第1章 年〜年

西日本旅客鉄道:日本国有鉄道の発足と山陽新幹線の全通

1949年〜公共企業体日本国有鉄道の独立採算と、新大阪から岡山まで180.3kmの山陽新幹線

1949年6月、日本国有鉄道法に基づく公共企業体として日本国有鉄道が設立され、のちに西日本旅客鉄道が引き継ぐ北陸・近畿・中国地方の路線もこの組織に入った。敗戦後の国有鉄道は施設と車両が荒れ、特別会計の財政も赤字に転落して輸送の現状維持さえ難しくなった。1947年に日本国憲法が施行されて官庁の再編が日程に上ると、膨大な現業を抱える鉄道部門を運輸省から切り離す議論が大勢を占めた。政府は米国の同種組織を一から調べたが、公共企業体という組織形態は日本政府の発案ではなく、総司令部が内示した“Public corporation”の構想に由来する。独立採算制をとったことで大規模な工事資金は自前で調達できず、復興投資は抜本的な規模に達しなかった。

  • 有価証券報告書 FY24「沿革」
    • [1]1949年6月 日本国有鉄道法に基づき公共企業体として国鉄が設立
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「公共企業体としての発足と戦後」
    • [2]戦後の荒廃と財政の赤字転落、1947年憲法施行後の官庁再編で鉄道現業を運輸省から分離する議論、公共企業体は総司令部の構想に由来し独立採算制で工事資金の調達が困難になった
    • [3]戦後の荒廃と財政の赤字転落、1947年憲法施行後の官庁再編で鉄道現業を運輸省から分離する議論、公共企業体は総司令部の構想に由来し独立採算制で工事資金の調達が困難になった
    • [4]戦後の荒廃と財政の赤字転落、1947年憲法施行後の官庁再編で鉄道現業を運輸省から分離する議論、公共企業体は総司令部の構想に由来し独立採算制で工事資金の調達が困難になった
    • [5]戦後の荒廃と財政の赤字転落、1947年憲法施行後の官庁再編で鉄道現業を運輸省から分離する議論、公共企業体は総司令部の構想に由来し独立採算制で工事資金の調達が困難になった

国鉄は第3次長期計画の一環として1965年に山陽新幹線の新設を政府に申請して認可を受け、1966年から新大阪〜岡山間を第1期工事として着手した。起工式は1967年3月16日、場所は岡山県の帆坂トンネル東口。設計は東海道新幹線より速い時速250kmの運転を見込み、最小曲線半径は4000m、最急勾配は1000分の15である。その結果、トンネルが全線の35%、高架スラブ橋が45%を占め、土工の区間は約12kmにすぎない。国鉄大阪新幹線工事局は工期の短縮と地元業者への配慮から工区を短く分け、六甲トンネルも7工区に割って発注した。長期計画の投資拡大で借入が膨らみ、国鉄の自己資本構成率は1965年度に50%を下回った。

  • 間組百年史 1945-1989(1990)「山陽新幹線の建設」
    • [6]1965年申請・認可、1966年新大阪-岡山の第1期工事着手、1967年3月16日帆坂トンネル東口で起工式、時速250km・曲線半径4000m・勾配15‰、トンネル35%・高架45%、六甲トンネルを7工区で発注
    • [7]1965年申請・認可、1966年新大阪-岡山の第1期工事着手、1967年3月16日帆坂トンネル東口で起工式、時速250km・曲線半径4000m・勾配15‰、トンネル35%・高架45%、六甲トンネルを7工区で発注
    • [8]1965年申請・認可、1966年新大阪-岡山の第1期工事着手、1967年3月16日帆坂トンネル東口で起工式、時速250km・曲線半径4000m・勾配15‰、トンネル35%・高架45%、六甲トンネルを7工区で発注
    • [9]1965年申請・認可、1966年新大阪-岡山の第1期工事着手、1967年3月16日帆坂トンネル東口で起工式、時速250km・曲線半径4000m・勾配15‰、トンネル35%・高架45%、六甲トンネルを7工区で発注
    • [10]1965年申請・認可、1966年新大阪-岡山の第1期工事着手、1967年3月16日帆坂トンネル東口で起工式、時速250km・曲線半径4000m・勾配15‰、トンネル35%・高架45%、六甲トンネルを7工区で発注
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「財政悪化と再建」
    • [11]第2次・第3次長期計画の投資拡大で長期債務が膨張し、自己資本構成率は1965年度に50%を下回った

国鉄の損益は1966年度から赤字に転じた。1969年度以降の財政再建計画は、新幹線の建設に合わせて中長距離の旅客を在来線から移し、輸送の質と量を高めて収入を確保する筋書きを描いた。計画は山陽新幹線の営業開始を新大阪〜岡山間で1972年、岡山〜博多間で1975年と定め、在来線にも最高時速130km程度の優等列車網を組む構想を含む。旅客の輸送量は1973年度に約2270億人キロが目標。建設工事では、六甲トンネル芦屋工区が開業6か月前までの完了を条件とされ、1日400人を投じて1971年12月に竣工した。1972年3月、山陽新幹線は新大阪〜岡山間180.3kmで営業を始めた。

  • 日経ビジネス 1974/9/16
    • [12]国鉄の赤字は1966年度(昭和41年度)から生じた
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「財政悪化と再建」
    • [13]財政再建計画で中長距離旅客を新幹線へ移し、山陽新幹線を新大阪-岡山1972年・岡山-博多1975年に開業、在来線に130km/h級の優等列車網、旅客目標は1973年度約2270億人キロ
    • [14]財政再建計画で中長距離旅客を新幹線へ移し、山陽新幹線を新大阪-岡山1972年・岡山-博多1975年に開業、在来線に130km/h級の優等列車網、旅客目標は1973年度約2270億人キロ
    • [15]財政再建計画で中長距離旅客を新幹線へ移し、山陽新幹線を新大阪-岡山1972年・岡山-博多1975年に開業、在来線に130km/h級の優等列車網、旅客目標は1973年度約2270億人キロ
  • 間組百年史 1945-1989(1990)「山陽新幹線の建設」
    • [16]六甲トンネル芦屋工区は開業6か月前の完了が条件で、1日400人を動員し1971年12月に竣工
  • 有価証券報告書 FY24「沿革」
    • [17]1972年3月 山陽新幹線新大阪-岡山間180.3kmの営業開始
参考文献[1]-[17]
  • 有価証券報告書 FY24「沿革」
    • [1]1949年6月 日本国有鉄道法に基づき公共企業体として国鉄が設立
    • [17]1972年3月 山陽新幹線新大阪-岡山間180.3kmの営業開始
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「公共企業体としての発足と戦後」
    • [2]戦後の荒廃と財政の赤字転落、1947年憲法施行後の官庁再編で鉄道現業を運輸省から分離する議論、公共企業体は総司令部の構想に由来し独立採算制で工事資金の調達が困難になった
    • [3]戦後の荒廃と財政の赤字転落、1947年憲法施行後の官庁再編で鉄道現業を運輸省から分離する議論、公共企業体は総司令部の構想に由来し独立採算制で工事資金の調達が困難になった
    • [4]戦後の荒廃と財政の赤字転落、1947年憲法施行後の官庁再編で鉄道現業を運輸省から分離する議論、公共企業体は総司令部の構想に由来し独立採算制で工事資金の調達が困難になった
    • [5]戦後の荒廃と財政の赤字転落、1947年憲法施行後の官庁再編で鉄道現業を運輸省から分離する議論、公共企業体は総司令部の構想に由来し独立採算制で工事資金の調達が困難になった
  • 間組百年史 1945-1989(1990)「山陽新幹線の建設」
    • [6]1965年申請・認可、1966年新大阪-岡山の第1期工事着手、1967年3月16日帆坂トンネル東口で起工式、時速250km・曲線半径4000m・勾配15‰、トンネル35%・高架45%、六甲トンネルを7工区で発注
    • [7]1965年申請・認可、1966年新大阪-岡山の第1期工事着手、1967年3月16日帆坂トンネル東口で起工式、時速250km・曲線半径4000m・勾配15‰、トンネル35%・高架45%、六甲トンネルを7工区で発注
    • [8]1965年申請・認可、1966年新大阪-岡山の第1期工事着手、1967年3月16日帆坂トンネル東口で起工式、時速250km・曲線半径4000m・勾配15‰、トンネル35%・高架45%、六甲トンネルを7工区で発注
    • [9]1965年申請・認可、1966年新大阪-岡山の第1期工事着手、1967年3月16日帆坂トンネル東口で起工式、時速250km・曲線半径4000m・勾配15‰、トンネル35%・高架45%、六甲トンネルを7工区で発注
    • [10]1965年申請・認可、1966年新大阪-岡山の第1期工事着手、1967年3月16日帆坂トンネル東口で起工式、時速250km・曲線半径4000m・勾配15‰、トンネル35%・高架45%、六甲トンネルを7工区で発注
    • [16]六甲トンネル芦屋工区は開業6か月前の完了が条件で、1日400人を動員し1971年12月に竣工
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「財政悪化と再建」
    • [11]第2次・第3次長期計画の投資拡大で長期債務が膨張し、自己資本構成率は1965年度に50%を下回った
    • [13]財政再建計画で中長距離旅客を新幹線へ移し、山陽新幹線を新大阪-岡山1972年・岡山-博多1975年に開業、在来線に130km/h級の優等列車網、旅客目標は1973年度約2270億人キロ
    • [14]財政再建計画で中長距離旅客を新幹線へ移し、山陽新幹線を新大阪-岡山1972年・岡山-博多1975年に開業、在来線に130km/h級の優等列車網、旅客目標は1973年度約2270億人キロ
    • [15]財政再建計画で中長距離旅客を新幹線へ移し、山陽新幹線を新大阪-岡山1972年・岡山-博多1975年に開業、在来線に130km/h級の優等列車網、旅客目標は1973年度約2270億人キロ
  • 日経ビジネス 1974/9/16
    • [12]国鉄の赤字は1966年度(昭和41年度)から生じた

1973年〜博多まで465.3kmの山陽新幹線全通と、幹線と区分された西日本の地方交通線

1975年3月、山陽新幹線は岡山〜博多間の営業を始め、新大阪から博多までの465.3kmが1本の新幹線でつながった。開業の年は、1969年度以降の財政再建計画が岡山開業と対にして定めた時期にあたる。東海道新幹線の開業だけでも山陽・九州方面への到達時間は約3〜4時間縮まり、博多以遠の熊本や長崎まで日着が可能になった。その効果は北陸本線の沿線にも及び、東海道経由と信越本線経由の所要が等しくなる地点は福井付近から高岡まで北上した。1985年の再建監理委員会の意見での山陽新幹線の位置づけは、近畿圏と西日本の中長距離の都市間輸送を担う路線である。博多全通は、東海道新幹線が開いた時間短縮の効果を西日本の広い範囲へ延ばす投資だったのだろう。

  • 有価証券報告書 FY24「沿革」
    • [18]1975年3月 山陽新幹線岡山-博多間の営業開始(465.3km)
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「財政悪化と再建」
    • [19]財政再建計画は岡山-博多間の開業を1975年と定めた
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「新幹線」
    • [20]東海道新幹線で山陽・九州方面は約3-4時間短縮、博多以遠の熊本・長崎が日着可能に、北陸本線沿線の等時間帯が福井付近から高岡へ北上
    • [21]東海道新幹線で山陽・九州方面は約3-4時間短縮、博多以遠の熊本・長崎が日着可能に、北陸本線沿線の等時間帯が福井付近から高岡へ北上
  • 国鉄改革 鉄道の未来を拓くために(再建監理委員会意見 1985)
    • [22]山陽新幹線は近畿圏と西日本の中長距離都市間輸送を担う

1973年度の国鉄は償却後で4544億円の単年度赤字を計上し、累積赤字は1兆5955億円に膨らんだ。この額は資本金と資本積立金の合計1兆5896億円を開業以来初めて上回った。営業収入1兆3791億円に対して営業経費は1兆8407億円に達し、人件費は春闘の大幅な賃上げで前年度より19%増えた。利子と債務取扱諸費も15%増え、この負担の根は、1960年度の240億円から1965年度の1012億円へ4.2倍になった長期計画期の借入にある。貨物の輸送シェアは道路整備で伸びたトラックに奪われ、1955年度の50%超から1973年度には17%へ低下。1974年10月の運賃値上げについても、経営改善への効果は乏しいというのが大方の見方だった。

  • 日経ビジネス 1974/9/16
    • [23]1973年度 償却後赤字4544億円、累積赤字1兆5955億円が資本金・資本積立金計1兆5896億円を超過、営業収入1兆3791億円・営業経費1兆8407億円、人件費19%増・利子等15%増、貨物シェア17%、1974年10月の値上げは焼け石に水との見方
    • [24]1973年度 償却後赤字4544億円、累積赤字1兆5955億円が資本金・資本積立金計1兆5896億円を超過、営業収入1兆3791億円・営業経費1兆8407億円、人件費19%増・利子等15%増、貨物シェア17%、1974年10月の値上げは焼け石に水との見方
    • [25]1973年度 償却後赤字4544億円、累積赤字1兆5955億円が資本金・資本積立金計1兆5896億円を超過、営業収入1兆3791億円・営業経費1兆8407億円、人件費19%増・利子等15%増、貨物シェア17%、1974年10月の値上げは焼け石に水との見方
    • [27]1973年度 償却後赤字4544億円、累積赤字1兆5955億円が資本金・資本積立金計1兆5896億円を超過、営業収入1兆3791億円・営業経費1兆8407億円、人件費19%増・利子等15%増、貨物シェア17%、1974年10月の値上げは焼け石に水との見方
    • [28]1973年度 償却後赤字4544億円、累積赤字1兆5955億円が資本金・資本積立金計1兆5896億円を超過、営業収入1兆3791億円・営業経費1兆8407億円、人件費19%増・利子等15%増、貨物シェア17%、1974年10月の値上げは焼け石に水との見方
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「財政悪化と再建」
    • [26]利子および債務取扱諸費は1960年度240億円から1965年度1012億円へ4.2倍

国鉄諮問委員会は赤字の本質を衰退分野による発展分野の圧迫に求め、路線を幹線系線区と地方交通線区に会計上分けるよう意見書で提言した。幹線系は自立経営をめざし、地方交通線区の運営赤字は国か地方公共団体がその年度内に補塡する仕組みである。この線区別の会計区分は1970年度に試行され、1971年度から施行に移った。それでも赤字は止まらず、1976年度と1980年度の2回、累積欠損に相当する計5兆3000億円の長期債務が棚上げされた。輸送密度が低くバス輸送が適した線区は特定地方交通線とされ、法律に基づくバス転換の対象になった。北陸から九州北部まで2府16県に広がる西日本の路線網では、このローカル線の問題が経営基盤の弱さとして挙げられた。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「財政悪化と再建」
    • [29]国鉄諮問委員会が幹線系線区と地方交通線区の会計二分を提言、地方交通線区の赤字は国・地方が補塡、1970年度試行・1971年度施行
    • [30]国鉄諮問委員会が幹線系線区と地方交通線区の会計二分を提言、地方交通線区の赤字は国・地方が補塡、1970年度試行・1971年度施行
    • [31]国鉄諮問委員会が幹線系線区と地方交通線区の会計二分を提言、地方交通線区の赤字は国・地方が補塡、1970年度試行・1971年度施行
  • 国鉄改革 鉄道の未来を拓くために(再建監理委員会意見 1985)
    • [32]1976年度・1980年度に計5兆3000億円の長期債務を棚上げ、輸送密度が低い特定地方交通線は法律に基づきバス転換
    • [33]1976年度・1980年度に計5兆3000億円の長期債務を棚上げ、輸送密度が低い特定地方交通線は法律に基づきバス転換
  • 証券アナリストジャーナル 1994/7
    • [34]JR西日本は2府16県に及び、発足当初から私鉄・航空との競合やローカル線問題で経営基盤の脆弱さが指摘された(1994年回顧)
参考文献[18]-[34]
  • 有価証券報告書 FY24「沿革」
    • [18]1975年3月 山陽新幹線岡山-博多間の営業開始(465.3km)
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「財政悪化と再建」
    • [19]財政再建計画は岡山-博多間の開業を1975年と定めた
    • [26]利子および債務取扱諸費は1960年度240億円から1965年度1012億円へ4.2倍
    • [29]国鉄諮問委員会が幹線系線区と地方交通線区の会計二分を提言、地方交通線区の赤字は国・地方が補塡、1970年度試行・1971年度施行
    • [30]国鉄諮問委員会が幹線系線区と地方交通線区の会計二分を提言、地方交通線区の赤字は国・地方が補塡、1970年度試行・1971年度施行
    • [31]国鉄諮問委員会が幹線系線区と地方交通線区の会計二分を提言、地方交通線区の赤字は国・地方が補塡、1970年度試行・1971年度施行
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「新幹線」
    • [20]東海道新幹線で山陽・九州方面は約3-4時間短縮、博多以遠の熊本・長崎が日着可能に、北陸本線沿線の等時間帯が福井付近から高岡へ北上
    • [21]東海道新幹線で山陽・九州方面は約3-4時間短縮、博多以遠の熊本・長崎が日着可能に、北陸本線沿線の等時間帯が福井付近から高岡へ北上
  • 国鉄改革 鉄道の未来を拓くために(再建監理委員会意見 1985)
    • [22]山陽新幹線は近畿圏と西日本の中長距離都市間輸送を担う
    • [32]1976年度・1980年度に計5兆3000億円の長期債務を棚上げ、輸送密度が低い特定地方交通線は法律に基づきバス転換
    • [33]1976年度・1980年度に計5兆3000億円の長期債務を棚上げ、輸送密度が低い特定地方交通線は法律に基づきバス転換
  • 日経ビジネス 1974/9/16
    • [23]1973年度 償却後赤字4544億円、累積赤字1兆5955億円が資本金・資本積立金計1兆5896億円を超過、営業収入1兆3791億円・営業経費1兆8407億円、人件費19%増・利子等15%増、貨物シェア17%、1974年10月の値上げは焼け石に水との見方
    • [24]1973年度 償却後赤字4544億円、累積赤字1兆5955億円が資本金・資本積立金計1兆5896億円を超過、営業収入1兆3791億円・営業経費1兆8407億円、人件費19%増・利子等15%増、貨物シェア17%、1974年10月の値上げは焼け石に水との見方
    • [25]1973年度 償却後赤字4544億円、累積赤字1兆5955億円が資本金・資本積立金計1兆5896億円を超過、営業収入1兆3791億円・営業経費1兆8407億円、人件費19%増・利子等15%増、貨物シェア17%、1974年10月の値上げは焼け石に水との見方
    • [27]1973年度 償却後赤字4544億円、累積赤字1兆5955億円が資本金・資本積立金計1兆5896億円を超過、営業収入1兆3791億円・営業経費1兆8407億円、人件費19%増・利子等15%増、貨物シェア17%、1974年10月の値上げは焼け石に水との見方
    • [28]1973年度 償却後赤字4544億円、累積赤字1兆5955億円が資本金・資本積立金計1兆5896億円を超過、営業収入1兆3791億円・営業経費1兆8407億円、人件費19%増・利子等15%増、貨物シェア17%、1974年10月の値上げは焼け石に水との見方
  • 証券アナリストジャーナル 1994/7
    • [34]JR西日本は2府16県に及び、発足当初から私鉄・航空との競合やローカル線問題で経営基盤の脆弱さが指摘された(1994年回顧)

1982年〜再建監理委員会が引いた本州3社の線と、井手正敬・村井勉の西日本旅客鉄道

1981年3月に第2次臨時行政調査会が発足すると、その夏ごろから国鉄の分割民営化が論じられ始めた。1983年6月10日に発足した日本国有鉄道再建監理委員会は、1985年7月26日に国鉄改革に関する意見を内閣総理大臣へ提出した。意見は、全国一元の巨大組織のままでは経営責任が曖昧になるとして、公社制度と全国一元の運営をともに改めるよう求めた。本州は旅客の流れに沿って3つに分け、京阪神の国電区間を中心とする近畿圏の交通と山陽新幹線、北陸地方が1つのグループにあたる。このグループの旅客流動の完結度は98%にのぼる。東日本との境界は北陸線の直江津に引かれ、山陽新幹線は博多まで西日本側に置かれた。

  • 日経ビジネス 1992/12/21
    • [35]1981年3月に第2次臨時行政調査会が発足し、同年夏ごろから分割民営化論議が出始めた
  • 国鉄改革 鉄道の未来を拓くために(再建監理委員会意見 1985)
    • [36]1983年6月10日発足の再建監理委員会が1985年7月26日に意見を提出、全国一元組織の弊害と経営責任の曖昧さ、本州3分割で近畿圏・山陽新幹線・北陸を一体、完結度98%、東日本との境界は北陸線直江津、山陽新幹線は博多まで西日本側
    • [37]1983年6月10日発足の再建監理委員会が1985年7月26日に意見を提出、全国一元組織の弊害と経営責任の曖昧さ、本州3分割で近畿圏・山陽新幹線・北陸を一体、完結度98%、東日本との境界は北陸線直江津、山陽新幹線は博多まで西日本側
    • [38]1983年6月10日発足の再建監理委員会が1985年7月26日に意見を提出、全国一元組織の弊害と経営責任の曖昧さ、本州3分割で近畿圏・山陽新幹線・北陸を一体、完結度98%、東日本との境界は北陸線直江津、山陽新幹線は博多まで西日本側
    • [39]1983年6月10日発足の再建監理委員会が1985年7月26日に意見を提出、全国一元組織の弊害と経営責任の曖昧さ、本州3分割で近畿圏・山陽新幹線・北陸を一体、完結度98%、東日本との境界は北陸線直江津、山陽新幹線は博多まで西日本側
    • [40]1983年6月10日発足の再建監理委員会が1985年7月26日に意見を提出、全国一元組織の弊害と経営責任の曖昧さ、本州3分割で近畿圏・山陽新幹線・北陸を一体、完結度98%、東日本との境界は北陸線直江津、山陽新幹線は博多まで西日本側

分割民営化を国鉄の内側から推したのは、井手正敬氏、松田昌士氏、葛西敬之氏の「国鉄改革三人組」である。井手正敬氏は1980年3月に経営計画室主幹となり、1981年度に始まる5か年の再建計画づくりを担った。しかし職場の荒れ方を見て国鉄の自助努力では立ち直れないと考え、1981年秋に自らの計画を見切って分割民営化へ進む決意を固めた。改革派は当初20数人にすぎず、1984年に井手正敬氏は総裁室秘書課長から東京西鉄道管理局長へ出された。秘書課長の次は大阪鉄道管理局長などの特Aクラスの局長が通例だった。首相の中曽根康弘氏が仁杉巌総裁を更迭して元運輸事務次官の杉浦喬也氏を総裁に据えると、三人は本社に呼び戻された。井手正敬氏は1986年に総裁室長となった。

  • Decide 1990
    • [41]井手・松田・葛西の3氏は国鉄改革三人組と呼ばれた分割民営化の急進派で、中曽根首相が仁杉巌総裁を更迭し杉浦喬也氏を起用すると本社に呼び戻された
    • [46]井手・松田・葛西の3氏は国鉄改革三人組と呼ばれた分割民営化の急進派で、中曽根首相が仁杉巌総裁を更迭し杉浦喬也氏を起用すると本社に呼び戻された
  • 日経ビジネス 1992/12/21
    • [42]井手氏は1980年3月経営計画室主幹、1981年秋に分割民営化を決意、改革派は当初20数人、1984年秘書課長から東京西鉄道管理局長、通例は東京南か大阪鉄道管理局、1986年総裁室長
    • [43]井手氏は1980年3月経営計画室主幹、1981年秋に分割民営化を決意、改革派は当初20数人、1984年秘書課長から東京西鉄道管理局長、通例は東京南か大阪鉄道管理局、1986年総裁室長
    • [44]井手氏は1980年3月経営計画室主幹、1981年秋に分割民営化を決意、改革派は当初20数人、1984年秘書課長から東京西鉄道管理局長、通例は東京南か大阪鉄道管理局、1986年総裁室長
    • [45]井手氏は1980年3月経営計画室主幹、1981年秋に分割民営化を決意、改革派は当初20数人、1984年秘書課長から東京西鉄道管理局長、通例は東京南か大阪鉄道管理局、1986年総裁室長
    • [47]井手氏は1980年3月経営計画室主幹、1981年秋に分割民営化を決意、改革派は当初20数人、1984年秘書課長から東京西鉄道管理局長、通例は東京南か大阪鉄道管理局、1986年総裁室長

1986年12月、日本国有鉄道改革法など国鉄改革関連8法が公布され、国鉄の事業を旅客6社と貨物1社へ引き継ぐ枠組みが定まった。西日本旅客鉄道の会長の内命を受けたのは、住友銀行出身の村井勉氏である。村井勉氏は1976年に経営危機の東洋工業へ副社長として出向して立て直し、1982年からはアサヒビールの社長を務めた。マツダ(旧東洋工業)は1986年10月ごろ、国鉄から400人以上の出向者を受け入れ、現場の働きぶりを評価した。村井勉氏は国鉄の課題を、赤字を切り捨てる再建ではなく組織の活性化と捉え、東京に残る本社機能とは別に西日本に独自の頭脳を築く必要を説いた。副社長には総裁室長の井手正敬氏が充てられ、民間出身の会長と改革派の実務家による首脳の布陣が整った。

  • 有価証券報告書 FY24「沿革」
    • [48]1986年12月 日本国有鉄道改革法等の国鉄改革関連8法公布、旅客6社と貨物会社の設立
  • 日経ビジネス 1987/8/3 編集長インタビュー 村井勉(JR西日本会長)
    • [49]村井勉氏は住友銀行出身、1976年東洋工業に副社長として出向、1982年アサヒビール社長、JR西日本会長の内命を受ける、マツダは1986年10月頃国鉄から400人超の出向者を受け入れ、再建ではなく活性化、西日本に頭脳をつくる必要
    • [50]村井勉氏は住友銀行出身、1976年東洋工業に副社長として出向、1982年アサヒビール社長、JR西日本会長の内命を受ける、マツダは1986年10月頃国鉄から400人超の出向者を受け入れ、再建ではなく活性化、西日本に頭脳をつくる必要
    • [51]村井勉氏は住友銀行出身、1976年東洋工業に副社長として出向、1982年アサヒビール社長、JR西日本会長の内命を受ける、マツダは1986年10月頃国鉄から400人超の出向者を受け入れ、再建ではなく活性化、西日本に頭脳をつくる必要
    • [52]村井勉氏は住友銀行出身、1976年東洋工業に副社長として出向、1982年アサヒビール社長、JR西日本会長の内命を受ける、マツダは1986年10月頃国鉄から400人超の出向者を受け入れ、再建ではなく活性化、西日本に頭脳をつくる必要
  • 日経ビジネス 1992/12/21
    • [53]井手氏はJR西日本発足とともに副社長に就任
参考文献[35]-[53]
  • 日経ビジネス 1992/12/21
    • [35]1981年3月に第2次臨時行政調査会が発足し、同年夏ごろから分割民営化論議が出始めた
    • [42]井手氏は1980年3月経営計画室主幹、1981年秋に分割民営化を決意、改革派は当初20数人、1984年秘書課長から東京西鉄道管理局長、通例は東京南か大阪鉄道管理局、1986年総裁室長
    • [43]井手氏は1980年3月経営計画室主幹、1981年秋に分割民営化を決意、改革派は当初20数人、1984年秘書課長から東京西鉄道管理局長、通例は東京南か大阪鉄道管理局、1986年総裁室長
    • [44]井手氏は1980年3月経営計画室主幹、1981年秋に分割民営化を決意、改革派は当初20数人、1984年秘書課長から東京西鉄道管理局長、通例は東京南か大阪鉄道管理局、1986年総裁室長
    • [45]井手氏は1980年3月経営計画室主幹、1981年秋に分割民営化を決意、改革派は当初20数人、1984年秘書課長から東京西鉄道管理局長、通例は東京南か大阪鉄道管理局、1986年総裁室長
    • [47]井手氏は1980年3月経営計画室主幹、1981年秋に分割民営化を決意、改革派は当初20数人、1984年秘書課長から東京西鉄道管理局長、通例は東京南か大阪鉄道管理局、1986年総裁室長
    • [53]井手氏はJR西日本発足とともに副社長に就任
  • 国鉄改革 鉄道の未来を拓くために(再建監理委員会意見 1985)
    • [36]1983年6月10日発足の再建監理委員会が1985年7月26日に意見を提出、全国一元組織の弊害と経営責任の曖昧さ、本州3分割で近畿圏・山陽新幹線・北陸を一体、完結度98%、東日本との境界は北陸線直江津、山陽新幹線は博多まで西日本側
    • [37]1983年6月10日発足の再建監理委員会が1985年7月26日に意見を提出、全国一元組織の弊害と経営責任の曖昧さ、本州3分割で近畿圏・山陽新幹線・北陸を一体、完結度98%、東日本との境界は北陸線直江津、山陽新幹線は博多まで西日本側
    • [38]1983年6月10日発足の再建監理委員会が1985年7月26日に意見を提出、全国一元組織の弊害と経営責任の曖昧さ、本州3分割で近畿圏・山陽新幹線・北陸を一体、完結度98%、東日本との境界は北陸線直江津、山陽新幹線は博多まで西日本側
    • [39]1983年6月10日発足の再建監理委員会が1985年7月26日に意見を提出、全国一元組織の弊害と経営責任の曖昧さ、本州3分割で近畿圏・山陽新幹線・北陸を一体、完結度98%、東日本との境界は北陸線直江津、山陽新幹線は博多まで西日本側
    • [40]1983年6月10日発足の再建監理委員会が1985年7月26日に意見を提出、全国一元組織の弊害と経営責任の曖昧さ、本州3分割で近畿圏・山陽新幹線・北陸を一体、完結度98%、東日本との境界は北陸線直江津、山陽新幹線は博多まで西日本側
  • Decide 1990
    • [41]井手・松田・葛西の3氏は国鉄改革三人組と呼ばれた分割民営化の急進派で、中曽根首相が仁杉巌総裁を更迭し杉浦喬也氏を起用すると本社に呼び戻された
    • [46]井手・松田・葛西の3氏は国鉄改革三人組と呼ばれた分割民営化の急進派で、中曽根首相が仁杉巌総裁を更迭し杉浦喬也氏を起用すると本社に呼び戻された
  • 有価証券報告書 FY24「沿革」
    • [48]1986年12月 日本国有鉄道改革法等の国鉄改革関連8法公布、旅客6社と貨物会社の設立
  • 日経ビジネス 1987/8/3 編集長インタビュー 村井勉(JR西日本会長)
    • [49]村井勉氏は住友銀行出身、1976年東洋工業に副社長として出向、1982年アサヒビール社長、JR西日本会長の内命を受ける、マツダは1986年10月頃国鉄から400人超の出向者を受け入れ、再建ではなく活性化、西日本に頭脳をつくる必要
    • [50]村井勉氏は住友銀行出身、1976年東洋工業に副社長として出向、1982年アサヒビール社長、JR西日本会長の内命を受ける、マツダは1986年10月頃国鉄から400人超の出向者を受け入れ、再建ではなく活性化、西日本に頭脳をつくる必要
    • [51]村井勉氏は住友銀行出身、1976年東洋工業に副社長として出向、1982年アサヒビール社長、JR西日本会長の内命を受ける、マツダは1986年10月頃国鉄から400人超の出向者を受け入れ、再建ではなく活性化、西日本に頭脳をつくる必要
    • [52]村井勉氏は住友銀行出身、1976年東洋工業に副社長として出向、1982年アサヒビール社長、JR西日本会長の内命を受ける、マツダは1986年10月頃国鉄から400人超の出向者を受け入れ、再建ではなく活性化、西日本に頭脳をつくる必要

出典・参考

11件
出典・参考
  • 有価証券報告書 FY24「沿革」
  • 間組百年史 1945-1989(1990)「山陽新幹線の建設」
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「公共企業体としての発足と戦後」
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「財政悪化と再建」
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻「新幹線」
  • 日経ビジネス 1974/9/16
  • 日経ビジネス 1987/8/3 編集長インタビュー 村井勉(JR西日本会長)
  • 日経ビジネス 1992/12/21
  • 証券アナリストジャーナル 1994/7
  • 国鉄改革 鉄道の未来を拓くために(再建監理委員会意見 1985)
  • Decide 1990

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