第2章 年〜年

旭化成:山陽石油化学の設立と旭化成ホームズによる住宅事業への参入

水島エチレンとヘーベルハウスによる収益源の入れ替え

1962年〜健全な赤字部門という多角化の資金設計

繊維の利益で新事業の赤字を吸収する

宮崎輝氏が社長として最初に決めたのは、新しい事業をどこまで赤字のまま抱えるかという線引きであった。宮崎氏は新規事業を選ぶ基準として、将来性があることと自分の実力の範囲であることの二つを挙げ、繊維には必ずサイクルがあり合繊もやがて交代の時期を迎えるとみて、繊維以外の分野を持つ必要を語っている。繊維事業の合理化で得た利益を土台に、立ち上げ期の赤字を健全な赤字として許容する方針は、資金の配分を先に決めておく設計であった。1964年度下期の決算では、新規事業にともなう赤字の増加分を既存事業の利益で吸収したうえで16億8,800万円の利益を確保している。1960年度以降に立ち上がった新規事業には、アクリロニトリル・モノマー、ナイロン、合成ゴム、建材、複合調味料のミタスが並ぶ。この線引きを、宮崎氏は社長を退くまで崩さなかった『あらゆる仕事が黒字になったら企業はもう終わりですね。そうなったら黒字部門をインプルーブする程度で、そう長くは続かない。常に何か新しい目標をもたせるような赤字部門が必要なんです。』。

  • 化繊月報 1967年3月号「旭化成社長宮崎輝氏にきく」
    • [1]宮崎輝氏は新規事業選定の基準として、将来性があることと自分の実力の範囲であることの二つを挙げた
    • [2]宮崎輝氏は、繊維には必ずサイクルがあり合繊もやがて交代の時期を迎えるとみて、繊維以外の分野を持つ必要を語った
  • 証券アナリストジャーナル 1965年 第3巻第8号(旭化成工業副社長 刈谷亨)
    • [3]1964年度下期決算で、新規事業に伴う赤字の増加分を既存事業の利益で吸収したうえで16億8,800万円の利益を確保した
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第12号(旭化成工業常務取締役 植松健悟)
    • [4]1960年度以降にアクリロニトリル・モノマー、ナイロン、合成ゴム、建材、複合調味料「ミタス」等を新規事業として立ち上げた
繊維原料を一段法で自社生産する

方針を最初に形にしたのは、カシミロンの原料であるアクリロニトリルの自給であった。1962年6月、旭化成工業は世界初の一段法によるアクリロニトリル・モノマー工場を完成させ、自社の繊維原料を自前で作れる位置に立った。この工場はプロピレンからモノマーを製造するもので、1965年時点の日産能力は115トンと世界最大の規模であった。もっともプロピレンなどの基礎原料そのものは、三菱化成工業をはじめとする国内の石油化学メーカーや海外から購入しており、供給の不安とコスト高は解消していなかった。1965年時点では低圧ポリエチレンとポリプロピレンが製品系列から欠けており、ポリプロピレンは設計を終えながら建設を手控えていた。誘導品を一つずつ積み上げる手は使えても、その土台を他社に握られている限り原料の価格は自社で決められない。この不均衡が、次の投資の規模を決めることになった。

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [5]1962年6月、世界初の一段法によるアクリロニトリル・モノマー工場が完成し、カシミロンの原料自給を達成した
  • 証券アナリストジャーナル 1965年 第3巻第8号(旭化成工業副社長 刈谷亨)
    • [6]アクリロニトリル・モノマーはプロピレンから製造し、1965年時点の日産能力は115トンで世界最大規模であった
    • [8]1965年時点で低圧ポリエチレン・ポリプロピレンが製品系列から欠けており、ポリプロピレンは設計を終えながら建設を手控えていた
  • 宮崎輝「私の履歴書」(日本経済新聞連載、1983年12月)
    • [7]アクリロニトリル・モノマーの基礎原料は三菱化成工業など国内の石油化学メーカーや海外から購入しており、供給不安とコスト高を抱えていた
合わない技術を捨てて西独の技術へ入れ替える

1963年4月に建材事業部を設置した旭化成工業は、ソ連の軽量気泡コンクリート技術シリカリチートを導入したが、日本の住宅には適さず、累積赤字が30億円近くに達した段階で断念している。同社はここで撤退せず、西独のヘーベル・ガストン社と導入契約を結んで技術そのものを入れ替え、1967年8月に軽量気泡コンクリートのヘーベルの生産を開始した。軽さと断熱性・耐火性を併せ持つヘーベルは用途を広げ、建材事業への本格進出の足場になった。1967年の業界誌の取材で宮崎氏が将来のタネに挙げたのは、日本で最も足りないのは住であるという見立てと、軽いコンクリートで壁・屋根・床をつくる時代の到来であった。健全な赤字を許容する方針は、失敗した事業から撤退せずに技術だけを差し替える余地を経営に残していた。

  • 宮崎輝「私の履歴書」(日本経済新聞連載、1983年12月)
    • [9]1963年4月に建材事業部を設置しソ連の軽量気泡コンクリート技術「シリカリチート」を導入したが、日本の住宅に適さず累積赤字30億円近くで断念した
    • [10]西独ヘーベル・ガストン社と導入契約を結び、1967年8月に軽量気泡コンクリート「ヘーベル」の生産を開始した
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [11]1967年8月、軽量気泡コンクリート(ALC)「へーベル」を製造開始し建材事業へ本格進出した
  • 化繊月報 1967年3月号「旭化成社長宮崎輝氏にきく」
    • [12]宮崎輝氏は1967年、日本で一番足らぬのは住と述べ、軽いコンクリートで壁・屋根・床をつくる時代の到来を将来のタネと語った
参考文献[1]-[12]
  • 化繊月報 1967年3月号「旭化成社長宮崎輝氏にきく」
    • [1]宮崎輝氏は新規事業選定の基準として、将来性があることと自分の実力の範囲であることの二つを挙げた
    • [2]宮崎輝氏は、繊維には必ずサイクルがあり合繊もやがて交代の時期を迎えるとみて、繊維以外の分野を持つ必要を語った
    • [12]宮崎輝氏は1967年、日本で一番足らぬのは住と述べ、軽いコンクリートで壁・屋根・床をつくる時代の到来を将来のタネと語った
  • 証券アナリストジャーナル 1965年 第3巻第8号(旭化成工業副社長 刈谷亨)
    • [3]1964年度下期決算で、新規事業に伴う赤字の増加分を既存事業の利益で吸収したうえで16億8,800万円の利益を確保した
    • [6]アクリロニトリル・モノマーはプロピレンから製造し、1965年時点の日産能力は115トンで世界最大規模であった
    • [8]1965年時点で低圧ポリエチレン・ポリプロピレンが製品系列から欠けており、ポリプロピレンは設計を終えながら建設を手控えていた
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第12号(旭化成工業常務取締役 植松健悟)
    • [4]1960年度以降にアクリロニトリル・モノマー、ナイロン、合成ゴム、建材、複合調味料「ミタス」等を新規事業として立ち上げた
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [5]1962年6月、世界初の一段法によるアクリロニトリル・モノマー工場が完成し、カシミロンの原料自給を達成した
    • [11]1967年8月、軽量気泡コンクリート(ALC)「へーベル」を製造開始し建材事業へ本格進出した
  • 宮崎輝「私の履歴書」(日本経済新聞連載、1983年12月)
    • [7]アクリロニトリル・モノマーの基礎原料は三菱化成工業など国内の石油化学メーカーや海外から購入しており、供給不安とコスト高を抱えていた
    • [9]1963年4月に建材事業部を設置しソ連の軽量気泡コンクリート技術「シリカリチート」を導入したが、日本の住宅に適さず累積赤字30億円近くで断念した
    • [10]西独ヘーベル・ガストン社と導入契約を結び、1967年8月に軽量気泡コンクリート「ヘーベル」の生産を開始した

1966年〜売上に匹敵する投資と輪番制で得たエチレンセンター

原料を購入する立場から生産する立場へ移ることを決める

合繊の原料が石油化学の誘導品として安く作られることは、1960年代半ばには確実とみられていた。基礎原料を他社から買う立場のままでは、総合化学会社への脱皮も原料コストの主導権も得られない。宮崎輝氏は1954年にダウ・ケミカル社と技術提携して川崎工場でスタイロンをモノマーから生産し、石油化学の分野へ参入して以来、その本丸というべきエチレンセンターの建設を念願としてきた。ただし1965年時点の自己資本比率は25%から26%で、設備投資は自己資本で貫くのが方針であった。1968年度の売上高見込みは1,710億円、同年度の設備投資は現金ベースで185億円を予定している。エチレンセンターの建設費はこの規模を一桁押し上げるもので、財務方針をそのまま当てはめれば通らない案件であった。

  • 証券アナリストジャーナル 1965年 第3巻第8号(旭化成工業副社長 刈谷亨)
    • [13]1954年にダウ・ケミカル社と技術提携して川崎工場でスタイロンをモノマーから生産し、石油化学の分野に踏み込んだ
    • [15]1965年時点の自己資本比率は25〜26%で、設備投資は自己資本で貫くのが方針であった
  • 宮崎輝「私の履歴書」(日本経済新聞連載、1983年12月)
    • [14]宮崎輝氏は旭ダウによるスタイロンへの進出以来、石油化学事業の本丸というべきエチレンセンターの建設を念願としてきた
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第12号(旭化成工業常務取締役 植松健悟)
    • [16]1968年度の売上高見込みは1,710億円、同年度の設備投資は現金ベースで185億円を予定していた
全工場を回らせて反対を潰し、輪番制へ組み替える

宮崎輝氏が踏み切った投資は、当時の売上高に匹敵する1,000億円近い規模で、社内には強い反対論があった。宮崎氏は常務会を重ねて役員の意見を聞き、企画部長の岡本担三氏を全工場に回らせて説明と説得に当たらせたうえで計画の遂行を決めている。当初の計画は旭化成工業・旭ダウ・日本鉱業・日産化学工業の4社で年12万トン、のちにチッソが加わって20万トンであった。ところが通商産業省は1967年、協調懇方式によるエチレン・プラントの最低規模を年30万トンへ引き上げ、同じ水島地区で三菱化成工業が30万トン規模の建設を表明すると両方の計画を認めず、共同建設を指導した。1968年1月、通産省化学工業局長の吉光久氏の斡旋でトップ会談が開かれ、三菱化成工業の篠島秀雄社長との間で輪番制の共同投資が決まった。三菱化成工業の側には、当時の旭化成工業は人絹屋であり、自社は化学工業の先達であるという意識があった。

  • 宮崎輝「私の履歴書」(日本経済新聞連載、1983年12月)
    • [17]宮崎輝氏は1960年代半ばに石油化学コンビナート進出を決断した。売上高に匹敵する1,000億円近い投資で、社内には反対論が強かった
    • [18]常務会を重ねて役員の意見を聞き、企画部長の岡本担三氏を全工場に回らせて説明と説得に当たらせたうえで計画の遂行を決めた
    • [19]当初計画は水島地区で旭化成・旭ダウ・日本鉱業・日産化学工業の4社によるコンビナートで、エチレン能力は年12万トン、のちチッソが加わり20万トンとなった
    • [21]三菱化成工業が同じ水島地区で年30万トン規模の建設を発表し、通産省は両計画を認めず共同建設を指導した
    • [22]通産省化学工業局長の吉光久氏の斡旋で1968年1月にトップ会談が開かれ、三菱化成工業の篠島秀雄社長との間で輪番制の共同投資が決まった
    • [23]三菱化成工業から見れば当時の旭化成工業は人絹屋であり、自社は化学工業の先達であるという意識があった
  • 『日本産業史』第3巻 化学「化学-プラントの大型化を経て成熟化」(日経文庫, 日本経済新聞社)
    • [20]通産省は協調懇方式でエチレン・プラントの最小規模を年10万トンと定め、1967年に30万トンへ引き上げた
設備が完成した月に業界は減産へ入る

1968年7月、旭化成工業60%・日本鉱業40%の出資で山陽石油化学が設立され、水島地区での石油化学事業が本格的に始まった。三菱化成工業との折半出資会社である水島エチレンが1970年7月に年30万トンの設備を完成させ、運営は三菱化成工業が担当した。旭化成工業が運営する側に回ったのは1972年4月に完成した山陽エチレンの年産35万トンのセンターで、ここで念願の総合化学会社となった。売上高は1968年3月期の1,525億4,300万円から1972年3月期には2,540億6,100万円へ伸びている。ただし同じ1972年4月、エチレンメーカー12社が3月18日に申請していた不況カルテルが認可された。エチレン30万トン計画は丸善石油化学と三菱油化の単独実施を除き、すべて共同出資や輪番投資の形をとっており、業界が揃って大型化へ走った帰結が操業率の低下であった。

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]1968年7月、旭化成60%・日本鉱業40%の出資で山陽石油化学株式会社を設立し、水島地区で石油化学事業へ本格進出した
    • [26]1972年4月に水島で山陽エチレンによる年産35万トンのエチレンセンターが完成した
  • 宮崎輝「私の履歴書」(日本経済新聞連載、1983年12月)
    • [25]三菱化成工業との折半出資で水島エチレンが1970年7月に年30万トンの設備を完成させ、運営は三菱化成工業が担当した
  • 会社年鑑 1971年版・1976年版
    • [27]売上高は1968年3月期1,525.43億円、1972年3月期2,540.61億円(いずれも単体・上下期合算)
  • 『日本産業史』第3巻 化学「化学-プラントの大型化を経て成熟化」(日経文庫, 日本経済新聞社)
    • [28]エチレンの操業率は1972年に70%台へ低下し、エチレンメーカー12社が1972年3月18日に不況カルテルを申請、4月15日に認可された
    • [29]エチレン30万トン計画は丸善石油化学と三菱油化の単独実施を除き、すべて共同出資や輪番投資の形をとった
参考文献[13]-[29]
  • 証券アナリストジャーナル 1965年 第3巻第8号(旭化成工業副社長 刈谷亨)
    • [13]1954年にダウ・ケミカル社と技術提携して川崎工場でスタイロンをモノマーから生産し、石油化学の分野に踏み込んだ
    • [15]1965年時点の自己資本比率は25〜26%で、設備投資は自己資本で貫くのが方針であった
  • 宮崎輝「私の履歴書」(日本経済新聞連載、1983年12月)
    • [14]宮崎輝氏は旭ダウによるスタイロンへの進出以来、石油化学事業の本丸というべきエチレンセンターの建設を念願としてきた
    • [17]宮崎輝氏は1960年代半ばに石油化学コンビナート進出を決断した。売上高に匹敵する1,000億円近い投資で、社内には反対論が強かった
    • [18]常務会を重ねて役員の意見を聞き、企画部長の岡本担三氏を全工場に回らせて説明と説得に当たらせたうえで計画の遂行を決めた
    • [19]当初計画は水島地区で旭化成・旭ダウ・日本鉱業・日産化学工業の4社によるコンビナートで、エチレン能力は年12万トン、のちチッソが加わり20万トンとなった
    • [21]三菱化成工業が同じ水島地区で年30万トン規模の建設を発表し、通産省は両計画を認めず共同建設を指導した
    • [22]通産省化学工業局長の吉光久氏の斡旋で1968年1月にトップ会談が開かれ、三菱化成工業の篠島秀雄社長との間で輪番制の共同投資が決まった
    • [23]三菱化成工業から見れば当時の旭化成工業は人絹屋であり、自社は化学工業の先達であるという意識があった
    • [25]三菱化成工業との折半出資で水島エチレンが1970年7月に年30万トンの設備を完成させ、運営は三菱化成工業が担当した
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第12号(旭化成工業常務取締役 植松健悟)
    • [16]1968年度の売上高見込みは1,710億円、同年度の設備投資は現金ベースで185億円を予定していた
  • 『日本産業史』第3巻 化学「化学-プラントの大型化を経て成熟化」(日経文庫, 日本経済新聞社)
    • [20]通産省は協調懇方式でエチレン・プラントの最小規模を年10万トンと定め、1967年に30万トンへ引き上げた
    • [28]エチレンの操業率は1972年に70%台へ低下し、エチレンメーカー12社が1972年3月18日に不況カルテルを申請、4月15日に認可された
    • [29]エチレン30万トン計画は丸善石油化学と三菱油化の単独実施を除き、すべて共同出資や輪番投資の形をとった
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]1968年7月、旭化成60%・日本鉱業40%の出資で山陽石油化学株式会社を設立し、水島地区で石油化学事業へ本格進出した
    • [26]1972年4月に水島で山陽エチレンによる年産35万トンのエチレンセンターが完成した
  • 会社年鑑 1971年版・1976年版
    • [27]売上高は1968年3月期1,525.43億円、1972年3月期2,540.61億円(いずれも単体・上下期合算)

1972年〜化学から外れた住宅への参入と、油漬けの試練

素材を販売する側から家を建てる側へ回る

1972年9月、旭化成工業は軽量気泡コンクリートのヘーベルを構造材とする戸建て住宅をヘーベルハウスの名で本格展開し、同年11月に旭化成ホームズを設立して住宅産業へ参入した。宮崎輝氏は建材で培った技術を生かして住宅部門へ進んだと記しており、素材の外販にとどめず自社ブランドの戸建てを売る段階まで事業を延ばした点に、この参入の性格が表れている。当時は多くの企業が住宅事業へ参入する熱気があり、宮崎氏のかねてからの関心が決断を容易にした。もっとも発足直後は代理店制度による施工責任の曖昧さと営業の弱さから販売不振に陥り、代理店制度を廃止して直販体制を一から築き直している。宮崎氏は事業部長に都筑馨太氏を起用し、後任に山口信夫氏を送り込んだ。新しい仕事の責任者には、その仕事に通じているかどうかを別にして、こだわりのない素人を当ててきたと宮崎氏は語っている。

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [30]1972年9月に「ヘーベルハウス」を本格展開して住宅事業へ本格進出し、同年11月に旭化成ホームズを設立した
  • 宮崎輝「私の履歴書」(日本経済新聞連載、1983年12月)
    • [31]宮崎輝氏は建材で培った技術を生かして住宅部門に進出し、1972年9月から「ヘーベルハウス」の名で売り出したと記している
    • [34]宮崎輝氏は住宅参入時に都筑馨太氏を事業部長に起用し、後任に山口信夫氏を送り込んだ
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号
    • [32]参入当時は多くの企業が住宅事業へ参入する熱気があり、宮崎輝氏のかねてからの関心が参入の決断を容易にした
    • [33]代理店制度による施工責任の曖昧さと営業の弱さから不振に陥り、代理店制度を廃止して直販体制を築き直した
  • 日経ビジネス 1977年7月4日号 で経営の勝負がつく(宮崎輝氏)
    • [35]宮崎輝氏は、新しい仕事を始めるときの事業部長は、その仕事に通じているかどうかを別にして、こだわりがないという理由でむしろ素人にやらせてきたと述べた
石油危機で原料の上流を抱えた重さが表に出る

1965年の不況のあと、国内の繊維市場では各社が競うように設備を増やし、値崩れを防ぐ力が失われていた。設備を大きくし原料が安くなって生まれたコストの低下分は、そのまま製品の値下がりに回り、価格は下がり続けた。業績は1974年3月期にこの時点での頂点を迎え、売上高3,652億8,600万円、経常利益335億400万円を記録した。しかし経常利益は1975年3月期に122億7,000万円まで減り、1976年3月期には23億200万円の経常赤字に転じた。原油が安いうちは原料の自給が原価を握ることを意味したが、値が上がれば、自前で抱えた設備の重さがそのまま損益に表れる。水島のエチレンセンター完成からわずか4年で、原料を押さえる側に回るという選択は逆の方向へ効いた。1977年3月期の経常利益は87億5,900万円で、赤字からは脱したものの、繊維部門は赤字のままであった。

  • 『日本産業史』第3巻 繊維「繊維-輸入規制で打撃」(日経文庫, 日本経済新聞社)
    • [36]1965年の合繊不況以降、ナイロン・ポリエステル・アクリルなど主要合繊は各社が競争して設備を拡大したため価格の硬直性が失われ、設備の大型化や原料価格の低下によるコスト引き下げ効果が製品価格に反映して下落を続けた
  • 会社年鑑 1976年版
    • [37]1974年3月期の売上高は3,652.86億円、経常利益は335.04億円(単体・上下期合算)
  • 会社年鑑 1976年版・1986年版
    • [38]1975年3月期の経常利益は122.70億円、1976年3月期の経常利益は-23.02億円(単体・上下期合算)
  • 会社年鑑 1986年版
    • [39]1977年3月期の経常利益は87.59億円(単体・上下期合算)
  • 日経ビジネス 1977年7月4日号 で経営の勝負がつく(宮崎輝氏)
    • [40]宮崎輝氏は1977年時点で、非繊維部門は軌道に乗ったが繊維が赤字で収益を圧迫していると述べ、繊維の黒字化に全力をかけていると語った
業界が総崩れの期に一社だけ黒字を残す

1977年9月の中間決算で、合繊大手6社が経常赤字に転落するなか、旭化成工業だけが32億5,400万円の経常利益を計上した。非繊維部門の売上比率は、同じ時点で53%に達していた。役員会にかけてすぐ通るような事業はどれも失敗し、反対が強いものほど成功するというのが宮崎氏の判断で、水島のエチレンセンターでは、反対論の根拠を一つずつ崩して役員会の決定までこぎつける手順が実際にとられている。1955年度に売上ゼロだった新規事業は1968年度に全社売上高の64%まで伸び、同年度には赤字を抱える非繊維事業も一つもなくなった。経常利益は1979年3月期に197億9,100万円へ戻った。この期を境に、繊維の循環に振り回されていた収益を、非繊維部門が下支えする形へと入れ替わった。

  • 読売新聞(1977年11月15日)
    • [41]1977年9月中間決算で旭化成工業以外の大手6社が経常赤字に転落するなか、旭化成工業は32億5,400万円の経常利益を計上した
    • [42]1977年9月中間決算時点で非繊維部門の売上比率は53%に達した
  • 日経ビジネス 1977年7月4日号 で経営の勝負がつく(宮崎輝氏)
    • [43]宮崎輝氏は、役員会にかけてパッと決まるのは全部失敗であり、反対があればあるほど事業はうまくいく、反対の根拠を一つひとつ潰していって役員会で決定すると述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第12号(旭化成工業常務取締役 植松健悟)
    • [44]1955年度に売上ゼロだった新規事業が1968年度には全社売上高の64%を占めるまで拡大し、1968年度には非繊維部門で赤字を計上する事業がなくなった
  • 会社年鑑 1986年版
    • [45]1979年3月期の経常利益は197.91億円(単体・上下期合算)
参考文献[30]-[45]
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [30]1972年9月に「ヘーベルハウス」を本格展開して住宅事業へ本格進出し、同年11月に旭化成ホームズを設立した
  • 宮崎輝「私の履歴書」(日本経済新聞連載、1983年12月)
    • [31]宮崎輝氏は建材で培った技術を生かして住宅部門に進出し、1972年9月から「ヘーベルハウス」の名で売り出したと記している
    • [34]宮崎輝氏は住宅参入時に都筑馨太氏を事業部長に起用し、後任に山口信夫氏を送り込んだ
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号
    • [32]参入当時は多くの企業が住宅事業へ参入する熱気があり、宮崎輝氏のかねてからの関心が参入の決断を容易にした
    • [33]代理店制度による施工責任の曖昧さと営業の弱さから不振に陥り、代理店制度を廃止して直販体制を築き直した
  • 日経ビジネス 1977年7月4日号 で経営の勝負がつく(宮崎輝氏)
    • [35]宮崎輝氏は、新しい仕事を始めるときの事業部長は、その仕事に通じているかどうかを別にして、こだわりがないという理由でむしろ素人にやらせてきたと述べた
    • [40]宮崎輝氏は1977年時点で、非繊維部門は軌道に乗ったが繊維が赤字で収益を圧迫していると述べ、繊維の黒字化に全力をかけていると語った
    • [43]宮崎輝氏は、役員会にかけてパッと決まるのは全部失敗であり、反対があればあるほど事業はうまくいく、反対の根拠を一つひとつ潰していって役員会で決定すると述べた
  • 『日本産業史』第3巻 繊維「繊維-輸入規制で打撃」(日経文庫, 日本経済新聞社)
    • [36]1965年の合繊不況以降、ナイロン・ポリエステル・アクリルなど主要合繊は各社が競争して設備を拡大したため価格の硬直性が失われ、設備の大型化や原料価格の低下によるコスト引き下げ効果が製品価格に反映して下落を続けた
  • 会社年鑑 1976年版
    • [37]1974年3月期の売上高は3,652.86億円、経常利益は335.04億円(単体・上下期合算)
  • 会社年鑑 1976年版・1986年版
    • [38]1975年3月期の経常利益は122.70億円、1976年3月期の経常利益は-23.02億円(単体・上下期合算)
  • 会社年鑑 1986年版
    • [39]1977年3月期の経常利益は87.59億円(単体・上下期合算)
    • [45]1979年3月期の経常利益は197.91億円(単体・上下期合算)
  • 読売新聞(1977年11月15日)
    • [41]1977年9月中間決算で旭化成工業以外の大手6社が経常赤字に転落するなか、旭化成工業は32億5,400万円の経常利益を計上した
    • [42]1977年9月中間決算時点で非繊維部門の売上比率は53%に達した
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第12号(旭化成工業常務取締役 植松健悟)
    • [44]1955年度に売上ゼロだった新規事業が1968年度には全社売上高の64%を占めるまで拡大し、1968年度には非繊維部門で赤字を計上する事業がなくなった

筆者考察

宮崎輝氏の多角化は、事業を増やす話であるより先に、赤字を置く場所を決める話であった。繊維事業の合理化で出した利益の内側にだけ新規事業の赤字を収め、そこから外へは出さない。新しい事業を選ぶ基準として宮崎氏が挙げたのは、将来性があることと自分の実力の範囲であることの二つだけである。この線引きがあったから、ソ連の軽量気泡コンクリート技術で累積赤字が30億円近くに達しても撤退にはならず、西独ヘーベル・ガストン社の技術へ入れ替えて1967年に生産へこぎつけられた。1964年度下期に新規事業の赤字を既存事業の利益で吸収したうえで16億8,800万円を残した決算は、この設計が帳簿の上で動いていたことを示している。

そのうえで宮崎氏が打った最大の投資は、線引きの外側にあった。水島のエチレンセンターは当時の売上高に匹敵する1,000億円近い規模で、繊維の利益では到底吸収できない。宮崎氏は常務会を重ね、企画部長を全工場へ回らせて反対の根拠を潰してから決めている。完成したのは1972年4月で、同じ月にエチレンメーカー12社の不況カルテルが認可された。原料を買う側から作る側へ回った選択は、原油が高騰した1976年3月期に23億200万円の経常赤字として跳ね返る。それでも1977年9月の中間期に合繊大手6社が揃って赤字に転じるなか黒字を残せたのは、非繊維の売上比率が53%まで来ていたからであった。

売上高(単体) 1962年3月期〜1979年3月期(億円)

484.58 62.3 594.06 63.3 763.64 64.3 989.27 65.3 1,129.72 66.3 1,334.52 67.3 1,525.43 68.3 1,715.1 69.3 2,036.53 70.3 2,322.24 71.3 2,540.61 72.3 2,684.41 73.3 3,652.86 74.3 4,336.95 75.3 4,578.14 76.3 4,734.3 77.3 4,413.23 78.3 4,247.06 79.3
  • 棒はすべて単体・上下期の合算。
  • 出所は1962年3月期が会社年鑑 1963年版、1963年3月期から1966年3月期が同1967年版、1967年3月期から1970年3月期が同1971年版、1971年3月期から1975年3月期が同1976年版、1976年3月期以降が同1986年版。

1962年〜1979年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1962年03月期 単体 484 n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 594 +22.6% n/a 14 2.5% 一段法によるアクリロニトリル・モノマー工場が完成(1962/06)
1964年03月期 単体 763 +28.5% n/a 26 3.5% ハンブルグ事務所を開設(1964)
1965年03月期 単体 989 +29.5% n/a 32 3.3% n/a
1966年03月期 単体 1,129 +14.2% 53 31 2.8% 香港事務所を開設(1966)
1967年03月期 単体 1,334 +18.1% n/a 40 3.0% n/a
1968年03月期 単体 1,525 +14.3% n/a 54 3.6% n/a
1969年03月期 単体 1,715 +12.4% n/a 63 3.7% n/a
1970年03月期 単体 2,036 +18.7% 129 71 3.5% n/a
1971年03月期 単体 2,322 +14.0% 137 71 3.1% 水島エチレンが年30万トンの設備を完成(1970/07)
1972年03月期 単体 2,540 +9.4% 97 50 2.0% n/a
1973年03月期 単体 2,684 +5.7% 145 64 2.4% n/a
1974年03月期 単体 3,652 +36.1% 335 161 4.4% n/a
1975年03月期 単体 4,336 +18.7% 122 83 1.9% n/a
1976年03月期 単体 4,578 +5.6% ▲23 30 0.7% n/a
1977年03月期 単体 4,734 +3.4% 87 45 1.0% n/a
1978年03月期 単体 4,413 ▲6.8% 73 48 1.1% n/a
1979年03月期 単体 4,247 ▲3.8% 197 71 1.7% ボンベイ(ムンバイ)事務所を開設(1979)

出所:会社年鑑 1963年版、会社年鑑 1967年版、会社年鑑 1971年版、会社年鑑 1976年版、会社年鑑

出典・参考

14件
出典・参考
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
  • 会社年鑑 1971年版・1976年版
  • 会社年鑑 1976年版
  • 会社年鑑 1976年版・1986年版
  • 会社年鑑 1986年版
  • 『日本産業史』第3巻 化学「化学-プラントの大型化を経て成熟化」(日経文庫, 日本経済新聞社)
  • 『日本産業史』第3巻 繊維「繊維-輸入規制で打撃」(日経文庫, 日本経済新聞社)
  • 証券アナリストジャーナル 1965年 第3巻第8号(旭化成工業副社長 刈谷亨)
  • 化繊月報 1967年3月号「旭化成社長宮崎輝氏にきく」
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第12号(旭化成工業常務取締役 植松健悟)
  • 日経ビジネス 1977年7月4日号 で経営の勝負がつく(宮崎輝氏)
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号
  • 読売新聞(1977年11月15日)
  • 宮崎輝「私の履歴書」(日本経済新聞連載、1983年12月)

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