第1章 年〜年

丸紅:初代伊藤忠兵衛の麻布行商と大阪本町「紅忠」の開店

1858年〜15歳で出た近江麻布の持ち下りと、兄と結んだ利益折半の約定

1858年(安政5年)5月、15歳の初代伊藤忠兵衛氏は郷里特産の近江麻布を背負い、上方へ最初の持ち下りに出た。生家は近江国犬上郡豊郷村八目で繊維品の小売をしていた伊藤長兵衛家で、初代伊藤忠兵衛氏は1842年にその次男として生まれている。行商の経験は11歳の1853年に始まり、兄の伊藤万治郎氏の供で五僧・保月村を回ったあと、春と夏には1人で近村を歩くようになった。父の5代伊藤長兵衛氏の考えでは家業は長男が継ぐもので、次男には早い時期の分家独立が求められた。最初の荷は叔父の成宮武兵衛氏が用立てた麻布類50両分で、大阪では売れ残り、泉州の堺を経て紀州まで足を延ばしてようやく捌けた。売上高は57両で、仕入代金の50両を払った残りの純益は7両。家督を継げない次男にとって、10代で自前の得意先を持つことが分家独立の条件だったとみられる。

  • 伊藤忠商事100年(1969)「2 始祖ノ創業」
    • [1]安政5年5月、元服した15歳の忠兵衛が近江麻布の持ち下りを始めた。11歳で兄に従い保月村へ行商し、父は次男ゆえ独立分家せよと命じた
    • [3]安政5年5月、元服した15歳の忠兵衛が近江麻布の持ち下りを始めた。11歳で兄に従い保月村へ行商し、父は次男ゆえ独立分家せよと命じた
    • [4]安政5年5月、元服した15歳の忠兵衛が近江麻布の持ち下りを始めた。11歳で兄に従い保月村へ行商し、父は次男ゆえ独立分家せよと命じた
  • 伊藤忠商事100年(1969)「1 伊藤家ノ家系ト初代忠兵衛ノオイタチ」
    • [2]天保13年(1842)豊郷村八目の五代伊藤長兵衛(屋号紅長・繊維品小売)の次男として生まれた
  • 丸紅前史(1977)「初めての行商」
    • [5]初回は叔父成宮武兵衛から仕入代金50両分を融通、大阪で売れず泉州・紀州で売り切り、売上57両・純益7両
    • [6]初回は叔父成宮武兵衛から仕入代金50両分を融通、大阪で売れず泉州・紀州で売り切り、売上57両・純益7両

翌1859年(安政6年)の2度目の旅で、初代伊藤忠兵衛氏は岡山・広島から馬関(下関)へ進み、長崎にまで達した。この年6月は、幕府が神奈川・長崎・箱館の3港を開港し、長崎での出稼ぎと自由な売買を認めた時期にあたる。荷には麻布に美濃縞・美濃結城を足し、売上高200両のうち純益が30両残った。外国商館がにぎわう長崎の様子に触れたことが、北九州を自分の得意場とする決断につながった。筑豊炭田が開かれ始めた北九州は景気が良く、初代伊藤忠兵衛氏はこの地方の先行きを買っていた。1860年は800反の麻布を同行者なしで長崎へ運び込み、秋には美濃の縞と結城をまとめて仕入れ、豊前・筑前の商人へ卸した。1862年には、八王子や甲州で織られた関東呉服も品目に追加。港の開放と炭鉱の景気が重なった九州で、小売中心の行商は本格的な卸売へ性格を変えたと推察される。

  • 伊藤忠商事100年(1969)「2 始祖ノ創業」
    • [7]安政6年に岡山・広島を経て馬関、長崎へ。売上200両・純益30両。北九州を商域と決め、万延元年に麻布800反を独力で長崎へ、文久2年から関東呉服を扱う
    • [9]安政6年に岡山・広島を経て馬関、長崎へ。売上200両・純益30両。北九州を商域と決め、万延元年に麻布800反を独力で長崎へ、文久2年から関東呉服を扱う
    • [10]安政6年に岡山・広島を経て馬関、長崎へ。売上200両・純益30両。北九州を商域と決め、万延元年に麻布800反を独力で長崎へ、文久2年から関東呉服を扱う
    • [12]安政6年に岡山・広島を経て馬関、長崎へ。売上200両・純益30両。北九州を商域と決め、万延元年に麻布800反を独力で長崎へ、文久2年から関東呉服を扱う
    • [13]安政6年に岡山・広島を経て馬関、長崎へ。売上200両・純益30両。北九州を商域と決め、万延元年に麻布800反を独力で長崎へ、文久2年から関東呉服を扱う
  • 丸紅前史(1977)「馬関・長崎への旅」
    • [8]安政6年6月に神奈川・長崎・箱館を開港し長崎への出稼ぎ・自由売買を解禁。北九州は筑豊炭田の草創期で好景気、その将来性に着目
    • [11]安政6年6月に神奈川・長崎・箱館を開港し長崎への出稼ぎ・自由売買を解禁。北九州は筑豊炭田の草創期で好景気、その将来性に着目

持ち下りの利益は年を追って膨らみ、5〜6年のうちに本家の財産を上回った。一方の本家は家業の伸びが止まり、1862年9月の父の死去で兄が6代伊藤長兵衛氏として家督を継いだばかりだった。1864年(元治元年)、その兄から4年を区切りに双方の利益を合わせて半分ずつ分けたいと持ちかけられ、初代伊藤忠兵衛氏は応じた。取り決めの文面は、兄弟それぞれの店卸帳に書き込まれている。1867年の期限が来ても約定はそのまま続き、兄は家業をやめて弟の持ち下りに合流した。それでも1870年2月には双方の勘定を分けるため得意場を線引きし直し、本家が馬関・豊前・筑前・筑後、分家が萩・山口から厚狭市までを受け持った。自ら開いた馬関を本家へ譲った取り決めは、初代伊藤忠兵衛氏に持ち下りに代わる商いを考えさせたのだろう。

  • 伊藤忠商事100年(1969)「2 始祖ノ創業」
    • [14]元治元年、利益が5〜6年で本家の身代を超えたため兄長兵衛から利益合併の協議を受けて承諾し、4か年の契約書を双方の店卸帳に記載
    • [16]元治元年、利益が5〜6年で本家の身代を超えたため兄長兵衛から利益合併の協議を受けて承諾し、4か年の契約書を双方の店卸帳に記載
    • [17]元治元年、利益が5〜6年で本家の身代を超えたため兄長兵衛から利益合併の協議を受けて承諾し、4か年の契約書を双方の店卸帳に記載
  • 丸紅前史(1977)「利益折半」
    • [15]文久2年9月父没・兄が6代長兵衛を継ぐ。慶応3年の期限後も契約は延長、明治3年2月に得意場を本家(馬関・豊前など)と分家(萩・山口〜厚狭市)に分離
    • [18]文久2年9月父没・兄が6代長兵衛を継ぐ。慶応3年の期限後も契約は延長、明治3年2月に得意場を本家(馬関・豊前など)と分家(萩・山口〜厚狭市)に分離
    • [19]文久2年9月父没・兄が6代長兵衛を継ぐ。慶応3年の期限後も契約は延長、明治3年2月に得意場を本家(馬関・豊前など)と分家(萩・山口〜厚狭市)に分離
参考文献[1]-[19]
  • 伊藤忠商事100年(1969)「2 始祖ノ創業」
    • [1]安政5年5月、元服した15歳の忠兵衛が近江麻布の持ち下りを始めた。11歳で兄に従い保月村へ行商し、父は次男ゆえ独立分家せよと命じた
    • [3]安政5年5月、元服した15歳の忠兵衛が近江麻布の持ち下りを始めた。11歳で兄に従い保月村へ行商し、父は次男ゆえ独立分家せよと命じた
    • [4]安政5年5月、元服した15歳の忠兵衛が近江麻布の持ち下りを始めた。11歳で兄に従い保月村へ行商し、父は次男ゆえ独立分家せよと命じた
    • [7]安政6年に岡山・広島を経て馬関、長崎へ。売上200両・純益30両。北九州を商域と決め、万延元年に麻布800反を独力で長崎へ、文久2年から関東呉服を扱う
    • [9]安政6年に岡山・広島を経て馬関、長崎へ。売上200両・純益30両。北九州を商域と決め、万延元年に麻布800反を独力で長崎へ、文久2年から関東呉服を扱う
    • [10]安政6年に岡山・広島を経て馬関、長崎へ。売上200両・純益30両。北九州を商域と決め、万延元年に麻布800反を独力で長崎へ、文久2年から関東呉服を扱う
    • [12]安政6年に岡山・広島を経て馬関、長崎へ。売上200両・純益30両。北九州を商域と決め、万延元年に麻布800反を独力で長崎へ、文久2年から関東呉服を扱う
    • [13]安政6年に岡山・広島を経て馬関、長崎へ。売上200両・純益30両。北九州を商域と決め、万延元年に麻布800反を独力で長崎へ、文久2年から関東呉服を扱う
    • [14]元治元年、利益が5〜6年で本家の身代を超えたため兄長兵衛から利益合併の協議を受けて承諾し、4か年の契約書を双方の店卸帳に記載
    • [16]元治元年、利益が5〜6年で本家の身代を超えたため兄長兵衛から利益合併の協議を受けて承諾し、4か年の契約書を双方の店卸帳に記載
    • [17]元治元年、利益が5〜6年で本家の身代を超えたため兄長兵衛から利益合併の協議を受けて承諾し、4か年の契約書を双方の店卸帳に記載
  • 伊藤忠商事100年(1969)「1 伊藤家ノ家系ト初代忠兵衛ノオイタチ」
    • [2]天保13年(1842)豊郷村八目の五代伊藤長兵衛(屋号紅長・繊維品小売)の次男として生まれた
  • 丸紅前史(1977)「初めての行商」
    • [5]初回は叔父成宮武兵衛から仕入代金50両分を融通、大阪で売れず泉州・紀州で売り切り、売上57両・純益7両
    • [6]初回は叔父成宮武兵衛から仕入代金50両分を融通、大阪で売れず泉州・紀州で売り切り、売上57両・純益7両
  • 丸紅前史(1977)「馬関・長崎への旅」
    • [8]安政6年6月に神奈川・長崎・箱館を開港し長崎への出稼ぎ・自由売買を解禁。北九州は筑豊炭田の草創期で好景気、その将来性に着目
    • [11]安政6年6月に神奈川・長崎・箱館を開港し長崎への出稼ぎ・自由売買を解禁。北九州は筑豊炭田の草創期で好景気、その将来性に着目
  • 丸紅前史(1977)「利益折半」
    • [15]文久2年9月父没・兄が6代長兵衛を継ぐ。慶応3年の期限後も契約は延長、明治3年2月に得意場を本家(馬関・豊前など)と分家(萩・山口〜厚狭市)に分離
    • [18]文久2年9月父没・兄が6代長兵衛を継ぐ。慶応3年の期限後も契約は延長、明治3年2月に得意場を本家(馬関・豊前など)と分家(萩・山口〜厚狭市)に分離
    • [19]文久2年9月父没・兄が6代長兵衛を継ぐ。慶応3年の期限後も契約は延長、明治3年2月に得意場を本家(馬関・豊前など)と分家(萩・山口〜厚狭市)に分離

1865年〜大阪本町2丁目に開いた呉服太物商「紅忠」と、開店と同時に定めた店法

初代伊藤忠兵衛氏は1872年(明治5年)1月、大阪本町2丁目の借家で呉服太物商を開店し、屋号を「紅忠」とした。分家の得意場は区域が狭く、1871年には廃藩置県で人心が動揺し、交通の制約も解けて持ち下りの利点が薄れていた。打開策として初代伊藤忠兵衛氏が兄に持ち込んだのは、馬関を本家から譲り受けるか、大阪に店を出すか、芸備まで持ち下りを伸ばすかの3つである。兄の6代伊藤長兵衛氏は馬関の譲渡を断り、大阪での開店を勧めた。1871年11月下旬、周防宮市の宿で大阪への出店が決定。広島を本拠とする案も出たが、船の便が整ったことで、広島の商いはもう大阪の圏内に組み込まれていた。開いた店は麻布全般と尾濃・関東の織物を主に扱い、店の切り盛りは番頭の羽田治平氏に支配人として任せた。

  • 伊藤忠商事100年(1969)「2 始祖ノ創業」
    • [20]明治4年11月下旬に周防宮市で大阪開店を決定。広島本拠案もあったが船便の発達で広島は大阪の商域内。明治5年1月本町2丁目に呉服太物商紅忠を開店、羽田治平を支配人に
    • [22]明治4年11月下旬に周防宮市で大阪開店を決定。広島本拠案もあったが船便の発達で広島は大阪の商域内。明治5年1月本町2丁目に呉服太物商紅忠を開店、羽田治平を支配人に
    • [24]明治4年11月下旬に周防宮市で大阪開店を決定。広島本拠案もあったが船便の発達で広島は大阪の商域内。明治5年1月本町2丁目に呉服太物商紅忠を開店、羽田治平を支配人に
    • [25]明治4年11月下旬に周防宮市で大阪開店を決定。広島本拠案もあったが船便の発達で広島は大阪の商域内。明治5年1月本町2丁目に呉服太物商紅忠を開店、羽田治平を支配人に
    • [26]明治4年11月下旬に周防宮市で大阪開店を決定。広島本拠案もあったが船便の発達で広島は大阪の商域内。明治5年1月本町2丁目に呉服太物商紅忠を開店、羽田治平を支配人に
  • 丸紅前史(1977)「大阪進出を決意」
    • [21]分家の得意場は狭小で、明治4年は廃藩置県で人心動揺、交通の制約が崩れ持ち下りの妙味が薄れた。兄は馬関を譲らず大阪開店を勧めた
    • [23]分家の得意場は狭小で、明治4年は廃藩置県で人心動揺、交通の制約が崩れ持ち下りの妙味が薄れた。兄は馬関を譲らず大阪開店を勧めた

紅忠の店開きにあわせて初代伊藤忠兵衛氏が定めたのは店の掟で、店員が何を任され何を負うかを示す文書である。同じころ大阪では銀目の停止や株仲間の廃止が重なり、加島屋作兵衛や天王寺屋五兵衛ら代表的な商人が相次いで没落した。開店3年目には、利益を本家納め・店積立・店員配当に3分割する利益三分主義を定めた。配分は当初均等で、明治20年代からは本家納めと店積立をやや厚くした。会議は1885年に制度となり、初代伊藤忠兵衛氏が主催する年2回の大会と、支配人が司会する毎月初めの小会を設けた。店法は初代伊藤忠兵衛氏が自ら草案を練り、1875年の改定を経て1893年1月に大改正された。旧来の大商人が倒れる時期に、新参の店は利益の配分と会議を通じて若い店員の働きを引き出したと考えられる。

  • 伊藤忠商事100年(1969)「2 始祖ノ創業」
    • [27]明治5年の開店と同時に店法を制定し店員の権限と義務を明確化。同時期に加島屋・天王寺屋などが倒れ、銀目停止・株仲間廃止の激変期
    • [28]明治5年の開店と同時に店法を制定し店員の権限と義務を明確化。同時期に加島屋・天王寺屋などが倒れ、銀目停止・株仲間廃止の激変期
  • 丸紅前史(1977)「利益三分主義」
    • [29]開店3年で利益を本家納め・店積立・店員配当に三分。当初均等、明治20年代から前2者を厚く。会議の制度化は明治18年、大会年2回と月初の小会
    • [30]開店3年で利益を本家納め・店積立・店員配当に三分。当初均等、明治20年代から前2者を厚く。会議の制度化は明治18年、大会年2回と月初の小会
    • [31]開店3年で利益を本家納め・店積立・店員配当に三分。当初均等、明治20年代から前2者を厚く。会議の制度化は明治18年、大会年2回と月初の小会
  • 伊藤忠商事100年(1969)「6 初代忠兵衛ノ足跡」
    • [32]明治5年の店法は忠兵衛自身の草案。明治8年に更改、明治26年1月に大改正
参考文献[20]-[32]
  • 伊藤忠商事100年(1969)「2 始祖ノ創業」
    • [20]明治4年11月下旬に周防宮市で大阪開店を決定。広島本拠案もあったが船便の発達で広島は大阪の商域内。明治5年1月本町2丁目に呉服太物商紅忠を開店、羽田治平を支配人に
    • [22]明治4年11月下旬に周防宮市で大阪開店を決定。広島本拠案もあったが船便の発達で広島は大阪の商域内。明治5年1月本町2丁目に呉服太物商紅忠を開店、羽田治平を支配人に
    • [24]明治4年11月下旬に周防宮市で大阪開店を決定。広島本拠案もあったが船便の発達で広島は大阪の商域内。明治5年1月本町2丁目に呉服太物商紅忠を開店、羽田治平を支配人に
    • [25]明治4年11月下旬に周防宮市で大阪開店を決定。広島本拠案もあったが船便の発達で広島は大阪の商域内。明治5年1月本町2丁目に呉服太物商紅忠を開店、羽田治平を支配人に
    • [26]明治4年11月下旬に周防宮市で大阪開店を決定。広島本拠案もあったが船便の発達で広島は大阪の商域内。明治5年1月本町2丁目に呉服太物商紅忠を開店、羽田治平を支配人に
    • [27]明治5年の開店と同時に店法を制定し店員の権限と義務を明確化。同時期に加島屋・天王寺屋などが倒れ、銀目停止・株仲間廃止の激変期
    • [28]明治5年の開店と同時に店法を制定し店員の権限と義務を明確化。同時期に加島屋・天王寺屋などが倒れ、銀目停止・株仲間廃止の激変期
  • 丸紅前史(1977)「大阪進出を決意」
    • [21]分家の得意場は狭小で、明治4年は廃藩置県で人心動揺、交通の制約が崩れ持ち下りの妙味が薄れた。兄は馬関を譲らず大阪開店を勧めた
    • [23]分家の得意場は狭小で、明治4年は廃藩置県で人心動揺、交通の制約が崩れ持ち下りの妙味が薄れた。兄は馬関を譲らず大阪開店を勧めた
  • 丸紅前史(1977)「利益三分主義」
    • [29]開店3年で利益を本家納め・店積立・店員配当に三分。当初均等、明治20年代から前2者を厚く。会議の制度化は明治18年、大会年2回と月初の小会
    • [30]開店3年で利益を本家納め・店積立・店員配当に三分。当初均等、明治20年代から前2者を厚く。会議の制度化は明治18年、大会年2回と月初の小会
    • [31]開店3年で利益を本家納め・店積立・店員配当に三分。当初均等、明治20年代から前2者を厚く。会議の制度化は明治18年、大会年2回と月初の小会
  • 伊藤忠商事100年(1969)「6 初代忠兵衛ノ足跡」
    • [32]明治5年の店法は忠兵衛自身の草案。明治8年に更改、明治26年1月に大改正

1882年〜京都堺町に開いたちりめん店と、伊藤外海組・伊藤糸店へ展開した3つの店

初代伊藤忠兵衛氏は1882年(明治15年)、京都堺町通六角下ル甲屋町にちりめん商を設け、羽田治平氏を支配人に据えた。羽田治平氏は持ち下りの時代に2歳年下の初代伊藤忠兵衛氏の才覚を見込み、自ら手代となった人物である。初代伊藤忠兵衛氏は1883年12月に京都の店を羽田治平氏へ贈与し、羽田商店として独立させた。この店が別家の第1号となり、別家は1916年に別家格を含め43名に達した。翌1884年1月、紅忠の屋号は伊藤本店に改まり、京都室町通四条下ルでは染呉服を卸す伊藤京店が店を構えた。伊藤京店は羽田商店との競合を避けてちりめん類を扱わず、石持や紅絹などの京呉服を主に扱った。古参の店員への報奨と、呉服の集散地である京都での品ぞろえを、別家と京店の2つの店で両立させたとうかがえる。

  • 伊藤忠商事100年(1969)「4 伊藤本店ト営業ノ多角化」
    • [33]明治15年京都堺町通六角下ル甲屋町にチリメン商を創設し羽田治平を支配人に。別家第1号、大正5年に別家・別家格計43名。明治17年1月紅忠を伊藤本店と改称し伊藤京店を開業、チリメンは扱わず
    • [36]明治15年京都堺町通六角下ル甲屋町にチリメン商を創設し羽田治平を支配人に。別家第1号、大正5年に別家・別家格計43名。明治17年1月紅忠を伊藤本店と改称し伊藤京店を開業、チリメンは扱わず
    • [37]明治15年京都堺町通六角下ル甲屋町にチリメン商を創設し羽田治平を支配人に。別家第1号、大正5年に別家・別家格計43名。明治17年1月紅忠を伊藤本店と改称し伊藤京店を開業、チリメンは扱わず
    • [38]明治15年京都堺町通六角下ル甲屋町にチリメン商を創設し羽田治平を支配人に。別家第1号、大正5年に別家・別家格計43名。明治17年1月紅忠を伊藤本店と改称し伊藤京店を開業、チリメンは扱わず
  • 伊藤忠商事100年(1969)「2 始祖ノ創業」
    • [34]羽田治平は他の持ち下りをしていたが2歳年少の忠兵衛の才覚に感じて手代となり、紅忠大阪店の初代支配人となった
  • 丸紅前史(1977)「6伊藤本店の出発」
    • [35]明治16年12月に京都の縮緬問屋を治平に贈与して羽田商店を創始させた。持下り時代からの献身に報いた

1885年(明治18年)、初代伊藤忠兵衛氏は親戚筋の外海鉄次郎氏が持ち込んだ対米輸出の案を採り上げた。2人の組合として神戸に置かれた伊藤外海組の特徴は、居留地の外国商館を介した取引によらず、米国の買い手と直接取引する点にある。開国後の日本の行く末は貿易の拡大で開けると信じた初代伊藤忠兵衛氏は、損失も覚悟して直輸出を始めた。同じころ国内は松方デフレのさなかにあり、1882年から物価が3分の1に下がって、1884年を底とする不況が1886年まで続いた。伊勢崎縞は1匹21円前後から6〜7円に崩れ、損を抱えて店を閉じる同業者が相次いだ。本業の店は1879年ごろから掛けを避けて現金で取引し、手元の資金を金禄公債の売買に回していたので、この不況のなかでも利益を残した。サンフランシスコの支店は1889年12月に開かれ、絹のハンカチや花むしろといった雑貨を扱ったものの、商いは採算に乗らなかった。外海鉄次郎氏が病に倒れたため、事業は店員の鶴谷忠五郎氏に譲られ、組は1895年に解散した。不況は現金主義と公債で越え、直輸出は不況への対策とは別に、貿易を国の先行きと見た初代伊藤忠兵衛氏の信念から始まったとみてよい。

  • 丸紅前史(1977)「伊藤外海組」
    • [39]忠兵衛の貿易への執心は強く、明治18年に親戚筋の外海鉄次郎の案を入れて雑貨の対米輸出をめざす伊藤外海組を組織し神戸に本店を設けた
  • 伊藤忠商事100年(1969)「4 伊藤本店ト営業ノ多角化」
    • [40]明治18年甥の外海鉄次郎との組合組織で伊藤外海組を神戸に創立し、居留地貿易を飛び越えて米国向け直輸出。国運は貿易拡大で開くと信じ危険を覚悟。伊勢崎縞が1匹21円から6〜7円に。現金取引主義と公債で反動期を乗り切る。明治22年12月サンフランシスコ支店、業績上がらず。明治28年外海の病気で鶴谷忠五郎に譲り解散
    • [41]明治18年甥の外海鉄次郎との組合組織で伊藤外海組を神戸に創立し、居留地貿易を飛び越えて米国向け直輸出。国運は貿易拡大で開くと信じ危険を覚悟。伊勢崎縞が1匹21円から6〜7円に。現金取引主義と公債で反動期を乗り切る。明治22年12月サンフランシスコ支店、業績上がらず。明治28年外海の病気で鶴谷忠五郎に譲り解散
    • [43]明治18年甥の外海鉄次郎との組合組織で伊藤外海組を神戸に創立し、居留地貿易を飛び越えて米国向け直輸出。国運は貿易拡大で開くと信じ危険を覚悟。伊勢崎縞が1匹21円から6〜7円に。現金取引主義と公債で反動期を乗り切る。明治22年12月サンフランシスコ支店、業績上がらず。明治28年外海の病気で鶴谷忠五郎に譲り解散
    • [44]明治18年甥の外海鉄次郎との組合組織で伊藤外海組を神戸に創立し、居留地貿易を飛び越えて米国向け直輸出。国運は貿易拡大で開くと信じ危険を覚悟。伊勢崎縞が1匹21円から6〜7円に。現金取引主義と公債で反動期を乗り切る。明治22年12月サンフランシスコ支店、業績上がらず。明治28年外海の病気で鶴谷忠五郎に譲り解散
    • [45]明治18年甥の外海鉄次郎との組合組織で伊藤外海組を神戸に創立し、居留地貿易を飛び越えて米国向け直輸出。国運は貿易拡大で開くと信じ危険を覚悟。伊勢崎縞が1匹21円から6〜7円に。現金取引主義と公債で反動期を乗り切る。明治22年12月サンフランシスコ支店、業績上がらず。明治28年外海の病気で鶴谷忠五郎に譲り解散
    • [46]明治18年甥の外海鉄次郎との組合組織で伊藤外海組を神戸に創立し、居留地貿易を飛び越えて米国向け直輸出。国運は貿易拡大で開くと信じ危険を覚悟。伊勢崎縞が1匹21円から6〜7円に。現金取引主義と公債で反動期を乗り切る。明治22年12月サンフランシスコ支店、業績上がらず。明治28年外海の病気で鶴谷忠五郎に譲り解散
  • 丸紅前史(1977)「公債の買入れ」
    • [42]明治14年来の松方デフレで15年から物価は3分の1に下がり、17年を大底とする不況が19年まで続いた

初代伊藤忠兵衛氏は1893年(明治26年)1月、大阪市東区安土町2丁目に綿糸卸の伊藤糸店を開設した。前年春からは本店の店員2名を綿織物の産地の愛知県一宮町へ送り、綿糸の取引を試していた。国内では1879年の愛知・広島の官営紡績所に続き、各地で紡績所が興った時期にあたる。伊藤本店は次男の伊藤精一氏に継がせると決めたため、伊藤糸店は長女の伊藤とき氏の事業とし、本店支配人の田附源兵衛氏を後見に充てた。日清戦争の好況で、伊藤家の4店の純益は合わせて20余万円に達した。1896年には外海鉄次郎氏らと日東合資会社を設立し、上海支店で中国綿の輸入と日本綿糸の輸出を手がけた。伊藤本店の名はその後、大建産業へ移るまで約60年にわたり用いられた。呉服の本店と綿糸の糸店を別の子の事業に分けた配置は、のちの2社分立の素地になったと思われる。

  • 伊藤忠商事100年(1969)「伊藤糸店ノ開業ト日清戦争後ノ発展」
    • [47]明治26年東区安土町2丁目に綿糸卸商伊藤糸店を開店。25年春から一宮町に店員2名を派遣し綿糸を試す。日清戦争の好況で伊藤家4店の純益20余万円。明治29年日東合資会社を設立し上海支店で中国綿輸入・綿糸輸出
    • [48]明治26年東区安土町2丁目に綿糸卸商伊藤糸店を開店。25年春から一宮町に店員2名を派遣し綿糸を試す。日清戦争の好況で伊藤家4店の純益20余万円。明治29年日東合資会社を設立し上海支店で中国綿輸入・綿糸輸出
    • [51]明治26年東区安土町2丁目に綿糸卸商伊藤糸店を開店。25年春から一宮町に店員2名を派遣し綿糸を試す。日清戦争の好況で伊藤家4店の純益20余万円。明治29年日東合資会社を設立し上海支店で中国綿輸入・綿糸輸出
    • [52]明治26年東区安土町2丁目に綿糸卸商伊藤糸店を開店。25年春から一宮町に店員2名を派遣し綿糸を試す。日清戦争の好況で伊藤家4店の純益20余万円。明治29年日東合資会社を設立し上海支店で中国綿輸入・綿糸輸出
  • 丸紅前史(1977)「伊藤糸店の開設」
    • [49]明治12年の愛知・広島官営紡績所以降20年代までに紡績所が各地に興る。本店を精一に与えるため糸店は長女ときの事業とし、本店支配人田附源兵衛を後見支配人に
    • [50]明治12年の愛知・広島官営紡績所以降20年代までに紡績所が各地に興る。本店を精一に与えるため糸店は長女ときの事業とし、本店支配人田附源兵衛を後見支配人に
  • 伊藤忠商事100年(1969)「4 伊藤本店ト営業ノ多角化」
    • [53]伊藤本店の名は大建産業になるまで約60年、全丸紅や世間から本店と略称された
参考文献[33]-[53]
  • 伊藤忠商事100年(1969)「4 伊藤本店ト営業ノ多角化」
    • [33]明治15年京都堺町通六角下ル甲屋町にチリメン商を創設し羽田治平を支配人に。別家第1号、大正5年に別家・別家格計43名。明治17年1月紅忠を伊藤本店と改称し伊藤京店を開業、チリメンは扱わず
    • [36]明治15年京都堺町通六角下ル甲屋町にチリメン商を創設し羽田治平を支配人に。別家第1号、大正5年に別家・別家格計43名。明治17年1月紅忠を伊藤本店と改称し伊藤京店を開業、チリメンは扱わず
    • [37]明治15年京都堺町通六角下ル甲屋町にチリメン商を創設し羽田治平を支配人に。別家第1号、大正5年に別家・別家格計43名。明治17年1月紅忠を伊藤本店と改称し伊藤京店を開業、チリメンは扱わず
    • [38]明治15年京都堺町通六角下ル甲屋町にチリメン商を創設し羽田治平を支配人に。別家第1号、大正5年に別家・別家格計43名。明治17年1月紅忠を伊藤本店と改称し伊藤京店を開業、チリメンは扱わず
    • [40]明治18年甥の外海鉄次郎との組合組織で伊藤外海組を神戸に創立し、居留地貿易を飛び越えて米国向け直輸出。国運は貿易拡大で開くと信じ危険を覚悟。伊勢崎縞が1匹21円から6〜7円に。現金取引主義と公債で反動期を乗り切る。明治22年12月サンフランシスコ支店、業績上がらず。明治28年外海の病気で鶴谷忠五郎に譲り解散
    • [41]明治18年甥の外海鉄次郎との組合組織で伊藤外海組を神戸に創立し、居留地貿易を飛び越えて米国向け直輸出。国運は貿易拡大で開くと信じ危険を覚悟。伊勢崎縞が1匹21円から6〜7円に。現金取引主義と公債で反動期を乗り切る。明治22年12月サンフランシスコ支店、業績上がらず。明治28年外海の病気で鶴谷忠五郎に譲り解散
    • [43]明治18年甥の外海鉄次郎との組合組織で伊藤外海組を神戸に創立し、居留地貿易を飛び越えて米国向け直輸出。国運は貿易拡大で開くと信じ危険を覚悟。伊勢崎縞が1匹21円から6〜7円に。現金取引主義と公債で反動期を乗り切る。明治22年12月サンフランシスコ支店、業績上がらず。明治28年外海の病気で鶴谷忠五郎に譲り解散
    • [44]明治18年甥の外海鉄次郎との組合組織で伊藤外海組を神戸に創立し、居留地貿易を飛び越えて米国向け直輸出。国運は貿易拡大で開くと信じ危険を覚悟。伊勢崎縞が1匹21円から6〜7円に。現金取引主義と公債で反動期を乗り切る。明治22年12月サンフランシスコ支店、業績上がらず。明治28年外海の病気で鶴谷忠五郎に譲り解散
    • [45]明治18年甥の外海鉄次郎との組合組織で伊藤外海組を神戸に創立し、居留地貿易を飛び越えて米国向け直輸出。国運は貿易拡大で開くと信じ危険を覚悟。伊勢崎縞が1匹21円から6〜7円に。現金取引主義と公債で反動期を乗り切る。明治22年12月サンフランシスコ支店、業績上がらず。明治28年外海の病気で鶴谷忠五郎に譲り解散
    • [46]明治18年甥の外海鉄次郎との組合組織で伊藤外海組を神戸に創立し、居留地貿易を飛び越えて米国向け直輸出。国運は貿易拡大で開くと信じ危険を覚悟。伊勢崎縞が1匹21円から6〜7円に。現金取引主義と公債で反動期を乗り切る。明治22年12月サンフランシスコ支店、業績上がらず。明治28年外海の病気で鶴谷忠五郎に譲り解散
    • [53]伊藤本店の名は大建産業になるまで約60年、全丸紅や世間から本店と略称された
  • 伊藤忠商事100年(1969)「2 始祖ノ創業」
    • [34]羽田治平は他の持ち下りをしていたが2歳年少の忠兵衛の才覚に感じて手代となり、紅忠大阪店の初代支配人となった
  • 丸紅前史(1977)「6伊藤本店の出発」
    • [35]明治16年12月に京都の縮緬問屋を治平に贈与して羽田商店を創始させた。持下り時代からの献身に報いた
  • 丸紅前史(1977)「伊藤外海組」
    • [39]忠兵衛の貿易への執心は強く、明治18年に親戚筋の外海鉄次郎の案を入れて雑貨の対米輸出をめざす伊藤外海組を組織し神戸に本店を設けた
  • 丸紅前史(1977)「公債の買入れ」
    • [42]明治14年来の松方デフレで15年から物価は3分の1に下がり、17年を大底とする不況が19年まで続いた
  • 伊藤忠商事100年(1969)「伊藤糸店ノ開業ト日清戦争後ノ発展」
    • [47]明治26年東区安土町2丁目に綿糸卸商伊藤糸店を開店。25年春から一宮町に店員2名を派遣し綿糸を試す。日清戦争の好況で伊藤家4店の純益20余万円。明治29年日東合資会社を設立し上海支店で中国綿輸入・綿糸輸出
    • [48]明治26年東区安土町2丁目に綿糸卸商伊藤糸店を開店。25年春から一宮町に店員2名を派遣し綿糸を試す。日清戦争の好況で伊藤家4店の純益20余万円。明治29年日東合資会社を設立し上海支店で中国綿輸入・綿糸輸出
    • [51]明治26年東区安土町2丁目に綿糸卸商伊藤糸店を開店。25年春から一宮町に店員2名を派遣し綿糸を試す。日清戦争の好況で伊藤家4店の純益20余万円。明治29年日東合資会社を設立し上海支店で中国綿輸入・綿糸輸出
    • [52]明治26年東区安土町2丁目に綿糸卸商伊藤糸店を開店。25年春から一宮町に店員2名を派遣し綿糸を試す。日清戦争の好況で伊藤家4店の純益20余万円。明治29年日東合資会社を設立し上海支店で中国綿輸入・綿糸輸出
  • 丸紅前史(1977)「伊藤糸店の開設」
    • [49]明治12年の愛知・広島官営紡績所以降20年代までに紡績所が各地に興る。本店を精一に与えるため糸店は長女ときの事業とし、本店支配人田附源兵衛を後見支配人に
    • [50]明治12年の愛知・広島官営紡績所以降20年代までに紡績所が各地に興る。本店を精一に与えるため糸店は長女ときの事業とし、本店支配人田附源兵衛を後見支配人に

出典・参考

14件
出典・参考
  • 伊藤忠商事100年(1969)「2 始祖ノ創業」
  • 伊藤忠商事100年(1969)「1 伊藤家ノ家系ト初代忠兵衛ノオイタチ」
  • 伊藤忠商事100年(1969)「6 初代忠兵衛ノ足跡」
  • 伊藤忠商事100年(1969)「4 伊藤本店ト営業ノ多角化」
  • 伊藤忠商事100年(1969)「伊藤糸店ノ開業ト日清戦争後ノ発展」
  • 丸紅前史(1977)「初めての行商」
  • 丸紅前史(1977)「馬関・長崎への旅」
  • 丸紅前史(1977)「利益折半」
  • 丸紅前史(1977)「大阪進出を決意」
  • 丸紅前史(1977)「利益三分主義」
  • 丸紅前史(1977)「6伊藤本店の出発」
  • 丸紅前史(1977)「伊藤外海組」
  • 丸紅前史(1977)「公債の買入れ」
  • 丸紅前史(1977)「伊藤糸店の開設」

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