旭化成:旭絹織の設立と「サランラップ」など合成樹脂への多角化
延岡のアンモニアから日窒独立後の化繊依存へ
1923年〜アンモニアから肥料・繊維・火薬が派生する戦前の事業構造
人絹にも先があると初代社長の野口遵氏が見通したのは大正10年の渡欧の折であり、この旅の主な目的はイタリア人ルイギ・カザレーが発明したアンモニア合成法の特許を買い取ることだった。ビスコースレーヨン糸の製造法はドイツのグランツ・シュトッフ社から導入され、1922年に旭絹織が設立されて、1924年には大津の工場が完成し操業に入った。本来の目的の硫安では、日本窒素肥料が1923年9月に宮崎県延岡で工場を建て、カザレー式アンモニア合成法による製造を始めた。自家用の水力発電所の電力で水を電気分解して水素を取り、空気から分けた窒素と直接合成するこのやり方は、カザレー法が初めて工業化された例であり、世界が注目した歴史的な実験だった。立地の決め手は五ヶ瀬川の水力発電がもたらす安定した電力で、硫安の年産は1927年に6万トンの水準へ達し、国内最大級の製造拠点に育った。肥料と繊維を同時に立ち上げる経営構想を創業期から実行に移し、化学工業は水力電源の近くに展開するという立地論理が、延岡を旭化成の発祥の地に定めた背景にある。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]初代社長は野口遵氏。大正10年カザレー式特許買収のため渡欧(明治百年「これより先、大正一〇年野口遵氏がカザレー式特許買収のためヨーロッパに赴いた」)
- [2]イタリア人ルイギ・カザレー発明のカザレー式アンモニア合成法の特許を買収(明治百年「イタリア人ルイギ・カザレーの発明にかかるカザレー式アンモニア合成法の特許を買収し」)
- [3]渡欧時に人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入(明治百年「人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入」)
- [5]自家用水力発電所の電力で水を電解して得る水素と空気中から分離した窒素を直接合成。カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた(明治百年「これは自家用水力発電所の電力を利用し、水を電解して得られる水素と空気中から分離する窒素を直接合成するもので、カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた歴史的実験であった」)
- [6]大正13年(1924年)に大津工場を完成し操業開始(明治百年「同一三年には大津に工場を完成し操業を始めた」)
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)旭化成工業
- [4]ドイツのグランストッフ会社との提携による旭絹織の設立となって実を結び、1922年に滋賀県大津でビスコース人絹の製造を開始した。これはわが国で二番目に建設された人絹工場であった
野口氏はアンモニアの高度利用の立場からキュプラ糸ベンベルグに着眼し、1929年にはドイツのベンベルグ社より技術を導入して日本ベンベルグ絹糸を設立した。アンモニアの利用は合成硝酸から火薬工業への進出にも及び、1930年には日本窒素火薬を設立している。1931年には延岡アンモニア絹糸を設立し、この1931年が旭化成の公式な設立年である。1933年には延岡アンモニア絹糸が日本ベンベルグ絹糸と旭絹織の二社を合併して旭ベンベルグ絹糸となり、1943年には日本窒素火薬を吸収合併して日窒化学工業が発足した。アンモニアという一つの化学技術から肥料・化学繊維・火薬という複数の事業が派生し、一つの原料と技術を基盤に多様な事業を並べる構造は、戦前期にすでに形を整えていた。後年の旭化成の多角化経営は、この戦前の事業配置を引き継いでいる。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [7]キュプラ糸ベンベルグの技術はドイツのベンベルグ社より導入(明治百年「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」)
- [9]1930年(昭和5年)日本窒素火薬を設立(明治百年「アンモニア利用は、さらに合成硝酸から火薬工業への進出となり、昭和五年日本窒素火薬を設立した」)
- 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [8]1929年4月 日本ベンベルグ絹絲株式会社(キュプラ繊維「ベンベルグ」を製造・販売)設立。明治百年は「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」と記す
- [10]1931年5月21日 延岡アンモニア絹絲株式会社を設立(資本金1,000万円・現旭化成が法的連続性をもつ起点=公式設立)。明治百年も「昭和六年五月二一日延岡アンモニア(株)(これが同社の設立年月日である)」と記す
- [11]1933年7月 延岡アンモニア絹絲が日本ベンベルグ絹絲・旭絹織を合併し旭ベンベルグ絹絲と改称(三社合併)。明治百年も「昭和八年日本ベンベルグ絹糸と旭絹織の二社を合併し旭ベンベルグ絹絲(株)となった」と記す
- [12]1943年4月の合併後の社名は「日窒化学工業株式会社」(有報【沿革】「社名を日窒化学工業株式会社と改称」・系譜図も「日窒化学工業」・明治百年も「社名を日窒化学工業(株)と改めた」)。本文の「日本窒素化学工業」は一次資料の社名表記と不一致
延岡の火薬と硝酸の両部門は、日中戦争が始まってから勢いづいた。その一方で、創業から伸び続けていた人絹部門は、国の経済体制が戦時向けに切り替わったことで痛手を負った。1941年を過ぎると人絹工業は平和産業と位置づけられ、資金と資材の割り当てでは最も後回しにされた。大津工場は企業整備で閉じられ、人絹の設備も相次いで取り壊されて、スクラップとして差し出すほかなかった。そうした中で、日本窒素火薬と旭ベンベルグ絹糸の合併を阻んでいた障害も消えた。同社に外国人重役が3人いるうちは法改正でもない限り合併はできないとされていたが、戦争が進むにつれて彼らが本国へ引き揚げたからである。1943年4月、両社は合併して日窒化学工業となり、資本金は5,440万円となった。この合併によって延岡地区の薬品・ベンベルグ・レーヨン・火薬・雷管・プラスチックの6部門が、はじめて同一の社名のもとに統合された。
- 旭化成火薬30年史(旭化成工業, 1964年)第2節 旭化成工業株式会社と改称
- [13]日支事変ぼっ発以来、火薬および硝酸部門は活気を呈したが、人絹部門は国内経済体制の切り換えにより一大打撃を被った
- [14]昭和16年(1941年)以降、人絹工業は平和産業の銘を打たれ、資金も資材も最下位の取扱いを受けた
- [15]企業整備により大津工場は閉鎖され、人絹設備は解体されスクラップとして供出をよぎなくされた
- [16]旭ベンベルグ絹糸には3人の外国人重役がいたため法の改正がない限り両社の合併は不可能であったが、日支事変から大東亜戦争への進展で彼らが自国へ引き揚げ、合併の支障がなくなった
- [18]合併により延岡地区の6部門(薬品、ベンベルグ、レーヨン、火薬、雷管、プラスチック)が一体となり、同一社名のもとに統合された
- 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [17]1943年4月 日本窒素火薬を吸収合併し商号を日窒化学工業へ変更。火薬30年史は合併期日を昭和18年4月5日、資本金を5,440万円と記す
参考文献[1]-[18]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]初代社長は野口遵氏。大正10年カザレー式特許買収のため渡欧(明治百年「これより先、大正一〇年野口遵氏がカザレー式特許買収のためヨーロッパに赴いた」)
- [2]イタリア人ルイギ・カザレー発明のカザレー式アンモニア合成法の特許を買収(明治百年「イタリア人ルイギ・カザレーの発明にかかるカザレー式アンモニア合成法の特許を買収し」)
- [3]渡欧時に人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入(明治百年「人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入」)
- [5]自家用水力発電所の電力で水を電解して得る水素と空気中から分離した窒素を直接合成。カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた(明治百年「これは自家用水力発電所の電力を利用し、水を電解して得られる水素と空気中から分離する窒素を直接合成するもので、カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた歴史的実験であった」)
- [6]大正13年(1924年)に大津工場を完成し操業開始(明治百年「同一三年には大津に工場を完成し操業を始めた」)
- [7]キュプラ糸ベンベルグの技術はドイツのベンベルグ社より導入(明治百年「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」)
- [9]1930年(昭和5年)日本窒素火薬を設立(明治百年「アンモニア利用は、さらに合成硝酸から火薬工業への進出となり、昭和五年日本窒素火薬を設立した」)
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)旭化成工業
- [4]ドイツのグランストッフ会社との提携による旭絹織の設立となって実を結び、1922年に滋賀県大津でビスコース人絹の製造を開始した。これはわが国で二番目に建設された人絹工場であった
- 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [8]1929年4月 日本ベンベルグ絹絲株式会社(キュプラ繊維「ベンベルグ」を製造・販売)設立。明治百年は「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」と記す
- [10]1931年5月21日 延岡アンモニア絹絲株式会社を設立(資本金1,000万円・現旭化成が法的連続性をもつ起点=公式設立)。明治百年も「昭和六年五月二一日延岡アンモニア(株)(これが同社の設立年月日である)」と記す
- [11]1933年7月 延岡アンモニア絹絲が日本ベンベルグ絹絲・旭絹織を合併し旭ベンベルグ絹絲と改称(三社合併)。明治百年も「昭和八年日本ベンベルグ絹糸と旭絹織の二社を合併し旭ベンベルグ絹絲(株)となった」と記す
- [12]1943年4月の合併後の社名は「日窒化学工業株式会社」(有報【沿革】「社名を日窒化学工業株式会社と改称」・系譜図も「日窒化学工業」・明治百年も「社名を日窒化学工業(株)と改めた」)。本文の「日本窒素化学工業」は一次資料の社名表記と不一致
- [17]1943年4月 日本窒素火薬を吸収合併し商号を日窒化学工業へ変更。火薬30年史は合併期日を昭和18年4月5日、資本金を5,440万円と記す
- 旭化成火薬30年史(旭化成工業, 1964年)第2節 旭化成工業株式会社と改称
- [13]日支事変ぼっ発以来、火薬および硝酸部門は活気を呈したが、人絹部門は国内経済体制の切り換えにより一大打撃を被った
- [14]昭和16年(1941年)以降、人絹工業は平和産業の銘を打たれ、資金も資材も最下位の取扱いを受けた
- [15]企業整備により大津工場は閉鎖され、人絹設備は解体されスクラップとして供出をよぎなくされた
- [16]旭ベンベルグ絹糸には3人の外国人重役がいたため法の改正がない限り両社の合併は不可能であったが、日支事変から大東亜戦争への進展で彼らが自国へ引き揚げ、合併の支障がなくなった
- [18]合併により延岡地区の6部門(薬品、ベンベルグ、レーヨン、火薬、雷管、プラスチック)が一体となり、同一社名のもとに統合された
1945年〜親会社の分離要求を押し返した延岡工場の部長たち
1945年12月8日、連合国軍総司令部は制限会社一覧表の設定に関する覚書を発表し、日窒化学工業も制限会社の指定を受けた。これに先立つ11月6日には主要財閥への解体が指令されており、1946年3月、親会社であった日本窒素肥料は、延岡工場のうち薬品部・ダイナマイト部・雷管部を日窒化学工業から分離して自社へ併合したい意向を表明した。6月27日、薬品部長の片桐考一氏をはじめとする4名が代表として東京へ向かった。携えていたのは延岡工場の各部長が緊急に集まって出した結論で、延岡工場は有機的に一体であって分離は理に合わず、外地から引き揚げてくる従業員の受け入れも自社で担う、という内容だった。一行は日本窒素肥料の榎並直三郎社長ら重役を個別に訪ね、部門同士の結びつきがいかに固いかを説いて回った。日本窒素肥料が4代表へ文書で回答したのは同じ年の7月3日で、保有する株式をすべて手放して親会社として支配する立場を解き、これに伴って分離の問題もおのずと消える、という中身だった。
- 旭化成火薬30年史(旭化成工業, 1964年)第2節 旭化成工業株式会社と改称
- [19]1945年12月8日、GHQが制限会社一覧表設定に関する覚書を発表し、当社も制限会社の指定を受けた
- [20]1945年11月6日、日本国内の主要財閥に対し解体が指令された
- [21]1946年3月、親会社の日本窒素肥料が、延岡工場のうち薬品部・ダイナマイト部・雷管部を日窒化学工業から分離して併合したい旨の意向を表明した
- [22]延岡工場各部長は緊急会議で、分離が不合理であること、延岡工場の有機一体性と財閥解体の趣旨、外地引揚げ従業員の受け入れを自社で遂行することを結論とした
- [23]薬品部長片桐考一、レーヨン部長浜田茂亨、電気部長松里亀代次、ダイナマイト部長坂口逸夫の4名が6月27日に上京し、日本窒素肥料の榎並直三郎社長・白石宗城副社長・野口寛取締役ら重役を個別に歴訪した
- [24]7月3日、日本窒素肥料は1946年4月1日付で所有する旭化成工業株式の全部を解放して親会社としての支配権を解消し、人事権・経営権のすべてを旭化成工業へ帰属させること、薬品部・ダイナマイト部・雷管部の分離問題は必然的に解消することを回答文書で手交した
1946年4月1日、日窒化学工業は社名を旭化成工業へ改め、財閥解体の趣旨にそって日窒コンツェルンから切り離された。1922年設立の旭絹織に由来する旭の一字は残し、日窒の名だけを商号から外している。改称の直前にあたる1946年2月には公職追放令が公布され、同年12月から社業に貢献した役員が逐次退社して、1947年6月には浜田茂亨氏を社長、片岡武修氏と片桐考一氏を専務とする陣容で再出発した。この新しい常務のなかに、のちに17年の長きにわたって社長を務める宮崎輝氏がいる。浜田社長が1948年1月に病死したため片岡武修氏が代表取締役となり、1949年1月に集中排除の指定が解け、同年6月には再建整備計画の認可を得て新旧勘定を併合した。資本金は1948年10月に2億円、1949年6月に7億円へ増え、同年5月には東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ株式を上場した。
- 旭化成火薬30年史(旭化成工業, 1964年)第2節 旭化成工業株式会社と改称
- [25]1946年4月1日、社名を旭化成工業株式会社と改称した
- [27]1946年2月にGHQ覚書により公職追放令が公布され、1946年12月より役員が逐次退社。1947年6月に取締役社長浜田茂亨、専務取締役片岡武修・片桐考一、常務取締役に江崎栄・植木善三郎・刈谷亨・宮崎輝らを置く陣容で再出発した
- [29]1948年1月21日に浜田茂亨社長が病死し、専務取締役片岡武修氏が代表取締役に就任、1949年1月31日に取締役社長へ就任した
- 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [26]1946年4月に社名を旭化成工業へ変更。旭の字は1922年設立の旭絹織に由来し、日窒の名のみが外された
- 日経ビジネス 1977年7月4日号 で経営の勝負がつく(宮崎輝氏)
- [28]宮崎輝氏は1934年に東大法学部を卒業して日本窒素肥料へ入社し、1947年3月に取締役、同5月に常務、1958年に専務、1961年に社長。1977年時点で社長歴17年
- 株式会社年鑑 1950年版 旭化成工業
- [30]1949年1月に集排指定解除、1949年6月に再建整備計画認可・新旧勘定併合、1949年7月21日に特経解除(1950年版時点では制限会社の指定が継続)
- [31]資本金は1948年10月に2億円、1949年6月に7億円へ増資。1949年5月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ上場
旭化成工業は占領政策にもとづく制約を克服しながら、ビスコース人絹・ベンベルグ絹糸・硫安・セルロイド・旭味などの各部門の設備を逐次復旧し、1950年3月には一応の復元を完了した。次いで各部門の拡充にともなう生産増加へ備えるため、1951年2月、五ヶ瀬川上流の水ケ崎に出力1万6千キロワットの、戦後の日本で最初となる自家発電所を完成させて全運転に入った。創業時に延岡を選ばせたのと同じ論理が、復興期にもう一度繰り返されたことになる。ベンベルグ部のハンク紡糸機の改良やダイナマイト部の増設も重なって、生産高はほとんど戦前最盛期の域に達した。1952年3月期の売上高は169億1,700万円、資本金は同年4月に24億5,000万円まで増え、戦前と同じ品目の構成を保ったまま会社は戦後の市場へ戻った。設備を作り直すよりも、電力という上流の条件を先に押さえたことが、復元を短い年数で終えられた理由であったのだろう。
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)旭化成工業
- [32]占領政策に基づく制約を克服しつつビスコース人絹、ベンベルグ絹糸、硫安、セルロイド、旭味その他各部門の諸設備を逐次復旧し、1950年3月に一応の復元を完了した
- [33]1951年2月、五ヶ瀬川上流の水ケ崎に出力1万6千キロワットの戦後わが国最初の自家発電所を完成、全運転を開始した
- [34]ベンベルグ部のハンク紡糸機の改良、ダイナマイト部の増設などにより生産高はほとんど戦前最盛期の域に達した
- 上場会社総覧 1956年版
- [35]1952年3月期の売上高は169.17億円(単体・上下期合算)
- 株式会社年鑑 1960年版 旭化成工業
- [36]1952年4月に資本金が24億5,000万円へ増資された(1952年1月に14億円、同年4月に24億5,000万円)
参考文献[19]-[36]
- 旭化成火薬30年史(旭化成工業, 1964年)第2節 旭化成工業株式会社と改称
- [19]1945年12月8日、GHQが制限会社一覧表設定に関する覚書を発表し、当社も制限会社の指定を受けた
- [20]1945年11月6日、日本国内の主要財閥に対し解体が指令された
- [21]1946年3月、親会社の日本窒素肥料が、延岡工場のうち薬品部・ダイナマイト部・雷管部を日窒化学工業から分離して併合したい旨の意向を表明した
- [22]延岡工場各部長は緊急会議で、分離が不合理であること、延岡工場の有機一体性と財閥解体の趣旨、外地引揚げ従業員の受け入れを自社で遂行することを結論とした
- [23]薬品部長片桐考一、レーヨン部長浜田茂亨、電気部長松里亀代次、ダイナマイト部長坂口逸夫の4名が6月27日に上京し、日本窒素肥料の榎並直三郎社長・白石宗城副社長・野口寛取締役ら重役を個別に歴訪した
- [24]7月3日、日本窒素肥料は1946年4月1日付で所有する旭化成工業株式の全部を解放して親会社としての支配権を解消し、人事権・経営権のすべてを旭化成工業へ帰属させること、薬品部・ダイナマイト部・雷管部の分離問題は必然的に解消することを回答文書で手交した
- [25]1946年4月1日、社名を旭化成工業株式会社と改称した
- [27]1946年2月にGHQ覚書により公職追放令が公布され、1946年12月より役員が逐次退社。1947年6月に取締役社長浜田茂亨、専務取締役片岡武修・片桐考一、常務取締役に江崎栄・植木善三郎・刈谷亨・宮崎輝らを置く陣容で再出発した
- [29]1948年1月21日に浜田茂亨社長が病死し、専務取締役片岡武修氏が代表取締役に就任、1949年1月31日に取締役社長へ就任した
- 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [26]1946年4月に社名を旭化成工業へ変更。旭の字は1922年設立の旭絹織に由来し、日窒の名のみが外された
- 日経ビジネス 1977年7月4日号 で経営の勝負がつく(宮崎輝氏)
- [28]宮崎輝氏は1934年に東大法学部を卒業して日本窒素肥料へ入社し、1947年3月に取締役、同5月に常務、1958年に専務、1961年に社長。1977年時点で社長歴17年
- 株式会社年鑑 1950年版 旭化成工業
- [30]1949年1月に集排指定解除、1949年6月に再建整備計画認可・新旧勘定併合、1949年7月21日に特経解除(1950年版時点では制限会社の指定が継続)
- [31]資本金は1948年10月に2億円、1949年6月に7億円へ増資。1949年5月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ上場
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)旭化成工業
- [32]占領政策に基づく制約を克服しつつビスコース人絹、ベンベルグ絹糸、硫安、セルロイド、旭味その他各部門の諸設備を逐次復旧し、1950年3月に一応の復元を完了した
- [33]1951年2月、五ヶ瀬川上流の水ケ崎に出力1万6千キロワットの戦後わが国最初の自家発電所を完成、全運転を開始した
- [34]ベンベルグ部のハンク紡糸機の改良、ダイナマイト部の増設などにより生産高はほとんど戦前最盛期の域に達した
- 上場会社総覧 1956年版
- [35]1952年3月期の売上高は169.17億円(単体・上下期合算)
- 株式会社年鑑 1960年版 旭化成工業
- [36]1952年4月に資本金が24億5,000万円へ増資された(1952年1月に14億円、同年4月に24億5,000万円)
1952年〜塩素の始末から生まれた合繊と、カシミロンの限界
戦後の新規事業として旭化成工業が選んだのは、苛性ソーダの副生品である塩素を使い切るための塩化ビニリデンであった。同社はかねてこの合理化を課題として試験研究を続けており、1952年3月に米国ダウ・ケミカル社と技術提携契約を結び、同年7月には両社の共同出資で旭ダウを設立した。1953年9月には延岡に原料工場、鈴鹿に紡糸工場を建設して塩化ビニリデンの日産5トン工事を完成させ、製品はサランの商標で発売された。この旭ダウで塩化ビニールやスチレンといった近代化学製品を試行錯誤しながら手がけた経験が、宮崎輝氏に繊維産業だけではとても食べていけないという確信を与えた。副生物の始末という後ろ向きの動機から入った事業が、結果として石油化学への最初の足場になった。当時の社内には新しい事業へ向かう空気がなく、宮崎氏は銀行から何かやりなさいと注意されるほどであったという。
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)旭化成工業
- [37]戦後の新規事業として新合成繊維サランへ進出。かねて苛性ソーダの副生品塩素の合理化として塩化ビニリデンに着目し試験研究を行っていた
- [38]1952年3月に米国ダウ・ケミカル社と技術提携契約を締結し、同年7月に両社の共同出資で旭ダウを設立した
- [39]1953年9月に原料工場(延岡)・紡糸工場(鈴鹿)を建設し塩化ビニリデン日産5トン工事を完成、製品は「サラン」の商標名で発売した
- 日経ビジネス 1977年7月4日号 で経営の勝負がつく(宮崎輝氏)
- [40]宮崎輝氏は旭ダウを設立し試行錯誤で塩化ビニールやスチレンなどの近代化学製品を手がけたときに、繊維産業だけではとても食べていけないと痛感したと述べた
- [41]宮崎輝氏は、当時の社内が新しいことをやる空気にならなかったため、銀行から何かやりなさいよと注意されるほどだったと述べた
1952年12月、旭化成工業は旧軍火薬廠を活用する機運に乗じて、大分県坂ノ市町にあった旧東京第二陸軍造兵廠坂ノ市製造所の施設払下げを受け、月産350トンの無煙火薬の生産を再開している。1953年3月には米国で唯一のベンベルグ絹糸製造会社であるボーニット・ミルズ社と技術提携契約を結び、ホフマン式ベンベルグ絹糸連続紡糸法を導入した。売上高は1952年3月期の169億1,700万円から1955年3月期には216億1,400万円へ伸び、1954年9月末の従業員は16,055人を数えた。既存の繊維と火薬で稼ぎながら、その利益を新しい繊維へ充当する構図がこの時期に定まり、1955年に技術を確立したアクリル繊維カシミロンは1958年秋から市販へ移った。
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)旭化成工業
- [42]1952年12月、旧軍火薬廠活用の機運に乗じて大分県坂ノ市町の旧東京第二陸軍造兵廠坂ノ市製造所の施設払下げを受け、月産350トンの無煙火薬の生産を再開した
- [43]1953年3月、米国唯一のベンベルグ絹糸製造会社ボーニット・ミルズ社と技術提携契約を締結し、ホフマン式ベンベルグ絹糸連続紡糸法を導入した
- 上場会社総覧 1956年版
- [44]売上高は1952年3月期169.17億円、1955年3月期216.14億円(いずれも単体・上下期合算)
- 株式会社年鑑 1955年版 旭化成工業
- [45]1954年9月末時点の従業員は16,055人
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [46]アクリル繊維「カシミロン」は1955年に技術を確立し、1958年秋から市販を開始した旭化成工業の新規自社製品
1961年5月、読売新聞は合繊業界の供給過剰と増設競争の激化を報じた。レーヨンとベンベルグの競争力はポリエステルの台頭で落ち、立ち上がったばかりのカシミロンも安定した収益源になっていなかった。1952年3月期に169億1,700万円だった売上高は、1961年3月期には448億8,000万円と2.6倍になった。ただし伸びたのはほぼ化学繊維である。配当2割5分、株価460円ほどと業績が好調なうちから、新たな収益源づくりは宮崎輝氏が抱えていた課題だった。先代が築いた繁栄に長くもたれかかってきた、という認識がその出発点にある。1961年7月に代表取締役社長となった同氏は、繊維の利益で埋められる範囲なら新規事業の赤字を計画的に受け入れると方針を定めた。一方で、戦前からの事業の並びを戦後もそのまま受け継いだことは、化学繊維の景気の波を一社で正面から浴びる構造を温存することにもなった。
- 読売新聞(1961年5月25日)
- [47]1961年5月、読売新聞が合繊業界の供給過剰と増設競争の激化を報じた
- ダイヤモンド(1964年6月29日)
- [48]合成繊維の供給過剰でレーヨン・ベンベルグの競争力が落ち、1959年5月に本格生産を開始したカシミロンも安定した収益源になっていなかった
- [51]1961年7月、宮崎輝氏が代表取締役社長に就任し、繊維事業の利益の範囲内で新規事業の赤字を計画的に許容する方針を掲げた
- 会社年鑑 1963年版
- [49]売上高は1952年3月期169.17億円、1961年3月期448.8億円(いずれも単体・上下期合算)
- 日経ビジネス 1977年7月4日号 で経営の勝負がつく(宮崎輝氏)
- [50]宮崎輝氏は、配当が2割5分で株価が460円ぐらいしていた時代から新しいことをやるべきだと考えていた、先輩の遺産に安住して繁栄をおう歌した時代が長かったと述べた
参考文献[37]-[51]
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)旭化成工業
- [37]戦後の新規事業として新合成繊維サランへ進出。かねて苛性ソーダの副生品塩素の合理化として塩化ビニリデンに着目し試験研究を行っていた
- [38]1952年3月に米国ダウ・ケミカル社と技術提携契約を締結し、同年7月に両社の共同出資で旭ダウを設立した
- [39]1953年9月に原料工場(延岡)・紡糸工場(鈴鹿)を建設し塩化ビニリデン日産5トン工事を完成、製品は「サラン」の商標名で発売した
- [42]1952年12月、旧軍火薬廠活用の機運に乗じて大分県坂ノ市町の旧東京第二陸軍造兵廠坂ノ市製造所の施設払下げを受け、月産350トンの無煙火薬の生産を再開した
- [43]1953年3月、米国唯一のベンベルグ絹糸製造会社ボーニット・ミルズ社と技術提携契約を締結し、ホフマン式ベンベルグ絹糸連続紡糸法を導入した
- 日経ビジネス 1977年7月4日号 で経営の勝負がつく(宮崎輝氏)
- [40]宮崎輝氏は旭ダウを設立し試行錯誤で塩化ビニールやスチレンなどの近代化学製品を手がけたときに、繊維産業だけではとても食べていけないと痛感したと述べた
- [41]宮崎輝氏は、当時の社内が新しいことをやる空気にならなかったため、銀行から何かやりなさいよと注意されるほどだったと述べた
- [50]宮崎輝氏は、配当が2割5分で株価が460円ぐらいしていた時代から新しいことをやるべきだと考えていた、先輩の遺産に安住して繁栄をおう歌した時代が長かったと述べた
- 上場会社総覧 1956年版
- [44]売上高は1952年3月期169.17億円、1955年3月期216.14億円(いずれも単体・上下期合算)
- 株式会社年鑑 1955年版 旭化成工業
- [45]1954年9月末時点の従業員は16,055人
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [46]アクリル繊維「カシミロン」は1955年に技術を確立し、1958年秋から市販を開始した旭化成工業の新規自社製品
- 読売新聞(1961年5月25日)
- [47]1961年5月、読売新聞が合繊業界の供給過剰と増設競争の激化を報じた
- ダイヤモンド(1964年6月29日)
- [48]合成繊維の供給過剰でレーヨン・ベンベルグの競争力が落ち、1959年5月に本格生産を開始したカシミロンも安定した収益源になっていなかった
- [51]1961年7月、宮崎輝氏が代表取締役社長に就任し、繊維事業の利益の範囲内で新規事業の赤字を計画的に許容する方針を掲げた
- 会社年鑑 1963年版
- [49]売上高は1952年3月期169.17億円、1961年3月期448.8億円(いずれも単体・上下期合算)
筆者考察
旭化成の事業構成は、新しい市場を探して広げたものではなく、一つの原料の使い道を数え上げた結果できている。野口遵氏が1923年に宮崎県延岡へ据えたのはカザレー式のアンモニア合成炉で、そこから出るアンモニアは、肥料へ回せば硫安、繊維へ回せばベンベルグ絹糸、硝酸に変えれば火薬になった。五ヶ瀬川の水力発電がその全部を賄っていたから、使い道を増やすほど発電所は無駄なく回る。延岡という一つの土地に部門を積み上げる構造は、多角化という言葉で説明される前に、原料と電力を使い切るための算段として選ばれていた。1931年に硫安工場が延岡アンモニア絹糸として独立し、1933年に人絹の二社を吸収したのも、同じ算段を会社の形へ写した手続きであった。
1946年に日窒の名を商号から外したとき、会社に残ったのはこの積み上げの全部だった。親会社の日本窒素肥料は薬品部・ダイナマイト部・雷管部を引き取ろうとしたが、延岡工場の部長たちは工場が有機的な一体であることを理由にこれを拒み、4人が東京へ出向いて重役を歴訪している。切り離しを免れた6部門は、そのまま戦後の旭化成工業が同時に抱える事業の一覧になった。ただし一つの原料から派生した事業は、その原料が属する産業の循環も一緒に受け取る。1961年に合繊の増設競争が供給過剰を招いたとき、レーヨンもベンベルグも、市販を始めたばかりのカシミロンも同じ方向へ傾いた。宮崎輝氏が社長として最初に引き受けたのは、この同調をどう断つかという問題であった。
- 棒はすべて単体・上下期の合算。1956年3月期は手元に数値が無い。
- 出所は1955年3月期までが上場会社総覧 1956年版、1957年3月期と1958年3月期が同1959年版、1959年3月期以降が会社年鑑 1963年版。
1923年〜1961年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | 169 | n/a | 32 | 27 | 16.1% | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 158 | ▲6.3% | 21 | 17 | 10.9% | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 192 | +21.3% | 34 | 23 | 12.4% | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 216 | +12.4% | 31 | 23 | 11.0% | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 256 | n/a | 42 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 230 | ▲10.0% | 26 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 263 | +14.4% | n/a | n/a | n/a | ニューヨーク事務所を開設(1959) |
| 1960年03月期 | 単体 | 365 | +38.6% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 448 | +22.8% | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:上場会社総覧 1956年版、上場会社総覧 1959年版、会社年鑑 1963年版
出典・参考
12件
- 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- 旭化成火薬30年史(旭化成工業, 1964年)第2節 旭化成工業株式会社と改称
- 株式会社年鑑 1950年版 旭化成工業
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)旭化成工業
- 株式会社年鑑 1955年版 旭化成工業
- 上場会社総覧 1956年版
- 株式会社年鑑 1960年版 旭化成工業
- 会社年鑑 1963年版
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- ダイヤモンド(1964年6月29日)
- 日経ビジネス 1977年7月4日号 で経営の勝負がつく(宮崎輝氏)
- 読売新聞(1961年5月25日)