富士通:富士通信機製造の設立とFACOM100による電算機への転換
シーメンス技術の継承から純国産FACOMの自社開発へ
1935年〜自動交換機の国産化による富士電機からの分離独立
1923年9月の関東大震災で電話は壊滅的な打撃を受け、これを機に交換手による電話交換を自動交換方式へ切り替える方針が固まり、逓信省が音頭を取ってアメリカ式とドイツ式の自動交換機技術が通信機メーカー各社へ導入された。富士通の母体となった富士電機製造は、同じ1923年に古河電気工業とドイツのシーメンスとの提携契約にもとづいて設立され、1925年にシーメンスから電話交換装置の輸入と販売の事業を引き継いでいた。導入したドイツ式自動交換機の国産化は1932年から1933年にかけて成功し、1933年4月には川崎工場内に電話工場を建てて自動交換装置の製造を始め、同年9月に逓信省の指定工場となった。国産化の目処が立ったところで通信機を切り出す判断が下り、1935年6月、電話工場の設備と通信機関係の事業一切を継承して、資本金300万円の富士通信機製造株式会社が設立された。初代社長には富士電機製造取締役の吉村万治郎氏が就任した。
- 証券アナリストジャーナル 1968年2月号 岡田完二郎
- [1]1923年の関東大震災を契機に自動交換方式への切替が決まり、逓信省の主導で米式・独式の自動交換機技術が各社へ導入された
- [4]導入したドイツ式自動交換機の国産化は1932年から1933年にかけて成功
- 会社銀行八十年史(1955年)「富士通信機製造」
- [2]富士電機製造 1923年 古河電気工業とドイツ・シーメンスの提携契約にもとづき設立
- [3]1925年 富士電機製造がシーメンスから電話交換装置の輸入および販売事業を承継
- [5]1933年4月 川崎工場内に電話工場を建設し自動交換装置の製造を開始/同年9月 逓信省の指定工場となる
- [6]1935年6月 富士電機製造より電話工場設備および通信機関係の事業一切を継承し、資本金300万円で富士通信機製造株式会社を設立
- [7]初代社長に富士電機製造取締役の吉村万治郎が就任
発足時に富士電機から引き継いだのは電話交換装置・電話機・装荷線輪の三部門で、1937年には搬送通信装置の製造も加えた。同年8月には電話中継器と搬送電話装置についても逓信省の指定工場となり、1938年11月、川崎市上小田中に工場を新設して本店をここへ移した。日中戦争の後は軍需が激増し、1942年4月に長野県へ須坂工場を開設して電話機の製造に充て、同年11月には軍の要望にもとづいて超短波無線機の製造を始めている。1944年4月には川崎・須坂の両工場が軍需会社の指定を受け、需要のさらなる増大を受けて同年6月、茨城県に下館工場を開設し、それまで川崎工場が担っていた各種搬送機器の製造を引き継がせた。一つの工場で受けきれない量を、製品ごとに場所を分けて受ける体制が、この数年でできあがった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「富士通」
- [8]発足時に承継した三部門は電話交換装置・電話機・装荷線輪/1937年 搬送通信装置の製造を追加
- 会社銀行八十年史(1955年)「富士通信機製造」
- [9]1937年8月 電話中継器・搬送電話装置に関し逓信省の指定工場となる
- [11]1942年4月 長野県に須坂工場を開設し電話機を製造/同年11月 軍の要望にもとづき超短波無線機の製造を開始
- [12]1944年4月 川崎・須坂両工場が軍需会社の指定を受ける/同年6月 茨城県に下館工場を開設し川崎工場の各種搬送機器の製造を継承
- 富士通 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [10]1938年11月 本店を神奈川県川崎市上小田中へ移転
敗戦で軍需が消えたあとの再出発は、資本を積み直すところから始まった。1949年2月、企業再建整備計画にもとづいて未払込金300万円を切り捨てたうえで資本金2,700万円へ増資し、同年5月には東京証券取引所の再開と同時に株式を上場した。増資はその後も続き、1949年10月に5,000万円、1951年3月に1億円、1952年4月に2億円、1953年6月に3億円、1954年10月に6億円と、5年で20倍を超える積み上げになった。受け皿になったのは電気通信の復旧で、1954年9月期までの1年間の売上高は18億2,622万円、従業員は3,676人を数え、主な取引先には日本電信電話公社・日本国有鉄道・防衛庁・電力会社・私鉄が並んだ。1955年当時の社長は、富士電機製造の社長を兼ねていた和田恒輔氏だった。軍需のために建てた三つの工場は、そのまま公社の設備投資に応える生産拠点へ切り替えられた。
- 株式会社年鑑 1955年版「富士通信機製造」
- [13]1949年2月 企業再建整備計画にもとづき未払込金300万円切捨後、資本金2,700万円に増資
- [15]1949年10月 資本金5,000万円/1951年3月 1億円/1952年4月 2億円/1953年6月 3億円/1954年10月 6億円
- [16]1954年9月期までの1年間の売上高18億2,622万円/従業員3,676人/主な取引先は電電公社・国鉄・警察・防衛庁・電力会社・私鉄
- 富士通 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [14]1949年5月 東京証券取引所再開と同時に上場
- 会社銀行八十年史(1955年)「富士通信機製造」
- [17]1955年時点の富士通信機製造の社長は和田恒輔(富士電機製造の社長を兼務)
参考文献[1]-[17]
- 証券アナリストジャーナル 1968年2月号 岡田完二郎
- [1]1923年の関東大震災を契機に自動交換方式への切替が決まり、逓信省の主導で米式・独式の自動交換機技術が各社へ導入された
- [4]導入したドイツ式自動交換機の国産化は1932年から1933年にかけて成功
- 会社銀行八十年史(1955年)「富士通信機製造」
- [2]富士電機製造 1923年 古河電気工業とドイツ・シーメンスの提携契約にもとづき設立
- [3]1925年 富士電機製造がシーメンスから電話交換装置の輸入および販売事業を承継
- [5]1933年4月 川崎工場内に電話工場を建設し自動交換装置の製造を開始/同年9月 逓信省の指定工場となる
- [6]1935年6月 富士電機製造より電話工場設備および通信機関係の事業一切を継承し、資本金300万円で富士通信機製造株式会社を設立
- [7]初代社長に富士電機製造取締役の吉村万治郎が就任
- [9]1937年8月 電話中継器・搬送電話装置に関し逓信省の指定工場となる
- [11]1942年4月 長野県に須坂工場を開設し電話機を製造/同年11月 軍の要望にもとづき超短波無線機の製造を開始
- [12]1944年4月 川崎・須坂両工場が軍需会社の指定を受ける/同年6月 茨城県に下館工場を開設し川崎工場の各種搬送機器の製造を継承
- [17]1955年時点の富士通信機製造の社長は和田恒輔(富士電機製造の社長を兼務)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「富士通」
- [8]発足時に承継した三部門は電話交換装置・電話機・装荷線輪/1937年 搬送通信装置の製造を追加
- 富士通 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [10]1938年11月 本店を神奈川県川崎市上小田中へ移転
- [14]1949年5月 東京証券取引所再開と同時に上場
- 株式会社年鑑 1955年版「富士通信機製造」
- [13]1949年2月 企業再建整備計画にもとづき未払込金300万円切捨後、資本金2,700万円に増資
- [15]1949年10月 資本金5,000万円/1951年3月 1億円/1952年4月 2億円/1953年6月 3億円/1954年10月 6億円
- [16]1954年9月期までの1年間の売上高18億2,622万円/従業員3,676人/主な取引先は電電公社・国鉄・警察・防衛庁・電力会社・私鉄
1951年〜技術提携の勧奨を退けた電子計算機の自社開発
社長の岡田完二郎氏が1968年の講演で語ったところでは、電子計算機へ通じる出発点は戦時中にあった。米軍の暗号を解く必要に迫られた日本軍のために、富士通信機製造の技術者が二進法を研究し始め、それが後年の計算機開発の源になったという。製造そのものに乗り出したのは1951年5月である。1952年に手がけ始めたリレー式計算機は電磁気式ゆえ動作が遅かったものの、湯川秀樹博士の考案した難しい方程式を20時間で解き、喜ばれた例もある。受動部品である蓄電器・抵抗・インダクタンスの生産には大手の中で先んじて着手し、論理回路の研究も早い時期から進めていた。1954年には、日本で初めてのリレー式コンピューターFACOM 100を完成させている。
- 証券アナリストジャーナル 1968年2月号 岡田完二郎
- [18]戦時中に米軍暗号の解読のため技術者が二進法の研究を始め、それが電子計算機の開発に結びついた
- [20]リレー式は電磁気式であるため計算速度が遅かった
- [21]1952年からリレー式計算機の製作に着手し、湯川秀樹の方程式を20時間で解いた
- [22]蓄電器・抵抗・インダクタンスなど受動部品の生産を大手各社のなかで最初に開始し、論理回路の研究にも取り組んでいた
- 富士通 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [19]1951年5月 電子計算機の製造を開始
- 証券アナリストジャーナル 1984年10月号 渡辺和郎
- [23]1954年 日本で初めてのリレー式コンピューターFACOM 100を完成
電算機メーカー6社のうち、純国産の立場を守ったのは富士通信機製造ただ一社だった。発端は1957年で、電子工業振興臨時措置法ができたのち、通商産業省重工業局電子工業課の技術者が渡米し、IBMなど主要メーカーの工場を見て回った。視察の報告は、日本メーカーの水準とは比べようもない差があると伝えた。これを受けた通産省が外国メーカーとの技術提携を急ぐよう各社に促し、各社はその通りに提携を結んだ。岡田完二郎氏によれば、富士通信機製造にも誘いは来たが、自前の技術で苦心していたこともあって返答を保留していたという。1964年のニューヨーク世界博覧会には、自社で開発したFACOM 231を出品している。提携先を持たないことは輸出先に制約を受けないことでもあり、1963年の対ソ連向けを皮切りに、電算機の輸出は事実上の独占となった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「富士通」
- [24]電算機メーカー6社のなかで唯一の純国産
- [28]1964年 純国産のFACOM電算機231をニューヨーク世界博覧会へ出品
- [29]電算機の輸出は事実上の独占で、1963年の対ソ輸出をはじめフィリピン・ブルガリア・アメリカ・フランス・オーストラリアへの実績がある
- 証券アナリストジャーナル 1968年2月号 岡田完二郎
- [25]1957年 電子工業振興臨時措置法が制定され、通産省重工業局電子工業課の技術者が渡米しIBMなど主要メーカーの工場を視察
- [26]日本のメーカーの水準では比較にならないとの報告を受け、通産省は各メーカーへ外国メーカーとの技術提携を勧奨し、各社が提携を結んだ
- [27]富士通信機製造にも技術提携の勧誘があったが、自社技術で苦労していたため返事を致しかねていた
岡田完二郎氏が社長に就任した1960年まで、事業は部門に分けられていなかった。非能率な面が多いという判断から、通信工業部と電子工業部の二つに割っている。就任の時点では通信工業部の規模のほうが遥かに大きかったが、1967年度下期には電子工業部が上回る見通しとなり、1967年6月、商号は「富士通信機製造」から「富士通」へ改められた。1968年3月期の売上構成は、交換機・電話機が27%、無線伝送装置が23%で通信関係が50%、これに対して電子機器が27%、電子部品が15%で電子関係が42%を占めた。売上高そのものも、1963年3月期の229億1,000万円から1968年3月期の622億円へ2.7倍になっている。社名から「通信機」の三文字が消えたのは、電子工業部が通信工業部を上回る半年前だった。
- 証券アナリストジャーナル 1968年2月号 岡田完二郎
- [30]岡田完二郎の社長就任(1960年)まで事業は部門に分けられていなかった
- [31]非能率な面が多いとの判断から通信工業部と電子工業部の二部門へ分割
- [32]社長就任時点では通信工業部の規模が遥かに大きかったが、1967年度下期から電子工業部が上回る見通し
- 富士通 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [33]1967年6月 富士通株式会社に商号変更
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「富士通」
- [34]1968年3月期の売上構成は交換機・電話機27%、無線伝送装置23%、電子機器27%、電子部品15%
- 会社年鑑 1971年版
- [35]売上高 1963年3月期229億1,000万円/1968年3月期622億円
参考文献[18]-[35]
- 証券アナリストジャーナル 1968年2月号 岡田完二郎
- [18]戦時中に米軍暗号の解読のため技術者が二進法の研究を始め、それが電子計算機の開発に結びついた
- [20]リレー式は電磁気式であるため計算速度が遅かった
- [21]1952年からリレー式計算機の製作に着手し、湯川秀樹の方程式を20時間で解いた
- [22]蓄電器・抵抗・インダクタンスなど受動部品の生産を大手各社のなかで最初に開始し、論理回路の研究にも取り組んでいた
- [25]1957年 電子工業振興臨時措置法が制定され、通産省重工業局電子工業課の技術者が渡米しIBMなど主要メーカーの工場を視察
- [26]日本のメーカーの水準では比較にならないとの報告を受け、通産省は各メーカーへ外国メーカーとの技術提携を勧奨し、各社が提携を結んだ
- [27]富士通信機製造にも技術提携の勧誘があったが、自社技術で苦労していたため返事を致しかねていた
- [30]岡田完二郎の社長就任(1960年)まで事業は部門に分けられていなかった
- [31]非能率な面が多いとの判断から通信工業部と電子工業部の二部門へ分割
- [32]社長就任時点では通信工業部の規模が遥かに大きかったが、1967年度下期から電子工業部が上回る見通し
- 富士通 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- [19]1951年5月 電子計算機の製造を開始
- [33]1967年6月 富士通株式会社に商号変更
- 証券アナリストジャーナル 1984年10月号 渡辺和郎
- [23]1954年 日本で初めてのリレー式コンピューターFACOM 100を完成
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「富士通」
- [24]電算機メーカー6社のなかで唯一の純国産
- [28]1964年 純国産のFACOM電算機231をニューヨーク世界博覧会へ出品
- [29]電算機の輸出は事実上の独占で、1963年の対ソ輸出をはじめフィリピン・ブルガリア・アメリカ・フランス・オーストラリアへの実績がある
- [34]1968年3月期の売上構成は交換機・電話機27%、無線伝送装置23%、電子機器27%、電子部品15%
- 会社年鑑 1971年版
- [35]売上高 1963年3月期229億1,000万円/1968年3月期622億円
1964年〜日本電子計算機のレンタル制度と値引きの裁量幅
約50名の委員が1年半を費やして答申をまとめたのは1966年4月で、その部会を率いたのは富士通社長の岡田完二郎氏だった。部会が置かれたきっかけは、1964年に電子工業振興臨時措置法が7年延長された際、電子計算機工業の国際競争力を急ぎ高める方策を通商産業大臣が諮問したことで、これを受けて電子工業審議会の中に電子計算機政策部会ができた。答申の骨子は、メーカー各社が共同で出資する日本電子計算機会社を窓口とし、融資の対象を国産の技術で作って売る電子計算機に限るというもので、その同社は日本開発銀行と都市銀行から同じ額ずつ借り入れ、売上高全体の80%に相当する分をレンタルに回し、1967年時点で創立からの取扱高は500億円を上回っていた。同じころ専務の高羅芳光氏は、外国機を国内で作った「混血機」に国の資金を回すのは認めがたいと記している。
- 証券アナリストジャーナル 1968年2月号 岡田完二郎
- [36]電子計算機政策部会の部会長は岡田完二郎。委員約50名が1年半かけ1966年4月に答申
- [37]1964年 電子工業振興臨時措置法が7年延長され、通産大臣の諮問を受けて電子工業審議会に電子計算機政策部会を設置
- [38]答申は国産技術による電子計算機の製作販売に対してのみ日本電子計算機会社を通じて金融をつける内容。同社は開発銀行と都市銀行が同額融資
- ビジネス・コミュニケーション 1967年1月号「純国産電子計算機の開発のために」高羅芳光
- [39]日本電子計算機は全売上高の80%相当のレンタルを実行し、創立以来の取扱高は500億円を超えた
- [40]高羅芳光は、外国機を国内製造者で製作した「混血機」へ国家資金を流用することは容認しがたいと論じた
1960年代の後半、電子計算機の商いは機械単体から通信回線を含む仕組みへ移った。地方銀行協会に加盟する63行・4,076店が、本店間だけでなく支店間も含めた為替決済をすべてオンライン・リアルタイム方式で処理する計画を立て、設備は日本電信電話公社へ依頼され、公社は機器を富士通へ発注した。受注できたのは公社が国産技術を優先する方針を採っていたためだと岡田完二郎氏は述べている。これは公社直営のデータ通信の第一号となり、中央の電子計算機を含む全システムを富士通が担当した。システムは1966年7月から1967年8月まで一年余りをかけて完成し、大型電子計算機2台と通信網へ連結する設備が納入された。第一銀行の普通預金業務については当初IBMとの契約があったが、富士通の側から願い出て受注し、東京方面99店・口座数百数十万を引き受けている。
- 証券アナリストジャーナル 1968年2月号 岡田完二郎
- [41]地方銀行協会63行4,076店の為替決済をオンライン・リアルタイム方式で処理する計画で、電電公社が機器を富士通へ発注
- [42]受注の理由は電電公社が国産技術を優先する方針を採っていたため
- [44]1966年7月から1967年8月にかけてシステムが完成し、大型電子計算機2台と通信網連結設備を納入
- [45]第一銀行の普通預金業務は当初IBMとの契約があったが富士通が願い出て受注。東京方面99店、口座数百数十万
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「富士通」
- [43]電電公社直営のデータ通信第一号が地銀協のシステムで、中央電算機のFACOMをはじめ全システムを富士通が担当
1973年、日本アイ・ビー・エムが9%の値下げを発表した。前年の値下げ幅が3%だったのに対し、国産機と輸入販売機のいずれもほぼ同じ幅で下げており、資本自由化で業界が動揺する機会を捉えた措置とみられた。専務の小林大祐氏は、システムとして組めばソフトウエア料や保安サービス料が加わって大した値下げにはならないとして、対抗値下げはやらないと言い切った。代わりに広げたのが「裁量幅」で、主要大学の計算センター向け入札での50〜60%引きから、中小ユーザーへの要員・保安・ソフトウェア開発の無料提供までを含むこの値引きの余地こそ、外資に対して国産メーカーが競争優位を得た原動力だった。1973年3月期の売上高は1,779億円、うち電算機関連は1972年度で約960億円を占めており、価格表ではなく値引きの裁量で受けるほかに、当面の手はなかった。
- 日経ビジネス 1973年5月28日号
- [46]1973年 日本アイ・ビー・エムが9%の値下げを発表
- [47]前年の値下げ幅は3%で、今回は国産機・輸入販売機ともほぼ同幅の値下げだった
- [48]小林大祐専務は、システムとして組めばソフトウエア料・保安サービス料が加わり大した値下げにならないとして対抗値下げを否定
- [49]「裁量幅」は主要大学の計算センター向け入札の50〜60%引きから中小ユーザーへの要員・保安・ソフトウェア開発の無料提供までを含み、国産メーカーがシェアを伸ばした原動力
- [51]1972年度の電算機関連の売上は約960億円
- 会社年鑑 1976年版
- [50]売上高 1973年3月期1,779億円
参考文献[36]-[51]
- 証券アナリストジャーナル 1968年2月号 岡田完二郎
- [36]電子計算機政策部会の部会長は岡田完二郎。委員約50名が1年半かけ1966年4月に答申
- [37]1964年 電子工業振興臨時措置法が7年延長され、通産大臣の諮問を受けて電子工業審議会に電子計算機政策部会を設置
- [38]答申は国産技術による電子計算機の製作販売に対してのみ日本電子計算機会社を通じて金融をつける内容。同社は開発銀行と都市銀行が同額融資
- [41]地方銀行協会63行4,076店の為替決済をオンライン・リアルタイム方式で処理する計画で、電電公社が機器を富士通へ発注
- [42]受注の理由は電電公社が国産技術を優先する方針を採っていたため
- [44]1966年7月から1967年8月にかけてシステムが完成し、大型電子計算機2台と通信網連結設備を納入
- [45]第一銀行の普通預金業務は当初IBMとの契約があったが富士通が願い出て受注。東京方面99店、口座数百数十万
- ビジネス・コミュニケーション 1967年1月号「純国産電子計算機の開発のために」高羅芳光
- [39]日本電子計算機は全売上高の80%相当のレンタルを実行し、創立以来の取扱高は500億円を超えた
- [40]高羅芳光は、外国機を国内製造者で製作した「混血機」へ国家資金を流用することは容認しがたいと論じた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「富士通」
- [43]電電公社直営のデータ通信第一号が地銀協のシステムで、中央電算機のFACOMをはじめ全システムを富士通が担当
- 日経ビジネス 1973年5月28日号
- [46]1973年 日本アイ・ビー・エムが9%の値下げを発表
- [47]前年の値下げ幅は3%で、今回は国産機・輸入販売機ともほぼ同幅の値下げだった
- [48]小林大祐専務は、システムとして組めばソフトウエア料・保安サービス料が加わり大した値下げにならないとして対抗値下げを否定
- [49]「裁量幅」は主要大学の計算センター向け入札の50〜60%引きから中小ユーザーへの要員・保安・ソフトウェア開発の無料提供までを含み、国産メーカーがシェアを伸ばした原動力
- [51]1972年度の電算機関連の売上は約960億円
- 会社年鑑 1976年版
- [50]売上高 1973年3月期1,779億円
1935年〜1973年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 43 | n/a | n/a | 3 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 54 | +26.2% | n/a | 4 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 63 | +14.9% | n/a | 5 | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 88 | +40.5% | n/a | 7 | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 138 | +55.7% | n/a | 11 | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 195 | +41.8% | 25 | 16 | 8 | 4.4% | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 229 | +17.0% | 29 | 19 | 11 | 4.9% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 485 | n/a | n/a | n/a | 27 | 5.6% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 622 | +28.2% | n/a | n/a | 39 | 6.3% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 938 | +50.8% | n/a | n/a | 56 | 6.0% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 1,194 | +27.3% | n/a | n/a | 79 | 6.6% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 1,526 | +27.8% | n/a | 250 | 102 | 6.7% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 1,642 | +7.6% | n/a | 187 | 80 | 4.9% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 1,779 | +8.3% | n/a | 174 | 84 | 4.7% | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版 半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑
出典・参考
10件
- 富士通 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
- 会社銀行八十年史(1955年)「富士通信機製造」
- 株式会社年鑑 1955年版「富士通信機製造」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「富士通」
- 会社年鑑 1971年版
- 会社年鑑 1976年版
- ビジネス・コミュニケーション 1967年1月号「純国産電子計算機の開発のために」高羅芳光
- 証券アナリストジャーナル 1968年2月号 岡田完二郎
- 日経ビジネス 1973年5月28日号
- 証券アナリストジャーナル 1984年10月号 渡辺和郎