第3章 年〜年

NTT:移動体通信の分離とニューヨーク・ロンドン証券取引所への上場

NTT移動通信網の発足からドコモ上場まで

1992年〜NTT移動通信網の発足とNTTデータ通信の上場

本体の減益が取引先の支援を断たせる

1992年初めの日本電信電話は長距離で新電電3社に料金を削られ、1991年度の経常利益は3750億円と前期より9.5%少なくなる見込みであった。児島仁社長が掲げた4000億円には届かず、新電電の春の値下げに追随すればさらに減るため、設備投資そのものを絞るほかなかった。そのあおりを受けたのが、公社時代から発注計画に沿って機器を納めてきた旧電電ファミリーである。社長を送り込んでいた東証一部の中堅通信機6社のうち5社が91年度に経常赤字となり、岩崎通信機は社員の27%にあたる640人の希望退職を募った。児島氏は『旧ファミリーの経営が厳しいのは分かっているが、もはや我々に打てる手はない』と述べている。同じ1992年4月には長距離と地域の業務区分に合わせて社内組織を組み替えており、本体の採算を守ることが、身内を支える義理より先に立っていた。

  • 日経ビジネス 1992年2月3日号
    • [1]1991年度の経常利益は3750億円(前期比9.5%減)の見通し
    • [2]社長目標の4000億円を下回り、長距離値下げへの対抗で収益悪化・設備投資も抑制
    • [3]NTTが社長を送る東証一部の中堅通信機6社のうち5社が91年度経常赤字、岩崎通信機は640人(27%)の希望退職を募集
    • [4]児島社長が1992年1月のパーティーで旧ファミリーへの支援の限界を発言
  • 日本電信電話 有価証券報告書 2021年3月期「沿革」
    • [5]1992年4月 長距離通信・地域通信の業務区分に対応した組織改革
伸びる移動体を別会社に分離する

1992年7月、自動車電話・携帯電話・船舶電話・無線呼出しなどの営業がNTT移動通信網へ譲渡された。新会社は翌1993年3月に携帯・自動車電話のデジタル方式を始め、同年7月には地域ごとの9社体制に分かれている。切り出した当初の移動体はまだ小さく、1994年3月期の連結営業収益は5610億円、経常利益は200億円にとどまった。ところがその後の1年間で自動車・携帯電話は200万台以上増え、児島氏は、PHSも加わるこの市場に本体では参入できないと認めていた。値下げに追われる本体と、伸び始めた市場を自由に攻められる子会社とが、この時点で制度の上で切り分けられたことになる。

  • 日本電信電話 有価証券報告書 2021年3月期「沿革」
    • [6]1992年7月 自動車電話・携帯電話・船舶電話・航空機公衆電話・無線呼出しの営業をNTT移動通信網へ譲渡
  • Decide 1998年16巻9号(179号)
    • [7]1993年3月に携帯・自動車電話のデジタルサービス開始、同年7月に地域会社9社へ分割
  • 証券アナリストジャーナル 1998年12月号 別冊付録 NTT移動通信網(1998年11月20日 説明会要旨)
    • [8]1994年3月期の連結営業収益5610億円、経常利益200億円
  • 日経ビジネス 1995年5月22日号
    • [9]移動電話は1994年の1年間で200万台以上普及、NTT本体では移動電話を営めないと社長が発言
データ通信を市場に委ねる

移動体より先に切り出されていたのがデータ通信である。金融機関向けのANSER(自動照会通知システム)やCAFIS(クレジット情報データ通信システム)は、1982年の公衆電気通信法改正で企業間の回線接続が認められてから育った事業で、1992年の時点ではNTTデータ通信の手に移っていた。児島氏はこの移管を振り返り、『逆にいうと,別会社で隆々とやれるほどマーケットが拡がったということだと思います』と語っている。一方で同氏は、事業として最も採算がよいのは今も音声の電話だと明言していた。NTTデータ通信は1995年4月に東京証券取引所へ上場した。本体は収益の柱を電話に据えたまま、伸びる周辺を子会社に任せる形をとったことになる。

  • 金融情報システム 1992年6月号「FISC座談会・VIPざっくばらん(18) ゲスト 児島仁 日本電信電話社長」
    • [10]1982年の公衆電気通信法改正でデータ通信回線が開放され、ANSER・CAFISなどの業務はNTTデータ通信へ移管済み
    • [11]データ通信の移管を市場拡大の表れと社長が評価
    • [12]事業として最も収益性が高いのは電話だと社長が発言
  • 日本電信電話 有価証券報告書 2021年3月期「沿革」
    • [13]1995年4月 エヌ・ティ・ティ・データ通信が東京証券取引所へ上場
参考文献[1]-[13]
  • 日経ビジネス 1992年2月3日号
    • [1]1991年度の経常利益は3750億円(前期比9.5%減)の見通し
    • [2]社長目標の4000億円を下回り、長距離値下げへの対抗で収益悪化・設備投資も抑制
    • [3]NTTが社長を送る東証一部の中堅通信機6社のうち5社が91年度経常赤字、岩崎通信機は640人(27%)の希望退職を募集
    • [4]児島社長が1992年1月のパーティーで旧ファミリーへの支援の限界を発言
  • 日本電信電話 有価証券報告書 2021年3月期「沿革」
    • [5]1992年4月 長距離通信・地域通信の業務区分に対応した組織改革
    • [6]1992年7月 自動車電話・携帯電話・船舶電話・航空機公衆電話・無線呼出しの営業をNTT移動通信網へ譲渡
    • [13]1995年4月 エヌ・ティ・ティ・データ通信が東京証券取引所へ上場
  • Decide 1998年16巻9号(179号)
    • [7]1993年3月に携帯・自動車電話のデジタルサービス開始、同年7月に地域会社9社へ分割
  • 証券アナリストジャーナル 1998年12月号 別冊付録 NTT移動通信網(1998年11月20日 説明会要旨)
    • [8]1994年3月期の連結営業収益5610億円、経常利益200億円
  • 日経ビジネス 1995年5月22日号
    • [9]移動電話は1994年の1年間で200万台以上普及、NTT本体では移動電話を営めないと社長が発言
  • 金融情報システム 1992年6月号「FISC座談会・VIPざっくばらん(18) ゲスト 児島仁 日本電信電話社長」
    • [10]1982年の公衆電気通信法改正でデータ通信回線が開放され、ANSER・CAFISなどの業務はNTTデータ通信へ移管済み
    • [11]データ通信の移管を市場拡大の表れと社長が評価
    • [12]事業として最も収益性が高いのは電話だと社長が発言

1994年〜ニューヨーク・ロンドン上場と15万人体制への人員削減

認可会社のまま海外の投資家に向き合う

日本電信電話の株式がニューヨーク証券取引所に上場したのは1994年9月で、10月にはロンドン証券取引所にも並び、海外から資金を調達できるようになった。ただ児島氏は、それ以前に欧米の投資家を訪ねて債券発行を説明した折、役員の人事には郵政大臣の認可が要ると述べたところ笑いが起き、民間企業とは呼べないと指摘された経験を持っていた。料金も事業計画も認可を受ける仕組みは変わらず、新しい事業に乗り出すごとに資金の手当てまで役所に説明する必要があった。外国人が株式を持てるようになったのは1995年の時点で3年ほど前にすぎず、同社はこれを足場にタイへ出て、続いてベトナム、フィリピン、インドの入札にも加わっていた。海外に株主を持つことは、国の免許に縛られた経営を海外の目にさらすことでもあった。

  • 日本電信電話 有価証券報告書 2021年3月期「沿革」
    • [14]1994年9月 ニューヨーク証券取引所へ上場、同年10月 ロンドン証券取引所へ上場
  • 日経ビジネス 1995年5月22日号
    • [15]海外債券発行の説明で役員が郵政大臣認可と答え、投資家から民間会社ではないと指摘された
    • [16]年間事業計画・料金とも認可制で、新規事業は資金計画から説明が必要
    • [17]外国人の株式保有が約3年前に認められ、タイ進出後ベトナム・フィリピンへ展開、インドの入札に参加
電話屋からマルチメディア屋へ研究所を組み替える

本体の利益は大きく削られていた。経常利益は過去最高の4967億円から1094億円まで落ち、競争が通話料の値下げに終始して新しいサービスを出せなかったことが一因とみられていた。1988年に始めたISDNも1993年度の売上高は736億円で全体の1.3%にすぎず、485億円の営業赤字を出しており、収入の82.5%はなお電話であった。児島氏が掲げた方針は電話の会社からマルチメディアの会社への転換で、1994年7月には13の研究所を3つのグループに括り、それぞれを統括する総合研究所を置いた。売上高の5%にあたる研究開発費2900億円のうち、人と資金はマルチメディアの総合研究所へ寄せる方針とされた。児島氏自身、既存の電話事業は細っていくと見ながら、離島まで均一のサービスを届ける義務は本体に残ると訴えていた。

  • 日経ビジネス 1994年10月24日号
    • [18]経常利益は過去最高の4967億円から1094億円へ低下、値下げ競争に終始したことが原因の一つ
    • [19]ISDNの1993年度売上高は736億円(全体の1.3%)で485億円の営業赤字、収入の82.5%が電話
    • [20]「電話屋からマルチメディア屋になる」経営方針の下、1994年7月に13研究所を3グループに再編し総合研究所を設置
    • [21]1993年度の研究開発費は売上高の5%の2900億円、人とカネをマルチメディア総研へ集中
  • 日経ビジネス 1995年5月22日号
    • [22]既存の電話事業は痩せていき、一方でユニバーサルサービスの義務を負うと社長が発言
民営化時の半分へ人を減らす

利益の減少に対して、日本電信電話は人員に手を付けた。1993年には希望退職の募集を含む雇用調整に踏み出しており、当時の従業員は23万人であった。児島氏は労務の出身で、電話交換手を2万人減らす計画を労働組合とまとめた経歴を買われて社長に就いた人物である。後を継いだ宮津純一郎社長は、2000年までに民営化当時の半分以下にあたる15万人の体制で事業を回すと株主に示し、ソフトウェア開発などの分社も進めるとした。宮津氏は、全国のネットワークのデジタル化が終われば人の配置換えが避けられず、通信ソフトや国際事業の人材育成が急務になると見ていた。ただ現場では、管理職が合理化の負担を嫌う中高年を避け、仕事が若手に偏るという不満も出ていた。

  • 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [23]1993年に希望退職の募集など雇用調整を開始、当時の従業員は23万人
  • 日経ビジネス 1995年5月22日号
    • [24]児島社長は労務畑が長く、電話交換手の2万人削減計画を労組とまとめた手腕を買われて社長に就任
  • 日本電信電話 株主向け広報誌「NTT is …」1997年春号 宮津純一郎「Message」(1997年3月)
    • [25]2000年までに民営化当時の半分以下となる15万人体制での事業運営とソフトウェア開発業務などの分社を表明
  • NTT技術ジャーナル 1996年7月号 宮津純一郎「NTTの展望〈社長就任にあたって〉」
    • [26]ディジタル化の完了を控えて人の流動が生じ、通信ソフト・国際ビジネスの人材育成が急務と社長が発言
  • 日経ビジネス 1996年12月9日号
    • [27]中高年社員への合理化のしわ寄せを管理職が避け、仕事が若手社員に集中していると若手が指摘
参考文献[14]-[27]
  • 日本電信電話 有価証券報告書 2021年3月期「沿革」
    • [14]1994年9月 ニューヨーク証券取引所へ上場、同年10月 ロンドン証券取引所へ上場
  • 日経ビジネス 1995年5月22日号
    • [15]海外債券発行の説明で役員が郵政大臣認可と答え、投資家から民間会社ではないと指摘された
    • [16]年間事業計画・料金とも認可制で、新規事業は資金計画から説明が必要
    • [17]外国人の株式保有が約3年前に認められ、タイ進出後ベトナム・フィリピンへ展開、インドの入札に参加
    • [22]既存の電話事業は痩せていき、一方でユニバーサルサービスの義務を負うと社長が発言
    • [24]児島社長は労務畑が長く、電話交換手の2万人削減計画を労組とまとめた手腕を買われて社長に就任
  • 日経ビジネス 1994年10月24日号
    • [18]経常利益は過去最高の4967億円から1094億円へ低下、値下げ競争に終始したことが原因の一つ
    • [19]ISDNの1993年度売上高は736億円(全体の1.3%)で485億円の営業赤字、収入の82.5%が電話
    • [20]「電話屋からマルチメディア屋になる」経営方針の下、1994年7月に13研究所を3グループに再編し総合研究所を設置
    • [21]1993年度の研究開発費は売上高の5%の2900億円、人とカネをマルチメディア総研へ集中
  • 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
    • [23]1993年に希望退職の募集など雇用調整を開始、当時の従業員は23万人
  • 日本電信電話 株主向け広報誌「NTT is …」1997年春号 宮津純一郎「Message」(1997年3月)
    • [25]2000年までに民営化当時の半分以下となる15万人体制での事業運営とソフトウェア開発業務などの分社を表明
  • NTT技術ジャーナル 1996年7月号 宮津純一郎「NTTの展望〈社長就任にあたって〉」
    • [26]ディジタル化の完了を控えて人の流動が生じ、通信ソフト・国際ビジネスの人材育成が急務と社長が発言
  • 日経ビジネス 1996年12月9日号
    • [27]中高年社員への合理化のしわ寄せを管理職が避け、仕事が若手社員に集中していると若手が指摘

1995年〜持株会社方式による分割の決着とドコモの2兆円調達

分割の挙証責任を相手に返す

1995年4月、電気通信審議会でNTTの経営形態の見直しが始まり、長距離と地域の分離、地域の分割が再び議題に上った。児島氏は反対を明言し、情報通信がこれから日本を引っ張る産業になろうとしているのに、議論する側の頭には電話しかないと退けた。米AT&Tの分割を成功とみる声には、『分割が成功だったという人は、分割が競争促進につながったことを挙証する責任があります』と切り返している。同氏の見立てでは、世界の通信は3〜5社の寡占へ向かい、長距離と地域をつなぐ垂直統合が進む。マイクロソフトなどの米企業がNTTと組むのは研究開発力と顧客の厚みがあるからで、分割すればその相手を失うというのが反対の根拠であった。研究部門の再編もまた、分割は日本の研究開発力を損なうという社長の主張と重ねて語られていた。

  • 日経ビジネス 1995年5月22日号
    • [28]1995年4月から電気通信審議会でNTTの経営形態の見直しが始まり、分離・分割が論点に
    • [29]社長は分離・分割に反対し、過去の議論は電話しか念頭になかったと批判
    • [30]AT&T分割の成功論に対し、競争促進の証明を求める社長の反論
    • [31]通信市場は3〜5社の寡占と垂直統合へ向かい、分割は提携先を引きつける技術と展開力を失わせるとの主張
  • 日経ビジネス 1994年10月24日号
    • [32]「分割は日本の研究開発力を損失させる」と社長が反対
持株会社の下での3社分割を受け入れる

1996年6月27日、宮津純一郎氏が民営化から4代目の社長に就いた。宮津氏も、長距離とローカルを分ける線引きは国内で閉じた電話の時代の発想で、インターネットの広がりとともに意味を失うと述べ、就任にあたって『電話の世界を前提とした分割論が無意味であることは広く世の中に理解していただけるはずです』と社内に語っている。それでも同年12月、宮津氏は純粋持株会社の下に長距離会社1社と地域会社2社を置く郵政省案を基本的に了承した。了承の理由に挙げたのは、持株会社の形なら株主の権利が守られること、そして国際通信事業に進出できるようになることの2点である。1982年の第二次臨時行政調査会から10年以上続いた郵政省との争いは、臨調答申の原案に近い形で決着した。

  • NTT技術ジャーナル 1996年7月号 宮津純一郎「NTTの展望〈社長就任にあたって〉」
    • [33]1996年6月27日 宮津純一郎氏が民営化以来4代目の社長に就任
    • [35]社長就任時のインタビューで電話を前提とした分割論を否定
  • TAC report 1996年冬号「TOP INTERVIEW 柳緑花紅 宮津純一郎 日本電信電話株式会社社長に聞く」
    • [34]長距離・ローカルの区分は電話時代の発想で、マルチメディア時代には意味を失うとの社長の見解
  • 日本電信電話 株主向け広報誌「NTT is …」1997年春号 宮津純一郎「Message」(1997年3月)
    • [36]1996年12月 純粋持株会社の下に長距離会社1社・地域会社2社へ再編する郵政省案を基本的に了承
    • [37]了承の理由は株主の権利保護と国際通信事業への進出が可能になること
  • 日経ビジネス 1996年12月9日号
    • [38]1982年の第2次臨時行政調査会以来の郵政省との対立が臨調答申の原案通りの形で決着
最大の収益源の子会社を市場で値付けする

1998年10月22日、NTTドコモが東京証券取引所第一部に上場し、2兆1200億円を超える資金を調達した。初日の終値は売り出し価格を75万円上回る465万円で、売買高は当日の東証全体のおよそ半分に達した。全国の携帯電話シェアは1996年3月期の48%から1998年3月期の57%に高まり、経常利益は1994年3月期の200億円から1998年3月期の3120億円まで伸びていた。その一方で、NTTパーソナル各社のPHS事業が抱えた約2800億円の累積損失は、NTTとドコモが分け合って処理した。親会社の社長である宮津氏は『これまでは携帯がどんどん伸びてドコモの業績好調がNTTグループを引っ張ってきた』と認めながら、端末の台数はもう大きくは増えないと見ていた。6年前に切り出した部門が、親会社の成長を代わりに担う立場へ移っていた。

  • Decide 1998年16巻9号(179号)
    • [39]1998年10月22日 東証一部に上場し、2兆1200億円超を調達
    • [40]初日終値は売り出し価格を75万円上回る465万円、売買高は当日の東証売買高の約半分
    • [41]全国シェアは96年3月期48%から98年3月期57%へ
    • [43]NTTパーソナル各社のPHS事業の累損約2800億円をNTTとドコモで損失処理
    • [44]宮津社長はドコモがグループを牽引してきたと認めつつ、端末数の大幅な伸びは見込めないと発言
  • 証券アナリストジャーナル 1998年12月号 別冊付録 NTT移動通信網(1998年11月20日 説明会要旨)
    • [42]経常利益は94年3月期200億円から98年3月期3120億円へ(年平均99%増)
参考文献[28]-[44]
  • 日経ビジネス 1995年5月22日号
    • [28]1995年4月から電気通信審議会でNTTの経営形態の見直しが始まり、分離・分割が論点に
    • [29]社長は分離・分割に反対し、過去の議論は電話しか念頭になかったと批判
    • [30]AT&T分割の成功論に対し、競争促進の証明を求める社長の反論
    • [31]通信市場は3〜5社の寡占と垂直統合へ向かい、分割は提携先を引きつける技術と展開力を失わせるとの主張
  • 日経ビジネス 1994年10月24日号
    • [32]「分割は日本の研究開発力を損失させる」と社長が反対
  • NTT技術ジャーナル 1996年7月号 宮津純一郎「NTTの展望〈社長就任にあたって〉」
    • [33]1996年6月27日 宮津純一郎氏が民営化以来4代目の社長に就任
    • [35]社長就任時のインタビューで電話を前提とした分割論を否定
  • TAC report 1996年冬号「TOP INTERVIEW 柳緑花紅 宮津純一郎 日本電信電話株式会社社長に聞く」
    • [34]長距離・ローカルの区分は電話時代の発想で、マルチメディア時代には意味を失うとの社長の見解
  • 日本電信電話 株主向け広報誌「NTT is …」1997年春号 宮津純一郎「Message」(1997年3月)
    • [36]1996年12月 純粋持株会社の下に長距離会社1社・地域会社2社へ再編する郵政省案を基本的に了承
    • [37]了承の理由は株主の権利保護と国際通信事業への進出が可能になること
  • 日経ビジネス 1996年12月9日号
    • [38]1982年の第2次臨時行政調査会以来の郵政省との対立が臨調答申の原案通りの形で決着
  • Decide 1998年16巻9号(179号)
    • [39]1998年10月22日 東証一部に上場し、2兆1200億円超を調達
    • [40]初日終値は売り出し価格を75万円上回る465万円、売買高は当日の東証売買高の約半分
    • [41]全国シェアは96年3月期48%から98年3月期57%へ
    • [43]NTTパーソナル各社のPHS事業の累損約2800億円をNTTとドコモで損失処理
    • [44]宮津社長はドコモがグループを牽引してきたと認めつつ、端末数の大幅な伸びは見込めないと発言
  • 証券アナリストジャーナル 1998年12月号 別冊付録 NTT移動通信網(1998年11月20日 説明会要旨)
    • [42]経常利益は94年3月期200億円から98年3月期3120億円へ(年平均99%増)

出典・参考

12件
出典・参考
  • 日本電信電話 有価証券報告書 2021年3月期「沿革」
  • 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
  • 日経ビジネス 1992年2月3日号
  • 金融情報システム 1992年6月号「FISC座談会・VIPざっくばらん(18) ゲスト 児島仁 日本電信電話社長」
  • 日経ビジネス 1994年10月24日号
  • 日経ビジネス 1995年5月22日号
  • NTT技術ジャーナル 1996年7月号 宮津純一郎「NTTの展望〈社長就任にあたって〉」
  • 日経ビジネス 1996年12月9日号
  • Decide 1998年16巻9号(179号)
  • 証券アナリストジャーナル 1998年12月号 別冊付録 NTT移動通信網(1998年11月20日 説明会要旨)
  • TAC report 1996年冬号「TOP INTERVIEW 柳緑花紅 宮津純一郎 日本電信電話株式会社社長に聞く」
  • 日本電信電話 株主向け広報誌「NTT is …」1997年春号 宮津純一郎「Message」(1997年3月)

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