アサヒ「スーパードライ」台頭への反攻と、看板・黒ラベルを捨てる賭け
「生」の主導権を奪われたサッポロは、なぜ長年の2位から3位へ転落したのか
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- 概要
- 1987年に発売されたアサヒ「スーパードライ」の大ヒットでビール市場が一変するなか、業界2位のサッポロビールが看板の黒ラベルを一度終売してまで潮流に追随し、結果として1989年にアサヒへ2位を明け渡して3位へ転落した一連の経営判断。1988年末の「大衆回帰」路線から1990年代の反攻まで、面的に続いた。
- 背景
- 二社分割以来、サッポロはキリンに次ぐ2位を「生ビール」路線で守ってきた。ところが、その生の主導権を、辛口の生という顔をまとったスーパードライが奪い、攻めの拠り所そのものが揺らいだ。
- 内容
- 1988年末に「大衆回帰」を掲げ、翌1989年2月には主力の黒ラベルを終売してサッポロドラフトへ全面切替。愛飲者の抗議で半年後に黒ラベルを復活させた後も、新・黒ラベルや物流革命、発泡酒ブロイで反攻を続けた。
- 含意
- 反攻は順位の壁を崩せず、発泡酒を含めたシェアは過去最低の約16%へ沈んだ。攻めの2番手は守りの3番手として定着し、低収益の本業を不動産収益が支える構図が固まっていった。
攻めの2番手が、守りの3番手になった
サッポロの反攻がなぜ実らなかったのかを考えると、皮肉な構図が浮かぶ。同社が長く拠り所にしてきたのは「生ビールのトップブランド」という自負であり、その旗のもとで二位を守ってきた。ところが同じ生の、辛口という新しい顔をまとったスーパードライが、その旗ごと大衆をさらっていった。奪われた側が慌てて看板を替え、最も売れている黒ラベルまで捨てた判断は、追随の焦りが招いた一手だったようにみえる。攻めの二番手が守りの三番手へ転じた歩みが、この十年に凝縮されているようにみえる。
もっとも、順位だけでこの十年を測ることはできないのかもしれない。一度は捨てられた黒ラベルは、のちに「十年がかりでよみがえった」と語られるほど時間をかけて再建された。市場の潮流にどこまで合わせ、自らのブランドの一貫性をどこまで守るのか——その線引きの難しさは、いまも各社に共通している。三位に沈む間に厚みを増した不動産の含み益が、のちに買収者やアクティビストの視線を招く伏線になった点まで含めて、この反攻の帰趨はサッポロのその後を静かに規定していったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
二社分割が刻んだ「2番手」の宿命
サッポロビールの立ち位置は、戦後の解体で決まった。1949年の過度経済力集中排除法により、戦前に業界の約75%を握っていた大日本麦酒は、日本麦酒(のちのサッポロビール)と朝日麦酒に二分される。日本麦酒はヱビス・サッポロの商標を継いだものの、発足を機に戦前ブランドを封印し、新商標「ニッポンビール」で再出発した。分割は市場を三社体制へ移し、指名買いの記憶を自ら断つ選択が、その後の順位を長く縛っていった[1]。
分割の果実を得たのは、対象から外れた麒麟麦酒であった。サッポロと朝日が互いの地盤を食い合う間に、キリンは間隙を突いてシェアを伸ばし、独走へ入る。合併して対抗する構想は前後二度持ち上がっていずれも流れ、サッポロはキリンに次ぐ二位を保ちながらも、そのおこぼれにあずかる構造から抜け出せずにいた。敗軍の将という自嘲が、業界に長く染みついていた[2][3]。
「生」に賭けた攻めと、その旗を奪われた日
二位に甘んじる体質を破ろうと、サッポロは「生ビール」に社運を賭けた。1977年のびん生(のちの黒ラベル)を軸に、ラガーから生への嗜好変化を先取りする路線を鮮明にする。1981年には生ビールのトップブランドを掲げて首位奪取を宣言し、河合滉二社長は「生ビール以外に生きる道はない」と言い切った。攻めの二番手という自負が、ようやく社内に芽生えていた[4]。
ところが、その「生」の旗を、1987年に発売されたアサヒの「スーパードライ」が奪い去った。辛口の生という新しい価値が大衆をつかみ、他社も追随して「ドライ戦争」と呼ばれる商品競争が起きる。生ビールで先行しているという拠り所そのものが揺らぎ、二位のサッポロは足元から突き上げられた。市場の主導権は、攻めていたはずの側から静かに滑り落ちていった[5]。
決断
「大衆回帰」と、黒ラベルを捨てる賭け
ドライの奔流を前に、サッポロは看板そのものに手を入れる決断へ傾いた。1988年末には「大衆回帰」を掲げて商品・営業の路線を切り替え、翌1989年2月には主力の黒ラベルを突如終売し、新しい生「サッポロドラフト」へ全面的に置き換える。生の主導権を取り戻すために、最も売れている商品を捨ててでも潮流の側へ回り込む——営業主導の体制がとった、大きな賭けであった[6]。
賭けは裏目に出た。「どうして黒ラベルを捨てたのか」という抗議が愛飲者から噴き出し、切り替えからわずか半年後の9月、サッポロは黒ラベルの復活発売に追い込まれる。同時代の誌面は、この全面切り替えを「痛い経営ミス」と切って捨てた。潮流を追うつもりが、自ら育てた指名買いの客を裏切る形になり、反攻の最初の一手はつまずいた[7]。
順位の転落
看板を揺らした代償は、順位に表れた。スーパードライで勢いづいたアサヒは、二位のサッポロを抜き去る。1989年のサッポロのシェアは前年から低下して18.6%となり、キリン、アサヒに次ぐ三位へ落ちた。二社分割以来まもなく四十年、キリンの背中だけを追ってきたサッポロは、生の辛口という一商品に、長く守ってきた序列を明け渡した[8]。
転落は、一度きりの取りこぼしではなかった。一商品の当たり外れが順位を塗り替えるのが、銘柄を隠すと飲み分けにくいビール市場の特徴であり、スーパードライがアサヒを一変させたことは、その典型であった。生の主導権という無形の資産を明け渡したサッポロにとって、いったん開いたアサヒとの差を詰め直すのは、単発の新商品ではもう届かない課題になっていった[9]。
結果
反攻の空転——1997「夏の陣」の完敗
順位を戻すための反攻は、その後も空回りを続けた。1987年の発売から十年、スーパードライは伸び続け、1997年1月にはアサヒが月間出荷でキリンを抜き、四十四年ぶりの首位に立つ。夏の商戦でもアサヒの独り勝ちは動かず、7月のビール出荷はアサヒが前年同月比7.2%増、キリンが14.7%減、サッポロも3.5%減と明暗が分かれた。1〜7月の累計シェアでは、アサヒのスーパードライが30.8%に達し、サッポロの黒ラベルは13.0%にとどまった[10]。
サッポロも手をこまねいていたわけではない。1997年1月末に「新・黒ラベル」を刷新し、大型冷蔵庫を備えたトラックなど九百台を投じる「物流革命」で鮮度を訴えた。9月1日の創立記念日、枝元賢造社長は朝礼で「新・黒ラベルの拡販にすべてをかける。失敗すればサッポロに明日はない」と社員に訴えるつもりだと語った。だが同社のビール事業全体は前年実績を6%下回ったまま、反攻の手応えは乏しかった[11]。
三番手の定着
そして翌1998年、上位二社の争いにかすむ三番手という位置がいよいよ固まる。発泡酒を含めたサッポロのシェアは過去最低の約16%へ沈み、1〜10月の販売数量は前年同期比13%減と、下げ止まりの気配すら見えなかった。四千二百億円という重い有利子負債を抱えるなか、サッポロは発泡酒「ブロイ」に起死回生を託したが、それは看板の黒ラベルではなく、別カテゴリーで活路を探る一手であった[12]。
反攻の十年は、順位の壁を崩せなかった。ドライへの追随で看板を揺らし、利益重視で足踏みし、発泡酒でも上位二社の後塵を拝する——スーパードライ以前に保っていた二位を、サッポロはついに取り戻せずにいた。低収益の本業を、恵比寿工場跡地に開いた恵比寿ガーデンプレイスの不動産収益が下支えする構図も、この三位定着と表裏で進んでいった[13]。
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編, 1968)サッポロビールの項
- 週刊東洋経済 1972年3月25日号「独走麒麟麦酒の酔えない事情」
- 日経ビジネス 1977年4月11日号「後手に回ったキリン打倒策・内多蔵人」
- 日経ビジネス 1981年9月21日号「サッポロビールの首位奪取作戦スタディ」
- 日経ビジネス 1988年12月5日号「サッポロビール ドライ・ショックで大衆回帰」
- 日経ビジネス 1997年9月1日号「ビール“夏の陣”で完敗 『アサヒ包囲網』の迷走」
- 週刊東洋経済 1998年11月28日号「サッポロビール 低シェアの中、発泡酒に賭けるが…上位二社の争いにかすむ三番手」
- PRESIDENT Online(2023年7月18日)「『苦くないビール』という市場が爆誕した…『アサヒスーパードライ』が35年以上も最強ブランドであるワケ」
- 日経ビジネス電子版(2020年12月28日)「サッポロビール社長、黒ラベルは『10年がかりでよみがえった』」