生ビール全国発売でキリンに挑む(1977年・サッポロビールの決断)

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論点 味で差がつかない市場で何を打ち出すか
サッポロビール:業績の推移
売上高(億円)当期純利益率(%)
「サッポロびん生」を旗艦に据え、瓶の主力を生へ移行する全面転換

何をなぜ決めたか:「サッポロびん生」を旗艦に据え、瓶の主力を生へ移行する全面転換

概要

シェア低落が続いていたサッポロビールが、1977年4月に熱処理をしないびん詰め生ビール"サッポロびん生"を全国発売し、広告・設備投資・販売力を"生"に集中してキリンビール独走の市場構造に挑んだ経営判断。営業の先頭で路線を引っぱった河合滉二氏が1978年2月に社長へ就任した。

背景

1949年の大日本麦酒分割時、日本麦酒(のちのサッポロビール)はシェア39%の首位で再出発したが、戦前ブランドを捨てた失敗が響いて1954年にキリンに抜かれ、以後は低落の一途をたどった。高濃度ビールや低アルコールビール、ヱビス復活といった差別化商品はことごとく実らず、シェアは20%前後に沈んでいた。

内容

北海道・名古屋・大阪でのテスト販売の手応えを確かめたうえで1977年4月に全国発売し、初年度は予定の2倍にあたる800万ケースを売った。翌年には広告を生ビールに集中し、当時なお8割近くを占めたラガーに見切りをつけた。ラベルも伝統の赤星から黒へ転換し、社内の反発を押し切った。

含意

味をいじる正攻法の差別化で首位に対し競争劣位に立ち続けた2番手が、"生か熱処理か"というカテゴリーの再定義で首位の土俵を変えようとした試みであった。1980年に生ビール市場の39%を握って首位に立ち、1981年には過去最高業績を見込むまでになったが、キリンとの逆転には届かず、"生"の土俵はのちにアサヒビールに奪われることになる。

いつ何が起きたか 9件
考察:カテゴリーを創出した者が、それを守れるとは限らない
考察

考察:カテゴリーを創出した者が、それを守れるとは限らない

この判断の要諦は、商品の中身ではなく市場の切り口を変えた点にあるとみられる。ファイブスターもライトもヱビスも、キリンのラガーが作った嗜好の土俵の上で味を競い、キリンラガーに対し競争劣位に立った。びん生はラガーと原料も醸造法もほぼ同じで、熱処理をするかどうかの僅少差しかない。だがその僅少差を"生はビールの原点"という物語に仕立て、広告・設備・販売員をそこへ集中したことで、キリンが持たない土俵が生まれた。指名買いの厚い首位に正面から挑まず、拒否率の低い領域で戦場を再定義する——2番手企業の定石を、これほど徹底して実行した例は同時代でも多くなかったといえる。

ただし、その後の展開は、カテゴリーを作った者がそれを守り切れるとは限らないことも示している。サッポロが育てた"ビールは生"といううねりは市場全体の嗜好を動かし、1987年にアサヒビールが投じたスーパードライは、生であることを前提に"辛口"という次の切り口を重ねて市場を席巻した。首位奪取の夢は成らず、サッポロは1988年にドライ・ショックへの対応を迫られる側に回る。土俵を変えて挑んだ者が、変わり続ける土俵に追い越されていく——生ビール戦争の顛末は、差別化戦略の成功がいつまで持続するのかという問いを、いまも投げかけている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月
参考文献

参考文献

参考
  • 日経ビジネス 1977年4月11日号
  • 日経ビジネス 1978年7月31日号
  • 日経ビジネス 1981年9月21日号
  • サッポロビール「歴史・沿革」(https://www.sapporobreweries.com/company/history/)
  • サッポロビール 会社年鑑(1986年版・単体業績)

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