路面電車・玉川線に代わる地下新線「新玉川線」の建設と都心直通ネットワークの完成
「会社の前途を考えれば軽々には踏み切れない」——多摩田園都市の乗客を都心へ運ぶ巨額の鉄道投資に、東急はどう踏み切ったか
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- 概要
- 1966年に開通した田園都市線で多摩丘陵の乗客が増えるなか、渋谷側を走る路面電車の玉川線では輸送力が足りず、五島昇社長は玉川線を廃して地下新線の新玉川線を建設した判断。会社の前途を左右する巨額投資への社内の苦悩を越え、1977年に渋谷〜二子玉川園間を開通させ、1979年の営団半蔵門線との全列車直通運転で都心直通ネットワークを完成させた。
- 背景
- 多摩田園都市の宅地開発で沿線人口が増える一方、都心へ通じる渋谷側の経路は路面電車の玉川線であり、田園都市線が送り込む輸送需要を捌けなかった。1969年に玉川線を廃止し、田園都市線を都心へ直通させる地下新線の建設が次の課題になった。
- 内容
- 玉川線に代えて渋谷〜二子玉川園間に地下の高速新線を建設した。直通経路は旧大井町線を経由する遠回りを採らず渋谷への最短路を選び、1977年4月に新玉川線を開通させた。建設は会社の前途を左右する巨額投資であり、着工までに社内の苦悩が長く続いた。
- 含意
- 1979年8月に田園都市線・新玉川線・営団半蔵門線の全列車直通運転が始まり、多摩から都心中枢までが一本のレールでつながった。宅地開発で生まれた沿線人口を輸送の側から受け止め、多摩田園都市の開発利益還元型モデルを鉄道インフラの面から支えた判断となった。
「線を伸ばす」判断の重さ
新玉川線の建設は、宅地を開発するのとは異なる種類の重さを持つ判断であったとみることができる。土地や住宅は売れ残っても在庫として抱えられるが、鉄道の新線は途中で引き返せず、開業までの長い期間、収益を生まないまま巨額の資金を沈めていく。山戸松身氏が「会社の前途を考えれば軽々には踏み切れない」と書き残した苦悩は、線を一本引くという行為が会社全体の命運を左右しうることへの、実務者としての実感であったとみられる。多摩田園都市が「土地・住宅・電車」の三層で稼ぐ構造だったとすれば、新玉川線はその最後の一層である電車を、都心まで通し切るための投資であった。
この判断は、宅地開発が描いた開発利益還元型モデルを、輸送の側から仕上げた続章にあたるとみることができる。造成した宅地に人を呼び、その人々を都心へ運ぶ動脈がなければ、沿線の価値も鉄道の収益も伸び切らない。新玉川線と半蔵門線への直通は、多摩で育ちはじめた人口を都心中枢へ結び、郊外に住んで都心へ通うという選択を成り立たせた。もっとも、重い投資に踏み切るまでの長い逡巡は、鉄道会社が「線を伸ばす」判断のたびに背負う緊張を映してもいる。今日の東急が鉄道と不動産を別の意思決定ラインで動かす構造へ至ったことを思えば、新玉川線の苦悩は、その緊張と正面から向き合った時期の記録として読めるだろう。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
田園都市線の乗客と、路面電車・玉川線の限界
1966年4月、田園都市線の溝の口〜長津田間が開通し、多摩丘陵に造成された宅地へ鉄道が通じた。区画整理で生み出された住宅地に人が住みつくにつれ、沿線から都心へ向かう乗客はしだいに増えていった。しかし、その乗客を渋谷まで運ぶ都心側の経路は細かった。渋谷と二子玉川園のあいだを結んでいたのは道路上を走る路面電車の玉川線であり、田園都市線が送り込む乗客の量に見合う輸送力を備えていなかった。都心へ通じる動脈をどう太くするかが、宅地開発の進展とともに切実な課題になっていった[1]。
東急が選んだのは、路面電車を残したまま補うのではなく、これを廃して新たな地下線に置き換える道であった。1969年5月、渋谷〜二子玉川園間の玉川線と、二子玉川園〜砧本村間の砧線が廃止された。長く沿線を走ってきた路面電車を退け、その用地の下に高速の新線を通す——多摩の乗客を都心へ運ぶ動脈を、路面から地下へ据え替える構想が、ここで具体の工事へ動き出した[2]。
決断
軽々には踏み切れない巨額投資
新玉川線は、渋谷から二子玉川園まで地下を貫く高速鉄道として計画された。用地の買収と地下線の掘削にかかる費用は巨額に上り、鉄道単独では長く採算の見込みが立たない事業であった。建設に携わった山戸松身氏は後年、この判断の重さを「新玉川線の必要性は充分に認めながらも、会社の前途を考えれば軽々には踏み切れないという苦悩が重く会社を支配した[3]」(交通公論 1978年5月号)と書き残している。必要性は誰の目にも明らかでありながら、会社の前途を左右しかねない投資規模のために、着工までの逡巡が長く続いた。
投資の重さは、当時の業績にも影を落としていた。新玉川線の建設が最終段階に入った1977年3月期、東京急行電鉄単体の経常利益は前期の45億円から14億円へ落ち込んだ。売上高が877億円から951億円へ伸びるなかでの利益の急減であり、地下新線という重い投資を抱えた時期の収益の振れをうかがわせる。それでも東急は建設を止めず、1977年の開業へ向けて資金を投じた[4]。
直通経路の選定と1977年の開通
都心へ直通させる経路の選び方も、この投資の性格を決めた。田園都市線の乗客を都心へ送るにあたり、東急は既存の大井町線に相乗りさせる遠回りの経路を採らず、渋谷へ向かう独自の短絡線を新たに引く道を選んだ。建設に携わった山戸松身氏は、田園都市線の直通経路について旧大井町線を経由せず別途の最短路を通すことが望ましいと記しており、輸送の効率を優先して新線に踏み切った判断の理由がうかがえる[5]。
1977年4月、渋谷と二子玉川園を結ぶ新玉川線が開通した。廃止された玉川線の跡に地下の新線を通し、田園都市線の乗客を渋谷まで直接運ぶ経路がここに据えられた。路面を走る電車から地下の高速鉄道への置き換えは、都心側の輸送力を一段と引き上げ、増え続ける沿線の乗客を受け止める容量を確保した。1953年に五島慶太氏が多摩丘陵の開発を構想してから、都心へ通じる動脈がそろうまでに二十年余りが費やされた[6]。
結果
都心直通ネットワークの完成
1979年8月、田園都市線・新玉川線・営団地下鉄半蔵門線の全列車直通運転が始まった。多摩丘陵の宅地から乗った乗客が、乗り換えなしに渋谷を越えて都心中枢まで運ばれる経路が、一本のレールとしてつながった。新玉川線は、田園都市線と都心の地下鉄を結ぶ中間の環として働き、多摩と都心を直結する輸送網の要になった。宅地開発で増えた沿線人口を、都心の勤務地まで送り届ける仕組みが整った[7]。
長い逡巡を経て開いた新線を、山戸松身氏は達成として振り返っている。「思えば生みの陣痛に悩む期間が長かったこそ、新玉川線は理想な形で世に生まれてきたといえよう[8]」(交通公論 1978年5月号)と記し、着工までの苦悩の長さを、かえって完成度の高い路線を生んだ理由として受け止めていた。1984年4月には田園都市線が中央林間まで延伸して全通し、多摩田園都市の鉄道インフラがひととおりそろった。宅地の造成で増えた人口が鉄道の乗客となって収益を支える循環は、この都心直通の輸送網が整ったことで、輸送の側からも回りはじめた[9]。
- 交通公論 1978年5月号(山戸松身)
- 会社年鑑(東京急行電鉄 単体業績)
- 東急 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】