第1章 年〜年

東海旅客鉄道:日本国有鉄道の発足と東海道新幹線の開業

1949年〜逼迫する東海道線の増強を国政に上げ、狭軌を捨てた広軌の東海道新幹線

日本国有鉄道は1949年6月1日、国の鉄道事業を引き継ぐ公共企業体として発足した。業務は総裁を長とする執行機関が担い、監理委員会が監査と指導にあたる分立の体制である。1958年当時の東海道線は国鉄全線の3%弱の延長で、旅客と貨物の輸送量では全体の4分の1にあたる。国鉄は1956年5月、技師長を会長とする東海道線増強調査会を本社に設け、増強の方式を検討し始めた。総裁の十河信二氏は1957年7月2日、運輸大臣の宮沢胤勇氏に東海道本線の増強への配慮を求めた。政府は同年8月30日に日本国有鉄道幹線調査会を運輸省に設け、増強を国政の課題として扱った。1000億円を超える投資は国鉄の内部では決めきれないと十河信二氏はみて、政府の場へ議論を移したと思われる。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「発足と戦後」(日本国有鉄道)
    • [1]1949年6月1日に日本国有鉄道が公共企業体として発足。総裁を長とする執行機関と監理委員会の分立体制
    • [2]1949年6月1日に日本国有鉄道が公共企業体として発足。総裁を長とする執行機関と監理委員会の分立体制
  • 経団連月報 1958年10月号「東海道新幹線の建設について・十河信二」
    • [3]東海道線は国鉄全線の100分の3に満たないが全国旅客貨物輸送量の4分の1を担う(十河信二の寄稿)
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「新幹線」(日本国有鉄道、1973年)
    • [4]1956年5月本社に東海道線増強調査会(会長は技師長)。各案とも1000億円超。1957年7月2日十河総裁が運輸大臣宮沢胤勇に増強を要請、8月30日運輸省に幹線調査会設置
    • [5]1956年5月本社に東海道線増強調査会(会長は技師長)。各案とも1000億円超。1957年7月2日十河総裁が運輸大臣宮沢胤勇に増強を要請、8月30日運輸省に幹線調査会設置
    • [6]1956年5月本社に東海道線増強調査会(会長は技師長)。各案とも1000億円超。1957年7月2日十河総裁が運輸大臣宮沢胤勇に増強を要請、8月30日運輸省に幹線調査会設置

幹線調査会の第1分科会は1958年3月27日、東海道の新規路線は広軌の別線が適当とする結論をまとめた。広軌別線は、十河信二氏と技師長の島秀雄氏ら国鉄幹部が当初から温めてきた案である。十河信二氏は調査会の初回から、戦前の広軌新幹線計画を下回る増強では間に合わないと唱えた。1958年9月の寄稿では、狭軌は速度と輸送力に劣り安全度も低いと指摘した。同年10月には、沿線に全国人口の約4割と製造工業の生産額の6割が集まると示し、建設の必要を説いた。一方で、自動車の伸びを理由に増強自体を不要とみる意見や、高速の別線を航空機と競う無駄な投資とする批判も出た。狭軌の線路を増やすだけでは輸送の逼迫を数年先へ送るにとどまると、十河信二氏は判断したのだろう。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「新幹線」(日本国有鉄道、1973年)
    • [7]1958年3月27日幹線調査会第1分科会が広軌別線を適当と結論。十河総裁・島技師長ら国鉄幹部が当初から広軌別線案を構想。十河は第1回調査会で戦前の広軌新幹線を下回る計画では間に合わないと発言。自動車輸送や航空機競争を理由とする反対論もあった
    • [8]1958年3月27日幹線調査会第1分科会が広軌別線を適当と結論。十河総裁・島技師長ら国鉄幹部が当初から広軌別線案を構想。十河は第1回調査会で戦前の広軌新幹線を下回る計画では間に合わないと発言。自動車輸送や航空機競争を理由とする反対論もあった
    • [9]1958年3月27日幹線調査会第1分科会が広軌別線を適当と結論。十河総裁・島技師長ら国鉄幹部が当初から広軌別線案を構想。十河は第1回調査会で戦前の広軌新幹線を下回る計画では間に合わないと発言。自動車輸送や航空機競争を理由とする反対論もあった
    • [12]1958年3月27日幹線調査会第1分科会が広軌別線を適当と結論。十河総裁・島技師長ら国鉄幹部が当初から広軌別線案を構想。十河は第1回調査会で戦前の広軌新幹線を下回る計画では間に合わないと発言。自動車輸送や航空機競争を理由とする反対論もあった
  • 汎交通 1958年9月号「東海道広軌新幹線・十河信二」
    • [10]十河信二は狭軌では速力が出ず輸送力が少なく安全度も低いと述べた
  • 経団連月報 1958年10月号「東海道新幹線の建設について・十河信二」
    • [11]沿線都道府県に全国人口の約4割、製造工業生産額の6割が集中すると十河信二が説明

国鉄は1959年3月25日に東海道幹線増設工事の認可を運輸大臣へ申請し、4月13日に認可を得た。認可の内容は東京・大阪間を広軌で結び、工期を約5か年、車両費を含む総工事費を1725億円とするものである。建設予算は1959年3月に国会で承認され、利子などを加えた総額は1972億円となった。国鉄は同年4月に東京幹線工事局を置き、名古屋と大阪に出張所を設けて着工に備えた。これに先立つ1959年2月、社会党は国家的な事業を一部の政府機関だけで決めることを独断とみて、追及する方針を決めた。社会党は新線の建設そのものには反対しない立場をとり、批判の的を手続きに絞った。争点が建設の是非から手続きへ移ったことで、予算の承認は滞らずに済んだと推察される。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「新幹線」(日本国有鉄道、1973年)
    • [13]1959年3月25日事柄認可を申請、4月13日認可(広軌・工期約5か年・総工事費1725億円)。予算は1959年3月国会承認、利子等を加え1972億円。1959年4月東京幹線工事局と名古屋・大阪出張所を設置
    • [14]1959年3月25日事柄認可を申請、4月13日認可(広軌・工期約5か年・総工事費1725億円)。予算は1959年3月国会承認、利子等を加え1972億円。1959年4月東京幹線工事局と名古屋・大阪出張所を設置
    • [15]1959年3月25日事柄認可を申請、4月13日認可(広軌・工期約5か年・総工事費1725億円)。予算は1959年3月国会承認、利子等を加え1972億円。1959年4月東京幹線工事局と名古屋・大阪出張所を設置
    • [16]1959年3月25日事柄認可を申請、4月13日認可(広軌・工期約5か年・総工事費1725億円)。予算は1959年3月国会承認、利子等を加え1972億円。1959年4月東京幹線工事局と名古屋・大阪出張所を設置
  • 読売新聞(1959年2月4日)
    • [17]社会党は新線建設に反対しないが、一部政府機関の独断で進む危険を追及すると決めた
    • [18]社会党は新線建設に反対しないが、一部政府機関の独断で進む危険を追及すると決めた
参考文献[1]-[18]
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「発足と戦後」(日本国有鉄道)
    • [1]1949年6月1日に日本国有鉄道が公共企業体として発足。総裁を長とする執行機関と監理委員会の分立体制
    • [2]1949年6月1日に日本国有鉄道が公共企業体として発足。総裁を長とする執行機関と監理委員会の分立体制
  • 経団連月報 1958年10月号「東海道新幹線の建設について・十河信二」
    • [3]東海道線は国鉄全線の100分の3に満たないが全国旅客貨物輸送量の4分の1を担う(十河信二の寄稿)
    • [11]沿線都道府県に全国人口の約4割、製造工業生産額の6割が集中すると十河信二が説明
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「新幹線」(日本国有鉄道、1973年)
    • [4]1956年5月本社に東海道線増強調査会(会長は技師長)。各案とも1000億円超。1957年7月2日十河総裁が運輸大臣宮沢胤勇に増強を要請、8月30日運輸省に幹線調査会設置
    • [5]1956年5月本社に東海道線増強調査会(会長は技師長)。各案とも1000億円超。1957年7月2日十河総裁が運輸大臣宮沢胤勇に増強を要請、8月30日運輸省に幹線調査会設置
    • [6]1956年5月本社に東海道線増強調査会(会長は技師長)。各案とも1000億円超。1957年7月2日十河総裁が運輸大臣宮沢胤勇に増強を要請、8月30日運輸省に幹線調査会設置
    • [7]1958年3月27日幹線調査会第1分科会が広軌別線を適当と結論。十河総裁・島技師長ら国鉄幹部が当初から広軌別線案を構想。十河は第1回調査会で戦前の広軌新幹線を下回る計画では間に合わないと発言。自動車輸送や航空機競争を理由とする反対論もあった
    • [8]1958年3月27日幹線調査会第1分科会が広軌別線を適当と結論。十河総裁・島技師長ら国鉄幹部が当初から広軌別線案を構想。十河は第1回調査会で戦前の広軌新幹線を下回る計画では間に合わないと発言。自動車輸送や航空機競争を理由とする反対論もあった
    • [9]1958年3月27日幹線調査会第1分科会が広軌別線を適当と結論。十河総裁・島技師長ら国鉄幹部が当初から広軌別線案を構想。十河は第1回調査会で戦前の広軌新幹線を下回る計画では間に合わないと発言。自動車輸送や航空機競争を理由とする反対論もあった
    • [12]1958年3月27日幹線調査会第1分科会が広軌別線を適当と結論。十河総裁・島技師長ら国鉄幹部が当初から広軌別線案を構想。十河は第1回調査会で戦前の広軌新幹線を下回る計画では間に合わないと発言。自動車輸送や航空機競争を理由とする反対論もあった
    • [13]1959年3月25日事柄認可を申請、4月13日認可(広軌・工期約5か年・総工事費1725億円)。予算は1959年3月国会承認、利子等を加え1972億円。1959年4月東京幹線工事局と名古屋・大阪出張所を設置
    • [14]1959年3月25日事柄認可を申請、4月13日認可(広軌・工期約5か年・総工事費1725億円)。予算は1959年3月国会承認、利子等を加え1972億円。1959年4月東京幹線工事局と名古屋・大阪出張所を設置
    • [15]1959年3月25日事柄認可を申請、4月13日認可(広軌・工期約5か年・総工事費1725億円)。予算は1959年3月国会承認、利子等を加え1972億円。1959年4月東京幹線工事局と名古屋・大阪出張所を設置
    • [16]1959年3月25日事柄認可を申請、4月13日認可(広軌・工期約5か年・総工事費1725億円)。予算は1959年3月国会承認、利子等を加え1972億円。1959年4月東京幹線工事局と名古屋・大阪出張所を設置
  • 汎交通 1958年9月号「東海道広軌新幹線・十河信二」
    • [10]十河信二は狭軌では速力が出ず輸送力が少なく安全度も低いと述べた
  • 読売新聞(1959年2月4日)
    • [17]社会党は新線建設に反対しないが、一部政府機関の独断で進む危険を追及すると決めた
    • [18]社会党は新線建設に反対しないが、一部政府機関の独断で進む危険を追及すると決めた

1960年〜世界銀行の借款と800億円の予算不足、東京〜新大阪515キロの「ひかり」

東海道新幹線の工事費は、着工から1年たたずに当初の見込みを超えた。1959年末に建設基準とルート、長大トンネルの契約が固まった段階で、不足が明らかになった。国鉄は世界銀行と借款を交渉しており、信用を損なわないよう総額予算を据え置いて1960年度の契約を進めた。不足額は1961年4月に864億円、同年12月には1218億円。1962年5月の三河島事故を機に他線区の改良を後回しにしたとの非難が強まり、国鉄は2926億円の枠を動かさずに予算を要求した。1963年5月には、補正予算950億円を組んでもなお800億円が不足すると報じられた。増額の表明を先へ延ばしたことで、不足が一度に表面化したとみられる。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「新幹線」(日本国有鉄道、1973年)
    • [19]1959年末に工事費不足が明瞭化、世銀交渉中の信用問題で総額据え置き。不足額は1961年4月864億円、12月1218億円。1962年5月三河島事故後の批判を受け2926億円の枠を動かさず要求
    • [20]1959年末に工事費不足が明瞭化、世銀交渉中の信用問題で総額据え置き。不足額は1961年4月864億円、12月1218億円。1962年5月三河島事故後の批判を受け2926億円の枠を動かさず要求
    • [21]1959年末に工事費不足が明瞭化、世銀交渉中の信用問題で総額据え置き。不足額は1961年4月864億円、12月1218億円。1962年5月三河島事故後の批判を受け2926億円の枠を動かさず要求
    • [22]1959年末に工事費不足が明瞭化、世銀交渉中の信用問題で総額据え置き。不足額は1961年4月864億円、12月1218億円。1962年5月三河島事故後の批判を受け2926億円の枠を動かさず要求
    • [23]1959年末に工事費不足が明瞭化、世銀交渉中の信用問題で総額据え置き。不足額は1961年4月864億円、12月1218億円。1962年5月三河島事故後の批判を受け2926億円の枠を動かさず要求
  • 読売新聞(1963年5月28日)
    • [24]補正予算950億円を組んだうえでなお東海道新幹線の予算が800億円不足と論評

国鉄と世界銀行の正式な折衝は、1959年12月に国鉄の使節団が渡米して始まった。1960年5月には世界銀行が調査団を約1か月派遣し、国鉄の組織や経営状態から新幹線の設計と工程まで調査。十河信二氏は1961年1月から約1か月渡米し、政府の代表とともに最終契約の草案を固めた。1961年5月2日、十河信二氏は世界銀行の総裁と契約書に署名し、8000万ドルの借款を得た。世界銀行は融資の条件に実績のある技術を求め、国鉄は在来技術の総合として新幹線を示した。契約が日本政府に課したのは、新幹線を完成させる国際的な義務である。それでも1963年には、補正後も800億円が不足すると報じられた。完成が国際的な約束になったことは、予算の膨らむ工事を中断させない支えになったと考えられる。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「新幹線」(日本国有鉄道、1973年)
    • [25]1959年12月国鉄使節団渡米で折衝開始、1960年5月世銀調査団が約1か月調査、1961年1月十河総裁ら渡米で草案確定、1961年5月2日十河総裁と世銀総裁が8000万ドル借款契約に署名。日本政府も完成を国際的に義務づけられた
    • [26]1959年12月国鉄使節団渡米で折衝開始、1960年5月世銀調査団が約1か月調査、1961年1月十河総裁ら渡米で草案確定、1961年5月2日十河総裁と世銀総裁が8000万ドル借款契約に署名。日本政府も完成を国際的に義務づけられた
    • [27]1959年12月国鉄使節団渡米で折衝開始、1960年5月世銀調査団が約1か月調査、1961年1月十河総裁ら渡米で草案確定、1961年5月2日十河総裁と世銀総裁が8000万ドル借款契約に署名。日本政府も完成を国際的に義務づけられた
    • [28]1959年12月国鉄使節団渡米で折衝開始、1960年5月世銀調査団が約1か月調査、1961年1月十河総裁ら渡米で草案確定、1961年5月2日十河総裁と世銀総裁が8000万ドル借款契約に署名。日本政府も完成を国際的に義務づけられた
    • [29]世銀は融資条件にSound Engineering(経験積みの技術)を提示し、国鉄は従来技術の総合で東京・大阪3時間を達成可能とした
    • [30]1959年12月国鉄使節団渡米で折衝開始、1960年5月世銀調査団が約1か月調査、1961年1月十河総裁ら渡米で草案確定、1961年5月2日十河総裁と世銀総裁が8000万ドル借款契約に署名。日本政府も完成を国際的に義務づけられた
  • 読売新聞(1963年5月28日)
    • [31]1963年5月時点で補正950億円後もなお800億円不足

東海道新幹線は1964年10月1日午前6時、東京と新大阪から超特急「ひかり1号」「ひかり2号」を出して営業を始めた。路線の長さは515キロで、着工から5年5カ月での開業である。東京・大阪間の全線を一度に開業した前例はなく、国鉄は1964年4月1日に東海道新幹線支社を新設して準備を進めた。工事監査団は9月17日、10月1日に使用を始めて差し支えないとする報告書を総裁に出した。開業時のダイヤは東京・新大阪間の超特急が片道14本、特急が片道12本である。1939年に可決された答申案は、東京・大阪間を4時間半で結ぶ運転を目標に掲げた。新幹線は開業前に、東京・大阪間を3時間で走れることを全線で確かめる必要があった。

  • 読売新聞(1964年10月1日)
    • [32]1964年10月1日午前6時、東京・新大阪から「ひかり1号」「ひかり2号」が発車し広軌515キロで営業開始。着工以来5年5ヶ月
    • [33]1964年10月1日午前6時、東京・新大阪から「ひかり1号」「ひかり2号」が発車し広軌515キロで営業開始。着工以来5年5ヶ月
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「新幹線」(日本国有鉄道、1973年)
    • [34]1964年4月1日東海道新幹線支社新設。9月17日工事監査報告で10月1日使用開始差し支えなし。超特急片道14本・特急片道12本。全線で3時間運転を確認する必要があった
    • [35]1964年4月1日東海道新幹線支社新設。9月17日工事監査報告で10月1日使用開始差し支えなし。超特急片道14本・特急片道12本。全線で3時間運転を確認する必要があった
    • [36]1964年4月1日東海道新幹線支社新設。9月17日工事監査報告で10月1日使用開始差し支えなし。超特急片道14本・特急片道12本。全線で3時間運転を確認する必要があった
    • [38]1964年4月1日東海道新幹線支社新設。9月17日工事監査報告で10月1日使用開始差し支えなし。超特急片道14本・特急片道12本。全線で3時間運転を確認する必要があった
  • 読売新聞(1939年11月7日)
    • [37]1939年の答申案は東京〜大阪間4時間半運転を目標とした
参考文献[19]-[38]
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「新幹線」(日本国有鉄道、1973年)
    • [19]1959年末に工事費不足が明瞭化、世銀交渉中の信用問題で総額据え置き。不足額は1961年4月864億円、12月1218億円。1962年5月三河島事故後の批判を受け2926億円の枠を動かさず要求
    • [20]1959年末に工事費不足が明瞭化、世銀交渉中の信用問題で総額据え置き。不足額は1961年4月864億円、12月1218億円。1962年5月三河島事故後の批判を受け2926億円の枠を動かさず要求
    • [21]1959年末に工事費不足が明瞭化、世銀交渉中の信用問題で総額据え置き。不足額は1961年4月864億円、12月1218億円。1962年5月三河島事故後の批判を受け2926億円の枠を動かさず要求
    • [22]1959年末に工事費不足が明瞭化、世銀交渉中の信用問題で総額据え置き。不足額は1961年4月864億円、12月1218億円。1962年5月三河島事故後の批判を受け2926億円の枠を動かさず要求
    • [23]1959年末に工事費不足が明瞭化、世銀交渉中の信用問題で総額据え置き。不足額は1961年4月864億円、12月1218億円。1962年5月三河島事故後の批判を受け2926億円の枠を動かさず要求
    • [25]1959年12月国鉄使節団渡米で折衝開始、1960年5月世銀調査団が約1か月調査、1961年1月十河総裁ら渡米で草案確定、1961年5月2日十河総裁と世銀総裁が8000万ドル借款契約に署名。日本政府も完成を国際的に義務づけられた
    • [26]1959年12月国鉄使節団渡米で折衝開始、1960年5月世銀調査団が約1か月調査、1961年1月十河総裁ら渡米で草案確定、1961年5月2日十河総裁と世銀総裁が8000万ドル借款契約に署名。日本政府も完成を国際的に義務づけられた
    • [27]1959年12月国鉄使節団渡米で折衝開始、1960年5月世銀調査団が約1か月調査、1961年1月十河総裁ら渡米で草案確定、1961年5月2日十河総裁と世銀総裁が8000万ドル借款契約に署名。日本政府も完成を国際的に義務づけられた
    • [28]1959年12月国鉄使節団渡米で折衝開始、1960年5月世銀調査団が約1か月調査、1961年1月十河総裁ら渡米で草案確定、1961年5月2日十河総裁と世銀総裁が8000万ドル借款契約に署名。日本政府も完成を国際的に義務づけられた
    • [29]世銀は融資条件にSound Engineering(経験積みの技術)を提示し、国鉄は従来技術の総合で東京・大阪3時間を達成可能とした
    • [30]1959年12月国鉄使節団渡米で折衝開始、1960年5月世銀調査団が約1か月調査、1961年1月十河総裁ら渡米で草案確定、1961年5月2日十河総裁と世銀総裁が8000万ドル借款契約に署名。日本政府も完成を国際的に義務づけられた
    • [34]1964年4月1日東海道新幹線支社新設。9月17日工事監査報告で10月1日使用開始差し支えなし。超特急片道14本・特急片道12本。全線で3時間運転を確認する必要があった
    • [35]1964年4月1日東海道新幹線支社新設。9月17日工事監査報告で10月1日使用開始差し支えなし。超特急片道14本・特急片道12本。全線で3時間運転を確認する必要があった
    • [36]1964年4月1日東海道新幹線支社新設。9月17日工事監査報告で10月1日使用開始差し支えなし。超特急片道14本・特急片道12本。全線で3時間運転を確認する必要があった
    • [38]1964年4月1日東海道新幹線支社新設。9月17日工事監査報告で10月1日使用開始差し支えなし。超特急片道14本・特急片道12本。全線で3時間運転を確認する必要があった
  • 読売新聞(1963年5月28日)
    • [24]補正予算950億円を組んだうえでなお東海道新幹線の予算が800億円不足と論評
    • [31]1963年5月時点で補正950億円後もなお800億円不足
  • 読売新聞(1964年10月1日)
    • [32]1964年10月1日午前6時、東京・新大阪から「ひかり1号」「ひかり2号」が発車し広軌515キロで営業開始。着工以来5年5ヶ月
    • [33]1964年10月1日午前6時、東京・新大阪から「ひかり1号」「ひかり2号」が発車し広軌515キロで営業開始。着工以来5年5ヶ月
  • 読売新聞(1939年11月7日)
    • [37]1939年の答申案は東京〜大阪間4時間半運転を目標とした

1965年〜国鉄改革三人組と第2次臨調、六地域への分割と新幹線保有機構

国鉄の収支は1966年度に赤字へ転じ、1973年度の単年度赤字は償却後で4544億円に達した。1973年度末の累積赤字は1兆5955億円で、資本金と資本積立金の合計1兆5896億円を初めて上回った。赤字の原因とされたのは、人員削減などの合理化の失敗と借入金の増加である。長期債務は27兆円に積み上がり、労働組合の職場支配とともに改革の焦点になった。第2次臨時行政調査会が発足したころ、国鉄をどう抜本的に改めるかはまだ決まっていなかった。本社経営計画室で臨調を担当した葛西敬之氏は、伊藤忠商事相談役の瀬島龍三氏へ現場の実情を記したメモを送った。葛西敬之氏は井手正敬氏、松田昌士氏とともに本社の課長級にあり、臨調と監理委員会の議論に情報と理論を提供した。国鉄の内部から材料が出たことで、分割・民営化の議論は具体性を得た可能性が高い。

  • 日経ビジネス 1974年9月16日号
    • [39]国鉄は1966年度(昭和41年度)から赤字、1973年度単年度赤字は償却後4544億円、年度末累積赤字1兆5955億円が資本金と資本積立金合計1兆5896億円を超過。合理化失敗と借入金増が原因
    • [40]国鉄は1966年度(昭和41年度)から赤字、1973年度単年度赤字は償却後4544億円、年度末累積赤字1兆5955億円が資本金と資本積立金合計1兆5896億円を超過。合理化失敗と借入金増が原因
    • [41]国鉄は1966年度(昭和41年度)から赤字、1973年度単年度赤字は償却後4544億円、年度末累積赤字1兆5955億円が資本金と資本積立金合計1兆5896億円を超過。合理化失敗と借入金増が原因
  • 日経ビジネス 1991年4月8日号
    • [42]労組の職場支配と27兆円の長期債務。第2次臨調発足時は抜本改革の方向未定。経営計画室で臨調担当の葛西敬之が瀬島龍三に葛西メモを送付
    • [43]労組の職場支配と27兆円の長期債務。第2次臨調発足時は抜本改革の方向未定。経営計画室で臨調担当の葛西敬之が瀬島龍三に葛西メモを送付
    • [44]労組の職場支配と27兆円の長期債務。第2次臨調発足時は抜本改革の方向未定。経営計画室で臨調担当の葛西敬之が瀬島龍三に葛西メモを送付
    • [45]井手正敬・松田・葛西の3人組が本社課長クラスとして臨調・監理委員会の議論を導いた

中曽根康弘首相は総裁の仁杉巌氏を更迭し、元運輸事務次官の杉浦喬也氏を後任の総裁に起用した。それまで国鉄の社内で勢力を増やしていたのは分割反対派である。井手正敬氏は東京西鉄道管理局長へ、松田昌士氏は北海道総局へ転出し、葛西敬之氏は職員課長にとどまって動きを封じられた。総裁の交代で3人は本社に呼び戻され、分割・民営化の実務を進めた。国鉄再建監理委員会は1985年7月26日、分割・民営化を事業再生の唯一の方策とする意見を首相に提出した。意見は旅客部門を全国6社に分けるもので、本州では東海道新幹線と中京圏の交通を1つのまとまりとする。本州の3グループでは、旅客の流動がグループ内で完結する割合は98%に達した。

  • Decide 1990年8月号
    • [46]分割反対派が勢力を増した時期に井手は東京西鉄道管理局長、松田は北海道総局へ転出、葛西は職員課長に。中曽根首相が仁杉巌総裁を更迭し元運輸事務次官杉浦喬也を起用、3人は本社に復帰
    • [47]分割反対派が勢力を増した時期に井手は東京西鉄道管理局長、松田は北海道総局へ転出、葛西は職員課長に。中曽根首相が仁杉巌総裁を更迭し元運輸事務次官杉浦喬也を起用、3人は本社に復帰
    • [48]分割反対派が勢力を増した時期に井手は東京西鉄道管理局長、松田は北海道総局へ転出、葛西は職員課長に。中曽根首相が仁杉巌総裁を更迭し元運輸事務次官杉浦喬也を起用、3人は本社に復帰
    • [49]分割反対派が勢力を増した時期に井手は東京西鉄道管理局長、松田は北海道総局へ転出、葛西は職員課長に。中曽根首相が仁杉巌総裁を更迭し元運輸事務次官杉浦喬也を起用、3人は本社に復帰
  • 国鉄改革―鉄道の未来を拓くために(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年7月26日)
    • [50]1985年7月26日監理委員会が分割・民営化を唯一の方策とする最終意見を首相に提出。旅客を全国6分割、本州は首都圏・東北上越、東海道新幹線・中京圏、近畿圏・山陽の3グループで域内完結度98%
    • [51]1985年7月26日監理委員会が分割・民営化を唯一の方策とする最終意見を首相に提出。旅客を全国6分割、本州は首都圏・東北上越、東海道新幹線・中京圏、近畿圏・山陽の3グループで域内完結度98%
    • [52]1985年7月26日監理委員会が分割・民営化を唯一の方策とする最終意見を首相に提出。旅客を全国6分割、本州は首都圏・東北上越、東海道新幹線・中京圏、近畿圏・山陽の3グループで域内完結度98%

監理委員会は、新幹線を旅客会社と切り離して保有主体に持たせる仕組みを示した。保有主体は新幹線の資産を再調達価額で引き継ぎ、簿価との差額を30年の分割払いで旧国鉄に払うとされた。処理を要する長期債務等37.3兆円のうち、新事業体が保有主体を経由する分を含めて負う額の見込みは14.2兆円。発足後は新幹線保有機構が新幹線を所有し、JR東海、JR東日本、JR西日本の本州3社へリース料を取って貸した。リース料は各社の収益力に応じて割り振り、利益の格差をならす役割を担った。杉浦喬也氏は、新幹線ごとの収支の差をそのままにすれば東北と上越の新幹線は採算がとれなくなったと振り返った。東海道新幹線を自社の資産に持たない発足は、JR東海に資産の譲受けという課題を残したと推測できる。

  • 国鉄改革―鉄道の未来を拓くために(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年7月26日)
    • [53]新幹線保有主体が資産を再調達価額で引き継ぎ、簿価との差額を旧国鉄へ30年分割払い。長期債務等37.3兆円のうち新事業体の実質負担は保有主体経由分を含め14.2兆円
    • [54]新幹線保有主体が資産を再調達価額で引き継ぎ、簿価との差額を旧国鉄へ30年分割払い。長期債務等37.3兆円のうち新事業体の実質負担は保有主体経由分を含め14.2兆円
    • [55]新幹線保有主体が資産を再調達価額で引き継ぎ、簿価との差額を旧国鉄へ30年分割払い。長期債務等37.3兆円のうち新事業体の実質負担は保有主体経由分を含め14.2兆円
  • 日経ビジネス 1990年1月1日号
    • [56]新幹線保有機構が新幹線を所有しJR本州3社がリース料を払って借りる。リース料で各社の利益格差を調整。杉浦喬也は新幹線の収支採算の差を放置すると東北・上越新幹線の経営が成り立たない恐れがあったと語った
    • [57]新幹線保有機構が新幹線を所有しJR本州3社がリース料を払って借りる。リース料で各社の利益格差を調整。杉浦喬也は新幹線の収支採算の差を放置すると東北・上越新幹線の経営が成り立たない恐れがあったと語った
    • [58]新幹線保有機構が新幹線を所有しJR本州3社がリース料を払って借りる。リース料で各社の利益格差を調整。杉浦喬也は新幹線の収支採算の差を放置すると東北・上越新幹線の経営が成り立たない恐れがあったと語った
参考文献[39]-[58]
  • 日経ビジネス 1974年9月16日号
    • [39]国鉄は1966年度(昭和41年度)から赤字、1973年度単年度赤字は償却後4544億円、年度末累積赤字1兆5955億円が資本金と資本積立金合計1兆5896億円を超過。合理化失敗と借入金増が原因
    • [40]国鉄は1966年度(昭和41年度)から赤字、1973年度単年度赤字は償却後4544億円、年度末累積赤字1兆5955億円が資本金と資本積立金合計1兆5896億円を超過。合理化失敗と借入金増が原因
    • [41]国鉄は1966年度(昭和41年度)から赤字、1973年度単年度赤字は償却後4544億円、年度末累積赤字1兆5955億円が資本金と資本積立金合計1兆5896億円を超過。合理化失敗と借入金増が原因
  • 日経ビジネス 1991年4月8日号
    • [42]労組の職場支配と27兆円の長期債務。第2次臨調発足時は抜本改革の方向未定。経営計画室で臨調担当の葛西敬之が瀬島龍三に葛西メモを送付
    • [43]労組の職場支配と27兆円の長期債務。第2次臨調発足時は抜本改革の方向未定。経営計画室で臨調担当の葛西敬之が瀬島龍三に葛西メモを送付
    • [44]労組の職場支配と27兆円の長期債務。第2次臨調発足時は抜本改革の方向未定。経営計画室で臨調担当の葛西敬之が瀬島龍三に葛西メモを送付
    • [45]井手正敬・松田・葛西の3人組が本社課長クラスとして臨調・監理委員会の議論を導いた
  • Decide 1990年8月号
    • [46]分割反対派が勢力を増した時期に井手は東京西鉄道管理局長、松田は北海道総局へ転出、葛西は職員課長に。中曽根首相が仁杉巌総裁を更迭し元運輸事務次官杉浦喬也を起用、3人は本社に復帰
    • [47]分割反対派が勢力を増した時期に井手は東京西鉄道管理局長、松田は北海道総局へ転出、葛西は職員課長に。中曽根首相が仁杉巌総裁を更迭し元運輸事務次官杉浦喬也を起用、3人は本社に復帰
    • [48]分割反対派が勢力を増した時期に井手は東京西鉄道管理局長、松田は北海道総局へ転出、葛西は職員課長に。中曽根首相が仁杉巌総裁を更迭し元運輸事務次官杉浦喬也を起用、3人は本社に復帰
    • [49]分割反対派が勢力を増した時期に井手は東京西鉄道管理局長、松田は北海道総局へ転出、葛西は職員課長に。中曽根首相が仁杉巌総裁を更迭し元運輸事務次官杉浦喬也を起用、3人は本社に復帰
  • 国鉄改革―鉄道の未来を拓くために(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年7月26日)
    • [50]1985年7月26日監理委員会が分割・民営化を唯一の方策とする最終意見を首相に提出。旅客を全国6分割、本州は首都圏・東北上越、東海道新幹線・中京圏、近畿圏・山陽の3グループで域内完結度98%
    • [51]1985年7月26日監理委員会が分割・民営化を唯一の方策とする最終意見を首相に提出。旅客を全国6分割、本州は首都圏・東北上越、東海道新幹線・中京圏、近畿圏・山陽の3グループで域内完結度98%
    • [52]1985年7月26日監理委員会が分割・民営化を唯一の方策とする最終意見を首相に提出。旅客を全国6分割、本州は首都圏・東北上越、東海道新幹線・中京圏、近畿圏・山陽の3グループで域内完結度98%
    • [53]新幹線保有主体が資産を再調達価額で引き継ぎ、簿価との差額を旧国鉄へ30年分割払い。長期債務等37.3兆円のうち新事業体の実質負担は保有主体経由分を含め14.2兆円
    • [54]新幹線保有主体が資産を再調達価額で引き継ぎ、簿価との差額を旧国鉄へ30年分割払い。長期債務等37.3兆円のうち新事業体の実質負担は保有主体経由分を含め14.2兆円
    • [55]新幹線保有主体が資産を再調達価額で引き継ぎ、簿価との差額を旧国鉄へ30年分割払い。長期債務等37.3兆円のうち新事業体の実質負担は保有主体経由分を含め14.2兆円
  • 日経ビジネス 1990年1月1日号
    • [56]新幹線保有機構が新幹線を所有しJR本州3社がリース料を払って借りる。リース料で各社の利益格差を調整。杉浦喬也は新幹線の収支採算の差を放置すると東北・上越新幹線の経営が成り立たない恐れがあったと語った
    • [57]新幹線保有機構が新幹線を所有しJR本州3社がリース料を払って借りる。リース料で各社の利益格差を調整。杉浦喬也は新幹線の収支採算の差を放置すると東北・上越新幹線の経営が成り立たない恐れがあったと語った
    • [58]新幹線保有機構が新幹線を所有しJR本州3社がリース料を払って借りる。リース料で各社の利益格差を調整。杉浦喬也は新幹線の収支採算の差を放置すると東北・上越新幹線の経営が成り立たない恐れがあったと語った

出典・参考

13件
出典・参考
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「新幹線」(日本国有鉄道、1973年)
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「発足と戦後」(日本国有鉄道)
  • 経団連月報 1958年10月号「東海道新幹線の建設について・十河信二」
  • 汎交通 1958年9月号「東海道広軌新幹線・十河信二」
  • 日経ビジネス 1974年9月16日号
  • Decide 1990年8月号
  • 日経ビジネス 1990年1月1日号
  • 日経ビジネス 1991年4月8日号
  • 読売新聞(1939年11月7日)
  • 読売新聞(1959年2月4日)
  • 読売新聞(1963年5月28日)
  • 読売新聞(1964年10月1日)
  • 国鉄改革―鉄道の未来を拓くために(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年7月26日)

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