第1章 年〜年

東急:目黒蒲田電鉄の設立と田園都市の合併

1922年〜渋沢栄一氏の田園都市会社から分かれた資本金350万円の目黒蒲田電鉄と、震災後の田園調布

田園都市会社は1922年9月、鉄道部門を分離して資本金350万円の目黒蒲田電鉄を設立。田園都市会社は、荏原郡の洗足・大岡山・多摩川台の3地区を分譲する計画のもと、1918年に渋沢栄一氏らが設けた土地会社である。鉄道の免許は得たものの、経営陣に鉄道の専門家がおらず、建設は進まなかった。第一生命の矢野恒太氏が人選を相談すると、小林一三氏は武蔵電気鉄道常務の五島慶太氏を推し、五島慶太氏が専務に就任した。小林一三氏は、先に鉄道を建設して45万坪を売却すれば資金ができ、その資金で武蔵電気鉄道を建設すればよいと五島慶太氏に説いた。宅地の売却益で電鉄を成り立たせる箕面有馬電気軌道の型を、東京の郊外へ移す人選だったとみられる。

  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 田園都市業の創始」
    • [1]田園都市会社は1918年9月に渋沢栄一らが設立。洗足・大岡山・多摩川台の3地区で分譲。1922年9月に電鉄部門を分離し目黒蒲田電鉄を設立、創立資本金350万円
    • [2]田園都市会社は1918年9月に渋沢栄一らが設立。洗足・大岡山・多摩川台の3地区で分譲。1922年9月に電鉄部門を分離し目黒蒲田電鉄を設立、創立資本金350万円
    • [4]五島慶太は武蔵電気鉄道常務から矢野恒太・小林一三の勧めで田園都市会社の鉄道建設へ。1922年10月2日の臨時株主総会で社長竹田政智・専務五島慶太を選任
  • 私の履歴書 五島慶太(日本経済新聞・経済人1)
    • [3]荏原電鉄は素人ばかりで進まず、渋沢栄一が矢野恒太に相談。小林一三は五島慶太に荏原電鉄を先に建設し45万坪を売れば資金になる、その金で武蔵電鉄をやれと助言
    • [5]荏原電鉄は素人ばかりで進まず、渋沢栄一が矢野恒太に相談。小林一三は五島慶太に荏原電鉄を先に建設し45万坪を売れば資金になる、その金で武蔵電鉄をやれと助言

目黒蒲田電鉄は1923年3月に目黒〜丸子間を開業し、同年11月に丸子〜蒲田間も開業して目蒲線を全通させた。開業に先立つ1922年6月、田園都市会社は洗足地区の18万1,500平方メートルを売り出し、約80%がすぐに予約された。第2回の多摩川台地区10万5,600平方メートルの売り出しは1923年8月で、関東大震災はその翌9月である。震災で目黒蒲田電鉄は8日間休業したものの、政府補助金6万4,124円を加えて同期から5%の配当を始めた。震災後、焼け出された都心の住民が目蒲線沿線へ次々に移り住み、目黒蒲田電鉄の業績は急速に上向いた。多摩川台地区の最寄り駅だった調布は、1926年1月に駅名を田園調布へ改めた。

  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 田園都市業の創始」
    • [6]洗足地区の第1回分譲は1922年6月、18万1,500㎡の約80%が予約済み。1923年8月に多摩川台地区10万5,600㎡を売出し。目蒲線は1923年3月目黒〜丸子、11月丸子〜蒲田開通。震災後に沿線への移住者が激増。調布駅は1926年1月に田園調布と改称
    • [7]洗足地区の第1回分譲は1922年6月、18万1,500㎡の約80%が予約済み。1923年8月に多摩川台地区10万5,600㎡を売出し。目蒲線は1923年3月目黒〜丸子、11月丸子〜蒲田開通。震災後に沿線への移住者が激増。調布駅は1926年1月に田園調布と改称
    • [8]洗足地区の第1回分譲は1922年6月、18万1,500㎡の約80%が予約済み。1923年8月に多摩川台地区10万5,600㎡を売出し。目蒲線は1923年3月目黒〜丸子、11月丸子〜蒲田開通。震災後に沿線への移住者が激増。調布駅は1926年1月に田園調布と改称
    • [11]洗足地区の第1回分譲は1922年6月、18万1,500㎡の約80%が予約済み。1923年8月に多摩川台地区10万5,600㎡を売出し。目蒲線は1923年3月目黒〜丸子、11月丸子〜蒲田開通。震災後に沿線への移住者が激増。調布駅は1926年1月に田園調布と改称
  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 鉄道業の充実」
    • [9]1923年下期、関東大震災で8日間休業。政府補助金6万4,124円の交付で利益6万9,078円を計上し5%配当を開始
  • 私の履歴書 五島慶太(日本経済新聞・経済人1)
    • [10]目蒲電鉄は1923年11月に全線開通、震災で都心を焼け出された人が沿線へ移住し業績が挙がった

目黒蒲田電鉄は1924年、震災で損害を受けた蔵前の東京高等工業学校(現東京工業大学)を大岡山へ移転させた。田園都市会社が大岡山地区に持つ30万平方メートルと、蔵前の校地4万平方メートルを、日本勧業銀行が算定した価格で交換した。同じ時期には小山駅前で府立第八中学校(現都立小山台高校)も開校。1924年上期の伸びは前期と比べて乗客数が2倍余り、旅客収入が約8割、総収入が2倍1分にのぼる。1925年に入っても、東京高等工業の移転と沿線住宅の増加を背景に、目黒蒲田電鉄の営業成績は急に上向いていた。通学の定期客は住宅の売れ行きに左右されにくく、郊外線の乗客を底上げする需要になったと推察される。

  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 鉄道業の充実」
    • [12]1924年、大岡山地区の社有地30万㎡と東京高等工業学校の敷地4万㎡を日本勧業銀行の評価で交換し移転。府立第八中学校も小山駅前に開校。1924年上期報告書で乗客2倍余、旅客収入約8割増、総収入2倍1分増
    • [13]1924年、大岡山地区の社有地30万㎡と東京高等工業学校の敷地4万㎡を日本勧業銀行の評価で交換し移転。府立第八中学校も小山駅前に開校。1924年上期報告書で乗客2倍余、旅客収入約8割増、総収入2倍1分増
    • [14]1924年、大岡山地区の社有地30万㎡と東京高等工業学校の敷地4万㎡を日本勧業銀行の評価で交換し移転。府立第八中学校も小山駅前に開校。1924年上期報告書で乗客2倍余、旅客収入約8割増、総収入2倍1分増
    • [15]1924年、大岡山地区の社有地30万㎡と東京高等工業学校の敷地4万㎡を日本勧業銀行の評価で交換し移転。府立第八中学校も小山駅前に開校。1924年上期報告書で乗客2倍余、旅客収入約8割増、総収入2倍1分増
  • 週刊東洋経済 1925年9月19日号(抜き書き)
    • [16]震災後、大岡山への東京高等工業の移転と沿線住宅の発展で目黒蒲田電鉄の営業成績が急に好転
参考文献[1]-[16]
  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 田園都市業の創始」
    • [1]田園都市会社は1918年9月に渋沢栄一らが設立。洗足・大岡山・多摩川台の3地区で分譲。1922年9月に電鉄部門を分離し目黒蒲田電鉄を設立、創立資本金350万円
    • [2]田園都市会社は1918年9月に渋沢栄一らが設立。洗足・大岡山・多摩川台の3地区で分譲。1922年9月に電鉄部門を分離し目黒蒲田電鉄を設立、創立資本金350万円
    • [4]五島慶太は武蔵電気鉄道常務から矢野恒太・小林一三の勧めで田園都市会社の鉄道建設へ。1922年10月2日の臨時株主総会で社長竹田政智・専務五島慶太を選任
    • [6]洗足地区の第1回分譲は1922年6月、18万1,500㎡の約80%が予約済み。1923年8月に多摩川台地区10万5,600㎡を売出し。目蒲線は1923年3月目黒〜丸子、11月丸子〜蒲田開通。震災後に沿線への移住者が激増。調布駅は1926年1月に田園調布と改称
    • [7]洗足地区の第1回分譲は1922年6月、18万1,500㎡の約80%が予約済み。1923年8月に多摩川台地区10万5,600㎡を売出し。目蒲線は1923年3月目黒〜丸子、11月丸子〜蒲田開通。震災後に沿線への移住者が激増。調布駅は1926年1月に田園調布と改称
    • [8]洗足地区の第1回分譲は1922年6月、18万1,500㎡の約80%が予約済み。1923年8月に多摩川台地区10万5,600㎡を売出し。目蒲線は1923年3月目黒〜丸子、11月丸子〜蒲田開通。震災後に沿線への移住者が激増。調布駅は1926年1月に田園調布と改称
    • [11]洗足地区の第1回分譲は1922年6月、18万1,500㎡の約80%が予約済み。1923年8月に多摩川台地区10万5,600㎡を売出し。目蒲線は1923年3月目黒〜丸子、11月丸子〜蒲田開通。震災後に沿線への移住者が激増。調布駅は1926年1月に田園調布と改称
  • 私の履歴書 五島慶太(日本経済新聞・経済人1)
    • [3]荏原電鉄は素人ばかりで進まず、渋沢栄一が矢野恒太に相談。小林一三は五島慶太に荏原電鉄を先に建設し45万坪を売れば資金になる、その金で武蔵電鉄をやれと助言
    • [5]荏原電鉄は素人ばかりで進まず、渋沢栄一が矢野恒太に相談。小林一三は五島慶太に荏原電鉄を先に建設し45万坪を売れば資金になる、その金で武蔵電鉄をやれと助言
    • [10]目蒲電鉄は1923年11月に全線開通、震災で都心を焼け出された人が沿線へ移住し業績が挙がった
  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 鉄道業の充実」
    • [9]1923年下期、関東大震災で8日間休業。政府補助金6万4,124円の交付で利益6万9,078円を計上し5%配当を開始
    • [12]1924年、大岡山地区の社有地30万㎡と東京高等工業学校の敷地4万㎡を日本勧業銀行の評価で交換し移転。府立第八中学校も小山駅前に開校。1924年上期報告書で乗客2倍余、旅客収入約8割増、総収入2倍1分増
    • [13]1924年、大岡山地区の社有地30万㎡と東京高等工業学校の敷地4万㎡を日本勧業銀行の評価で交換し移転。府立第八中学校も小山駅前に開校。1924年上期報告書で乗客2倍余、旅客収入約8割増、総収入2倍1分増
    • [14]1924年、大岡山地区の社有地30万㎡と東京高等工業学校の敷地4万㎡を日本勧業銀行の評価で交換し移転。府立第八中学校も小山駅前に開校。1924年上期報告書で乗客2倍余、旅客収入約8割増、総収入2倍1分増
    • [15]1924年、大岡山地区の社有地30万㎡と東京高等工業学校の敷地4万㎡を日本勧業銀行の評価で交換し移転。府立第八中学校も小山駅前に開校。1924年上期報告書で乗客2倍余、旅客収入約8割増、総収入2倍1分増
  • 週刊東洋経済 1925年9月19日号(抜き書き)
    • [16]震災後、大岡山への東京高等工業の移転と沿線住宅の発展で目黒蒲田電鉄の営業成績が急に好転

1924年〜武蔵電気鉄道を引き取った東横線と、親の田園都市会社を呑んだ目蒲

目黒蒲田電鉄は1924年10月に武蔵電気鉄道を傘下に収め、武蔵電気鉄道は社名を東京横浜電鉄に改めた。武蔵電気鉄道は1910年の設立後に横浜方面への免許を得たものの、建設資金を調達できず、多くの免許を失効させていた。五島慶太氏は1920年から同社の常務を兼ねており、目蒲線の業績で得た資金で同社株の過半数を取得した。両社の役員は同じ顔ぶれとなり、本社は目黒駅前、業務組織も共通である。東京横浜電鉄は1926年2月に丸子多摩川〜神奈川間を、1927年8月に渋谷〜丸子多摩川間を開業した。目蒲で先に資金をつくり武蔵電気鉄道に充当するという小林一三氏の助言は、創立から2年で実行に移されたと考えられる。

  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 田園都市業の創始」
    • [17]武蔵電気鉄道は1910年6月設立、天現寺橋〜平沼などの免許を得たが資金難で大半が失効。1920年5月に五島慶太が常務就任。1924年10月に目黒蒲田電鉄の傘下に入り東京横浜電鉄へ商号変更
    • [18]武蔵電気鉄道は1910年6月設立、天現寺橋〜平沼などの免許を得たが資金難で大半が失効。1920年5月に五島慶太が常務就任。1924年10月に目黒蒲田電鉄の傘下に入り東京横浜電鉄へ商号変更
  • 私の履歴書 五島慶太(日本経済新聞・経済人1)
    • [19]目蒲電鉄の業績で得た資金で武蔵電鉄の株式過半数を取得して傘下に収め、東京横浜電鉄と改称
  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 鉄道業の充実」
    • [20]1924年10月以降、両社の役員が同じ顔ぶれとなり本社を同居、業務組織を共通化。1926年2月丸子多摩川〜神奈川、1927年8月渋谷〜丸子多摩川開通
    • [21]1924年10月以降、両社の役員が同じ顔ぶれとなり本社を同居、業務組織を共通化。1926年2月丸子多摩川〜神奈川、1927年8月渋谷〜丸子多摩川開通

目黒蒲田電鉄は1928年5月5日、母体の田園都市会社を合併。1927年7月の大井町〜大岡山間の開業で、交通機関を整えるという田園都市会社の目的は目黒蒲田電鉄の手で果たされていた。分譲も買収総面積160万平方メートルの約67%を売り終え、田園都市会社は1926年10月に資本金を500万円から300万円へ減らした。合併で目黒蒲田電鉄は225万円を増資して田園都市会社株2株に3株を交付し、解散費用47万円も支払った。目黒蒲田電鉄は残地53万1,500平方メートルを引き継ぎ、定款に住宅地経営と土地建物の売買・賃貸を加えた。宅地を売却して得る資金で鉄道を建設するという、小林一三氏が創立時に五島慶太氏へ説いた構想は、合併で1社の中に収まった。

  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 鉄道業の充実」
    • [22]1927年7月大井町〜大岡山開業で交通機関完備の目的を達成。田園都市会社は160万㎡のうち106万㎡(約67%)を分譲し1926年10月に500万→300万円へ減資。1927年10月に合併契約承認、225万円増資・2株に3株交付・解散費用47万円、1928年5月5日合併成立。残地53万1,500㎡を継承
    • [23]1927年7月大井町〜大岡山開業で交通機関完備の目的を達成。田園都市会社は160万㎡のうち106万㎡(約67%)を分譲し1926年10月に500万→300万円へ減資。1927年10月に合併契約承認、225万円増資・2株に3株交付・解散費用47万円、1928年5月5日合併成立。残地53万1,500㎡を継承
    • [24]1927年7月大井町〜大岡山開業で交通機関完備の目的を達成。田園都市会社は160万㎡のうち106万㎡(約67%)を分譲し1926年10月に500万→300万円へ減資。1927年10月に合併契約承認、225万円増資・2株に3株交付・解散費用47万円、1928年5月5日合併成立。残地53万1,500㎡を継承
    • [25]1927年7月大井町〜大岡山開業で交通機関完備の目的を達成。田園都市会社は160万㎡のうち106万㎡(約67%)を分譲し1926年10月に500万→300万円へ減資。1927年10月に合併契約承認、225万円増資・2株に3株交付・解散費用47万円、1928年5月5日合併成立。残地53万1,500㎡を継承
    • [26]1927年7月大井町〜大岡山開業で交通機関完備の目的を達成。田園都市会社は160万㎡のうち106万㎡(約67%)を分譲し1926年10月に500万→300万円へ減資。1927年10月に合併契約承認、225万円増資・2株に3株交付・解散費用47万円、1928年5月5日合併成立。残地53万1,500㎡を継承
  • 私の履歴書 五島慶太(日本経済新聞・経済人1)
    • [27]小林一三は田園都市計画で45万坪を売却すれば資金になり、その金で鉄道を建設すればよいと五島慶太に助言

全通前の1930年1月、ダイヤモンド誌は『当社の問題は、建設費の高いことである』と書き、収入も京浜・王子の2社の半分にとどまると指摘した。目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄が1929年7月、慶応義塾大学予科を日吉へ迎える契約で無償で寄付したのは、23万7,600平方メートルである。寄付地は当時の地価で72万円にあたり、同期の鉄道運賃収入51万円を上回った。移転が決まった後の1930年上期、日吉台地区の土地売上は前期の1万7,900円に対し37万9,680円である。東京横浜電鉄は1932年3月31日に高島町〜桜木町間を開業し、東横線を全通させた。全通で山手方面から桜木町へ直通できるようになり、1932年11月までに乗客と収入が増えた。

  • ダイヤモンド 1930年1月1日号(抜き書き)
    • [28]1930年初時点で東横は建設費が高く、収入は京浜・王子両社の半分、桜木町線は未完成
  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 鉄道業の充実」
    • [29]1928年5月神奈川〜高島町、1932年3月31日高島町〜桜木町開通で全通。1929年7月3日慶応義塾予科日吉移転の仮契約、23万7,600㎡を無償寄付(地価換算72万円、同期鉄道運賃収入51万円)。1930年上期の日吉台地区土地売上は前期1万7,900円から37万9,680円
    • [30]1928年5月神奈川〜高島町、1932年3月31日高島町〜桜木町開通で全通。1929年7月3日慶応義塾予科日吉移転の仮契約、23万7,600㎡を無償寄付(地価換算72万円、同期鉄道運賃収入51万円)。1930年上期の日吉台地区土地売上は前期1万7,900円から37万9,680円
    • [31]1928年5月神奈川〜高島町、1932年3月31日高島町〜桜木町開通で全通。1929年7月3日慶応義塾予科日吉移転の仮契約、23万7,600㎡を無償寄付(地価換算72万円、同期鉄道運賃収入51万円)。1930年上期の日吉台地区土地売上は前期1万7,900円から37万9,680円
    • [32]1928年5月神奈川〜高島町、1932年3月31日高島町〜桜木町開通で全通。1929年7月3日慶応義塾予科日吉移転の仮契約、23万7,600㎡を無償寄付(地価換算72万円、同期鉄道運賃収入51万円)。1930年上期の日吉台地区土地売上は前期1万7,900円から37万9,680円
  • ダイヤモンド 1932年11月10日号(抜き書き)
    • [33]1932年11月時点、山手方面から桜木町まで直行でき乗客・収入が増加
参考文献[17]-[33]
  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 田園都市業の創始」
    • [17]武蔵電気鉄道は1910年6月設立、天現寺橋〜平沼などの免許を得たが資金難で大半が失効。1920年5月に五島慶太が常務就任。1924年10月に目黒蒲田電鉄の傘下に入り東京横浜電鉄へ商号変更
    • [18]武蔵電気鉄道は1910年6月設立、天現寺橋〜平沼などの免許を得たが資金難で大半が失効。1920年5月に五島慶太が常務就任。1924年10月に目黒蒲田電鉄の傘下に入り東京横浜電鉄へ商号変更
  • 私の履歴書 五島慶太(日本経済新聞・経済人1)
    • [19]目蒲電鉄の業績で得た資金で武蔵電鉄の株式過半数を取得して傘下に収め、東京横浜電鉄と改称
    • [27]小林一三は田園都市計画で45万坪を売却すれば資金になり、その金で鉄道を建設すればよいと五島慶太に助言
  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 鉄道業の充実」
    • [20]1924年10月以降、両社の役員が同じ顔ぶれとなり本社を同居、業務組織を共通化。1926年2月丸子多摩川〜神奈川、1927年8月渋谷〜丸子多摩川開通
    • [21]1924年10月以降、両社の役員が同じ顔ぶれとなり本社を同居、業務組織を共通化。1926年2月丸子多摩川〜神奈川、1927年8月渋谷〜丸子多摩川開通
    • [22]1927年7月大井町〜大岡山開業で交通機関完備の目的を達成。田園都市会社は160万㎡のうち106万㎡(約67%)を分譲し1926年10月に500万→300万円へ減資。1927年10月に合併契約承認、225万円増資・2株に3株交付・解散費用47万円、1928年5月5日合併成立。残地53万1,500㎡を継承
    • [23]1927年7月大井町〜大岡山開業で交通機関完備の目的を達成。田園都市会社は160万㎡のうち106万㎡(約67%)を分譲し1926年10月に500万→300万円へ減資。1927年10月に合併契約承認、225万円増資・2株に3株交付・解散費用47万円、1928年5月5日合併成立。残地53万1,500㎡を継承
    • [24]1927年7月大井町〜大岡山開業で交通機関完備の目的を達成。田園都市会社は160万㎡のうち106万㎡(約67%)を分譲し1926年10月に500万→300万円へ減資。1927年10月に合併契約承認、225万円増資・2株に3株交付・解散費用47万円、1928年5月5日合併成立。残地53万1,500㎡を継承
    • [25]1927年7月大井町〜大岡山開業で交通機関完備の目的を達成。田園都市会社は160万㎡のうち106万㎡(約67%)を分譲し1926年10月に500万→300万円へ減資。1927年10月に合併契約承認、225万円増資・2株に3株交付・解散費用47万円、1928年5月5日合併成立。残地53万1,500㎡を継承
    • [26]1927年7月大井町〜大岡山開業で交通機関完備の目的を達成。田園都市会社は160万㎡のうち106万㎡(約67%)を分譲し1926年10月に500万→300万円へ減資。1927年10月に合併契約承認、225万円増資・2株に3株交付・解散費用47万円、1928年5月5日合併成立。残地53万1,500㎡を継承
    • [29]1928年5月神奈川〜高島町、1932年3月31日高島町〜桜木町開通で全通。1929年7月3日慶応義塾予科日吉移転の仮契約、23万7,600㎡を無償寄付(地価換算72万円、同期鉄道運賃収入51万円)。1930年上期の日吉台地区土地売上は前期1万7,900円から37万9,680円
    • [30]1928年5月神奈川〜高島町、1932年3月31日高島町〜桜木町開通で全通。1929年7月3日慶応義塾予科日吉移転の仮契約、23万7,600㎡を無償寄付(地価換算72万円、同期鉄道運賃収入51万円)。1930年上期の日吉台地区土地売上は前期1万7,900円から37万9,680円
    • [31]1928年5月神奈川〜高島町、1932年3月31日高島町〜桜木町開通で全通。1929年7月3日慶応義塾予科日吉移転の仮契約、23万7,600㎡を無償寄付(地価換算72万円、同期鉄道運賃収入51万円)。1930年上期の日吉台地区土地売上は前期1万7,900円から37万9,680円
    • [32]1928年5月神奈川〜高島町、1932年3月31日高島町〜桜木町開通で全通。1929年7月3日慶応義塾予科日吉移転の仮契約、23万7,600㎡を無償寄付(地価換算72万円、同期鉄道運賃収入51万円)。1930年上期の日吉台地区土地売上は前期1万7,900円から37万9,680円
  • ダイヤモンド 1930年1月1日号(抜き書き)
    • [28]1930年初時点で東横は建設費が高く、収入は京浜・王子両社の半分、桜木町線は未完成
  • ダイヤモンド 1932年11月10日号(抜き書き)
    • [33]1932年11月時点、山手方面から桜木町まで直行でき乗客・収入が増加

1933年〜渋谷駅の東横百貨店と池上・玉川の2社合併、東京横浜電鉄への一本化

東京横浜電鉄は1934年11月1日、渋谷駅に直結する東横百貨店を開業し、関東の私鉄で初めて直営の百貨店を駅に置いた。1933年5月の渋谷駅周辺の乗降客は15万8,000人と新宿の半分で、新宿の3百貨店に対し、渋谷の百貨店はゼロである。専務の五島慶太氏は、住宅地が沿線の奥へ広がるほど買物の場が遠くなるとして、東京西南部の入口にあたる渋谷に百貨店を置く方針を示した。東京横浜電鉄は乗降客で玉川電気鉄道を下回り、1927年から政府補助金を受けており、鉄道以外の事業で収益を補う必要に迫られていた。開業までに五島慶太氏は2年余りの調査を重ね、百貨店の経験を持たない社員で店を立ち上げた。建設には社内の慎重論もあったものの、地下1階・地上7階の店舗を建て、工事費は諸設備込みで231万3,000円だった。

  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 鉄道業の充実」
    • [34]1934年11月1日、関東初の私鉄直営ターミナル・デパートとして開業。1933年5月の渋谷の乗降客15万8,000人で新宿の半分、渋谷に百貨店なし。五島は郊外居住者の買物の便を理由に建設。東横は乗降人員で玉川電鉄を下回り補助金を受け多角経営に活路。慎重論を退け地下1階地上7階、工事費231万3,000円
    • [35]1934年11月1日、関東初の私鉄直営ターミナル・デパートとして開業。1933年5月の渋谷の乗降客15万8,000人で新宿の半分、渋谷に百貨店なし。五島は郊外居住者の買物の便を理由に建設。東横は乗降人員で玉川電鉄を下回り補助金を受け多角経営に活路。慎重論を退け地下1階地上7階、工事費231万3,000円
    • [36]1934年11月1日、関東初の私鉄直営ターミナル・デパートとして開業。1933年5月の渋谷の乗降客15万8,000人で新宿の半分、渋谷に百貨店なし。五島は郊外居住者の買物の便を理由に建設。東横は乗降人員で玉川電鉄を下回り補助金を受け多角経営に活路。慎重論を退け地下1階地上7階、工事費231万3,000円
    • [37]1934年11月1日、関東初の私鉄直営ターミナル・デパートとして開業。1933年5月の渋谷の乗降客15万8,000人で新宿の半分、渋谷に百貨店なし。五島は郊外居住者の買物の便を理由に建設。東横は乗降人員で玉川電鉄を下回り補助金を受け多角経営に活路。慎重論を退け地下1階地上7階、工事費231万3,000円
    • [39]1934年11月1日、関東初の私鉄直営ターミナル・デパートとして開業。1933年5月の渋谷の乗降客15万8,000人で新宿の半分、渋谷に百貨店なし。五島は郊外居住者の買物の便を理由に建設。東横は乗降人員で玉川電鉄を下回り補助金を受け多角経営に活路。慎重論を退け地下1階地上7階、工事費231万3,000円
  • 会社銀行八十年史(1955)「東横百貨店」
    • [38]1934年11月に東京横浜電鉄の一営業部門として渋谷駅頭に創設。専務五島慶太が2年余の調査。関東初のターミナルデパート、素人経営で注目

目黒蒲田電鉄による池上電気鉄道の合併は1934年10月1日、東京横浜電鉄による玉川電気鉄道の合併は1938年4月1日である。池上電気鉄道は蒲田を目蒲線と同じ終点とし、建設と経営に積極さを欠いて業績が振るわなかった。専務の五島慶太氏は大株主の川崎肇氏を説得し、総株数14万株のうち8万5,000株を取得して1933年7月に傘下へ収めた。五島慶太氏の考えは、渋谷で東横線と事業が重なる玉川電気鉄道との競合が二重投資となり、渋谷の発展を妨げるというものである。1936年10月に大株主の金融機関が5万6,000株を譲渡し、東京横浜電鉄は総株数25万株の60%にあたる14万6,000株を握った。五島慶太氏はのちに、株の買い占めという強硬手段も経費を下げるために採ったと回想した。

  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 鉄道業の充実」
    • [40]池上電気鉄道は蒲田を同一終点とし業績不振。五島が川崎肇を説得し14万株中8万5,000株を取得、1933年7月傘下、1934年10月1日合併。玉川電気鉄道は同じ事業で競合し二重投資と五島は判断、1936年10月に大株主が5万6,000株を譲渡し25万株中14万6,000株(60%)を所有、1938年4月1日合併
    • [41]池上電気鉄道は蒲田を同一終点とし業績不振。五島が川崎肇を説得し14万株中8万5,000株を取得、1933年7月傘下、1934年10月1日合併。玉川電気鉄道は同じ事業で競合し二重投資と五島は判断、1936年10月に大株主が5万6,000株を譲渡し25万株中14万6,000株(60%)を所有、1938年4月1日合併
    • [42]池上電気鉄道は蒲田を同一終点とし業績不振。五島が川崎肇を説得し14万株中8万5,000株を取得、1933年7月傘下、1934年10月1日合併。玉川電気鉄道は同じ事業で競合し二重投資と五島は判断、1936年10月に大株主が5万6,000株を譲渡し25万株中14万6,000株(60%)を所有、1938年4月1日合併
    • [43]池上電気鉄道は蒲田を同一終点とし業績不振。五島が川崎肇を説得し14万株中8万5,000株を取得、1933年7月傘下、1934年10月1日合併。玉川電気鉄道は同じ事業で競合し二重投資と五島は判断、1936年10月に大株主が5万6,000株を譲渡し25万株中14万6,000株(60%)を所有、1938年4月1日合併
    • [44]池上電気鉄道は蒲田を同一終点とし業績不振。五島が川崎肇を説得し14万株中8万5,000株を取得、1933年7月傘下、1934年10月1日合併。玉川電気鉄道は同じ事業で競合し二重投資と五島は判断、1936年10月に大株主が5万6,000株を譲渡し25万株中14万6,000株(60%)を所有、1938年4月1日合併
  • 私の履歴書 五島慶太(日本経済新聞・経済人1)
    • [45]1934年の池上電鉄買収をはじめ玉川電鉄などを買収。株買占めの強硬手段は社員の生活と会社の経費を下げるためと回想

目黒蒲田電鉄は1939年10月1日に東京横浜電鉄を合併し、同月16日に商号を東京横浜電鉄へ改めた。両社の業績がほぼ並んだのを機に、統制の強化と経営の合理化を図った合併であり、1938年8月施行の陸上交通事業調整法にもかなう。資本金は7,250万円となり、1922年の創立時の350万円から増えた。地下鉄では社長の五島慶太氏が常務を務める東京高速鉄道が、1939年1月に渋谷〜新橋間を全通させた。新橋での接続を拒む東京地下鉄道の早川徳次氏に対し、五島慶太氏は1939年夏に同社株45万株を取得して経営権を握った。同年9月には渋谷〜浅草間の直通運転が始まり、東京横浜電鉄の起点である渋谷は都心の地下鉄とつながった。

  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 鉄道業の充実」
    • [46]1939年10月1日に目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を合併、16日に商号を東京横浜電鉄へ変更、資本金7,250万円(創立時350万円)。業績が相匹敵し統制強化・合理化を図り、1938年8月施行の陸上交通事業調整法の趣旨にも沿う。東京高速鉄道は1939年1月に渋谷〜新橋全通、同年9月から渋谷〜浅草直通運転
    • [47]1939年10月1日に目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を合併、16日に商号を東京横浜電鉄へ変更、資本金7,250万円(創立時350万円)。業績が相匹敵し統制強化・合理化を図り、1938年8月施行の陸上交通事業調整法の趣旨にも沿う。東京高速鉄道は1939年1月に渋谷〜新橋全通、同年9月から渋谷〜浅草直通運転
    • [48]1939年10月1日に目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を合併、16日に商号を東京横浜電鉄へ変更、資本金7,250万円(創立時350万円)。業績が相匹敵し統制強化・合理化を図り、1938年8月施行の陸上交通事業調整法の趣旨にも沿う。東京高速鉄道は1939年1月に渋谷〜新橋全通、同年9月から渋谷〜浅草直通運転
    • [50]1939年10月1日に目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を合併、16日に商号を東京横浜電鉄へ変更、資本金7,250万円(創立時350万円)。業績が相匹敵し統制強化・合理化を図り、1938年8月施行の陸上交通事業調整法の趣旨にも沿う。東京高速鉄道は1939年1月に渋谷〜新橋全通、同年9月から渋谷〜浅草直通運転
    • [52]1939年10月1日に目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を合併、16日に商号を東京横浜電鉄へ変更、資本金7,250万円(創立時350万円)。業績が相匹敵し統制強化・合理化を図り、1938年8月施行の陸上交通事業調整法の趣旨にも沿う。東京高速鉄道は1939年1月に渋谷〜新橋全通、同年9月から渋谷〜浅草直通運転
  • 私の履歴書 五島慶太(日本経済新聞・経済人1)
    • [49]東京高速鉄道は1934年3月設立、五島は常務。新橋での連絡を拒む早川徳次に対し、1939年夏に東京地下鉄株45万株を譲受け経営権を掌握
    • [51]東京高速鉄道は1934年3月設立、五島は常務。新橋での連絡を拒む早川徳次に対し、1939年夏に東京地下鉄株45万株を譲受け経営権を掌握
参考文献[34]-[52]
  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 鉄道業の充実」
    • [34]1934年11月1日、関東初の私鉄直営ターミナル・デパートとして開業。1933年5月の渋谷の乗降客15万8,000人で新宿の半分、渋谷に百貨店なし。五島は郊外居住者の買物の便を理由に建設。東横は乗降人員で玉川電鉄を下回り補助金を受け多角経営に活路。慎重論を退け地下1階地上7階、工事費231万3,000円
    • [35]1934年11月1日、関東初の私鉄直営ターミナル・デパートとして開業。1933年5月の渋谷の乗降客15万8,000人で新宿の半分、渋谷に百貨店なし。五島は郊外居住者の買物の便を理由に建設。東横は乗降人員で玉川電鉄を下回り補助金を受け多角経営に活路。慎重論を退け地下1階地上7階、工事費231万3,000円
    • [36]1934年11月1日、関東初の私鉄直営ターミナル・デパートとして開業。1933年5月の渋谷の乗降客15万8,000人で新宿の半分、渋谷に百貨店なし。五島は郊外居住者の買物の便を理由に建設。東横は乗降人員で玉川電鉄を下回り補助金を受け多角経営に活路。慎重論を退け地下1階地上7階、工事費231万3,000円
    • [37]1934年11月1日、関東初の私鉄直営ターミナル・デパートとして開業。1933年5月の渋谷の乗降客15万8,000人で新宿の半分、渋谷に百貨店なし。五島は郊外居住者の買物の便を理由に建設。東横は乗降人員で玉川電鉄を下回り補助金を受け多角経営に活路。慎重論を退け地下1階地上7階、工事費231万3,000円
    • [39]1934年11月1日、関東初の私鉄直営ターミナル・デパートとして開業。1933年5月の渋谷の乗降客15万8,000人で新宿の半分、渋谷に百貨店なし。五島は郊外居住者の買物の便を理由に建設。東横は乗降人員で玉川電鉄を下回り補助金を受け多角経営に活路。慎重論を退け地下1階地上7階、工事費231万3,000円
    • [40]池上電気鉄道は蒲田を同一終点とし業績不振。五島が川崎肇を説得し14万株中8万5,000株を取得、1933年7月傘下、1934年10月1日合併。玉川電気鉄道は同じ事業で競合し二重投資と五島は判断、1936年10月に大株主が5万6,000株を譲渡し25万株中14万6,000株(60%)を所有、1938年4月1日合併
    • [41]池上電気鉄道は蒲田を同一終点とし業績不振。五島が川崎肇を説得し14万株中8万5,000株を取得、1933年7月傘下、1934年10月1日合併。玉川電気鉄道は同じ事業で競合し二重投資と五島は判断、1936年10月に大株主が5万6,000株を譲渡し25万株中14万6,000株(60%)を所有、1938年4月1日合併
    • [42]池上電気鉄道は蒲田を同一終点とし業績不振。五島が川崎肇を説得し14万株中8万5,000株を取得、1933年7月傘下、1934年10月1日合併。玉川電気鉄道は同じ事業で競合し二重投資と五島は判断、1936年10月に大株主が5万6,000株を譲渡し25万株中14万6,000株(60%)を所有、1938年4月1日合併
    • [43]池上電気鉄道は蒲田を同一終点とし業績不振。五島が川崎肇を説得し14万株中8万5,000株を取得、1933年7月傘下、1934年10月1日合併。玉川電気鉄道は同じ事業で競合し二重投資と五島は判断、1936年10月に大株主が5万6,000株を譲渡し25万株中14万6,000株(60%)を所有、1938年4月1日合併
    • [44]池上電気鉄道は蒲田を同一終点とし業績不振。五島が川崎肇を説得し14万株中8万5,000株を取得、1933年7月傘下、1934年10月1日合併。玉川電気鉄道は同じ事業で競合し二重投資と五島は判断、1936年10月に大株主が5万6,000株を譲渡し25万株中14万6,000株(60%)を所有、1938年4月1日合併
    • [46]1939年10月1日に目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を合併、16日に商号を東京横浜電鉄へ変更、資本金7,250万円(創立時350万円)。業績が相匹敵し統制強化・合理化を図り、1938年8月施行の陸上交通事業調整法の趣旨にも沿う。東京高速鉄道は1939年1月に渋谷〜新橋全通、同年9月から渋谷〜浅草直通運転
    • [47]1939年10月1日に目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を合併、16日に商号を東京横浜電鉄へ変更、資本金7,250万円(創立時350万円)。業績が相匹敵し統制強化・合理化を図り、1938年8月施行の陸上交通事業調整法の趣旨にも沿う。東京高速鉄道は1939年1月に渋谷〜新橋全通、同年9月から渋谷〜浅草直通運転
    • [48]1939年10月1日に目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を合併、16日に商号を東京横浜電鉄へ変更、資本金7,250万円(創立時350万円)。業績が相匹敵し統制強化・合理化を図り、1938年8月施行の陸上交通事業調整法の趣旨にも沿う。東京高速鉄道は1939年1月に渋谷〜新橋全通、同年9月から渋谷〜浅草直通運転
    • [50]1939年10月1日に目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を合併、16日に商号を東京横浜電鉄へ変更、資本金7,250万円(創立時350万円)。業績が相匹敵し統制強化・合理化を図り、1938年8月施行の陸上交通事業調整法の趣旨にも沿う。東京高速鉄道は1939年1月に渋谷〜新橋全通、同年9月から渋谷〜浅草直通運転
    • [52]1939年10月1日に目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を合併、16日に商号を東京横浜電鉄へ変更、資本金7,250万円(創立時350万円)。業績が相匹敵し統制強化・合理化を図り、1938年8月施行の陸上交通事業調整法の趣旨にも沿う。東京高速鉄道は1939年1月に渋谷〜新橋全通、同年9月から渋谷〜浅草直通運転
  • 会社銀行八十年史(1955)「東横百貨店」
    • [38]1934年11月に東京横浜電鉄の一営業部門として渋谷駅頭に創設。専務五島慶太が2年余の調査。関東初のターミナルデパート、素人経営で注目
  • 私の履歴書 五島慶太(日本経済新聞・経済人1)
    • [45]1934年の池上電鉄買収をはじめ玉川電鉄などを買収。株買占めの強硬手段は社員の生活と会社の経費を下げるためと回想
    • [49]東京高速鉄道は1934年3月設立、五島は常務。新橋での連絡を拒む早川徳次に対し、1939年夏に東京地下鉄株45万株を譲受け経営権を掌握
    • [51]東京高速鉄道は1934年3月設立、五島は常務。新橋での連絡を拒む早川徳次に対し、1939年夏に東京地下鉄株45万株を譲受け経営権を掌握

出典・参考

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出典・参考
  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 田園都市業の創始」
  • 東京急行電鉄50年史(1973)「1章 鉄道業の充実」
  • 会社銀行八十年史(1955)「東横百貨店」
  • 週刊東洋経済 1925年9月19日号(抜き書き)
  • ダイヤモンド 1930年1月1日号(抜き書き)
  • ダイヤモンド 1932年11月10日号(抜き書き)
  • 私の履歴書 五島慶太(日本経済新聞・経済人1)

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