味の素:冷凍食品・医薬品への参入とゼネラルフーズ・ダノンとの提携
1970年〜MSG安全性問題の10年と、売上高4000億円を掲げた長期経営方針
1969年10月、ニクソン大統領の栄養問題担当顧問だったメイヤー博士が、ベビーフードにMSGを使わないよう勧告した。根拠は、MSGを皮下注射したマウスの新生仔で脳の視床下部が損傷したという実験だった。同じ年には人工甘味料チクロが発がん性の疑いで使用を禁じられ、食品添加物への不安が高まっていた。味の素は11月に社長直属の委員会を置き、1970年1月には広報室を新設して長期の対応に備えた。英国と日本の研究機関に試験を委ね、海外の同業と国際組織を作って反証を重ねた。米食品医薬品局が現行の使用量で安全と公表したのは1980年5月で、決着まで約10年を要した。この有害問題も、技術から製品を探すシーズ志向の体質に根ざしていた。安全の立証は、作り手の側が負う費用になった。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [1]1969年10月23日 ニクソン大統領の栄養問題担当顧問メイヤー博士がベビーフードへのMSG不使用を勧告
- [2]勧告の根拠はオルニー博士のマウス新生仔へのMSG皮下注射による脳視床下部損傷の実験
- [3]1969年 人工甘味料チクロが発がん性のおそれから使用禁止となり、食品添加物の安全性への消費者の感受性が高まった
- [4]1969年11月1日 社長直属のMSG安全普及委員会を設置、1970年1月 広報室を新設しMSG委員会の事務局とした
- [5]ハンチントン研究所と国立予防衛生研究所に長期試験と追試を依頼し、1970年9月の世界MSGメーカー会議で国際グルタミン酸技術会議(IGTC)の結成を決めた
- [6]1980年5月6日 米FDAがMSGは現行使用レベルで食品添加物として安全である旨を公表し、約10年の問題が決着した
- 日経ビジネス 1973年6月25日号
- [7]グルタミン酸ソーダの有害問題もシーズ志向の体質に根ざしていたとの論評
「味の素」と「ハイ・ミー」の売上高は、1969年度を100として1970年度に86へ落ち、1973年度も89までしか戻らなかった。1971年6月にはMSGの輸入が自由化され、主力品に従来どおりの稼ぎを求めることは難しくなった。1968年に売上高の約50%を占めた調味料は1973年3月期に30%を割った。石油を原料とする合成法には消費者の不安があり、1973年5月に東海工場の合成法プラントを止めた。1967年の長期発展目標に対し、売上高は計画どおり伸びたが利益率は大きく下回った。鈴木恭二社長は1972年の年頭挨拶で『いたずらに売上高を伸ばすよりは,利益指向の徹底を目指し,一つ一つ赤字をしらみつぶしにして行くことを心掛けなければなりません』と述べ、目標を規模から利益へ移した。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [8]「味の素」「ハイ・ミー」の売上高は1969年度を100として1970年度86、1973年度でも89程度
- [9]1971年6月からMSGの輸入が自由化され、基軸製品としてのMSGに従来の役割を期待し続けることが難しくなった
- [12]1973年5月 東海工場の合成法プラントの操業を停止
- [13]1967年策定の長期発展目標は1977年度に売上高3000億円・税引後利益120億円を掲げたが、売上高は計画線上にある一方で利益率は計画から乖離した
- [14]1972年の年頭挨拶で鈴木恭二社長が利益指向の徹底を求めた
- 日経ビジネス 1973年6月25日号
- [10]調味料の売上構成比は1968年の約50%から1973年3月期に30%を割った
- [11]石油から「味の素」を作ることが消費者に不安感を与えたため、合成法から発酵法へ切り替えた
1973年1月の長期経営方針は、新製品・新事業の戦略的展開を基本姿勢の筆頭に置いた。目標は1980年度にグループ売上高4000億円、税引後利益130億円とした。調味料の収益の傘の下での多角化から離れ、調味料に並ぶ利益の柱を育てることを最優先の課題に据えた。渡辺文蔵社長は、ライフインダストリーへ広く出るには他企業と積極的に組む必要があると説いた。渡辺氏は同年5月に副社長から昇格した経理畑の出身で、鈴木一族以外から出た最初の社長である。就任挨拶では『私たちはその遺産の上に安住し,いささか自信過剰に陥っているのではないかと懸念します』と述べた。1976年からは調味料・油脂・食品・ファインケミカル・海外の5部門を利益責任の単位とした。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [15]1973年1月策定の長期経営方針は新製品・新事業の戦略的展開・社会的責任・人間性の尊重を基本姿勢とし、1980年度に売上高4000億円・税引後利益130億円を目標とした
- [16]長期経営方針はグループ全体の事業目標規模を1980年度に売上高4000億円・税引後利益130億円と設定した
- [17]調味料という安定収益部門の傘の下での多角化から、調味料に匹敵する次代の利益支柱部門の育成を最重要課題とした
- [20]1973年5月の社長就任の挨拶
- [21]1976年の新年挨拶で渡辺社長が調味料・油脂・食品・ファインケミカル・海外の5事業部門を利益責任の単位とする運営を打ち出した
- 日経ビジネス 1973年6月25日号
- [18]渡辺社長は長期経営方針のライフインダストリーへの展開について、幅広い産業分野に乗り出すには他企業とも積極的に組む必要があると述べた
- 日経ビジネス 1980年2月11日号
- [19]渡辺文蔵は1973年に社長就任、創業者・鈴木一族以外からの最初の社長
参考文献[1]-[21]
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [1]1969年10月23日 ニクソン大統領の栄養問題担当顧問メイヤー博士がベビーフードへのMSG不使用を勧告
- [2]勧告の根拠はオルニー博士のマウス新生仔へのMSG皮下注射による脳視床下部損傷の実験
- [3]1969年 人工甘味料チクロが発がん性のおそれから使用禁止となり、食品添加物の安全性への消費者の感受性が高まった
- [4]1969年11月1日 社長直属のMSG安全普及委員会を設置、1970年1月 広報室を新設しMSG委員会の事務局とした
- [5]ハンチントン研究所と国立予防衛生研究所に長期試験と追試を依頼し、1970年9月の世界MSGメーカー会議で国際グルタミン酸技術会議(IGTC)の結成を決めた
- [6]1980年5月6日 米FDAがMSGは現行使用レベルで食品添加物として安全である旨を公表し、約10年の問題が決着した
- [8]「味の素」「ハイ・ミー」の売上高は1969年度を100として1970年度86、1973年度でも89程度
- [9]1971年6月からMSGの輸入が自由化され、基軸製品としてのMSGに従来の役割を期待し続けることが難しくなった
- [12]1973年5月 東海工場の合成法プラントの操業を停止
- [13]1967年策定の長期発展目標は1977年度に売上高3000億円・税引後利益120億円を掲げたが、売上高は計画線上にある一方で利益率は計画から乖離した
- [14]1972年の年頭挨拶で鈴木恭二社長が利益指向の徹底を求めた
- [15]1973年1月策定の長期経営方針は新製品・新事業の戦略的展開・社会的責任・人間性の尊重を基本姿勢とし、1980年度に売上高4000億円・税引後利益130億円を目標とした
- [16]長期経営方針はグループ全体の事業目標規模を1980年度に売上高4000億円・税引後利益130億円と設定した
- [17]調味料という安定収益部門の傘の下での多角化から、調味料に匹敵する次代の利益支柱部門の育成を最重要課題とした
- [20]1973年5月の社長就任の挨拶
- [21]1976年の新年挨拶で渡辺社長が調味料・油脂・食品・ファインケミカル・海外の5事業部門を利益責任の単位とする運営を打ち出した
- 日経ビジネス 1973年6月25日号
- [7]グルタミン酸ソーダの有害問題もシーズ志向の体質に根ざしていたとの論評
- [10]調味料の売上構成比は1968年の約50%から1973年3月期に30%を割った
- [11]石油から「味の素」を作ることが消費者に不安感を与えたため、合成法から発酵法へ切り替えた
- [18]渡辺社長は長期経営方針のライフインダストリーへの展開について、幅広い産業分野に乗り出すには他企業とも積極的に組む必要があると述べた
- 日経ビジネス 1980年2月11日号
- [19]渡辺文蔵は1973年に社長就任、創業者・鈴木一族以外からの最初の社長
1972年〜冷凍食品の自社参入と、ゼネラルフーヅ・ダノンとの50対50合弁
1969年夏に社内で内外の冷凍食品市場を分析すると、既存品は材料や調理法、流通管理が不十分で、品質で上回れば需要は大きく伸びると見込まれた。1970年4月に企画チームを組み、料理専門家を交えて約100の候補から12品種を選び、延べ1万8000人の試食で配合を決めた。1972年3月に関東で発売した12品種は既存品より30〜50%高い値を付けたが、1年で首都圏の調理冷凍食品のシェア20%を取った。1975年には調理冷凍食品のトップブランドとなった。生産は地域ごとの別会社に分け、渡辺社長はその理由を、遠くへ運べず原料も産地で買う商品であり、子会社の社長同士が競い合う点に求めた。1978年度に冷凍食品は売上高の6.6%を占めた。後発でも値を下げず、品質で入る型がここで定まったとみられる。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [22]1969年夏から冷凍食品市場を分析し、既存品は材料・調理法・品質・流通管理が不十分で、それを一掃する品質の商品なら需要が大幅に伸びると判断した
- [23]1970年4月にプロジェクトチームを結成し、100品種近くの候補から12品種を選び延べ1万8000人のテストでレシピーを決定した
- [24]1972年3月 関東地区で12品種を既存品より約30〜50%高い価格で発売し、1年で首都圏の調理冷凍食品市場の20%のシェアを獲得した
- [25]販売地域を順次拡大し、1975年に調理冷凍食品市場でトップブランドの地位を確保した
- [27]冷凍食品の売上げは1978年度に当社売上高の6.6%を占めた
- 日経ビジネス 1980年2月11日号
- [26]冷凍食品はそれぞれ別会社で生産し、輸送距離が限られ原料も土地で仕入れるため工場を幾つも作り、各社の社長が自然と競争すると渡辺社長が述べた
米ゼネラル・フーヅ社が1954年に全額出資で設けた日本法人は、業績が振るわなかった。国内のインスタントコーヒーはネッスルが約70%を握っていた。診断にあたったボストン・コンサルティング社は、日本の有力食品会社と組むよう勧めた。味の素は1973年に同社株の50%を取得して味の素ゼネラルフーヅ(AGF)とし、製品の総発売元となった。技術は先方、販売は味の素と分けて贈答用セットを問屋に載せ、売上高は1973年3月期の67億円から翌期106億円へ増えた。渡辺社長は英語で開いていた重役会を日本語に改め、合弁の条件を『こちらに自信のある技術や販売網などがなければ提携するなっていう方針でして、つまり対等であることが大前提なんです』と語った。1978年度にはAGFの関連商品が売上高の14.3%を占めた。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [28]1954年全額出資で設立のゼネラルフーヅ日本は成績不振だった
- [30]ゼネラル・フーヅ社が企業診断を依頼したボストン・コンサルティング社は有力な日本の食品会社との提携を勧告した
- [31]1973年 ゼネラルフーヅ日本の株式の50%を取得して味の素ゼネラルフーヅに改組し、同社製品の総発売元となった
- [34]味の素ゼネラルフーヅ関連商品は1978年度に当社売上高の14.3%を占めた
- 日経ビジネス 1973年6月25日号
- [29]日本のインスタントコーヒー市場はネッスルが70%のシェアを持っていた
- 日経ビジネス 1986年4月28日号
- [32]技術はGF・販売は味の素と分担し、食料大問屋ルートにギフト・セットを乗せて拡販した結果、売上高は1973年3月期67億円から翌期106億円となった
- 日経ビジネス 1980年2月11日号
- [33]資本参加まで英語で行われていた重役会を即刻日本語に切り替えたと渡辺社長が述べた
1984年度の加工食品部門では売上の75%を合弁会社の製品が稼ぎ出し、調味料は23%にとどまっていた。ダノンとの合弁は、フランスのジェルベ・ダノン社が1977年春に持ちかけた話で、約2年を検討に充てたのち1980年1月に調印した。折半出資の味の素ダノンは同年4月に設立され、10月には首都圏でフレッシュチーズとチルドデザートを計4製品投入した。味の素は販売手数料について1982年以降の2年分を受け取らずに後ろへ回したが、1986年の時点でも同社は赤字のままだった。販路の面では1985年11月に生麺の島田屋へ出資して同社のチルド日配網にヨーグルトなどを載せ、折半を崩さない理由を鈴木忠雄副社長は『海外企業は技術力、味の素はマーケティング力とお互いに足りない機能を補い,成果を平等に分配すれば、双方とも満足できるはず』と語った。
- 日経ビジネス 1986年4月28日号
- [35]1984年度の加工食品部門の売上げのうち75%が合弁企業の製品で、売上構成比は加工食品37%・調味料23%
- [38]1980年設立の味の素ダノンは1986年時点で赤字経営が続き、味の素は1982年から2年間販売手数料の受け取りを繰り延べた
- [39]1985年11月 生麺メーカーの島田屋に資本参加し、島田屋チルド食品の日配ルートに味の素ダノンのチーズ・デザート・ヨーグルトなどを流し始めた
- [40]鈴木忠雄副社長がハーバード・ビジネス・スクールで50対50の合弁の理由を説明した
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [36]1977年春にジェルベ・ダノン社が合弁事業を申し込み、約2年の検討を経て1980年1月に契約を正式調印した
- [37]1980年4月 資本金10億円を両社各50%出資で味の素ダノンが発足し、同年10月に首都圏でフレッシュチーズなど4製品を発売した
参考文献[22]-[40]
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [22]1969年夏から冷凍食品市場を分析し、既存品は材料・調理法・品質・流通管理が不十分で、それを一掃する品質の商品なら需要が大幅に伸びると判断した
- [23]1970年4月にプロジェクトチームを結成し、100品種近くの候補から12品種を選び延べ1万8000人のテストでレシピーを決定した
- [24]1972年3月 関東地区で12品種を既存品より約30〜50%高い価格で発売し、1年で首都圏の調理冷凍食品市場の20%のシェアを獲得した
- [25]販売地域を順次拡大し、1975年に調理冷凍食品市場でトップブランドの地位を確保した
- [27]冷凍食品の売上げは1978年度に当社売上高の6.6%を占めた
- [28]1954年全額出資で設立のゼネラルフーヅ日本は成績不振だった
- [30]ゼネラル・フーヅ社が企業診断を依頼したボストン・コンサルティング社は有力な日本の食品会社との提携を勧告した
- [31]1973年 ゼネラルフーヅ日本の株式の50%を取得して味の素ゼネラルフーヅに改組し、同社製品の総発売元となった
- [34]味の素ゼネラルフーヅ関連商品は1978年度に当社売上高の14.3%を占めた
- [36]1977年春にジェルベ・ダノン社が合弁事業を申し込み、約2年の検討を経て1980年1月に契約を正式調印した
- [37]1980年4月 資本金10億円を両社各50%出資で味の素ダノンが発足し、同年10月に首都圏でフレッシュチーズなど4製品を発売した
- 日経ビジネス 1980年2月11日号
- [26]冷凍食品はそれぞれ別会社で生産し、輸送距離が限られ原料も土地で仕入れるため工場を幾つも作り、各社の社長が自然と競争すると渡辺社長が述べた
- [33]資本参加まで英語で行われていた重役会を即刻日本語に切り替えたと渡辺社長が述べた
- 日経ビジネス 1973年6月25日号
- [29]日本のインスタントコーヒー市場はネッスルが70%のシェアを持っていた
- 日経ビジネス 1986年4月28日号
- [32]技術はGF・販売は味の素と分担し、食料大問屋ルートにギフト・セットを乗せて拡販した結果、売上高は1973年3月期67億円から翌期106億円となった
- [35]1984年度の加工食品部門の売上げのうち75%が合弁企業の製品で、売上構成比は加工食品37%・調味料23%
- [38]1980年設立の味の素ダノンは1986年時点で赤字経営が続き、味の素は1982年から2年間販売手数料の受け取りを繰り延べた
- [39]1985年11月 生麺メーカーの島田屋に資本参加し、島田屋チルド食品の日配ルートに味の素ダノンのチーズ・デザート・ヨーグルトなどを流し始めた
- [40]鈴木忠雄副社長がハーバード・ビジネス・スクールで50対50の合弁の理由を説明した
1970年〜医薬品とアスパルテームの事業化、四半世紀ぶりの鹿島工場
医薬品への進出は1970年6月の社内委員会の答申に始まり、輸液用などの医薬用アミノ酸を製薬会社と開発してきた経験が足場になった。1972年秋には生物科学研究部を独立の研究所に格上げし、医学や薬学の研究員70名を置いた。初期の製品は伸びず、L-ドーパは1970年12月に生産を止め、CDPコリンも価格下落で1975年に自社生産をやめた。1975年5月の答申は既存の製薬会社の取得か提携を勧め、味の素は出資先の森下製薬に1976年12月社長を送った。医家向けの第1号は、1981年9月発売の成分栄養剤エレンタールだった。千葉大学の要請で日本人向けに組成を作り直し、味の素単独で初めて製造承認を得た医薬品である。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [41]1970年6月 Mプロジェクトチームが医薬品事業進出に関する答申を提出。輸液用や抗潰瘍剤用などの医薬用アミノ酸の共同開発・生産・販売の経験があった
- [43]L-ドーパは1970年11月に米国向け輸出を始めたが同年12月に生産を中止し、CDPコリンは価格低下で1975年10月に生産を停止し購入販売に切り換えた
- [44]1975年5月の答申は既存製薬会社の取得あるいは提携を提案し、1976年12月に出資先の森下製薬へ社長を派遣した
- [45]1981年9月 医家向け医薬品の第1号として成分栄養剤「エレンタール」を発売
- [46]1976年に千葉大学から日本人に合った成分栄養剤の開発を要請され、当社単独で初めて医薬品製造承認を申請し1981年5月に認可を取得した
- 日経ビジネス 1973年6月25日号
- [42]1972年秋 中央研究所の生物科学研究部を独立研究所に昇格させ、医学・薬学・農学者など研究員70名を置いた
アスパルテームの事業化は、1968年12月に鈴木恭二社長が米サール社を訪ね、共同事業化を申し入れたことに始まる。1970年6月の契約で、サール社が用途特許を供与し、味の素が量産技術を確立して供給する分担が決まった。甘さは砂糖の約200倍で、チクロの禁止によって安全な低カロリー甘味料への需要が高まっていた。1972年に約100人のチームを組み、1974年に東海工場で試験生産にこぎ着けた。ところが1975年に米国で認可が保留され、味の素は製造を止めてチームを解いた。収率の改善と安全性の試験は続け、1981年7月の米国認可を受けて1982年5月にサール社向け輸出を本格化した。国内では1983年8月に世界で24番目となる認可を得て、1984年に卓上甘味料を売り出した。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [47]1968年12月 鈴木恭二社長自らサール社を訪ねアスパルテームの共同事業化を申し入れた
- [48]1970年6月 サール社が基本用途特許を供与し、味の素が量産技術を確立して製品と技術を提供する共同開発契約を調印
- [52]効率的な生産方法の開発と安全性試験を継続し、1981年7月のFDA認可を受け1982年4月に生産再開、5月にサール社への本格輸出を開始した
- [53]1983年8月 厚生省から食品添加物の指定を受け世界で24番目の認可となり、1984年から卓上甘味料を一般向けに発売した
- 日経ビジネス 1984年9月3日号
- [49]アスパルテームの甘さは砂糖の200倍で、1969年のチクロ使用禁止で良質の甘味料への需要が高まっていた
- [50]1972年に約100人のプロジェクトチームを発足させ、コストより成功確率の高い方法を選んで短期開発を行い、1974年に東海工場でテスト生産にこぎつけた
- [51]1975年にFDAが認可を保留し、味の素は製造を中止、プロジェクトチームは解散した
1984年6月の長期経営構想は、食品とアミノ酸を二大主力とし、医薬品・ファインケミカルを加えた生活企業を目標に掲げた。同年4月に置いた立地検討班の答申を受け、1985年3月に国内第5工場の用地を茨城県の鹿島臨海工業地帯に求めると決めた。既存4工場の敷地が手狭で、当面の必要を超える土地を持てば将来の立地計画に余地が生まれるという判断だった。最初の設備はイノシン酸を月50トン増やすためのもので、東海工場の増設より費用がやや高くても供給拠点を分ける案を採った。1987年10月に試運転を終え、1988年3月に約四半世紀ぶりの国内新工場として竣工した。歌田勝弘社長の8年間は、食品分野の多角化と医薬事業への展開を進めた期間と総括された。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [54]1984年6月に経営会議で確認された長期経営構想は、食品・アミノ酸を二大主力分野とし医薬品・ファインケミカルにわたる生活企業を目標とした
- [55]1984年4月設置のRC班の答申に基づき、1985年3月に鹿島地区の土地購入が経営会議の承認を得て国内第5工場の建設計画が決まった
- [56]既存4工場の敷地が手狭になったことに加え、当面の必要を上回る用地確保で将来の生産立地計画に柔軟性を与えられることが評価された
- [57]イノシン酸の50トン/月の増産について東海工場増設案と鹿島新設案を比較し、設備投資額でやや上回るものの供給リスクの分散になるとして1985年9月に鹿島IN工場新設案を採択した
- [58]1987年10月に試運転に成功し、1988年1月に月産50トンを達成、同年3月に四半世紀ぶりの国内新工場として竣工した
- 日経ビジネス 1989年1月30日号
- [59]歌田社長の8年間は食品分野の多角化や医薬事業など新分野への展開を積極的に推進した期間だった
参考文献[41]-[59]
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [41]1970年6月 Mプロジェクトチームが医薬品事業進出に関する答申を提出。輸液用や抗潰瘍剤用などの医薬用アミノ酸の共同開発・生産・販売の経験があった
- [43]L-ドーパは1970年11月に米国向け輸出を始めたが同年12月に生産を中止し、CDPコリンは価格低下で1975年10月に生産を停止し購入販売に切り換えた
- [44]1975年5月の答申は既存製薬会社の取得あるいは提携を提案し、1976年12月に出資先の森下製薬へ社長を派遣した
- [45]1981年9月 医家向け医薬品の第1号として成分栄養剤「エレンタール」を発売
- [46]1976年に千葉大学から日本人に合った成分栄養剤の開発を要請され、当社単独で初めて医薬品製造承認を申請し1981年5月に認可を取得した
- [47]1968年12月 鈴木恭二社長自らサール社を訪ねアスパルテームの共同事業化を申し入れた
- [48]1970年6月 サール社が基本用途特許を供与し、味の素が量産技術を確立して製品と技術を提供する共同開発契約を調印
- [52]効率的な生産方法の開発と安全性試験を継続し、1981年7月のFDA認可を受け1982年4月に生産再開、5月にサール社への本格輸出を開始した
- [53]1983年8月 厚生省から食品添加物の指定を受け世界で24番目の認可となり、1984年から卓上甘味料を一般向けに発売した
- [54]1984年6月に経営会議で確認された長期経営構想は、食品・アミノ酸を二大主力分野とし医薬品・ファインケミカルにわたる生活企業を目標とした
- [55]1984年4月設置のRC班の答申に基づき、1985年3月に鹿島地区の土地購入が経営会議の承認を得て国内第5工場の建設計画が決まった
- [56]既存4工場の敷地が手狭になったことに加え、当面の必要を上回る用地確保で将来の生産立地計画に柔軟性を与えられることが評価された
- [57]イノシン酸の50トン/月の増産について東海工場増設案と鹿島新設案を比較し、設備投資額でやや上回るものの供給リスクの分散になるとして1985年9月に鹿島IN工場新設案を採択した
- [58]1987年10月に試運転に成功し、1988年1月に月産50トンを達成、同年3月に四半世紀ぶりの国内新工場として竣工した
- 日経ビジネス 1973年6月25日号
- [42]1972年秋 中央研究所の生物科学研究部を独立研究所に昇格させ、医学・薬学・農学者など研究員70名を置いた
- 日経ビジネス 1984年9月3日号
- [49]アスパルテームの甘さは砂糖の200倍で、1969年のチクロ使用禁止で良質の甘味料への需要が高まっていた
- [50]1972年に約100人のプロジェクトチームを発足させ、コストより成功確率の高い方法を選んで短期開発を行い、1974年に東海工場でテスト生産にこぎつけた
- [51]1975年にFDAが認可を保留し、味の素は製造を中止、プロジェクトチームは解散した
- 日経ビジネス 1989年1月30日号
- [59]歌田社長の8年間は食品分野の多角化や医薬事業など新分野への展開を積極的に推進した期間だった
1970年〜1988年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1970年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | インドネシア味の素社を設立(1969/07) |
| 1971年03月期 | 単体 | 1,252 | n/a | n/a | 65 | 42 | 3.4% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 1,347 | +7.6% | n/a | 60 | 41 | 3.1% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 1,452 | +7.7% | n/a | 80 | 45 | 3.1% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 2,004 | +38.0% | n/a | 106 | 52 | 2.6% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 2,588 | +29.1% | n/a | 93 | 53 | 2.1% | ユーロリジン社を設立(現 味の素ユーロリジン社)(1974/08)味の素インテルアメリカーナ社を設立(現 ブラジル味の素社)(1974/12) |
| 1976年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年03月期 | 連結 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1978年03月期 | 連結 | 3,577 | n/a | 109 | 133 | 82 | 2.3% | n/a |
| 1979年03月期 | 連結 | 3,657 | +2.2% | n/a | n/a | 108 | 3.0% | n/a |
| 1980年03月期 | 連結 | 3,835 | +4.9% | n/a | n/a | 121 | 3.2% | n/a |
| 1981年03月期 | 連結 | 4,200 | +9.5% | n/a | n/a | 140 | 3.3% | n/a |
| 1982年03月期 | 連結 | 4,445 | +5.8% | n/a | n/a | 101 | 2.3% | n/a |
| 1983年03月期 | 連結 | 4,701 | +5.8% | n/a | n/a | 108 | 2.3% | n/a |
| 1984年03月期 | 連結 | 4,823 | +2.6% | n/a | n/a | 130 | 2.7% | n/a |
| 1985年03月期 | 連結 | 5,107 | +5.9% | n/a | n/a | 150 | 2.9% | n/a |
| 1986年03月期 | 連結 | 5,150 | +0.8% | n/a | n/a | 150 | 2.9% | n/a |
| 1987年03月期 | 連結 | 4,812 | ▲6.6% | n/a | n/a | 143 | 3.0% | n/a |
| 1988年03月期 | 連結 | 4,834 | +0.5% | n/a | n/a | 165 | 3.4% | n/a |
出所:会社年鑑 1976年版、日本企業要覧
出典・参考
6件
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- 日経ビジネス 1973年6月25日号
- 日経ビジネス 1980年2月11日号
- 日経ビジネス 1984年9月3日号
- 日経ビジネス 1986年4月28日号
- 日経ビジネス 1989年1月30日号