東京エレクトロン:東京エレクトロン研究所の設立と商社からメーカーへの転換
1963年〜東京放送の500万円と、IC製造装置の代理権
理想の会社をつくりたいという夢を抱いた日商(現・日商岩井)の久保徳雄氏は、同社を退き、1963年11月に東京放送の出資500万円を元手として東京エレクトロン研究所を東京都港区に立ち上げた。商社でありながら"研究所"を名乗ったのは、単なる売り買いを超え、製造の現場に寄り添う技術のサービスが求められると久保徳雄氏が考えたためである。出発時の社員は数名で、手がけたのはVTRとカーラジオの輸出、電子機器関係の輸入だった。日商時代に半導体の製造装置を海外から仕入れて売っていた小高敏夫氏が新会社に加わったのは、翌1964年5月である。小高敏夫氏はこの商売が総合商社の気質とかみ合わないと痛感し、新しい会社で自分の理想とするやり方を試そうとしていた。
- 日経ビジネス 1991年3月18日号
- [1]久保徳雄氏「理想的な会社をつくりたい。こんな夢を抱いて商社から独立、3〜4人の仲間と東京エレクトロンを設立したのが1963年の11月です」
- 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
- [2]久保は必死に金ヅルを探し、遂に東京放送という絶好の金ヅルをさがし当て、500万円の資金を引き出すことに成功した
- [6]小高敏夫が正式に東京エレクトロンに入社したのは、創立から半年後の1964年5月であった
- [7]小高は日商において主として半導体製造装置の輸入販売を担当し、その仕事が総合商社の体質に合わないビジネスであることを痛感していた
- 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
- [3]1963年11月 ㈱東京放送の関係会社として東京都港区に㈱東京エレクトロン研究所を設立(資本金5百万円)
- [5]1963年11月 VTR、カーラジオ等の輸出及び電子機器関係の輸入業務を開始
- 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
- [4]久保徳雄社長「『研究所』としたのは、ただの商社ではなく製造に近寄った形の技術サービスが必要になるのではないかと考えたからである」
小高敏夫氏は入社の1週間後に渡米し、1964年5月末にサームコ社の拡散炉の輸入販売を開始した。創立1年目の同社は東京放送本館内に10坪ほどの事務所を借りるにすぎなかったが、同年10月、総合商社との競合で優位に立ってフェアチャイルド社の総代理店となった。ICテスターの第1号機は代金4000万円を東京放送の債務保証による銀行借入で支払い、日本電気に納入した。1963年から1964年にかけての日本では、ICの実用化について否定的な見方が圧倒的に多かった。小高敏夫氏は日本電気・日立製作所・東芝・富士通を回ってICの将来性を説き、各社の開発責任者に同行してフェアチャイルド社のIC工場を案内した。1974年9月の社報で小高敏夫氏は、大型テスターを日本で約180台納入し、日本市場のシェアは1位だと報告した。
- 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
- [8]小高敏夫は入社1週間後に渡米し、1964年5月末にサームコ社の拡散炉の輸入販売を開始した
- [10]努力が実を結び、10月に入って代理店契約に関する合意が成立した。すぐに久保がシリコンバレーのフェアチャイルド社へ飛び、サインを終えた
- [12]一年後、待望のICテスター第一号機が入荷した。代金4,000万円も、東京放送の債務保証による銀行借入で無事に支払いを済ませた
- [13]38年から39年にかけての日本では、まだICの実用化については否定的な見方が圧倒的に多かった
- [14]各社ごとに、その都度小高自身が同行してフェアチャイルド社を訪ねた
- [15]四九年九月の社報で、大型テスターを日本で約180台納入し、日本市場のシェアは1位であると報告した
- 日経ビジネス 1984年4月26日号
- [9]創立1年目、まだTBS本館内に10坪程の事務所を借りていた当時
- [11]TELは総合商社との競り合いに勝ち、米国フェアチャイルド(FC)の総代理店となった
代理店として装置を輸入し売る会社でありながら、東京エレクトロンは出発の時点から社員のほとんどを顧客支援の要員に充てていた。毎年多数の技術者を米国へ送り、提携先の工場で1か月から3か月のあいだ働かせ、機械の操作と保守を習得させた。派遣の費用はかさんだが、効果は大きかった。提携先はICテスターのフェアチャイルド・システム・テクノロジー、マイクロコンピュータのインテル、イオン注入装置のバリアンなど40社を超えた。次の段階では、顧客の主要な工場の近くに自社のサービスセンターを設けて支援する方式を採った。良い製品を供給して補修の面まで支援し、製品を信頼されて初めて顧客から中身の濃い情報が得られるという順序で、情報の流れを設計していた。
- 日経ビジネス 1997年12月1日号
- [16]東哲郎社長「当社は半導体検査装置の商社として出発したのですが、初めからほとんどの社員がサポート要員という格好でした」
- [20]東哲郎社長「その次の段階では、お客さんの主要な工場の近くにうちのサービスセンターを設けて、サポートするというやり方をとってきました」
- [21]東哲郎社長「やはり良い製品を供給し、その補修などの面でお客さんをサポートすることが大切ですね。そうやって当社の製品を信頼してもらえるようになって初めて、むこうから良い情報もとれるというものです」
- 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
- [17]久保徳雄社長「毎年多数の技術者をアメリカへ送り、現地の工場で1〜3カ月間働かせて、機械の動かし方、保守、サービスなどを習わせている」
- [18]久保徳雄社長「カネはかかるが効果は大きい」
- [19]ICテスターはフェアチャイルド・システム・テクノロジー社、マイコンはインテル社、プリント基板テスターはジェンラッド社、デジタル測定機はジョン・フルーク社、半導体関係装置はイオン・インプランテーションのバリアン社など。全部で40社以上になる
参考文献[1]-[21]
- 日経ビジネス 1991年3月18日号
- [1]久保徳雄氏「理想的な会社をつくりたい。こんな夢を抱いて商社から独立、3〜4人の仲間と東京エレクトロンを設立したのが1963年の11月です」
- 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
- [2]久保は必死に金ヅルを探し、遂に東京放送という絶好の金ヅルをさがし当て、500万円の資金を引き出すことに成功した
- [6]小高敏夫が正式に東京エレクトロンに入社したのは、創立から半年後の1964年5月であった
- [7]小高は日商において主として半導体製造装置の輸入販売を担当し、その仕事が総合商社の体質に合わないビジネスであることを痛感していた
- [8]小高敏夫は入社1週間後に渡米し、1964年5月末にサームコ社の拡散炉の輸入販売を開始した
- [10]努力が実を結び、10月に入って代理店契約に関する合意が成立した。すぐに久保がシリコンバレーのフェアチャイルド社へ飛び、サインを終えた
- [12]一年後、待望のICテスター第一号機が入荷した。代金4,000万円も、東京放送の債務保証による銀行借入で無事に支払いを済ませた
- [13]38年から39年にかけての日本では、まだICの実用化については否定的な見方が圧倒的に多かった
- [14]各社ごとに、その都度小高自身が同行してフェアチャイルド社を訪ねた
- [15]四九年九月の社報で、大型テスターを日本で約180台納入し、日本市場のシェアは1位であると報告した
- 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
- [3]1963年11月 ㈱東京放送の関係会社として東京都港区に㈱東京エレクトロン研究所を設立(資本金5百万円)
- [5]1963年11月 VTR、カーラジオ等の輸出及び電子機器関係の輸入業務を開始
- 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
- [4]久保徳雄社長「『研究所』としたのは、ただの商社ではなく製造に近寄った形の技術サービスが必要になるのではないかと考えたからである」
- [17]久保徳雄社長「毎年多数の技術者をアメリカへ送り、現地の工場で1〜3カ月間働かせて、機械の動かし方、保守、サービスなどを習わせている」
- [18]久保徳雄社長「カネはかかるが効果は大きい」
- [19]ICテスターはフェアチャイルド・システム・テクノロジー社、マイコンはインテル社、プリント基板テスターはジェンラッド社、デジタル測定機はジョン・フルーク社、半導体関係装置はイオン・インプランテーションのバリアン社など。全部で40社以上になる
- 日経ビジネス 1984年4月26日号
- [9]創立1年目、まだTBS本館内に10坪程の事務所を借りていた当時
- [11]TELは総合商社との競り合いに勝ち、米国フェアチャイルド(FC)の総代理店となった
- 日経ビジネス 1997年12月1日号
- [16]東哲郎社長「当社は半導体検査装置の商社として出発したのですが、初めからほとんどの社員がサポート要員という格好でした」
- [20]東哲郎社長「その次の段階では、お客さんの主要な工場の近くにうちのサービスセンターを設けて、サポートするというやり方をとってきました」
- [21]東哲郎社長「やはり良い製品を供給し、その補修などの面でお客さんをサポートすることが大切ですね。そうやって当社の製品を信頼してもらえるようになって初めて、むこうから良い情報もとれるというものです」
1971年〜消費財輸出からの全面撤退と、7条件による商品選別
1971年8月のニクソン・ショックに続く変動相場制への移行で、同社は利益が半減した。利益を稼いでいたのは輸入部門で、その額は約5億円だった。一方、売上の6割を担った輸出部門は、1973年の石油ショックも重なって1974年9月期に約3億円の赤字を出し、同年12月の社報で小高敏夫氏は、経常利益が前期の3億3000万円から2億円に減少した主因はこの赤字だと社内に伝えた。輸出品はどれも欧米企業のブランドを付けるOEMで、最終消費者の動きが見えず、米国からの注文が急に止まると在庫が積み上がった。小高敏夫氏の回想によれば、カーステレオには松下通信工業が本格生産に参入するなど大手の参入が相次ぎ、技術でも商品でも差がつかず、中小企業が競争優位を築く余地は無かった。完全撤退に最も強く異を唱えた常務1人が辞め、さらに2人が独立など別の事情で離れたのち、1974年11月に久保徳雄社長と小高敏夫専務の体制が始まった。
- 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
- [22]1971年8月のニクソン・ショックから12月のスミソニアン会議を経て国際通貨は変動相場制へ移行し、東京エレクトロンもドル・ショックで利益半減に見舞われた
- [23]利益では、輸入部門がなんと約5億円もかせいでいた
- [24]約200億円の売上げのうち、6割を輸出部門が占め…輸出部門で約3億円の赤字が出ていたことになる
- [25]1974年12月の社報で小高は、1974年9月期に経常利益が前年の3億3000万円から2億円に減少した事実と、その減益の原因が輸出部門の赤字にあったことを報告した
- [28]最も強く完全撤退に反対していた常務一人が辞任し、ほかに二人が独立などの別の理由で去って行った
- [29]1974年11月、久保社長・小高専務体制がスタートした
- 日経ビジネス 1982年5月31日号(小高敏夫社長インタビュー)
- [26]小高敏夫社長「当社の輸出商品はすべて欧米企業のブランドで売るOEMでした。だから、最終消費者の動向が我々にはよくわからんのです。で、突然米国から注文の打ち切りがくると、在庫の山ができる」
- [27]小高敏夫社長「カーステレオでは松下通信工業が生産を本格化させるなど、大手がこぞって進出して来た。技術、商品面の差はほとんどない。これじゃ、ウチのような中小企業は太刀打ちできない」
カーラジオ・カーステレオ・電卓の輸出は、7条件に照らせば明らかに当てはまらない事業だった。その7つの条件は、1974年12月の社報で示された。小高敏夫氏はそこで不採算部門の大胆な縮小と廃止を打ち出し、商品を選ぶ物差しとして次を並べた。成長余地のある市場であること、競合が少なく大メーカーが主力に据えていない製品であること、他社が簡単には入り込めないこと、取引先が一流企業で代金の取りはぐれがないこと、多額の資金を必要としないこと、抱えている間に値が崩れないこと、付加価値と利益率が高いこと。撤退は一度には行わず、1976年9月に電卓、1978年9月にカーステレオとトランシーバーの輸出販売をやめた。輸出高は1977年9月期の90億円から翌期は28億円に減り、1979年9月期にゼロとなった。これらの市場が急拡大するなかで大きな販売網と資金がなければ競争で優位に立てないと判断しての撤退だった。
- 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
- [30]カーラジオ、カーステレオ、電卓などの耐久消費財の輸出は、社報に書かれた七条件からは明らかに外れていた
- [31]小高が社報で示した、なにを扱うかを判断するための7項目
- [32]1974年12月の社報に「明日の飛躍のために」と題する小高の文章が掲載され、不採算部門については思い切った縮小なり廃止を考えたいと打ち出した
- [33](1)マーケットが今から大きくなる分野の製品(2)その製品について競争相手が少ないこと。とくに大メーカーの主力製品でないこと(3)他社が容易に参入できない製品(4)販売先が一流会社であり、代金回収についての心配がない製品であること
- [34](5)取り扱うのにあまり金がかからぬ製品であること(6)製品が在庫している間に値崩れしないこと(7)付加価値の高い、利益率の高い製品であること
- 証券 1980年6月号 32(6)(375)
- [35]電卓の輸出販売については国内大手メーカーのマスプロ製品におされ1976年9月に撤退し、カーステレオ、トランシーバーの輸出販売についても1978年9月に至り全面的に撤退している
- 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
- [36]久保徳雄社長「1977年9月期に90億円あった輸出が、1978年9月期には28億円に減り、1979年9月期にはなくなった」
- [37]久保徳雄社長「当社は電卓、CB、カー・ステレオなどの輸出をかなりの期間手がけたが、これらの市場が急拡大するに及び、大きな販売網と資金がないと競争に勝てないことを知って、撤退したのである」
1979年9月期の部門別売上高構成は、半導体製造機器が40.2%、半導体を主力とする電子部品が35.6%を占めた。大きな市場を追わず、特定の分野に深く入り込んで特殊なシステムを売る会社を目指した。国内市場は装置ごとにみると最大でも100億円ほどで、細かな仕事を寄せ集めて積み上げる商いであり、製品に個性が出るほど大メーカーとぶつからずに済み、業界の規模が小さいことから高いシェアも取れる。半導体工場向けのICテスターは計測・分析機器に含まれ、これを足すと売上高の約7割が半導体に関わっていた。エンジニアを軸にした技術商社は、日本企業の通例とはひと味違うベンチャービジネスに育ったと、のちに評された。
- 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
- [38]1979年9月期の部門別売上高構成は、半導体製造機器40.2%、半導体を主力とする電子部品35.6%、計測・分析機器12.9%、コンピュータ関連機器10.9%、車載電装品(輸出)0.4%
- [39]久保徳雄社長「当社は大きなマーケットはねらわず、非常に専門的に深く入り、特殊システムを売れるような会社になっていきたいと考えている」
- [40]久保徳雄社長「各装置毎に見れば国内マーケットは最大のものでも100億円ぐらいのものだ。それらの細かい仕事を集めて積み上げ」ている
- [41]久保徳雄社長「こうして個性化するほど大メーカーとの競合は少なくてすむ。また特殊なシステムをやっていると、その業界自身はあまり大きくないので、非常に高いシェアを占められる」
- [42]計測・分析機器の中には、半導体の製造工場に納めているICテスターが含まれているので、これを加えると、当社の売上高の約7割が半導体に関連しているといえる
- 日経ビジネス 1987年2月2日号
- [43]エンジニア中心の技術商社は、スポンサーが東京放送という特殊な世界の企業であったこともあり、一般の日本の企業とはひと味違うベンチャービジネスとして成長した
参考文献[22]-[43]
- 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
- [22]1971年8月のニクソン・ショックから12月のスミソニアン会議を経て国際通貨は変動相場制へ移行し、東京エレクトロンもドル・ショックで利益半減に見舞われた
- [23]利益では、輸入部門がなんと約5億円もかせいでいた
- [24]約200億円の売上げのうち、6割を輸出部門が占め…輸出部門で約3億円の赤字が出ていたことになる
- [25]1974年12月の社報で小高は、1974年9月期に経常利益が前年の3億3000万円から2億円に減少した事実と、その減益の原因が輸出部門の赤字にあったことを報告した
- [28]最も強く完全撤退に反対していた常務一人が辞任し、ほかに二人が独立などの別の理由で去って行った
- [29]1974年11月、久保社長・小高専務体制がスタートした
- [30]カーラジオ、カーステレオ、電卓などの耐久消費財の輸出は、社報に書かれた七条件からは明らかに外れていた
- [31]小高が社報で示した、なにを扱うかを判断するための7項目
- [32]1974年12月の社報に「明日の飛躍のために」と題する小高の文章が掲載され、不採算部門については思い切った縮小なり廃止を考えたいと打ち出した
- [33](1)マーケットが今から大きくなる分野の製品(2)その製品について競争相手が少ないこと。とくに大メーカーの主力製品でないこと(3)他社が容易に参入できない製品(4)販売先が一流会社であり、代金回収についての心配がない製品であること
- [34](5)取り扱うのにあまり金がかからぬ製品であること(6)製品が在庫している間に値崩れしないこと(7)付加価値の高い、利益率の高い製品であること
- 日経ビジネス 1982年5月31日号(小高敏夫社長インタビュー)
- [26]小高敏夫社長「当社の輸出商品はすべて欧米企業のブランドで売るOEMでした。だから、最終消費者の動向が我々にはよくわからんのです。で、突然米国から注文の打ち切りがくると、在庫の山ができる」
- [27]小高敏夫社長「カーステレオでは松下通信工業が生産を本格化させるなど、大手がこぞって進出して来た。技術、商品面の差はほとんどない。これじゃ、ウチのような中小企業は太刀打ちできない」
- 証券 1980年6月号 32(6)(375)
- [35]電卓の輸出販売については国内大手メーカーのマスプロ製品におされ1976年9月に撤退し、カーステレオ、トランシーバーの輸出販売についても1978年9月に至り全面的に撤退している
- 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
- [36]久保徳雄社長「1977年9月期に90億円あった輸出が、1978年9月期には28億円に減り、1979年9月期にはなくなった」
- [37]久保徳雄社長「当社は電卓、CB、カー・ステレオなどの輸出をかなりの期間手がけたが、これらの市場が急拡大するに及び、大きな販売網と資金がないと競争に勝てないことを知って、撤退したのである」
- [38]1979年9月期の部門別売上高構成は、半導体製造機器40.2%、半導体を主力とする電子部品35.6%、計測・分析機器12.9%、コンピュータ関連機器10.9%、車載電装品(輸出)0.4%
- [39]久保徳雄社長「当社は大きなマーケットはねらわず、非常に専門的に深く入り、特殊システムを売れるような会社になっていきたいと考えている」
- [40]久保徳雄社長「各装置毎に見れば国内マーケットは最大のものでも100億円ぐらいのものだ。それらの細かい仕事を集めて積み上げ」ている
- [41]久保徳雄社長「こうして個性化するほど大メーカーとの競合は少なくてすむ。また特殊なシステムをやっていると、その業界自身はあまり大きくないので、非常に高いシェアを占められる」
- [42]計測・分析機器の中には、半導体の製造工場に納めているICテスターが含まれているので、これを加えると、当社の売上高の約7割が半導体に関連しているといえる
- 日経ビジネス 1987年2月2日号
- [43]エンジニア中心の技術商社は、スポンサーが東京放送という特殊な世界の企業であったこともあり、一般の日本の企業とはひと味違うベンチャービジネスとして成長した
1979年〜商社とメーカーを兼ねた業態からメーカーへの移行
1979年9月期の取扱製品は輸入品が約75%を占め、子会社テルメックのプローバーと、サームコ社との合弁テル・サームコの拡散炉が全体の20%強を占めた。テル・サームコを1968年に横浜へ設立して以来、拡散炉は国産。売上高の25%を関連会社が自社生産した製品が占め、輸入したシステムについても顧客の要望に応じた手直しやソフトウェアの開発という、製造メーカーの領域の仕事を担った。これらの製品はアフターサービスに高度な技術力を要して能力開発への投資も大きく、経常利益率は商社型よりメーカー型に近くなると久保徳雄社長は説明した。1978年10月に社名を東京エレクトロン株式会社へ改め、1980年6月に東京証券取引所市場第二部へ上場した。1980年度の半導体製造機器の国内市場約1000億円のうち同社は約25%を占めて首位に立ち、拡散炉・高圧酸化炉・減圧CVD炉の3品目は国内シェアがそれぞれ70%に達した。
- 証券 1980年6月号 32(6)(375)
- [44]1979年9月期の取扱製品は輸入品が約75%を占めた
- [45]子会社テルメックのプローバーと合弁テル・サームコの拡散炉が全体の20%強を占めた
- 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
- [46]1968年、サームコ社との合弁でテル・サームコを横浜に設立し、拡散炉の国産化に踏み切った
- [52]1980年度の半導体製造機器の国内市場は約1000億円で、東京エレクトロンは約25%を占めて首位に立った
- [53]拡散炉・高圧酸化炉・減圧CVD炉の3品目は国内シェアがそれぞれ約70%に達した(1980年度)
- 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
- [47]久保徳雄社長「売上高の25%は関連会社が自社生産した製品である」
- [48]久保徳雄社長「輸入販売しているシステム製品についても顧客の要望に応じて手直しをしたり、ソフト・ウエアの開発を行うなど、本来製造メーカーの領域に属する仕事を行う能力を持っている」
- [49]久保徳雄社長「これらのシステム製品群はアフター・サービスについても高度の技術力が必要である。このため能力開発のための投資も大きく、経常利益率は従来の『商社型』よりむしろ『メーカー型』に近くなる」
- [50]1978年10月に社名を東京エレクトロン株式会社へ改めた
- 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
- [51]1980年6月 東京証券取引所市場第二部上場
1983年に熊本へ初の自社工場を建て、1984年2月にIC製造装置メーカーのテルメックを吸収合併し、同年3月に東証第一部へ指定替えとなった。小高敏夫社長は一部昇格と同時に業種区分を商社から電機へ変えるよう求めたが、認められなかった。いずれも商社と呼ばれたくないための行動であり、自社工場も吸収合併も一部上場も技術者を集めるためのものだと小高敏夫氏は述べた。1985年9月期に1501億円まで伸びた売上高は、半導体不況で翌1986年9月期に843億円へ落ち、営業利益は創業以来初の赤字となった。1986年10月に吉田稔社長が辞任し、2年前に会長へ就任していた小高敏夫氏が社長に復帰した。吉田稔氏が業績悪化の責任をとって辞任を申し出たと小高敏夫氏は説明したが、解任動議が出されたという証言も流れた。内製化はその後も続き、1988年2月にテル・サームコの全株式を取得し、1993年4月には東京エレクトロン相模と東京エレクトロン東北を合併した。
- 日経ビジネス 1984年4月26日号
- [54]1983年、熊本に初の自社工場を建設した
- [55]1984年2月、IC製造装置メーカーのテルメックを吸収合併した
- [57]小高敏夫社長は一部昇格と同時に業種区分を商社から電機へ変えるよう求めたが、認められなかった
- [58]小高敏夫社長「これらはすべて商社と呼ばれたくないための行動である」
- 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
- [56]1984年3月 東京証券取引所市場第一部へ指定替え
- [67]1993年4月 東京エレクトロン相模㈱(1968年2月設立、旧テル・サームコ㈱)と東京エレクトロン東北㈱を合併
- 日経ビジネス 1984年4月26日号(小高敏夫社長の発言)
- [59]小高敏夫社長「自社工場も吸収合併も一部上場も、すべて技術者を集めるためのものだ」
- 証券調査(241)
- [60]1985年9月期 売上高1501億円
- [61]1986年9月期 売上高843億円
- 日経ビジネス 1987年2月2日号
- [62]1986年9月期に営業利益で創業以来初の赤字を計上した
- [63]1986年10月、吉田稔社長が辞任し、小高敏夫が社長に復帰した
- [64]小高社長によれば、「吉田君が業績悪化の責任をとって辞任したいと申し出てきた」
- [65]「8月に緊急役員会が開かれ、吉田社長の解任動議が出された」(東エレクに近い関係者)という証言もある。直接の当事者が沈黙を守っているため、真相は藪の中
- 東京エレクトロン 有価証券報告書(過年度)
- [66]1988/2 テル・サームコ株式会社(1968年2月設立)の全株式を取得し、テル相模株式会社とする
1983年の設立20周年記念社報に、久保徳雄会長は創業の理想を綴った。それは少数精鋭で自由に意見を言えるガラス張りのユートピアを築くことだったという。だが同じ文章は、資金や人材を調達するうえで業績の成長を抑えるわけにはいかないと気づき、若干の方向修正として無制限成長路線に挑んだとも続けている。この路線は営業体制の拡張にも波及し、1986年1月にはメーカー別だった営業をユーザー別に切り替え、全国7カ所だった営業所を一気に17カ所へ増やした。1988年までに40カ所とする計画も掲げ、1986年の大卒採用は352人に達した。半導体不況が長引くと翌1987年の採用は75人に絞られ、社長へ復帰した小高敏夫氏はまず半導体の営業体制を元へ戻した。1993年3月期は大幅な減収減益に陥り、翌期に回復基調へ戻っても経常利益はピーク時の半分に達しなかった。
- 日経ビジネス 1987年2月2日号
- [68]久保会長は58年の設立20周年記念社報で「私達の理想はノビノビと働けるガラス張りのユートピア建設であった。社員は少数精鋭。自由な意見。公正な成果配分、出勤簿はなし」と語っている
- [69]久保徳雄会長「金や人を集めるにも業績成長を制限できないことが分かったし、成長してこそ若い人のやり甲斐を満たせられることも分かった。株主の期待も業績拡大にあること。TELは若干方向修正して無制限成長路線へ挑戦した」
- [70]東エレクは昨年1月、従来のメーカー別営業体制をユーザー別に切り替え、全国7カ所の営業所を一気に17カ所に増やした
- [71]63年までに40カ所とする拡大策に打って出ていた。61年の新卒採用は大卒352人
- [72]62年の採用はさすがに75人に絞った
- [73]復帰した小高社長がまず手をつけたのは半導体営業体制を元に戻すことだった
- 日経ビジネス 1995年1月2日号
- [74]93年は大幅な減収減益、94年は回復基調に乗ったものの、経常利益はピーク時の半分にも満たなかった
参考文献[44]-[74]
- 証券 1980年6月号 32(6)(375)
- [44]1979年9月期の取扱製品は輸入品が約75%を占めた
- [45]子会社テルメックのプローバーと合弁テル・サームコの拡散炉が全体の20%強を占めた
- 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
- [46]1968年、サームコ社との合弁でテル・サームコを横浜に設立し、拡散炉の国産化に踏み切った
- [52]1980年度の半導体製造機器の国内市場は約1000億円で、東京エレクトロンは約25%を占めて首位に立った
- [53]拡散炉・高圧酸化炉・減圧CVD炉の3品目は国内シェアがそれぞれ約70%に達した(1980年度)
- 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
- [47]久保徳雄社長「売上高の25%は関連会社が自社生産した製品である」
- [48]久保徳雄社長「輸入販売しているシステム製品についても顧客の要望に応じて手直しをしたり、ソフト・ウエアの開発を行うなど、本来製造メーカーの領域に属する仕事を行う能力を持っている」
- [49]久保徳雄社長「これらのシステム製品群はアフター・サービスについても高度の技術力が必要である。このため能力開発のための投資も大きく、経常利益率は従来の『商社型』よりむしろ『メーカー型』に近くなる」
- [50]1978年10月に社名を東京エレクトロン株式会社へ改めた
- 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
- [51]1980年6月 東京証券取引所市場第二部上場
- [56]1984年3月 東京証券取引所市場第一部へ指定替え
- [67]1993年4月 東京エレクトロン相模㈱(1968年2月設立、旧テル・サームコ㈱)と東京エレクトロン東北㈱を合併
- 日経ビジネス 1984年4月26日号
- [54]1983年、熊本に初の自社工場を建設した
- [55]1984年2月、IC製造装置メーカーのテルメックを吸収合併した
- [57]小高敏夫社長は一部昇格と同時に業種区分を商社から電機へ変えるよう求めたが、認められなかった
- [58]小高敏夫社長「これらはすべて商社と呼ばれたくないための行動である」
- 日経ビジネス 1984年4月26日号(小高敏夫社長の発言)
- [59]小高敏夫社長「自社工場も吸収合併も一部上場も、すべて技術者を集めるためのものだ」
- 証券調査(241)
- [60]1985年9月期 売上高1501億円
- [61]1986年9月期 売上高843億円
- 日経ビジネス 1987年2月2日号
- [62]1986年9月期に営業利益で創業以来初の赤字を計上した
- [63]1986年10月、吉田稔社長が辞任し、小高敏夫が社長に復帰した
- [64]小高社長によれば、「吉田君が業績悪化の責任をとって辞任したいと申し出てきた」
- [65]「8月に緊急役員会が開かれ、吉田社長の解任動議が出された」(東エレクに近い関係者)という証言もある。直接の当事者が沈黙を守っているため、真相は藪の中
- [68]久保会長は58年の設立20周年記念社報で「私達の理想はノビノビと働けるガラス張りのユートピア建設であった。社員は少数精鋭。自由な意見。公正な成果配分、出勤簿はなし」と語っている
- [69]久保徳雄会長「金や人を集めるにも業績成長を制限できないことが分かったし、成長してこそ若い人のやり甲斐を満たせられることも分かった。株主の期待も業績拡大にあること。TELは若干方向修正して無制限成長路線へ挑戦した」
- [70]東エレクは昨年1月、従来のメーカー別営業体制をユーザー別に切り替え、全国7カ所の営業所を一気に17カ所に増やした
- [71]63年までに40カ所とする拡大策に打って出ていた。61年の新卒採用は大卒352人
- [72]62年の採用はさすがに75人に絞った
- [73]復帰した小高社長がまず手をつけたのは半導体営業体制を元に戻すことだった
- 東京エレクトロン 有価証券報告書(過年度)
- [66]1988/2 テル・サームコ株式会社(1968年2月設立)の全株式を取得し、テル相模株式会社とする
- 日経ビジネス 1995年1月2日号
- [74]93年は大幅な減収減益、94年は回復基調に乗ったものの、経常利益はピーク時の半分にも満たなかった
筆者考察
東京エレクトロンが商社から装置メーカーへ移った過程は、扱う商品を選び直す作業の連続だった。1974年に小高敏夫氏が社報へ並べた7つの条件は、市場の成長性、競争相手の少なさ、参入の難しさ、代金回収、所要資金、値崩れのしにくさ、利益率を問うもので、当時の主力だったカーステレオと電卓はそのどれにも当てはまらなかった。大手が量産で押してくる消費財は、東京放送の出資で始まった小さな会社が抱えきれる商品ではない。輸出高は1977年9月期の90億円から2年でゼロになり、残ったのは1台数千万円のICテスターと拡散炉という、顧客が数えるほどしかいない市場だった。
その市場を選んだことが、次の縛りを生んだ。ICの装置は保守に高度な技術者を要し、能力開発への投資が利益率を商社型からメーカー型へ押し上げる一方、半導体メーカーの設備投資が止まれば売上は半分になる。1985年9月期に1501億円だった売上高は翌期843億円へ減り、営業利益は創業以来初の赤字に転じた。久保徳雄氏が20周年の社報で無制限成長路線と呼んだものは、少数精鋭のユートピアという創業の理想と、拡大を求める株主や人材の要請とのあいだで折り合った結果である。営業所を7カ所から17カ所へ増やし大卒を352人採ったところへ循環が来たとき、会社は前進の旗を振った経営陣を入れ替えることで帳尻を合わせた。
- 単体(9月期)。1991年3月期の決算期変更より前の期。
- 出所は会社年鑑(1986年版)・証券調査(241)・Japanese investor 3(1)(5)。
1963年〜1993年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1963年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年09月期 | 単体 | 121 | n/a | n/a | 1 | 1.1% | n/a |
| 1971年09月期 | 単体 | 115 | ▲5.0% | n/a | 0 | 0.5% | n/a |
| 1972年09月期 | 単体 | 126 | +9.6% | n/a | 0 | 0.6% | n/a |
| 1973年09月期 | 単体 | 202 | +60.3% | n/a | 3 | 1.8% | n/a |
| 1974年09月期 | 単体 | 248 | +22.8% | n/a | 2 | 1.1% | n/a |
| 1975年09月期 | 単体 | 211 | ▲14.9% | n/a | 2 | 1.1% | n/a |
| 1976年09月期 | 単体 | 244 | +15.6% | n/a | 3 | 1.4% | n/a |
| 1977年09月期 | 単体 | 277 | +13.5% | n/a | 3 | 1.4% | n/a |
| 1978年09月期 | 単体 | 242 | ▲12.6% | n/a | 5 | 2.2% | n/a |
| 1979年09月期 | 単体 | 312 | +29.0% | 19 | 8 | 2.6% | n/a |
| 1980年09月期 | 単体 | 445 | +42.6% | 40 | 19 | 4.3% | n/a |
| 1981年09月期 | 単体 | 550 | +23.7% | 66 | 33 | 6.0% | n/a |
| 1982年09月期 | 単体 | 690 | +25.3% | 83 | 41 | 5.9% | n/a |
| 1983年09月期 | 単体 | 828 | +20.1% | 99 | 50 | 6.1% | n/a |
| 1984年09月期 | 単体 | 1,221 | +47.4% | 161 | 73 | 6.0% | n/a |
| 1985年09月期 | 単体 | 1,501 | +22.9% | n/a | 93 | 6.3% | n/a |
| 1986年09月期 | 単体 | 843 | ▲43.8% | n/a | 5 | 0.7% | n/a |
| 1987年09月期 | 単体 | 763 | ▲9.5% | n/a | 6 | 0.9% | n/a |
| 1988年09月期 | 単体 | 1,259 | +65.0% | n/a | 37 | 3.0% | n/a |
| 1989年09月期 | 単体 | 1,733 | +37.6% | n/a | 77 | 4.5% | n/a |
| 1990年09月期 | 単体 | 1,903 | +9.8% | n/a | 99 | 5.2% | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 連結 | 1,972 | n/a | n/a | 83 | 4.2% | n/a |
| 1993年03月期 | 連結 | 1,539 | ▲22.0% | n/a | 17 | 1.1% | n/a |
出所:証券 32(6)、会社年鑑、証券調査、Japanese investor 3(1)(5)
出典・参考
13件
- 東京エレクトロン 有価証券報告書【沿革】
- 東京エレクトロン 有価証券報告書(過年度)
- 証券アナリストジャーナル 1980年7月号
- 証券 1980年6月号 32(6)(375)
- 日経ビジネス 1982年5月31日号(小高敏夫社長インタビュー)
- 日経ビジネス 1984年4月26日号
- 日経ビジネス 1984年4月26日号(小高敏夫社長の発言)
- 日経ビジネス 1987年2月2日号
- 日経ビジネス 1991年3月18日号
- 日経ビジネス 1995年1月2日号
- 日経ビジネス 1997年12月1日号
- 異端の男とその一族 火の玉集団・東京エレクトロンの奇跡(1982年4月)
- 証券調査(241)