味の素:アミノ酸事業への参入と海外事業の本格化
1956年〜協和醗酵の直接発酵法による先発優位の崩壊と、全量買取契約
1956年9月、協和醗酵工業株式会社が直接発酵法によるグルタミン酸ソーダ製造の開始を公表した。味の素にとってこれは二重の打撃だった。新製法の開発で他社に後れを取ったこと、そしてその製法が直接発酵法だったことである。抽出法の設備に投じた巨額の資本をほぼ償却し終えているという先発企業の利点は、より低い原価で生産できる製法の出現によって意味を失った。抽出法は小麦粉や脱脂大豆を酸で分解するため、目的とするグルタミン酸より副産物のほうが多く出る。その副産物の市場を握ることが他社の参入を阻む障壁になっていたが、副産物を生まない発酵法の登場でその障壁も崩れた。半世紀かけて磨いた抽出法の精緻さが、そのまま競争劣位に転じた。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [1]1956年9月 協和醗酵工業が直接発酵法によるMSG製造の開始を公表
- [2]新製法の開発で他社に後れを取ったことと、その製法が直接発酵法であったことの2点が衝撃となった
- [3]抽出法設備の巨額投資をほぼ償却済みという先発の利点が、低コストの新製法の出現で意義を失った
- [5]副産物市場の支配力が他社の参入障壁になっていたが、副産物を生じない発酵法の登場で崩壊した
- 証券アナリストジャーナル 1965年3巻3号(稲川四郎)
- [4]抽出法(酸分解法)では目的物のグルタミン酸より副産物の量が多く、小麦粉からは6割余の澱粉が出た
味の素が最初に打った手は、競合の製品を買い取ることだった。朝日麦酒株式会社の山本為三郎社長の仲介により、1956年11月に両社はグルタミン酸の売買契約を結び、協和醗酵が製造する分を全量買い受けることにした。この契約が成立したのは、戦前から全国の主要都市へ敷いてきた特約店中心の販売網の力によるものだった。製法で劣位に立っても、売る経路を握っている限り市場は渡さないという判断である。友好関係は1960年ごろまで続いたが、1961年4月に協和醗酵が契約の解約を申し出、同年11月には味の素がジアミノペラルゴン酸の開発を理由にビオチンの使用停止を通告して、両社は対立に転じた。買取契約が味の素にもたらしたのは市場ではなく、自社の製法を切り替えるまでの五年だった。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [6]1956年11月 朝日麦酒の山本為三郎社長の仲介で協和醗酵とグルタミン酸の売買契約を締結し、同社の製造分を全量買い受けた
- [8]協和醗酵との売買契約が成立したのは特約店を中心とする販売網の力によるものだった
- [9]1961年4月 協和醗酵がグルタミン酸売買契約の解約を申し出た
- [10]1961年11月 味の素がジアミノペラルゴン酸の開発を理由にビオチンの使用停止を通告し、両社は対立関係に陥った
- 味の素グループの百年史
- [7]1910年代後半から1920年代にかけ全国の主要都市へ特約店網を整備
抽出法に代わる製法の探索は、協和醗酵の公表より前に始まっていた。発酵法と合成法の研究に着手したのは1940年代の終わりから1950年代の初めにかけてで、発酵法の直接のきっかけは、アメリカ農商務省北部研究所のロックウッド博士による発酵でα-ケトグルタール酸を生産する論文を1950年に入手したことだった。1953年春から京都大学の片桐英郎名誉教授の指導を受け、1955年春には東京大学の朝井勇宣教授の指導も加えてクルイフェラ属菌を分離し、発酵期間1.5日で対糖収率58%まで上げた。ただしこれは前駆物質を発酵で作り、次にそれを還元アミノ化する二段法だった。一段で済む直接発酵法の出現を受けて、味の素は1957年春に直接発酵法へ焦点を合わせる方針を固めた。
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(平塚潔)
- [11]発酵法と合成法の研究着手は昭和20年代の終わりから30年代の初めにかけて
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [12]1950年 米農商務省北部研究所ロックウッド博士の「発酵によるα-ケトグルタール酸の生産」論文を入手し発酵法研究に着手
- [13]1953年春から京都大学片桐英郎、1955年春から東京大学朝井勇宣の指導を受け、クルイフェラ属菌で発酵期間1.5日・対糖収率58%を達成
- [14]味の素が開発していた発酵法は、α-ケトグルタール酸を発酵で生成し還元アミノ化する二段法だった
- [15]1957年春 直接発酵法に焦点を合わせて発酵法の工業化を進める方針を固めた
参考文献[1]-[15]
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [1]1956年9月 協和醗酵工業が直接発酵法によるMSG製造の開始を公表
- [2]新製法の開発で他社に後れを取ったことと、その製法が直接発酵法であったことの2点が衝撃となった
- [3]抽出法設備の巨額投資をほぼ償却済みという先発の利点が、低コストの新製法の出現で意義を失った
- [5]副産物市場の支配力が他社の参入障壁になっていたが、副産物を生じない発酵法の登場で崩壊した
- [6]1956年11月 朝日麦酒の山本為三郎社長の仲介で協和醗酵とグルタミン酸の売買契約を締結し、同社の製造分を全量買い受けた
- [8]協和醗酵との売買契約が成立したのは特約店を中心とする販売網の力によるものだった
- [9]1961年4月 協和醗酵がグルタミン酸売買契約の解約を申し出た
- [10]1961年11月 味の素がジアミノペラルゴン酸の開発を理由にビオチンの使用停止を通告し、両社は対立関係に陥った
- [12]1950年 米農商務省北部研究所ロックウッド博士の「発酵によるα-ケトグルタール酸の生産」論文を入手し発酵法研究に着手
- [13]1953年春から京都大学片桐英郎、1955年春から東京大学朝井勇宣の指導を受け、クルイフェラ属菌で発酵期間1.5日・対糖収率58%を達成
- [14]味の素が開発していた発酵法は、α-ケトグルタール酸を発酵で生成し還元アミノ化する二段法だった
- [15]1957年春 直接発酵法に焦点を合わせて発酵法の工業化を進める方針を固めた
- 証券アナリストジャーナル 1965年3巻3号(稲川四郎)
- [4]抽出法(酸分解法)では目的物のグルタミン酸より副産物の量が多く、小麦粉からは6割余の澱粉が出た
- 味の素グループの百年史
- [7]1910年代後半から1920年代にかけ全国の主要都市へ特約店網を整備
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(平塚潔)
- [11]発酵法と合成法の研究着手は昭和20年代の終わりから30年代の初めにかけて
1960年〜三工場体制への製法転換と、副産物部門だった油脂の独立
製法の転換は三つの工場に分かれて進んだ。1960年12月に川崎工場で抽出法から発酵法への転換が始まり、1962年2月には佐賀工場を改組した九州工場が発酵法による生産を本格化し、同年12月には新設した東海工場が合成法による生産を始めた。1961年には、九州工場を新たに立ち上げ直す工事と東海工場の建設が同じ年に集中し、設備投資は年間約100億円に上った。四日市の東海工場で使った合成法は、味の素が自社で開発し工業化までこぎつけた技術である。グルタミン酸ソーダの生産高は1955年の6,662トンが1968年には5万4,542トンとなり、8.2倍に増えた。月産の生産能力も650トンから5,300トンへと、同じ比率で拡大した。これで抽出、発酵、合成の三つを目的ごとに使い分ける体制ができあがった。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [16]1960年12月 川崎工場の製造法を抽出法から発酵法へ転換開始
- [17]1962年2月 佐賀工場を改組した九州工場で発酵法による生産を本格開始
- [18]1962年12月 新設の東海工場で合成法によるMSG本格生産を開始
- [19]1961年 九州工場の新生と東海工場の建設が重なり年間の総設備投資額が約100億円に達した
- [21]MSG生産高は1955年6,662トンから1968年5万4,542トンへ8.2倍、生産能力は月産650トンから5,300トンへ8.2倍
- 証券アナリストジャーナル 1965年3巻3号(稲川四郎)
- [20]四日市の東海工場の合成法は味の素が自ら開発し工業化した製法
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(平塚潔)
- [22]抽出技術・発酵技術・合成技術の三つが完成し、目的に合わせて駆使できる体制が確立した
味の素の原料に向く大豆粕を供給するという油脂部門の役割は、製法が変わったことで失われ、同部門は単独の事業として出直すことになった。抽出法なら、小麦粉から6割余りの澱粉が、脱脂大豆から味液のもとになるアミノ酸が副産物として出てくる。発酵法ではそれらが自然に得られることはなく、味の素を支えてきた副産物の仕組みは崩れた。油脂の商品では、1958年6月のサラダ油に続いて1964年6月にごま油とコーンサラダ油を売り出した。原料油の仕入れ先を確保するため、1962年4月に太田油脂工業、1966年8月に熊沢製油産業へ出資し、1968年2月には全額を出資して東洋製油株式会社をつくり、大型船が横付けできる工場を千葉に構えた。油脂の売上高は1955年の24億8,400万円から1968年の116億4,700万円へ4.7倍になり、調味料の3.8倍を上回った。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [23]MSG製法の転換により油脂部門は「味の素」原料の大豆粕を作る役割を終え、独立の事業部門として再出発した
- [25]1958年6月 サラダ油を発売、1964年6月 ごま油とコーンサラダ油を発売
- [26]1962年4月 太田油脂工業に資本参加、1966年8月 熊沢製油産業に出資し関係会社化
- [27]1968年2月 全額出資の東洋製油株式会社を設立し千葉に工場を建設
- [28]油脂売上高は1955年24億8,400万円から1968年116億4,700万円へ4.7倍、調味料売上高の3.8倍を上回った
- 証券アナリストジャーナル 1965年3巻3号(稲川四郎)
- [24]抽出法では小麦粉の6割余の澱粉が副産物として出て、脱脂大豆の分解液には味液の原料となるアミノ酸が多量に含まれた
発酵と合成という二つの技術は、うま味調味料の外へ広がった。研究開発費は1962年に年間10億円、1967年に20億円を超えた。1959年に本店食品研究室がグルタミン酸ソーダとイノシン酸ナトリウムを混ぜると呈味力が著しく強くなることを確かめ、1960年10月に両者を組み合わせた味の素プラスを発売した。イノシン酸は当初、煮干からの抽出で作っていたが原料と原価に限界があり、発酵でイノシンを得てそれを合成でイノシン酸に変える方式へ移った。グアニル酸も同じ組み合わせで工業化し、1968年4月に日本化学会化学技術賞を受けた。アミノ酸の用途も医薬品の原料から食品や飼料の添加へ広がり、グルタミン酸の誘導体からはエポキシ樹脂の常温硬化剤エポメートが生まれた。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [29]研究開発費は1962年に年間10億円、1967年に年間20億円を超えた
- [30]1959年 本店食品研究室がMSGとイノシン酸ナトリウムの相乗効果を確定し、1960年10月に「味の素プラス」を発売
- [31]抽出法によるイノシン酸製造は原料・生産コスト面で限界があり、発酵法でイノシンを得て合成法でイノシン酸とする方式へ転換した
- [32]グアニル酸も発酵法と合成法の組合せで工業化し、1968年4月に日本化学会化学技術賞を受賞
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(平塚潔)
- [33]アミノ酸類の用途が医薬品原料から食品・飼料の添加用へ広がった
- [34]グルタミン酸の誘導体としてエポキシ樹脂の常温硬化剤「エポメート」を開発・発売
参考文献[16]-[34]
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [16]1960年12月 川崎工場の製造法を抽出法から発酵法へ転換開始
- [17]1962年2月 佐賀工場を改組した九州工場で発酵法による生産を本格開始
- [18]1962年12月 新設の東海工場で合成法によるMSG本格生産を開始
- [19]1961年 九州工場の新生と東海工場の建設が重なり年間の総設備投資額が約100億円に達した
- [21]MSG生産高は1955年6,662トンから1968年5万4,542トンへ8.2倍、生産能力は月産650トンから5,300トンへ8.2倍
- [23]MSG製法の転換により油脂部門は「味の素」原料の大豆粕を作る役割を終え、独立の事業部門として再出発した
- [25]1958年6月 サラダ油を発売、1964年6月 ごま油とコーンサラダ油を発売
- [26]1962年4月 太田油脂工業に資本参加、1966年8月 熊沢製油産業に出資し関係会社化
- [27]1968年2月 全額出資の東洋製油株式会社を設立し千葉に工場を建設
- [28]油脂売上高は1955年24億8,400万円から1968年116億4,700万円へ4.7倍、調味料売上高の3.8倍を上回った
- [29]研究開発費は1962年に年間10億円、1967年に年間20億円を超えた
- [30]1959年 本店食品研究室がMSGとイノシン酸ナトリウムの相乗効果を確定し、1960年10月に「味の素プラス」を発売
- [31]抽出法によるイノシン酸製造は原料・生産コスト面で限界があり、発酵法でイノシンを得て合成法でイノシン酸とする方式へ転換した
- [32]グアニル酸も発酵法と合成法の組合せで工業化し、1968年4月に日本化学会化学技術賞を受賞
- 証券アナリストジャーナル 1965年3巻3号(稲川四郎)
- [20]四日市の東海工場の合成法は味の素が自ら開発し工業化した製法
- [24]抽出法では小麦粉の6割余の澱粉が副産物として出て、脱脂大豆の分解液には味液の原料となるアミノ酸が多量に含まれた
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(平塚潔)
- [22]抽出技術・発酵技術・合成技術の三つが完成し、目的に合わせて駆使できる体制が確立した
- [33]アミノ酸類の用途が医薬品原料から食品・飼料の添加用へ広がった
- [34]グルタミン酸の誘導体としてエポキシ樹脂の常温硬化剤「エポメート」を開発・発売
1962年〜ケロッグ・コーンプロダクツとの提携と、東南アジアでの現地生産
単品への依存から抜けるもう一つの道は、外から商品と売り方を借りることだった。味の素は1962年に米国のケロッグ社と、1963年に同じく米国のコーン・プロダクツ社と、それぞれ日本で提携事業を始めた。コーン・プロダクツ社との合弁ではクノールスープを製造販売し、ケロッグ社との提携ではコーンフレークを発売した。相手が提携先として味の素を選んだのも、特約店を中心とする販売網の力があったからだった。同時に味の素は、コーン・プロダクツ社から消費者中心主義を軸にしたマーケティングの技法を学び、市場の解析から目標の設定、広告と販促の戦略、五か年の販売予測と利益計画までを一つの体系として組む方式を取り入れた。1966年3月には広告部を改組して販売促進部を発足させた。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [35]1962年にケロッグ社、1963年にコーン・プロダクツ社と日本での提携事業を開始
- [38]ケロッグ社やコーン・プロダクツ社が提携相手に味の素を選んだのは同社の販売力によるものだった
- [39]コーン・プロダクツ社から消費者中心主義に立つマーケティングプランの体系(背景解析・目標・コンセプト・戦略・5カ年の販売予測と利益計画)を導入
- [40]1966年3月 広告部を改組して販売促進部を発足させ、広告課・普及課・制作課・市場課を置いた
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(平塚潔)
- [36]1962年からコーン・プロダクツ社との合弁でスープ類の製造販売を開始し「クノール」スープとして販売
- [37]ケロッグ社と提携してコーンフレークを発売した
輸出から現地生産への切り替えも、この時期に始まった。戦後の海外工場の第一号となったタイ工場は1961年12月に操業を開始し、1962年9月にフィリピン、1965年4月にマレーシア、1966年にイタリア、1969年2月にペルーの各工場が続いた。技術そのものを売る相手は工業力を持つ国とし、1964年7月にスペインのペニベリカ社と、1968年6月にユーゴスラビアのポドラフカ社と技術援助の契約を交わした。自ら工場を出した先では、どれも直営とせず現地法人に運営を任せ、発酵法で生産した。タイ、フィリピン、マレーシアの三工場はそれぞれ月産50トンから出発した。1969年初めの時点で、タイは約6倍、フィリピンは約8倍、マレーシアは2倍に広がっていた。1966年に月産400トンで動き出したイタリアの合弁会社を加えると、海外の四工場を合計した能力は月産1,000トンを上回った。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [41]タイ工場1961年12月、フィリピン工場1962年9月、マレーシア工場1965年4月、イタリア工場1966年、ペルー工場1969年2月に操業開始
- [42]1964年7月 スペインのペニベリカ社、1968年6月 ユーゴスラビアのポドラフカ社と技術援助契約を締結
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(平塚潔)
- [43]海外工場は直営ではなくタイ味の素・ユニオンケミカルズ・マレーシア味の素・味の素インスッド・ペルー味の素など現地法人の管轄下に置かれ、いずれも発酵法で操業した
- [44]タイ・フィリピン・マレーシアの各工場は月産50トンで操業を開始し、1969年初めにタイ約6倍・フィリピン約8倍・マレーシア2倍の規模に
- [45]イタリアの合弁会社は1966年に月産400トンで開始し、海外4工場の能力合計は月産1,000トンを超えた
売る力の増強は、支店と人の両方で進んだ。支店は1955年12月末の大阪と福岡の二つから、1969年3月末には東京・名古屋・札幌・広島・仙台・高松・金沢を加えた9支店となり、熊本・岡山・新潟に営業所を置いた。1966年3月には鈴木恭二社長が自ら指揮して、従業員6,000人弱の全員が販売に回る6,000人総セールスマン運動が始まった。合理化で下がった原価は値下げに回し、1964年秋の味の素とハイミーの1割値下げは戦後13回目だった。総売上高は1955年度の207億7,100万円から1968年度の871億円へ4.2倍になり、従業員は2,838人から5,977人へほぼ倍増した。1969年の時点で家庭用味の素の販売シェアは90%以上、複合調味料ハイミーは50%以上を保っていた。製法で先行を許した13年のあいだに、味の素は売り方と品目の数で優位を作り直していた。
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [46]支店は1955年12月末の大阪・福岡2支店から1969年3月末に9支店となり、熊本・岡山・新潟に営業所を開設
- [47]1966年3月 鈴木恭二社長が自ら指揮して「6,000人総セールスマン運動」を開始(当時の従業員総数は6,000人弱)
- [49]年間総売上高は1955年度207億7,100万円から1968年度871億円へ4.2倍に増大
- [50]従業員総数は1955年末2,838名から1969年3月末5,977名へほぼ倍増
- 証券アナリストジャーナル 1965年3巻3号(渡辺文蔵)
- [48]1964年秋の「味の素」「ハイミー」1割値下げは戦後13回目の値下げだった
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(平塚潔)
- [51]1969年時点で家庭用「味の素」の販売シェアは90%以上、複合調味料「ハイミー」は50%以上
参考文献[35]-[51]
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- [35]1962年にケロッグ社、1963年にコーン・プロダクツ社と日本での提携事業を開始
- [38]ケロッグ社やコーン・プロダクツ社が提携相手に味の素を選んだのは同社の販売力によるものだった
- [39]コーン・プロダクツ社から消費者中心主義に立つマーケティングプランの体系(背景解析・目標・コンセプト・戦略・5カ年の販売予測と利益計画)を導入
- [40]1966年3月 広告部を改組して販売促進部を発足させ、広告課・普及課・制作課・市場課を置いた
- [41]タイ工場1961年12月、フィリピン工場1962年9月、マレーシア工場1965年4月、イタリア工場1966年、ペルー工場1969年2月に操業開始
- [42]1964年7月 スペインのペニベリカ社、1968年6月 ユーゴスラビアのポドラフカ社と技術援助契約を締結
- [46]支店は1955年12月末の大阪・福岡2支店から1969年3月末に9支店となり、熊本・岡山・新潟に営業所を開設
- [47]1966年3月 鈴木恭二社長が自ら指揮して「6,000人総セールスマン運動」を開始(当時の従業員総数は6,000人弱)
- [49]年間総売上高は1955年度207億7,100万円から1968年度871億円へ4.2倍に増大
- [50]従業員総数は1955年末2,838名から1969年3月末5,977名へほぼ倍増
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(平塚潔)
- [36]1962年からコーン・プロダクツ社との合弁でスープ類の製造販売を開始し「クノール」スープとして販売
- [37]ケロッグ社と提携してコーンフレークを発売した
- [43]海外工場は直営ではなくタイ味の素・ユニオンケミカルズ・マレーシア味の素・味の素インスッド・ペルー味の素など現地法人の管轄下に置かれ、いずれも発酵法で操業した
- [44]タイ・フィリピン・マレーシアの各工場は月産50トンで操業を開始し、1969年初めにタイ約6倍・フィリピン約8倍・マレーシア2倍の規模に
- [45]イタリアの合弁会社は1966年に月産400トンで開始し、海外4工場の能力合計は月産1,000トンを超えた
- [51]1969年時点で家庭用「味の素」の販売シェアは90%以上、複合調味料「ハイミー」は50%以上
- 証券アナリストジャーナル 1965年3巻3号(渡辺文蔵)
- [48]1964年秋の「味の素」「ハイミー」1割値下げは戦後13回目の値下げだった
出典・参考
5件
- 味をたがやす 味の素八十年史(味の素株式会社、1990年)
- 味の素グループの百年史
- 証券アナリストジャーナル 1965年3巻3号(稲川四郎)
- 証券アナリストジャーナル 1965年3巻3号(渡辺文蔵)
- 証券アナリストジャーナル 1969年7巻3号(平塚潔)