第1章 年〜年

日本製鉄:釜石の洋式高炉の火入れと官営製鉄所構想

官営釜石製鉄所の撤退から田中製鉄所の国産化へ

1857年〜砂鉄の限界を見た大島高任と釜石大橋の洋式高炉

江戸時代の日本で鉄をつくる方法は、中国地方に産する砂鉄を木炭とフイゴ送風で処理するたたら吹きに限られていた。幕末に海防の議論が起こり、幕府や諸藩が大砲を鋳造し始めると、鉄の需要は一気に膨らんだ。それまでは武具や刃物、鉄瓶に使う程度で、その量の生産で足りていた。最初に反射炉を築いたのは佐賀藩で、1850年のことである。銅製だった大砲を鉄製に替える取り組みがここで始まった。佐賀藩が先んじたのは、長崎の防衛を任されていたうえ、藩内で蘭学の研究が進んでいたためである。もっとも反射炉に入れる原料はたたら吹きの砂鉄銑で、技術も未熟だったため、できた鉄は量でも質でも見るべきものがなかった。南部藩士の大島高任は、砂鉄銑のままでは量と質の両面で洋式製鉄の発展を支えきれないと見ていた。

  • 『日本産業史』第1巻 鉄鋼・金属「製鉄-苦闘重ねた先駆者」(日本経済新聞社、日経文庫)
    • [1]江戸時代の製鉄は、主として中国地方に産する砂鉄を木炭とフイゴ送風で処理する「たたら吹き」であった
    • [2]鉄の需要が急増したのは、江戸末期に海防が論じられ、幕府や諸藩が大砲鋳造に乗り出してからである
    • [3]江戸時代の鉄の用途は武具や刃もの、鉄瓶などに限られ、たたら吹きで事足りていた
    • [4]嘉永3年(1850年)、佐賀藩が最初に反射炉を築き、銅製の大砲を鉄製に切り替える作業に着手した
    • [5]佐賀藩が最初に反射炉に着手したのは、当時長崎防衛の任務を負い、早くから海防の軍事手段に関心を払っていたことと、藩内に蘭学の研究が進んでいたことによる
    • [7]大島高任は、砂鉄銑は量的にも質的にも洋式製鉄の発展に応じ切れないと見通し、鉄鉱石の活用を考えた
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [6]江戸末期に幕府・諸藩が各地に洋式工場を設けて鋳砲や鉄船建造を始めたが、技術未熟のためつくられた鉄の量も質もとるに足りなかった

大島高任は、蘭学と兵法、砲術、採鉱、精練を学んだうえで洋式製鉄法の研究を重ねた人物である。ヒュゲエニンの『リエージュ国立鋳造所の鋳造法』を手塚謙蔵と共訳し、この訳書が縁で水戸藩に招かれ、反射炉による鋳造作業に技術的な援助を与えた。水戸藩に招かれたのはペルリ来航の翌年、大島が29歳のときであった。大島が砂鉄に代わる原料として目をつけたのが、維新前から南部藩が開発してきた釜石の鉄鉱石であった。藩に願い出て1857年3月、釜石大橋で洋式高炉の建設を始めた。木炭を燃料とし、水車で送風する仕組みである。その年の12月には早くも出銑を水戸の反射炉へ送り込んでいる。この高炉が、日本における洋式製鉄の始まりである。

  • 『日本産業史』第1巻 鉄鋼・金属「製鉄-苦闘重ねた先駆者」(日本経済新聞社、日経文庫)
    • [8]大島高任は江戸で蘭学を修めたのち、蘭書とともに兵法・砲術・採鉱・精練の術を学び、洋式製鉄法の研究を重ねた
    • [9]大島高任はヒュゲエニン『リエージュ国立鋳造所の鋳造法』を手塚謙蔵と共訳し(訳書名『鉄熕鋳造篇』)、これが縁で水戸藩に招かれ、同藩の反射炉による鋳造作業に技術的援助を与えた
    • [10]大島高任が水戸藩に招かれたのはペルリ来航の翌年、29歳のときであった
    • [12]大島高任は藩に願い出て、安政4年(1857年)3月に釜石大橋の洋式高炉建設を開始した
    • [13]釜石大橋の高炉は木炭を使い、水車で送風する仕組みであった
    • [14]釜石大橋の高炉は安政4年12月に出銑し、これを水戸の反射炉へ送り込んだ
    • [15]大島高任による釜石大橋の洋式高炉が、日本における洋式製鉄の始まりとされる
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [11]釜石鉱山は明治維新前からわが国きっての鉄山として知られ、南部藩によって開発が行なわれてきた

開港以後の産業近代化のなかで、製鉄業の発展はほかの産業よりおそかった。維新後の釜石では、鉄鉱山も製銑事業もふるわない状態に陥った。近代的な製鉄事業が改めて起こるのは明治に入ってからで、その出発点がやはり釜石鉱山の開発であった。もっとも当時の国内市場は、高炉を回し続けられるほどの大きさを持たなかった。1881年の銑鉄と鋼材を合わせた生産高は1万6,000トン、これに対して輸入は3万6,000トンである。しかも国産銑の大部分は依然として砂鉄銑が占めていた。国内需要の小ささに加え、政府の指導と育成が他産業に比べて不手ぎわであったことも、滑り出しのつまずきとして残った。洋式高炉は技術の問題である前に、売り先の問題を抱えていた。

  • 『日本産業史』第1巻 鉄鋼・金属「製鉄-苦闘重ねた先駆者」(日本経済新聞社、日経文庫)
    • [16]「鉄は文明の尺度」といわれながら、開港以後の諸産業近代化の中で製鉄業の発展はおそかった
    • [17]維新後、釜石の鉄鉱山と製銑事業はふるわなかった
    • [19]明治14年の銑鉄・鋼材を合わせた生産高は1万6000トン、輸入は3万6000トンであった
    • [20]当時は砂鉄銑が国産銑の大部分を占めていた
    • [21]製鉄業の滑り出しのつまずきとして、国内の需要が小さかったことに加え、政府の指導・育成が他産業の場合に比べて不手ぎわであったことも見のがせない
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [18]日本に近代的製鉄事業が起こったのは明治維新以後であり、釜石鉱山の開発がそのはじまりであった
参考文献[1]-[21]
  • 『日本産業史』第1巻 鉄鋼・金属「製鉄-苦闘重ねた先駆者」(日本経済新聞社、日経文庫)
    • [1]江戸時代の製鉄は、主として中国地方に産する砂鉄を木炭とフイゴ送風で処理する「たたら吹き」であった
    • [2]鉄の需要が急増したのは、江戸末期に海防が論じられ、幕府や諸藩が大砲鋳造に乗り出してからである
    • [3]江戸時代の鉄の用途は武具や刃もの、鉄瓶などに限られ、たたら吹きで事足りていた
    • [4]嘉永3年(1850年)、佐賀藩が最初に反射炉を築き、銅製の大砲を鉄製に切り替える作業に着手した
    • [5]佐賀藩が最初に反射炉に着手したのは、当時長崎防衛の任務を負い、早くから海防の軍事手段に関心を払っていたことと、藩内に蘭学の研究が進んでいたことによる
    • [7]大島高任は、砂鉄銑は量的にも質的にも洋式製鉄の発展に応じ切れないと見通し、鉄鉱石の活用を考えた
    • [8]大島高任は江戸で蘭学を修めたのち、蘭書とともに兵法・砲術・採鉱・精練の術を学び、洋式製鉄法の研究を重ねた
    • [9]大島高任はヒュゲエニン『リエージュ国立鋳造所の鋳造法』を手塚謙蔵と共訳し(訳書名『鉄熕鋳造篇』)、これが縁で水戸藩に招かれ、同藩の反射炉による鋳造作業に技術的援助を与えた
    • [10]大島高任が水戸藩に招かれたのはペルリ来航の翌年、29歳のときであった
    • [12]大島高任は藩に願い出て、安政4年(1857年)3月に釜石大橋の洋式高炉建設を開始した
    • [13]釜石大橋の高炉は木炭を使い、水車で送風する仕組みであった
    • [14]釜石大橋の高炉は安政4年12月に出銑し、これを水戸の反射炉へ送り込んだ
    • [15]大島高任による釜石大橋の洋式高炉が、日本における洋式製鉄の始まりとされる
    • [16]「鉄は文明の尺度」といわれながら、開港以後の諸産業近代化の中で製鉄業の発展はおそかった
    • [17]維新後、釜石の鉄鉱山と製銑事業はふるわなかった
    • [19]明治14年の銑鉄・鋼材を合わせた生産高は1万6000トン、輸入は3万6000トンであった
    • [20]当時は砂鉄銑が国産銑の大部分を占めていた
    • [21]製鉄業の滑り出しのつまずきとして、国内の需要が小さかったことに加え、政府の指導・育成が他産業の場合に比べて不手ぎわであったことも見のがせない
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [6]江戸末期に幕府・諸藩が各地に洋式工場を設けて鋳砲や鉄船建造を始めたが、技術未熟のためつくられた鉄の量も質もとるに足りなかった
    • [11]釜石鉱山は明治維新前からわが国きっての鉄山として知られ、南部藩によって開発が行なわれてきた
    • [18]日本に近代的製鉄事業が起こったのは明治維新以後であり、釜石鉱山の開発がそのはじまりであった

1873年〜工部省が引き取った釜石と、二度の操業中止

釜石鉱山が、近代的な鉄鋼業を育てる明治政府の最初の対象となった。殖産興業と富国強兵を旗に、政府は明治の初めからこの育成に取り組んでいた。1873年、鉱山は官掘場に指定された。翌1874年5月には工部省釜石支庁が置かれた。再建の具体的な計画を練ったのは、ドイツ人技師のL・ビャンヒーと、この頃工部省鉱山助だった大島高任である。ただし高炉の築造から操業まで実際の過程はすべて外国人技師が指導し、機械設備はいっさいイギリスから輸入したものであった。イギリスから技師を招いて築いたのは、25トン溶鉱炉2基であった。釜石大橋で高炉を築いた大島高任は、このとき官の側から同じ鉱山の再建にあたっている。

  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [22]明治政府は釜石鉱山に目をつけ、明治7年に工部省直轄の「官掘場」と定めた
    • [23]明治新政府は「殖産興業、富国強兵」を掲げ、明治初年から近代的鉄鋼業の育成にのりだした
    • [27]明治政府は釜石でイギリスから技師を招き、25トン溶鉱炉2基を築造した
  • 『日本産業史』第1巻 鉄鋼・金属「製鉄-苦闘重ねた先駆者」(日本経済新聞社、日経文庫)
    • [24]明治政府は明治6年(1873年)に釜石の鉱山を官掘場に指定し、翌7年5月に工部省釜石支庁を設置した
    • [25]釜石再建の具体的な計画は、ドイツ人技師L・ビャンヒーと、当時工部省鉱山助であった大島高任が立てた
    • [26]釜石の高炉築造・操業の過程はすべて外人技師が指導し、機械設備いっさいはイギリスから輸入したものであった

高炉は1880年に完成し、同年9月に第一次操業が始まった。ところが炭焼き場の火災事故で木炭が不足し、わずか3ヵ月で中止に追い込まれた。1882年2月に始まった第二次操業も木炭の質と量が足りず、コークスに切り替えたところ、今度は炉内に鉱滓が固まりついて銑鉄の流れ出るのをふさいだ。二度にわたる操業に240万円の資本をつぎ込んだものの、196日の苦闘ののちに操業は再び停止した。需要が国内に乏しいうえ、松方緊縮財政も重なったため、1882年に政府は事業をやめると決め、翌1883年には官営の看板を下ろした。明治政府による最初の官営製鉄所の試みは実を結ばずに終わったが、つまずいた原因は技術のまずさより、できた銑鉄の売り先を考えていなかった経営の無計画にあった。

  • 『日本産業史』第1巻 鉄鋼・金属「製鉄-苦闘重ねた先駆者」(日本経済新聞社、日経文庫)
    • [28]釜石の高炉は明治13年に完成し(25トン炉2基)、同年9月に第一次操業が始まった
    • [29]第一次操業は炭焼き場の火災事故で木炭が不足し、わずか3ヵ月で中止となった
    • [30]明治15年2月の第二次操業も木炭が質・量ともに不十分で、コークスに切り替えたところ炉内に鉱滓が固まりついて銑鉄の流出をふさいだ
    • [31]官営釜石製鉄所には240万円の資本が投じられた
    • [32]第二次操業は苦闘196日にして操業中止に陥った
    • [35]釜石失敗の原因は、技術面の不手ぎわよりも、でき上がった銑鉄をどうさばくかといった経営面の無計画さが命取りになったことにある
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [33]国内需要の不足と松方緊縮財政の影響が加わり、明治15年に釜石鉱山は事業廃止となり、翌16年に官営が廃された
    • [34]明治政府が最初に手がけた官営製鉄所(釜石)は、ついに日の目をみずに終わった
参考文献[22]-[35]
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [22]明治政府は釜石鉱山に目をつけ、明治7年に工部省直轄の「官掘場」と定めた
    • [23]明治新政府は「殖産興業、富国強兵」を掲げ、明治初年から近代的鉄鋼業の育成にのりだした
    • [27]明治政府は釜石でイギリスから技師を招き、25トン溶鉱炉2基を築造した
    • [33]国内需要の不足と松方緊縮財政の影響が加わり、明治15年に釜石鉱山は事業廃止となり、翌16年に官営が廃された
    • [34]明治政府が最初に手がけた官営製鉄所(釜石)は、ついに日の目をみずに終わった
  • 『日本産業史』第1巻 鉄鋼・金属「製鉄-苦闘重ねた先駆者」(日本経済新聞社、日経文庫)
    • [24]明治政府は明治6年(1873年)に釜石の鉱山を官掘場に指定し、翌7年5月に工部省釜石支庁を設置した
    • [25]釜石再建の具体的な計画は、ドイツ人技師L・ビャンヒーと、当時工部省鉱山助であった大島高任が立てた
    • [26]釜石の高炉築造・操業の過程はすべて外人技師が指導し、機械設備いっさいはイギリスから輸入したものであった
    • [28]釜石の高炉は明治13年に完成し(25トン炉2基)、同年9月に第一次操業が始まった
    • [29]第一次操業は炭焼き場の火災事故で木炭が不足し、わずか3ヵ月で中止となった
    • [30]明治15年2月の第二次操業も木炭が質・量ともに不十分で、コークスに切り替えたところ炉内に鉱滓が固まりついて銑鉄の流出をふさいだ
    • [31]官営釜石製鉄所には240万円の資本が投じられた
    • [32]第二次操業は苦闘196日にして操業中止に陥った
    • [35]釜石失敗の原因は、技術面の不手ぎわよりも、でき上がった銑鉄をどうさばくかといった経営面の無計画さが命取りになったことにある

1885年〜田中長兵衛への払い下げと国内初のコークス製銑

官営の廃止から3年後の1885年、金物商の田中長兵衛が釜石製鉄所の再建に乗り出した。釜石鉱山と製鉄所は、この年に田中長兵衛一家へ払い下げられている。田中は遠州の出身で、若いときに江戸へ出て麻布飯倉に金物商を構えた。「鉄屋」の屋号で薩摩藩の御用商をつとめ、維新後は官庁御用達として軍用食糧や鉄材の調達にあたっていた。釜石の経営を勧めたのは、かねて田中の面倒をみていた薩摩出身の松方正義である。田中は引き受けを決めるまで非常に苦慮した。番頭で娘婿の横山久太郎を伴って自ら釜石を視察し、長男の安太郎を海軍造兵廠技師の大河平才蔵のもとへやって西洋の製鉄事情を研究させている。最後に田中を動かしたのは、横山の熱烈な懇請であった。

  • 『日本産業史』第1巻 鉄鋼・金属「製鉄-苦闘重ねた先駆者」(日本経済新聞社、日経文庫)
    • [36]釜石廃業の3年後、明治18年に田中長兵衛が同所の再建に乗り出した
    • [38]田中長兵衛は遠州の出身で、若いときから江戸に出て安政ごろから麻布飯倉で金物商をしていた
    • [39]田中長兵衛は「鉄屋」の屋号で薩摩藩の御用商をつとめ、維新後は旧藩との縁故で官庁御用達として軍用食糧・鉄材の調達にあたった
    • [40]田中長兵衛に釜石製鉄所の経営を勧めたのは、かねて田中の面倒をみていた薩摩出身の松方正義であった
    • [41]田中長兵衛は釜石の引き受けを決めるまで非常に苦慮した
    • [42]田中長兵衛は番頭(横須賀店支配人)で娘ムコの横山久太郎を伴って自ら釜石を視察し、長男安太郎を海軍造兵廠技師の大河平才蔵の下にやって西洋製鉄事情を研究させた
    • [43]田中長兵衛は横山久太郎の熱烈な懇請に動かされて、ようやく釜石の引き受けに踏み切った
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [37]官営を廃した釜石鉱山は、明治18年に田中長兵衛一家に払い下げられた

経営を直接担当したのは横山久太郎であった。横山がまず払い下げてもらったのは、地所の一部と、鉱石および木炭の残品である。そこに小規模の洋式高炉と日本式高炉を各1基築き、テスト生産にかかった。手元にいた経験者は、官営時代の作業員から迎えた高橋亦助と村井源兵衛の2人だけである。政府の手を離れた設備を再び稼働させたのは、民営の力だった。その前段として、試行錯誤が続いた末の1886年10月に、出銑がやっと実現している。これを見届けて田中もようやく動いた。1887年2月、鉱山と製鉄所のすべてについて払い下げを願い出て認可された。同じ年の7月に設立したのが釜石鉱山田中製鉄所である。釜石鉱山の再建は田中長兵衛によるもので、ここが日本の近代製鉄が軌道に乗る出発点になった。

  • 『日本産業史』第1巻 鉄鋼・金属「製鉄-苦闘重ねた先駆者」(日本経済新聞社、日経文庫)
    • [44]釜石の再建で直接経営を担当したのは横山久太郎であった
    • [45]横山久太郎は当初、地所の一部と鉱石・木炭の残品を払い下げてもらった
    • [46]横山久太郎は小規模の洋式高炉と日本式高炉を各1基築いてテスト生産を行なった
    • [47]このときの経験者は官営時代の作業員から迎えた高橋亦助・村井源兵衛の2人だけであった
    • [48]横山久太郎は失敗を繰り返したあげく、明治19年10月にようやく出銑に成功した
    • [49]田中長兵衛は明治20年2月に鉱山と製鉄所全部の払い下げを出願して認可を得て、同年7月に釜石鉱山田中製鉄所を設立した
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [50]釜石鉱山はその後、田中長兵衛の手によって再建され、近代製鉄業成功のいと口となった

田中製鉄所を国産製鉄の成功例に変えたのは、外から招いた技術陣であった。1892年に農商務省技師の野呂景義が釜石を視察して技術的な助言を与え、これが縁で翌年、田中は野呂を顧問に迎えた。主任技師には野呂の弟子である香村小禄を据えた。この技術陣の強化によって、官営時代の25トン高炉の復活と改修ができた。1894年8月には、夕張炭からつくったコークスだけを使うわが国最初のコークス製銑に成功した。それ以前の設備は木炭を使う5、6トンの小型高炉5基にすぎない。生産高は前年の年間8,000トンから1万3,000トンへ跳ね上がり、全国生産高の半分を超えた。高炉銑が砂鉄銑を追い越した年でもあった。八幡製鉄所が成立する以前、近代製鉄業の先駆は釜石製鉄所と陸海軍の軍事工場であった。製鉄部門で技術的な基礎をつちかったのは釜石である。

  • 『日本産業史』第1巻 鉄鋼・金属「製鉄-苦闘重ねた先駆者」(日本経済新聞社、日経文庫)
    • [51]明治25年に農商務省技師の野呂景義が釜石を視察して技術的助言を与え、これが縁で翌年、田中長兵衛は野呂を顧問に迎えた
    • [52]田中製鉄所は野呂景義の弟子である香村小禄を主任技師に据えた
    • [53]技術陣の強化により、官営時代の25トン高炉の復活・改修ができた
    • [54]明治27年8月、田中製鉄所は夕張炭からつくったコークスだけを使うわが国最初のコークス製銑に成功した
    • [55]25トン高炉の修復以前の設備は、木炭使用・水車送風式の小型(5〜6トン)高炉5基だけであった
    • [56]明治27年を境に田中製鉄所の生産は前年の年間8000トンから1万3000トンに上昇し、全国生産高の半分を超えた
    • [57]明治27年は、わが国で高炉銑が砂鉄銑を追い越した年でもあった
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [58]官営八幡製鉄所の成立以前では、釜石製鉄所と陸海軍の軍事工場とが近代製鉄業の先駆となった
    • [59]釜石製鉄所は製鉄部門で、陸海軍の軍事工場は製鋼部門で近代的製鉄技術の輸入・発展に大きな役割を演じ、八幡製鉄所成立までの技術的基礎をつちかった

軍備拡張の土台となる製鉄業は、釜石製鉄所の失敗によって確立が遅れていた。国営の製鉄所をという主張は、民営で見通しが立ってもやまなかった。軍部からも民間からも、その声はかえって大きくなった。第二帝国議会に海軍省所管製鋼所設立案が出されたのは1891年11月で、野党の反対で否決に終わった。その後は議会のたびに農商務省所管の案が出され、1895年12月の第九議会でようやく製鉄所設立予算案が可決された。日清戦争の勝利を受け、軍器と産業設備資材のための本格的な製鉄所を求める声が朝野に強まっていた。鉄鋼生産が本格的に近代化の歩を踏み出すのは、巨額の軍需が起きたこの日清戦争前後のことである。田中製鉄所が示したのは国産化の可能性であって、軍需をまかなう規模ではなかった。

  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [60]釜石製鉄所の失敗で軍拡の基礎となる製鉄業の確立が遅れ、すみやかに国営製鉄所を建設すべしという議論が軍部・民間の両方面から高まり、日清戦争直前の明治24〜25年ごろ最高潮に達した
    • [61]政府は明治24年11月、「海軍省所管製鋼所設立案」を第二帝国議会に提出したが、野党の反対にあって否決された
    • [62]その後も議会のたびに農商務省所管の官営製鉄所設立案が提出され、明治28年12月の第九議会で製鉄所設立予算案が通過して官営製鉄所の設立が決定した
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [63]当時、国家的に最も必要とされた軍器ならびに産業設備資材用の鉄鋼を生産するため、本格的製鉄所設立の要望が朝野に強く叫ばれた
  • 『日本産業史』第1巻 鉄鋼・金属「製鉄-苦闘重ねた先駆者」(日本経済新聞社、日経文庫)
    • [64]鉄鋼生産が本格的に近代化の歩を踏み出すのは、巨額の軍需が起きた日清戦争前後のことである
参考文献[36]-[64]
  • 『日本産業史』第1巻 鉄鋼・金属「製鉄-苦闘重ねた先駆者」(日本経済新聞社、日経文庫)
    • [36]釜石廃業の3年後、明治18年に田中長兵衛が同所の再建に乗り出した
    • [38]田中長兵衛は遠州の出身で、若いときから江戸に出て安政ごろから麻布飯倉で金物商をしていた
    • [39]田中長兵衛は「鉄屋」の屋号で薩摩藩の御用商をつとめ、維新後は旧藩との縁故で官庁御用達として軍用食糧・鉄材の調達にあたった
    • [40]田中長兵衛に釜石製鉄所の経営を勧めたのは、かねて田中の面倒をみていた薩摩出身の松方正義であった
    • [41]田中長兵衛は釜石の引き受けを決めるまで非常に苦慮した
    • [42]田中長兵衛は番頭(横須賀店支配人)で娘ムコの横山久太郎を伴って自ら釜石を視察し、長男安太郎を海軍造兵廠技師の大河平才蔵の下にやって西洋製鉄事情を研究させた
    • [43]田中長兵衛は横山久太郎の熱烈な懇請に動かされて、ようやく釜石の引き受けに踏み切った
    • [44]釜石の再建で直接経営を担当したのは横山久太郎であった
    • [45]横山久太郎は当初、地所の一部と鉱石・木炭の残品を払い下げてもらった
    • [46]横山久太郎は小規模の洋式高炉と日本式高炉を各1基築いてテスト生産を行なった
    • [47]このときの経験者は官営時代の作業員から迎えた高橋亦助・村井源兵衛の2人だけであった
    • [48]横山久太郎は失敗を繰り返したあげく、明治19年10月にようやく出銑に成功した
    • [49]田中長兵衛は明治20年2月に鉱山と製鉄所全部の払い下げを出願して認可を得て、同年7月に釜石鉱山田中製鉄所を設立した
    • [51]明治25年に農商務省技師の野呂景義が釜石を視察して技術的助言を与え、これが縁で翌年、田中長兵衛は野呂を顧問に迎えた
    • [52]田中製鉄所は野呂景義の弟子である香村小禄を主任技師に据えた
    • [53]技術陣の強化により、官営時代の25トン高炉の復活・改修ができた
    • [54]明治27年8月、田中製鉄所は夕張炭からつくったコークスだけを使うわが国最初のコークス製銑に成功した
    • [55]25トン高炉の修復以前の設備は、木炭使用・水車送風式の小型(5〜6トン)高炉5基だけであった
    • [56]明治27年を境に田中製鉄所の生産は前年の年間8000トンから1万3000トンに上昇し、全国生産高の半分を超えた
    • [57]明治27年は、わが国で高炉銑が砂鉄銑を追い越した年でもあった
    • [64]鉄鋼生産が本格的に近代化の歩を踏み出すのは、巨額の軍需が起きた日清戦争前後のことである
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
    • [37]官営を廃した釜石鉱山は、明治18年に田中長兵衛一家に払い下げられた
    • [50]釜石鉱山はその後、田中長兵衛の手によって再建され、近代製鉄業成功のいと口となった
    • [58]官営八幡製鉄所の成立以前では、釜石製鉄所と陸海軍の軍事工場とが近代製鉄業の先駆となった
    • [59]釜石製鉄所は製鉄部門で、陸海軍の軍事工場は製鋼部門で近代的製鉄技術の輸入・発展に大きな役割を演じ、八幡製鉄所成立までの技術的基礎をつちかった
    • [60]釜石製鉄所の失敗で軍拡の基礎となる製鉄業の確立が遅れ、すみやかに国営製鉄所を建設すべしという議論が軍部・民間の両方面から高まり、日清戦争直前の明治24〜25年ごろ最高潮に達した
    • [61]政府は明治24年11月、「海軍省所管製鋼所設立案」を第二帝国議会に提出したが、野党の反対にあって否決された
    • [62]その後も議会のたびに農商務省所管の官営製鉄所設立案が提出され、明治28年12月の第九議会で製鉄所設立予算案が通過して官営製鉄所の設立が決定した
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
    • [63]当時、国家的に最も必要とされた軍器ならびに産業設備資材用の鉄鋼を生産するため、本格的製鉄所設立の要望が朝野に強く叫ばれた

筆者考察

官営釜石製鉄所が二度の操業中止で終わり、同じ鉱山を引き受けた田中長兵衛が出銑にこぎつけた。この差は技術ではなく売り先にある。工部省は240万円を投じ、設備をイギリスから輸入し、築造も操業も外国人技師に委ねた。買える限りのものは買っていたのである。それでも1881年の国内生産1万6,000トンに対して輸入が3万6,000トンという市場では、できた銑鉄の行き先は決まっていなかった。田中は麻布飯倉の金物商であり、薩摩藩の御用商から官庁御用達へ移って軍用食糧と鉄材を納めてきた商人である。鉄をつくる技術は持たなかったが、鉄を誰に売るかは知っていた。官営が投げ出した設備を動かしたのは、この一点の差であった。

もっとも、田中長兵衛の成功が国家の判断を変えることはなかった。1894年のコークス製銑で田中製鉄所の生産は8,000トンから1万3,000トンへ増え、全国生産高の半分を超えたが、その規模では軍器と産業設備資材をまかなえない。民営で成算が立ったという事実と、国営製鉄所が要るという判断は、同時に成り立っていた。1891年に否決された海軍省案が1895年に農商務省所管の予算案として通ったのは、日清戦争が鉄の需要を国家の問題へ移したからである。釜石が証明したのは、製鉄が事業として成り立つことであった。八幡製鉄所が引き受けたのは、それを国家の規模でもう一度やり直すことである。

田中製鉄所の銑鉄生産高 コークス製銑の成功をはさんだ2年(トン)

8,000 1893 13,000 1894
  • 1894年8月に夕張炭のコークスだけを使うわが国最初のコークス製銑に成功し、この年の生産は全国生産高の半分を超えた。
  • 出所は『日本産業史』第1巻 鉄鋼・金属「製鉄-苦闘重ねた先駆者」(日本経済新聞社、日経文庫)。

出典・参考

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出典・参考
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)「八幡製鉄」
  • 『産業フロンティア物語』鉄鋼〈八幡製鉄〉(1965年)
  • 『日本産業史』第1巻 鉄鋼・金属「製鉄-苦闘重ねた先駆者」(日本経済新聞社、日経文庫)

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