岡田完二郎

富士通・元富士通へ社名変更

Okada Kanjiro(敬称略)

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社長就任 1959年11月
生年月日 1891年1月1日
学歴 東京高等商業学校
出自 古河鉱業
社長就任までの出自
出自

1964年1月時点の役員名簿に代表取締役社長として載り、前歴は古河鉱業である。富士通信機製造は1961年3月時点で富士電機製造が48.4%を持つ筆頭株主の会社だった。同じ断面の上位10位に並ぶ個人株主は石川弥太郎氏だけで、岡田氏の名は無い。1955年9月時点の筆頭株主も富士電機製造である。株式の裏づけを持たないまま古河グループから経営を託された社長といえる。

社長に選ばれた経緯
抜擢

1959年10月の時点で、IBMの日本進出に向けた申請が既に提出されており、国産化を急ぐには協力の体制を組むことが先決とされていた。富士通信機製造の取締役社長へ就いたのはその翌月の11月で、翌1960年6月には貿易・為替自由化計画の大綱が決まり、自由化への備えも迫られた。人員の差も大きく、1962年時点でIBMが従業員7万5000人を抱え、前年に16億9496万ドルを売り上げていたのに対し、日本のメーカー7社の電子計算機部門は全員を合わせても7000人に満たなかった。社外の経営者を、入社と同時に社長へ据えた人事である。

在任中の主な施策
施策

1960年12月に大阪証券取引所、1961年10月に名古屋証券取引所へ上場した。1962年5月には富士通研究所を設置し、開発の担い手を社内に抱えている。1963年には経営の要諦を変化への対応、すなわち機に応じてカジをとっていくことに置いた。1964年には純国産のFACOM電算機231をニューヨーク世界博覧会へ出品した。1967年6月に社名を富士通信機から富士通へ改め、1968年3月期の売上構成は通信機関係50%・電子関係42%となった。

在任の評価
評価

執筆予定

経歴 1891〜1970年
在任中の業績
就任前(FY58)63億円
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
変化-

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