第1章 年〜年

リクルートHD:大学新聞広告社の創業と「企業への招待」の創刊

1960年〜300万円の借入で始めた広告代理業

1960年3月、江副浩正氏は東京都港区で大学新聞広告社を創業し、大学新聞に各企業の求人広告を掲載する事業を始めた。創業の日は3月31日で、場所は西新橋の第二森ビルの屋上に建てられた広さ2坪半のペントハウス、家賃は月7000円で敷金はなかった。トタン屋根のため夏の室温は40度近くに達した。東京大学新聞会に籍を置き、編集ではなく広告取りのアルバイトに従事していたことが下地にある。創業資金は大手銀行には相手にされず、父が人に貸していた土地と家屋を担保に、芝信用金庫田村町支店と二度交渉して300万円を借り入れた。株式会社ではなく江副浩正氏の個人商店として出発している。

  • リクルートホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1960年3月 東京都港区で大学新聞広告社を創業
  • Decide 1985年5月号(インタビュー特集 わが決断の時)
    • [2]西新橋の第2森ビル屋上のペントハウス 2坪半 家賃7000円 敷金なしが創業の地
    • [3]トタン屋根のため夏は室温が40度近くになる違法建築の屋根裏部屋が創業の地
  • 現代の眼 別冊 1982年「江副浩正(日本リクルートセンター社長)——就職を産業にしたアイデアマン」(坂口義弘)
    • [4]学生時代は東大新聞会に属し、編集ではなく広告取りのアルバイトに従事
  • 月刊カレント 1987年5月号
    • [5]父の土地・家屋を担保に芝信用金庫田村町支店から300万円を借入
  • Decide 1987年4月号(白尾芳輝)
    • [6]大学新聞広告社は株式会社ではなく江副氏の個人商店

江副浩正氏が求人広告に目を向けたのは、東京大学新聞の経営再建を託されたためであった。同紙はもともと自治会が発行していたが、印刷会社への未払金が100万円を超えて刊行を止められかけ、扇谷正造氏や大河内一男氏ら旧帝国大学新聞のOBが拠金し、自治会から独立した法人として立て直された。以後は赤字が許されず、広告営業の責任者となった江副浩正氏は、購読収入だけに頼らず広告収入を増やすほかないと説かれて、新聞を広告欄から読む習慣をつけた。就職試験の時期に学内の掲示板へ出る企業説明会の告知に広告の形を与えたところ、丸紅飯田の告知が予想を超える反響を呼び、大阪に人事部を置く日綿実業がこれに続いた。企業が学生へ直接名乗る手段を持たなかったことが、この反響の背景にある。

  • 近代中小企業 1984年10月号
    • [7]東大新聞会は印刷会社への100万円超の未払金で経営悪化、扇谷正造・大河内一男らの献金で東京大学新聞社として法人化
  • Decide 1985年5月号(インタビュー特集 わが決断の時)
    • [8]東大新聞常務理事の助言「新聞経営で大事なのは広告収入を増やすこと。購読収入だけに頼っていてはやっていけない」
  • Decide 1987年4月号(白尾芳輝)
    • [9]丸紅飯田の企業説明会広告が予想を超える反響を呼び、日綿実業が続いて告知広告が集まった

元手となったのは資本ではなく、全国の大学新聞の広告枠を一手に扱う取次の地位であった。江副浩正氏は定期刊行する各地の大学新聞と代理店契約を結び、就職のオフシーズンには電通ほかの代理店へ大学新聞をまとめて売り込んで、社名を変えたばかりのソニーのテープレコーダーの広告などを取った。取引が大きくなると、八幡製鉄から法人格を持たない相手とは大きな取引ができないと助言され、1960年10月に株式会社へ改組し、資本金60万円で社名を大学広告とした。会社の作り方がわからず、書店で買った手引書に従って定款を作り、翌日に東京法務局港出張所で登記を済ませている。同じ年には大商証券から1000名の採用に向けた入社案内の制作を予算の定めなしで請け負い、証券・電機・合成繊維・鉄鋼の四業界が大口の顧客となった。

  • Decide 1985年5月号(インタビュー特集 わが決断の時)
    • [10]全国の大学新聞と代理店契約を結び、オフシーズンは電通等へ売り込んでソニーのテープレコーダー広告などを獲得
    • [12]書店で購入した『株式会社のつくり方』に従って定款を作成し東京法務局港出張所で登記
  • Decide 1987年4月号(白尾芳輝)
    • [11]八幡製鉄の助言で1960年10月に株式会社組織へ、資本金60万円・社名を大学広告に変更
    • [13]大商証券の1000名採用の入社案内を予算無制限で受注、大口顧客は証券・電機・合繊・鉄鋼の4業界
参考文献[1]-[13]
  • リクルートホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1960年3月 東京都港区で大学新聞広告社を創業
  • Decide 1985年5月号(インタビュー特集 わが決断の時)
    • [2]西新橋の第2森ビル屋上のペントハウス 2坪半 家賃7000円 敷金なしが創業の地
    • [3]トタン屋根のため夏は室温が40度近くになる違法建築の屋根裏部屋が創業の地
    • [8]東大新聞常務理事の助言「新聞経営で大事なのは広告収入を増やすこと。購読収入だけに頼っていてはやっていけない」
    • [10]全国の大学新聞と代理店契約を結び、オフシーズンは電通等へ売り込んでソニーのテープレコーダー広告などを獲得
    • [12]書店で購入した『株式会社のつくり方』に従って定款を作成し東京法務局港出張所で登記
  • 現代の眼 別冊 1982年「江副浩正(日本リクルートセンター社長)——就職を産業にしたアイデアマン」(坂口義弘)
    • [4]学生時代は東大新聞会に属し、編集ではなく広告取りのアルバイトに従事
  • 月刊カレント 1987年5月号
    • [5]父の土地・家屋を担保に芝信用金庫田村町支店から300万円を借入
  • Decide 1987年4月号(白尾芳輝)
    • [6]大学新聞広告社は株式会社ではなく江副氏の個人商店
    • [9]丸紅飯田の企業説明会広告が予想を超える反響を呼び、日綿実業が続いて告知広告が集まった
    • [11]八幡製鉄の助言で1960年10月に株式会社組織へ、資本金60万円・社名を大学広告に変更
    • [13]大商証券の1000名採用の入社案内を予算無制限で受注、大口顧客は証券・電機・合繊・鉄鋼の4業界
  • 近代中小企業 1984年10月号
    • [7]東大新聞会は印刷会社への100万円超の未払金で経営悪化、扇谷正造・大河内一男らの献金で東京大学新聞社として法人化

1962年〜遊休の半年を埋めるために媒体を自分で発行する

創業から数年の会社を縛ったのは、需要ではなく季節であった。就職シーズンを過ぎると仕事が一気に減るため、社員を増やさず、足りない分はアルバイトで補う方針だった。従業員は江副浩正氏と、東大新聞から一緒に移ってきた鶴岡公氏の二人しかいなかった。閑散期は10時ごろに出社し、昼休みに2時間を充てて5時には退社した。8月は1か月間、全社で休業していた。空いた時間を埋めようと江副浩正氏が考えた新企画は二つで、一つは大学新聞に大量に掲載されている求人広告を1冊に集めた本、もう一つは学生を読者とする就職専門の雑誌だった。社内では、大学新聞の広告と市場を奪い合うとの反対や、広告ばかりの本に出稿する会社がそんなにあるのかとの疑問が出た。

  • Decide 1985年5月号(インタビュー特集 わが決断の時)
    • [14]創業時の従業員は江副氏と鶴岡公氏の2人、社員を増やさずアルバイトでまかなう方針
    • [15]シーズンオフは10時出勤・昼休み2時間・5時退社、8月は1か月休業
  • Decide 1987年4月号(白尾芳輝)
    • [16]オフシーズンを埋める新企画は「求人広告を1冊にまとめた本」と「学生向け就職専門雑誌」の2案
    • [17]社内から「大学新聞の広告と市場を食い合う」「広告ばかりの本に広告主が集まるのか」という反対

イリノイ大学へ留学していた先輩が送ってきた一冊は、GM・GE・ESSO・IBMといった企業が広告を出す米国の就職雑誌で、これが社内の疑いを押し切る根拠になった。1962年、大学生向けの求人情報だけで誌面を組んだ"企業への招待"が創刊される。準備では、大学新聞時代からの取引先を軸に約200社を回り、採用担当者に誌面の組み立て方を尋ねて媒体を作り上げ、掲載企業から広告料を得て学生には無料で配る仕組みもこのとき形になった。広告の取り次ぎを業とする立場から、自ら誌面を発行して広告主を直接開拓する側へ移ったのである。

  • Decide 1987年4月号(白尾芳輝)
    • [18]イリノイ大学留学中の先輩から送られた米国の就職雑誌(GM・GE・ESSO・IBMがスポンサー)を見て発刊を決定
  • リクルートホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1962年 「企業への招待」創刊
  • Decide 1987年3月号 江副浩正インタビュー
    • [20]創刊前に約200社の採用担当者を訪ね誌面構成を聞き取り
  • 現代の眼 別冊 1982年「江副浩正(日本リクルートセンター社長)——就職を産業にしたアイデアマン」(坂口義弘)
    • [21]求人案内を掲載する企業の広告掲載料で成立し、学生には無料で配布

創刊を阻んだのは需要ではなく、発行元の信用力であった。営業では、代金は配本後に全額を受け取り、掲載の効果がなければ支払いは要らないという条件まで出した。事前の調査で前向きだった企業でさえ、実際に売り込むと学生への配本が確かかを疑い、態度を翻したためである。景気は岩戸景気が後退する局面にあり、半年前まで最大の顧客だった証券会社はそろって採用をやめていた。都心を回る日の訪問先は多くて12社から13社、そのうち耳を傾けてくれるのは6社から7社に1社で、契約まで進むのは10社に1社だった。1963年4月に社名を日本リクルートメントセンターと改め、同年8月には日本リクルートセンターを設立している。

  • Decide 1987年4月号(白尾芳輝)
    • [22]配本への疑念から代金は全額配本後、企業によっては掲載効果がなければ支払い不要という条件で営業
    • [23]「企業への招待」創刊時は岩戸景気の後退期で証券会社は軒並み採用ストップ
    • [24]会社訪問は多い日で1日12〜13社、話を聞いてもらえるのは6〜7社に1社、成約は10社に1社
  • リクルートホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1963年4月 日本リクルートメントセンターへ社名変更、同年8月 日本リクルートセンター設立
参考文献[14]-[25]
  • Decide 1985年5月号(インタビュー特集 わが決断の時)
    • [14]創業時の従業員は江副氏と鶴岡公氏の2人、社員を増やさずアルバイトでまかなう方針
    • [15]シーズンオフは10時出勤・昼休み2時間・5時退社、8月は1か月休業
  • Decide 1987年4月号(白尾芳輝)
    • [16]オフシーズンを埋める新企画は「求人広告を1冊にまとめた本」と「学生向け就職専門雑誌」の2案
    • [17]社内から「大学新聞の広告と市場を食い合う」「広告ばかりの本に広告主が集まるのか」という反対
    • [18]イリノイ大学留学中の先輩から送られた米国の就職雑誌(GM・GE・ESSO・IBMがスポンサー)を見て発刊を決定
    • [22]配本への疑念から代金は全額配本後、企業によっては掲載効果がなければ支払い不要という条件で営業
    • [23]「企業への招待」創刊時は岩戸景気の後退期で証券会社は軒並み採用ストップ
    • [24]会社訪問は多い日で1日12〜13社、話を聞いてもらえるのは6〜7社に1社、成約は10社に1社
  • リクルートホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1962年 「企業への招待」創刊
    • [25]1963年4月 日本リクルートメントセンターへ社名変更、同年8月 日本リクルートセンター設立
  • Decide 1987年3月号 江副浩正インタビュー
    • [20]創刊前に約200社の採用担当者を訪ね誌面構成を聞き取り
  • 現代の眼 別冊 1982年「江副浩正(日本リクルートセンター社長)——就職を産業にしたアイデアマン」(坂口義弘)
    • [21]求人案内を掲載する企業の広告掲載料で成立し、学生には無料で配布

1968年〜版を刻む量産体制と、情報誌の外へ出る芽

創刊した媒体は、版を刻むほど広告主が増える構造を持っていた。"企業への招待"を前身とするリクルートブックは、高校版・女子学生版・専修各種学校版と読み手ごとに分かれ、地方別や産業別にも広がって、1982年時点で19編、上下巻などの細分を数えると百数十の巻に達し、掲載企業は7000社に及んだ。学生には無料で配られ、費用は求人案内を載せる企業の広告掲載料でまかなわれた。掲載企業には全国の学生へ自社を知らせられるうえ、会社案内が第三者による評価として読まれるため広告色が薄まるという利点があった。分厚さから電話帳と呼ばれたこの本は学生の必携となり、掲載のない企業は見向きもされないとまでいわれた。1975年9月期の売上高は104億円に達している。

  • 現代の眼 別冊 1982年「江副浩正(日本リクルートセンター社長)——就職を産業にしたアイデアマン」(坂口義弘)
    • [26]リクルートブックは高校版・女子学生版・専修各種学校版など19編、細分すると百数十巻、掲載企業7000社
    • [27]リクルートブックは学生に無料配布し、掲載企業の広告掲載料で成立
    • [28]広告主には全国の学生への周知と、第三者の評価の形をとることによる広告色の希薄化という利点
    • [29]「電話帳」と呼ばれ学生間でバイブル的存在、掲載のない企業は見向きもされない
  • 日経ビジネス 1976年4月26日号 No.160 p16-19(日経BP社)
    • [30]1975年9月期の売上高104億円(前期103億円)

素人集団を自認する会社が、人だけは慎重に集めた。就職シーズンにだけ雇ったアルバイトから森村稔氏・田中寿夫氏・池田友之氏・大沢武志氏が育ち、のちにいずれも役員となっている。役員のうち外部から迎えたのは、日興証券から移った江副浩正氏の東大時代の同級生ほか数えるほどで、江副浩正氏は自社を徹底して純血の会社と呼んだ。その例外が1969年春で、日本アイ・ビー・エム人事部で採用を担当していた32歳の位田尚隆氏を、神田橋の地下食堂で口説いた。位田尚隆氏は昇進にも仕事にも不満がないまま、家族と友人が誰ひとり賛成しない転職を1週間で決め、入社後に七つの新規事業を手がけた。江副浩正氏の事業の張り方が、その動機であったという。

  • Decide 1985年5月号(インタビュー特集 わが決断の時)
    • [31]アルバイト出身の森村稔・田中寿夫・池田友之・大沢武志がのちに役員へ
  • Decide 1987年4月号(白尾芳輝)
    • [32]江副氏は自社を「徹底して純血の会社」と表現、外部出身の役員は日興証券から来た東大同級生ほか少数
  • 日経ビジネス 1988年2月29日号 No.489 p88-89(日経BP社)
    • [33]1969年春 日本アイ・ビー・エム人事部の位田尚隆氏(32歳)を神田橋の地下食堂で勧誘
    • [34]位田氏は家族・友人の反対を押して1週間で転職を決断、入社後に手掛けた新規事業は7つ
    • [35]位田氏の転職動機は江副氏の事業規模の張り方への感服

情報誌の外へ出る最初の一歩は、計画ではなく持ち込みから始まった。1969年6月には不動産を手がける環境開発を設立し、1971年4月に分譲マンションの販売を開始した。長谷川工務店の副社長は、江副浩正氏にとって中学時代からの親友だった。1974年、その副社長から、同社が建てたネオコーポ行徳を売ってみないかという話が持ち込まれ、これが開発事業の始まりとなった。売れ残れば社宅に回せばよいくらいの気持ちで引き受けたが、手がけるうちに市場が大きいと確信したという。マンション分譲は1960年代に生まれたばかりの産業であり、遅れて入っても研究と工夫を積めば上位に食い込めると判断した。

  • 日経ビジネス 1987年7月6日号 No.470 p89-92(日経BP社)
    • [36]リクルートコスモスの前身は1969年6月設立
  • リクルートホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1971年4月 分譲マンション販売を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1986年12月号(池田友之)
    • [38]1974年 長谷川工務店が建てたネオコーポ行徳の販売引受がマンション開発事業の嚆矢、江副氏の中学以来の親友である同社副社長からの申し出
    • [39]売れ残ったら社宅にしてもよい程度の気持ちで開始したが、進めるうちにマーケットチャンスの大きさを確信
    • [40]マンション事業は昭和40年代に始まった若い産業で、後発でも研究と工夫を重ねれば業界トップに行けると産業の若さに着目
参考文献[26]-[40]
  • 現代の眼 別冊 1982年「江副浩正(日本リクルートセンター社長)——就職を産業にしたアイデアマン」(坂口義弘)
    • [26]リクルートブックは高校版・女子学生版・専修各種学校版など19編、細分すると百数十巻、掲載企業7000社
    • [27]リクルートブックは学生に無料配布し、掲載企業の広告掲載料で成立
    • [28]広告主には全国の学生への周知と、第三者の評価の形をとることによる広告色の希薄化という利点
    • [29]「電話帳」と呼ばれ学生間でバイブル的存在、掲載のない企業は見向きもされない
  • 日経ビジネス 1976年4月26日号 No.160 p16-19(日経BP社)
    • [30]1975年9月期の売上高104億円(前期103億円)
  • Decide 1985年5月号(インタビュー特集 わが決断の時)
    • [31]アルバイト出身の森村稔・田中寿夫・池田友之・大沢武志がのちに役員へ
  • Decide 1987年4月号(白尾芳輝)
    • [32]江副氏は自社を「徹底して純血の会社」と表現、外部出身の役員は日興証券から来た東大同級生ほか少数
  • 日経ビジネス 1988年2月29日号 No.489 p88-89(日経BP社)
    • [33]1969年春 日本アイ・ビー・エム人事部の位田尚隆氏(32歳)を神田橋の地下食堂で勧誘
    • [34]位田氏は家族・友人の反対を押して1週間で転職を決断、入社後に手掛けた新規事業は7つ
    • [35]位田氏の転職動機は江副氏の事業規模の張り方への感服
  • 日経ビジネス 1987年7月6日号 No.470 p89-92(日経BP社)
    • [36]リクルートコスモスの前身は1969年6月設立
  • リクルートホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1971年4月 分譲マンション販売を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1986年12月号(池田友之)
    • [38]1974年 長谷川工務店が建てたネオコーポ行徳の販売引受がマンション開発事業の嚆矢、江副氏の中学以来の親友である同社副社長からの申し出
    • [39]売れ残ったら社宅にしてもよい程度の気持ちで開始したが、進めるうちにマーケットチャンスの大きさを確信
    • [40]マンション事業は昭和40年代に始まった若い産業で、後発でも研究と工夫を重ねれば業界トップに行けると産業の若さに着目

1960年〜1975年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1960年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年12月期 単体 0 n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1967年12月期 単体 2 n/a 0 5.0% n/a
1968年12月期 単体 5 +125.2% 0 3.3% n/a
1969年12月期 単体 11 +111.4% 0 4.2% n/a
1970年12月期 単体 23 +105.7% n/a n/a n/a
1971年12月期 単体 34 +43.5% n/a n/a n/a
1972年12月期 単体 36 +5.9% n/a n/a n/a
1973年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1974年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1975年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a

出所:経営資料集大成、リクルートの驚異

出典・参考

11件
出典・参考
  • リクルートホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1976年4月26日号 No.160 p16-19(日経BP社)
  • 近代中小企業 1984年10月号
  • Decide 1985年5月号(インタビュー特集 わが決断の時)
  • 証券アナリストジャーナル 1986年12月号(池田友之)
  • 月刊カレント 1987年5月号
  • Decide 1987年4月号(白尾芳輝)
  • Decide 1987年3月号 江副浩正インタビュー
  • 日経ビジネス 1987年7月6日号 No.470 p89-92(日経BP社)
  • 日経ビジネス 1988年2月29日号 No.489 p88-89(日経BP社)
  • 現代の眼 別冊 1982年「江副浩正(日本リクルートセンター社長)——就職を産業にしたアイデアマン」(坂口義弘)

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