第1章 年〜年

川崎汽船:川崎造船所の現物出資による設立とKラインの結成

1919年〜川崎造船所が現物出資した汽船11隻と、鈴木商店らと設けた國際汽船

1919年4月10日、川崎造船所は所有する汽船11隻を現物出資し、資本金2,000万円で川崎汽船を設立した。第一次大戦中に受注を待たず船を建造するストックボート計画を立て、竣工船の運航のため船舶部を設けたのが前史である。1918年11月に欧米から帰国した川崎造船所社長の松方幸次郎氏は、『新造船を国外に売却することは、いたずらに外国海運に益する結果となり面白くない』として、国内で新造船を運航する大規模な海運会社の新設を唱えた。資本金は当初案の3,000万円から減らし、船価の下落を見込んで出資額を時価でなく建造原価で算定した。社長に川崎芳太郎氏、副社長に松方幸次郎氏が就任。新造船を国外へ売却せず、自ら運航して収益に変える出口を造船所が用意した判断とみられる。

  • 川崎汽船五十年史(1969)「1章 当社創立まで」
    • [1]1919年4月10日設立登記。川崎造船所が汽船11隻約10万重量トンを現物出資、資本金は3,000万円案から2,000万円に改め建造原価で出資。社長川崎芳太郎・副社長松方幸次郎。松方は1918年11月帰国後に社船大合同と新会社構想を提唱
    • [3]1919年4月10日設立登記。川崎造船所が汽船11隻約10万重量トンを現物出資、資本金は3,000万円案から2,000万円に改め建造原価で出資。社長川崎芳太郎・副社長松方幸次郎。松方は1918年11月帰国後に社船大合同と新会社構想を提唱
    • [4]1919年4月10日設立登記。川崎造船所が汽船11隻約10万重量トンを現物出資、資本金は3,000万円案から2,000万円に改め建造原価で出資。社長川崎芳太郎・副社長松方幸次郎。松方は1918年11月帰国後に社船大合同と新会社構想を提唱
    • [5]1919年4月10日設立登記。川崎造船所が汽船11隻約10万重量トンを現物出資、資本金は3,000万円案から2,000万円に改め建造原価で出資。社長川崎芳太郎・副社長松方幸次郎。松方は1918年11月帰国後に社船大合同と新会社構想を提唱
  • 会社銀行八十年史(1955)「川崎汽船」
    • [2]川崎造船所は欧州大戦中ストックボート建造を計画し、竣工隻数の増加とともに船舶部を設けた。1919年4月、9,100重量トン型汽船11隻の現物出資で資本金2,000万円の川崎汽船を設立

1919年7月3日、川崎造船所と川崎汽船は鈴木商店・淺野造船所などと新造船を持ち寄り、神戸に國際汽船を設立した。発端は、戦時中に高値の船を抱えた社外船主を合同させる構想だった。出資船価が1重量トン350円に決まると、400円から900円で船を取得した社外船主は不参加を表明した。構想は造船所の新造船の処分策へ性格を変えた。川崎側は態度を保留した末、合同の流産を避けるため5月に参加へ転じ、約27万重量トンの船舶提供が決まった。提供船はロイド100A1の資格を持つ新造船に限られ、社名と社旗のA1もロイド1級船で世界へ進出する意図から定めた。國際汽船は2年後、川崎汽船・川崎造船所と共同配船の提携を結ぶ相手となった。自社1社では捌けない船腹を、国策色の強い合同会社に分けて抱えさせたと考えられる。

  • 川崎汽船五十年史(1969)「1章 当社創立まで」
    • [6]1919年7月3日國際汽船設立。社外船主合同運動が出資船価トン350円決定で社外船主不参加となり、造船所新造船処分策の合同会社へ。川崎は5月に参加決定し約27万重量トン提供。ロイド100A1の新造船に限定、社名・A1旗印の由来
    • [7]1919年7月3日國際汽船設立。社外船主合同運動が出資船価トン350円決定で社外船主不参加となり、造船所新造船処分策の合同会社へ。川崎は5月に参加決定し約27万重量トン提供。ロイド100A1の新造船に限定、社名・A1旗印の由来
    • [8]1919年7月3日國際汽船設立。社外船主合同運動が出資船価トン350円決定で社外船主不参加となり、造船所新造船処分策の合同会社へ。川崎は5月に参加決定し約27万重量トン提供。ロイド100A1の新造船に限定、社名・A1旗印の由来
    • [9]1919年7月3日國際汽船設立。社外船主合同運動が出資船価トン350円決定で社外船主不参加となり、造船所新造船処分策の合同会社へ。川崎は5月に参加決定し約27万重量トン提供。ロイド100A1の新造船に限定、社名・A1旗印の由来
    • [10]1919年7月3日國際汽船設立。社外船主合同運動が出資船価トン350円決定で社外船主不参加となり、造船所新造船処分策の合同会社へ。川崎は5月に参加決定し約27万重量トン提供。ロイド100A1の新造船に限定、社名・A1旗印の由来
    • [11]1919年7月3日國際汽船設立。社外船主合同運動が出資船価トン350円決定で社外船主不参加となり、造船所新造船処分策の合同会社へ。川崎は5月に参加決定し約27万重量トン提供。ロイド100A1の新造船に限定、社名・A1旗印の由来
  • 会社銀行八十年史(1955)「川崎汽船」
    • [12]1921年、川崎汽船・川崎造船所・国際汽船の3社が提携し共同配船を開始

1920年8月、松方幸次郎氏は國際汽船の社長に就任し、船舶の運用を引き取った。それまで國際汽船は、会長の金子直吉氏のもとで鈴木商店の三国間貿易を支えに欧州へ復興物資を運んでいた。国策会社に期待された助成は実行されず、用船料は1921年以降に1重量トン3円を割り込んだ。松方幸次郎氏は設立時の目標に立ち返り、3社の提携を強めて三国間航路を主とする自営に移る準備に着手した。川崎汽船も1920年後半から船を他社に貸す貸船主義を改め、自ら配船を始めた。欧州の不作で大西洋方面の船腹需要が増え、1921年前半には大部分の船がロンドン中心の配船に移れる位置に集まった。貸船料が下がる局面では、自ら貨物を集めるほうが船腹の収益を保てると判断したのだろう。

  • 川崎汽船五十年史(1969)「2章 創生期」
    • [13]國際汽船は川崎芳太郎辞任後に金子直吉会長のもと鈴木商店の三国間貿易を支えに運用。1920年8月松方幸次郎が社長就任し三国間航路の自営を準備。当社は1920年後半から貸船主義を脱却し自営に着手、1921年前半に大部分の船が大西洋方面に集中
    • [14]國際汽船は川崎芳太郎辞任後に金子直吉会長のもと鈴木商店の三国間貿易を支えに運用。1920年8月松方幸次郎が社長就任し三国間航路の自営を準備。当社は1920年後半から貸船主義を脱却し自営に着手、1921年前半に大部分の船が大西洋方面に集中
    • [16]國際汽船は川崎芳太郎辞任後に金子直吉会長のもと鈴木商店の三国間貿易を支えに運用。1920年8月松方幸次郎が社長就任し三国間航路の自営を準備。当社は1920年後半から貸船主義を脱却し自営に着手、1921年前半に大部分の船が大西洋方面に集中
    • [17]國際汽船は川崎芳太郎辞任後に金子直吉会長のもと鈴木商店の三国間貿易を支えに運用。1920年8月松方幸次郎が社長就任し三国間航路の自営を準備。当社は1920年後半から貸船主義を脱却し自営に着手、1921年前半に大部分の船が大西洋方面に集中
    • [18]國際汽船は川崎芳太郎辞任後に金子直吉会長のもと鈴木商店の三国間貿易を支えに運用。1920年8月松方幸次郎が社長就任し三国間航路の自営を準備。当社は1920年後半から貸船主義を脱却し自営に着手、1921年前半に大部分の船が大西洋方面に集中
  • 川崎汽船五十年史(1969)「1章 当社創立まで」
    • [15]国策会社への助成は進まず、1921年以後の用船料はトン当たり3円を割った
参考文献[1]-[18]
  • 川崎汽船五十年史(1969)「1章 当社創立まで」
    • [1]1919年4月10日設立登記。川崎造船所が汽船11隻約10万重量トンを現物出資、資本金は3,000万円案から2,000万円に改め建造原価で出資。社長川崎芳太郎・副社長松方幸次郎。松方は1918年11月帰国後に社船大合同と新会社構想を提唱
    • [3]1919年4月10日設立登記。川崎造船所が汽船11隻約10万重量トンを現物出資、資本金は3,000万円案から2,000万円に改め建造原価で出資。社長川崎芳太郎・副社長松方幸次郎。松方は1918年11月帰国後に社船大合同と新会社構想を提唱
    • [4]1919年4月10日設立登記。川崎造船所が汽船11隻約10万重量トンを現物出資、資本金は3,000万円案から2,000万円に改め建造原価で出資。社長川崎芳太郎・副社長松方幸次郎。松方は1918年11月帰国後に社船大合同と新会社構想を提唱
    • [5]1919年4月10日設立登記。川崎造船所が汽船11隻約10万重量トンを現物出資、資本金は3,000万円案から2,000万円に改め建造原価で出資。社長川崎芳太郎・副社長松方幸次郎。松方は1918年11月帰国後に社船大合同と新会社構想を提唱
    • [6]1919年7月3日國際汽船設立。社外船主合同運動が出資船価トン350円決定で社外船主不参加となり、造船所新造船処分策の合同会社へ。川崎は5月に参加決定し約27万重量トン提供。ロイド100A1の新造船に限定、社名・A1旗印の由来
    • [7]1919年7月3日國際汽船設立。社外船主合同運動が出資船価トン350円決定で社外船主不参加となり、造船所新造船処分策の合同会社へ。川崎は5月に参加決定し約27万重量トン提供。ロイド100A1の新造船に限定、社名・A1旗印の由来
    • [8]1919年7月3日國際汽船設立。社外船主合同運動が出資船価トン350円決定で社外船主不参加となり、造船所新造船処分策の合同会社へ。川崎は5月に参加決定し約27万重量トン提供。ロイド100A1の新造船に限定、社名・A1旗印の由来
    • [9]1919年7月3日國際汽船設立。社外船主合同運動が出資船価トン350円決定で社外船主不参加となり、造船所新造船処分策の合同会社へ。川崎は5月に参加決定し約27万重量トン提供。ロイド100A1の新造船に限定、社名・A1旗印の由来
    • [10]1919年7月3日國際汽船設立。社外船主合同運動が出資船価トン350円決定で社外船主不参加となり、造船所新造船処分策の合同会社へ。川崎は5月に参加決定し約27万重量トン提供。ロイド100A1の新造船に限定、社名・A1旗印の由来
    • [11]1919年7月3日國際汽船設立。社外船主合同運動が出資船価トン350円決定で社外船主不参加となり、造船所新造船処分策の合同会社へ。川崎は5月に参加決定し約27万重量トン提供。ロイド100A1の新造船に限定、社名・A1旗印の由来
    • [15]国策会社への助成は進まず、1921年以後の用船料はトン当たり3円を割った
  • 会社銀行八十年史(1955)「川崎汽船」
    • [2]川崎造船所は欧州大戦中ストックボート建造を計画し、竣工隻数の増加とともに船舶部を設けた。1919年4月、9,100重量トン型汽船11隻の現物出資で資本金2,000万円の川崎汽船を設立
    • [12]1921年、川崎汽船・川崎造船所・国際汽船の3社が提携し共同配船を開始
  • 川崎汽船五十年史(1969)「2章 創生期」
    • [13]國際汽船は川崎芳太郎辞任後に金子直吉会長のもと鈴木商店の三国間貿易を支えに運用。1920年8月松方幸次郎が社長就任し三国間航路の自営を準備。当社は1920年後半から貸船主義を脱却し自営に着手、1921年前半に大部分の船が大西洋方面に集中
    • [14]國際汽船は川崎芳太郎辞任後に金子直吉会長のもと鈴木商店の三国間貿易を支えに運用。1920年8月松方幸次郎が社長就任し三国間航路の自営を準備。当社は1920年後半から貸船主義を脱却し自営に着手、1921年前半に大部分の船が大西洋方面に集中
    • [16]國際汽船は川崎芳太郎辞任後に金子直吉会長のもと鈴木商店の三国間貿易を支えに運用。1920年8月松方幸次郎が社長就任し三国間航路の自営を準備。当社は1920年後半から貸船主義を脱却し自営に着手、1921年前半に大部分の船が大西洋方面に集中
    • [17]國際汽船は川崎芳太郎辞任後に金子直吉会長のもと鈴木商店の三国間貿易を支えに運用。1920年8月松方幸次郎が社長就任し三国間航路の自営を準備。当社は1920年後半から貸船主義を脱却し自営に着手、1921年前半に大部分の船が大西洋方面に集中
    • [18]國際汽船は川崎芳太郎辞任後に金子直吉会長のもと鈴木商店の三国間貿易を支えに運用。1920年8月松方幸次郎が社長就任し三国間航路の自営を準備。当社は1920年後半から貸船主義を脱却し自営に着手、1921年前半に大部分の船が大西洋方面に集中

1921年〜ロンドンで結成した3社共営のKラインと、國際汽船の離脱による単独運航

1921年5月、松方幸次郎氏はロンドンで川崎汽船・川崎造船所船舶部・國際汽船の3社共営による新航路を発足させた。総代理店は鈴木商店で、名称は3社の頭文字からKラインとした。3社の社長を兼ねる松方幸次郎氏の配下の船隊は、100隻80万重量トンに及んだ。うち大西洋から南北アメリカ、地中海に就航する船は40〜50隻あり、返船のたびに日本へ戻せば近海と太平洋の市況が崩れる懸念を抱えていた。発足時のあいさつの要旨は『この際この3社のフリートを一団として、一つの旗印のもとに最も効果的に運航すれば』というもので、船隊を世界に就航させ続ける狙いだった。各船の煙突には赤地に白字のKを掲げた。返船の波を国内市場に戻さず海外で吸収する仕組みとして、共同運航を選んだと推測される。

  • 川崎汽船五十年史(1969)「2章 創生期」
    • [19]1921年5月、松方社長がロンドンで3社共営・鈴木商店総代理店のKラインを発足。総フリート100隻80万重量トン、大西洋方面就航40〜50隻、返船を日本へ戻すと近海・太平洋市況が崩れるとの発足あいさつ
    • [20]1921年5月、松方社長がロンドンで3社共営・鈴木商店総代理店のKラインを発足。総フリート100隻80万重量トン、大西洋方面就航40〜50隻、返船を日本へ戻すと近海・太平洋市況が崩れるとの発足あいさつ
    • [21]1921年5月、松方社長がロンドンで3社共営・鈴木商店総代理店のKラインを発足。総フリート100隻80万重量トン、大西洋方面就航40〜50隻、返船を日本へ戻すと近海・太平洋市況が崩れるとの発足あいさつ
    • [22]1921年5月、松方社長がロンドンで3社共営・鈴木商店総代理店のKラインを発足。総フリート100隻80万重量トン、大西洋方面就航40〜50隻、返船を日本へ戻すと近海・太平洋市況が崩れるとの発足あいさつ
    • [23]1921年5月、松方社長がロンドンで3社共営・鈴木商店総代理店のKラインを発足。総フリート100隻80万重量トン、大西洋方面就航40〜50隻、返船を日本へ戻すと近海・太平洋市況が崩れるとの発足あいさつ
  • 会社銀行八十年史(1955)「川崎汽船」
    • [24]Kラインの各船は煙筒頂部赤色地に白字「K」の標識を掲げた

1924年、川崎汽船はルーズベルト汽船と提携し、ニューヨークを起点とする川崎ルーズベルト西回り世界一周航路を開いた。背景には國際汽船の経営悪化があり、1923年4月に資本金を1億円から8千万円へ減資したのち、債権団から日本郵船への経営委託案が浮上した。川崎汽船は万一に備え、Kラインとは別に自社名義の遠洋定期航路を並行して設ける方針を立てた。航路の狙いは1921年以降竣工のストックボートの有利な運航で、同年3月と4月にシルバーラーチ号と伊太利丸が第1船として就航した。前年の1923年には近海用に汽船14隻を購入し、極東運賃同盟とパナマ運賃同盟の加盟社となった。共営の行方が不透明なまま、自社の航路網で船腹の行き先を確保しようとしたとうかがえる。

  • 川崎汽船五十年史(1969)「2章 創生期」
    • [25]國際汽船は1923年4月に1億円から8千万円へ減資、債権団が日本郵船への経営委託方針を推す。当社はKラインと別に当社名で遠洋定期航路を推進。1924年ルーズベルト汽船と川崎ルーズベルト西回り世界一周航路、3・4月にシルバーラーチ号・伊太利丸が第1船
    • [26]國際汽船は1923年4月に1億円から8千万円へ減資、債権団が日本郵船への経営委託方針を推す。当社はKラインと別に当社名で遠洋定期航路を推進。1924年ルーズベルト汽船と川崎ルーズベルト西回り世界一周航路、3・4月にシルバーラーチ号・伊太利丸が第1船
    • [27]國際汽船は1923年4月に1億円から8千万円へ減資、債権団が日本郵船への経営委託方針を推す。当社はKラインと別に当社名で遠洋定期航路を推進。1924年ルーズベルト汽船と川崎ルーズベルト西回り世界一周航路、3・4月にシルバーラーチ号・伊太利丸が第1船
    • [28]國際汽船は1923年4月に1億円から8千万円へ減資、債権団が日本郵船への経営委託方針を推す。当社はKラインと別に当社名で遠洋定期航路を推進。1924年ルーズベルト汽船と川崎ルーズベルト西回り世界一周航路、3・4月にシルバーラーチ号・伊太利丸が第1船
  • 会社銀行八十年史(1955)「川崎汽船」
    • [29]1923年に汽船14隻(40,924重量トン)を購入し近海航路に充て、極東運賃同盟・パナマ運賃同盟に加入

1927年4月、台湾銀行の融資打ち切りで鈴木商店が閉店し、Kラインの代理店業務も同日に途絶えた。続いて川崎系の主力取引銀行である十五銀行が支払不能に陥り、川崎造船所は同年8月に大口債権者と整理案をまとめた。Kラインは大正末に遠洋11・近海11の航路と103隻を擁したものの、1927年に國際汽船が離脱した。松方幸次郎氏は退陣し、鹿島房次郎氏が専務取締役に就任。1928年4月に6隻を國際汽船へ譲渡した川崎汽船は、残る41隻26万5,425重量トンでKラインを単独運航した。収支を造船所の口座と交互計算で整理する仕組みもやめ、各銀行に独立の口座を設けて直接取引に改めた。親会社の資金繰りと切り離さなければ、運航の継続そのものが危うかったと推察される。

  • 川崎汽船五十年史(1969)「2章 創生期」
    • [30]1927年4月、台湾銀行の貸出打ち切りで鈴木商店が閉店しKライン代理店活動が断絶。十五銀行破綻で川崎造船所が苦境、同年8月大口債権者の了解で整理案
    • [31]1927年4月、台湾銀行の貸出打ち切りで鈴木商店が閉店しKライン代理店活動が断絶。十五銀行破綻で川崎造船所が苦境、同年8月大口債権者の了解で整理案
  • 会社銀行八十年史(1955)「川崎汽船」
    • [32]大正末のKライン航路は遠洋11・近海11、船腹103隻791,153重量トン。1927年に国際汽船が脱退し単独経営へ
  • 川崎汽船五十年史(1969)「3章 再編期」
    • [33]松方社長退陣、鹿島房次郎が専務取締役に。1928年4月國際汽船へ6隻譲渡、残る41隻26万5,425重量トンでKラインを独力運営。造船所との交互計算をやめ各銀行と直接取引
    • [34]松方社長退陣、鹿島房次郎が専務取締役に。1928年4月國際汽船へ6隻譲渡、残る41隻26万5,425重量トンでKラインを独力運営。造船所との交互計算をやめ各銀行と直接取引
    • [35]松方社長退陣、鹿島房次郎が専務取締役に。1928年4月國際汽船へ6隻譲渡、残る41隻26万5,425重量トンでKラインを独力運営。造船所との交互計算をやめ各銀行と直接取引
参考文献[19]-[35]
  • 川崎汽船五十年史(1969)「2章 創生期」
    • [19]1921年5月、松方社長がロンドンで3社共営・鈴木商店総代理店のKラインを発足。総フリート100隻80万重量トン、大西洋方面就航40〜50隻、返船を日本へ戻すと近海・太平洋市況が崩れるとの発足あいさつ
    • [20]1921年5月、松方社長がロンドンで3社共営・鈴木商店総代理店のKラインを発足。総フリート100隻80万重量トン、大西洋方面就航40〜50隻、返船を日本へ戻すと近海・太平洋市況が崩れるとの発足あいさつ
    • [21]1921年5月、松方社長がロンドンで3社共営・鈴木商店総代理店のKラインを発足。総フリート100隻80万重量トン、大西洋方面就航40〜50隻、返船を日本へ戻すと近海・太平洋市況が崩れるとの発足あいさつ
    • [22]1921年5月、松方社長がロンドンで3社共営・鈴木商店総代理店のKラインを発足。総フリート100隻80万重量トン、大西洋方面就航40〜50隻、返船を日本へ戻すと近海・太平洋市況が崩れるとの発足あいさつ
    • [23]1921年5月、松方社長がロンドンで3社共営・鈴木商店総代理店のKラインを発足。総フリート100隻80万重量トン、大西洋方面就航40〜50隻、返船を日本へ戻すと近海・太平洋市況が崩れるとの発足あいさつ
    • [25]國際汽船は1923年4月に1億円から8千万円へ減資、債権団が日本郵船への経営委託方針を推す。当社はKラインと別に当社名で遠洋定期航路を推進。1924年ルーズベルト汽船と川崎ルーズベルト西回り世界一周航路、3・4月にシルバーラーチ号・伊太利丸が第1船
    • [26]國際汽船は1923年4月に1億円から8千万円へ減資、債権団が日本郵船への経営委託方針を推す。当社はKラインと別に当社名で遠洋定期航路を推進。1924年ルーズベルト汽船と川崎ルーズベルト西回り世界一周航路、3・4月にシルバーラーチ号・伊太利丸が第1船
    • [27]國際汽船は1923年4月に1億円から8千万円へ減資、債権団が日本郵船への経営委託方針を推す。当社はKラインと別に当社名で遠洋定期航路を推進。1924年ルーズベルト汽船と川崎ルーズベルト西回り世界一周航路、3・4月にシルバーラーチ号・伊太利丸が第1船
    • [28]國際汽船は1923年4月に1億円から8千万円へ減資、債権団が日本郵船への経営委託方針を推す。当社はKラインと別に当社名で遠洋定期航路を推進。1924年ルーズベルト汽船と川崎ルーズベルト西回り世界一周航路、3・4月にシルバーラーチ号・伊太利丸が第1船
    • [30]1927年4月、台湾銀行の貸出打ち切りで鈴木商店が閉店しKライン代理店活動が断絶。十五銀行破綻で川崎造船所が苦境、同年8月大口債権者の了解で整理案
    • [31]1927年4月、台湾銀行の貸出打ち切りで鈴木商店が閉店しKライン代理店活動が断絶。十五銀行破綻で川崎造船所が苦境、同年8月大口債権者の了解で整理案
  • 会社銀行八十年史(1955)「川崎汽船」
    • [24]Kラインの各船は煙筒頂部赤色地に白字「K」の標識を掲げた
    • [29]1923年に汽船14隻(40,924重量トン)を購入し近海航路に充て、極東運賃同盟・パナマ運賃同盟に加入
    • [32]大正末のKライン航路は遠洋11・近海11、船腹103隻791,153重量トン。1927年に国際汽船が脱退し単独経営へ
  • 川崎汽船五十年史(1969)「3章 再編期」
    • [33]松方社長退陣、鹿島房次郎が専務取締役に。1928年4月國際汽船へ6隻譲渡、残る41隻26万5,425重量トンでKラインを独力運営。造船所との交互計算をやめ各銀行と直接取引
    • [34]松方社長退陣、鹿島房次郎が専務取締役に。1928年4月國際汽船へ6隻譲渡、残る41隻26万5,425重量トンでKラインを独力運営。造船所との交互計算をやめ各銀行と直接取引
    • [35]松方社長退陣、鹿島房次郎が専務取締役に。1928年4月國際汽船へ6隻譲渡、残る41隻26万5,425重量トンでKラインを独力運営。造船所との交互計算をやめ各銀行と直接取引

1933年〜高速貨物船神川丸のニューヨーク航路と、船舶運営会・制限会社を越えた再建整備

1935年12月、鑄谷正輔氏が専務取締役社長に就任し、翌年4月には大久保賢治郎氏が専務取締役に加わった。川崎造船所の事情で外部からの設備資金の借り入れは閉ざされ、優秀船の新造は自己資金が整うまで見送った。突破口は石油輸送への進出。1934年に外国油送船を用船して石油輸送を始め、1935年6月には自己資金船第1号の建川丸(13,475重量トン)を竣工させた。収益が予想を上回ったため、ニューヨーク航路用の9,600重量トン型ディーゼル船4隻の建造を川崎造船所に委ねた。1937年に竣工した神川丸ほか3隻はニューヨーク航路に配船され、太平洋航路のブルーリボンを獲得した。定期航路への長年の投資を、石油輸送の利益で回収する構造へ改めた点に転機があったといえる。

  • 川崎汽船五十年史(1969)「4章 発展期」
    • [36]1935年12月鑄谷正輔が専務取締役社長、1936年4月大久保賢治郎が専務。造船所の事情で設備資金借入の道が閉ざされ自己資金待ち。1934年外国油送船用船で石油輸送開始、1935年6月30日建川丸(13,475重量トン)竣工。収益で9,600重量トン型ディーゼル船4隻を川崎造船所に発注
    • [37]1935年12月鑄谷正輔が専務取締役社長、1936年4月大久保賢治郎が専務。造船所の事情で設備資金借入の道が閉ざされ自己資金待ち。1934年外国油送船用船で石油輸送開始、1935年6月30日建川丸(13,475重量トン)竣工。収益で9,600重量トン型ディーゼル船4隻を川崎造船所に発注
    • [38]1935年12月鑄谷正輔が専務取締役社長、1936年4月大久保賢治郎が専務。造船所の事情で設備資金借入の道が閉ざされ自己資金待ち。1934年外国油送船用船で石油輸送開始、1935年6月30日建川丸(13,475重量トン)竣工。収益で9,600重量トン型ディーゼル船4隻を川崎造船所に発注
    • [39]1935年12月鑄谷正輔が専務取締役社長、1936年4月大久保賢治郎が専務。造船所の事情で設備資金借入の道が閉ざされ自己資金待ち。1934年外国油送船用船で石油輸送開始、1935年6月30日建川丸(13,475重量トン)竣工。収益で9,600重量トン型ディーゼル船4隻を川崎造船所に発注
    • [40]1935年12月鑄谷正輔が専務取締役社長、1936年4月大久保賢治郎が専務。造船所の事情で設備資金借入の道が閉ざされ自己資金待ち。1934年外国油送船用船で石油輸送開始、1935年6月30日建川丸(13,475重量トン)竣工。収益で9,600重量トン型ディーゼル船4隻を川崎造船所に発注
  • 会社銀行八十年史(1955)「川崎汽船」
    • [41]1937年に神川丸ほか3隻のディーゼル優秀船を建造しニューヨーク航路に配船、太平洋航路のブルーリボンを獲得

1941年、米国はパナマ運河の日本船通航を禁じ、川崎汽船のるほうく丸もマゼラン海峡経由での帰航を強いられた。1942年3月の戦時海運管理令により船舶は国家が使用し、乗組員も国家が徴用する体制に移った。運航は同年4月に設立された船舶運営会が一元的に取り扱い、船会社は自社船の配船を担えなくなった。戦死・戦病傷死・行方不明となった船員は3万592名を数え、動員された7万1,000名の43%にあたる。川崎汽船の船腹は大戦当初の34隻237,366重量トンから、終戦時には11隻29,470重量トンへ減少した。国家管理のもとで船の保有は収益の源泉ではなくなり、残った少数の船が戦後再建の起点になったと思われる。

  • 川崎汽船五十年史(1969)「5章 太平洋戦争期」
    • [42]1941年米国が日本船のパナマ運河通航を禁止、当社るほうく丸などがマゼラン海峡経由で帰航。1942年3月戦時海運管理令で船舶は国家使用・乗組員は徴用、4月船舶運営会が運航を一元的に取り扱う。船員7万1,000名中3万592名が戦死・戦病傷死・行方不明
    • [43]1941年米国が日本船のパナマ運河通航を禁止、当社るほうく丸などがマゼラン海峡経由で帰航。1942年3月戦時海運管理令で船舶は国家使用・乗組員は徴用、4月船舶運営会が運航を一元的に取り扱う。船員7万1,000名中3万592名が戦死・戦病傷死・行方不明
    • [44]1941年米国が日本船のパナマ運河通航を禁止、当社るほうく丸などがマゼラン海峡経由で帰航。1942年3月戦時海運管理令で船舶は国家使用・乗組員は徴用、4月船舶運営会が運航を一元的に取り扱う。船員7万1,000名中3万592名が戦死・戦病傷死・行方不明
    • [45]1941年米国が日本船のパナマ運河通航を禁止、当社るほうく丸などがマゼラン海峡経由で帰航。1942年3月戦時海運管理令で船舶は国家使用・乗組員は徴用、4月船舶運営会が運航を一元的に取り扱う。船員7万1,000名中3万592名が戦死・戦病傷死・行方不明
  • 会社銀行八十年史(1955)「川崎汽船」
    • [46]船腹は大戦当初34隻237,366重量トンから終戦時11隻29,470重量トンに

1946年3月16日、川崎汽船は川崎重工業の関係会社として制限会社に指定され、資本や財産の移動が大蔵大臣の認可事項となった。公職追放で役員が相次いで辞任し、同年12月に鑄谷正輔氏に代わって君島興一氏が専務取締役社長に就任した。戦時補償特別税9,452万円の課税で債務超過に陥り、特別経理会社の指定を受けた。当初の整備計画案は、会社を解散して第二会社を設け、資本金の90%を切り捨てる内容だった。1948年12月には被爆で沈んだ聖川丸を引き揚げ、1949年10月に修理を終えた。物価の高騰と船腹の改善を受けて計画を改め、1949年8月30日に減資と増資で旧会社を存続させる案を提出した。インフレで旧債務の実質負担が軽くなり、解散してまで再出発する必要が薄れたと解される。

  • 川崎汽船五十年史(1969)「6章 戦後の整備期」
    • [47]1946年3月16日制限会社指定。公職追放で役員辞任、1946年12月君島興一が専務取締役社長。戦時補償特別税9,452万円で債務超過、特別経理会社。当初案は解散・第二会社・資本金90%切り捨て。インフレと聖川丸などの質的改善で1949年8月30日旧会社存続の整備計画提出、11月4,000万円→400万円減資、12月4,400万円に増資
    • [48]1946年3月16日制限会社指定。公職追放で役員辞任、1946年12月君島興一が専務取締役社長。戦時補償特別税9,452万円で債務超過、特別経理会社。当初案は解散・第二会社・資本金90%切り捨て。インフレと聖川丸などの質的改善で1949年8月30日旧会社存続の整備計画提出、11月4,000万円→400万円減資、12月4,400万円に増資
    • [49]1946年3月16日制限会社指定。公職追放で役員辞任、1946年12月君島興一が専務取締役社長。戦時補償特別税9,452万円で債務超過、特別経理会社。当初案は解散・第二会社・資本金90%切り捨て。インフレと聖川丸などの質的改善で1949年8月30日旧会社存続の整備計画提出、11月4,000万円→400万円減資、12月4,400万円に増資
    • [50]1946年3月16日制限会社指定。公職追放で役員辞任、1946年12月君島興一が専務取締役社長。戦時補償特別税9,452万円で債務超過、特別経理会社。当初案は解散・第二会社・資本金90%切り捨て。インフレと聖川丸などの質的改善で1949年8月30日旧会社存続の整備計画提出、11月4,000万円→400万円減資、12月4,400万円に増資
    • [52]1946年3月16日制限会社指定。公職追放で役員辞任、1946年12月君島興一が専務取締役社長。戦時補償特別税9,452万円で債務超過、特別経理会社。当初案は解散・第二会社・資本金90%切り捨て。インフレと聖川丸などの質的改善で1949年8月30日旧会社存続の整備計画提出、11月4,000万円→400万円減資、12月4,400万円に増資
  • 会社銀行八十年史(1955)「川崎汽船」
    • [51]聖川丸は終戦直前被爆し擱座水没、1948年12月引揚げ、1949年10月修理完了。川崎フリート再建の基礎
参考文献[36]-[52]
  • 川崎汽船五十年史(1969)「4章 発展期」
    • [36]1935年12月鑄谷正輔が専務取締役社長、1936年4月大久保賢治郎が専務。造船所の事情で設備資金借入の道が閉ざされ自己資金待ち。1934年外国油送船用船で石油輸送開始、1935年6月30日建川丸(13,475重量トン)竣工。収益で9,600重量トン型ディーゼル船4隻を川崎造船所に発注
    • [37]1935年12月鑄谷正輔が専務取締役社長、1936年4月大久保賢治郎が専務。造船所の事情で設備資金借入の道が閉ざされ自己資金待ち。1934年外国油送船用船で石油輸送開始、1935年6月30日建川丸(13,475重量トン)竣工。収益で9,600重量トン型ディーゼル船4隻を川崎造船所に発注
    • [38]1935年12月鑄谷正輔が専務取締役社長、1936年4月大久保賢治郎が専務。造船所の事情で設備資金借入の道が閉ざされ自己資金待ち。1934年外国油送船用船で石油輸送開始、1935年6月30日建川丸(13,475重量トン)竣工。収益で9,600重量トン型ディーゼル船4隻を川崎造船所に発注
    • [39]1935年12月鑄谷正輔が専務取締役社長、1936年4月大久保賢治郎が専務。造船所の事情で設備資金借入の道が閉ざされ自己資金待ち。1934年外国油送船用船で石油輸送開始、1935年6月30日建川丸(13,475重量トン)竣工。収益で9,600重量トン型ディーゼル船4隻を川崎造船所に発注
    • [40]1935年12月鑄谷正輔が専務取締役社長、1936年4月大久保賢治郎が専務。造船所の事情で設備資金借入の道が閉ざされ自己資金待ち。1934年外国油送船用船で石油輸送開始、1935年6月30日建川丸(13,475重量トン)竣工。収益で9,600重量トン型ディーゼル船4隻を川崎造船所に発注
  • 会社銀行八十年史(1955)「川崎汽船」
    • [41]1937年に神川丸ほか3隻のディーゼル優秀船を建造しニューヨーク航路に配船、太平洋航路のブルーリボンを獲得
    • [46]船腹は大戦当初34隻237,366重量トンから終戦時11隻29,470重量トンに
    • [51]聖川丸は終戦直前被爆し擱座水没、1948年12月引揚げ、1949年10月修理完了。川崎フリート再建の基礎
  • 川崎汽船五十年史(1969)「5章 太平洋戦争期」
    • [42]1941年米国が日本船のパナマ運河通航を禁止、当社るほうく丸などがマゼラン海峡経由で帰航。1942年3月戦時海運管理令で船舶は国家使用・乗組員は徴用、4月船舶運営会が運航を一元的に取り扱う。船員7万1,000名中3万592名が戦死・戦病傷死・行方不明
    • [43]1941年米国が日本船のパナマ運河通航を禁止、当社るほうく丸などがマゼラン海峡経由で帰航。1942年3月戦時海運管理令で船舶は国家使用・乗組員は徴用、4月船舶運営会が運航を一元的に取り扱う。船員7万1,000名中3万592名が戦死・戦病傷死・行方不明
    • [44]1941年米国が日本船のパナマ運河通航を禁止、当社るほうく丸などがマゼラン海峡経由で帰航。1942年3月戦時海運管理令で船舶は国家使用・乗組員は徴用、4月船舶運営会が運航を一元的に取り扱う。船員7万1,000名中3万592名が戦死・戦病傷死・行方不明
    • [45]1941年米国が日本船のパナマ運河通航を禁止、当社るほうく丸などがマゼラン海峡経由で帰航。1942年3月戦時海運管理令で船舶は国家使用・乗組員は徴用、4月船舶運営会が運航を一元的に取り扱う。船員7万1,000名中3万592名が戦死・戦病傷死・行方不明
  • 川崎汽船五十年史(1969)「6章 戦後の整備期」
    • [47]1946年3月16日制限会社指定。公職追放で役員辞任、1946年12月君島興一が専務取締役社長。戦時補償特別税9,452万円で債務超過、特別経理会社。当初案は解散・第二会社・資本金90%切り捨て。インフレと聖川丸などの質的改善で1949年8月30日旧会社存続の整備計画提出、11月4,000万円→400万円減資、12月4,400万円に増資
    • [48]1946年3月16日制限会社指定。公職追放で役員辞任、1946年12月君島興一が専務取締役社長。戦時補償特別税9,452万円で債務超過、特別経理会社。当初案は解散・第二会社・資本金90%切り捨て。インフレと聖川丸などの質的改善で1949年8月30日旧会社存続の整備計画提出、11月4,000万円→400万円減資、12月4,400万円に増資
    • [49]1946年3月16日制限会社指定。公職追放で役員辞任、1946年12月君島興一が専務取締役社長。戦時補償特別税9,452万円で債務超過、特別経理会社。当初案は解散・第二会社・資本金90%切り捨て。インフレと聖川丸などの質的改善で1949年8月30日旧会社存続の整備計画提出、11月4,000万円→400万円減資、12月4,400万円に増資
    • [50]1946年3月16日制限会社指定。公職追放で役員辞任、1946年12月君島興一が専務取締役社長。戦時補償特別税9,452万円で債務超過、特別経理会社。当初案は解散・第二会社・資本金90%切り捨て。インフレと聖川丸などの質的改善で1949年8月30日旧会社存続の整備計画提出、11月4,000万円→400万円減資、12月4,400万円に増資
    • [52]1946年3月16日制限会社指定。公職追放で役員辞任、1946年12月君島興一が専務取締役社長。戦時補償特別税9,452万円で債務超過、特別経理会社。当初案は解散・第二会社・資本金90%切り捨て。インフレと聖川丸などの質的改善で1949年8月30日旧会社存続の整備計画提出、11月4,000万円→400万円減資、12月4,400万円に増資

出典・参考

7件
出典・参考
  • 川崎汽船五十年史(1969)「1章 当社創立まで」
  • 川崎汽船五十年史(1969)「2章 創生期」
  • 川崎汽船五十年史(1969)「3章 再編期」
  • 川崎汽船五十年史(1969)「4章 発展期」
  • 川崎汽船五十年史(1969)「5章 太平洋戦争期」
  • 川崎汽船五十年史(1969)「6章 戦後の整備期」
  • 会社銀行八十年史(1955)「川崎汽船」

免責事項およびポリシー