第2章 年〜年

日本航空:輸送実績世界一と日航123便の御巣鷹山墜落

航空憲法の路線割譲から1987年の完全民営化へ

1970年〜航空憲法が定めた事業分野と、朝田静夫社長の既存路線堅持

1970年の閣議了解と1972年の運輸大臣の示達は、のちに航空憲法と呼ばれた。これによって日本航空の路線は国際線と国内幹線に限られ、経営は手足を縛られた形になった。とくに国内幹線は地名を挙げて規定されたため、その後の航空旅客事情の変化への対応が難しくなり、国内でシェアを落とす大きな要因となった。1971年5月には東亜国内航空が設立されている。同じ1971年、運輸省事務次官を経て1963年に日本航空の専務へ入った朝田静夫氏が社長に就いた。国際線の免許を独占する会社は、同時に路線を制度で縛られる会社でもあった。

  • Decide 1985年(岩淵明男)
    • [1]1970年の閣議了解と1972年の運輸大臣の示達はいわゆる航空憲法と呼ばれた
    • [2]航空憲法によって日本航空は手足を縛られた形での経営を余儀なくされた
    • [3]航空憲法で日航の路線は国際線と国内幹線と決められ、国内幹線は地名を挙げて規定されたため航空旅客事情の変化への対応が困難となり、国内でシェアを落とす大きな要因となった
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1971年5月に東亜国内航空が設立された
  • 日経ビジネス 1973年12月24日号 略歴
    • [5]朝田静夫は運輸省事務次官を経て1963年に日本航空専務、1969年に副社長、1971年に社長へ就任した

全日本空輸は中国や東南アジアへ定期便を飛ばしたがっていたが、日本航空は自社の路線を譲らない姿勢を崩さなかった。何社もが強引に参入すれば協定上の便数の枠を互いに食い合うことになる、というのが反対の根拠である。朝田社長の立場は制度の決めた役割分担を守ることにあり、1973年12月のインタビューでは、国際線は世界のほとんどの国で1国1社が原則であって、国営と民間の航空会社に同じ業務を担わせる行政はほかにないと語っている。国内線は他社に委ねてはどうかと問われると、パンアメリカンの大赤字は国内線がないことに原因があると返し、集約や合併については『合併も一つの考え方ですが、現実には創立の精神も違いますしね。輸送分野、機能を画然と分けてやるべきだと思うんです』と述べた。制度の線引きを動かす考えは、会社の側にもなかった。

  • 日経ビジネス 1973年12月24日号
    • [6]全日本空輸が中国・東南アジアへの定期便を希望していた局面で、日本航空側の主張は既存路線堅持であった
    • [7]朝田静夫社長は、力にまかせて複数で乗り込めば東南アジアでの権益の実行に障害となり、航空協定で決まった便数をめぐって共食いになると述べた
    • [8]朝田静夫社長は1973年12月のインタビューで、国際航空は世界の大多数の国が1国1社の基本方針をとっており、国営航空と民間航空が同じ仕事をする不合理な航空行政をとっている国はないと述べた
    • [9]国内線を他社に任せる案について朝田静夫社長は、パンアメリカンが大幅赤字をかかえて困っているのは国内線を持たないためだと答えた

国際線では海外の航空会社と、国内線では追い上げる全日空と、競争が同時に進んでいた。そこへ石油危機が二度、収支を揺さぶった。1974年3月期の経常利益は前期の132.89億円から11億円へ落ち込み、1976年3月期には98.05億円の経常赤字となった。第2次石油危機では、1978年度に746億円だった燃油費が1979年度には1,500億円に届く勢いとなり、1979年11月末の経常利益は前年同期の半分にとどまった。朝田社長は1980年の年頭、運賃の値上げと石油の量の制約がある以上、従来並みの高い成長は期待できないとし、1月から3月までの残りを正念場と位置づけた。

  • 80年代わが社の戦略(1980年)「日本航空 朝田静夫」
    • [10]1980年当時の日本航空は国際線における海外列強との競争と、国内における全日空の追い上げに同時に直面していた
    • [13]燃油費は1978年度の746億円から1979年度は1,500億円に達しようとし、1979年11月末時点で経常利益は前年同期に対し半減していた
    • [14]朝田静夫社長は1980年の年頭に、運賃値上げと石油の量的制約でこれまでのような高度成長は望めず、残る1月から3月は正念場であると述べた
  • 日本航空 会社年鑑(1976年版・単体業績)
    • [11]単体の経常利益は1973年3月期の132.89億円から1974年3月期には11億円へ減少した
  • 日本航空 会社年鑑(1986年版・単体業績)
    • [12]1976年3月期の単体経常損益は98.05億円の赤字であった
参考文献[1]-[14]
  • Decide 1985年(岩淵明男)
    • [1]1970年の閣議了解と1972年の運輸大臣の示達はいわゆる航空憲法と呼ばれた
    • [2]航空憲法によって日本航空は手足を縛られた形での経営を余儀なくされた
    • [3]航空憲法で日航の路線は国際線と国内幹線と決められ、国内幹線は地名を挙げて規定されたため航空旅客事情の変化への対応が困難となり、国内でシェアを落とす大きな要因となった
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1971年5月に東亜国内航空が設立された
  • 日経ビジネス 1973年12月24日号 略歴
    • [5]朝田静夫は運輸省事務次官を経て1963年に日本航空専務、1969年に副社長、1971年に社長へ就任した
  • 日経ビジネス 1973年12月24日号
    • [6]全日本空輸が中国・東南アジアへの定期便を希望していた局面で、日本航空側の主張は既存路線堅持であった
    • [7]朝田静夫社長は、力にまかせて複数で乗り込めば東南アジアでの権益の実行に障害となり、航空協定で決まった便数をめぐって共食いになると述べた
    • [8]朝田静夫社長は1973年12月のインタビューで、国際航空は世界の大多数の国が1国1社の基本方針をとっており、国営航空と民間航空が同じ仕事をする不合理な航空行政をとっている国はないと述べた
    • [9]国内線を他社に任せる案について朝田静夫社長は、パンアメリカンが大幅赤字をかかえて困っているのは国内線を持たないためだと答えた
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「日本航空 朝田静夫」
    • [10]1980年当時の日本航空は国際線における海外列強との競争と、国内における全日空の追い上げに同時に直面していた
    • [13]燃油費は1978年度の746億円から1979年度は1,500億円に達しようとし、1979年11月末時点で経常利益は前年同期に対し半減していた
    • [14]朝田静夫社長は1980年の年頭に、運賃値上げと石油の量的制約でこれまでのような高度成長は望めず、残る1月から3月は正念場であると述べた
  • 日本航空 会社年鑑(1976年版・単体業績)
    • [11]単体の経常利益は1973年3月期の132.89億円から1974年3月期には11億円へ減少した
  • 日本航空 会社年鑑(1986年版・単体業績)
    • [12]1976年3月期の単体経常損益は98.05億円の赤字であった

1971年〜運輸省が迫った路線の割譲と、外国人操縦士が残した社内の段差

路線は割譲されていった。朝田氏が社長を務めた1971年から1981年までの10年は、日本航空にとって路線の割譲の時代であった。割譲を迫ったのは出身母体の運輸省であり、その割譲先は主として全日空だった。社長交代の会見では前任者が後任を持ち上げるのが通例であり、1981年6月30日に東京・丸の内の本社で開かれた交代会見で朝田氏が『この10年間、楽しいことは何一つなかった。毎日が針のムシロであった』と語ったことは、異例の発言として記憶された。路線を命綱とする航空会社で、運輸官僚だった社長がもとの役所に路線を削られ続けるという構図があった。

  • Decide 1985年(岩淵明男)
    • [15]朝田静夫が社長を務めた1971年から1981年までの10年間は、日本航空にとって路線の割譲・権利割譲の時代であった
    • [16]路線の割譲は出身母体の運輸省から迫られ、主として運輸省事務次官出身の若狭得治が率いる全日空に対して行われた
    • [17]1981年6月30日に東京・丸の内の本社で開かれた社長交代の記者会見は、前社長が後任を持ち上げる通例と異なり、異例なものとしてマスコミの間で語り草になった

社内には別の段差が残っていた。戦後の空白でジェット機の操縦士養成が追いつかず、機材の稼働率を上げるために外国人操縦士を大量に採用したことが、一般職員と運航乗務員の待遇に大きな格差を生んだ。格差は、乗務員を自宅から空港までハイヤーで送り迎えするまでに広がっている。生え抜きの社長は1981年6月の高木養根氏が初めてで、同氏は1940年に大日本航空に入社し、1951年に旧日本航空へ転じた経歴を持つ。社内に待望論があるなかでの就任であり、当時は労働組合が四つに割れ、幹部どうしの不和と並んで経営の根本を揺るがす問題になっていた。就任直後に高木氏が社内へ求めたのはサービス精神で、飛行機は20年前、30年前とは違って一部の客が使うものではなくなり、国民全体の足になったと説いた。

  • Decide 1985年(岩淵明男)
    • [18]戦後の空白でジェット機の操縦士養成が進まず、機材の稼働率を上げるため外国人パイロットを大量採用したことが一般職員と運航乗務員の待遇の大きな格差を生んだ
    • [19]一般職員と運航乗務員の待遇の格差は、ハイヤーで家から空港まで乗務員を送り迎えするまでになった
    • [21]生え抜きの高木養根に対しては社内に社長待望論があり、その期待をになって登場した
    • [22]日航には四つの労組と幹部の不和という経営の根幹に触れる問題がひそんでいた
  • 日経ビジネス 1981年9月7日号
    • [20]高木養根は1940年4月に大日本航空へ入社し、同社解散後の1951年8月に日本航空へ入社、1981年6月に朝田静夫の後任として社長に就任した
    • [23]高木養根社長は就任早々に社内へサービス精神を持とうと呼びかけ、飛行機は20〜30年前のように特定の人が乗る乗り物ではなく国民の足になったと語った

1982年2月、羽田沖で墜落事故が起き、逆噴射という言葉が流行語になった。機長が心身症にかかっていたのを見抜けなかったことで、人事・労務対策の不備が明るみに出て、寄せられた期待は8か月しかもたなかった。事故の処理も重なり、1983年3月期は経常損益で270.93億円、当期純損益で38.15億円の赤字となった。翌1984年3月期は経常利益が40.28億円まで戻ったが、当期純損益では64.24億円の赤字が残った。高木社長は2年をかけて経営を立て直し、1985年から再び攻勢に転じる構想を持っていた。

  • Decide 1985年(岩淵明男)
    • [24]1982年2月、高木養根の社長就任わずか8か月目に逆噴射という流行語を生んだ羽田沖墜落事故が起きた
    • [25]機長が心身症におかされていたことに気づけなかった羽田沖事故は、日航の人事・労務対策の欠陥をさらけ出した
    • [28]高木養根は1983年度・1984年度の2年をかけて経営を立て直し、1985年から再び攻勢に転じる構想を持っていた
  • 日本航空 会社年鑑(1986年版・単体業績)
    • [26]1983年3月期の単体経常損益は270.93億円の赤字、当期純損益は38.15億円の赤字であった
    • [27]1984年3月期の単体経常利益は40.28億円、当期純損益は64.24億円の赤字であった
参考文献[15]-[28]
  • Decide 1985年(岩淵明男)
    • [15]朝田静夫が社長を務めた1971年から1981年までの10年間は、日本航空にとって路線の割譲・権利割譲の時代であった
    • [16]路線の割譲は出身母体の運輸省から迫られ、主として運輸省事務次官出身の若狭得治が率いる全日空に対して行われた
    • [17]1981年6月30日に東京・丸の内の本社で開かれた社長交代の記者会見は、前社長が後任を持ち上げる通例と異なり、異例なものとしてマスコミの間で語り草になった
    • [18]戦後の空白でジェット機の操縦士養成が進まず、機材の稼働率を上げるため外国人パイロットを大量採用したことが一般職員と運航乗務員の待遇の大きな格差を生んだ
    • [19]一般職員と運航乗務員の待遇の格差は、ハイヤーで家から空港まで乗務員を送り迎えするまでになった
    • [21]生え抜きの高木養根に対しては社内に社長待望論があり、その期待をになって登場した
    • [22]日航には四つの労組と幹部の不和という経営の根幹に触れる問題がひそんでいた
    • [24]1982年2月、高木養根の社長就任わずか8か月目に逆噴射という流行語を生んだ羽田沖墜落事故が起きた
    • [25]機長が心身症におかされていたことに気づけなかった羽田沖事故は、日航の人事・労務対策の欠陥をさらけ出した
    • [28]高木養根は1983年度・1984年度の2年をかけて経営を立て直し、1985年から再び攻勢に転じる構想を持っていた
  • 日経ビジネス 1981年9月7日号
    • [20]高木養根は1940年4月に大日本航空へ入社し、同社解散後の1951年8月に日本航空へ入社、1981年6月に朝田静夫の後任として社長に就任した
    • [23]高木養根社長は就任早々に社内へサービス精神を持とうと呼びかけ、飛行機は20〜30年前のように特定の人が乗る乗り物ではなく国民の足になったと語った
  • 日本航空 会社年鑑(1986年版・単体業績)
    • [26]1983年3月期の単体経常損益は270.93億円の赤字、当期純損益は38.15億円の赤字であった
    • [27]1984年3月期の単体経常利益は40.28億円、当期純損益は64.24億円の赤字であった

1983年〜輸送実績世界一と、事故が終わらせた半官半民

輸送の量では世界の首位に立った。1983年1月、IATA統計で旅客・貨物の輸送実績が世界一となる。首位は1987年まで5年にわたって保たれた。1985年3月期の単体売上高は8272.22億円、経常利益は225.14億円で、前期からの立て直しは数字にも表れていた。高木社長は1985年1月4日、羽田空港内で開かれた年始式で約800人の幹部職員を前に、業績が向上して明るい気持ちで正月を迎えられたと挨拶している。1985年度を初年度とする4か年の中期計画は、最終年度の1988年度に売上高1兆円、売上高経常利益率4%すなわち経常利益400億円を目標として掲げた。制度に守られた独占のもとで、規模の拡大を続ける計画であった。

  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1983年1月、IATA統計で旅客・貨物の輸送実績が世界一となった
    • [30]IATA統計での旅客・貨物輸送実績世界一は1983年から1987年まで5年にわたり首位を維持した
  • 日本航空 会社年鑑(1986年版・単体業績)
    • [31]1985年3月期の単体売上高は8272.22億円、経常利益は225.14億円、当期純利益は71.83億円であった
  • Decide 1985年(岩淵明男)
    • [32]高木養根社長は1985年1月4日に羽田空港内の機装ビルで開かれた年始式で、約800人の幹部職員を前に業績が向上し明るい気持ちで正月を迎えられたと挨拶した
    • [33]1985年度を初年度とする4か年の中期計画は、最終年度の1988年度に売上高1兆円・売上高経常利益率4%(経常利益400億円)を目標とした

高木社長が引責して退き、後任選びは政治の舞台へ移った。退任の原因は、1985年8月12日に日航123便が御巣鷹山に墜落し、520人が死亡した事故である。運輸省出身の副社長である町田直氏の昇格が順当な線だったが、日本航空と国鉄の完全民営化を行政改革の柱とした中曽根康弘総理は、民営化を担うのは官僚であってはならないという考えを譲らず、町田氏を推す自民党の運輸族議員と運輸省に対し、総理の周辺は民間から経営者を求めた。落ち着いた先は、運輸官僚の出身ながら総務庁事務次官として行政改革を推し進めた山地進氏を社長に据え、労使と人事に通じたカネボウ会長の伊藤淳二氏を副社長に迎える布陣だった。

  • Decide 1985年(岩淵明男)
    • [34]事故後に社長交代騒動が起き、人選は二転三転した
    • [36]順当には町田直副社長が昇格するはずであったが、中曽根総理は日本航空と国鉄の完全民営化を行革の主要テーマに据え、民営化を担う社長は官僚であってはならないとの理念を貫いた
    • [37]運輸省と塩川正十郎・三塚博ら自民党の運輸族議員が町田直の昇格を推す一方、総理周辺は純粋の民間人を求めた
    • [38]新社長には運輸官僚出身で前総務庁事務次官の山地進、副社長には日航商事社長の利光松男と次期会長含みでカネボウ会長の伊藤淳二が就く布陣が決まった
  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)
    • [35]1985年8月12日に日航123便が御巣鷹山へ墜落し520人が死亡、高木養根社長が引責退任した

1987年11月、完全民営化が実現した。日本航空株式会社法に基づいて1953年に組み直された半官半民の体制は、34年で終わった。事故の前から社内には、航空憲法のもとで手枷足枷をかけられて行動の自由を奪われるくらいならいっそ民営化して自由に動こうという空気があった。国際線では既に全日空がチャーター便を飛ばし、独占の座にかげりが出ていた。民営化によって民間航空業界に自由競争原理が導入されれば、全日空との国際線での競争が激化すると見られていた。独占を守り続けた経営は、事故と行政改革によって外側から終わらされた。

  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [39]1987年11月に完全民営化した
  • Decide 1985年(岩淵明男)
    • [40]1953年8月に日本航空株式会社法が制定され、同年10月に特殊会社としての日本航空が設立された
    • [41]日航社内には、航空憲法の下で手枷足枷をかけられて行動の自由を奪われるならいっそ民営化して自由に行動しようという空気があった
    • [42]国際線でもライバルの全日空がチャーター便を飛ばすようになり、独占の座にかげりが出ていた
    • [43]完全民営化により民間航空業界に自由競争原理が導入されれば、若狭得治が率いる全日空との国際線での競争は激化が予想された
参考文献[29]-[43]
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1983年1月、IATA統計で旅客・貨物の輸送実績が世界一となった
    • [30]IATA統計での旅客・貨物輸送実績世界一は1983年から1987年まで5年にわたり首位を維持した
    • [39]1987年11月に完全民営化した
  • 日本航空 会社年鑑(1986年版・単体業績)
    • [31]1985年3月期の単体売上高は8272.22億円、経常利益は225.14億円、当期純利益は71.83億円であった
  • Decide 1985年(岩淵明男)
    • [32]高木養根社長は1985年1月4日に羽田空港内の機装ビルで開かれた年始式で、約800人の幹部職員を前に業績が向上し明るい気持ちで正月を迎えられたと挨拶した
    • [33]1985年度を初年度とする4か年の中期計画は、最終年度の1988年度に売上高1兆円・売上高経常利益率4%(経常利益400億円)を目標とした
    • [34]事故後に社長交代騒動が起き、人選は二転三転した
    • [36]順当には町田直副社長が昇格するはずであったが、中曽根総理は日本航空と国鉄の完全民営化を行革の主要テーマに据え、民営化を担う社長は官僚であってはならないとの理念を貫いた
    • [37]運輸省と塩川正十郎・三塚博ら自民党の運輸族議員が町田直の昇格を推す一方、総理周辺は純粋の民間人を求めた
    • [38]新社長には運輸官僚出身で前総務庁事務次官の山地進、副社長には日航商事社長の利光松男と次期会長含みでカネボウ会長の伊藤淳二が就く布陣が決まった
    • [40]1953年8月に日本航空株式会社法が制定され、同年10月に特殊会社としての日本航空が設立された
    • [41]日航社内には、航空憲法の下で手枷足枷をかけられて行動の自由を奪われるならいっそ民営化して自由に行動しようという空気があった
    • [42]国際線でもライバルの全日空がチャーター便を飛ばすようになり、独占の座にかげりが出ていた
    • [43]完全民営化により民間航空業界に自由競争原理が導入されれば、若狭得治が率いる全日空との国際線での競争は激化が予想された
  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)
    • [35]1985年8月12日に日航123便が御巣鷹山へ墜落し520人が死亡、高木養根社長が引責退任した

筆者考察

独占は資産であると同時に負債だった。航空憲法と呼ばれた1970年の閣議了解と1972年の運輸大臣示達は、国際線の免許を日本航空へ与える代わりに、国内幹線を地名で縛った。朝田静夫社長が1973年に既存路線の堅持を掲げ、国際航空は1国1社であるべきだと述べたのは、路線が制度から与えられるものだったからである。しかし与える側は取り上げることもできる。社長を務めた1971年からの10年が路線割譲の時代となり、退任の会見で毎日が針のムシロだったと述べた言葉に、この非対称が表れている。守るべき既得権が、そのまま弱みでもあった。

半官半民を終わらせたのは制度の設計ではなく、事故だった。1983年にIATA統計で輸送実績世界一となり、1985年度からの中期計画は1988年度の売上高1兆円を掲げていた。その計画を消したのが同じ1985年8月の520人の死である。後任社長を誰にするかという問いは、そのまま完全民営化を誰に担わせるかという問いへ変わり、官僚では民営化が形だけになるという理屈で運輸省出身の副社長が退けられた。1987年11月に34年の半官半民が終わる。ただし外国人操縦士の待遇差と四つの労働組合という社内の段差は、資本の形が変わっても残った。

単体売上高の推移 1971年3月期〜1985年3月期(億円)

1,634.09 71/3 2,561.63 74/3 3,949.52 77/3 5,684.58 80/3 7,444.17 83/3 8,272.22 85/3
  • 単体・日本基準。路線割譲が始まる1971年3月期から、輸送実績世界一となった1983年を挟み、完全民営化前の1985年3月期まで3年ごとに採った。
  • 出所は日本航空 会社年鑑(1976年版・1986年版)。

1971年〜1987年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1971年03月期 単体 1,634 n/a 150 18 1.1% n/a
1972年03月期 単体 1,901 +16.3% 88 16 0.9% n/a
1973年03月期 単体 2,208 +16.2% 132 19 0.9% n/a
1974年03月期 単体 2,561 +16.0% 11 22 0.9% n/a
1975年03月期 単体 2,960 +15.6% n/a n/a n/a n/a
1976年03月期 単体 3,528 +19.2% ▲98 11 0.3% n/a
1977年03月期 単体 3,949 +11.9% 61 110 2.8% n/a
1978年03月期 単体 4,353 +10.2% 198 81 1.9% n/a
1979年03月期 単体 4,702 +8.0% 223 29 0.6% n/a
1980年03月期 単体 5,684 +20.9% 3 19 0.3% n/a
1981年03月期 単体 6,544 +15.1% 44 34 0.5% n/a
1982年03月期 単体 7,236 +10.6% 2 55 0.8% n/a
1983年03月期 単体 7,444 +2.9% ▲270 ▲38 ▲0.5% n/a
1984年03月期 単体 7,562 +1.6% 40 ▲64 ▲0.8% n/a
1985年03月期 単体 8,272 +9.4% 225 71 0.9% n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

9件
出典・参考
  • 日本航空 有価証券報告書【沿革】
  • 日本航空 会社年鑑(1976年版・単体業績)
  • 日本航空 会社年鑑(1986年版・単体業績)
  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)
  • 日経ビジネス 1973年12月24日号 略歴
  • 日経ビジネス 1973年12月24日号
  • 日経ビジネス 1981年9月7日号
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「日本航空 朝田静夫」
  • Decide 1985年(岩淵明男)

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