第2章 年〜年

シャープ:テレビへの先行参入と電子式卓上計算機CS-10Aの開発

1950年〜ドッジ不況の経営危機と、RCAとの提携で量産した国産第一号テレビ

早川電機工業は1950年、銀行が求めた人員削減を受け入れ、富士銀行ほか3行から1,500万円の融資を得て倒産の瀬戸際から会社を残した。ドッジ不況で返品と手形事故が重なり、1950年3月期の半期売上高は1億5千万円と前期から1億2千万円減少し、約500万円の赤字を計上した。借入金は同年6月に1億3200万円へ膨らみ、7月8日には株価が14円まで下落して、賃金の遅配も生じた。銀行は再融資の条件に過剰人員の削減を求め、社長の早川徳次氏が整理を拒むなか、労働組合が希望退職の募集を自ら申し出た。同年8月に融資が再開され、重役は個人保証と持株の担保を差し入れ、10月までに210名が退職した。労使で人員を減らして資金をつないだこの経験が、のちに蓄積を重んじる経営の起点になったとみられる。

  • マネジメント 1969年(西村功)
    • [1]1950年、組合の申し出で希望退職を募り210名が退職、富士銀行ほか3行から1,500万円の融資を受けた
  • 早川徳次「私の履歴書」(『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [2]1950年3月期(1949年下半期)の売上高は1億5千万円で前期比1億2千万円減、赤字約500万円
    • [3]1950年6月までに借入金1億3200万円、7月8日に株価14円、賃金の遅配が生じた
    • [4]銀行は再融資の条件に過剰人員の削減を求め、早川徳次は整理を拒んだが、組合が自主的な希望退職の募集を申し出た
    • [5]1950年8月に富士銀行ほか3行が融資を再開、重役は個人保証と持株全部を担保に差し入れ、10月に整理を終えて退職者210名

再建を終えた早川電機工業は、1952年に米国RCAと技術提携を結び、1953年1月にテレビ受像機の量産を始めた。早川徳次氏は、RCAとテレビ技術の特許契約を結んだ国内の第1号だったと振り返った。量産を早く立ち上げられた背景には、戦時中の航空無線機やレーダーの研究で得た技術があり、1953年2月の本放送開始と同時に量産態勢へ入った。朝鮮戦争後の需要回復も重なり、半期の売上高は1951年3月期の165,544千円から1952年3月期には367,903千円へ増加していた。1954年7月にはテレビ量産の強化に向けて田辺工場を建設し、エンドレスコンベアを導入した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [6]1952年6月に米国RCAと技術提携、1953年1月にテレビ受信機の量産を開始
    • [10]1954年7月、テレビ受信機の量産強化のため田辺工場を建設し、エンドレスコンベア設備を導入
  • 野田経済 1959年4月20日号
    • [7]早川徳次は、RCAとのテレビ技術特許契約が国内第1号だったと述べ、当初は1日4台を20人ほどの流れ作業で作った
  • 早川徳次「私の履歴書」(『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [8]戦時中の航空無線機・レーダーの研究がテレビに役立ち、1953年2月の本放送開始と同時に量産態勢に入った
  • 株式会社年鑑 1953年版「早川電機工業」
    • [9]半期売上高は1951年3月期165,544千円、1951年9月期258,656千円、1952年3月期367,903千円

テレビで先行した早川電機工業は、1955年時点で信用・資本・奉仕・人・取引先を絶えず積み増す「五つの蓄積」を経営の方針に掲げていた。方針の起点は1950年の危機で、早川徳次氏はその後、予算と決算を突き合わせる計数管理を工場や支店の末端まで徹底させた。1955年には毎朝9時に全重役が社長室に集まり、経営の基本方針をその場で決める重役会を続けていた。早川徳次氏は1959年、資本の蓄積について、信用だけでは足りず必要なときに使える資金を持つべきだと説いた。実際に早川電機工業は7〜8年にわたって手形を割り引かず、資本金に相当する額を定期預金に置いていた。規模で上回る松下電器や三洋電機と競うため、不況に耐える資金と信用を先に社内へ積む方針だったと推察される。

  • 産業能率 68号 1955年「現地に学ぶ(II)五つの蓄積 早川電機工業」
    • [11]1955年、信用・資本・奉仕・人・取引先の5つの蓄積を標榜し、4割配当を実施
    • [13]毎朝9時から全重役が社長室に集まり、経営の基本方針を審議決定する重役会を開いていた
  • 早川徳次「私の履歴書」(『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [12]1949〜50年の危機の後、「入るを量って出ずるを制す」を基本に、工場・支店の末端まで計数管理を徹底した
  • 野田経済 1959年4月20日号
    • [14]1959年、早川徳次は資本の蓄積について、信用だけでは不十分で必要なときのために資金を持つべきだと説明した
    • [15]1959年時点で7〜8年間手形を割り引かず、資本金相当額を銀行の定期預金に置いていた
参考文献[1]-[15]
  • マネジメント 1969年(西村功)
    • [1]1950年、組合の申し出で希望退職を募り210名が退職、富士銀行ほか3行から1,500万円の融資を受けた
  • 早川徳次「私の履歴書」(『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [2]1950年3月期(1949年下半期)の売上高は1億5千万円で前期比1億2千万円減、赤字約500万円
    • [3]1950年6月までに借入金1億3200万円、7月8日に株価14円、賃金の遅配が生じた
    • [4]銀行は再融資の条件に過剰人員の削減を求め、早川徳次は整理を拒んだが、組合が自主的な希望退職の募集を申し出た
    • [5]1950年8月に富士銀行ほか3行が融資を再開、重役は個人保証と持株全部を担保に差し入れ、10月に整理を終えて退職者210名
    • [8]戦時中の航空無線機・レーダーの研究がテレビに役立ち、1953年2月の本放送開始と同時に量産態勢に入った
    • [12]1949〜50年の危機の後、「入るを量って出ずるを制す」を基本に、工場・支店の末端まで計数管理を徹底した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [6]1952年6月に米国RCAと技術提携、1953年1月にテレビ受信機の量産を開始
    • [10]1954年7月、テレビ受信機の量産強化のため田辺工場を建設し、エンドレスコンベア設備を導入
  • 野田経済 1959年4月20日号
    • [7]早川徳次は、RCAとのテレビ技術特許契約が国内第1号だったと述べ、当初は1日4台を20人ほどの流れ作業で作った
    • [14]1959年、早川徳次は資本の蓄積について、信用だけでは不十分で必要なときのために資金を持つべきだと説明した
    • [15]1959年時点で7〜8年間手形を割り引かず、資本金相当額を銀行の定期預金に置いていた
  • 株式会社年鑑 1953年版「早川電機工業」
    • [9]半期売上高は1951年3月期165,544千円、1951年9月期258,656千円、1952年3月期367,903千円
  • 産業能率 68号 1955年「現地に学ぶ(II)五つの蓄積 早川電機工業」
    • [11]1955年、信用・資本・奉仕・人・取引先の5つの蓄積を標榜し、4割配当を実施
    • [13]毎朝9時から全重役が社長室に集まり、経営の基本方針を審議決定する重役会を開いていた

1956年〜東京証券取引所への上場と、米国の販売会社Sharp Electronics

蓄積の方針を守りながら、早川電機工業は1956年3月に東京証券取引所へ上場した。同年10月には資本金を2億5千万円から5億円へ倍額増資した。それまでの上場先は大阪など6市場で、東京では店頭で扱われていた。テレビの量産で、半期の売上高は1954年9月期の839,534千円から1955年9月期には1,609,965千円へ増加していた。上場と前後して1956年4月に東京支店、1957年9月に名古屋支店を設け、同年12月には田辺工場の増築と平野第二工場の建設を終えた。1959年7月には八尾市に家庭電化製品の総合工場を新設し、生産の品目をテレビの外へ広げた。

  • シャープ 有価証券報告書 第130期(2024年3月期)【沿革】
    • [16]1956年3月、東京証券取引所に株式を上場
  • 株式会社年鑑 1957年版「早川電機工業」
    • [17]1957年版で上場市場に東京が加わる。1956年10月に資本金5億円へ増資(1:1)、その前は2億5千万円
  • 株式会社年鑑 1956年版「早川電機工業」
    • [18]1956年版の上場市場は大阪・名古屋・神戸・京都・広島・福岡で、東京は店頭
    • [19]半期売上高は1954年9月期839,534千円、1955年3月期1,134,121千円、1955年9月期1,609,965千円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [20]1956年4月東京支店、1957年9月名古屋支店を開設、1957年12月田辺工場増築と平野工場(第二)建設
    • [21]1959年7月、家庭電化製品の総合工場として大阪府八尾市に八尾工場を新設

品目を広げても、早川電機工業は総合メーカーの松下電器・三洋電機と異なり、テレビに経営資源を集中する専門メーカーとして経営した。真空管などの管球は自社で作らず、過剰設備を抱える大手から現金で安く仕入れて原価を抑えた。テレビの価格は当初の17万5000円から9万9500円へ引き下げ、既に購入した客には1台1万円、総額2400万円を返金した。早川徳次氏は講演で、良い製品とは『いい製品を生産するということは、みんなに真似られるような製品を創ることである』と説いた。一方で1959年には、テレビが生産過剰に転じれば、多角経営の二社と専門経営の早川電機工業との差が顕在化するとの見方も出ていた。

  • 実業の世界 1959年6月号
    • [22]1959年、松下・三洋が弱電の総合メーカーであるのに対し、早川はテレビ専門メーカー的な方向を取り、早くからテレビの増産体制を敷いた
    • [23]早川は管球類の工場を持たず現金で安く仕入れた。松下・日立・東芝は管球を自家生産し、外販を必要としていた
    • [26]テレビ生産過剰となれば多角経営の松下・三洋と専門経営の早川の優劣が表面化するかもしれないとの見方
  • 野田経済 1959年4月20日号
    • [24]テレビを当初17万5000円で販売し、のちに9万9500円へ値下げして既購入者に1万円ずつ計2400万円を返金した
  • 週刊日本経済 22(37) 1969年9月11日号
    • [25]早川徳次は講演で、真似られる製品を作り、他社が類似品を出せばさらに改良した製品を作ると述べた

早川電機工業は1962年、対米輸出の拡大を狙い、ニューヨークに販売会社Sharp Electronics Corporationを設立した。その前後に、1960年にはカラーテレビ、1962年には電子レンジの量産を始め、輸出に出せる品目を増やしていた。1963年には業界で初めて12型のポータブルテレビを発売した。輸出額は1964年9月期に29億7000万円となり、1965年3月期は12インチテレビを軸に35億円近くを見込んだ。当時の経済誌は、輸出と産業用機器は比較的弱い家電の販売網に依存せずに済む分野だと評した。国内で総合の二社と品ぞろえや販売網を競えない分を、自前の販路を持つ米国向けの輸出で補う狙いだったと思われる。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [27]1962年、対米輸出の拡大を狙いニューヨークに現地販売会社シャープエレクトロニクスコーポレーションを設立
    • [28]1960年にカラーテレビの量産を開始、1962年に電子レンジの量産を開始
    • [29]1963年、業界初の12型ポータブルテレビを発売
  • 新日本経済 29(2) 1965年
    • [30]輸出は1964年9月期29億7000万円、1965年3月期は12インチテレビなどを軸に35億円近くの見込み
    • [31]産業用電子機器と輸出は、比較的弱いとされる家庭電機の販売網に頼らずに済む分野とされた
参考文献[16]-[31]
  • シャープ 有価証券報告書 第130期(2024年3月期)【沿革】
    • [16]1956年3月、東京証券取引所に株式を上場
  • 株式会社年鑑 1957年版「早川電機工業」
    • [17]1957年版で上場市場に東京が加わる。1956年10月に資本金5億円へ増資(1:1)、その前は2億5千万円
  • 株式会社年鑑 1956年版「早川電機工業」
    • [18]1956年版の上場市場は大阪・名古屋・神戸・京都・広島・福岡で、東京は店頭
    • [19]半期売上高は1954年9月期839,534千円、1955年3月期1,134,121千円、1955年9月期1,609,965千円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [20]1956年4月東京支店、1957年9月名古屋支店を開設、1957年12月田辺工場増築と平野工場(第二)建設
    • [21]1959年7月、家庭電化製品の総合工場として大阪府八尾市に八尾工場を新設
    • [27]1962年、対米輸出の拡大を狙いニューヨークに現地販売会社シャープエレクトロニクスコーポレーションを設立
    • [28]1960年にカラーテレビの量産を開始、1962年に電子レンジの量産を開始
    • [29]1963年、業界初の12型ポータブルテレビを発売
  • 実業の世界 1959年6月号
    • [22]1959年、松下・三洋が弱電の総合メーカーであるのに対し、早川はテレビ専門メーカー的な方向を取り、早くからテレビの増産体制を敷いた
    • [23]早川は管球類の工場を持たず現金で安く仕入れた。松下・日立・東芝は管球を自家生産し、外販を必要としていた
    • [26]テレビ生産過剰となれば多角経営の松下・三洋と専門経営の早川の優劣が表面化するかもしれないとの見方
  • 野田経済 1959年4月20日号
    • [24]テレビを当初17万5000円で販売し、のちに9万9500円へ値下げして既購入者に1万円ずつ計2400万円を返金した
  • 週刊日本経済 22(37) 1969年9月11日号
    • [25]早川徳次は講演で、真似られる製品を作り、他社が類似品を出せばさらに改良した製品を作ると述べた
  • 新日本経済 29(2) 1965年
    • [30]輸出は1964年9月期29億7000万円、1965年3月期は12インチテレビなどを軸に35億円近くの見込み
    • [31]産業用電子機器と輸出は、比較的弱いとされる家庭電機の販売網に頼らずに済む分野とされた

1964年〜53万5000円の電卓CS-10A

海外に販路を設けた後、早川電機工業は1964年に電子式卓上計算機の一号機を53万5000円で発売した。発端は1960年前後の危機感で、大手電機が米企業と提携して大型コンピュータに参入するなか、浅田篤氏ら若手が計算機の研究グループを組んだ。1961年11月には中央研究所を建て、電子計算機と卓上計算機の開発に着手した。しかし通商産業省に大型機への参入を退けられ、1962年に機械式計算機の電子化へ目標を絞り、価格の上限を50万円に置いた。一号機の「コンペットCS-10A」は、オールトランジスタの電子式卓上計算機として世界で初めての製品だった。1966年には早川電機工業とキヤノンカメラの2社で国内の電卓生産台数の8割を占め、その6割以上を輸出したという。

  • 技術開発の昭和史(1986年)「3 電子式卓上計算機」
    • [32]一号機の価格は53万5000円で、目標の50万円を上回った
    • [33]1960年頃、大手電機がコンピュータで米企業と提携を進めるなか、浅田篤ら若手が計算機の研究グループを組織
    • [35]通産省に大型コンピュータ参入を相手にされず、1962年に機械式計算機の電子化へ目標を変え、価格は50万円を限度とした
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [34]1961年11月に中央研究所を建設し、電子計算機と卓上式計算機の開発に着手
  • 日経ビジネス 1984年12月10日号
    • [36]1964年、世界で初めてオールトランジスタダイオードの電子式卓上計算機「コンペットCS-10A」を開発
  • 事務と経営 18(215) 1966年11月号「早川電機工業とキヤノンカメラ〈電子式卓上計算機〉」
    • [37]1966年時点で国内の電子式卓上計算機の総生産台数の8割を早川電機工業とキヤノンの2社が占め、2社合計の月産約1500台のうち6割以上を輸出

家電不振のなかで早川電機工業は1963年9月期から3期続けて減配し、株価は1964年7月30日に84円と1月の高値から41%下落した。1964年3月期は利益が32%減り、前年の電化機器で本社と市中に計20億円の在庫を残して値引きで処分した。1964年9月期は売上高が150億3900万円と13%減り、総生産額を180億円から150億円へ絞った。社長の早川徳次氏は約150カ所の借り倉庫を1カ月以内に解約し、在庫30億円を10億円に減らして借入金を返済したという。1965年9月期は販売費と一般管理費を1億3000万円削減し、減収のなかで純益4億500万円を保った。一方で産業機器の売上高は1964年9月期に4億円となり、小型電子計算機を中心に翌期の倍増を見込んだ。

  • 週刊日本経済 19(22) 1966年6月2日号
    • [38]1963年9月期2分、1964年3月期3分、1964年9月期3分と3期連続の減配、吸収合併説も流れた
  • 週刊日本経済 17(33) 1964年8月13日号
    • [39]株価は1964年7月30日に新安値84円、同年1月の高値143円から約41%下落。夏物の不振と減配懸念が要因
    • [40]1964年3月期は前々9月期比2.6%増収・32%減益で3分減配。前年の電化機器は販売計画90億円に対し本社在庫10億円・市中在庫10億円が残り、値引き販売した
  • 新日本経済 29(2) 1965年
    • [41]1964年9月期は売上高150億3900万円で13%減収、利益4億100万円で34%減益
  • 週刊日本経済 17(49) 1964年12月3日号
    • [42]1964年9月期は流通在庫の増加で減産に入り、総生産額を前々期の180億円から150億円に減らした。扇風機11万3000台(約8億円)を本社に引き取り
    • [45]1964年9月期の産業機器の売上高は4億円、1965年3月期は小型電子計算機を中心に倍増の8億円を予想
  • 電子 5(12) 1965年12月号「私と経営」早川徳次
    • [43]地方支店向けに150余りの倉庫を借りていたのを1カ月以内にやめ、在庫品を本社に引き取った。約30億円の在庫を減産で10億円に減らし、浮いた20億円で銀行借入を返済(社長の講演)
  • 週刊日本経済 18(47) 1965年11月25日号
    • [44]1965年9月期は6.2%減収ながら純益4億500万円で横ばい。一般管理費・販売費が1億3000万円減、借入金は18億円減少。前年初めから1年間、同業に先がけ在庫調整と流通機構の整備を推進

電卓で先行した早川電機工業は、一号機の発売後に約30社の参入を受け、値下げ競争にさらされた。1969年5月時点でも18社が3カ月に1台の割合で新型を出し、計算能力1けた当たり1万円を割るかが価格の焦点になった。産業機器事業部長の佐々木正氏は、日本電気と共同開発したIC電卓を1967年に23万円で発売した。1969年には米国製のLSIを使い、価格を10万円未満に下げた。ただしLSIの主力供給者は米国のメーカーで、国内勢は歩留まりの改善に追われていた。心臓部の集積回路を外から調達する限り、値下げ競争で差をつける余地は限られ、早川電機工業はICを自社で作る必要を抱えたのだろう。

  • 技術開発の昭和史(1986年)「4章 応用型新製品技術で国際水準」
    • [46]シャープが1964年にトランジスタ電卓を開発・市販した後、30社ほどが参入して激しい競争となった
    • [48]産業機器事業部長の佐々木正は日本電気とIC電卓を共同開発し、1967年に23万円で発売した
    • [49]1969年、米アメリカンロックウェルが供給するMOS LSIを用いた電卓を発売し、価格は10万円を切った
  • 読売新聞 1969年5月7日
    • [47]1969年5月時点で電卓メーカーは18社、3カ月に1台の割で新型が出て、計算能力1けた1万円割れが焦点
  • 日本産業史 第3巻 電機・電子「半導体-電卓需要とともに拡大」(日経文庫)
    • [50]電卓戦争のなかで集積度の大きいLSIは米メーカーが主力供給者で、日本勢は歩留まり向上に必死だった
参考文献[32]-[50]
  • 技術開発の昭和史(1986年)「3 電子式卓上計算機」
    • [32]一号機の価格は53万5000円で、目標の50万円を上回った
    • [33]1960年頃、大手電機がコンピュータで米企業と提携を進めるなか、浅田篤ら若手が計算機の研究グループを組織
    • [35]通産省に大型コンピュータ参入を相手にされず、1962年に機械式計算機の電子化へ目標を変え、価格は50万円を限度とした
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
    • [34]1961年11月に中央研究所を建設し、電子計算機と卓上式計算機の開発に着手
  • 日経ビジネス 1984年12月10日号
    • [36]1964年、世界で初めてオールトランジスタダイオードの電子式卓上計算機「コンペットCS-10A」を開発
  • 事務と経営 18(215) 1966年11月号「早川電機工業とキヤノンカメラ〈電子式卓上計算機〉」
    • [37]1966年時点で国内の電子式卓上計算機の総生産台数の8割を早川電機工業とキヤノンの2社が占め、2社合計の月産約1500台のうち6割以上を輸出
  • 週刊日本経済 19(22) 1966年6月2日号
    • [38]1963年9月期2分、1964年3月期3分、1964年9月期3分と3期連続の減配、吸収合併説も流れた
  • 週刊日本経済 17(33) 1964年8月13日号
    • [39]株価は1964年7月30日に新安値84円、同年1月の高値143円から約41%下落。夏物の不振と減配懸念が要因
    • [40]1964年3月期は前々9月期比2.6%増収・32%減益で3分減配。前年の電化機器は販売計画90億円に対し本社在庫10億円・市中在庫10億円が残り、値引き販売した
  • 新日本経済 29(2) 1965年
    • [41]1964年9月期は売上高150億3900万円で13%減収、利益4億100万円で34%減益
  • 週刊日本経済 17(49) 1964年12月3日号
    • [42]1964年9月期は流通在庫の増加で減産に入り、総生産額を前々期の180億円から150億円に減らした。扇風機11万3000台(約8億円)を本社に引き取り
    • [45]1964年9月期の産業機器の売上高は4億円、1965年3月期は小型電子計算機を中心に倍増の8億円を予想
  • 電子 5(12) 1965年12月号「私と経営」早川徳次
    • [43]地方支店向けに150余りの倉庫を借りていたのを1カ月以内にやめ、在庫品を本社に引き取った。約30億円の在庫を減産で10億円に減らし、浮いた20億円で銀行借入を返済(社長の講演)
  • 週刊日本経済 18(47) 1965年11月25日号
    • [44]1965年9月期は6.2%減収ながら純益4億500万円で横ばい。一般管理費・販売費が1億3000万円減、借入金は18億円減少。前年初めから1年間、同業に先がけ在庫調整と流通機構の整備を推進
  • 技術開発の昭和史(1986年)「4章 応用型新製品技術で国際水準」
    • [46]シャープが1964年にトランジスタ電卓を開発・市販した後、30社ほどが参入して激しい競争となった
    • [48]産業機器事業部長の佐々木正は日本電気とIC電卓を共同開発し、1967年に23万円で発売した
    • [49]1969年、米アメリカンロックウェルが供給するMOS LSIを用いた電卓を発売し、価格は10万円を切った
  • 読売新聞 1969年5月7日
    • [47]1969年5月時点で電卓メーカーは18社、3カ月に1台の割で新型が出て、計算能力1けた1万円割れが焦点
  • 日本産業史 第3巻 電機・電子「半導体-電卓需要とともに拡大」(日経文庫)
    • [50]電卓戦争のなかで集積度の大きいLSIは米メーカーが主力供給者で、日本勢は歩留まり向上に必死だった

1950年〜1969年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 127 n/a 18 14.6% n/a
1960年03月期 単体 203 +59.7% 24 11.8% n/a
1961年03月期 単体 210 +3.4% 24 11.4% n/a
1962年03月期 単体 253 +20.5% 27 10.7% n/a
1963年03月期 単体 314 +24.1% 28 8.9% n/a
1964年03月期 単体 342 +8.9% 20 5.8% n/a
1965年03月期 単体 301 ▲12.0% 8 2.7% n/a
1966年03月期 単体 292 ▲3.0% 9 3.1% n/a
1967年03月期 単体 420 +43.8% 16 3.8% n/a
1968年03月期 単体 567 +35.0% 32 5.6% n/a
1969年03月期 単体 883 +55.7% 44 5.0% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

23件
出典・参考
  • シャープ 有価証券報告書 第130期(2024年3月期)【沿革】
  • 株式会社年鑑 1953年版「早川電機工業」
  • 株式会社年鑑 1956年版「早川電機工業」
  • 株式会社年鑑 1957年版「早川電機工業」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「早川電機工業」
  • 日本産業史 第3巻 電機・電子「半導体-電卓需要とともに拡大」(日経文庫)
  • 産業能率 68号 1955年「現地に学ぶ(II)五つの蓄積 早川電機工業」
  • 実業の世界 1959年6月号
  • 週刊日本経済 17(33) 1964年8月13日号
  • 週刊日本経済 17(49) 1964年12月3日号
  • 電子 5(12) 1965年12月号「私と経営」早川徳次
  • 週刊日本経済 18(47) 1965年11月25日号
  • 事務と経営 18(215) 1966年11月号「早川電機工業とキヤノンカメラ〈電子式卓上計算機〉」
  • 週刊日本経済 19(22) 1966年6月2日号
  • 週刊日本経済 22(37) 1969年9月11日号
  • 日経ビジネス 1984年12月10日号
  • 読売新聞 1969年5月7日
  • 早川徳次「私の履歴書」(『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
  • 野田経済 1959年4月20日号
  • 新日本経済 29(2) 1965年
  • マネジメント 1969年(西村功)
  • 技術開発の昭和史(1986年)「3 電子式卓上計算機」
  • 技術開発の昭和史(1986年)「4章 応用型新製品技術で国際水準」

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