第1章 年〜年

ホンダ:本田技研工業の設立と二輪車の北米輸出

1946年〜払下げエンジンから二輪の完成車メーカーへ

エンジンの販売から完成車の販売へ移る

1946年10月、本田宗一郎氏は静岡県浜松市に本田技術研究所を開設し、内燃機関および各種工作機械の製造と研究に取り組んだ。当初は幅の広い織物を織るロータリー式の織機を考えたが資金が足りず、戦争中に軍が使っていた通信機の小型エンジンが近辺に安く転がっていたのを買い集め、自転車に取り付けて売ることへ切り替えた。1948年9月、研究所を継承して資本金100万円で本田技研工業株式会社を設立し、浜松市山下町に本社と工場を置いてバイクモーターの生産に入った。同年のバイクモーター"カブ号"の生産台数は、全国のバイクモーター生産の5割以上を占めた。1949年8月には2サイクルエンジンを積むドリーム号D型を完成させ、エンジンを卸す供給者から完成車メーカーへ移った。同月には藤沢武夫氏が入社して常務に就任し、技術の宗一郎氏と経営の藤沢氏という分業が固まった。

  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1946年10月 本田宗一郎氏が静岡県浜松市に本田技術研究所を開設
  • 本田宗一郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [2]織機を断念し、軍の通信機用小型エンジンを買い集めて自転車に取り付けた
  • 証券 1957年12月号
    • [3]1948年9月 本田技研工業株式会社へ改組(資本金100万円)
    • [4]1948年のバイクモーター「カブ号」生産台数が全国生産の50%以上
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]1949年8月 ドリーム号D型(2サイクル)完成、完成車メーカーへ転じる
    • [6]1949年 藤沢武夫氏が入社し常務に就任、本田・藤沢の分業が固まる
4サイクルへ改め、資本金を積み増す

1951年、ドリーム号のエンジンを小型軽量の4サイクル型へ改めて発売した。当時は利用者の一部に外車の輸入を望む声が高まり、国産メーカーの大多数がこれに反対していたが、同社は良品をもって正面から立ち向かった。1952年には自転車用の超小型エンジン"カブ号"を仕上げ、翌1953年6月から、これを基にした原動機付き自転車"ベンリイ号"の本格生産に入った。同じ1952年4月には本社を東京都へ移し、同年には汎用エンジンの生産も始めた。資本金は1952年6月に600万円、同年11月に1,500万円、1953年12月に6,000万円へと短期間で積み増され、1953年5月には埼玉の大和工場が稼働した。1954年1月に株式を公開した時点で、資本金は6,000万円に達していた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]1951年 ドリーム号を小型軽量の4サイクル型へ転換して発売
    • [8]外車輸入を望む声に国産メーカーの大多数が反対するなか良品で対抗した
    • [14]1954年1月 株式を公開(当時の資本金6,000万円)
  • 証券 1957年12月号
    • [9]1953年6月 原動機付自転車「ベンリイ号」の本格生産を開始
    • [12]資本金の推移 1952年6月600万円・同年11月1,500万円・1953年12月6,000万円
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [10]1952年4月 本社を東京都へ移転
    • [11]1952年 パワープロダクツ(汎用エンジン)の生産を開始
    • [13]1953年5月 大和工場が稼動開始
代理店から保証金を預かって回す

藤沢武夫専務は1951年末に月300万円だった売上を翌年末には月5,000万円にすると取引銀行の三菱銀行へ告げ、1952年末の月商は月4,200万円に達した。1953年末には月平均7億5,000万円へ伸び、2年間で売上高は250倍になった。この拡大を現金で支えたのが、販売店から預かる保証金である。1953年11月に生産を始めたスクーターのジユノオ号では、全国の有力代理店と契約するにあたって保証金を取り、東京の5店は1店あたり1,000万円、地方は需要の度合いに応じて300万円から800万円とし、1953年12月に集まった9,000万円をそのまま三菱銀行へ預金した。資金は、甲から借りて乙へ返す金融上の技巧を一切用いず、当初から三菱銀行の応援によって賄われた。1954年2月期は売上高90億円、利益6億円、3割配当を見込んだ。

  • 経済知識 1954年
    • [15]1951年末の月商300万円に対し藤沢武夫専務が三菱銀行へ翌年月5,000万円と告げ、1952年末に月4,200万円を達成
    • [16]1953年末の月平均売上高7億5,000万円、2年間で売上高250倍
    • [18]ジユノオ号の代理店契約で保証金を徴収(東京5店は1店1,000万円、地方は300万〜800万円)、1953年12月に9,000万円を三菱銀行へ預金
    • [19]甲から借りて乙へ返す金融技術を用いず三菱銀行の応援で経営してきたという本田宗一郎氏の説明
    • [20]1954年2月期の見込み 売上高90億円・利益6億円・配当3割
  • 社史 : 創立七周年記念特集(本田技研工業, 1955)「沿革」
    • [17]1953年11月 スクーター・ジユノオ号の生産を開始
参考文献[1]-[20]
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1946年10月 本田宗一郎氏が静岡県浜松市に本田技術研究所を開設
    • [10]1952年4月 本社を東京都へ移転
    • [11]1952年 パワープロダクツ(汎用エンジン)の生産を開始
    • [13]1953年5月 大和工場が稼動開始
  • 本田宗一郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [2]織機を断念し、軍の通信機用小型エンジンを買い集めて自転車に取り付けた
    • [3]1948年9月 本田技研工業株式会社へ改組(資本金100万円)
    • [4]1948年のバイクモーター「カブ号」生産台数が全国生産の50%以上
    • [9]1953年6月 原動機付自転車「ベンリイ号」の本格生産を開始
    • [12]資本金の推移 1952年6月600万円・同年11月1,500万円・1953年12月6,000万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]1949年8月 ドリーム号D型(2サイクル)完成、完成車メーカーへ転じる
    • [6]1949年 藤沢武夫氏が入社し常務に就任、本田・藤沢の分業が固まる
    • [7]1951年 ドリーム号を小型軽量の4サイクル型へ転換して発売
    • [8]外車輸入を望む声に国産メーカーの大多数が反対するなか良品で対抗した
    • [14]1954年1月 株式を公開(当時の資本金6,000万円)
    • [15]1951年末の月商300万円に対し藤沢武夫専務が三菱銀行へ翌年月5,000万円と告げ、1952年末に月4,200万円を達成
    • [16]1953年末の月平均売上高7億5,000万円、2年間で売上高250倍
    • [18]ジユノオ号の代理店契約で保証金を徴収(東京5店は1店1,000万円、地方は300万〜800万円)、1953年12月に9,000万円を三菱銀行へ預金
    • [19]甲から借りて乙へ返す金融技術を用いず三菱銀行の応援で経営してきたという本田宗一郎氏の説明
    • [20]1954年2月期の見込み 売上高90億円・利益6億円・配当3割
    • [17]1953年11月 スクーター・ジユノオ号の生産を開始

1951年〜資本金を上回る工作機械の輸入と、それを支えた回収の仕組み

輸入防止を頼まず、機械の購入へ動く

当時、米国の援助資金で入ってくるのは高級外車やウイスキー、化粧品のような生産に役立たない品が大半で、生産設備の輸入はごく僅かだった。1951年ごろには、輸出の振興と輸入の防止を政府へ要望する民間業者の会合が開かれたものの、政府に輸出を頼るうえ輸入の防止まで求めるのは安易だと強く反発した本田宗一郎氏は、その場に加わっていない。技術が優れ製品が良ければ外国品を買う者はおらず、何もしなくても輸出は伸びると本田氏は読み、"良品に国境なし"を自ら実現しようと決めた。量産するには良い機械が欠かせず、優れた技術も道具がなければ形にならないとして、海外製の工作機械を輸入する道を選んだ。

  • 本田宗一郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [21]米国の援助資金は非生産的な消費財に振り向けられ生産設備はほとんど輸入されず
    • [22]1951年ごろ 輸入防止を政府に求める民間業者の会合に本田宗一郎氏は参加せず
    • [23]輸出を政府に頼みさらに輸入防止まで依頼する安易な道への反発
    • [24]「良品に国境なし」を掲げ、技術で輸入を防ぎ輸出を図る方針
    • [25]技術を形にする道具が要り、量産化ではなおさら必要という判断
    • [26]外国製の工作機械の輸入に踏み切った
資本金の6倍を機械へ投じる

世界の進歩に置いていかれて自ら滅びるか、危険を承知で新鋭の機械を入れて競うか、という選択を迫られていた。どちらにも危険があるなら、わずかでも前へ進める見込みのある方を取るのが経営者の務めだと判断し、資本金6,000万円の同社はストロームという自動旋盤をはじめ、スイス・アメリカ・ドイツの工作機械を4億円も輸入した。1952年10月の社内月報で本田宗一郎氏は『私の会社では機械を買うドルは国のドルであります。国のドルを用いて買った機械で逆にドルを稼ごうというのが私の願いであります』と説き、輸出によって外貨を取り戻すという前提を示している。輸入は1953年から1954年の不況とぶつかり、誰の目にも冒険と映る買い物に銀行が資金を貸すはずもなかった。

  • 本田宗一郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [27]自滅か新鋭機械での勝負かの二択で後者を選んだ
    • [28]前進の可能性がある方を選ぶのが経営者の責務という判断
    • [29]工作機械輸入時の資本金 6,000万円
    • [30]ストロームの自動旋盤ほか工作機械をスイス・アメリカ・ドイツから4億円輸入
    • [32]1953年から1954年の不況と重なり銀行融資を得られなかった
  • 社内月報14号(1952年10月、『社史 : 創立七周年記念特集』1955年 所収)
    • [31]1952年10月 社内月報での本田宗一郎氏の発言(輸出で外貨を稼ぐ前提)
生産数量第一主義を捨てる

1954年初めの取材で、本田宗一郎氏は金融引締めによる二、三月危機説について、デフレの情勢次第では結論を保留するほかないと答えていた。その懸念は同年春に現実となる。1954年4月、本田技研工業は緊急態勢に入り、全社員2,500名が増産に当たった。5月に入るとデフレの影響が各方面へ急に現れ、物価の値下がりと賃金の遅欠配・人員整理が取り沙汰される局面となった。同業では三輪車オリエント号を月産4,500台つくっていた三井精機が倒れ、ドリーム号の初期製品と優劣を競ったエーブスターも手を上げた。倒れた会社の在庫が500台、1,000台と安値で叩き売られれば、買い手は値下がりを見越して購入を控える。本田宗一郎氏は、生産数量第一主義で進んできた各部門に欠点が表面化したとして、生産数量を限定しその範囲でいかに合理化して最大の利益を挙げるかへ全面的に切り換えるよう求めた。入れた機械の元をどれだけ速く取れるかが、ここで試された。

  • 経済知識 1954年
    • [33]1954年初め 金融引締めによる二、三月危機説に対し本田宗一郎氏はデフレ情勢次第で結論を保留すると回答
  • 社史 : 創立七周年記念特集(本田技研工業, 1955)「沿革」
    • [34]1954年4月以来の緊急態勢に応じ全社員2,500名が増産に当たった
  • 「緊急態勢後の会社の現状と見通し」(『社史 : 創立七周年記念特集』1955年 所収)
    • [35]1954年5月にデフレの影響が各方面へ急激に現れ、物価下落・賃金の遅欠配・人員整理が見込まれた
    • [38]生産数量第一主義から生産数量を限定して合理化で最大利益を挙げる方式への全面切換えの指示
  • 「デフレとオートバイ界」(『社史 : 創立七周年記念特集』1955年 所収)
    • [36]三輪車オリエント号を月産4,500台つくっていた三井精機が倒産、エーブスターも事業を停止
    • [37]倒産会社の在庫が500台・1,000台と安値で投げ売られ、買い手が値下がりを見越して買い控える見通し
参考文献[21]-[38]
  • 本田宗一郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [21]米国の援助資金は非生産的な消費財に振り向けられ生産設備はほとんど輸入されず
    • [22]1951年ごろ 輸入防止を政府に求める民間業者の会合に本田宗一郎氏は参加せず
    • [23]輸出を政府に頼みさらに輸入防止まで依頼する安易な道への反発
    • [24]「良品に国境なし」を掲げ、技術で輸入を防ぎ輸出を図る方針
    • [25]技術を形にする道具が要り、量産化ではなおさら必要という判断
    • [26]外国製の工作機械の輸入に踏み切った
    • [27]自滅か新鋭機械での勝負かの二択で後者を選んだ
    • [28]前進の可能性がある方を選ぶのが経営者の責務という判断
    • [29]工作機械輸入時の資本金 6,000万円
    • [30]ストロームの自動旋盤ほか工作機械をスイス・アメリカ・ドイツから4億円輸入
    • [32]1953年から1954年の不況と重なり銀行融資を得られなかった
  • 社内月報14号(1952年10月、『社史 : 創立七周年記念特集』1955年 所収)
    • [31]1952年10月 社内月報での本田宗一郎氏の発言(輸出で外貨を稼ぐ前提)
    • [33]1954年初め 金融引締めによる二、三月危機説に対し本田宗一郎氏はデフレ情勢次第で結論を保留すると回答
    • [34]1954年4月以来の緊急態勢に応じ全社員2,500名が増産に当たった
    • [35]1954年5月にデフレの影響が各方面へ急激に現れ、物価下落・賃金の遅欠配・人員整理が見込まれた
    • [38]生産数量第一主義から生産数量を限定して合理化で最大利益を挙げる方式への全面切換えの指示
    • [36]三輪車オリエント号を月産4,500台つくっていた三井精機が倒産、エーブスターも事業を停止
    • [37]倒産会社の在庫が500台・1,000台と安値で投げ売られ、買い手が値下がりを見越して買い控える見通し

1954年〜マン島での宣言から、鈴鹿の量産と米国公募まで

レースを販路の入口に据える

1954年6月、本田宗一郎氏は英国のTTレースと欧州の自動車業界を視察するため日本を発ち、翌7月に英国・ドイツ・スイス・イタリアの視察を終えて帰国した。マン島のレースを初めて見たのはこのときで、帰国後ただちに、TTレースでの優勝を目標に掲げる宣言を発表した。同じ1954年3月にはブラジル・サンパウロ市の国際オートレースへ社員2名を派遣し、大村選手がドリーム号でコースを完走している。1957年6月には技術研究所を白子工場内に設け、本田氏が自ら指揮してエンジン性能を追った。狙いは競技の栄誉ではなく、世界のレースで優位に立つことで世界的な販路を切り開くことにあった。1959年6月のTTレースには初参加で125cc級の団体優勝を収め、2年後には125ccと250ccの2種目を制してメーカーチャンピオンとなった。

  • 社史 : 創立七周年記念特集(本田技研工業, 1955)「沿革」
    • [39]1954年6月 本田宗一郎氏が英国TTレースと欧州自動車業界の視察へ渡欧、7月に英独瑞西伊の視察を終えて帰国
    • [41]1954年3月 ブラジル・サンパウロ市の国際オートレースへ社員2名を派遣し、大村選手がドリーム号で完走
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [40]1954年の渡欧でマン島のレースを初めて見物し、帰国後ただちにTTレース優勝を賭けた宣言を発表
    • [42]1957年6月 技術研究所を白子工場内に設立し本田社長が自ら指揮してエンジン性能を追求
    • [43]世界レースに勝ち世界的販路を切り開くことを狙いとした
    • [44]1959年6月 TTレース初参加で125cc級団体優勝、2年後に125cc・250ccの2種目を制しメーカーチャンピオン獲得
スーパーカブを量産する型をつくる

1958年8月、原動機付自転車のスーパーカブ号を発売した。1959年末には、量産工場として三重県に鈴鹿製作所の建設へ着手し、1960年4月に稼働させてスーパーカブの量産に入った。同年7月には本田技術研究所を分離して別会社とした。ただし生産をすべて内製化したわけではない。外注は約170社、下請けは約70社に及び、生産額の約50%を外注に依存した。販売は中央官庁と大口需要家へ直売するほかは府県単位のスーパー販売店を通し、傘下の小売店は全国で約5,000店、製品出荷後10日以内に80%以上を現金で回収した。1957年2月期に40億6,515万円だった売上高は、1961年2月期に280億6,589万円へ伸びた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [45]1958年8月 スーパーカブ号を発売し、原動機付自転車の決定版とされた
    • [46]1959年末 スーパーカブ号の量産工場建設のため三重県で鈴鹿製作所の開設に着手
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「本田技研工業」
    • [47]1960年4月 鈴鹿製作所を新設しスーパーカブの量産体制を確立
    • [48]1960年7月 株式会社本田技術研究所を分離設立
    • [49]外注約170社・下請け約70社、生産額の約50%を外注に依存
    • [50]中央官庁・大口需要家へ直売、他は府県単位のスーパー販売店経由。全国小売店約5,000、出荷後10日以内に80%以上を現金回収
  • 株式会社年鑑 1964年版「本田技研工業」【過去の業績】
    • [51]売上高 1957年2月期40億6,515万円 → 1961年2月期280億6,589万円
資金と販路を海外から取る

1959年6月、米国ロサンゼルスに現地法人アメリカンホンダモーターを設立した。1961年6月にはEEC圏内で製品を組み立て販売するためベルギーに現地法人ホンダモーターを置き、1962年10月にはハンブルクに販売用のヨーロッパホンダモータートレーディングを設けた。資金の取り方も国内に限らなかった。1962年12月には米国での公募によって資本金を90億9,000万円とし、翌1963年には欧州預託証券としてロンドン市場へ上場した。輸出は現地法人の販売会社を経由させ、1962年8月期の輸出金額は53億2,278万円、売上高に対する比率は17.7%に達した。オートバイの国内占有度が60%を超えたその位置から、1963年に軽四輪自動車へ進出した。二輪で世界最大となった時点が、四輪へ入る時機でもあった。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「本田技研工業」
    • [52]1959年6月 米国ロサンゼルスに現地法人アメリカンホンダモーターを設立
    • [53]1961年6月 ベルギーに現地法人ホンダモーター(EEC圏内での組立販売)、1962年10月 ハンブルクにヨーロッパホンダモータートレーディングを設立
    • [56]1962年8月期の輸出金額53億2,278万円、対売上比率17.7%
    • [57]生産台数で世界最大の二輪メーカーであり、オートバイの国内占有度は60%以上
    • [58]1963年から軽四輪自動車へ進出
  • 株式会社年鑑 1964年版「本田技研工業」【資本金移動】
    • [54]1962年12月27日払込 米国公募により資本金90億9,000万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [55]1963年 欧州預託証券としてロンドン市場へ上場
参考文献[39]-[58]
    • [39]1954年6月 本田宗一郎氏が英国TTレースと欧州自動車業界の視察へ渡欧、7月に英独瑞西伊の視察を終えて帰国
    • [41]1954年3月 ブラジル・サンパウロ市の国際オートレースへ社員2名を派遣し、大村選手がドリーム号で完走
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [40]1954年の渡欧でマン島のレースを初めて見物し、帰国後ただちにTTレース優勝を賭けた宣言を発表
    • [42]1957年6月 技術研究所を白子工場内に設立し本田社長が自ら指揮してエンジン性能を追求
    • [43]世界レースに勝ち世界的販路を切り開くことを狙いとした
    • [44]1959年6月 TTレース初参加で125cc級団体優勝、2年後に125cc・250ccの2種目を制しメーカーチャンピオン獲得
    • [45]1958年8月 スーパーカブ号を発売し、原動機付自転車の決定版とされた
    • [46]1959年末 スーパーカブ号の量産工場建設のため三重県で鈴鹿製作所の開設に着手
    • [55]1963年 欧州預託証券としてロンドン市場へ上場
    • [47]1960年4月 鈴鹿製作所を新設しスーパーカブの量産体制を確立
    • [48]1960年7月 株式会社本田技術研究所を分離設立
    • [49]外注約170社・下請け約70社、生産額の約50%を外注に依存
    • [50]中央官庁・大口需要家へ直売、他は府県単位のスーパー販売店経由。全国小売店約5,000、出荷後10日以内に80%以上を現金回収
    • [52]1959年6月 米国ロサンゼルスに現地法人アメリカンホンダモーターを設立
    • [53]1961年6月 ベルギーに現地法人ホンダモーター(EEC圏内での組立販売)、1962年10月 ハンブルクにヨーロッパホンダモータートレーディングを設立
    • [56]1962年8月期の輸出金額53億2,278万円、対売上比率17.7%
    • [57]生産台数で世界最大の二輪メーカーであり、オートバイの国内占有度は60%以上
    • [58]1963年から軽四輪自動車へ進出
    • [51]売上高 1957年2月期40億6,515万円 → 1961年2月期280億6,589万円
    • [54]1962年12月27日払込 米国公募により資本金90億9,000万円

1946年〜1963年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1949年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年02月期 単体 2 n/a n/a n/a 0 2.9% n/a
1953年02月期 単体 24 +1080.2% n/a n/a 1 4.1% n/a
1954年02月期 単体 60 +149.4% n/a n/a 5 8.5% 大和工場(のちの埼玉製作所和光工場)が稼動開始(1953/05)
1955年02月期 単体 59 ▲1.5% n/a n/a 0 1.2% 浜松製作所葵工場が稼動開始(1954/04)
1956年02月期 単体 55 ▲7.5% n/a n/a 1 3.5% n/a
1957年02月期 単体 78 +42.6% n/a n/a 3 5.0% n/a
1958年02月期 単体 97 +24.1% n/a 5 5 5.2% n/a
1959年02月期 単体 141 +44.3% n/a 11 11 8.2% n/a
1960年02月期 単体 261 +85.6% n/a 29 n/a n/a 米国にアメリカンホンダモーターを設立(1959/06)
1961年02月期 単体 490 +87.3% n/a 50 53 10.9% 鈴鹿製作所が稼動開始(1960/05)
1962年02月期 単体 579 +18.2% 70 60 59 10.3% ベルギーに子会社ホンダモーターを設立(1961/06)
1963年02月期 単体 644 +11.2% 83 70 70 10.9% n/a

出所:会社年鑑、会社年鑑/ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版

出典・参考

12件
出典・参考
  • 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
  • 社内月報14号(1952年10月、『社史 : 創立七周年記念特集』1955年 所収)
  • 社史 : 創立七周年記念特集(本田技研工業, 1955)「沿革」
  • 「緊急態勢後の会社の現状と見通し」(『社史 : 創立七周年記念特集』1955年 所収)
  • 「デフレとオートバイ界」(『社史 : 創立七周年記念特集』1955年 所収)
  • 株式会社年鑑 1964年版「本田技研工業」【過去の業績】
  • 株式会社年鑑 1964年版「本田技研工業」【資本金移動】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 証券 1957年12月号
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「本田技研工業」
  • 本田宗一郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人6』日本経済新聞社, 1980 所収)
  • 経済知識 1954年

免責事項およびポリシー