ホンダ:HAM設立による米国四輪現地生産とHUMの英国進出
1978年〜HAMの二輪工場先行と、1982年11月のアコード現地生産
米国での四輪生産は、国内の増産投資を見送ることから始まった。鈴鹿と埼玉がシビックの増産で連日フル操業となった時期に、河島喜好社長は鈴鹿へ乗用車の第2ラインを足す案を退けた。国内で先発メーカーと販売力・資金力を競うより、どの日本メーカーも出ていない最大市場の米国に工場を持つという判断だった。1977年10月にはオハイオ州と誘致協定を結び、総投資2500万ドルで大型二輪を年6万台つくる工場の建設を発表した。同じ発表の場で、二輪の生産が軌道に乗れば隣接地で乗用車もつくる意思を示している。運営会社のHAMは1978年に設立された。1974年の調査で二輪単独では採算が合わないとして一度見送った計画を、損失の上限を小さく決めて再開する手順だったとみられる。
- 本田技研工業公式サイト「語り継ぎたいこと ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング設立」(2021年1月時点)
- [1]シビック好調で鈴鹿・埼玉が連日フル生産となり、鈴鹿製作所の乗用車第2ライン増設案は河島喜好社長の判断で見送られた
- [2]国内で先発メーカーと販売力・資金力を競うより、日本メーカーがまだ出ていない最大市場の米国に二輪・四輪の工場をつくるという河島社長の考え
- 本田技研工業公式サイト「語り継ぎたいこと ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング設立」(2021年1月時点)
- [3]1977年10月 オハイオ州と誘致協定、総投資2500万ドル・214エーカー・大型二輪年産6万台の工場建設を日米同時発表
- [4]同発表で、二輪生産が軌道に乗り条件が整えば隣接地で乗用車を生産する意思を表明
- 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
- [5]1978年 米国にホンダオブアメリカマニュファクチュアリングを設立
HAMの資本は8割をアメリカン・ホンダが、2割を本田技研工業が出した。米国の顧客から得た利益を日本へ戻さず、現地で再投資するという考えに沿った配分である。1987年にはアメリカン・ホンダの出資比率が95%となり、同じ考えでカナダの生産会社もカナダでの販売利益を元手に設けた。人の組み方も、米国の工場の慣行から離れたものにした。3000人を超える応募から採ったのは50人で、選考役の全員が賛成しない限り採用しなかった。従業員をアソシエイトと呼び、職種ごとに賃金を分けずローテーションを前提とする同一の賃金率とし、幹部向けの特典も置かなかった。1979年9月10日、この体制で最初の二輪車CR250Rがラインを出た。
- 本田技研工業公式サイト「語り継ぎたいこと ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング設立」(2020年10月時点)
- [6]HAM設立時の資本金はアメリカン・ホンダ80%、本田技研工業20%の出資
- [7]米国の顧客から得た利益を日本へ持ち帰らず現地で再投資するという考えによる出資配分
- [9]入社希望者は3000人超、選考メンバー全員の賛成を条件に厳選し採用は50人
- [10]従業員をアソシエイトと呼び、ローテーション前提の同一賃金レートを採用、幹部への恩典的制度は導入せず
- DECIDE 1987年11月号
- [8]1987年時点でHAMの資本の95%をアメリカン・ホンダが出資、カナダの現地生産会社はカナダでの販売利益の蓄積で設立
- 本田技研工業公式サイト「語り継ぎたいこと ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング設立」(2021年1月時点)
- [11]1979年9月10日 HAMで二輪車CR250Rの第1号車がラインオフ
1980年1月、HAMの二輪工場の隣に四輪工場を建てる計画が発表された。投資は2億5000万ドル、年産能力は約15万台、新規雇用は約2000人で、日本の自動車メーカーが米国で乗用車を現地生産する最初の計画だった。鋼板・樹脂・塗料は米国産を使う方針とし、日米の品質規格の差を埋める役は埼玉製作所の狭山工場が負った。狭山はエンジンと足回り部品をオハイオへ送り、自らの2本のラインに続く3本目がオハイオにあるという位置づけで支えた。立ち上げには狭山から熟練者を中心に約300人が応援に入り、使い慣れない米国製の設備で量産の課題を詰めた。1982年11月1日にアコードの第1号車が出て、1年半後には2直で日産600台の全面生産に入った。
- 日経新聞(1980年1月11日)
- [12]1980年1月 本田技研工業が米国での乗用車生産を決定したと報道
- 本田技研工業公式サイト「語り継ぎたいこと ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング設立」(2021年1月時点)
- [13]1980年1月発表の四輪工場計画は投資2億5000万ドル(約500億円)・年産約15万台・約2000人採用で、日本の自動車メーカー初の米国乗用車現地生産
- 本田技研工業公式サイト「語り継ぎたいこと ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング設立」(2021年1月時点)
- [14]米国の鋼板・プラスチック・塗料を使う方針をとり、狭山工場がマザー工場として日米相互補完体制を敷いた
- [16]狭山からエキスパートやベテラン約300人をHAMへ応援に出し、米国調達の設備で量産上の課題を改善
- [17]1982年11月1日 アコード第1号車ラインオフ、操業開始1年半後に2直・日産600台のフル生産
- 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(21巻12号)篠宮茂
- [15]狭山工場はオハイオ工場のマザー工場で、エンジンと足回り部品を供給し、狭山の2本の生産ラインに対し3本目がオハイオにあるという方式
参考文献[1]-[17]
- [1]シビック好調で鈴鹿・埼玉が連日フル生産となり、鈴鹿製作所の乗用車第2ライン増設案は河島喜好社長の判断で見送られた
- [2]国内で先発メーカーと販売力・資金力を競うより、日本メーカーがまだ出ていない最大市場の米国に二輪・四輪の工場をつくるという河島社長の考え
- [3]1977年10月 オハイオ州と誘致協定、総投資2500万ドル・214エーカー・大型二輪年産6万台の工場建設を日米同時発表
- [4]同発表で、二輪生産が軌道に乗り条件が整えば隣接地で乗用車を生産する意思を表明
- 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
- [5]1978年 米国にホンダオブアメリカマニュファクチュアリングを設立
- [6]HAM設立時の資本金はアメリカン・ホンダ80%、本田技研工業20%の出資
- [7]米国の顧客から得た利益を日本へ持ち帰らず現地で再投資するという考えによる出資配分
- [9]入社希望者は3000人超、選考メンバー全員の賛成を条件に厳選し採用は50人
- [10]従業員をアソシエイトと呼び、ローテーション前提の同一賃金レートを採用、幹部への恩典的制度は導入せず
- DECIDE 1987年11月号
- [8]1987年時点でHAMの資本の95%をアメリカン・ホンダが出資、カナダの現地生産会社はカナダでの販売利益の蓄積で設立
- [11]1979年9月10日 HAMで二輪車CR250Rの第1号車がラインオフ
- 日経新聞(1980年1月11日)
- [12]1980年1月 本田技研工業が米国での乗用車生産を決定したと報道
- [13]1980年1月発表の四輪工場計画は投資2億5000万ドル(約500億円)・年産約15万台・約2000人採用で、日本の自動車メーカー初の米国乗用車現地生産
- [14]米国の鋼板・プラスチック・塗料を使う方針をとり、狭山工場がマザー工場として日米相互補完体制を敷いた
- [16]狭山からエキスパートやベテラン約300人をHAMへ応援に出し、米国調達の設備で量産上の課題を改善
- [17]1982年11月1日 アコード第1号車ラインオフ、操業開始1年半後に2直・日産600台のフル生産
- 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(21巻12号)篠宮茂
- [15]狭山工場はオハイオ工場のマザー工場で、エンジンと足回り部品を供給し、狭山の2本の生産ラインに対し3本目がオハイオにあるという方式
1983年〜久米是志体制への移行と、HAM年産32万台までの増産
1983年9月、創立35周年を機に河島喜好氏が退き、久米是志氏が社長を継いだ。河島氏の10年で年間売上高は3,667億円から1兆8,342億円へ、輸出額は2,000億円から1兆2,400億円へ増えた。海外の生産拠点も12工場から49工場に広がった。その一方で、米国向けの乗用車は輸出自主規制の枠の中で送られていた。篠宮茂副社長は1983年11月、規制が続いても輸出枠にオハイオの年産15万台を加え、米国への供給を50万台強とすることを第一の目標に掲げた。二輪でも米国がハーレー保護の高率関税を課したが、HAMで年6万台つくる機種は関税の対象から外れた。米国での現地生産は、輸出の枠と関税の外に供給の置き場を確保する手段になった。
- 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(21巻12号)篠宮茂
- [18]1983年9月の創立35周年を機に河島喜好社長が勇退して取締役最高顧問となり、久米是志氏が社長に就任
- [19]河島社長時代の10年で売上高3,667億円→1兆8,342億円、輸出額2,000億円→1兆2,400億円
- [20]河島社長時代の10年で海外生産拠点は12工場→49工場
- [22]オハイオ工場がフル生産で年産15万台となれば、規制が続いても現地生産分を加えて米国供給50万台強とし、これを第1目標とする方針
- [23]米国の二輪車高率関税(初年度45%・2年目35%)に対し、HAMで年6万台生産する機種は規制対象外
- DECIDE 1987年11月号
- [21]本田技研工業は対米輸出自主規制の下で米国市場へ乗用車を送っていた
HAMの四輪生産は1985年に15万台、1986年に23万台となり、1987年には年産32万台の水準に達した。1986年4月には第2ラインが動き、年産30万台の体制に移っていた。増産の速さを決めていたのは販売側の計画である。入交昭一郎HAM社長によれば、アメリカン・ホンダのアキュラ店が年に約150店ずつ増え、それに合わせて年8万台ずつ生産を足していた。ただ円高で、同じ区分の車はビッグ3のほうが1000ドルから1500ドル安くなり、ホンダも1台あたりの利益が大きく縮小していた。現地の生産量を増やすことは、為替で失った価格面の余地を取り戻す手段でもあったと推察される。
- DECIDE 1987年11月号
- [24]HAMの四輪生産は2年前(1985年)15万台、1986年23万台、1987年32万台と毎年約8万台ずつ増加
- [26]アメリカン・ホンダのアキュラ店が年約150店ずつ増え、それに合わせ年8万台ずつ生産を増やす計画
- [27]円高で同じカテゴリーの車はビッグ3の方が1000〜1500ドル安く、ホンダも1台あたり利益を大きく減らさざるを得なくなった
- 本田技研工業公式サイト「語り継ぎたいこと ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング設立」(2021年1月時点)
- [25]1986年4月 HAM四輪工場の第2ラインが操業を開始し年産30万台体制に移行
1987年、HAMに年産15万台の第2工場を新設する計画が発表され、北米の生産能力は50万台を超える見通しとなった。2年前に国内での新工場建設を検討して断念しており、その投資が米国へ回った形である。同年9月には5項目の北米戦略を示し、60%だった部品の現地調達率を1991年までに75%へ上げる目標を置いた。開発の側でも、1984年9月に設けたホンダ・リサーチ・オブ・アメリカが米国での自立に向けた役を担い始めた。輸出と合わせた米国への供給能力は年100万台規模となり、1986年の国内乗用車販売の約50万台を大きく上回った。1986年度の輸出高比率は71.1%で日本企業の首位だった。1988年にはオハイオ製のアコードクーペを日本で売り出した。
- DECIDE 1987年11月号
- [28]1987年 HAMに年産15万台の第2工場新設を発表、カナダ工場を含め北米生産能力は50万台超へ
- [32]第2工場稼働で米国市場への年間供給能力は100万台に達し、1986年の国内乗用車販売約50万台を上回る
- 日経ビジネス 1987年12月21日号
- [29]2年前に国内の需要増に対し国内新工場の建設を検討したが断念し、米国第2工場につながった
- 本田技研工業公式サイト「語り継ぎたいこと ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング設立」(2021年1月時点)
- [30]1987年9月 ファイブパート・ストラテジーを発表し、60%の部品現地調達率を1991年までに75%へ引き上げる目標
- [31]1984年9月 自立化に向けた体制づくりとしてホンダ・リサーチ・オブ・アメリカ(HRA)を設立
- 日本産業史(日経文庫、日本経済新聞社編、1994年)第4巻 通史「輸入の活用と国際分業」
- [33]1986年度の日本企業の輸出高比率で本田技研工業が71.1%と最も高い
- 本田技研工業公式サイト「Hondaの歩み 1980」(2006年11月時点)
- [34]1988年 アメリカ製アコードクーペを日本で販売開始
参考文献[18]-[34]
- 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(21巻12号)篠宮茂
- [18]1983年9月の創立35周年を機に河島喜好社長が勇退して取締役最高顧問となり、久米是志氏が社長に就任
- [19]河島社長時代の10年で売上高3,667億円→1兆8,342億円、輸出額2,000億円→1兆2,400億円
- [20]河島社長時代の10年で海外生産拠点は12工場→49工場
- [22]オハイオ工場がフル生産で年産15万台となれば、規制が続いても現地生産分を加えて米国供給50万台強とし、これを第1目標とする方針
- [23]米国の二輪車高率関税(初年度45%・2年目35%)に対し、HAMで年6万台生産する機種は規制対象外
- DECIDE 1987年11月号
- [21]本田技研工業は対米輸出自主規制の下で米国市場へ乗用車を送っていた
- [24]HAMの四輪生産は2年前(1985年)15万台、1986年23万台、1987年32万台と毎年約8万台ずつ増加
- [26]アメリカン・ホンダのアキュラ店が年約150店ずつ増え、それに合わせ年8万台ずつ生産を増やす計画
- [27]円高で同じカテゴリーの車はビッグ3の方が1000〜1500ドル安く、ホンダも1台あたり利益を大きく減らさざるを得なくなった
- [28]1987年 HAMに年産15万台の第2工場新設を発表、カナダ工場を含め北米生産能力は50万台超へ
- [32]第2工場稼働で米国市場への年間供給能力は100万台に達し、1986年の国内乗用車販売約50万台を上回る
- [25]1986年4月 HAM四輪工場の第2ラインが操業を開始し年産30万台体制に移行
- 日経ビジネス 1987年12月21日号
- [29]2年前に国内の需要増に対し国内新工場の建設を検討したが断念し、米国第2工場につながった
- [30]1987年9月 ファイブパート・ストラテジーを発表し、60%の部品現地調達率を1991年までに75%へ引き上げる目標
- [31]1984年9月 自立化に向けた体制づくりとしてホンダ・リサーチ・オブ・アメリカ(HRA)を設立
- 日本産業史(日経文庫、日本経済新聞社編、1994年)第4巻 通史「輸入の活用と国際分業」
- [33]1986年度の日本企業の輸出高比率で本田技研工業が71.1%と最も高い
- [34]1988年 アメリカ製アコードクーペを日本で販売開始
1987年〜BL提携から入った欧州と、ホンダノースアメリカ・ホンダモーターヨーロッパの統轄
欧州では販売の網づくりが生産より先に進んだ。西独では1977年のアコード投入で需要が付き、1980年1〜7月に1万7500台を売って日本車の首位となり、販売店は約600店に広がった。しかし同年10月初めには日本の大手が西独向けの輸出自主規制に入り、輸出で量を伸ばす余地は狭まった。生産の足場は、自前の工場ではなく英国メーカーとの提携から得た。1979年12月に英国のブリティッシュ・レイランド(BL)と技術提携を結び、欧州での四輪生産に踏み出していた。1987年時点では、後身のオースチン・ローバー・グループ(ARG)とレジェンドに続いて小型車YYを共同開発していた。その一環として、英国に自前のエンジン工場も建てていた。
- 日経ビジネス 1980年10月20日号
- [35]西独では1977年のアコード投入で手応えが出て、1980年1〜7月にアコードが1万7500台で日本車トップセラー、乗用車販売店は約600店
- [36]1980年10月初旬 日本の大手自動車メーカーが西独向け輸出の自主規制を実施
- 本田技研工業公式サイト「語り継ぎたいこと ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング設立」(2021年1月時点)
- [37]1979年12月 英ブリティッシュ・レイランド(BL)と技術提携し欧州での四輪車生産の第一歩とした
- 日経ビジネス 1987年12月21日号
- [38]1987年時点で英ARG(旧BL)とレジェンドに続き小型車YYを共同開発
- [39]YYプロジェクトの一環として英国に独自のエンジン工場を建設中
英国のエンジン工場は、ARGへ供給し、余りをオハイオへ送る計画で建てられた。1989年7月13日、その隣に四輪の組立工場を建てる計画が日英同時に発表された。組立工場はスインドンにあるホンダ・オブ・ザ・UK・マニュファクチャリング(HUM)のエンジン工場の隣に置く。1992年秋に生産を始めて1993年後半に年産10万台とし、投資は3億ポンド(約660億円)を超える見通しだった。同時にローバー・グループがHUMの株式の20%を取り、本田側もローバーの株式20%を持つ相互出資に入った。久米是志社長は英国の貿易産業相と、本格稼働から1年半以内に部品の現地調達率を80%とする覚書を交わした。欧州車として扱われる条件を、工場が動く前に約束した形である。
- 日経ビジネス 1987年12月21日号
- [40]英国のエンジン工場はARGへエンジンを供給し、余裕分はオハイオ工場へ送る計画
- DECIDE 1989年(7巻5号)
- [41]1989年7月13日 英国での四輪車生産計画を英国と同時に記者発表
- [42]ウィルトシャー州スインドンのHUMのエンジン工場に隣接して四輪組立工場を建設
- [43]1992年秋生産開始・1993年後半に年産10万台、投資総額3億ポンド(約660億円)超の見通し
- [44]ローバーがHUMの株式20%を取得し、本田側もローバーの株式20%を取得する資本提携
- [45]久米是志社長が英国貿易産業相と、本格稼働から1年半以内に部品調達率80%とする覚書に調印
北米と欧州の拠点が増えると、地域ごとに統括する会社が置かれた。1987年3月に北米子会社を統轄するホンダノースアメリカを米国に、1989年8月に欧州子会社を統轄するホンダモーターヨーロッパを英国に設けた。背景には、親会社と子会社を上下の関係でとらえると意思疎通が一方向になるという久米社長の問題意識があった。1987年末には、日本と米国の事業を分け、両方を統べる本社をその上に置く案が役員の間で議論されていた。アメリカン・ホンダの茅野徹郎社長も、日米欧の3社を並べて上から統括する体制を将来像に挙げていた。統轄会社の設立は、この構想を地域の単位で先に形にしたものだったのだろう。
- 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
- [46]1987年3月 米国に北米子会社事業を統轄するホンダノースアメリカ、1989年8月 英国に欧州子会社事業を統轄するホンダモーターヨーロッパを設立
- 日経ビジネス 1987年12月21日号
- [47]親会社と子会社の上下関係ではコミュニケーションが一方的になるため、互いに独自性を持つ新しい組織形態をつくりたいという久米是志社長の考え
- [48]1987年12月時点で役員室では、日本と米国のホンダを分離しその上に統括するヘッドクォーターを置く案が浮上
- DECIDE 1987年11月号
- [49]茅野徹郎アメリカン・ホンダ社長は、日米欧の3社が併立しそれを統括する形を将来像として語った
参考文献[35]-[49]
- 日経ビジネス 1980年10月20日号
- [35]西独では1977年のアコード投入で手応えが出て、1980年1〜7月にアコードが1万7500台で日本車トップセラー、乗用車販売店は約600店
- [36]1980年10月初旬 日本の大手自動車メーカーが西独向け輸出の自主規制を実施
- [37]1979年12月 英ブリティッシュ・レイランド(BL)と技術提携し欧州での四輪車生産の第一歩とした
- 日経ビジネス 1987年12月21日号
- [38]1987年時点で英ARG(旧BL)とレジェンドに続き小型車YYを共同開発
- [39]YYプロジェクトの一環として英国に独自のエンジン工場を建設中
- [40]英国のエンジン工場はARGへエンジンを供給し、余裕分はオハイオ工場へ送る計画
- [47]親会社と子会社の上下関係ではコミュニケーションが一方的になるため、互いに独自性を持つ新しい組織形態をつくりたいという久米是志社長の考え
- [48]1987年12月時点で役員室では、日本と米国のホンダを分離しその上に統括するヘッドクォーターを置く案が浮上
- DECIDE 1989年(7巻5号)
- [41]1989年7月13日 英国での四輪車生産計画を英国と同時に記者発表
- [42]ウィルトシャー州スインドンのHUMのエンジン工場に隣接して四輪組立工場を建設
- [43]1992年秋生産開始・1993年後半に年産10万台、投資総額3億ポンド(約660億円)超の見通し
- [44]ローバーがHUMの株式20%を取得し、本田側もローバーの株式20%を取得する資本提携
- [45]久米是志社長が英国貿易産業相と、本格稼働から1年半以内に部品調達率80%とする覚書に調印
- 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
- [46]1987年3月 米国に北米子会社事業を統轄するホンダノースアメリカ、1989年8月 英国に欧州子会社事業を統轄するホンダモーターヨーロッパを設立
- DECIDE 1987年11月号
- [49]茅野徹郎アメリカン・ホンダ社長は、日米欧の3社が併立しそれを統括する形を将来像として語った
筆者考察
本田技研工業の米国進出が輸出の延長で終わらなかったのは、HAMの資本をアメリカン・ホンダに出させたからである。米国で得た利益を米国の工場に積み直す組み方では、オハイオの工場は日本の出先ではなく、米国の販売会社が自ら育てる生産部門になる。アキュラ店が年に150店増えればHAMが年8万台を足すという入交昭一郎氏の計算は、その関係を数字に置き換えたものだった。1985年に15万台だった生産は1987年に32万台となり、米国への供給能力は国内販売の2倍に達して、日本は2番目の市場になった。久米是志氏が親会社と子会社の上下関係を解こうとしたのは、事業の実態がすでにその先へ進んでいたからだろう。
欧州では同じ順序を踏めなかった。西独でアコードが日本車の首位に立った1980年に輸出は自主規制の枠に入り、販売の利益を工場へ回せるだけの量が欧州にはなかった。本田技研工業はBLとの技術提携から入り、ローバーとの相互出資と英国政府への調達率の約束を足場に、生産の場を先に確保した。北米ではアメリカン・ホンダの販売の伸びに合わせて生産を積み、欧州では提携先の工場と政府との約束を前提に生産を据えた。1987年と1989年に設けた2つの統轄会社は形こそ同じだが、その下にある事業の成り立ちは正反対だった。英国の組立工場が生産を始める予定は1992年秋で、欧州の統轄会社はそれより3年早く置かれた。
- 米国オハイオ州のホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング(HAM)の四輪車生産台数。1987年は同年6月の取材時点の年産水準。
- 出所はDECIDE 1987年11月号「米国に傾斜する"ホンダ・ウエー"総解剖 PART2 入交昭一郎・ホンダ・オブ・アメリカ社長インタビュー」。
1978年〜1989年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1978年02月期 | 単体 | 8,496 | n/a | 360 | 175 | 2.1% | n/a |
| 1979年02月期 | 単体 | 9,223 | +8.6% | 296 | 160 | 1.7% | 米国にホンダオブアメリカマニュファクチュアリングを設立(1978/03) |
| 1980年02月期 | 単体 | 10,694 | +15.9% | 489 | 237 | 2.2% | n/a |
| 1981年02月期 | 単体 | 13,449 | +25.8% | 502 | 301 | 2.2% | n/a |
| 1982年02月期 | 単体 | 15,441 | +14.8% | 472 | 243 | 1.6% | n/a |
| 1983年02月期 | 単体 | 17,469 | +13.1% | 506 | 313 | 1.8% | n/a |
| 1984年02月期 | 単体 | 18,460 | +5.7% | 534 | 246 | 1.3% | n/a |
| 1985年02月期 | 単体 | 19,295 | +4.5% | 655 | 327 | 1.7% | 米国にホンダ・リサーチ・オブ・アメリカを設立(1984/09)英国にホンダオブザUKマニュファクチュアリングを設立(1985/02) |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | メキシコにホンダ・デ・メキシコを設立(1985/09) |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
11件
- 本田技研工業 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
- 本田技研工業公式サイト「Hondaの歩み 1980」(2006年11月時点)
- 日本産業史(日経文庫、日本経済新聞社編、1994年)第4巻 通史「輸入の活用と国際分業」
- 日経ビジネス 1980年10月20日号
- 証券アナリストジャーナル 1983年12月号(21巻12号)篠宮茂
- DECIDE 1987年11月号
- 日経ビジネス 1987年12月21日号
- DECIDE 1989年(7巻5号)
- 日経新聞(1980年1月11日)
- 本田技研工業公式サイト「語り継ぎたいこと ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング設立」(2020年10月時点)
- 本田技研工業公式サイト「語り継ぎたいこと ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング設立」(2021年1月時点)