈重信氏が失脚した。後任の大蔵卿の松方正義氏は緊縮財政を進め、景気の底は1884年にあたる。政府は三菱の保護から抑圧へ転じ、1882年2月28日の第三命令書で本業を海上運漕に限り、商品売買を禁じた。同年5月に農商務卿の西郷従道氏が三菱に対抗する汽船会社の新設を上申し、10月に共同運輸会社が発足した。1883年1月以降、郵便汽船三菱会社は国内の主要航路で共同運輸会社との激しい競争に入った。貿易商会も後援者の大隈重信氏を失い、横浜正金銀行の為替取組みを止められて打撃を受けた。貿易商会の生糸輸出は、外国商館の貿易に対抗する試みとして結局失敗に終わった。

  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 三 彌太郎の三菱事業に対する経綸」
    • [46]1881年10月明治14年の政変で大隈重信失脚、松方正義の緊縮財政で景気は1884年に底
    • [47]1881年10月明治14年の政変で大隈重信失脚、松方正義の緊縮財政で景気は1884年に底
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 四 海運業閉業」
    • [48]政変後政府は三菱抑圧策に転じ、1882年2月28日第三命令書(海上運漕専一・商品売買禁止)、同年5月西郷従道が対抗会社新設を上申し10月共同運輸会社設立、1883年1月以降競争
    • [49]政変後政府は三菱抑圧策に転じ、1882年2月28日第三命令書(海上運漕専一・商品売買禁止)、同年5月西郷従道が対抗会社新設を上申し10月共同運輸会社設立、1883年1月以降競争
    • [50]政変後政府は三菱抑圧策に転じ、1882年2月28日第三命令書(海上運漕専一・商品売買禁止)、同年5月西郷従道が対抗会社新設を上申し10月共同運輸会社設立、1883年1月以降競争
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 五 海運会社下に於ける商事部門」
    • [51]貿易商会は政変で大隈重信を失い、松方大蔵卿の下で横浜正金銀行の為替取組みを禁じられ打撃、1886年以降営業停止
  • 産業フロンティア物語 第1「商社〈三菱商事〉」(1965)
    • [52]岩崎弥太郎が福沢諭吉・大隈重信と共同出資した横浜の貿易会社は生糸輸出で外人商館貿易に対抗したが失敗

共同運輸会社との競争のさなか、岩崎弥太郎氏は1885年2月7日に病没した。同月、弟の岩崎弥之助氏が郵便汽船三菱会社の社長に就任。岩崎弥之助氏はまず政府からの借入金を全額返済し、命令書の拘束から離れた。同月の社長通達で、社長と支配人の本給を減らし、社員には冗費と冗員を省くよう求めた。政府と共同運輸会社にも打開の動きが生じ、1885年8月に両社の合併案がまとまった。同年9月29日に日本郵船会社が設立され、三菱は海運資産と横浜三菱製鉄所を移し、従業員2,197人のうち515人を移籍させた。残った炭坑・鉱山と商事の事業は、1886年に岩崎弥之助氏が設けた三菱社の下に置かれた。

  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 四 海運業閉業」
    • [53]1885年2月7日彌太郎病没、彌之助が政府借款を一括返済、社長通達で本給減額。同年8月合併案同意、9月29日日本郵船設立、海運資産と横浜三菱製鉄所を移譲、従業員2,197人中515名移籍
    • [55]1885年2月7日彌太郎病没、彌之助が政府借款を一括返済、社長通達で本給減額。同年8月合併案同意、9月29日日本郵船設立、海運資産と横浜三菱製鉄所を移譲、従業員2,197人中515名移籍
    • [56]1885年2月7日彌太郎病没、彌之助が政府借款を一括返済、社長通達で本給減額。同年8月合併案同意、9月29日日本郵船設立、海運資産と横浜三菱製鉄所を移譲、従業員2,197人中515名移籍
    • [57]1885年2月7日彌太郎病没、彌之助が政府借款を一括返済、社長通達で本給減額。同年8月合併案同意、9月29日日本郵船設立、海運資産と横浜三菱製鉄所を移譲、従業員2,197人中515名移籍
    • [58]1885年2月7日彌太郎病没、彌之助が政府借款を一括返済、社長通達で本給減額。同年8月合併案同意、9月29日日本郵船設立、海運資産と横浜三菱製鉄所を移譲、従業員2,197人中515名移籍
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「巻頭 歴代社長」
    • [54]岩崎彌之助は郵便汽船三菱会社社長(1885年2月~1886年3月)、三菱社社長(1886年3月~1893年12月)
  • 産業フロンティア物語 第1「商社〈三菱商事〉」(1965)
    • [59]郵便汽船三菱会社が日本郵船に発展解消したため、海運以外の事業を統轄する目的で岩崎弥之助が1886年に三菱社をつくり、炭礦・鉱山・商事部門を置いた
参考文献[39]-[59]
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 五 海運会社下に於ける商事部門」
    • [39]1880年に福澤諭吉・大隈重信らと有限責任貿易商会を設立(資本金20万円のうち彌太郎8万円、生糸直輸出、朝吹英二が取締役兼支配人)。高島炭と吉岡銅は社炭・社銅として自己貨物の中心
    • [40]1880年に福澤諭吉・大隈重信らと有限責任貿易商会を設立(資本金20万円のうち彌太郎8万円、生糸直輸出、朝吹英二が取締役兼支配人)。高島炭と吉岡銅は社炭・社銅として自己貨物の中心
    • [41]高島炭坑は1874年11月後藤象二郎に払下げ、資金難で1881年3月彌太郎が譲渡契約、5月坑主。1882年出炭253,677屯、上海・香港等への輸出と長崎売炭
    • [42]高島炭坑は1874年11月後藤象二郎に払下げ、資金難で1881年3月彌太郎が譲渡契約、5月坑主。1882年出炭253,677屯、上海・香港等への輸出と長崎売炭
    • [43]高島炭坑は1874年11月後藤象二郎に払下げ、資金難で1881年3月彌太郎が譲渡契約、5月坑主。1882年出炭253,677屯、上海・香港等への輸出と長崎売炭
    • [44]1880年に福澤諭吉・大隈重信らと有限責任貿易商会を設立(資本金20万円のうち彌太郎8万円、生糸直輸出、朝吹英二が取締役兼支配人)。高島炭と吉岡銅は社炭・社銅として自己貨物の中心
    • [51]貿易商会は政変で大隈重信を失い、松方大蔵卿の下で横浜正金銀行の為替取組みを禁じられ打撃、1886年以降営業停止
  • 産業フロンティア物語 第1「商社〈三菱商事〉」(1965)
    • [45]三菱の本格的な貿易進出は1881年、後藤象二郎から高島炭礦を買収し石炭を輸出したのが最初
    • [52]岩崎弥太郎が福沢諭吉・大隈重信と共同出資した横浜の貿易会社は生糸輸出で外人商館貿易に対抗したが失敗
    • [59]郵便汽船三菱会社が日本郵船に発展解消したため、海運以外の事業を統轄する目的で岩崎弥之助が1886年に三菱社をつくり、炭礦・鉱山・商事部門を置いた
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 三 彌太郎の三菱事業に対する経綸」
    • [46]1881年10月明治14年の政変で大隈重信失脚、松方正義の緊縮財政で景気は1884年に底
    • [47]1881年10月明治14年の政変で大隈重信失脚、松方正義の緊縮財政で景気は1884年に底
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 四 海運業閉業」
    • [48]政変後政府は三菱抑圧策に転じ、1882年2月28日第三命令書(海上運漕専一・商品売買禁止)、同年5月西郷従道が対抗会社新設を上申し10月共同運輸会社設立、1883年1月以降競争
    • [49]政変後政府は三菱抑圧策に転じ、1882年2月28日第三命令書(海上運漕専一・商品売買禁止)、同年5月西郷従道が対抗会社新設を上申し10月共同運輸会社設立、1883年1月以降競争
    • [50]政変後政府は三菱抑圧策に転じ、1882年2月28日第三命令書(海上運漕専一・商品売買禁止)、同年5月西郷従道が対抗会社新設を上申し10月共同運輸会社設立、1883年1月以降競争
    • [53]1885年2月7日彌太郎病没、彌之助が政府借款を一括返済、社長通達で本給減額。同年8月合併案同意、9月29日日本郵船設立、海運資産と横浜三菱製鉄所を移譲、従業員2,197人中515名移籍
    • [55]1885年2月7日彌太郎病没、彌之助が政府借款を一括返済、社長通達で本給減額。同年8月合併案同意、9月29日日本郵船設立、海運資産と横浜三菱製鉄所を移譲、従業員2,197人中515名移籍
    • [56]1885年2月7日彌太郎病没、彌之助が政府借款を一括返済、社長通達で本給減額。同年8月合併案同意、9月29日日本郵船設立、海運資産と横浜三菱製鉄所を移譲、従業員2,197人中515名移籍
    • [57]1885年2月7日彌太郎病没、彌之助が政府借款を一括返済、社長通達で本給減額。同年8月合併案同意、9月29日日本郵船設立、海運資産と横浜三菱製鉄所を移譲、従業員2,197人中515名移籍
    • [58]1885年2月7日彌太郎病没、彌之助が政府借款を一括返済、社長通達で本給減額。同年8月合併案同意、9月29日日本郵船設立、海運資産と横浜三菱製鉄所を移譲、従業員2,197人中515名移籍
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「巻頭 歴代社長」
    • [54]岩崎彌之助は郵便汽船三菱会社社長(1885年2月~1886年3月)、三菱社社長(1886年3月~1893年12月)

出典・参考

10件
出典・参考
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第一章 四 廃藩置県と岩崎彌太郎」
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第二章 一 商事分野の開拓」
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第二章 二 海運専業と会社組織の整備」
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 三 彌太郎の三菱事業に対する経綸」
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 一 第一命令書」
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 二 海運事業の軌跡」
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 五 海運会社下に於ける商事部門」
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「第一部第三章 四 海運業閉業」
  • 三菱商事社史 上巻(1986)「巻頭 歴代社長」
  • 産業フロンティア物語 第1「商社〈三菱商事〉」(1965)

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