「脱IBM」多角化——通信・AI・パソコンへの新市場攻勢

汎用機でIBMを追い抜いた後、一本足の成功をどう組み替えるか

更新:

時期 1985年11月
意思決定者 山本卓眞 社長
論点 汎用機依存からの多角化と成長軸の拡張
概要
1980年に汎用機で日本IBMを追い抜いた富士通が、その後の成長の限界を見越して「脱IBM」を掲げ、通信機・AI・パソコンなど汎用機以外の新市場へ多角化を仕掛けた1980年代半ばの判断。この多角化が後の3本柱体制を厚くした。
背景
IBM追撃時代に富士通がとった汎用コンピューターへの過度の傾斜は、追い抜いた後にかえって重荷となった。分散処理の普及で汎用機中心の体制にほころびが見え、「トップメーカーというだけでは盛り上がらない」空虚が指摘されていた。
内容
汎用機一本足からの脱却を掲げ、通信機・AI・パソコンといった新市場へ製品攻勢をかけた。C&Cを掲げる日本電気に対抗し、コンピューターと通信を組み合わせた事業の幅を広げ、汎用機以外の柱を育てようとした。
含意
追い抜いた後に何を目指すかへの答えが多角化であった。事業の幅を広げた選択は3本柱体制の厚みを生んだ一方、通信・コンピュータ・半導体を同時に抱える構造が、1990年代末に三つが同時に揺らぐ弱さの遠因にもなった。
筆者の見解

追い抜いた先に、何を目指すか

この多角化の意味は、成功のあとに訪れる方向の喪失にどう向き合ったか、という点にある。追いかける目標があるうちは、汎用機でIBMを抜くという一途さが力になった。だが抜いてしまうと、その一途さは行き場を失った。1985年の「脱IBM」は、目標を失った会社が新しい成長軸を自分で立てようとした試みであったとみることができる。追う対象があった時代の強さと、それを失った後の難しさが、同じ会社に同居していた。

もっとも、広げることと束ねることは別である。通信・コンピュータ・半導体という3本柱は、好況期には総合力の厚みとなり、不況期には三つ同時の損失となった。多角化そのものが誤りだったのではなく、広げた事業をどう選び、どこへ絞るかという次の判断が伴わなかったことに難しさがあったといえる。1985年に広げた幅を、20年後に富士通はふたたび絞り込むことになる。追い抜いた先に何を目指すかという問いは、その後も繰り返し姿を変えて現れた。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

追い抜いた後に訪れた「空虚」

1980年、富士通は国内売上で日本IBMを上回り、汎用機で巨人を追い抜いた企業として海外からも特別の評価を受けた。だが頂点に立った直後から、追撃時代の勢いが行き場を失い始めた。1982年の日経ビジネスは、コンピューターのトップメーカーというだけでは企業イメージが盛り上がらない時代を迎えたと書き、猛烈に追いかけてきた会社を襲う「空虚」を指摘した。目標であったIBMを抜いたことが、次に何を目指すのかという問いを突きつけた[1]

空虚の正体は、成功を支えてきた事業構造そのものにあった。同じ記事は、汎用コンピューター中心の体制にほころびが見え始めたと指摘する。大型機を据えて情報を集中処理する従来のシステムが、パーソナル・コンピューターによる分散処理の普及で揺らぎ、コンピューターと通信が一体となる時代が近づいていた。C&Cを掲げる日本電気に比べ、富士通の戦略は判然としないとも評された。追撃時代の汎用機への傾斜を、みずから修正する必要が迫っていた[2]

決断

「脱IBM」を掲げ、新市場へ攻める

富士通が選んだ答えは、汎用機一本足からの脱却であった。1985年、同社は「脱IBM」を掲げ、通信機・AI・パソコンといった汎用機以外の新市場へ製品攻勢をかけた。互換機でIBMを追った時代の一途さを、複数の事業へ広げていく方向へ切り替える判断であった。コンピューターと通信を組み合わせ、C&Cを掲げる日本電気に対抗できる事業の幅を築こうとした[3]

パソコンは、その新市場攻勢の先鋒であった。1985年半ばには流通市場が驚くほどの新製品攻勢をかけ、業務用の汎用機とは異なる大衆市場への足がかりを探った。官公庁や大企業の電算機室を相手にしてきた会社が、店頭や一般ユーザーという未知の顧客層へ踏み込む試みでもあった。汎用機で築いた技術と信用を、性格の異なる市場でどこまで通用させられるかが問われた[4]

結果

3本柱の厚みと、同時に揺らぐ弱さ

多角化は、富士通を通信機・コンピュータ・半導体の3本柱を抱える総合ICTメーカーへと育てた。独自技術とIBM互換機のソフト互換性、DRAMの内製と通信インフラの強みを組み合わせ、1990年代半ばまでは総合力の厚みで勝負できた。事業ポートフォリオの広さが強みとなり、戦後の日本の電機産業を代表する全方位型メーカーとしてピークを迎えた[5]

だが同じ広さが、やがて弱さへ転じた。DRAMは韓国勢の台頭で価格が崩れ、汎用機は分散処理の普及で市場が縮み、通信機は国内成熟と海外競争に直面する。1990年代末のITバブルと2001年からの通信不況が重なると、3本柱は同時に揺らぎ、2002年3月期の連結最終赤字3,825億円へつながった。多角化で広げた事業の幅が、危機のときには三つ同時の損失として跳ね返った[6]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1985年11月18日号「富士通"脱IBM"で通信・AIの新市場攻める」
  • 日経ビジネス 1985年6月24日号「富士通のパソコン戦略"流通市場があきれる新製品攻勢"の胸算用」
  • 日経ビジネス 1982年5月31日号「富士通・IBM打倒後に猛烈企業を襲う"空虚"」
  • 富士通 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
  • 富士通 会社年鑑(1986年版・単体)