第1章 年〜年

三井物産:益田孝らの旧三井物産会社設立と明治期の貿易商社としての成長

1876年〜一円の出資もない三井組の商事会社と、半年で54万円を扱ったラシャと米

1876年7月1日、三井組は井上馨氏の先収会社の残務と自前の国産方を合わせ、三井物産会社を開業した。総括(社長)には先収会社で副社長を務めた益田孝氏を迎えた。職員は発足時16人で、数カ月後に国産方の51人を移して67人となった。三井家は新会社に1円も出資せず、互いに独立した存在とする方針を採った。元手は三井銀行からの借入金5万円だけで、益田孝氏自身も三井家の社員ではなく3年の雇用契約である。益田孝氏は、商社は手数料で稼ぎ、自ら相場の危険を負ってはならないと考えていた。監督役の三野村利左衛門氏はこの考えを受け入れ、経営を一任する代わりに資本金は出さないと念を押した。三井家にとって無資本の別会社は、失敗しても本体の信用を損なわずに済む試しの事業だったとみられる。

  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「1 文明開化の夜明け」
    • [1]1876年7月1日三井物産会社開業。職員16人、国産方51人吸収で67人。三井家は出資せず相互独立の方針。益田は3年契約、手数料商売を信条とし三野村は経営一任・資本金なしと念押し
    • [3]1876年7月1日三井物産会社開業。職員16人、国産方51人吸収で67人。三井家は出資せず相互独立の方針。益田は3年契約、手数料商売を信条とし三野村は経営一任・資本金なしと念押し
    • [4]1876年7月1日三井物産会社開業。職員16人、国産方51人吸収で67人。三井家は出資せず相互独立の方針。益田は3年契約、手数料商売を信条とし三野村は経営一任・資本金なしと念押し
    • [6]1876年7月1日三井物産会社開業。職員16人、国産方51人吸収で67人。三井家は出資せず相互独立の方針。益田は3年契約、手数料商売を信条とし三野村は経営一任・資本金なしと念押し
    • [7]1876年7月1日三井物産会社開業。職員16人、国産方51人吸収で67人。三井家は出資せず相互独立の方針。益田は3年契約、手数料商売を信条とし三野村は経営一任・資本金なしと念押し
  • 会社銀行八十年史(1955)1篇「近代産業移植期の会社」
    • [2]1876年7月、先収会社副社長の益田孝を社長に三井銀行からの借入金5万円で三井物産会社を設立
    • [5]1876年7月、先収会社副社長の益田孝を社長に三井銀行からの借入金5万円で三井物産会社を設立

開業から1876年12月末までの半年間に、三井物産の取扱高は54万5,000円、純益は約8,000円に達した。取扱高の内訳は輸出入55%、国内取引45%。輸入の最大品目は陸軍に納めるラシャで、国内の最大品目は大蔵省に納めるコメだった。いずれも先収会社と三井組国産方から引き継いだ官庁との取引である。1877年に西南戦争が起きると陸軍への納入が急増し、純益は20万円に達した。この戦争による利益を50万円とする記録もある。政府の勧奨を受け、横浜正金銀行ができるまでの1877〜1880年には海外荷為替も扱った。陸軍省が自前のラシャ製造工場を操業させると、この官需は長く続かなかった。無資本の会社が初年から利益を出せたのは、井上馨氏の政治的信用と官庁の注文に依存した面が大きかったと思われる。

  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「1 文明開化の夜明け」
    • [8]1876年下期の取扱高54万5,000円・純益約8,000円、輸出入55%・内地45%。最大はラシャ(陸軍)とコメ(大蔵省)。1877年西南戦争で純益20万円。1877〜1880年に海外荷為替。陸軍省のラシャ工場操業で官需縮小
    • [9]1876年下期の取扱高54万5,000円・純益約8,000円、輸出入55%・内地45%。最大はラシャ(陸軍)とコメ(大蔵省)。1877年西南戦争で純益20万円。1877〜1880年に海外荷為替。陸軍省のラシャ工場操業で官需縮小
    • [10]1876年下期の取扱高54万5,000円・純益約8,000円、輸出入55%・内地45%。最大はラシャ(陸軍)とコメ(大蔵省)。1877年西南戦争で純益20万円。1877〜1880年に海外荷為替。陸軍省のラシャ工場操業で官需縮小
    • [11]1876年下期の取扱高54万5,000円・純益約8,000円、輸出入55%・内地45%。最大はラシャ(陸軍)とコメ(大蔵省)。1877年西南戦争で純益20万円。1877〜1880年に海外荷為替。陸軍省のラシャ工場操業で官需縮小
    • [12]1876年下期の取扱高54万5,000円・純益約8,000円、輸出入55%・内地45%。最大はラシャ(陸軍)とコメ(大蔵省)。1877年西南戦争で純益20万円。1877〜1880年に海外荷為替。陸軍省のラシャ工場操業で官需縮小
    • [14]1876年下期の取扱高54万5,000円・純益約8,000円、輸出入55%・内地45%。最大はラシャ(陸軍)とコメ(大蔵省)。1877年西南戦争で純益20万円。1877〜1880年に海外荷為替。陸軍省のラシャ工場操業で官需縮小
    • [15]1876年下期の取扱高54万5,000円・純益約8,000円、輸出入55%・内地45%。最大はラシャ(陸軍)とコメ(大蔵省)。1877年西南戦争で純益20万円。1877〜1880年に海外荷為替。陸軍省のラシャ工場操業で官需縮小
  • 会社銀行八十年史(1955)1篇「近代産業移植期の会社」
    • [13]開業早々の主な営業品目は三池炭と米。1877年の西南戦争で一挙50万円の利益

三井物産は1876年6月、工部省所管の官営三池炭の委託販売を政府に願い出て、一手販売を認められた。この一手販売権の獲得には、井上馨氏や伊藤博文氏の尽力があった。政府は国内で販売すれば民業を圧迫すると考え、損失さえ出なければ輸出を増やす方針を採った。契約は販売代金をいったん政府に納め、売上高の2.5%の手数料と利益の半分を受け取る条件である。益田孝氏は遠浅の大牟田港に代えて口ノ津港を積替港に定め、長崎・兵庫・三池に店を設けた。外国船には社員が火夫を乗せ、横浜までの航海で三池炭の焚き方を教えた。益田孝氏は上海にも渡り、スイス人の商社を代理店として海運会社やガス局に三池炭を販売した。

  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「1 文明開化の夜明け」
    • [16]1876年6月三池炭委託販売を出願し一手販売認可。政府は輸出で損失なければ可とする方針。手数料2.5%と利益折半。口ノ津を積替港、長崎(1876)・兵庫(1878)・三池(1879)に店。火夫を乗せ焚き方指導。上海でスイス人商社を代理店に海運会社・ガス局へ販売
    • [18]1876年6月三池炭委託販売を出願し一手販売認可。政府は輸出で損失なければ可とする方針。手数料2.5%と利益折半。口ノ津を積替港、長崎(1876)・兵庫(1878)・三池(1879)に店。火夫を乗せ焚き方指導。上海でスイス人商社を代理店に海運会社・ガス局へ販売
    • [19]1876年6月三池炭委託販売を出願し一手販売認可。政府は輸出で損失なければ可とする方針。手数料2.5%と利益折半。口ノ津を積替港、長崎(1876)・兵庫(1878)・三池(1879)に店。火夫を乗せ焚き方指導。上海でスイス人商社を代理店に海運会社・ガス局へ販売
    • [20]1876年6月三池炭委託販売を出願し一手販売認可。政府は輸出で損失なければ可とする方針。手数料2.5%と利益折半。口ノ津を積替港、長崎(1876)・兵庫(1878)・三池(1879)に店。火夫を乗せ焚き方指導。上海でスイス人商社を代理店に海運会社・ガス局へ販売
    • [21]1876年6月三池炭委託販売を出願し一手販売認可。政府は輸出で損失なければ可とする方針。手数料2.5%と利益折半。口ノ津を積替港、長崎(1876)・兵庫(1878)・三池(1879)に店。火夫を乗せ焚き方指導。上海でスイス人商社を代理店に海運会社・ガス局へ販売
    • [22]1876年6月三池炭委託販売を出願し一手販売認可。政府は輸出で損失なければ可とする方針。手数料2.5%と利益折半。口ノ津を積替港、長崎(1876)・兵庫(1878)・三池(1879)に店。火夫を乗せ焚き方指導。上海でスイス人商社を代理店に海運会社・ガス局へ販売
  • 会社銀行八十年史(1955)1篇「近代産業移植期の会社」
    • [17]設立後まもなく官営三池炭鉱の石炭一手販売権が三井物産に与えられ、井上馨・伊藤博文の尽力による
参考文献[1]-[22]
  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「1 文明開化の夜明け」
    • [1]1876年7月1日三井物産会社開業。職員16人、国産方51人吸収で67人。三井家は出資せず相互独立の方針。益田は3年契約、手数料商売を信条とし三野村は経営一任・資本金なしと念押し
    • [3]1876年7月1日三井物産会社開業。職員16人、国産方51人吸収で67人。三井家は出資せず相互独立の方針。益田は3年契約、手数料商売を信条とし三野村は経営一任・資本金なしと念押し
    • [4]1876年7月1日三井物産会社開業。職員16人、国産方51人吸収で67人。三井家は出資せず相互独立の方針。益田は3年契約、手数料商売を信条とし三野村は経営一任・資本金なしと念押し
    • [6]1876年7月1日三井物産会社開業。職員16人、国産方51人吸収で67人。三井家は出資せず相互独立の方針。益田は3年契約、手数料商売を信条とし三野村は経営一任・資本金なしと念押し
    • [7]1876年7月1日三井物産会社開業。職員16人、国産方51人吸収で67人。三井家は出資せず相互独立の方針。益田は3年契約、手数料商売を信条とし三野村は経営一任・資本金なしと念押し
    • [8]1876年下期の取扱高54万5,000円・純益約8,000円、輸出入55%・内地45%。最大はラシャ(陸軍)とコメ(大蔵省)。1877年西南戦争で純益20万円。1877〜1880年に海外荷為替。陸軍省のラシャ工場操業で官需縮小
    • [9]1876年下期の取扱高54万5,000円・純益約8,000円、輸出入55%・内地45%。最大はラシャ(陸軍)とコメ(大蔵省)。1877年西南戦争で純益20万円。1877〜1880年に海外荷為替。陸軍省のラシャ工場操業で官需縮小
    • [10]1876年下期の取扱高54万5,000円・純益約8,000円、輸出入55%・内地45%。最大はラシャ(陸軍)とコメ(大蔵省)。1877年西南戦争で純益20万円。1877〜1880年に海外荷為替。陸軍省のラシャ工場操業で官需縮小
    • [11]1876年下期の取扱高54万5,000円・純益約8,000円、輸出入55%・内地45%。最大はラシャ(陸軍)とコメ(大蔵省)。1877年西南戦争で純益20万円。1877〜1880年に海外荷為替。陸軍省のラシャ工場操業で官需縮小
    • [12]1876年下期の取扱高54万5,000円・純益約8,000円、輸出入55%・内地45%。最大はラシャ(陸軍)とコメ(大蔵省)。1877年西南戦争で純益20万円。1877〜1880年に海外荷為替。陸軍省のラシャ工場操業で官需縮小
    • [14]1876年下期の取扱高54万5,000円・純益約8,000円、輸出入55%・内地45%。最大はラシャ(陸軍)とコメ(大蔵省)。1877年西南戦争で純益20万円。1877〜1880年に海外荷為替。陸軍省のラシャ工場操業で官需縮小
    • [15]1876年下期の取扱高54万5,000円・純益約8,000円、輸出入55%・内地45%。最大はラシャ(陸軍)とコメ(大蔵省)。1877年西南戦争で純益20万円。1877〜1880年に海外荷為替。陸軍省のラシャ工場操業で官需縮小
    • [16]1876年6月三池炭委託販売を出願し一手販売認可。政府は輸出で損失なければ可とする方針。手数料2.5%と利益折半。口ノ津を積替港、長崎(1876)・兵庫(1878)・三池(1879)に店。火夫を乗せ焚き方指導。上海でスイス人商社を代理店に海運会社・ガス局へ販売
    • [18]1876年6月三池炭委託販売を出願し一手販売認可。政府は輸出で損失なければ可とする方針。手数料2.5%と利益折半。口ノ津を積替港、長崎(1876)・兵庫(1878)・三池(1879)に店。火夫を乗せ焚き方指導。上海でスイス人商社を代理店に海運会社・ガス局へ販売
    • [19]1876年6月三池炭委託販売を出願し一手販売認可。政府は輸出で損失なければ可とする方針。手数料2.5%と利益折半。口ノ津を積替港、長崎(1876)・兵庫(1878)・三池(1879)に店。火夫を乗せ焚き方指導。上海でスイス人商社を代理店に海運会社・ガス局へ販売
    • [20]1876年6月三池炭委託販売を出願し一手販売認可。政府は輸出で損失なければ可とする方針。手数料2.5%と利益折半。口ノ津を積替港、長崎(1876)・兵庫(1878)・三池(1879)に店。火夫を乗せ焚き方指導。上海でスイス人商社を代理店に海運会社・ガス局へ販売
    • [21]1876年6月三池炭委託販売を出願し一手販売認可。政府は輸出で損失なければ可とする方針。手数料2.5%と利益折半。口ノ津を積替港、長崎(1876)・兵庫(1878)・三池(1879)に店。火夫を乗せ焚き方指導。上海でスイス人商社を代理店に海運会社・ガス局へ販売
    • [22]1876年6月三池炭委託販売を出願し一手販売認可。政府は輸出で損失なければ可とする方針。手数料2.5%と利益折半。口ノ津を積替港、長崎(1876)・兵庫(1878)・三池(1879)に店。火夫を乗せ焚き方指導。上海でスイス人商社を代理店に海運会社・ガス局へ販売
  • 会社銀行八十年史(1955)1篇「近代産業移植期の会社」
    • [2]1876年7月、先収会社副社長の益田孝を社長に三井銀行からの借入金5万円で三井物産会社を設立
    • [5]1876年7月、先収会社副社長の益田孝を社長に三井銀行からの借入金5万円で三井物産会社を設立
    • [13]開業早々の主な営業品目は三池炭と米。1877年の西南戦争で一挙50万円の利益
    • [17]設立後まもなく官営三池炭鉱の石炭一手販売権が三井物産に与えられ、井上馨・伊藤博文の尽力による

1881年〜香港で高島炭を抜いた三池炭と、いったん畳んだ欧米の5店

1881年、大蔵卿の松方正義氏が益田孝氏とともに三池を訪れ、出炭を2倍以上に増やす新坑の建設可否を視察。三井が新坑の出炭を売り切れるかという松方正義氏の問いに、益田孝氏は『香港市場を開拓することで、十分に売りさばけます』と即答した。三池炭の輸出量は1881年を境に三菱の高島炭を上回った。高島炭の買付けから販売までを担うのは、外商のジャーディン・マセソンである。三井物産は1882年、上海での代理店経由の販売を直輸出に切り替え、香港にも本格的に進出した。香港での買い手は海運会社にとどまらず、製糖工場も三池炭を燃料に使った。上海と香港には支店を置き、ロンドン・ニューヨークと並ぶ海外の拠点とした。赤字の官営炭坑が外貨を稼ぐ輸出品に変わったことで、新坑への投資を決める根拠が生まれたと推察される。

  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「1 文明開化の夜明け」
    • [23]1881年松方正義が益田と三池で新坑(出炭2倍以上)の可否を視察、益田は香港市場開拓で売り切れると回答。1881年を境に三池炭輸出量が高島炭を抜く。高島炭はジャーディン・マジソンが扱う。1882年直輸出、香港へ本格進出、砂糖精製工場燃料
    • [24]1881年松方正義が益田と三池で新坑(出炭2倍以上)の可否を視察、益田は香港市場開拓で売り切れると回答。1881年を境に三池炭輸出量が高島炭を抜く。高島炭はジャーディン・マジソンが扱う。1882年直輸出、香港へ本格進出、砂糖精製工場燃料
    • [25]1881年松方正義が益田と三池で新坑(出炭2倍以上)の可否を視察、益田は香港市場開拓で売り切れると回答。1881年を境に三池炭輸出量が高島炭を抜く。高島炭はジャーディン・マジソンが扱う。1882年直輸出、香港へ本格進出、砂糖精製工場燃料
    • [26]1881年松方正義が益田と三池で新坑(出炭2倍以上)の可否を視察、益田は香港市場開拓で売り切れると回答。1881年を境に三池炭輸出量が高島炭を抜く。高島炭はジャーディン・マジソンが扱う。1882年直輸出、香港へ本格進出、砂糖精製工場燃料
    • [27]1881年松方正義が益田と三池で新坑(出炭2倍以上)の可否を視察、益田は香港市場開拓で売り切れると回答。1881年を境に三池炭輸出量が高島炭を抜く。高島炭はジャーディン・マジソンが扱う。1882年直輸出、香港へ本格進出、砂糖精製工場燃料
    • [28]1881年松方正義が益田と三池で新坑(出炭2倍以上)の可否を視察、益田は香港市場開拓で売り切れると回答。1881年を境に三池炭輸出量が高島炭を抜く。高島炭はジャーディン・マジソンが扱う。1882年直輸出、香港へ本格進出、砂糖精製工場燃料
  • 会社銀行八十年史(1955)2篇「三井物産」
    • [29]旧三井物産はロンドン・上海・香港・ニューヨークに支店を設置

三井物産の海外の店の配置は、コメと石炭の取引の道筋に沿うものである。輸出米を英国へ運ぶ際に英国人のリチャード・アーウィン氏をロンドンに派遣して代理店とし、1880年9月に支店とした。輸出米はハンブルク・ブレーメン・アムステルダム・ロンドンへ送られた。ニューヨークには1879年に店を設けたものの、生糸輸出のために再開したのは1896年である。1889年の大凶作では香港支店の社員をサイゴンとビルマへ出張させ、ラングーン米・シャム米・サイゴン米を大量に買い付けた。1891年7月にはシンガポールに出張店を開設し、舶用炭の輸出を1891年の2万8,000トン余から1893年の7万トンへ増やした。資力の乏しい三井物産にとって、海外の店を保てるかどうかは、石炭やコメの大口の取引を常に流せるかで決まったのだろう。

  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「1 文明開化の夜明け」
    • [30]輸出米の取扱いでリチャード・アーウィンをロンドンに派遣し代理店、1880年9月ロンドン支店。輸出米はハンブルク・ブレーメン・アムステルダム・ロンドンへ。1889年大凶作で香港支店からサイゴン・ビルマへ出張し外米買付け
    • [31]輸出米の取扱いでリチャード・アーウィンをロンドンに派遣し代理店、1880年9月ロンドン支店。輸出米はハンブルク・ブレーメン・アムステルダム・ロンドンへ。1889年大凶作で香港支店からサイゴン・ビルマへ出張し外米買付け
    • [32]輸出米の取扱いでリチャード・アーウィンをロンドンに派遣し代理店、1880年9月ロンドン支店。輸出米はハンブルク・ブレーメン・アムステルダム・ロンドンへ。1889年大凶作で香港支店からサイゴン・ビルマへ出張し外米買付け
    • [34]輸出米の取扱いでリチャード・アーウィンをロンドンに派遣し代理店、1880年9月ロンドン支店。輸出米はハンブルク・ブレーメン・アムステルダム・ロンドンへ。1889年大凶作で香港支店からサイゴン・ビルマへ出張し外米買付け
  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「2 “追いつけ、追い越せ”の明治人」
    • [33]ニューヨーク支店は1879年設置、生糸輸出のため1896年に再開。1891年7月シンガポール出張店開設、同地向け輸出は1891年2万8,000トン余・1892年4万1,000トン・1893年7万トン
    • [35]ニューヨーク支店は1879年設置、生糸輸出のため1896年に再開。1891年7月シンガポール出張店開設、同地向け輸出は1891年2万8,000トン余・1892年4万1,000トン・1893年7万トン

三井物産のアジアの支店網を支えるのは、三池炭の輸出である。1888年4月、政府は三池炭坑の払下げを閣議決定し、競争入札で指値400万円、年内に100万円の納付という条件を課した。益田孝氏は三井家同族の承諾を得たうえで、三池炭を失えば海外支店を閉じるほかないと三井銀行の副長に説き、100万円の融資を取り付けた。三井は455万5,000円で入札し、455万2,700円の三菱を2,300円上回って落札した。三池炭坑は1889年1月に大蔵省から払い下げられ、1892年6月に資本金200万円の三井鉱山合資へ移った。三池では技師の団琢磨氏の意見に基づいて最新の機械と技術を導入し、日清戦争後に生産力を高めた。三井物産は銀行借入と払下げの年賦金を石炭輸出の利益で返し、1902年に完済した。

  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「1 文明開化の夜明け」
    • [36]1888年4月三池払下げ閣議決定、競争入札・指値400万円・年内100万円納付。益田は同族の承諾後、三井銀行副長に海外支店維持を説き100万円融資を得る。三井455万5,000円、三菱455万2,700円
    • [37]1888年4月三池払下げ閣議決定、競争入札・指値400万円・年内100万円納付。益田は同族の承諾後、三井銀行副長に海外支店維持を説き100万円融資を得る。三井455万5,000円、三菱455万2,700円
    • [38]1888年4月三池払下げ閣議決定、競争入札・指値400万円・年内100万円納付。益田は同族の承諾後、三井銀行副長に海外支店維持を説き100万円融資を得る。三井455万5,000円、三菱455万2,700円
    • [39]1888年4月三池払下げ閣議決定、競争入札・指値400万円・年内100万円納付。益田は同族の承諾後、三井銀行副長に海外支店維持を説き100万円融資を得る。三井455万5,000円、三菱455万2,700円
  • 会社銀行八十年史(1955)2篇「石炭」(三井鉱山)
    • [40]三池炭砿は1889年1月大蔵省から払下げ、1892年6月資本金200万円の三井鉱山合資を設立
  • 日本産業史 1巻「財閥の形成」
    • [41]三池炭鉱は技師団琢磨の意見で最新の機械・技術を導入し日清戦争後に生産力を高めた。1892年三井物産所管の三池を母体に三井鉱山合資を設立
  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「2 “追いつけ、追い越せ”の明治人」
    • [42]銀行借入・払下げ年賦金を輸送益金で充当し1902年に完済
参考文献[23]-[42]
  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「1 文明開化の夜明け」
    • [23]1881年松方正義が益田と三池で新坑(出炭2倍以上)の可否を視察、益田は香港市場開拓で売り切れると回答。1881年を境に三池炭輸出量が高島炭を抜く。高島炭はジャーディン・マジソンが扱う。1882年直輸出、香港へ本格進出、砂糖精製工場燃料
    • [24]1881年松方正義が益田と三池で新坑(出炭2倍以上)の可否を視察、益田は香港市場開拓で売り切れると回答。1881年を境に三池炭輸出量が高島炭を抜く。高島炭はジャーディン・マジソンが扱う。1882年直輸出、香港へ本格進出、砂糖精製工場燃料
    • [25]1881年松方正義が益田と三池で新坑(出炭2倍以上)の可否を視察、益田は香港市場開拓で売り切れると回答。1881年を境に三池炭輸出量が高島炭を抜く。高島炭はジャーディン・マジソンが扱う。1882年直輸出、香港へ本格進出、砂糖精製工場燃料
    • [26]1881年松方正義が益田と三池で新坑(出炭2倍以上)の可否を視察、益田は香港市場開拓で売り切れると回答。1881年を境に三池炭輸出量が高島炭を抜く。高島炭はジャーディン・マジソンが扱う。1882年直輸出、香港へ本格進出、砂糖精製工場燃料
    • [27]1881年松方正義が益田と三池で新坑(出炭2倍以上)の可否を視察、益田は香港市場開拓で売り切れると回答。1881年を境に三池炭輸出量が高島炭を抜く。高島炭はジャーディン・マジソンが扱う。1882年直輸出、香港へ本格進出、砂糖精製工場燃料
    • [28]1881年松方正義が益田と三池で新坑(出炭2倍以上)の可否を視察、益田は香港市場開拓で売り切れると回答。1881年を境に三池炭輸出量が高島炭を抜く。高島炭はジャーディン・マジソンが扱う。1882年直輸出、香港へ本格進出、砂糖精製工場燃料
    • [30]輸出米の取扱いでリチャード・アーウィンをロンドンに派遣し代理店、1880年9月ロンドン支店。輸出米はハンブルク・ブレーメン・アムステルダム・ロンドンへ。1889年大凶作で香港支店からサイゴン・ビルマへ出張し外米買付け
    • [31]輸出米の取扱いでリチャード・アーウィンをロンドンに派遣し代理店、1880年9月ロンドン支店。輸出米はハンブルク・ブレーメン・アムステルダム・ロンドンへ。1889年大凶作で香港支店からサイゴン・ビルマへ出張し外米買付け
    • [32]輸出米の取扱いでリチャード・アーウィンをロンドンに派遣し代理店、1880年9月ロンドン支店。輸出米はハンブルク・ブレーメン・アムステルダム・ロンドンへ。1889年大凶作で香港支店からサイゴン・ビルマへ出張し外米買付け
    • [34]輸出米の取扱いでリチャード・アーウィンをロンドンに派遣し代理店、1880年9月ロンドン支店。輸出米はハンブルク・ブレーメン・アムステルダム・ロンドンへ。1889年大凶作で香港支店からサイゴン・ビルマへ出張し外米買付け
    • [36]1888年4月三池払下げ閣議決定、競争入札・指値400万円・年内100万円納付。益田は同族の承諾後、三井銀行副長に海外支店維持を説き100万円融資を得る。三井455万5,000円、三菱455万2,700円
    • [37]1888年4月三池払下げ閣議決定、競争入札・指値400万円・年内100万円納付。益田は同族の承諾後、三井銀行副長に海外支店維持を説き100万円融資を得る。三井455万5,000円、三菱455万2,700円
    • [38]1888年4月三池払下げ閣議決定、競争入札・指値400万円・年内100万円納付。益田は同族の承諾後、三井銀行副長に海外支店維持を説き100万円融資を得る。三井455万5,000円、三菱455万2,700円
    • [39]1888年4月三池払下げ閣議決定、競争入札・指値400万円・年内100万円納付。益田は同族の承諾後、三井銀行副長に海外支店維持を説き100万円融資を得る。三井455万5,000円、三菱455万2,700円
  • 会社銀行八十年史(1955)2篇「三井物産」
    • [29]旧三井物産はロンドン・上海・香港・ニューヨークに支店を設置
  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「2 “追いつけ、追い越せ”の明治人」
    • [33]ニューヨーク支店は1879年設置、生糸輸出のため1896年に再開。1891年7月シンガポール出張店開設、同地向け輸出は1891年2万8,000トン余・1892年4万1,000トン・1893年7万トン
    • [35]ニューヨーク支店は1879年設置、生糸輸出のため1896年に再開。1891年7月シンガポール出張店開設、同地向け輸出は1891年2万8,000トン余・1892年4万1,000トン・1893年7万トン
    • [42]銀行借入・払下げ年賦金を輸送益金で充当し1902年に完済
  • 会社銀行八十年史(1955)2篇「石炭」(三井鉱山)
    • [40]三池炭砿は1889年1月大蔵省から払下げ、1892年6月資本金200万円の三井鉱山合資を設立
  • 日本産業史 1巻「財閥の形成」
    • [41]三池炭鉱は技師団琢磨の意見で最新の機械・技術を導入し日清戦争後に生産力を高めた。1892年三井物産所管の三池を母体に三井鉱山合資を設立

1893年〜同族11人が出資社員に並んだ合名会社と、ボンベイで直接購入するインド綿

1893年、商法の一部施行を機に三井物産は資本金100万円の三井物産合名会社へ改組した。同じ年に銀行・鉱山・呉服店も合名会社に改組され、10月には三井家同族会と三井元方が設けられた。再編を率いたのは、1891年に井上馨氏の推薦で三井銀行の理事となった中上川彦次郎氏である。1898年11月の定款改正で、三井家からの出資社員はそれまでの三井武之助氏・三井養之助氏の2人から同族11人全員に広がった。これにより三井物産は、銀行・鉱山・呉服店と並ぶ三井直系の4社の一つとなった。合名会社となってからは高等商業や大学の卒業生の採用にも力を入れた。1891年ごろからは上海支店を訓練の場として、若い修業生を中国へ送り出した。1876年に1円も出資しなかった三井家の扱いは、20年余りで一変したと考えられる。

  • 会社銀行八十年史(1955)2篇「三井物産」
    • [43]1893年7月商法の一部施行を機に三井物産合名会社に改組、資本金100万円
  • 日本産業史 1巻「財閥の形成」
    • [44]1891年中上川彦次郎が井上馨の推薦で三井銀行理事。1893年6月銀行・物産・鉱山・呉服店を合名会社に改組、10月三井家同族会・三井元方を設置
    • [45]1891年中上川彦次郎が井上馨の推薦で三井銀行理事。1893年6月銀行・物産・鉱山・呉服店を合名会社に改組、10月三井家同族会・三井元方を設置
  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「2 “追いつけ、追い越せ”の明治人」
    • [46]1898年11月の定款改正で出資社員が武之助・養之助の2人から同族11人全員へ。三井直系の四大柱の一つに。合名後に高商・大学卒を採用、1891年頃から上海支店へ修業生を派遣
    • [47]1898年11月の定款改正で出資社員が武之助・養之助の2人から同族11人全員へ。三井直系の四大柱の一つに。合名後に高商・大学卒を採用、1891年頃から上海支店へ修業生を派遣
    • [48]1898年11月の定款改正で出資社員が武之助・養之助の2人から同族11人全員へ。三井直系の四大柱の一つに。合名後に高商・大学卒を採用、1891年頃から上海支店へ修業生を派遣
    • [49]1898年11月の定款改正で出資社員が武之助・養之助の2人から同族11人全員へ。三井直系の四大柱の一つに。合名後に高商・大学卒を採用、1891年頃から上海支店へ修業生を派遣

1882年に大阪紡績が設立されると、三井物産はプラット社のミュール精紡機16台(1万500錘)を納めた。1886年にはプラット社と代理店契約を結び、20社が輸入した紡績機の85%を扱った。原綿も当初は中国綿を輸入し、1892年に鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿の一手販売契約を結んだ。契約先の鐘渕紡績は、1890年の恐慌後に三井銀行の救済融資を受けて三井の傘下に入っていた。これらの注文にこたえるため、1893年2月にボンベイ出張所を開設した。インド綿は国産綿・中国綿より繊維が長く安価で、輸入綿花の主力となった。1897年ごろからボンベイ支店は英国系の綿花商を介さずに買い付け、ナグポール地方では産地から直接買い付けた。1897年の綿花輸入は1,382万円となり、石炭を上回る最大の取扱商品となった。

  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「2 “追いつけ、追い越せ”の明治人」
    • [50]1882年大阪紡にプラット社ミュール機16台(1万500錘)、1886年同社と代理店契約、20社輸入紡機の85%。1892年鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿一手販売契約、1893年2月ボンベイ出張所、1897年支店昇格・独自買付け、ナグポールで産地直買い。1897年綿花輸入1,382万円で石炭を抜き首位
    • [51]1882年大阪紡にプラット社ミュール機16台(1万500錘)、1886年同社と代理店契約、20社輸入紡機の85%。1892年鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿一手販売契約、1893年2月ボンベイ出張所、1897年支店昇格・独自買付け、ナグポールで産地直買い。1897年綿花輸入1,382万円で石炭を抜き首位
    • [52]1882年大阪紡にプラット社ミュール機16台(1万500錘)、1886年同社と代理店契約、20社輸入紡機の85%。1892年鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿一手販売契約、1893年2月ボンベイ出張所、1897年支店昇格・独自買付け、ナグポールで産地直買い。1897年綿花輸入1,382万円で石炭を抜き首位
    • [54]1882年大阪紡にプラット社ミュール機16台(1万500錘)、1886年同社と代理店契約、20社輸入紡機の85%。1892年鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿一手販売契約、1893年2月ボンベイ出張所、1897年支店昇格・独自買付け、ナグポールで産地直買い。1897年綿花輸入1,382万円で石炭を抜き首位
    • [55]1882年大阪紡にプラット社ミュール機16台(1万500錘)、1886年同社と代理店契約、20社輸入紡機の85%。1892年鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿一手販売契約、1893年2月ボンベイ出張所、1897年支店昇格・独自買付け、ナグポールで産地直買い。1897年綿花輸入1,382万円で石炭を抜き首位
    • [56]1882年大阪紡にプラット社ミュール機16台(1万500錘)、1886年同社と代理店契約、20社輸入紡機の85%。1892年鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿一手販売契約、1893年2月ボンベイ出張所、1897年支店昇格・独自買付け、ナグポールで産地直買い。1897年綿花輸入1,382万円で石炭を抜き首位
    • [57]1882年大阪紡にプラット社ミュール機16台(1万500錘)、1886年同社と代理店契約、20社輸入紡機の85%。1892年鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿一手販売契約、1893年2月ボンベイ出張所、1897年支店昇格・独自買付け、ナグポールで産地直買い。1897年綿花輸入1,382万円で石炭を抜き首位
  • 日本産業史 1巻「財閥の形成」
    • [53]鐘渕紡績は1890年恐慌後に三井銀行の救済融資を受け三井の支配下に

日露戦争のころ、三井物産は日本の輸出入に加え、外国と外国を結ぶ取引を広げた。上海支店の山本条太郎氏は1895年ごろから中国生糸の欧州向け輸出を手がけ、1905年には国際銅市場で大口の取引を担った。日露戦争後には、ロンドンの銀行や株式仲買商から300万〜400万円の戦時国債の取次を任された。欧州で油脂・飼料原料の綿実が不足すると、三井物産は中国の各支店と連携して大豆を英国へ送り、3カ月で8万5,000トンの成約を得た。1908年には外国間貿易が総取扱高の16%に到達。日本の輸出に占める三井物産の比率は1897年ごろの6.4%から1909年には26%まで高まった。1909年10月、三井物産は資本金2,000万円の株式会社に改組した。大豆の外国間貿易は、日本の産物を扱う創業時の商いの範囲を越える一歩だったのではないか。

  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「2 “追いつけ、追い越せ”の明治人」
    • [58]山本条太郎(上海支店)が1895年頃から中国生糸の欧州輸出、1905年国際銅市場の主役。日露戦争後ロンドンで戦時国債取次300〜400万円。中国大豆を英国へ輸出し3カ月で8万5,000トン成約。1908年外国間貿易16%。輸出シェア1897年頃6.4%→1909年26%
    • [59]山本条太郎(上海支店)が1895年頃から中国生糸の欧州輸出、1905年国際銅市場の主役。日露戦争後ロンドンで戦時国債取次300〜400万円。中国大豆を英国へ輸出し3カ月で8万5,000トン成約。1908年外国間貿易16%。輸出シェア1897年頃6.4%→1909年26%
    • [60]山本条太郎(上海支店)が1895年頃から中国生糸の欧州輸出、1905年国際銅市場の主役。日露戦争後ロンドンで戦時国債取次300〜400万円。中国大豆を英国へ輸出し3カ月で8万5,000トン成約。1908年外国間貿易16%。輸出シェア1897年頃6.4%→1909年26%
    • [61]山本条太郎(上海支店)が1895年頃から中国生糸の欧州輸出、1905年国際銅市場の主役。日露戦争後ロンドンで戦時国債取次300〜400万円。中国大豆を英国へ輸出し3カ月で8万5,000トン成約。1908年外国間貿易16%。輸出シェア1897年頃6.4%→1909年26%
    • [62]山本条太郎(上海支店)が1895年頃から中国生糸の欧州輸出、1905年国際銅市場の主役。日露戦争後ロンドンで戦時国債取次300〜400万円。中国大豆を英国へ輸出し3カ月で8万5,000トン成約。1908年外国間貿易16%。輸出シェア1897年頃6.4%→1909年26%
    • [63]山本条太郎(上海支店)が1895年頃から中国生糸の欧州輸出、1905年国際銅市場の主役。日露戦争後ロンドンで戦時国債取次300〜400万円。中国大豆を英国へ輸出し3カ月で8万5,000トン成約。1908年外国間貿易16%。輸出シェア1897年頃6.4%→1909年26%
  • 会社銀行八十年史(1955)2篇「三井物産」
    • [64]1909年10月資本金2,000万円で株式会社に改組
参考文献[43]-[64]
  • 会社銀行八十年史(1955)2篇「三井物産」
    • [43]1893年7月商法の一部施行を機に三井物産合名会社に改組、資本金100万円
    • [64]1909年10月資本金2,000万円で株式会社に改組
  • 日本産業史 1巻「財閥の形成」
    • [44]1891年中上川彦次郎が井上馨の推薦で三井銀行理事。1893年6月銀行・物産・鉱山・呉服店を合名会社に改組、10月三井家同族会・三井元方を設置
    • [45]1891年中上川彦次郎が井上馨の推薦で三井銀行理事。1893年6月銀行・物産・鉱山・呉服店を合名会社に改組、10月三井家同族会・三井元方を設置
    • [53]鐘渕紡績は1890年恐慌後に三井銀行の救済融資を受け三井の支配下に
  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「2 “追いつけ、追い越せ”の明治人」
    • [46]1898年11月の定款改正で出資社員が武之助・養之助の2人から同族11人全員へ。三井直系の四大柱の一つに。合名後に高商・大学卒を採用、1891年頃から上海支店へ修業生を派遣
    • [47]1898年11月の定款改正で出資社員が武之助・養之助の2人から同族11人全員へ。三井直系の四大柱の一つに。合名後に高商・大学卒を採用、1891年頃から上海支店へ修業生を派遣
    • [48]1898年11月の定款改正で出資社員が武之助・養之助の2人から同族11人全員へ。三井直系の四大柱の一つに。合名後に高商・大学卒を採用、1891年頃から上海支店へ修業生を派遣
    • [49]1898年11月の定款改正で出資社員が武之助・養之助の2人から同族11人全員へ。三井直系の四大柱の一つに。合名後に高商・大学卒を採用、1891年頃から上海支店へ修業生を派遣
    • [50]1882年大阪紡にプラット社ミュール機16台(1万500錘)、1886年同社と代理店契約、20社輸入紡機の85%。1892年鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿一手販売契約、1893年2月ボンベイ出張所、1897年支店昇格・独自買付け、ナグポールで産地直買い。1897年綿花輸入1,382万円で石炭を抜き首位
    • [51]1882年大阪紡にプラット社ミュール機16台(1万500錘)、1886年同社と代理店契約、20社輸入紡機の85%。1892年鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿一手販売契約、1893年2月ボンベイ出張所、1897年支店昇格・独自買付け、ナグポールで産地直買い。1897年綿花輸入1,382万円で石炭を抜き首位
    • [52]1882年大阪紡にプラット社ミュール機16台(1万500錘)、1886年同社と代理店契約、20社輸入紡機の85%。1892年鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿一手販売契約、1893年2月ボンベイ出張所、1897年支店昇格・独自買付け、ナグポールで産地直買い。1897年綿花輸入1,382万円で石炭を抜き首位
    • [54]1882年大阪紡にプラット社ミュール機16台(1万500錘)、1886年同社と代理店契約、20社輸入紡機の85%。1892年鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿一手販売契約、1893年2月ボンベイ出張所、1897年支店昇格・独自買付け、ナグポールで産地直買い。1897年綿花輸入1,382万円で石炭を抜き首位
    • [55]1882年大阪紡にプラット社ミュール機16台(1万500錘)、1886年同社と代理店契約、20社輸入紡機の85%。1892年鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿一手販売契約、1893年2月ボンベイ出張所、1897年支店昇格・独自買付け、ナグポールで産地直買い。1897年綿花輸入1,382万円で石炭を抜き首位
    • [56]1882年大阪紡にプラット社ミュール機16台(1万500錘)、1886年同社と代理店契約、20社輸入紡機の85%。1892年鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿一手販売契約、1893年2月ボンベイ出張所、1897年支店昇格・独自買付け、ナグポールで産地直買い。1897年綿花輸入1,382万円で石炭を抜き首位
    • [57]1882年大阪紡にプラット社ミュール機16台(1万500錘)、1886年同社と代理店契約、20社輸入紡機の85%。1892年鐘紡・三池紡・三重紡とインド綿一手販売契約、1893年2月ボンベイ出張所、1897年支店昇格・独自買付け、ナグポールで産地直買い。1897年綿花輸入1,382万円で石炭を抜き首位
    • [58]山本条太郎(上海支店)が1895年頃から中国生糸の欧州輸出、1905年国際銅市場の主役。日露戦争後ロンドンで戦時国債取次300〜400万円。中国大豆を英国へ輸出し3カ月で8万5,000トン成約。1908年外国間貿易16%。輸出シェア1897年頃6.4%→1909年26%
    • [59]山本条太郎(上海支店)が1895年頃から中国生糸の欧州輸出、1905年国際銅市場の主役。日露戦争後ロンドンで戦時国債取次300〜400万円。中国大豆を英国へ輸出し3カ月で8万5,000トン成約。1908年外国間貿易16%。輸出シェア1897年頃6.4%→1909年26%
    • [60]山本条太郎(上海支店)が1895年頃から中国生糸の欧州輸出、1905年国際銅市場の主役。日露戦争後ロンドンで戦時国債取次300〜400万円。中国大豆を英国へ輸出し3カ月で8万5,000トン成約。1908年外国間貿易16%。輸出シェア1897年頃6.4%→1909年26%
    • [61]山本条太郎(上海支店)が1895年頃から中国生糸の欧州輸出、1905年国際銅市場の主役。日露戦争後ロンドンで戦時国債取次300〜400万円。中国大豆を英国へ輸出し3カ月で8万5,000トン成約。1908年外国間貿易16%。輸出シェア1897年頃6.4%→1909年26%
    • [62]山本条太郎(上海支店)が1895年頃から中国生糸の欧州輸出、1905年国際銅市場の主役。日露戦争後ロンドンで戦時国債取次300〜400万円。中国大豆を英国へ輸出し3カ月で8万5,000トン成約。1908年外国間貿易16%。輸出シェア1897年頃6.4%→1909年26%
    • [63]山本条太郎(上海支店)が1895年頃から中国生糸の欧州輸出、1905年国際銅市場の主役。日露戦争後ロンドンで戦時国債取次300〜400万円。中国大豆を英国へ輸出し3カ月で8万5,000トン成約。1908年外国間貿易16%。輸出シェア1897年頃6.4%→1909年26%

出典・参考

6件
出典・参考
  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「1 文明開化の夜明け」
  • 挑戦と創造 三井物産100年のあゆみ(1976)「2 “追いつけ、追い越せ”の明治人」
  • 会社銀行八十年史(1955)1篇「近代産業移植期の会社」
  • 会社銀行八十年史(1955)2篇「三井物産」
  • 会社銀行八十年史(1955)2篇「石炭」(三井鉱山)
  • 日本産業史 1巻「財閥の形成」

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