第3章 年〜年

イオン:イオングループの名称制定と郊外型ショッピングセンターの展開

ジャスコからイオンへ、「20年周期説」による改称

1979年〜輸入会社アイクの設立から五つの柱への多角化へ

1979年(昭和54年)3月、ジャスコは同業他社4社と共同で輸入専門会社アイク株式会社を設立した。店を増やすことと、店に並べる商品をどこから引くかは別の問題である。1980年2月期に創立十周年を迎えた時点で、地域法人の子会社は全国17社、店舗数は144店に達していた。売上高は1979年2月期の4,448億円から1980年2月期の5,024億円へ伸びた。売場は毎年の合併で積み上がったが、仕入は国内の取引先に依存したままであった。岡田卓也氏は1980年、80年代の展望の第一に国際化の進展を挙げ、チェーンストアもこの波を避けて通ることはできないと社内へ説いた。輸入会社の設立は、売る場所ではなく仕入れる先を国外へ開く手であった。

  • イオン 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1979年3月、同業他社4社と共同で輸入専門会社アイク株式会社(現 イオントップバリュ)を設立した
  • 東邦経済 1980年12月号「ジャスコ――創立十周年で躍進する〝連邦経営〟」
    • [2]地域法人の子会社は全国で17社、店舗数は144店を数えた(1980年時点)
  • 会社年鑑 1986年版【最近の業績】(単体)
    • [3]売上高(単体)は1979年2月期4,448億円、1980年2月期5,024億円
  • 『80年代わが社の戦略』1980年「ジャスコ」(岡田卓也)
    • [4]80年代の展望の第一に国際化の一層の進展を挙げ、チェーンストアもこの波をさけて通ることはできないと述べた

店舗中心の地域連邦から企業グループとしての多角化へ動きが強まったのは、1982年からであった。本店は1983年6月に大阪市から東京都へ移っている。証券調査が1984年に出した会社研究によれば、経営の柱は量販店、専門店、外食、無店舗販売、レジャーサービスの5つで、量販店部門と新規事業の利益の比率を当時の9対1から10年後には1対1にする目標が掲げられていた。店舗だけでなく業態そのものを入れ替える構えで、上場企業も含め、自立できる会社を5、6社ほど5年のうちに育てる考えも示した。同じ研究は、育てる業種を絞り込むイトーヨーカ堂と比べ、より多様な業種・業態へ踏み出す進み方を革新的だと評価した。

  • 証券調査 1984年「ジャスコ」(会社研究)
    • [5]店舗を中心とした地域連邦から、企業グループとしての多角化を目指した動きを57年(1982年)から活発化させた
    • [7]量販店、専門店、外食、無店舗販売、レジャー・サービスを経営の5つの柱に据え、10年後に量販店部門と新規事業の利益を1:1(当時9:1)に引き上げることを目標とした
    • [8]店舗のスクラップ・アンド・ビルドだけにとどまらず、業態のスクラップ・アンド・ビルドも進める方針であった
    • [9]5年程度の間に、上場企業も含めて独り立ちできる企業を5、6社育てる意向であった
    • [10]育成する業種を慎重に絞るイトーヨーカ堂に対し、より多様な業種業態への進出を試みる点を革新性と評した
  • イオン 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1983年6月、本店を大阪市福島区から東京都千代田区へ移転した

海外への出店と買収は、1980年代の半ばから続いた。1984年9月にマレーシアでジャヤ・ジャスコストアーズを設立し、同年10月に英国のローラアシュレイ社と業務提携、12月にはタイにサイアムジャスコを設けた。1985年6月、海外1号店のジャヤ・ジャスコストアーズ ダヤブミ店が開店した。1988年6月には米国の婦人服専門店チェーン、タルボット社を子会社を通じて買収している。買収額はおよそ420億円で、全米150店を5年で250店へ増やす計画であった。国内で総合スーパーを営む会社が、海外では婦人服の専門店チェーンを抱える。ジャスコという名は、この広がりを覆わなくなっていた。

  • イオン 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1985年6月、マレーシアに海外1号店ジャヤ・ジャスコストアーズ ダヤブミ店が開店した
    • [14]1988年6月、米国の婦人服専門店チェーン タルボット社を子会社を通じ買収した
  • イオン公式サイト「沿革」(2003年4月時点)
    • [12]1984年9月にマレーシアにジャヤ・ジャスコストアーズを設立、同年10月に英国ローラアシュレイ社と業務提携、同年12月にタイにサイアムジャスコを設立した
    • [13]1985年12月、ジャスコストアーズ(香港)を設立した
  • 日経ビジネス 1989年12月18日号(日経BP)
    • [15]タルボット社の買収額はおよそ420億円で、当時全米150店舗を5年間で250店舗にする計画であった
参考文献[1]-[15]
  • イオン 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1979年3月、同業他社4社と共同で輸入専門会社アイク株式会社(現 イオントップバリュ)を設立した
    • [6]1983年6月、本店を大阪市福島区から東京都千代田区へ移転した
    • [11]1985年6月、マレーシアに海外1号店ジャヤ・ジャスコストアーズ ダヤブミ店が開店した
    • [14]1988年6月、米国の婦人服専門店チェーン タルボット社を子会社を通じ買収した
  • 東邦経済 1980年12月号「ジャスコ――創立十周年で躍進する〝連邦経営〟」
    • [2]地域法人の子会社は全国で17社、店舗数は144店を数えた(1980年時点)
  • 会社年鑑 1986年版【最近の業績】(単体)
    • [3]売上高(単体)は1979年2月期4,448億円、1980年2月期5,024億円
  • 『80年代わが社の戦略』1980年「ジャスコ」(岡田卓也)
    • [4]80年代の展望の第一に国際化の一層の進展を挙げ、チェーンストアもこの波をさけて通ることはできないと述べた
  • 証券調査 1984年「ジャスコ」(会社研究)
    • [5]店舗を中心とした地域連邦から、企業グループとしての多角化を目指した動きを57年(1982年)から活発化させた
    • [7]量販店、専門店、外食、無店舗販売、レジャー・サービスを経営の5つの柱に据え、10年後に量販店部門と新規事業の利益を1:1(当時9:1)に引き上げることを目標とした
    • [8]店舗のスクラップ・アンド・ビルドだけにとどまらず、業態のスクラップ・アンド・ビルドも進める方針であった
    • [9]5年程度の間に、上場企業も含めて独り立ちできる企業を5、6社育てる意向であった
    • [10]育成する業種を慎重に絞るイトーヨーカ堂に対し、より多様な業種業態への進出を試みる点を革新性と評した
    • [12]1984年9月にマレーシアにジャヤ・ジャスコストアーズを設立、同年10月に英国ローラアシュレイ社と業務提携、同年12月にタイにサイアムジャスコを設立した
    • [13]1985年12月、ジャスコストアーズ(香港)を設立した
  • 日経ビジネス 1989年12月18日号(日経BP)
    • [15]タルボット社の買収額はおよそ420億円で、当時全米150店舗を5年間で250店舗にする計画であった

1989年〜浦安宣言によるグループ名称のイオンへの変更

1989年9月28日、千葉県浦安市のNKホールに、ジャスコグループの係長以上およそ3,500人の社員が集まった。壇上の岡田卓也会長は、20年前に流通革命という理想を掲げて出発した日を振り返ったうえで、『20年前、流通革命という理想に燃え、夢とロマンを持ってスタートを切った。あの時と同じように、今新しいグループの理想と使命に向けて一致団結していこうではないか』と呼びかけ、20周年を機にグループ名をイオンへ変えると告げた。イオンはラテン語で永遠を意味する語であり、消費者にはいつまでも尽くし、企業としてもいつまでも発展し続けたいという願いを込めて選ばれた名であった。ジャスコが Japan United Stores Company の頭文字であったことを思えば、新しい名前には小売という限定がなくなっていた。ただし、これは通称の変更にとどまり、法人格上の商号変更は12年後の2001年に行われている。

  • 日経ビジネス 1989年12月18日号(日経BP)
    • [16]1989年9月28日、千葉・浦安のNKホールでジャスコグループの係長以上の中堅社員およそ3,500人を前に岡田卓也会長が語りかけた
    • [17]岡田卓也会長は20周年を機にグループの名前をイオンに変更すると述べた
    • [18]イオンはラテン語で永遠を意味し、消費者への永遠の奉仕と企業の永遠の発展を願って付けた

通称を変えた理由を、岡田卓也会長はグループの核の数で説明した。郊外の大型ショッピングセンターの時代が到来したと考え、スーパーを核として専門店や外食など、多角化が必要な趨勢になったと判断。従来はスーパーのジャスコ1社がグループの核でよかったが、不動産デベロッパー事業及びサービス事業を含め、多角化しなければ成長は望めないと説明した。1989年2月期のジャスコの連結売上高は1兆1,550億円、単体では8,617億円で、スーパー業界の4位であり、子会社は99社、孫会社まで含めれば150社に達している。同年10月には、全国各地で大型の商業施設を開発するデベロッパー事業を始めると表明し、さらに多角化を加速させた。

  • 日経ビジネス 1989年12月18日号(日経BP)
    • [19]CIを導入した理由として、グループの核を複数にしていかなければ成長は望めないと説明した
    • [20]小売業は郊外の大型ショッピングセンター時代に入り、スーパーを核に専門店・外食・様々なサービス業が求められる。従来はスーパーのジャスコ1社がグループの核でもよかったが、今後はデベロッパー事業もサービス事業もあり、核を複数にしなければ成長は望めないと述べた
    • [21]1989年2月期の連結売上高は1兆1,550億円、単体は8,617億円で、スーパー業界4位であった
    • [22]子会社は99社、孫会社まで含めると150社にのぼる企業群であった
  • 日経新聞(1989年10月21日)
    • [23]全国各地で大型の商業施設を開発するデベロッパー事業を始めると表明した

従来のブランドを手放すことについて、岡田卓也氏には先例があった。1974年の時点で、長年続いた同族経営の殻を破る改革と位置づけて商号変更を活用しており、1969年に岡田屋という屋号をやめてジャスコを社名としたのも、旧来のやり方を断ち切るための手段であった。岡田屋・フタギ・シロによる最初の合併のときも、その後に続いた地域会社との合併のときも、社名にオーナー家の名前を残さない原則を貫いたのは、家業から企業へ変わったことの証として、旧来のブランドに対する執着を断つためであった。"大黒柱に車をつけろ"という岡田家の家訓と自身の経験から企業20年周期説を信じていた岡田氏は、ジャスコが20周年を迎えた時点で危機感を強め、『成功体験を捨てろと言うのはたやすいが、実行は難しい。(中略)企業経営も同じで、新しく創ることよりも、大事なことは捨てることだと思う』と述べている。

  • 証券アナリストジャーナル 1974年10月号 岡田卓也(日本証券アナリスト協会)
    • [24]岡田卓也氏は個人企業から脱皮して近代的な流通業に生まれかわることを念願とし、その手段として合併を選んだ
    • [25]長年続いた同族企業のからを破り、近代的な企業として成長するには、製造メーカーにおける新技術・新製品の開発にも等しい革新が必要であるとして合併に踏み切った
  • 日経ビジネス 1989年7月17日号 岡田卓也(日経BP)
    • [26]岡田屋の屋号を捨ててジャスコを社名にしたのは、旧習を打ち破り、脱皮するために必要な手段だった
    • [27]最初の合併でも以後の地域会社の合併でもオーナー家の名前を社名に残さない原則を貫いたのは、家業から企業に変わることの証を求めたためであった
    • [28]家訓「大黒柱に車をつけろ」と自身の体験から「企業20年周期説」を信奉し、グループ名を変えると決心した背景には20年周期説に従うと既に危険領域に入ったという危機感があった
参考文献[16]-[28]
  • 日経ビジネス 1989年12月18日号(日経BP)
    • [16]1989年9月28日、千葉・浦安のNKホールでジャスコグループの係長以上の中堅社員およそ3,500人を前に岡田卓也会長が語りかけた
    • [17]岡田卓也会長は20周年を機にグループの名前をイオンに変更すると述べた
    • [18]イオンはラテン語で永遠を意味し、消費者への永遠の奉仕と企業の永遠の発展を願って付けた
    • [19]CIを導入した理由として、グループの核を複数にしていかなければ成長は望めないと説明した
    • [20]小売業は郊外の大型ショッピングセンター時代に入り、スーパーを核に専門店・外食・様々なサービス業が求められる。従来はスーパーのジャスコ1社がグループの核でもよかったが、今後はデベロッパー事業もサービス事業もあり、核を複数にしなければ成長は望めないと述べた
    • [21]1989年2月期の連結売上高は1兆1,550億円、単体は8,617億円で、スーパー業界4位であった
    • [22]子会社は99社、孫会社まで含めると150社にのぼる企業群であった
  • 日経新聞(1989年10月21日)
    • [23]全国各地で大型の商業施設を開発するデベロッパー事業を始めると表明した
  • 証券アナリストジャーナル 1974年10月号 岡田卓也(日本証券アナリスト協会)
    • [24]岡田卓也氏は個人企業から脱皮して近代的な流通業に生まれかわることを念願とし、その手段として合併を選んだ
    • [25]長年続いた同族企業のからを破り、近代的な企業として成長するには、製造メーカーにおける新技術・新製品の開発にも等しい革新が必要であるとして合併に踏み切った
  • 日経ビジネス 1989年7月17日号 岡田卓也(日経BP)
    • [26]岡田屋の屋号を捨ててジャスコを社名にしたのは、旧習を打ち破り、脱皮するために必要な手段だった
    • [27]最初の合併でも以後の地域会社の合併でもオーナー家の名前を社名に残さない原則を貫いたのは、家業から企業に変わることの証を求めたためであった
    • [28]家訓「大黒柱に車をつけろ」と自身の体験から「企業20年周期説」を信奉し、グループ名を変えると決心した背景には20年周期説に従うと既に危険領域に入ったという危機感があった

1990年〜小売以外の核の育成から本体の商号変更へ

新しい名の下で進んだのは、本社への中央集権化であった。それまで連邦経営は、地域性に考慮するために、各地域法人の自主性と独自性に任せる思想を踏襲していたが、1989年11月、伊勢甚ジャスコの社長にジャスコの常務が就き、オーナー一族は相談役へ退いた。九州ジャスコや山陽ジャスコ、大分ジャスコでもかつてのオーナーは会長や相談役へ移り、ジャスコ本体の取締役に残る元オーナーは4名となった。ジャスコ社長の二木英徳氏は、グループ経営の混乱を認めつつ、5年〜10年でまとめ上げる指針を表明するなど、内部の混乱を伴いつつも、ジャスコからイオンへの転換を進めた。

  • 日経ビジネス 1989年12月18日号(日経BP)
    • [29]ジャスコから地方ジャスコの社長へ人が派遣され、当初の連邦制経営の理念は変質し始めたとみられていた
    • [31]1989年11月、伊勢甚ジャスコの社長にジャスコの川島岩治常務が就き、オーナー一族の綿引敬之輔氏は相談役へ退いた
    • [32]九州ジャスコ・山陽ジャスコ・大分ジャスコなどで元オーナーが会長や相談役へ退き、ジャスコ本体の取締役に残る元オーナーは4名となった
    • [33]ジャスコ社長の二木英徳氏は、まだカオスの状態だから今後5年なり10年で作り上げていくと述べた
  • 経済展望「ジャスコの連邦経営方式」
    • [30]連邦経営は小売業が地域産業であるという思想に基づき、各地域の商売をそれぞれの地域法人の自主性・独自性に任せる考え方であった

イオンの確立にあたっては、小売以外の側面からも進んだ。1990年6月、英国のザ・ボディショップを国内で展開するイオンフォレストを設立し、1991年1月には財団法人イオングループ環境財団を設けた。同年10月、マレーシアのジャヤ・ジャスコストアーズ マラッカ店で「イオン ふるさとの森づくり」の植樹が始まる。1994年9月には自主企画商品のトップバリューの販売を開始。グループ各社の資本市場への登場も続き、1993年7月にミニストップが東京証券取引所市場第二部へ、同年11月に米国タルボット社がニューヨーク証券取引所へ、1994年2月にジャスコストアーズ(香港)が香港証券取引所へ上場した。多角経営の推進によって、グループの収益源は小売の外側へも広がった。

  • イオン公式サイト「沿革」(2003年4月時点)
    • [34]1990年4月に英国ザ・ボディショップ社と業務提携し、同年8月にイオングループとして英国ローラアシュレイグループに経営参画した
    • [35]1990年6月にザ・ボディショップを国内展開する株式会社イオンフォレストを設立し、1991年1月に財団法人イオングループ環境財団を設立した
    • [36]1991年10月、ジャヤ・ジャスコストアーズ マラッカ店において「イオン ふるさとの森づくり」による植樹を開始した
    • [37]1994年9月、PB「トップバリュー」の販売を開始した
  • イオン 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1993年7月にミニストップが東京証券取引所市場第二部に上場、同年11月に米国タルボット社がニューヨーク証券取引所に上場、1994年2月にジャスコストアーズ(香港)が香港証券取引所に上場した

そして、1995年8月、ジャスコは郊外型の大型ショッピングセンターの本格展開を決断。これは、ジャスコが大型ショッピングセンターを展開する上でイオンとして業態転換する転機となった。岡田卓也氏は、SC間の競争を予見し、政治面において大店法における運用緩和、経済面では地価下落と低金利が出店の追い風になると捉えた。法人としての商号が変わったのが、2001年8月21日であり、ジャスコ誕生30周年にあたるこの日、ジャスコ株式会社はイオン株式会社へ商号を変更した。同時にイオングループ1%クラブもイオン1%クラブへ名を改めている。グループの名を変えてから12年、ショッピングセンターの本格展開によって売上を拡大し、2001年2月期の連結営業収益は2兆7,386億円に達していた。

  • 日経ビジネス 1995年8月21日号(日経BP)
    • [39]1995年8月、郊外型大型ショッピングセンターの本格展開を決定した
    • [40]今後は店対店ではなくSC間競争の時代であり、大店法の運用緩和や地価下落、低金利がSC出店の追い風になると述べた
  • イオン 有価証券報告書【沿革】
    • [41]2001年8月、商号をイオン株式会社へ変更した
  • イオン公式サイト「イオン1%クラブの歩み」(2004年6月時点)
    • [42]2001年8月21日、ジャスコ誕生30周年を迎えて社名をイオン株式会社に変更した際、イオングループ1%クラブはイオン1%クラブへ名称を変更した
  • イオン公式サイト「連結損益計算書 2001年2月期」(2003年7月時点)
    • [43]2001年2月期(2000年2月21日〜2001年2月20日)の連結営業収益は2兆7,386億3,800万円で、前期の2兆5,222億1,000万円から8.6%増えた
参考文献[29]-[43]
  • 日経ビジネス 1989年12月18日号(日経BP)
    • [29]ジャスコから地方ジャスコの社長へ人が派遣され、当初の連邦制経営の理念は変質し始めたとみられていた
    • [31]1989年11月、伊勢甚ジャスコの社長にジャスコの川島岩治常務が就き、オーナー一族の綿引敬之輔氏は相談役へ退いた
    • [32]九州ジャスコ・山陽ジャスコ・大分ジャスコなどで元オーナーが会長や相談役へ退き、ジャスコ本体の取締役に残る元オーナーは4名となった
    • [33]ジャスコ社長の二木英徳氏は、まだカオスの状態だから今後5年なり10年で作り上げていくと述べた
  • 経済展望「ジャスコの連邦経営方式」
    • [30]連邦経営は小売業が地域産業であるという思想に基づき、各地域の商売をそれぞれの地域法人の自主性・独自性に任せる考え方であった
    • [34]1990年4月に英国ザ・ボディショップ社と業務提携し、同年8月にイオングループとして英国ローラアシュレイグループに経営参画した
    • [35]1990年6月にザ・ボディショップを国内展開する株式会社イオンフォレストを設立し、1991年1月に財団法人イオングループ環境財団を設立した
    • [36]1991年10月、ジャヤ・ジャスコストアーズ マラッカ店において「イオン ふるさとの森づくり」による植樹を開始した
    • [37]1994年9月、PB「トップバリュー」の販売を開始した
  • イオン 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1993年7月にミニストップが東京証券取引所市場第二部に上場、同年11月に米国タルボット社がニューヨーク証券取引所に上場、1994年2月にジャスコストアーズ(香港)が香港証券取引所に上場した
    • [41]2001年8月、商号をイオン株式会社へ変更した
  • 日経ビジネス 1995年8月21日号(日経BP)
    • [39]1995年8月、郊外型大型ショッピングセンターの本格展開を決定した
    • [40]今後は店対店ではなくSC間競争の時代であり、大店法の運用緩和や地価下落、低金利がSC出店の追い風になると述べた
    • [42]2001年8月21日、ジャスコ誕生30周年を迎えて社名をイオン株式会社に変更した際、イオングループ1%クラブはイオン1%クラブへ名称を変更した
    • [43]2001年2月期(2000年2月21日〜2001年2月20日)の連結営業収益は2兆7,386億3,800万円で、前期の2兆5,222億1,000万円から8.6%増えた

筆者考察

イオンにとって、ジャスコという名称からの変更は、業態転換を意味した。岡田卓也氏が1989年にグループの通称をイオンへ改めたのは、二度目の改名であった。一度目は1969年、四日市で200年続いた岡田屋の屋号を捨ててジャスコを名乗った時で、旧習を打ち破って脱皮するために必要な手段だったと本人が語っている。オーナー家の名を社名に残さない原則も、家業から企業へ変わった証を形で示すために置かれた。ジャスコという名は Japan United Stores Company の頭文字であり、小売を共同で仕入れる会社の名である。スケールメリットによる仕入れ価格の低減で生き残りを図ったが、イオン(ラテン語で永遠)への改名は、さらに小売業を進化させることを意図し、1990年代後半から本格化した郊外ロードサイドの大型ショッピングセンターの本格展開に結びついた。

ただし1989年の改名は、事業の実態が先にあって名が追いついたのではない。順序は逆であった。創業家の岡田卓也氏は持論の企業20年周期説に立ち、ジャスコが20周年を迎えた時点で既に危険領域に入ったという危機感から、ジャスコからイオンへの名称変更に踏み切った。改名の時点でグループの理念は定まっておらず、社長の二木英徳氏は内部における混乱を認め、5年〜10年で作り上げる指針を示している。中身が伴ってきたのは1990年代であり、法人としての商号がイオンに変更するのは、通称変更から12年が経過した2001年8月21日であった。この頃には、ロードサイド大型店の展開が本格化し、イオンとしての名称が受け入れられる土壌が整ったのであろう。

売上高(単体) 1979年2月期〜1985年2月期(億円)

4,448 79.2 5,024 80.2 5,537 81.2 6,095 82.2 6,518 83.2 6,951 84.2 7,320 85.2 小売の外への一歩 アイク設立 マレーシア1号店
  • 1979年3月 同業他社4社と共同で輸入専門会社アイクを設立(有価証券報告書【沿革】)
  • 1985年6月 ジャヤ・ジャスコストアーズ ダヤブミ店が開店(有価証券報告書【沿革】)
  • 売上高は単体。出所は会社年鑑 1986年版【最近の業績】。ジャスコの名のまま事業が国外と非小売へ広がった時期にあたる。

1979年〜2001年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1979年02月期 単体 4,448 n/a 108 2.4% 62 n/a
1980年02月期 単体 5,024 +12.9% 126 2.5% 74 n/a
1981年02月期 単体 5,537 +10.2% 146 2.6% 80 n/a
1982年02月期 単体 6,095 +10.1% 163 2.7% 86 n/a
1983年02月期 単体 6,518 +6.9% 163 2.5% 87 n/a
1984年02月期 単体 6,951 +6.6% 177 2.5% 90 n/a
1985年02月期 単体 7,320 +5.3% 197 2.7% 93 n/a
1986年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年02月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年02月期 連結 15,323 n/a 391 2.6% 139 n/a
1993年02月期 連結 16,093 +5.0% 374 2.3% 83 n/a
1994年02月期 連結 17,132 +6.5% 351 2.0% 259 n/a
1995年02月期 連結 18,819 +9.8% 409 2.2% 232 n/a
1996年02月期 連結 20,949 +11.3% 578 2.8% 311 n/a
1997年02月期 連結 22,383 +6.8% 701 3.1% 353 n/a
1998年02月期 連結 23,401 +4.5% 462 2.0% 113 n/a
1999年02月期 連結 24,658 +5.4% 605 2.5% 181 n/a
2000年02月期 連結 25,222 +2.3% 647 2.6% 152 n/a
2001年02月期 連結 27,386 +8.6% 874 3.2% 225 n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

14件
出典・参考
  • イオン 有価証券報告書【沿革】
  • イオン公式サイト「イオン1%クラブの歩み」(2004年6月時点)
  • 会社年鑑 1986年版【最近の業績】(単体)
  • 証券アナリストジャーナル 1974年10月号 岡田卓也(日本証券アナリスト協会)
  • 東邦経済 1980年12月号「ジャスコ――創立十周年で躍進する〝連邦経営〟」
  • 日経ビジネス 1989年12月18日号(日経BP)
  • 日経ビジネス 1989年7月17日号 岡田卓也(日経BP)
  • 日経ビジネス 1995年8月21日号(日経BP)
  • 日経新聞(1989年10月21日)
  • 『80年代わが社の戦略』1980年「ジャスコ」(岡田卓也)
  • 証券調査 1984年「ジャスコ」(会社研究)
  • イオン公式サイト「連結損益計算書 2001年2月期」(2003年7月時点)
  • イオン公式サイト「沿革」(2003年4月時点)
  • 経済展望「ジャスコの連邦経営方式」

免責事項およびポリシー