第2章 年〜年

日本製鉄:官営八幡製鉄所の創設と第一次大戦期の鉄鋼国産化

東田第一高炉の火入れから日本製鐵法案の議会通過へ

1896年〜八幡村に設置した製鉄所と、東田第一高炉の操業不調

予算が通ると、政府は製鉄事業調査会をもうけて建設用地の調査にかかった。選ばれたのは、洞海湾にのぞむ北九州の八幡であった。背後に筑豊炭田をひかえていること、中国大陸から鉱石を輸入するのに便利なこと、用水を引きやすく地盤がよいことの三つが決め手になった。1896年に製鉄所官制が公布され、翌1897年に建設地が八幡村と決まった。当時の八幡は口の端にものぼらない一寒村であり、国道の脇に農商務省所管製鉄所用地と書いた大標柱が立つだけの土地であった。創立当時は固有の名称すら与えられず、ただ製鉄所と呼ばれていた。建設が決まった1896年のわが国の鉄鋼需要は、銑鉄6万5,000屯、鋼材22万2,000屯である。自給率は銑鉄が40%、鋼材はわずか0.5%にとどまり、大部分を海外先進国からの輸入にまっていた。

  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [1]政府は製鉄事業調査会をもうけ、官営製鉄所建設用地の調査を続けた
    • [2]官営製鉄所の用地は北九州八幡に決定した
    • [3]八幡が選ばれた条件は、背後に筑豊炭田をひかえていること、中国大陸から鉱石を輸入するに便利なこと、用水を引きやすく地盤がよいことであった
    • [5]製鉄所創立当時の八幡は口の端にものぼらぬ一寒村に過ぎず、国道の脇に「農商務省所管製鉄所用地」と書いた大標柱が建っていた(中井励作『鉄と私』)
    • [6]創立当時の製鉄所には固有名称がなく、ただ「製鉄所」とよばれていた(中井励作『鉄と私』)
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [4]明治29年に製鉄所官制が公布され、翌30年に建設地が八幡村(現在の八幡市)に決定した
    • [7]明治29年におけるわが国の鉄鋼需要高は銑鉄6万5000屯、鋼材22万2000屯であった
    • [8]明治29年の自給率は銑鉄40%、鋼材0.5%で、大部分は海外先進国からの輸入にまっていた

建設案の規模は当初、鋼材年産6万屯であった。内訳は兵器用の平炉鋼2万屯、錬鉄製品4,500屯、るつぼ鋼500屯、鉄道用のベッセマー鋼3万5,000屯である。ドイツの技術に頼る方針で、ドイツ人技師と職工長数名を雇い、設備も当時ヨーロッパで最も進んでいたドイツに発注して据え付けた。日清戦争に勝って鉄鋼の需要が増えると、政府は規模を9万屯に引き上げ、1897年に建設工事を始めた。運転資金などを除いた経費予算はおよそ2,000万円で、当時の規模としては大きかった。鉄鉱石はもともと国内の鉱石を使う計画だったが、中国湖北省の大冶鉱石のほうが有利とみて切り替えた。八幡製鉄所と大冶鉄鉱の深い結びつきはここから始まる。

  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [9]製鉄所建設案の規模は鋼材年産6万屯であった
    • [10]鋼材年産6万屯の内訳は、兵器用として平炉鋼2万屯・錬鉄製品4500屯・るつぼ鋼500屯、鉄道用としてベッセマー鋼3万5000屯であった
    • [11]八幡製鉄所は技術をドイツに依存し、ドイツ人技師・職工長数名を雇い入れた
    • [13]日清戦争勝利の結果、鉄鋼需要が増加したため当初の6万屯計画を9万屯に引き上げ、明治30年に建設工事へ着手した
    • [14]経費予算は運転資金等を除き約2000万円で、当時としては大規模なものであった
    • [15]当初は内地鉄鉱の使用を計画していたが、中国湖北省の大冶鉱石使用の有利性を認めてこれに切り替えた
    • [16]以後、八幡製鉄所と大冶鉄鉱は密接な関係を有するに至った
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [12]設備・技術は当時ヨーロッパで最も進んでいたドイツから導入し、ドイツ人技師の指導のもとに明治30年に建設を開始した

1900年11月、足かけ4年の工事を経て日産160トンの第一号溶鉱炉ができあがり、翌1901年2月に火入れ式が行なわれた。銑鉄年産12万トン、粗鋼年産9万トンを造る銑鋼一貫の工場というのが、八幡製鉄所の当初の計画である。ところが出銑は火入れの月で平均日産17トン、3月でも40トンにすぎず、国内に前例のない大きさの設備で、扱い方を身につけた者もわずかだったのがその理由である。1902年7月には、火を入れた溶鉱炉をいったん止めるところまで追い込まれた。世論は激しく反発し、議会では日本で製鉄事業が成り立つのかどうかが問われた。責任を問われた二代目の和田長官は、休職を命じられた。

  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [17]明治30年の建設開始から足かけ4年を経て、33年11月に日産160トンの第一号溶鉱炉が完成し、34年2月に火入れ式を行なった
    • [18]八幡製鉄所は銑鉄年産12万トン、粗鋼年産9万トンの銑鋼一貫工場として計画された
    • [19]火入れを行なった明治34年2月の出銑は日産平均17トン、3月になってもわずか40トンにとどまった
    • [21]明治35年7月には、火入れした溶鉱炉の火を消すという事態が起こった
    • [22]世論は沸騰し、議会では「わが国に製鉄事業が成立し得るものなりや否や」が論議された
    • [23]製鉄所の創業期に功績を残した二代目和田長官は責任を追及され、休職を命じられた
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [20]八幡製鉄所はわが国に類例のない規模の設備であり、その作業方法を会得している人も少なかったので創業の苦心はなみなみでなかった
参考文献[1]-[23]
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [1]政府は製鉄事業調査会をもうけ、官営製鉄所建設用地の調査を続けた
    • [2]官営製鉄所の用地は北九州八幡に決定した
    • [3]八幡が選ばれた条件は、背後に筑豊炭田をひかえていること、中国大陸から鉱石を輸入するに便利なこと、用水を引きやすく地盤がよいことであった
    • [5]製鉄所創立当時の八幡は口の端にものぼらぬ一寒村に過ぎず、国道の脇に「農商務省所管製鉄所用地」と書いた大標柱が建っていた(中井励作『鉄と私』)
    • [6]創立当時の製鉄所には固有名称がなく、ただ「製鉄所」とよばれていた(中井励作『鉄と私』)
    • [12]設備・技術は当時ヨーロッパで最も進んでいたドイツから導入し、ドイツ人技師の指導のもとに明治30年に建設を開始した
    • [17]明治30年の建設開始から足かけ4年を経て、33年11月に日産160トンの第一号溶鉱炉が完成し、34年2月に火入れ式を行なった
    • [18]八幡製鉄所は銑鉄年産12万トン、粗鋼年産9万トンの銑鋼一貫工場として計画された
    • [19]火入れを行なった明治34年2月の出銑は日産平均17トン、3月になってもわずか40トンにとどまった
    • [21]明治35年7月には、火入れした溶鉱炉の火を消すという事態が起こった
    • [22]世論は沸騰し、議会では「わが国に製鉄事業が成立し得るものなりや否や」が論議された
    • [23]製鉄所の創業期に功績を残した二代目和田長官は責任を追及され、休職を命じられた
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [4]明治29年に製鉄所官制が公布され、翌30年に建設地が八幡村(現在の八幡市)に決定した
    • [7]明治29年におけるわが国の鉄鋼需要高は銑鉄6万5000屯、鋼材22万2000屯であった
    • [8]明治29年の自給率は銑鉄40%、鋼材0.5%で、大部分は海外先進国からの輸入にまっていた
    • [9]製鉄所建設案の規模は鋼材年産6万屯であった
    • [10]鋼材年産6万屯の内訳は、兵器用として平炉鋼2万屯・錬鉄製品4500屯・るつぼ鋼500屯、鉄道用としてベッセマー鋼3万5000屯であった
    • [11]八幡製鉄所は技術をドイツに依存し、ドイツ人技師・職工長数名を雇い入れた
    • [13]日清戦争勝利の結果、鉄鋼需要が増加したため当初の6万屯計画を9万屯に引き上げ、明治30年に建設工事へ着手した
    • [14]経費予算は運転資金等を除き約2000万円で、当時としては大規模なものであった
    • [15]当初は内地鉄鉱の使用を計画していたが、中国湖北省の大冶鉱石使用の有利性を認めてこれに切り替えた
    • [16]以後、八幡製鉄所と大冶鉄鉱は密接な関係を有するに至った
    • [20]八幡製鉄所はわが国に類例のない規模の設備であり、その作業方法を会得している人も少なかったので創業の苦心はなみなみでなかった

1904年〜日露戦争後の拡張と、八幡を手本にした民間高炉の勃興

日本の鉄鋼生産にとって、官営八幡製鉄所の登場がもった意味は大きい。銑鉄の生産高は1901年に前年の2万3,000トンから5万7,000トンへ跳ね上がり、鋼材は6倍近くに増えた。もっとも、年産1,000万トンに届いていたアメリカや、500万トンのドイツ、イギリスに比べれば、八幡の規模は取るに足りない。責任者たちの苦心で溶鉱炉の故障が収まり、第二高炉やほかの工場も順調に動くようになると、八幡製鉄所は日露戦争で急に増えた需要にこたえることができた。もっとも日露戦争後の国運発展は、従来のような生産量ではとうてい応じきれないものであった。それでも、所要鋼材の大半を輸入に頼ってきた構造に、国内の銑鋼一貫工場が初めて穴を開けた。

  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [24]官営八幡製鉄所が日本の鉄鋼生産におよぼした影響は大きかった
    • [25]明治34年の銑鉄生産高は33年の2万3000トンから一躍5万7000トンに増加し、鋼材の生産高は6倍近くにふえた
    • [26]当時すでに鉄の生産が年産1000万トンに達していたアメリカや、500万トンに達していたドイツ、イギリスにくらべれば、八幡製鉄所の誕生はものの数ではなかった
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [27]作業開始早々の溶鉱炉の故障は一時火を消すほどであったが、責任当事者の苦心努力により再開した
    • [28]第二高炉その他の工場も作業順調となり、日露戦争の急需に応ずることができた
    • [29]日露戦争後の国運発展は、とうてい従来のような生産量では応じきれなかった

鉄鋼は基礎資材であり、その需要も急ピッチで伸びて、鋼材の輸入量は年を追って増えた。増産を求める声は年ごとに強まった。その背景には、日露戦争をきっかけに、重工業を広げようとする空気が産業界で一気に強まったことがある。政府は八幡の拡充を決め、1906年3月の第22議会で拡充予算案を通した。第一期の拡張では東田第三高炉、ソルベー式コークス炉、第二分塊工場などが建てられ、1909年の竣工で鋼材の年産能力は全体で16万屯に達した。日本初の戦艦である安芸は1907年に進水し、船体に使う鋼材を八幡の製品だけでまかなえるところまで来ていた。収支が創業以来はじめて黒字になったのは、第一期拡充が完成した1910年である。

  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [30]鉄鋼の需要が急増して鋼材輸入量は毎年のように増加し、鉄鋼増産を要請する声が年ごとに高まった
    • [31]日露戦争を契機として産業界には重工業拡充の機運が急速にもり上がった
    • [32]政府は八幡製鉄所拡充の方針を決め、明治39年3月の第22議会で製鉄所拡充予算案を成立させた
    • [35]第一期拡充計画が完成した明治43年、製鉄所創業以来はじめて収支は黒字に転換し、作業利益をあげた
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [33]第一期拡張で東田第三高炉、第四・五・六ソルベー式コークス炉、第二分塊工場などが建設され、明治42年に竣工して鋼材全年産能力は16万屯となった
    • [34]明治40年に進水したわが国最初の戦艦安芸の船体用諸鋼材は、すべて八幡製鉄所の鋼材で調達しうるまでに技術は進歩した

1905年に鈴木商店が小林製鋼所を買い取り、神戸製鋼所が生まれた。日露戦争が終わったこの頃、民間でも製鉄業を興そうとする動きが強まっていた。1906年には川崎造船所が兵庫で鋳鋼工場を新たに建て、のちの川崎製鉄の出発点となった。1909年に北海道炭礦汽船が輪西製鉄所の経営を始め、1910年には三井資本を後ろ盾に日英合弁の日本製鋼所が誕生した。日本鋼管の設立は1912年である。八幡製鉄所をお手本とした大手鉄鋼企業の多くは、重工業を広げる機運が盛り上がったこの時期に相次いで産声を上げた。国の金で建てた製鉄所は、自らの生産高以上に、民間の参入を呼び込んだ点で市場を変えた。

  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [36]明治38年に鈴木商店が小林製鋼所を買収して神戸製鋼所を設立した
    • [37]日露戦争後のこの時期には、民間にも製鉄事業創設の機運が高まった
    • [38]明治39年に川崎造船所が兵庫に鋳鋼工場を新設し、今日の川崎製鉄の緒を開いた
    • [39]明治42年に北海道炭礦汽船が輪西製鉄所の経営を始めた
    • [40]明治43年に三井の資本を背景に日英合弁の日本製鋼所が誕生し、45年には日本鋼管が設立された
    • [41]日本の鉄鋼大企業は八幡製鉄所を手本として、その多くがこの時期に生まれた
  • 経済春秋社 編『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社, 1968年)「八幡製鐵」
    • [42]大正初年にかけて重工業拡充の機運がもり上がり、民間にも製鉄事業創設の機運が高まって、現在の日本鉄鋼大手企業の多くが相次いで生まれた
参考文献[24]-[42]
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [24]官営八幡製鉄所が日本の鉄鋼生産におよぼした影響は大きかった
    • [25]明治34年の銑鉄生産高は33年の2万3000トンから一躍5万7000トンに増加し、鋼材の生産高は6倍近くにふえた
    • [26]当時すでに鉄の生産が年産1000万トンに達していたアメリカや、500万トンに達していたドイツ、イギリスにくらべれば、八幡製鉄所の誕生はものの数ではなかった
    • [30]鉄鋼の需要が急増して鋼材輸入量は毎年のように増加し、鉄鋼増産を要請する声が年ごとに高まった
    • [31]日露戦争を契機として産業界には重工業拡充の機運が急速にもり上がった
    • [32]政府は八幡製鉄所拡充の方針を決め、明治39年3月の第22議会で製鉄所拡充予算案を成立させた
    • [35]第一期拡充計画が完成した明治43年、製鉄所創業以来はじめて収支は黒字に転換し、作業利益をあげた
    • [36]明治38年に鈴木商店が小林製鋼所を買収して神戸製鋼所を設立した
    • [37]日露戦争後のこの時期には、民間にも製鉄事業創設の機運が高まった
    • [38]明治39年に川崎造船所が兵庫に鋳鋼工場を新設し、今日の川崎製鉄の緒を開いた
    • [39]明治42年に北海道炭礦汽船が輪西製鉄所の経営を始めた
    • [40]明治43年に三井の資本を背景に日英合弁の日本製鋼所が誕生し、45年には日本鋼管が設立された
    • [41]日本の鉄鋼大企業は八幡製鉄所を手本として、その多くがこの時期に生まれた
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [27]作業開始早々の溶鉱炉の故障は一時火を消すほどであったが、責任当事者の苦心努力により再開した
    • [28]第二高炉その他の工場も作業順調となり、日露戦争の急需に応ずることができた
    • [29]日露戦争後の国運発展は、とうてい従来のような生産量では応じきれなかった
    • [33]第一期拡張で東田第三高炉、第四・五・六ソルベー式コークス炉、第二分塊工場などが建設され、明治42年に竣工して鋼材全年産能力は16万屯となった
    • [34]明治40年に進水したわが国最初の戦艦安芸の船体用諸鋼材は、すべて八幡製鉄所の鋼材で調達しうるまでに技術は進歩した
  • 経済春秋社 編『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社, 1968年)「八幡製鐵」
    • [42]大正初年にかけて重工業拡充の機運がもり上がり、民間にも製鉄事業創設の機運が高まって、現在の日本鉄鋼大手企業の多くが相次いで生まれた

1914年〜第一次大戦の鉄飢饉と、遅れて完成した第三期拡張

造船をはじめとする機械工業は、国内外の注文が増えて一気に伸び、鋼材の需要も大きく膨らんだ。そのきっかけは1914年に始まった第一次世界大戦で、日本経済は熱狂的なブームにのみ込まれた。1916年4月にイギリス、翌1917年1月にインド、そしてアメリカが相次いで鉄鋼の輸出を止め、海外から鋼材を買う道は完全に閉ざされた。必要な鋼材の半分以上を輸入に頼っていた日本は、ひどい鉄飢饉に陥った。輸入が途絶えたうえに交戦国の注文が殺到して需給はひどく逼迫し、民間で製鉄を始める者もかなりいたものの需要には追いつかなかった。1913年に市価50円だった銑鉄は1918年に406円、鋼材は89円から834円へと、鉄鋼の値段は暴騰した。鉄成金という言葉もこの時期に生まれた。

  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [43]造船を中心とする機械工業は内外からの需要増加によって急速に発展し、鋼材の需要も飛躍的に増加した
    • [44]大正3年(1914年)に勃発した第一次世界大戦は、日本の経済を熱狂的ブームに巻きこんだ
    • [45]大正5年4月にイギリスが、翌6年1月にインド、続いてアメリカが鉄鋼輸出を禁止したため、海外からの鋼材輸入は完全に杜絶した
    • [49]鉄鋼価格は大暴騰し、大正2年に市価50円だった銑鉄が7年には406円に、鋼材は89円から834円に急騰した
    • [50]「鉄成金」ということばが生まれたのはこのころである
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [46]所要鋼材の過半を海外に仰いでいた日本では、大正5年末ごろから一大鉄鋼飢饉が現出した
    • [47]輸入の杜絶に加えて交戦諸国からの注文が殺到し、鉄価は奔騰して需給ははなはだしく逼迫した
    • [48]民間において製鉄業を起こす者も相当あったが、これらのみでは需要に応じきれなかった

八幡製鉄所の生産高もこの時期に急上昇した。大戦が勃発した1914年の銑鉄21万トン、鋼材22万トンが、1916年には銑鉄29万トン、鋼材29万トンに増えている。鋼材の全年産能力を30万屯とする第二期拡張工事は1916年に完成した。続く第三期拡張は鋼材年産65万屯の増産を見込み、1916年度から6ヵ年の継続事業とする予定であった。ところが戦争の影響で工事は遅れ、完成したのは1929年である。完成年度の生産高は銑鉄78万屯、鋼材106万屯となり、1916年度に比べて銑鉄は2.6倍、鋼材は3.7倍に増えた。戦時の需要を当て込んだ能力が出来上がったのは、その需要が消えたあとであった。

  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [51]八幡製鉄所の生産高は第一次大戦期に急上昇した
    • [52]大戦の勃発した大正3年の銑鉄21万トン・鋼材22万トンの生産が、5年には銑鉄29万トン・鋼材29万トンに増加した
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [53]鋼材全年産能力を30万屯とする第二期拡張工事は大正5年に完成した
    • [54]第三期拡張工事は鋼材年産額65万屯の増産を見込み、大正5年度より6ヵ年継続事業で行う予定であった
    • [55]第三期拡張工事は戦争のため遅れ、昭和4年に至って完成した
    • [56]工事が完成した昭和4年度の生産高は銑鉄78万屯・鋼材106万屯となり、大正5年度に比し銑鉄2.6倍、鋼材3.7倍の増加をみた
参考文献[43]-[56]
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [43]造船を中心とする機械工業は内外からの需要増加によって急速に発展し、鋼材の需要も飛躍的に増加した
    • [44]大正3年(1914年)に勃発した第一次世界大戦は、日本の経済を熱狂的ブームに巻きこんだ
    • [45]大正5年4月にイギリスが、翌6年1月にインド、続いてアメリカが鉄鋼輸出を禁止したため、海外からの鋼材輸入は完全に杜絶した
    • [49]鉄鋼価格は大暴騰し、大正2年に市価50円だった銑鉄が7年には406円に、鋼材は89円から834円に急騰した
    • [50]「鉄成金」ということばが生まれたのはこのころである
    • [51]八幡製鉄所の生産高は第一次大戦期に急上昇した
    • [52]大戦の勃発した大正3年の銑鉄21万トン・鋼材22万トンの生産が、5年には銑鉄29万トン・鋼材29万トンに増加した
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [46]所要鋼材の過半を海外に仰いでいた日本では、大正5年末ごろから一大鉄鋼飢饉が現出した
    • [47]輸入の杜絶に加えて交戦諸国からの注文が殺到し、鉄価は奔騰して需給ははなはだしく逼迫した
    • [48]民間において製鉄業を起こす者も相当あったが、これらのみでは需要に応じきれなかった
    • [53]鋼材全年産能力を30万屯とする第二期拡張工事は大正5年に完成した
    • [54]第三期拡張工事は鋼材年産額65万屯の増産を見込み、大正5年度より6ヵ年継続事業で行う予定であった
    • [55]第三期拡張工事は戦争のため遅れ、昭和4年に至って完成した
    • [56]工事が完成した昭和4年度の生産高は銑鉄78万屯・鋼材106万屯となり、大正5年度に比し銑鉄2.6倍、鋼材3.7倍の増加をみた

1918年〜反動不況下の品種集約と、日本製鐵法案の通過

戦時中に次々とできた中小の鉄鋼会社は、鋼材価格の下落が続くなかで姿を消していった。発端は1918年11月の大戦終結がもたらした反動不況で、そのうえ1920年の世界恐慌、1921年の軍備縮小、1923年の関東大震災が相次ぎ、日本鋼管は資本金を半額に減らし、日本製鋼所は操業を止め、八幡製鉄所も高炉の一部を吹き止めた。労働面では、1920年に八幡製鉄所の職工・職夫数百名が待遇の改善を掲げて争議に入り、溶鉱炉作業のほかは数日間すべて止まったが、官業争議として当時最大と言われたこの争議は、8時間労働制と厚生福利施設の拡充をもって収まった。ロックアウトが八幡製鉄所で起き、溶鉱炉の火が消えたと告げる名文句で浅原健三が世に出るなど、労働史に名を残す事件がこの時期に続いた。

  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [57]鋼材価格は下落に次ぐ下落を重ね、戦時中の鉄鋼ブームで雨後の筍のように生まれた中小鉄鋼会社は消えていった
    • [58]大正7年11月の第一次世界大戦終結による反動不況で、鉄鋼業は大打撃をこうむった
    • [59]大正9年の世界恐慌、10年の軍備縮小、12年の関東大震災が続いた
    • [60]日本鋼管の半額減資、日本製鋼所の操業中止、八幡製鉄の一部高炉吹き止めが行なわれた
    • [63]八幡製鉄所のロックアウト、「溶鉱炉の火は消えたり」の名文句で一躍有名になった浅原健三の登場など、労働史に残る事件が次々と起きたのもこの時期である
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [61]大正9年、労働条件の改善を要求する職工・職夫数百名による争議が八幡製鉄所で再度にわたり発生し、溶鉱炉作業を除くほかは全部が数日間休業した
    • [62]この争議は当時の官業争議中最大のものといわれたが、8時間労働制、厚生福利施設の拡充等の実施によりまもなく解決した

八幡製鉄所は、不況を乗り切る道を、扱う品種を減らすことに見いだした。政府も関税を上げ、製鉄事業法を改めるなどして手を差し伸べたが、業界を根本から立て直すことはできなかった。鋼材の品種は1924年に565種あったが、1928年には122種まで減った。単種大量生産による原価の引き下げを狙ったものである。民間の会社が淘汰されていくのとは逆に、八幡の業界での地位はむしろ高まった。世界恐慌、ヨーロッパ諸国のダンピング輸出、インド銑の圧迫が重なって、銑鉄の生産は八幡、輪西、釜石といった大企業へ集まった。製鋼や圧延の会社も大半が三井、三菱、住友、浅野などの財閥の傘下に入り、民間の鉄鋼企業の多くは財閥系金融資本に支配されるようになった。

  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [64]八幡製鉄所は産業合理化による能率増進と原価切下げに苦心した
    • [65]政府は関税引上げ、製鉄事業法改正等の救済策を試みたが、根底を立ち直らせるには至らなかった
    • [66]大正13年に565種もあった鋼材品種を昭和3年には122種に減らし、単種大量生産によるコスト低下を図った
    • [67]民間諸会社の自然淘汰と対比すれば、八幡製鉄所が業界に占める地位はかえって向上した
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [68]世界的不況とヨーロッパ諸国のダンピング輸出、インド銑の圧迫により中小鉄鋼会社は次々と整理淘汰され、銑鉄の生産は八幡、輪西、釜石などの大企業に集中した
    • [69]製鋼・圧延会社も大部分が三井、三菱、住友、浅野などの財閥傘下に集中し、民間鉄鋼企業の大部分は財閥系金融資本の支配下に置かれた

苦境を抜け出すため、鉄鋼大企業は政府に保護と助成を求めつつ、経営の合理化とカルテルづくりへ進んだ。不況が長引くなかで、関係する識者の間でかねて構想されてきた鉄鋼業の基盤強化は、もはや先送りできない問題になっていた。八幡製鉄所が独立会計制を採ったことや、八幡と民間企業が条鋼の分野協定を結んだことが、その表れである。政府の側も渋沢栄一、中村雄次郎、郷誠之助、大河内正敏、団琢磨らを招いて製鉄業の調査機関を何度も設け、鉄鋼企業をまとめる案を練ったが、企業ごとの利害がぶつかって合同は容易に進まなかった。流れを変えたのは1931年の満州事変と翌1932年の上海事変で、恐慌への手当てとして出てきた製鉄合同は、軍需生産を固めるための国策に姿を変えた。日本製鉄株式会社法案が議会を通ったのは1933年3月である。

  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [70]鉄鋼大企業は苦境を乗り切るため政府に保護助成を求める一方、自らは経営合理化とカルテル結成に進んだ
    • [72]八幡製鉄所の独立会計制の採用、生産合理化運動、八幡と民間企業の間に結ばれた条鋼分野協定などが官民の協調・合同の現われであった
    • [73]政府は渋沢栄一、中村雄次郎、郷誠之助、大河内正敏、団琢磨らの官民権威者を集め、数次にわたって製鉄業調査機関を組織し、鉄鋼企業の合同を検討した
    • [74]各企業の利害の対立によって製鉄合同はなかなか実現されなかった
    • [75]昭和6年の満州事変、翌7年の上海事変による情勢変化で、当初は恐慌対策として登場した製鉄合同は軍需生産確立のための国策と変わり、軍の要請も加わって強力に推進された
    • [76]昭和8年3月、合同案(日本製鉄株式会社法案)は議会を通過した
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [71]引きつづく不況により、かねて関係識者間で構想されていたわが国鉄鋼業基盤強化の問題は、いよいよ切実な課題となった
参考文献[57]-[76]
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [57]鋼材価格は下落に次ぐ下落を重ね、戦時中の鉄鋼ブームで雨後の筍のように生まれた中小鉄鋼会社は消えていった
    • [58]大正7年11月の第一次世界大戦終結による反動不況で、鉄鋼業は大打撃をこうむった
    • [59]大正9年の世界恐慌、10年の軍備縮小、12年の関東大震災が続いた
    • [60]日本鋼管の半額減資、日本製鋼所の操業中止、八幡製鉄の一部高炉吹き止めが行なわれた
    • [63]八幡製鉄所のロックアウト、「溶鉱炉の火は消えたり」の名文句で一躍有名になった浅原健三の登場など、労働史に残る事件が次々と起きたのもこの時期である
    • [68]世界的不況とヨーロッパ諸国のダンピング輸出、インド銑の圧迫により中小鉄鋼会社は次々と整理淘汰され、銑鉄の生産は八幡、輪西、釜石などの大企業に集中した
    • [69]製鋼・圧延会社も大部分が三井、三菱、住友、浅野などの財閥傘下に集中し、民間鉄鋼企業の大部分は財閥系金融資本の支配下に置かれた
    • [70]鉄鋼大企業は苦境を乗り切るため政府に保護助成を求める一方、自らは経営合理化とカルテル結成に進んだ
    • [72]八幡製鉄所の独立会計制の採用、生産合理化運動、八幡と民間企業の間に結ばれた条鋼分野協定などが官民の協調・合同の現われであった
    • [73]政府は渋沢栄一、中村雄次郎、郷誠之助、大河内正敏、団琢磨らの官民権威者を集め、数次にわたって製鉄業調査機関を組織し、鉄鋼企業の合同を検討した
    • [74]各企業の利害の対立によって製鉄合同はなかなか実現されなかった
    • [75]昭和6年の満州事変、翌7年の上海事変による情勢変化で、当初は恐慌対策として登場した製鉄合同は軍需生産確立のための国策と変わり、軍の要請も加わって強力に推進された
    • [76]昭和8年3月、合同案(日本製鉄株式会社法案)は議会を通過した
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [61]大正9年、労働条件の改善を要求する職工・職夫数百名による争議が八幡製鉄所で再度にわたり発生し、溶鉱炉作業を除くほかは全部が数日間休業した
    • [62]この争議は当時の官業争議中最大のものといわれたが、8時間労働制、厚生福利施設の拡充等の実施によりまもなく解決した
    • [64]八幡製鉄所は産業合理化による能率増進と原価切下げに苦心した
    • [65]政府は関税引上げ、製鉄事業法改正等の救済策を試みたが、根底を立ち直らせるには至らなかった
    • [66]大正13年に565種もあった鋼材品種を昭和3年には122種に減らし、単種大量生産によるコスト低下を図った
    • [67]民間諸会社の自然淘汰と対比すれば、八幡製鉄所が業界に占める地位はかえって向上した
    • [71]引きつづく不況により、かねて関係識者間で構想されていたわが国鉄鋼業基盤強化の問題は、いよいよ切実な課題となった

筆者考察

八幡製鉄所が日本の鉄鋼業に与えたものは、自らの生産量ではなく参入の手本であった。1901年2月の火入れ直後、日産160トンの設計に対して出銑は17トンにとどまり、議会ではわが国に製鉄事業が成立するかどうかが論議され、二代目の和田長官は休職を命じられている。それでも日露戦争後の数年で、鈴木商店の神戸製鋼所、川崎造船所の鋳鋼工場、北海道炭礦汽船の輪西製鉄所、日本製鋼所、日本鋼管が相次いで生まれた。運転資金を除く経費予算約2,000万円で建てた一つの工場が示したのは、ドイツから設備と技術を買えば銑鋼一貫が回るという事実である。手本ができた以上、資本のある側が追うのは早かった。

国費で積む能力には、需要の周期と噛み合わないという弱点がついて回った。鋼材年産65万屯の増産を見込んだ第三期拡張は1916年度から6ヵ年の計画だったが、戦争の影響で完成したのは1929年である。銑鉄が50円から406円へ跳ねた鉄飢饉の市況はとうに消え、能力が出来上がったのは反動不況の底であった。八幡が地位を落とさなかったのは増産のためではない。1924年に565種あった鋼材品種を1928年に122種へ絞り、単種大量生産で原価を下げたからである。各社の利害対立で難航していた製鉄合同が1933年に法案として通ったのも、恐慌対策が軍需生産の国策へ置き換わったからであった。

八幡製鉄所の鋼材年産能力 建設計画から第二期拡張まで(万屯)

9 1897 16 1909 30 1916
  • 1897年は建設案の計画値(当初6万屯を日清戦争後の需要増で9万屯へ引き上げ)、1909年は第一期拡張竣工時、1916年は第二期拡張完成時。
  • 出所は東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」。

出典・参考

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出典・参考
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
  • 経済春秋社 編『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社, 1968年)「八幡製鐵」

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