富士通 脱IBM路線での多角化 互換路線に頼らない通信・AI・パソコンという新市場への同時攻勢
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何をなぜ決めたか
- 概要
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1980年に汎用機で日本IBMを追い抜いた富士通が、その後の成長の限界を見越して"脱IBM"を掲げ、通信機・AI・パソコンなど汎用機以外の新市場へ多角化を仕掛けた1980年代半ばの判断。この多角化が後の3本柱体制を厚くした。
- 背景
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IBM追撃時代に富士通がとった汎用コンピューターへの過度の傾斜は、追い抜いた後にかえって重荷となった。分散処理の普及で汎用機中心の体制にほころびが見え、 『トップメーカーというだけでは盛り上がらない』 空虚が指摘されていた。
- 内容
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汎用機一本足からの脱却を掲げ、通信機・AI・パソコンといった新市場へ製品攻勢をかけた。C&Cを掲げる日本電気に対抗し、コンピューターと通信を組み合わせた事業の幅を広げ、汎用機以外の収益源を育てようとした。
- 含意
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追い抜いた後に何を目指すかへの答えが多角化であった。事業の幅を広げた選択は3本柱体制の厚みを生んだ一方、通信・コンピュータ・半導体を同時に抱える構造が、1990年代末に三つが同時に揺らぐ弱さの遠因にもなった。
いつ何が起きたか 4件
筆者の見解
追い抜いた先に、何を目指すか
この多角化の意味は、成功のあとに訪れる方向の喪失にどう向き合ったか、という点にある。追いかける目標があるうちは、汎用機でIBMを抜くという一途さが力になった。だが抜いてしまうと、その一途さは行き場を失った。1985年の"脱IBM"は、目標を失った会社が新しい成長軸を自分で立てようとした試みであったのだろう。追う対象があった時代の強さと、それを失った後の難しさが、同じ会社に同居していた。
もっとも、広げることと統合することは別である。通信・コンピュータ・半導体という3本柱は、好況期には総合力の厚みとなり、不況期には三つ同時の損失となった。多角化そのものが誤りだったのではなく、広げた事業をどう選び、どこへ絞るかという次の判断が伴わなかったことに難しさがあったといえる。1985年に広げた幅を、20年後に富士通はふたたび絞り込むことになる。追い抜いた先に何を目指すかという問いは、その後も繰り返し姿を変えて現れた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
業績の推移
同じ問いに直面した会社
参考文献
- 日経ビジネス 1985年11月18日号
- 日経ビジネス 1985年6月24日号
- 日経ビジネス 1982年5月31日号
- 富士通 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- 富士通 会社年鑑(1986年版・単体)