第2章 年〜年

東京海上ホールディングス:終戦による海外営業網の喪失と自賠責保険の営業開始

1945年〜海外営業網と在外資産の喪失と、田中徳次郎社長の東証上場

1944年の3社合併で発足した東京海上火災保険は、1945年8月の敗戦で海外の営業網と在外資産を一切失った。戦前は海外の比重が大きく、1937年度には全保険料の27.3%をロンドンとニューヨークで得ていた。国内に残った海上と火災の引受けも、船舶の喪失と住宅の荒廃で赤字を抱えた。本社ビルも接収され、本店の臨時事務所は東京都大田区に置かれた。それでも資本の切り捨てには至らず、戦後の再建整備を終えた。戦前の信用は残り、占領軍が外国の買い手の入国を認めると英米などの保険会社から取引再開の申し出が相次いだ。営業の主力は、海外での引受けから国内だけの引受けへ移った。

  • 東洋経済新報社『日本会社史総覧』(1995年)「東京海上火災保険」
    • [1]1945年8月 終戦で一切の在外資産・海外営業網を喪失
    • [4]戦後 本社ビルの接収・公職追放・優良持ち株の放出などを受けた
  • 『企業の現代史』(1963年)「やがては宇宙に・危険の担い手(東京海上)」
    • [2]1937年度 全保険料のうちロンドン10.6%・ニューヨーク16.7%、合計27.3%
    • [3]終戦時 海運界の凋落で海上保険料収入が激減、住宅事情の悪化で火災保険部門が欠損
    • [7]終戦後 GHQがバイヤーの入国を認めると米英印などの保険会社から取引再開の申出が相次いだ(高木幹夫の回顧)
    • [8]終戦後 海外主力から内地だけの営業へ転回(野村常務の回顧)
  • 株式会社年鑑 1950年版「東京海上火災保険」
    • [5]1950年版 本店臨時事務所を東京都大田区入新井に置く
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「東京海上火災」
    • [6]太平洋戦争で営業・資産に打撃を受けたが、資本の切捨てなく戦後の再建整備を終えた

東京海上火災保険の火災保険の損害率は、1945年度の25%から1946年度には117%へ跳ね上がった。立て直しのため、1947年1月から普通物件で35%、工場物件で80%の料率引き上げが実施された。料率の引き上げで火災の収支を立て直す足場ができ、経済の復興が進むと業績は好転に向かった。海上が船舶の喪失と貿易の停滞で細るなか、旧明治火災の広い代理店網を足場に火災保険の拡大を優先した。1947年8月には代理店の強化に着手し、1948年には業界で初めて「代理店ニュース」を発行した。同じ1947年に常務へ就任した高木幹夫氏は、社長の田中徳次郎氏を支えつつ再建に向けて人材の育て直しに注力した。

  • 『産業フロンティア物語』(1966年)「損害保険〈東京海上〉」
    • [9]火災保険の損害率 1945年度25%→1946年度117%
    • [10]1947年1月から火災保険料率を普通物件35%・工場物件80%・倉庫物件35%引き上げ
    • [12]戦後の新経営陣は海上部門の低調を受け、明治火災の広い営業網を基盤にまず火災保険の営業進展に努めた
    • [13]1947年8月 火災保険代理店の強化に着手、1948年 業界初の「代理店ニュース」発行
    • [14]1947年 高木幹夫が常務取締役に就任し田中社長を補佐、再建で人材育成を重視
  • 東洋経済新報社『日本会社史総覧』(1995年)「東京海上火災保険」
    • [11]1947年の火災保険料率引き上げを機に国内営業体制を整備・強化し、経済復興を背景に業績が好転

東京海上火災保険は1949年5月、東京証券取引所に株式を上場した。その前段には財閥解体があり、1946年3月に制限会社の指定を受けて保有株の処分などを求められていた。1950年時点の大株主には、持株会社整理委員会と大蔵大臣が名を連ねた。上場市場は東京・大阪・名古屋・福岡の4か所に及んだ。制限会社の指定は1950年10月に解かれ、海外営業の推進と過小資本の是正を掲げて増資を重ねた。資本金は1953年10月に20億円となり、1956年10月には40億円に達した。三菱系の持ち合いがほどけた株を市場で受け止め、担保力を積む増資の受け皿を整えることが上場の狙いだったとみられる。

  • 東洋経済新報社『日本会社史総覧』(1995年)「東京海上火災保険」
    • [15]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
  • 『産業フロンティア物語』(1966年)「損害保険〈東京海上〉」
    • [16]1946年3月 制限会社の指定を受け株式の処分などを行う
    • [19]1950年10月 制限会社の指定解除、以後海外営業の推進・過小資本の是正から増資を重ねる
  • 株式会社年鑑 1950年版「東京海上火災保険」
    • [17]1950年版 大株主に持株会社整理委員会・大蔵大臣など
    • [18]1950年版 上場市場は東京・大阪・名古屋・福岡
  • 株式会社年鑑 1956年版「東京海上火災保険」
    • [20]1953年10月 資本金20億円に増資
  • 株式会社年鑑 1957年版「東京海上火災保険」
    • [21]1956年10月 資本金40億円に増資
参考文献[1]-[21]
  • 東洋経済新報社『日本会社史総覧』(1995年)「東京海上火災保険」
    • [1]1945年8月 終戦で一切の在外資産・海外営業網を喪失
    • [4]戦後 本社ビルの接収・公職追放・優良持ち株の放出などを受けた
    • [11]1947年の火災保険料率引き上げを機に国内営業体制を整備・強化し、経済復興を背景に業績が好転
    • [15]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
  • 『企業の現代史』(1963年)「やがては宇宙に・危険の担い手(東京海上)」
    • [2]1937年度 全保険料のうちロンドン10.6%・ニューヨーク16.7%、合計27.3%
    • [3]終戦時 海運界の凋落で海上保険料収入が激減、住宅事情の悪化で火災保険部門が欠損
    • [7]終戦後 GHQがバイヤーの入国を認めると米英印などの保険会社から取引再開の申出が相次いだ(高木幹夫の回顧)
    • [8]終戦後 海外主力から内地だけの営業へ転回(野村常務の回顧)
  • 株式会社年鑑 1950年版「東京海上火災保険」
    • [5]1950年版 本店臨時事務所を東京都大田区入新井に置く
    • [17]1950年版 大株主に持株会社整理委員会・大蔵大臣など
    • [18]1950年版 上場市場は東京・大阪・名古屋・福岡
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「東京海上火災」
    • [6]太平洋戦争で営業・資産に打撃を受けたが、資本の切捨てなく戦後の再建整備を終えた
  • 『産業フロンティア物語』(1966年)「損害保険〈東京海上〉」
    • [9]火災保険の損害率 1945年度25%→1946年度117%
    • [10]1947年1月から火災保険料率を普通物件35%・工場物件80%・倉庫物件35%引き上げ
    • [12]戦後の新経営陣は海上部門の低調を受け、明治火災の広い営業網を基盤にまず火災保険の営業進展に努めた
    • [13]1947年8月 火災保険代理店の強化に着手、1948年 業界初の「代理店ニュース」発行
    • [14]1947年 高木幹夫が常務取締役に就任し田中社長を補佐、再建で人材育成を重視
    • [16]1946年3月 制限会社の指定を受け株式の処分などを行う
    • [19]1950年10月 制限会社の指定解除、以後海外営業の推進・過小資本の是正から増資を重ねる
  • 株式会社年鑑 1956年版「東京海上火災保険」
    • [20]1953年10月 資本金20億円に増資
  • 株式会社年鑑 1957年版「東京海上火災保険」
    • [21]1956年10月 資本金40億円に増資

1955年〜自賠責保険の引受けと、ニューヨーク・ロンドンでの元受営業の再開

火災と海上で立て直した東京海上火災保険の保険料は、1955年度でも火災50.5%、海上37.5%の2種目に偏っていた。同年7月に自動車損害賠償保障法が成立し、引受額の6割を国が再保険する仕組みで強制保険が始まった。自賠責は車の保有者と運転者に付保を義務づける対人の賠償保険である。東京海上火災保険は1955年12月に自賠責の営業を始めた。1964年度には自賠責を含む新種保険が保険料の34.4%を占め、火災の33.2%、海上の32.4%と並んだ。1964年版のダイヤモンド会社産業総覧は、自動車の構成比を17〜18%としている。車の台数に比例して契約が積み上がる強制保険は、火災と海上に続く収益源の候補になったと考えられる。

  • 『産業フロンティア物語』(1966年)「損害保険〈東京海上〉」
    • [22]1955年度 東京海上の保険料構成 火災50.5%・海上37.5%
    • [24]自賠責は自動車の保有者・運転者に付保が強制される対人賠償責任保険
    • [26]1964年度 東京海上の保険料構成 火災33.2%・海上32.4%・新種34.4%
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』(1968年)「東京海上火災保険」
    • [23]1955年7月 自動車損害賠償保険法成立、引受額の6割を国が再保険する仕組み
  • 東洋経済新報社『日本会社史総覧』(1995年)「東京海上火災保険」
    • [25]1955年12月 自賠責保険の営業開始
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「東京海上火災保険」
    • [27]1964年版 種目別構成比 火災36〜37%・船舶23〜24%・貨物13〜14%・自動車17〜18%

海外との取引は再保険から戻り、1950年4月にロンドンのウィリス2社との協約が成立した。同じ月に外貨建ての貨物海上保険の営業も再開した。1955年には輸出入がともに伸び、国際収支は大幅な黒字に転じていた。東京海上火災保険は約200万ドルを送金し、ニューヨークのアップルトン社を現地の営業責任者に指名した。1956年1月には同州で海上保険を中心に元受営業を再開した。同年5月にはウィリス・フェーバー・エンド・デュマ商会を欧州の総代理店に据えた。ただ1961年度の外国営業は7億円で、全保険料226億円の3%強にとどまった。日本の荷主の貨物を現地で引き受ける需要が戻ったことが、再開を後押ししたのだろう。

  • 『産業フロンティア物語』(1966年)「損害保険〈東京海上〉」
    • [28]1950年4月 ウィリス・フェーバー・デュマ/同パートナーズと協約成立、ロンドン市場との再保険取引再開
    • [30]1955年 輸出入が伸び国際収支が大幅黒字、神武景気
    • [31]1955年までに約200万ドルを送金しニューヨークのアップルトン社をブランチ・マネジャーに指名
    • [32]1956年1月 ニューヨーク州で海上保険を中心に元受営業を再開
  • 東洋経済新報社『日本会社史総覧』(1995年)「東京海上火災保険」
    • [29]1950年4月 外貨建貨物海上保険の営業再開
  • 『企業の現代史』(1963年)「やがては宇宙に・危険の担い手(東京海上)」
    • [33]1956年5月 ウィリス・フェーバー・エンド・デュマ商会を欧州営業の総代理店とし海上保険の営業開始
    • [34]1961年度 全保険料226億円のうち外国営業分7億円(3%強)

1957年、田中徳次郎氏の後を受けて高木幹夫氏が社長に就任した。事務の機械化はその前から段階を踏み、1953年3月に統計調査室を設けていた。1955年2月には業界で初めてIBMの統計会計機を導入した。高木氏の代の1962年4月には、IBM1401型の電子計算機を入れてパンチカード方式から切り替えた。電子計算機による事務の合理化は、経費を抑える大きな力になった。損害率が上がるなかでも事業費率を年々下げ、手元に残る利益の比率を保った。従業員は1956年に2,476人で、1968年でも3,600名にとどまった。契約の増加を人員の増加でなく機械で吸収する方針が、この時期に定まったと推察される。

  • 『産業フロンティア物語』(1966年)「損害保険〈東京海上〉」
    • [35]1957年 高木幹夫が田中前社長の後を受け社長に就任
    • [36]1952年 事務機械化研究員を任命、1953年3月 統計調査室を設置
    • [37]1955年2月 IBM統計会計機を導入(業界初)
    • [40]損害率の上昇を事務の機械化などによる事業費率の低下でカバーし、残高率を維持
  • 『企業の現代史』(1963年)「やがては宇宙に・危険の担い手(東京海上)」
    • [38]1962年4月 IBM1401型電子計算機を導入しPCSからEDPSへ切り替え
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』(1968年)「東京海上火災保険」
    • [39]電子計算機システムによる事務合理化が経費節減の大きな力となっている(1968年時点)
    • [42]1968年時点 従業員3,600名
  • 株式会社年鑑 1957年版「東京海上火災保険」
    • [41]1956年時点 従業員2,476人
参考文献[22]-[42]
  • 『産業フロンティア物語』(1966年)「損害保険〈東京海上〉」
    • [22]1955年度 東京海上の保険料構成 火災50.5%・海上37.5%
    • [24]自賠責は自動車の保有者・運転者に付保が強制される対人賠償責任保険
    • [26]1964年度 東京海上の保険料構成 火災33.2%・海上32.4%・新種34.4%
    • [28]1950年4月 ウィリス・フェーバー・デュマ/同パートナーズと協約成立、ロンドン市場との再保険取引再開
    • [30]1955年 輸出入が伸び国際収支が大幅黒字、神武景気
    • [31]1955年までに約200万ドルを送金しニューヨークのアップルトン社をブランチ・マネジャーに指名
    • [32]1956年1月 ニューヨーク州で海上保険を中心に元受営業を再開
    • [35]1957年 高木幹夫が田中前社長の後を受け社長に就任
    • [36]1952年 事務機械化研究員を任命、1953年3月 統計調査室を設置
    • [37]1955年2月 IBM統計会計機を導入(業界初)
    • [40]損害率の上昇を事務の機械化などによる事業費率の低下でカバーし、残高率を維持
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』(1968年)「東京海上火災保険」
    • [23]1955年7月 自動車損害賠償保険法成立、引受額の6割を国が再保険する仕組み
    • [39]電子計算機システムによる事務合理化が経費節減の大きな力となっている(1968年時点)
    • [42]1968年時点 従業員3,600名
  • 東洋経済新報社『日本会社史総覧』(1995年)「東京海上火災保険」
    • [25]1955年12月 自賠責保険の営業開始
    • [29]1950年4月 外貨建貨物海上保険の営業再開
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「東京海上火災保険」
    • [27]1964年版 種目別構成比 火災36〜37%・船舶23〜24%・貨物13〜14%・自動車17〜18%
  • 『企業の現代史』(1963年)「やがては宇宙に・危険の担い手(東京海上)」
    • [33]1956年5月 ウィリス・フェーバー・エンド・デュマ商会を欧州営業の総代理店とし海上保険の営業開始
    • [34]1961年度 全保険料226億円のうち外国営業分7億円(3%強)
    • [38]1962年4月 IBM1401型電子計算機を導入しPCSからEDPSへ切り替え
  • 株式会社年鑑 1957年版「東京海上火災保険」
    • [41]1956年時点 従業員2,476人

1966年〜赤字の自動車保険と山本源左衛門社長の積立保険、菊池稔社長の大衆保険

1966年3月期の自動車の保険料は138億5,500万円で、5年前の31億8,000万円の4.4倍に膨らんだ。同じ期の正味保険料は14.3%増えたが、利益は横ばいにとどまった。同年6月、死去した高木幹夫氏に代わり専務の山本源左衛門氏が社長に就任した。1967年6月には、交通事故の支払いが膨らみ任意の自動車保険の引受けを断る損保が増えたという。1970年度には自賠責が元受保険料の30%、自動車が23%を占め、両種目とも高い損害率を抱えた。損保は準備金を厚く積むため引受けの収支は赤字が普通で、利益は運用益に依存していた。車の保険の比重が上がるほど、運用に回す資金の厚みが収益の焦点になっていったと読める。

  • 週刊日本経済 1966年9月15日号
    • [43]自動車の保険料 1961年3月期31億8,000万円→1966年3月期138億5,500万円(4.4倍)
    • [44]1966年3月期 正味保険料14.3%増、計上利益は横這い
    • [45]1966年6月 高木社長の死去後、専務の山本源左衛門が社長に就任
  • 読売新聞 1967年6月22日
    • [46]1967年6月 保険金支払いがかさみ任意の自動車保険の引受けを断る損保会社が増加
  • 東洋経済新報社『日本会社史総覧』(1995年)「東京海上火災保険」
    • [47]1970年度 元受保険料の構成 自賠責30%・自動車23%、両保険とも高い損害率
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「東京海上火災保険」
    • [48]準備金を厚く積むため営業収支は赤字が普通で、別に資産の運用益がある

1969年4月、東京海上火災保険は積立保険(長期総合保険)を発売した。補償に貯蓄の性格を加えた長期の保険で、満期に掛け金の一部が戻る。当時の社長は1966年6月に就任した山本源左衛門氏である。1984年に社長の竹田晴夫氏は、開発の発想を『発想的には、"かけ捨て"が「いやだ」という契約者に対して、掛け金が少しでももどる保険を作ったらどうかということからまず長総を作った』と説明した。竹田氏によれば長総は予想を超えて売れ、当初は利回りを売り物にしていなかったという。積立保険は個人資産の増加とともに伸び、1990年度には元受保険料の30%を占めた。掛け捨てを嫌う家計を取り込みつつ保険料を長く預かる商品設計は、運用益に依存する収益構造にも合っていたはずだ。

  • 東洋経済新報社『日本会社史総覧』(1995年)「東京海上火災保険」
    • [49]1969年4月 積立保険(長期総合保険)を発売
    • [50]積立保険は補償に貯蓄性を加えた長期保険
    • [54]1990年度 元受保険料の構成で積立30%、個人資産の増大で急成長
  • 日本企業要覧 1969年版「東京海上火災保険」
    • [51]1966年6月 山本源左衛門が取締役社長に就任
  • Insurance 1984年10月号第1集 損保版「親しまれ信頼される東京海上をめざして――東京海上・社長 竹田晴夫氏語る」
    • [52]竹田晴夫社長(1984年):掛け捨てを嫌う契約者向けに掛け金が戻る保険として長総を作った
    • [53]竹田晴夫社長(1984年):長総は意外に売れ、当初は利回りを売り物にしていなかった

1972年6月、三菱海上火災保険に1934年に入社した菊池稔氏が社長に就任した。1973年3月期の正味保険料は1,635億3,800万円に達した。1966年3月期の378億円から、7年で4倍を超えた規模である。1973年版の日本企業要覧は事業の内訳を自賠責29.54%、自動車18.33%とし、車の保険が半ば近くを占めた。保険料が4倍を超えたのに対し、1972年3月末の在籍人員は4,121名だった。事務の機械化は業況の進展に合わせて進められていた。件数の多い自動車と家計の契約を捌くには、人手に依存する事務はすでに限界に近かったといえよう。

  • 日本企業要覧 1973年版「東京海上火災保険」
    • [55]1972年6月 菊池稔が取締役社長に就任(1934年 三菱海上火災保険入社)
    • [56]1973年3月期 正味保険料1,635億3,800万円(前期比7.9%増)
    • [58]1973年版 事業内容 火災19.62%・海上20.58%・自動車18.33%・自賠責29.54%・その他11.93%
  • 会社年鑑 1976年版「東京海上火災保険」
    • [57]1966年3月期 営業収益(正味保険料)378億円
  • 日本企業要覧 1972年版「東京海上火災保険」
    • [59]1972年3月31日現在 在籍人員4,121名
  • 東洋経済新報社『日本会社史総覧』(1995年)「東京海上火災保険」
    • [60]業況の進展に対応して新商品の開発や事務の機械化が進んだ(1955〜1970年ごろ)
参考文献[43]-[60]
  • 週刊日本経済 1966年9月15日号
    • [43]自動車の保険料 1961年3月期31億8,000万円→1966年3月期138億5,500万円(4.4倍)
    • [44]1966年3月期 正味保険料14.3%増、計上利益は横這い
    • [45]1966年6月 高木社長の死去後、専務の山本源左衛門が社長に就任
  • 読売新聞 1967年6月22日
    • [46]1967年6月 保険金支払いがかさみ任意の自動車保険の引受けを断る損保会社が増加
  • 東洋経済新報社『日本会社史総覧』(1995年)「東京海上火災保険」
    • [47]1970年度 元受保険料の構成 自賠責30%・自動車23%、両保険とも高い損害率
    • [49]1969年4月 積立保険(長期総合保険)を発売
    • [50]積立保険は補償に貯蓄性を加えた長期保険
    • [54]1990年度 元受保険料の構成で積立30%、個人資産の増大で急成長
    • [60]業況の進展に対応して新商品の開発や事務の機械化が進んだ(1955〜1970年ごろ)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「東京海上火災保険」
    • [48]準備金を厚く積むため営業収支は赤字が普通で、別に資産の運用益がある
  • 日本企業要覧 1969年版「東京海上火災保険」
    • [51]1966年6月 山本源左衛門が取締役社長に就任
  • Insurance 1984年10月号第1集 損保版「親しまれ信頼される東京海上をめざして――東京海上・社長 竹田晴夫氏語る」
    • [52]竹田晴夫社長(1984年):掛け捨てを嫌う契約者向けに掛け金が戻る保険として長総を作った
    • [53]竹田晴夫社長(1984年):長総は意外に売れ、当初は利回りを売り物にしていなかった
  • 日本企業要覧 1973年版「東京海上火災保険」
    • [55]1972年6月 菊池稔が取締役社長に就任(1934年 三菱海上火災保険入社)
    • [56]1973年3月期 正味保険料1,635億3,800万円(前期比7.9%増)
    • [58]1973年版 事業内容 火災19.62%・海上20.58%・自動車18.33%・自賠責29.54%・その他11.93%
  • 会社年鑑 1976年版「東京海上火災保険」
    • [57]1966年3月期 営業収益(正味保険料)378億円
  • 日本企業要覧 1972年版「東京海上火災保険」
    • [59]1972年3月31日現在 在籍人員4,121名

1945年〜1973年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 378 n/a 75 22 5.8% n/a
1967年03月期 単体 494 +30.7% 120 24 4.9% n/a
1968年03月期 単体 661 +33.8% 184 30 4.5% n/a
1969年03月期 単体 834 +26.2% 199 34 4.1% n/a
1970年03月期 単体 1,010 +21.1% 207 38 3.8% n/a
1971年03月期 単体 1,331 +31.8% 365 89 6.7% n/a
1972年03月期 単体 1,483 +11.4% 414 125 8.4% n/a
1973年03月期 単体 1,635 +10.2% 467 162 9.9% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

16件
出典・参考
  • 株式会社年鑑 1950年版「東京海上火災保険」
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「東京海上火災」
  • 株式会社年鑑 1956年版「東京海上火災保険」
  • 株式会社年鑑 1957年版「東京海上火災保険」
  • 『企業の現代史』(1963年)「やがては宇宙に・危険の担い手(東京海上)」
  • 『産業フロンティア物語』(1966年)「損害保険〈東京海上〉」
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』(1968年)「東京海上火災保険」
  • 会社年鑑 1976年版「東京海上火災保険」
  • 東洋経済新報社『日本会社史総覧』(1995年)「東京海上火災保険」
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「東京海上火災保険」
  • 週刊日本経済 1966年9月15日号
  • Insurance 1984年10月号第1集 損保版「親しまれ信頼される東京海上をめざして――東京海上・社長 竹田晴夫氏語る」
  • 読売新聞 1967年6月22日
  • 日本企業要覧 1969年版「東京海上火災保険」
  • 日本企業要覧 1972年版「東京海上火災保険」
  • 日本企業要覧 1973年版「東京海上火災保険」

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