新幹線施設の自社保有化 ── リースからの離脱と経営自主権の確立

資産を持たぬ運行会社が、なぜ稼ぎ頭の新幹線施設を自らの手に取り戻したのか

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時期 1991年10月
意思決定者 葛西敬之 東海旅客鉄道 副社長
論点 新幹線施設の保有形態と経営自主権
概要
1991年10月、東海旅客鉄道(JR東海)が、新幹線鉄道保有機構から東海道新幹線の鉄道施設を譲り受け、発足以来のリース方式を離れて自社保有へ移行した経営判断。葛西敬之副社長を中心にリース料の見直しと施設の買い取りを迫り、JRグループ内で「トラブルメーカー」と評されながらこれを実現した。
背景
1987年の国鉄分割民営化にあたり、新幹線施設は新幹線鉄道保有機構が一括保有し、JR3社が年7,000億円のリース料を按分して支払う変則的な所有形態がとられた。負担割合はJR東海が60%と最も重く、資産を持たないため減価償却も上場も難しい立場に置かれていた。
内容
JR東海はリース料の見直しを迫って実現させ、1991年10月に保有機構から東海道新幹線の鉄道施設を譲り受けた。品川新駅の用地や中央新幹線の事業主体を巡る対立と並ぶ、対JR東日本の攻防の一つで、基幹資産を自社の帳簿へ移す資本政策上の転換であった。
含意
施設を自社で保有したことで、車両更新やダイヤ改正を自社判断で動かせる体制が整い、減価償却する資産を得たことが1997年の上場の前提にもなった。1992年の「のぞみ」高速化から後年のリニア建設まで、東海道新幹線の収益を自ら差配する経営自主権を確立する出発点となった判断とみることができる。
筆者の見解

稼ぐ資産は手放さないという意思

この判断の中心にあるのは、運行だけを担う会社が、稼ぎ頭の施設そのものを自らの手に収めようとした点にある。民営化の設計では、新幹線という国家資産をひとまず保有機構に預け、各社は利用料を払って走らせる形が選ばれた。その枠組みを、発足からわずか数年で内側から崩し、施設を自社の帳簿へ移したところに、JR東海という会社の性格がよくあらわれているように見える。安定した路線を持つがゆえに、その路線を丸ごと自らのものにしておきたい——効率や自主権という言葉の裏には、稼ぐ資産は手放さないという素朴な意思がうかがえる。

同時にこの買い取りは、その後の同社の歩みをほぼ決めた出発点でもあった。施設を握ったことが上場を可能にし、自社判断で回せる体制が「のぞみ」の高速化を支え、東海道新幹線が生む利益はやがてリニア中央新幹線を全額自己負担で建てるという構想へとつながっていく。ひとつの路線を自ら差配する自主権を、この時に確保していなければ、後年の巨大投資はおそらく別の形になっていた。グループ内で「トラブルメーカー」と呼ばれてまで通したこの一手が、JR東海の独立独歩を象徴する。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

民営化が残した新幹線施設の変則的な所有

1987年4月、日本国有鉄道は旅客6社とJR貨物に分割民営化され、東海道新幹線と東海圏の在来線を引き継いで東海旅客鉄道(JR東海)が発足した。このとき新幹線の線路や車両基地は各社へ直接は配分されず、新たに設けられた新幹線鉄道保有機構が東海道・山陽・東北・上越の四新幹線をまとめて保有し、JR3社が利用料を払って列車を走らせる形がとられた。収益の柱である東海道新幹線を運行しながら、その施設を自社の資産としては持たない立場から、JR東海は出発した[1]

リース料の負担は小さくなかった。JR3社が保有機構へ支払う年間リース料は7,000億円にのぼり、その負担割合はJR東海が60%、JR東日本が30%、JR西日本が10%とされた。四新幹線のなかで最も稼ぐ東海道新幹線を担うJR東海が、費用の面でも最も重い比率を引き受けていた。安定した収益を生む路線を握りながら、その対価を毎年リース料として外部へ払い続ける構造が、発足時の同社の姿であった[2]

資産を持たない鉄道会社という不利

資産を持たないことは、単に体裁の問題ではなかった。施設を自社で保有していなければ、それに見合う減価償却費を計上できず、稼いだ利益を蓄えて次の投資へ回す循環を作りにくい。株式市場からの評価も定まりにくく、上場による資金調達の道も開けない。当時のJR東海について、ある雑誌は「資産らしき資産をもたず、新幹線の設備でも減価償却がなかなか難しい」立場だと記し、施設の買い取りを同社が「是非とも解決させたい」課題として捉えていたと伝えている[3]

背景には、収益構造の偏りもあった。JR東海の運賃収入は約9割を東海道新幹線に依存し、この一本の路線の行方が会社の命運を握っていた。施設の保有形態を他者に委ねたままでは、車両やダイヤ、設備投資といった競争力の根幹を、自社の判断だけでは動かしにくい。稼ぎ頭である東海道新幹線の施設を自らの手に取り戻すことは、JR東海にとって収益の源泉そのものを握り直す意味を持っていた[4]

決断

リース料の見直しと1991年10月の譲受け

JR東海はまず、リース料そのものの見直しに動いた。新幹線施設の買い取りが3社共通の課題として浮上するなかで、同社はいち早く買い取りに手を挙げ、あわせてリース料の引き下げを迫った。当時これを取り上げた雑誌は、JR東海が「そのリース料の見直しを迫り、それを実現してしまった腕力」を持つと評している。安定した収益を背景に、費用構造の是正を他社に先んじて実現していく交渉力が、この場面で発揮された[5]

そして1991年10月、JR東海は新幹線鉄道保有機構から東海道新幹線の鉄道施設を譲り受け、発足以来のリース方式を離れて自社保有へと移った。線路も車両基地も、これで同社の帳簿に載る資産となる。保有機構は同時期に解体され、変則的な一括保有の枠組みそのものが姿を消した。基幹資産を外部からのリースから自社の所有へ移したこの譲受けは、運行会社にとどまっていたJR東海の性格を、資産を抱える鉄道会社へと変える資本政策上の転換であった[6]

「トラブルメーカー」と呼ばれた攻防

この買い取りは、単独で進んだわけではなかった。品川への新駅用地や中央新幹線の事業主体を巡る綱引きと並んで、施設の買い取りとリース料の見直しは、JR東日本との一連の攻防の一角を占めていた。グループ内からの批判にも、JR東海は「我が道を行く」の態度を崩さず、「トラブルメーカーのJR東海」とまで評されながら要求を通していった。旧国鉄を一体で運営してきた各社が、民営化後は互いの利害をむき出しにぶつけ合う姿が、そこにあらわれていた[7]

一連の攻防を主導したのは、副社長の葛西敬之氏であった。国鉄の分割民営化を進めた「改革三人組」の一人で、JR東日本の松田昌士副社長と激しく対立したこの人物が、リース料の見直しから施設の買い取りまでの交渉を仕掛けたとみられていた。批判に対して葛西氏は「JR東海の人間として、当然のことをやっているだけのことですよ」と応じ、自社の資産と自主権を確保する立場を譲らなかった。須田寛社長のもとで葛西副社長が対外交渉の前面に立つ体制が、この判断を後押しした[8][9]

結果

自主権の確立と上場への道

自社保有への移行は、その後の経営の自由度を広げた。施設を自らの資産として抱えたことで、車両の更新やダイヤの改正を、他社との調整に縛られず自社の判断で進めやすくなる。移行の翌春にあたる1992年3月、JR東海は新型の300系車両による「のぞみ」の運転を始め、東京〜新大阪間を2時間30分で結んだ。施設・車両・ダイヤを一体で差配できる体制が、東海道新幹線の高速化を自前で押し進める土台となった[10]

財務の面でも、施設の保有は次の一手を開いた。自社の資産となった新幹線施設は減価償却の対象となり、稼いだ利益を投資へ回す循環が動き始める。市場が評価できる資産を備えたことは、株式上場の前提を整える意味も持った。買い取りから6年後の1997年10月、JR東海は名古屋・東京・大阪の各証券取引所へ株式を上場する。資産を持たない運行会社から、市場で評価される鉄道会社への歩みは、この施設の保有から始まっていた[11][12]

出典・参考
  • Decide=決断 1990年8月号(通巻79号)
  • 日本経済新聞(1990年10月20日)「新幹線買い取り、亀裂深まるJRグループ」
  • 東海旅客鉄道 有価証券報告書 第38期(2025年3月期)【沿革】
  • 東海旅客鉄道 会社年鑑(連結業績)