日本航空:日本航空株式会社法による新会社設立とボーイング747の導入
日本航空株式会社法による国際線免許の独占
1951年〜発起人79人の縁故募集から日本航空株式会社法までの資本の再構築
日本航空の創立を準備したのは、戦前の日本航空輸送と大日本航空に関わった人々だった。1951年1月30日、占領軍司令部は飛行機の製作・所有・運航・組み立てを除く航空事業を日本資本に許可する覚書を日本政府に手交し、2月23日には国内航空運送事業令が改定されて、航空会社の営業部門を日本人が担当することが承認された。準備はこの覚書に先立って始まっており、1月17日には東京都中央区日本橋室町に創立準備仮事務所が置かれている。3月15日の発起人会は、日本商工会議所会頭で戦前の大日本航空の非常勤取締役でもあった藤山愛一郎氏を発起人総代に選び、石川一郎氏、小林中氏ら9人を設立委員に選任した。準備委員会が計画の重点に据えたのは株式調達を中心とする財務上の安定性の確保であり、発起人79人による縁故募集は順調な成果をおさめた。
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第1章
- [1]1951年1月、戦前の日本航空輸送あるいは大日本航空の関係者数人が旧・日本航空の創立準備に着手した
- [2]1951年1月30日に占領軍司令部が飛行機の製作・所有・運航・組み立てを除く航空事業を日本資本に許可する覚書を日本政府へ手交し、2月23日に国内航空運送事業令が改定されて営業部門を日本人が担当することが承認された
- [3]1951年1月17日に東京都中央区日本橋室町の日本貿易館理事室へ創立準備仮事務所を設置した
- [4]1951年3月15日の発起人会で日本商工会議所会頭・元大日本航空非常勤取締役の藤山愛一郎を発起人総代に選び、石川一郎・小林中ら9人を設立委員に選任した
- [5]創立準備委員会は株式調達を中心とした財務上の安定性の確保に計画の重点を置き、発起人79人による縁故募集は順調な成果をおさめた
1951年8月1日に資本金1億円で発足した会社は、自らの手で飛ぶことを許されていなかった。役員を除く従業員は設立時に43人、会長に藤山愛一郎氏、社長に日本銀行副総裁出身の柳田誠二郎氏、専務取締役に松尾静磨氏が就いた。同年10月にノースウエスト航空と運航契約を結び、終戦以来初めてとなるわが国唯一の航空運送営業を始めたが、操縦は委託であった。1952年4月の講和条約発効と7月の航空法施行で道が開け、ノースウエストとの契約満了を機に10月25日から自主運航に移った。難路は資金だった。国内線用に購入を決めたダグラスDC-4型6機の価格は部品代を含めて467万5000ドル、当時の約17億円にのぼり、国際線用の機材まで含めれば1952年から53年にかけて60億円以上が要るといわれていた。
- 株式会社年鑑 1953年版「日本航空」沿革
- [6]旧・日本航空は1951年8月1日に資本金1億円をもって設立された
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第1章
- [7]創立時の役員は会長・藤山愛一郎、社長・柳田誠二郎、専務取締役・松尾静磨で、設立時の従業員は役員を除き43人であった
- [10]国内線用に購入を決定したDC-4型6機の価格は部品代を含め467万5000ドル(当時の約17億円)で、国際線用を含めると1952年から53年にかけて機材購入に60億円以上が必要といわれた
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史 12 運輸「日本航空」
- [8]1951年10月にノースウェスト航空と運航契約を締結し、終戦以来初めてわが国唯一の航空運送営業を開始した
- [9]1952年4月の講和条約発効と7月の航空法施行により、ノースウェストとの運航契約満了を機に10月25日から自主運航を開始した
自己資本では機材代を賄えなかった。1952年5月の倍額増資でも資本金は2億円に達したにすぎず、委託運航の時期には9000万円近い赤字が積み上がっていた。最初のDC-4型4機は日本銀行が保有する外貨の別口貸付、次の2機は日本開発銀行の融資でようやく手当てされている。この状況に対し、1952年11月の航空審議会は運輸大臣へ、激烈な国際競争下に進出する民間航空は政府の集中的育成措置による強力な経営基礎を持たねばならないと答申した。政府はこれに基づいて日本航空株式会社法案を第十六回特別国会に提出し、1953年8月に施行された。同月、旧会社には営業の全部を新会社へ出資することを条件に、東京・サンフランシスコ間と東京・沖縄間の定期航空運送事業の免許が下付された。
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第1章
- [11]1952年5月26日の倍額増資でも資本金は2億円に達したにすぎず、委託運航期には9000万円近い赤字が累積していた
- [12]最初のDC-4型4機は日本銀行が保有する外貨の別口貸付(ドル貸し)、次の2機は日本開発銀行の融資で購入資金を手当てした
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史 12 運輸「日本航空」
- [13]1952年11月に航空審議会が運輸大臣へ、激烈な国際競争下に進出する民間航空は政府の集中的育成措置による強力な経営基礎を有していなければならないと答申した
- [14]政府は答申に基づき日本航空株式会社法案を第十六回特別国会へ提出し、1953年8月に施行された
- [15]1953年8月、旧会社が営業の全部を新会社に出資することを条件に、東京・サンフランシスコ間と東京・沖縄間の定期航空運送事業の免許が下付された
参考文献[1]-[15]
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第1章
- [1]1951年1月、戦前の日本航空輸送あるいは大日本航空の関係者数人が旧・日本航空の創立準備に着手した
- [2]1951年1月30日に占領軍司令部が飛行機の製作・所有・運航・組み立てを除く航空事業を日本資本に許可する覚書を日本政府へ手交し、2月23日に国内航空運送事業令が改定されて営業部門を日本人が担当することが承認された
- [3]1951年1月17日に東京都中央区日本橋室町の日本貿易館理事室へ創立準備仮事務所を設置した
- [4]1951年3月15日の発起人会で日本商工会議所会頭・元大日本航空非常勤取締役の藤山愛一郎を発起人総代に選び、石川一郎・小林中ら9人を設立委員に選任した
- [5]創立準備委員会は株式調達を中心とした財務上の安定性の確保に計画の重点を置き、発起人79人による縁故募集は順調な成果をおさめた
- [7]創立時の役員は会長・藤山愛一郎、社長・柳田誠二郎、専務取締役・松尾静磨で、設立時の従業員は役員を除き43人であった
- [10]国内線用に購入を決定したDC-4型6機の価格は部品代を含め467万5000ドル(当時の約17億円)で、国際線用を含めると1952年から53年にかけて機材購入に60億円以上が必要といわれた
- [11]1952年5月26日の倍額増資でも資本金は2億円に達したにすぎず、委託運航期には9000万円近い赤字が累積していた
- [12]最初のDC-4型4機は日本銀行が保有する外貨の別口貸付(ドル貸し)、次の2機は日本開発銀行の融資で購入資金を手当てした
- 株式会社年鑑 1953年版「日本航空」沿革
- [6]旧・日本航空は1951年8月1日に資本金1億円をもって設立された
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史 12 運輸「日本航空」
- [8]1951年10月にノースウェスト航空と運航契約を締結し、終戦以来初めてわが国唯一の航空運送営業を開始した
- [9]1952年4月の講和条約発効と7月の航空法施行により、ノースウェストとの運航契約満了を機に10月25日から自主運航を開始した
- [13]1952年11月に航空審議会が運輸大臣へ、激烈な国際競争下に進出する民間航空は政府の集中的育成措置による強力な経営基礎を有していなければならないと答申した
- [14]政府は答申に基づき日本航空株式会社法案を第十六回特別国会へ提出し、1953年8月に施行された
- [15]1953年8月、旧会社が営業の全部を新会社に出資することを条件に、東京・サンフランシスコ間と東京・沖縄間の定期航空運送事業の免許が下付された
1953年〜国際線の免許を1社が持つ体制と、国内線が国際線を支えた収支
旧会社の権利義務を一切引き継いだ新会社は、国内幹線を運営しつつ、日本でただ一つ、国際線の定期航空運送を営む事業者として出発した。設立は1953年10月で、政府出資10億円と旧会社の営業評価額10億円を合わせた資本金20億円であった。待ち望まれた国際定期便は1954年2月、ダグラスDC-6B型3機でサンフランシスコ線と沖縄線を週2往復する形で始まり、同年8月には増便と路線拡張に向けて政府出資10億円と民間出資3億円が加わって、資本金は33億円に増えた。2億円の増資にすら苦心していた会社は、法律の制定から1年で資本を十数倍にした。
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史 12 運輸「日本航空」
- [16]新会社は旧会社の一切の権利義務を承継し、国内幹線の運営に当たるとともにわが国唯一の国際定期航空運送事業として発足した
- [17]1953年10月、政府出資10億円と旧会社の営業評価額10億円を合わせた資本金20億円で新・日本航空が設立された
- [18]1954年2月から国際定期運航を開始し、当初はダグラスDC-6B型3機でサンフランシスコ線・沖縄線とも週2往復を運航した
- [19]1954年8月の増資で政府出資10億円と民間出資3億円が加わり、資本金は33億円となった
国際線の採算を支えたのは国内線だった。過去一ヵ年の国内線平均利用率は75%で、諸外国の国内線平均利用率60%をはるかに上回っていた。1958年には国内線を分離して全日本空輸と合併させ新会社を作るという説が流布し、常務会が対策を協議している。会社は政府当局への要望事項の原案を修正してまで国内線と国際線の関連を強調し、社内誌は両線を未来永久に変わらぬ車の両輪と書いた。もっとも、兼営は国内線を劣勢な機材と経験の少ない乗員に委ねる誘因としても働き、松尾静磨社長自身がこの点を自戒して国内航空事業の合理化を論じていた。1963年の日本企業要覧も、わが国唯一の半官半民の国際航空会社と紹介したうえで、国内線では全日空の新鋭機バイカウントに対する使用機の劣勢を課題に挙げている。
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史 12 運輸「日本航空」
- [20]1955年前後の過去一ヵ年の国内線平均利用率は75%で、諸外国の国内線平均利用率60%を大きく上回っていた
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第2章
- [21]1958年9月24日の常務会議事録に、国内線を分離し全日空と合併して新会社を作る説が一部に流布しているとして対策を懇談した記録がある
- [22]日航常務会は政府当局への要望事項の原案を修正して国内線と国際線の関連の強調に努め、社内誌『おおぞら』1960年9月号は国内線と国際線を未来永久に変わらぬ車の両輪と記した
- [23]国際・国内両線の兼営は国内線を劣性機材と経験の少ない乗員で運航させる誘因として働くため、松尾静磨社長は自戒として国内航空事業の合理化を論じた
- 日本企業要覧 1963年版「日本航空」会社概況
- [24]日本企業要覧1963年版は日本航空をわが国唯一の半官半民の国際航空会社と紹介し、国内線では全日空の新鋭機バイカウントに対する使用機の劣勢を課題に挙げた
1960年8月、初のジェット旅客機DC-8の運航が始まった。1958年9月と1959年9月の増資による手取り資金の大部分は、DC-8の機体と機材、乗員訓練用のシミュレーターの購入に充てられている。翌1961年10月には証券取引所に上場した。ただし株式が市場で売買されるようになっても資本の所在は動かず、1961年4月時点の筆頭株主は持株比率59.6%の大蔵大臣で、過半を国が握っていた。同じ1961年、社長は金融出身の柳田誠二郎氏から、設立時から専務として技術面を担ってきた松尾静磨氏へ移っている。資本を集める局面から、機材を選び路線を設計する局面へ会社が入ったことを示す交代であった。
- 日本航空 有価証券報告書【沿革】
- [25]1960年8月に初のジェット旅客機DC-8の運航を開始した
- [27]1961年10月に証券取引所へ上場した
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第2章
- [26]1958年9月および1959年9月の増資による手取り資金の大部分はDC-8の機体・機材およびDC-8用シミュレーターの購入資金に充てられた
- 日本航空 有価証券報告書【大株主の状況】
- [28]1961年4月時点の筆頭株主は持株比率59.6%の大蔵大臣であった
- 日本企業要覧 1960年版・1963年版「日本航空」役員欄
- [29]日本企業要覧1960年版は柳田誠二郎を取締役社長・松尾静磨を取締役副社長として載せ、1963年版は松尾静磨を代表取締役社長として載せる
参考文献[16]-[29]
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史 12 運輸「日本航空」
- [16]新会社は旧会社の一切の権利義務を承継し、国内幹線の運営に当たるとともにわが国唯一の国際定期航空運送事業として発足した
- [17]1953年10月、政府出資10億円と旧会社の営業評価額10億円を合わせた資本金20億円で新・日本航空が設立された
- [18]1954年2月から国際定期運航を開始し、当初はダグラスDC-6B型3機でサンフランシスコ線・沖縄線とも週2往復を運航した
- [19]1954年8月の増資で政府出資10億円と民間出資3億円が加わり、資本金は33億円となった
- [20]1955年前後の過去一ヵ年の国内線平均利用率は75%で、諸外国の国内線平均利用率60%を大きく上回っていた
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第2章
- [21]1958年9月24日の常務会議事録に、国内線を分離し全日空と合併して新会社を作る説が一部に流布しているとして対策を懇談した記録がある
- [22]日航常務会は政府当局への要望事項の原案を修正して国内線と国際線の関連の強調に努め、社内誌『おおぞら』1960年9月号は国内線と国際線を未来永久に変わらぬ車の両輪と記した
- [23]国際・国内両線の兼営は国内線を劣性機材と経験の少ない乗員で運航させる誘因として働くため、松尾静磨社長は自戒として国内航空事業の合理化を論じた
- [26]1958年9月および1959年9月の増資による手取り資金の大部分はDC-8の機体・機材およびDC-8用シミュレーターの購入資金に充てられた
- 日本企業要覧 1963年版「日本航空」会社概況
- [24]日本企業要覧1963年版は日本航空をわが国唯一の半官半民の国際航空会社と紹介し、国内線では全日空の新鋭機バイカウントに対する使用機の劣勢を課題に挙げた
- 日本航空 有価証券報告書【沿革】
- [25]1960年8月に初のジェット旅客機DC-8の運航を開始した
- [27]1961年10月に証券取引所へ上場した
- 日本航空 有価証券報告書【大株主の状況】
- [28]1961年4月時点の筆頭株主は持株比率59.6%の大蔵大臣であった
- 日本企業要覧 1960年版・1963年版「日本航空」役員欄
- [29]日本企業要覧1960年版は柳田誠二郎を取締役社長・松尾静磨を取締役副社長として載せ、1963年版は松尾静磨を代表取締役社長として載せる
1958年〜需要を自ら創出する側への回り込みとボーイング747
ジェット化は供給を一気に増やしたが、それを売る体制は追いついていなかった。DC-8の導入を月余の後に控えた当時の業務部長は、『DC-8の営業対策は会社としては何もやっていないと思う。太平洋の客については、お客は自然に乗ってくれるんだという感じを持っているのではないか』と語っている。営業部は1958年7月8日付で「JET対策としてのOFF-LINE OFFICE設置基本方針(案)」を常務会へ提出し、1959年7月までにアメリカ、ヨーロッパ、東南アジア各地域へ合計24か所の営業所を増設しようとした。設置スケジュールは大幅に後退したものの、1958年7月から1960年度末までにシカゴ、シアトル、ワシントン、メキシコシティなどの営業所が開かれている。1959年2月1日の機構改革では従来の営業部が廃止され、販売部と業務部が生まれた。
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第2章
- [30]ジェット時代に対処すべき営業面の強化は、当座の高利用率もあっていくらか遅れ気味であった
- [31]営業部は1958年7月8日付で「JET対策としてのOFF-LINE OFFICE設置基本方針(案)」を常務会へ提出し、1959年7月までにアメリカ・ヨーロッパ・東南アジア各地域へ合計24か所の営業所を増設する計画を立てた
- [32]設置スケジュールは大幅に後退したが、1958年7月から1960年度末までにシカゴ・シアトル・ワシントン・メキシコシティなどの営業所が設置された
- [33]1959年2月1日の機構改革で従来の営業部が廃止され、販売部と業務部が誕生した
パンアメリカンは早くも1946年に全額出資でインターコンチネンタル・ホテルズ社を設け、1968年末には50ホテル・1万5200室を抱えていた。座席を売るために旅行そのものを作る必要が生じ、1965年1月から同社は包括旅行商品ジャルパックの販売に乗り出したが、航空券とあわせて行き先の宿も押さえなければならず、一般のホテルと契約して部屋を予約するには保証料を払う必要があった。日本人に人気のホノルルでは、1969年度の保証料が予算8万ドルのところ実際には23万4000ドルにふくらみ、予算を追加した。日本万国博のときは、外国人客向けに東京と大阪で1日2500室を予約金付きで確保することにもなった。松尾社長は1967年10月、ホテル問題は国際旅客販売力の強化の見地から非常に重要だと述べ、翌1968年4月に自社でホテルの客室を確保する方針が定まった。
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第8章
- [34]パンアメリカンは1946年に100%出資の子会社インターコンチネンタル・ホテルズ社を設立し、1968年末でホテル数50・室数1万5200に達していた
- [36]ジャルパックなど包括旅行を売り出すと航空券の販売にはホテルの確保が必要となり、一般のホテルを契約して予約するには保証料が要った
- [37]1969年度のホノルルではホテル保証料が予算8万ドルに対して実際は23万4000ドルとなり、追加予算を組む必要が生じた
- [38]日本万国博に際し、外人客のために東京と大阪のホテルを予約金を払って1日2500室確保する事態が生じた
- [39]松尾静磨社長は1967年10月の創立16周年にホテル問題が国際旅客販売力の強化の見地から非常に重要だと述べ、1968年4月に旅客のためのホテル客室確保の方針が定まった
- 日本航空 有価証券報告書【沿革】
- [35]1965年1月にジャルパックの販売を開始した
1966年6月16日、重役会は490人乗りのボーイング747型機の購入を正式に決定した。1970年ごろには旅客が当時の2倍、貨物が3倍になると予測される一方、羽田空港には増便の余地がなく、施設も機数も一挙に2.5倍にはできなかった。1機66.6億円・全長70mの機体を1970年から羽田発の太平洋路線へ投入する計画で、経済性と混雑の解決を同時に狙ったものである。1967年3月期の売上高が671.54億円であることを思えば、数機を並べれば年商に迫る買い物だった。同じ1966年8月、松尾社長は米国の不定期便の増便に反対し、国際線免許の独占を守る方針を示している。輸送力を増やす一方で参入を抑える二つの手は、一体の策として打たれた。
- 読売新聞(1966年6月16日)
- [40]1966年6月16日の重役会で490人乗りのボーイング747型機の購入を正式決定した
- [41]1970年ごろに旅客2倍・貨物3倍が予測される一方、施設や機数を一挙に2.5倍にはできず、1機で2〜3倍を運ぶ航空機が必要とされた
- [42]1機66.6億円・全長70mの大型機を1970年から羽田〜太平洋路線へ投入する計画で、経済性と混雑解決がねらいであった
- 日本航空 会社年鑑(1976年版・単体業績)
- [43]1967年3月期の単体売上高は671.54億円であった
- 読売新聞(1969年5月19日)
- [44]1966年8月、松尾静磨社長は米国不定期便の増便に反対し、国際線免許の独占を守る方針を示した
1967年3月には西回りの世界一周路線が開設され、1970年7月にボーイング747の運航が始まった。この間の業績の伸びは急であった。単体の売上高は1966年3月期の525.76億円から1970年3月期の1374.68億円へ、経常利益は33.25億円から228.34億円へ拡大している。資本金1億円・従業員43人で委託運航から出発した会社が、20年を経ずに到達した規模だった。設備は需要の予測に沿って積まれ、その需要は国際線の免許を1社に集める制度に支えられていた。
- 日本航空 有価証券報告書【沿革】
- [45]1967年3月に世界一周路線(西回り)を開設し、1970年7月にボーイング747の運航を開始した
- 日本航空 会社年鑑(1976年版・単体業績)
- [46]単体売上高は1966年3月期525.76億円から1970年3月期1374.68億円へ、経常利益は33.25億円から228.34億円へ増加した
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第1章
- [47]旧・日本航空は1951年8月に資本金1億円で設立され、設立時の従業員は役員を除き43人であった
参考文献[30]-[47]
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第2章
- [30]ジェット時代に対処すべき営業面の強化は、当座の高利用率もあっていくらか遅れ気味であった
- [31]営業部は1958年7月8日付で「JET対策としてのOFF-LINE OFFICE設置基本方針(案)」を常務会へ提出し、1959年7月までにアメリカ・ヨーロッパ・東南アジア各地域へ合計24か所の営業所を増設する計画を立てた
- [32]設置スケジュールは大幅に後退したが、1958年7月から1960年度末までにシカゴ・シアトル・ワシントン・メキシコシティなどの営業所が設置された
- [33]1959年2月1日の機構改革で従来の営業部が廃止され、販売部と業務部が誕生した
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第8章
- [34]パンアメリカンは1946年に100%出資の子会社インターコンチネンタル・ホテルズ社を設立し、1968年末でホテル数50・室数1万5200に達していた
- [36]ジャルパックなど包括旅行を売り出すと航空券の販売にはホテルの確保が必要となり、一般のホテルを契約して予約するには保証料が要った
- [37]1969年度のホノルルではホテル保証料が予算8万ドルに対して実際は23万4000ドルとなり、追加予算を組む必要が生じた
- [38]日本万国博に際し、外人客のために東京と大阪のホテルを予約金を払って1日2500室確保する事態が生じた
- [39]松尾静磨社長は1967年10月の創立16周年にホテル問題が国際旅客販売力の強化の見地から非常に重要だと述べ、1968年4月に旅客のためのホテル客室確保の方針が定まった
- 日本航空 有価証券報告書【沿革】
- [35]1965年1月にジャルパックの販売を開始した
- [45]1967年3月に世界一周路線(西回り)を開設し、1970年7月にボーイング747の運航を開始した
- 読売新聞(1966年6月16日)
- [40]1966年6月16日の重役会で490人乗りのボーイング747型機の購入を正式決定した
- [41]1970年ごろに旅客2倍・貨物3倍が予測される一方、施設や機数を一挙に2.5倍にはできず、1機で2〜3倍を運ぶ航空機が必要とされた
- [42]1機66.6億円・全長70mの大型機を1970年から羽田〜太平洋路線へ投入する計画で、経済性と混雑解決がねらいであった
- 日本航空 会社年鑑(1976年版・単体業績)
- [43]1967年3月期の単体売上高は671.54億円であった
- [46]単体売上高は1966年3月期525.76億円から1970年3月期1374.68億円へ、経常利益は33.25億円から228.34億円へ増加した
- 読売新聞(1969年5月19日)
- [44]1966年8月、松尾静磨社長は米国不定期便の増便に反対し、国際線免許の独占を守る方針を示した
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第1章
- [47]旧・日本航空は1951年8月に資本金1億円で設立され、設立時の従業員は役員を除き43人であった
筆者考察
この会社の資本は、市場ではなく法律が作った。1951年に集めた1億円は国内線の機材代にも足りず、ダグラスDC-4型6機の代金だけで約17億円を要した。1952年の倍額増資でも資本金は2億円にしか届かず、委託運航の時期には9000万円近い赤字が積み上がっている。不足を埋めたのは民間の増資ではなく、1953年8月に施行された日本航空株式会社法だった。同年10月、政府出資10億円と旧会社の営業評価額10億円を合わせた資本金20億円で新会社が発足する。国際定期航空運送事業の免許を1社だけに与える設計は、同時に資本の出し手を国家に定めた。免許と出資は別の話ではなく、一つの制度の表と裏だった。
制度に支えられた需要は、売る力を鈍らせる方向にも働いた。DC-8の就航を目前にした社内で営業対策は何もやっていないという声が出たのは、太平洋線の客が自然に集まる状態が続いていたからである。1965年のジャルパックと、ホテルの客室をみずから押さえる方針は、この受け身を内側から壊す試みだった。旅行そのものを組み立てて初めて、座席は自社の努力で埋まる。1966年に決めた1機66.6億円のボーイング747も、その延長にある。需要が倍増するという予測と、免許を1社に集める制度、この二つが同時に成り立つ限りで正しい投資だった。
- 単体・日本基準。出所は日本航空 会社年鑑(1976年版)。
1951年〜1970年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 525 | n/a | 33 | 11 | 2.2% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 671 | +27.7% | 53 | 4 | 0.7% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 845 | +25.9% | 101 | 7 | 0.9% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 1,070 | +26.6% | 138 | 12 | 1.1% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 1,374 | +28.4% | 228 | 20 | 1.5% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
12件
- 日本航空 有価証券報告書【沿革】
- 日本航空 有価証券報告書【大株主の状況】
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第1章
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第2章
- 日本航空20年史 1951-1971(日本航空、1974年)第8章
- 株式会社年鑑 1953年版「日本航空」沿革
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史 12 運輸「日本航空」
- 日本航空 会社年鑑(1976年版・単体業績)
- 読売新聞(1966年6月16日)
- 読売新聞(1969年5月19日)
- 日本企業要覧 1960年版・1963年版「日本航空」役員欄
- 日本企業要覧 1963年版「日本航空」会社概況