民営化NTTの純粋持株会社体制への再編と地域・長距離の分社
14年に及んだ分離・分割論議の果てに、宮津純一郎社長は一体経営をどう保ちながら公正競争の器へ移したか
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- 概要
- 1999年7月1日、NTTは純粋持株会社「日本電信電話」を頂点に、地域通信のNTT東日本・NTT西日本と長距離国際のNTTコミュニケーションズへ分社するグループ体制へ移行した。宮津純一郎社長のもとで、1985年の民営化以来14年続いた分離・分割論議に区切りをつけた組織再編である。
- 背景
- 民営化後のNTTは売上高の規模こそ世界有数だが公社体質が抜けきらず効率は低く、市内通信の独占をめぐって分離・分割が長く議論されてきた。1997年12月の独占禁止法改正で純粋持株会社が50年ぶりに解禁され、その最初のモデルケースとして再編の器が整った。
- 内容
- 純粋持株会社の日本電信電話は経営企画・資金調達・基礎研究に純化して人員3500人にとどめ、地域のNTT東日本・西日本(各6万人規模)と、NTT法の縛りを解かれた完全民営のNTTコミュニケーションズ(売上高1兆3500億円)が傘下に並んだ。株主と社長はそのまま持株会社へ引き継がれた。
- 含意
- 分割の形をとっても実態は「一体経営」を保ち、公正競争条件だけを整える設計を選んだ。運営費を子会社の経営指導料で賄う仕組みや、東西会社とNTTコミュニケーションズの業務委託費をめぐる利益補填の懸念など、統制と競争のはざまで統治の課題を残した。
分けて束ねるという設計の行方
この再編が示したのは、巨大な通信事業体を分割の形式に収めつつ、経営の実態としては一体を手放さないという判断であった。制度が求める分社と、規模の利益を守りたい経営の論理を、持株会社という器で折り合わせた設計といえる。ただ、その両立は公正な競争条件の確保という課題を先送りする面もはらんでおり、東西会社と長距離会社を隔てる壁の実効性は、移行の直後から問われ続けた。統制と競争のどちらか一方に立場を定めきらないまま船出した点に、この設計の不安定さがうかがえる。
1999年に選んだ「分けて束ねる」設計は、その後のNTTの歩みを長く方向づけたとみられる。2020年のドコモの完全子会社化や2025年のNTTデータグループの再結集は、いったん分社した事業を持株会社の下へ引き戻す動きであり、実質一体という当初の思想が形を変えて引き継がれてきたとも読める。分割と統合のあいだで最適な器を探す問いは、NTT法の見直しが議論される現在も、なお開かれたままである。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
民営化がのこした分離・分割の課題
日本電信電話(NTT)をめぐっては、1985年の民営化のあとも、その巨大さと市内通信の独占をどう扱うかが長く問われてきた。分離・分割の是非は監督官庁と業界を巻き込んで揺れ続け、1999年7月の持株会社体制への移行は、14年間に及んだ論議の末にたどり着いた再編であった。器の組み替えそのものよりも、公正な競争条件を確保できるかどうかが、当初からの焦点となっていた[1]。
当時のNTTは、売上高の規模でこそ世界有数の通信会社であったが、公社時代からの体質が抜けきらず、利益率でみた効率は主要キャリアのなかで最も低いと評されていた。裏を返せば、人員や費用を絞る余地がなお残されているとも読めた。成長するアジアを背後に持つ地の利もあり、再編と合理化しだいで競争力を立て直せるかが、投資家からも見られていた[2]。
持株会社の解禁という制度の転機
再編の器を用意したのは、制度の変更であった。1997年12月の独占禁止法改正により、純粋持株会社が50年ぶりに解禁された。事業を営まず子会社の株式を保有して統括する会社形態が認められ、1999年7月に予定されたNTTの再編は、その最初のモデルケースとして産業界からも注目を集めた。長く続いた分離・分割の議論は、この制度改正を受けて具体的な設計へと移っていった[3]。
1999年2月には再編の実施計画案が公表され、持株会社と各事業会社の陣容が具体的な数字とともに示された。純粋持株会社の制度に前例はなく、グループの内と外をまたぐ調整が避けられないだけに、他社もこの再編をどう設計するかに関心を寄せていた。NTTが選ぶ形が、解禁されたばかりの持株会社制度の実務上の手本になろうとしていた[4]。
決断
純粋持株会社を頂点とする器の設計
公表された構想は、純粋持株会社「日本電信電話」を頂点に置くものであった。その下に、分割される地域通信のNTT東日本・NTT西日本、長距離・国際を担う会社、そして既存のドコモやデータといった事業会社が、各事業部がそのまま独立した会社としてぶら下がる形をとる。持株会社自体は人事・資金調達・事業計画を練るスタッフ部門と基礎研究部門で構成され、現在の株主と社長はそのまま持株会社へ引き継がれる設計であった[5]。
1999年2月の実施計画案は、各社の規模を数字で描いた。持株会社の日本電信電話は総資産8兆6200億円・人員3500人にとどまり、地域会社は東日本が売上高2兆9800億円・6万1000人、西日本が2兆8400億円・6万7500人。長距離国際のNTTコミュニケーションズは売上高1兆3500億円・6500人で、NTT法の縛りを解かれた完全民営会社として発足する予定であった[6]。
「一体経営」を保つという選択
分割の形をとりながら、その実態は一体経営を保つ——これが選ばれた設計であった。当時、持株会社の下での再編は事実上の「一体」経営であるという評価が大勢を占めていた。地域も長距離もグループとして束ねたまま、外に対しては公正な競争条件を整える。分けることと束ねることを同時に果たそうとする点に、この再編の難しさがあった[7]。
一体を保つ設計は、細部で新たな課題を生んだ。事業を営まない純粋持株会社は年間300億円の運営費を要したが、配当収入だけでは賄えず、子会社から「経営指導料」の名目で徴収する仕組みが検討された。株式を公開し独立色の強いドコモやデータでは、この負担への反発も小さくなかった。和田紀夫常務は、無駄を省く調整と各社の個性の尊重という「相矛盾することを同時にやろうとしている」と、統治の難しさを認めていた[8][9]。
結果
温存された独占体質と公正競争の争点
1999年7月1日、NTTは持株会社を頂点とするグループ体制へ移行した。だが公正な競争条件が整ったかといえば、そうは進まなかった。長距離・国際を担うNTTコミュニケーションズは、営業窓口や料金請求といった人手のかかる業務を東西の地域会社に委託し、人員を極端に絞った。従業員一人当たり売上高は2億円に達し、0.8億円のDDI、0.9億円の日本テレコムといった新電電に、競争の出発点で差をつけていた[10]。
効率の高さの背景には、独占事業の重みがあった。NTTコミュニケーションズが東西の地域会社に支払う業務委託費は、その増減しだいで両者のあいだの利益補填の温床になりかねないと指摘された。市内通信を独占する東西会社と規制を解かれた長距離会社を同じ傘の下に束ねた以上、両者を隔てるファイアウォールをどこまで実効的に運用できるかが、再編後の競争をめぐる争点として残った[11]。
- 週刊東洋経済 1998年2月28日号「トップ企業の断面 NTT持株会社下、“暴れる”子会社」
- 週刊東洋経済 1999年2月13日号「世界の最強・日本の最強 通信 再編第3弾の核はNTT」
- 週刊東洋経済 1999年2月27日号「NTT再編計画の中身」
- 週刊東洋経済 1999年7月17日号「『新NTT』監視へ公取の出番 近づくNTTコミュニケーションズは『抜け道』か」