沖電気工業:第二会社沖電気工業の設立と情報機器への転換
電電公社依存から沖ユニバック合弁後の端末特化へ
1949年〜資本の9割を切り捨てて発足した第二会社
1946年8月の戦時補償打切りによって、沖電気は特別経理会社に指定された。1949年4月29日の中央経営協議会で、神戸捨二専務は整備案を示した。案の骨子は、企業の規模を実情に見合うところまで縮め、余剰となる人員を減らしてから第二会社を立ち上げることにあった。一方、総資産3億7946万9000円を新勘定1億1699万9000円と旧勘定2億6247万円に分け、政府納品代金や喪失在外資産を抱える旧勘定を整理すると、特別損失は1億7852万6000円、分離前の総資産の47%にのぼる見込みだった。経営の直接の責任によるものとは言いにくいこの損失を、以後の収益で埋め合わせるのはできない相談だった。整備後に要る人員は3872名とされ、当時の総人員6691名のうち42%にあたる2819名は整理せざるを得ないと結論づけた。
- 沖電気100年のあゆみ(沖電気工業, 1981)
- [1]1946年8月の戦時補償打切りにともない政府は該当企業を特別経理会社に指定し、同月11日をもって打切り決算を行なわせた
- [2]1949年4月29日の中央経営協議会で神戸捨二専務が示した整備案は、企業規模の縮小と過剰人員の整理を経て第二会社を設立するものだった
- [3]沖電気の打切り決算は総資産3億7946万9000円を新勘定1億1699万9000円と旧勘定2億6247万円に分離し、特別損失は1億7852万6000円で分離前総資産の47%と見込まれた
- [4]会社経営の直接責任とはいえない特別損失をその後の利益で償却することは無理であり、政府は1946年10月に企業再建整備法を公布した
- [5]整備後の所要人員は3872名で、総人員6691名の42%にあたる2819名の整理はやむを得ないとの結論に達した
組合は大量の人員整理を含む整備計画に全面的に反対したが、会社は1949年5月24日に整理対象者の氏名を発表し、49日間におよんだ争議は6月17日に終わった。計画の実施には1億5000万円の資金が必要で、その大半を富士銀行が引き受け、残りを協和・埼玉・帝国・神戸・福岡の5行が分け合う協調融資が成立した。新勘定を引き継いだ1946年から第二会社の発足までに積み上がった借入金は7億7000万円にのぼり、その大部分も同じ銀行からの借入れであった。整備案を説明した神戸氏は1925年に安田銀行へ入り、1945年11月に沖電気の常務となった人物で、富士銀行の金子鋭副頭取とは安田銀行時代からの親友だった。1949年11月1日、沖電気株式会社は解散し、稼動資産を引き継いだ沖電気工業株式会社が資本金1億8000万円で設立された。
- 沖電気100年のあゆみ(沖電気工業, 1981)
- [6]組合は整備計画に全面反対したが会社は1949年5月24日に整理対象者の氏名を発表し、49日間の争議は6月17日に終わった
- [7]整備計画の実施に必要な1億5000万円は大半を富士銀行が引き受け、協和・埼玉・帝国・神戸・福岡を加えた六行協調融資が成立した
- [8]1946年に新勘定を引き継いでから第二会社発足までの借入金は7億7000万円で、大部分が富士銀行からの借入れだった
- [9]神戸捨二は1925年に安田銀行へ入り1945年11月に沖電気常務となった人物で、富士銀行の金子鋭副頭取とは安田銀行時代からの親友だった
- 会社銀行八十年史(1955)
- [10]1949年11月1日に沖電気株式会社が解散し、稼動資産を引き継いだ第二会社沖電気工業株式会社が資本金1億8000万円で設立された
- 沖電気工業 有価証券報告書【沿革】
- [11]企業再建整備法にもとづき1949年11月に沖電気が解散し、第二会社として沖電気工業が設立された
品質管理の権威である西堀栄三郎博士を沖電気工業が品川工場に迎えたのは1949年10月で、博士の指導を受けたダイヤル工場では3カ月のうちに不良率が半分になった。これに先立つ1948年10月、GHQの民間通信局は逓信省と通信機業界の両方に、検査制度をつくるよう求めていた。納める機器は一つ残らず逓信省の定めた仕様書に従わせ、合格しない品は受け取らないという仕組みである。その一方で合格品には、かかった代価を支払うことを義務とし、品質への高い要求と適正な利潤の保証を抱き合わせた。この関係は後に電電公社とメーカーの間へと引き継がれている。1950年6月には品川工場の改良課と蕨工場の生産技術課に品質管理係が置かれた。特別損失は株主が5400万円、一般債権者が1億2452万6000円を負担して補塡され、清算が完了した1952年には生産能力が月額3億円を上回るまでに戻っていた。
- 沖電気100年のあゆみ(沖電気工業, 1981)
- [12]1949年10月に西堀栄三郎博士を品川工場に招いて指導を受け、ダイヤル工場で3カ月間に不良率が半減した
- [13]1948年10月にGHQ民間通信局は逓信省と通信機業界へ納入品契約協定の特別指示を行ない、仕様書にもとづく検査で不合格品は納入させない制度を求めた
- [14]合格品については要した代価の支払いを義務づけ、高い品質の要求と適正な利潤の保証を同時に定めた
- [15]逓信省と通信機メーカーのこの関係はのちの電電公社とメーカーの間にも受け継がれた
- [16]1950年6月に品川工場の改良課と蕨工場の生産技術課へ品質管理係が設けられた
- [17]特別損失1億7852万6000円は株主5400万円(資本金の90%切捨て)と一般債権者1億2452万6000円(債権の40.86%切捨て)の負担で補塡され、清算完了は1952年5月29日だった
- 会社銀行八十年史(1955)
- [18]第二会社の発足後は新型電話機を完成させるなど生産・技術ともに進展し、生産能力は月額3億円を上回るに至った
参考文献[1]-[18]
- 沖電気100年のあゆみ(沖電気工業, 1981)
- [1]1946年8月の戦時補償打切りにともない政府は該当企業を特別経理会社に指定し、同月11日をもって打切り決算を行なわせた
- [2]1949年4月29日の中央経営協議会で神戸捨二専務が示した整備案は、企業規模の縮小と過剰人員の整理を経て第二会社を設立するものだった
- [3]沖電気の打切り決算は総資産3億7946万9000円を新勘定1億1699万9000円と旧勘定2億6247万円に分離し、特別損失は1億7852万6000円で分離前総資産の47%と見込まれた
- [4]会社経営の直接責任とはいえない特別損失をその後の利益で償却することは無理であり、政府は1946年10月に企業再建整備法を公布した
- [5]整備後の所要人員は3872名で、総人員6691名の42%にあたる2819名の整理はやむを得ないとの結論に達した
- [6]組合は整備計画に全面反対したが会社は1949年5月24日に整理対象者の氏名を発表し、49日間の争議は6月17日に終わった
- [7]整備計画の実施に必要な1億5000万円は大半を富士銀行が引き受け、協和・埼玉・帝国・神戸・福岡を加えた六行協調融資が成立した
- [8]1946年に新勘定を引き継いでから第二会社発足までの借入金は7億7000万円で、大部分が富士銀行からの借入れだった
- [9]神戸捨二は1925年に安田銀行へ入り1945年11月に沖電気常務となった人物で、富士銀行の金子鋭副頭取とは安田銀行時代からの親友だった
- [12]1949年10月に西堀栄三郎博士を品川工場に招いて指導を受け、ダイヤル工場で3カ月間に不良率が半減した
- [13]1948年10月にGHQ民間通信局は逓信省と通信機業界へ納入品契約協定の特別指示を行ない、仕様書にもとづく検査で不合格品は納入させない制度を求めた
- [14]合格品については要した代価の支払いを義務づけ、高い品質の要求と適正な利潤の保証を同時に定めた
- [15]逓信省と通信機メーカーのこの関係はのちの電電公社とメーカーの間にも受け継がれた
- [16]1950年6月に品川工場の改良課と蕨工場の生産技術課へ品質管理係が設けられた
- [17]特別損失1億7852万6000円は株主5400万円(資本金の90%切捨て)と一般債権者1億2452万6000円(債権の40.86%切捨て)の負担で補塡され、清算完了は1952年5月29日だった
- 会社銀行八十年史(1955)
- [10]1949年11月1日に沖電気株式会社が解散し、稼動資産を引き継いだ第二会社沖電気工業株式会社が資本金1億8000万円で設立された
- [18]第二会社の発足後は新型電話機を完成させるなど生産・技術ともに進展し、生産能力は月額3億円を上回るに至った
- 沖電気工業 有価証券報告書【沿革】
- [11]企業再建整備法にもとづき1949年11月に沖電気が解散し、第二会社として沖電気工業が設立された
1952年〜電電公社の五カ年計画がつくった官需と、群馬・埼玉の生産拠点
1952年8月、日本電信電話公社が発足し、明治2年の電信創業以来80年つづいた官営の電気通信が幕を閉じた。1953年3月の時点で電話加入者は155万、その自動化率は41.5%にとどまり、架設申込みの積滞は34万を超えていた。1953年度から始まった第一次五カ年計画は、5年間で2772億円を投じ、加入電話70万と市外回線118万キロメートルを増設するというものだった。沖電気工業の第9回営業報告書は、公社の計画の初年度にあたる1953年度下期について、売上高約20億6000万円、純益約2億300万円と報告している。第二会社の発足直後にあたる1952年3月期に28億円だった年間の売上高は、1954年3月期には40億円へ伸びた。公社の計画は、通信機メーカーにとって需要の総量があらかじめ示されたことを意味した。
- 沖電気100年のあゆみ(沖電気工業, 1981)
- [19]1952年8月に日本電信電話公社が誕生し、明治2年の電信創業以来80年つづいた官営電気通信が幕を閉じた
- [20]1953年3月時点の電話加入者は155万、自動化率41.5%、電話機総数225万個で、架設申込みの積滞は34万を超えていた
- [21]1953年度からの第一次五カ年計画は5年間で2772億円を投じ、加入電話70万・公衆電話1万5000・市外回線118万キロメートルを増設するものだった
- [22]沖電気工業第9回営業報告書は1953年10月から1954年3月の売上高を約20億6000万円、純益を約2億300万円と報告した
- 上場会社総覧(1956年版)
- [23]沖電気工業の売上高は1952年3月期28億円、1954年3月期40億円
1958年11月、沖電気工業は情報処理装置を生産する高崎事業所を群馬県高崎市に開設した。電子事務機部門の専門工場である。1960年にはクロスバ交換機を増産するため品川工場にクロスバ工場を設け、翌1961年には高崎・芝浦の両工場を増設して八王子市に電子機器工場を建てた。1962年5月には埼玉県本庄市へ有線通信機の本庄事業所を開設した。製品ごとに拠点を割るこの投資は売上に表れ、1957年3月期に49億円だった売上高は1960年3月期に85億円、1963年3月期には211億円へ達した。資金を調達する場も広がり、1951年11月の東京証券取引所上場に続いて、1961年7月に大阪証券取引所へ上場した。
- 沖電気工業 有価証券報告書【沿革】
- [24]1958年11月に情報処理装置生産のため群馬県高崎市に高崎事業所を開設した
- [27]1962年5月に電子通信装置生産のため埼玉県本庄市に本庄事業所を開設した
- [29]1951年11月に東京証券取引所へ、1961年7月に大阪証券取引所へ上場した
- 企業の歴史 明治百年(1968)
- [25]1958年に電子事務機部門の専門工場として高崎工場を建設した
- [26]1960年にクロスバ交換機増産のため品川工場にクロスバ工場を、1961年に高崎・芝浦各工場を増設し八王子市に電子機器工場を建設した
- 上場会社総覧(1959年版・1961年版)・会社年鑑(1967年版)
- [28]沖電気工業の売上高は1957年3月期49億円、1960年3月期85億円、1963年3月期211億円
電子計算機は本体だけでは機能せず、データ伝送装置と入出力装置が揃ってはじめて役に立つ。国産化の進め方を話し合う場として、1955年、財団法人電波技術協会の中に電子計算機調査委員会が置かれ、学界、通産省電気試験所、電電公社通信研究所、産業界から委員が集まった。目標は、IBMが当時主力としていた650形と肩を並べる国産機である。第一世代は飛ばしてトランジスタかパラメトロンを用いる第二世代の試作研究から始め、通産省電気試験所を軸に沖・日本電気・日立・富士通・東芝・三菱・松下の7社で作業を分け、研究費は政府が一部を補うと決めた。沖電気工業はその後、中型機OKITAC-5090の6機種を開発し、受注は1000台に近づいた。入出力装置に実績を持つこの会社にとって、電子計算機は本体から入るしかない市場ではなかった。
- 沖電気100年のあゆみ(沖電気工業, 1981)
- [30]電子計算機は本体だけでなくデータ伝送装置と入出力装置がそろって初めて有効に働く
- [31]1955年に財団法人電波技術協会へ電子計算機調査委員会が設けられ、学界・通産省電気試験所・電電公社通信研究所・産業界から委員が選ばれた
- [32]委員会はIBM650形に追いつく国産機を目標に、第二世代から試作研究を始め、電気試験所を中心に沖・日電・日立・富士通・東芝・三菱・松下の7社が分担して政府が研究費の一部を補助すると決めた
- 企業の歴史 明治百年(1968)
- [33]沖電気は独自技術で中型電算機OKITAC-5090のA・B・C・D・Mなど6機種を開発し、1000台近い受注実績を持った
参考文献[19]-[33]
- 沖電気100年のあゆみ(沖電気工業, 1981)
- [19]1952年8月に日本電信電話公社が誕生し、明治2年の電信創業以来80年つづいた官営電気通信が幕を閉じた
- [20]1953年3月時点の電話加入者は155万、自動化率41.5%、電話機総数225万個で、架設申込みの積滞は34万を超えていた
- [21]1953年度からの第一次五カ年計画は5年間で2772億円を投じ、加入電話70万・公衆電話1万5000・市外回線118万キロメートルを増設するものだった
- [22]沖電気工業第9回営業報告書は1953年10月から1954年3月の売上高を約20億6000万円、純益を約2億300万円と報告した
- [30]電子計算機は本体だけでなくデータ伝送装置と入出力装置がそろって初めて有効に働く
- [31]1955年に財団法人電波技術協会へ電子計算機調査委員会が設けられ、学界・通産省電気試験所・電電公社通信研究所・産業界から委員が選ばれた
- [32]委員会はIBM650形に追いつく国産機を目標に、第二世代から試作研究を始め、電気試験所を中心に沖・日電・日立・富士通・東芝・三菱・松下の7社が分担して政府が研究費の一部を補助すると決めた
- 上場会社総覧(1956年版)
- [23]沖電気工業の売上高は1952年3月期28億円、1954年3月期40億円
- 沖電気工業 有価証券報告書【沿革】
- [24]1958年11月に情報処理装置生産のため群馬県高崎市に高崎事業所を開設した
- [27]1962年5月に電子通信装置生産のため埼玉県本庄市に本庄事業所を開設した
- [29]1951年11月に東京証券取引所へ、1961年7月に大阪証券取引所へ上場した
- 企業の歴史 明治百年(1968)
- [25]1958年に電子事務機部門の専門工場として高崎工場を建設した
- [26]1960年にクロスバ交換機増産のため品川工場にクロスバ工場を、1961年に高崎・芝浦各工場を増設し八王子市に電子機器工場を建設した
- [33]沖電気は独自技術で中型電算機OKITAC-5090のA・B・C・D・Mなど6機種を開発し、1000台近い受注実績を持った
- 上場会社総覧(1959年版・1961年版)・会社年鑑(1967年版)
- [28]沖電気工業の売上高は1957年3月期49億円、1960年3月期85億円、1963年3月期211億円
1963年〜本体を沖ユニバックへ渡し、端末と周辺機器で立った道
1963年11月、沖電気工業は出資比率51%、スペリーランド社49%の合弁会社として沖ユニバックを設立した。通産省を仲介に始まった交渉で、スペリーランド社は単なる技術提携ではなく合弁によるユニバック・ブランドの生産を主張して譲らず、首脳陣は大型機への進出を断念するか合弁で拠点を残すかの二択を迫られていた。ユニバックのコンピュータは金融機関のオンラインでIBMのシェアをしのいでいた。沖電気工業もテレタイプからオキタイパに至るまで金融機関に大きなシェアを持ち、本体にユニバックの大型機、周辺機器に自社製という組合わせが成り立った。合弁と引き換えに競合するOKITAC-5090の生産は中止となり、開発に当たったスタッフの一部は高崎事業所の小型機開発へ、残りは芝浦事業所の電子交換機研究へ移った。
- 沖電気100年のあゆみ(沖電気工業, 1981)
- [34]1963年11月に沖電気51%・スペリーランド49%の出資比率で合弁会社沖ユニバック株式会社が設立された
- [35]通産省を仲介とする交渉でスペリーランド社は合弁会社形式を譲らず、沖電気の首脳陣は大型コンピュータへの進出断念か合弁による拠点確保かの決断を迫られた
- [36]ユニバック社のコンピュータは金融機関のオンラインに強く、金融機関ではIBM社のシェアをしのいでいた
- [37]沖電気はテレタイプからオキタイパ、オキデックスに至るまで金融機関に大きなシェアを持ち、本体にユニバックの大型機・周辺機器に沖電気という組合わせが考えられた
- [38]沖電気は競合するOKITAC-5090の生産を中止し、開発スタッフの一部は高崎事業所の小型コンピュータ開発へ、他は芝浦事業所の電子交換機研究へ移った
沖電気工業が開発の担い手に選ばれた。同社は全店テレタイプシステムを手がけた経験があり、ユニバック社とも手を組んでいた。発注元の富士銀行では普通預金口座が1960年の125万から1965年に200万へ増え、取引ごとに元帳カードを抜き出して書き込み、また戻す手間が事務を圧迫していた。1964年末、同行のセンターのコンピュータにはUNIVAC418が選ばれたが、端末は米国製を入れなかった。米国の銀行業務は小切手処理が中心で、日本の普通預金をオンラインで扱うのに合う装置がなく、また支店の多い日本では端末の費用が本体を超えてしまうためだった。高崎事業所では試作機を3回も4回もつくり、30項目におよぶ改良注文に応えて1964年にオキセイバを完成させた。1967年12月、富士銀行目黒支店で普通預金のオンライン業務が始まり、同年中に都内13支店へ広がった。
- 沖電気100年のあゆみ(沖電気工業, 1981)
- [39]富士銀行は全店テレタイプシステムの実績とユニバック社との協力関係から、窓口用端末装置の開発者に沖電気を選んだ
- [40]富士銀行の普通預金口座は1960年に125万、1965年に200万となり、取引ごとの元帳カードの抜き取りと記帳が事務負担になっていた
- [41]1964年末に富士銀行はセンターのコンピュータとしてUNIVAC418を採用したが、端末装置は米国から購入しなかった
- [42]小切手処理中心の米国には日本の普通預金オンライン処理に適した装置がなく価格も高いうえ、支店数が多いため端末装置の費用がセンターのコンピュータより高くつく事情があった
- [43]高崎事業所を中心に試作機を3回も4回もつくり30項目の改良注文に応えて、1964年にオキセイバを完成させた
- [44]1967年12月に富士銀行目黒支店で普通預金オンライン業務が始まり、同年中に都内13支店へ広がった
1963年度上期、沖電気工業は配当を1割5分から1割3分へ、1965年にはさらに1割へ引き下げた。減配に踏み切った1963年度上期当時の年間売上は220億円、税込利益は17億円だった。そこから6年を経て売上は倍増以上となったが、利益の増加は23%にとどまった。低収益の原因は費用の構造にあった。売上に対する人件費の比率は1963年の約15%から1966年には20%へ上がり、資本費率も9%から11.5%へ上昇していた。1969年3月期の売上高は470億円、当期純利益は13億円である。過去3回にわたり策定した長期計画の実績はいずれも目標を下回っており、1968年度からの長期計画は1972年度の売上目標を820億円に置いた。官需で復元した規模は、官需の伸びを超えては伸びなかった。
- 証券アナリストジャーナル 1969年3月 山本正明
- [45]1963年度上期に配当を1割5分から1割3分へ、1965年に1割へ減配し、以後低迷が続いた
- [46]1963年度上期当時の年間売上220億円・税込利益17億円に対し、6年を経て売上は倍増以上となったが利益は23%増にとどまった
- [47]1963年度上期当時の年間売上220億円・税込利益17億円に対し、6年を経て売上は倍増以上となったが利益は23%増にとどまった
- [48]低収益の原因は人件費の急増と、金利および償却負担に耐え得る売上増がなかったことにあった
- [49]売上対比の人件費率は1963年の約15%から1966年に20%へ、資本費率は約9%から11.5%へ上昇した
- [51]過去3回策定した長期計画の実績は常に目標を下回っており、1968年度からの長期計画では1972年度の売上目標を820億円、税込利益目標を73億円とした
- 会社年鑑(1971年版)
- [50]沖電気工業の1969年3月期の売上高は470億円、当期純利益は13億円
参考文献[34]-[51]
- 沖電気100年のあゆみ(沖電気工業, 1981)
- [34]1963年11月に沖電気51%・スペリーランド49%の出資比率で合弁会社沖ユニバック株式会社が設立された
- [35]通産省を仲介とする交渉でスペリーランド社は合弁会社形式を譲らず、沖電気の首脳陣は大型コンピュータへの進出断念か合弁による拠点確保かの決断を迫られた
- [36]ユニバック社のコンピュータは金融機関のオンラインに強く、金融機関ではIBM社のシェアをしのいでいた
- [37]沖電気はテレタイプからオキタイパ、オキデックスに至るまで金融機関に大きなシェアを持ち、本体にユニバックの大型機・周辺機器に沖電気という組合わせが考えられた
- [38]沖電気は競合するOKITAC-5090の生産を中止し、開発スタッフの一部は高崎事業所の小型コンピュータ開発へ、他は芝浦事業所の電子交換機研究へ移った
- [39]富士銀行は全店テレタイプシステムの実績とユニバック社との協力関係から、窓口用端末装置の開発者に沖電気を選んだ
- [40]富士銀行の普通預金口座は1960年に125万、1965年に200万となり、取引ごとの元帳カードの抜き取りと記帳が事務負担になっていた
- [41]1964年末に富士銀行はセンターのコンピュータとしてUNIVAC418を採用したが、端末装置は米国から購入しなかった
- [42]小切手処理中心の米国には日本の普通預金オンライン処理に適した装置がなく価格も高いうえ、支店数が多いため端末装置の費用がセンターのコンピュータより高くつく事情があった
- [43]高崎事業所を中心に試作機を3回も4回もつくり30項目の改良注文に応えて、1964年にオキセイバを完成させた
- [44]1967年12月に富士銀行目黒支店で普通預金オンライン業務が始まり、同年中に都内13支店へ広がった
- 証券アナリストジャーナル 1969年3月 山本正明
- [45]1963年度上期に配当を1割5分から1割3分へ、1965年に1割へ減配し、以後低迷が続いた
- [46]1963年度上期当時の年間売上220億円・税込利益17億円に対し、6年を経て売上は倍増以上となったが利益は23%増にとどまった
- [47]1963年度上期当時の年間売上220億円・税込利益17億円に対し、6年を経て売上は倍増以上となったが利益は23%増にとどまった
- [48]低収益の原因は人件費の急増と、金利および償却負担に耐え得る売上増がなかったことにあった
- [49]売上対比の人件費率は1963年の約15%から1966年に20%へ、資本費率は約9%から11.5%へ上昇した
- [51]過去3回策定した長期計画の実績は常に目標を下回っており、1968年度からの長期計画では1972年度の売上目標を820億円、税込利益目標を73億円とした
- 会社年鑑(1971年版)
- [50]沖電気工業の1969年3月期の売上高は470億円、当期純利益は13億円
筆者考察
第二会社という制度は、損失を株主と債権者に負わせて会社を軽くする仕組みだった。沖電気の場合、株主は資本金の9割を、一般債権者は債権の4割を切り捨てられ、6691名のうち2819名が職を失った。そこまでして残したのは、電話機と交換機をつくる技術と、逓信省という買い手との取引関係である。1952年に日本電信電話公社が発足し、第一次五カ年計画が2772億円の投資を宣言したとき、その取引関係は資産に変わった。1952年3月期に28億円だった売上高が1963年3月期に211億円へ伸びた過程は、自力で市場を開いた過程ではなく、公社の設備投資計画を生産計画へ翻訳した過程だった。
官需が支えるかぎり、伸びの上限は公社の予算で決まる。沖電気工業が電子計算機へ近づいたのは、その上限の外へ出るためだった。ところがスペリーランド社との交渉で大型機の本体を合弁会社へ渡し、手元にはデータ伝送装置と入出力装置が残った。富士銀行のオキセイバは、残ったほうの技術が銀行のオンライン化という新しい買い手をつかんだ例である。しかし買い手が官から民へ広がっても、利益の構造は変わらなかった。1963年に売上220億円・税込利益17億円だった会社は、6年後に売上を倍以上にしながら、利益を23%しか増やせていない。
1949年〜1972年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | 28 | n/a | 4 | n/a | 3 | 10.7% | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 35 | +25.0% | 6 | n/a | 4 | 11.4% | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 40 | +14.3% | 6 | n/a | 4 | 10.0% | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 33 | ▲17.5% | 4 | n/a | 3 | 9.1% | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | 36 | +9.1% | 5 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 49 | +36.1% | 6 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 61 | +24.5% | 6 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 68 | +11.5% | 6 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 85 | +25.0% | 6 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 115 | +35.3% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 183 | +59.1% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 211 | +15.3% | n/a | n/a | 17 | 8.1% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 222 | +5.2% | n/a | n/a | 13 | 5.9% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 286 | +28.8% | n/a | n/a | 9 | 3.1% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 314 | +9.8% | n/a | n/a | 6 | 1.9% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 331 | +5.4% | n/a | n/a | 6 | 1.8% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 382 | +15.4% | n/a | n/a | 8 | 2.1% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 470 | +23.0% | n/a | n/a | 13 | 2.8% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 575 | +22.3% | n/a | n/a | 20 | 3.5% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 746 | +29.7% | n/a | 64 | 28 | 3.8% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 854 | +14.5% | n/a | 48 | 24 | 2.8% | n/a |
出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1956年版、1959年版)半期合算、上場会社総覧(1959年版)半期合算、上場会社総覧(1961年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算
出典・参考
8件
- 沖電気工業 有価証券報告書【沿革】
- 沖電気100年のあゆみ(沖電気工業, 1981)
- 会社銀行八十年史(1955)
- 上場会社総覧(1956年版)
- 上場会社総覧(1959年版・1961年版)・会社年鑑(1967年版)
- 企業の歴史 明治百年(1968)
- 会社年鑑(1971年版)
- 証券アナリストジャーナル 1969年3月 山本正明