武田薬品工業:ビタミンB1の合成と武田薬品工業への改称
1926年〜不況期に前倒しした設備と、統制が阻んだ原料の自給
昭和初期の不況は薬業界にも及び、武田長兵衛商店は販売に注力しながら経費の節減につとめた。ただし新規事業は不況時に企画するのが適当だという考えに立ち、投資は前倒しされた。1928年6月に道修町2丁目へ鉄筋コンクリート3階建の新社屋を構え、1930年に製薬工場の増築へ着手し、1931年には研究費を増額して新薬創製の研究を続けた。1933年に工場の一部が稼働すると、国産薬品の品目も数量も増えたため、増設にとどめず全面的な増改築に入った。あわせて新研究所の設置が必要となり、1935年2月に起工して翌年4月に完成している。研究所の人材養成と設備の充実、付属図書館の整備も、十三の製薬工場の近代化と並んで進められた。
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「昭和初期の当社」
- [1]昭和初期の不況下で販売に注力し経費を節減
- [2]新規事業は不況時に企画するのが適当との考え
- [3]1928年6月 道修町2丁目に鉄筋コンクリート3階建の新社屋が竣工
- [4]1930年 製薬工場の増築に着手/1931年 研究費を増額
- [5]1933年 工場の一部が稼働、国産薬品の品目・数量増で全面増改築へ
- [6]1935年2月 新研究所を起工、1936年4月完成
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [7]研究所の人材養成・設備充実・付属図書館の整備と十三製薬工場の近代化
局所麻酔薬の塩酸コカインは、原料のコカ葉をすべて輸入に依存していた。会社は大正4年に製造方法を確立し、品質から選んだジャワ産のコカ葉を現地商社を通じて買い付けていた。ところが昭和に入ると政府はコカ葉の輸入を認めず、台湾産のコカ葉と台湾で製造された粗製コカインを使うよう強いた。1927年3月に開いた台湾の嘉義薬草園ではコカの栽培が育苗しか許されず、原料の自給は台湾では成り立たなくなった。そこで1929年、沖縄県国頭郡羽地村に薬草園を開設し、買増しを重ねて約45町歩とした。ただし現地調査は水利・日照・台風・潮風を軸に行われ、土質の検討が二の次になったため、強酸性のやせ地が7割を占める土地だった。
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「薬草園の開設」
- [8]塩酸コカインの原料コカ葉は大正初期まで全量を輸入に依存
- [9]大正4年 コカインの製造方法を確立、ジャワ産コカ葉を現地商社経由で買付け
- [10]昭和期にコカ葉の輸入が許されず、台湾産コカ葉と台湾製粗製コカインの使用を強制
- [12]1929年 沖縄県国頭郡羽地村に薬草園を開設、買増しで約45町歩
- [13]沖縄の用地は強酸性のやせ地が7割、残りは湿地帯
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
- [11]1927年3月 台湾嘉義薬草園を開設、コカ栽培は育苗のみ許可
キナ樹の栽培も1933年以降に台湾で本格化し、竹山郡の規那園に続いて1935年に大武、1939年に関山の各規那園が開かれた。海外への出張所開設は1934年に始まり、1938年までに奉天・台北・大連・上海・京城・天津・広東・バンコック・ボンベイへ広がった。並行して研究部は化学研究部門に薬物学的研究部門を加え、大学の研究室の指導を受けて共同研究も行った。そこからホルモン・ビタミン製剤・駆虫剤・抗マラリア剤・利胆剤の分野が開かれ、1937年にビタミンC、1938年にビタミンB1の合成に成功し、1942年にはビタミンKが続いた。スルファミン剤など化学療法剤の製造にも着手している。外地の農園に求めた原料は戦後に失われ、残ったのは合成の技術のほうだった。
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「薬草園の開設」
- [14]1933年 台湾竹山郡の規那園、1935年 大武規那園、1939年 関山規那園を開設
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
- [15]1934年から1938年にかけて奉天・台北・大連・上海・京城・天津・広東・バンコック・ボンベイに出張所を開設
- [18]1937年ビタミンC、1938年ビタミンB1、1942年ビタミンKの合成に成功
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「昭和初期の当社」
- [16]化学研究部門に薬物学的研究部門を加え、大学研究室の指導と共同研究
- [17]ホルモン・ビタミン製剤・駆虫剤・抗マラリア剤・利胆剤の新分野を開拓
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [19]強力メタボリン等ビタミン剤の合成に成功、スルファミン剤等化学療法剤の製造に着手
参考文献[1]-[19]
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「昭和初期の当社」
- [1]昭和初期の不況下で販売に注力し経費を節減
- [2]新規事業は不況時に企画するのが適当との考え
- [3]1928年6月 道修町2丁目に鉄筋コンクリート3階建の新社屋が竣工
- [4]1930年 製薬工場の増築に着手/1931年 研究費を増額
- [5]1933年 工場の一部が稼働、国産薬品の品目・数量増で全面増改築へ
- [6]1935年2月 新研究所を起工、1936年4月完成
- [16]化学研究部門に薬物学的研究部門を加え、大学研究室の指導と共同研究
- [17]ホルモン・ビタミン製剤・駆虫剤・抗マラリア剤・利胆剤の新分野を開拓
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [7]研究所の人材養成・設備充実・付属図書館の整備と十三製薬工場の近代化
- [19]強力メタボリン等ビタミン剤の合成に成功、スルファミン剤等化学療法剤の製造に着手
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「薬草園の開設」
- [8]塩酸コカインの原料コカ葉は大正初期まで全量を輸入に依存
- [9]大正4年 コカインの製造方法を確立、ジャワ産コカ葉を現地商社経由で買付け
- [10]昭和期にコカ葉の輸入が許されず、台湾産コカ葉と台湾製粗製コカインの使用を強制
- [12]1929年 沖縄県国頭郡羽地村に薬草園を開設、買増しで約45町歩
- [13]沖縄の用地は強酸性のやせ地が7割、残りは湿地帯
- [14]1933年 台湾竹山郡の規那園、1935年 大武規那園、1939年 関山規那園を開設
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
- [11]1927年3月 台湾嘉義薬草園を開設、コカ栽培は育苗のみ許可
- [15]1934年から1938年にかけて奉天・台北・大連・上海・京城・天津・広東・バンコック・ボンベイに出張所を開設
- [18]1937年ビタミンC、1938年ビタミンB1、1942年ビタミンKの合成に成功
1938年〜統制下での改称と合併
日中戦争の開始を受けて、医薬行政は1938年1月に内務省から新設の厚生省へ移った。同年9月に日本医薬品輸入統制会、1939年3月に全国医薬品原料配給統制会が設けられ、輸入と原料配給の双方が統制下に入る。1940年3月には医薬品の公定価格が定められ、割当制度と切符制度が敷かれた。1941年5月の厚生省令「医薬品及衛生材料生産配給統制規則」により両統制会は合併して同年7月に日本医薬品生産統制株式会社となり、配給を担う日本医薬品配給統制株式会社も同月設立された。1944年1月には8団体が合併し、売薬を除く全医薬品の生産と配給を統べる医薬品統制株式会社が立った。原材料と労働力の不足に悩みながら生産を続ける以外に道はなかった。
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「戦時の医薬品統制」
- [20]1938年1月 医薬行政が内務省から新設の厚生省へ移管
- [21]1938年9月 日本医薬品輸入統制会/1939年3月 全国医薬品原料配給統制会
- [22]1940年3月 医薬品の公定価格を制定、割当制度・切符制度を導入
- [23]1941年5月 厚生省令第15号/同年7月 日本医薬品生産統制株式会社・日本医薬品配給統制株式会社を設立
- [24]1944年1月 8団体が合併し医薬品統制株式会社を創立
- [25]戦時体制下で原材料と労働力の不足に悩みつつ生産活動を継続
1943年8月3日、株式会社武田長兵衛商店は武田薬品工業株式会社へ社名を改めた。事業内容が次第に多角化し、商店の名では事業全般を表すのに適さなくなったためである。同月10日には74歳の五代目武田長兵衛氏が隠居して和敬と改め相談役となり、39歳の長男鋭太郎氏が六代目長兵衛を襲名して取締役社長に就任した。9月1日には機構改革が行われ、総務部は人事部・総務部・経理部の3部に分かれ、新薬部は学術部となり、検査部と資材部が新設された。工場の呼び名も改まり、製造部本工場は大阪工場、神崎川分工場は神崎川工場、池田分工場は猪名川工場となった。商標は従来のウロコ印・サギ印・フネ印・藤娘印を引き続き用いた。
- 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
- [26]1943年8月 武田薬品工業株式会社へ商号変更
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田薬品工業株式会社の誕生」
- [27]社名変更の理由は事業の多角化で旧商号が事業全般を表さなくなったこと
- [29]1943年9月1日 機構改革/総務部を3部へ分割、新薬部を学術部へ、検査部・資材部を新設
- [30]本工場を大阪工場、神崎川分工場を神崎川工場、池田分工場を猪名川工場へ改称
- [31]商標はウロコ印・サギ印・フネ印・藤娘印を継続
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [28]1943年8月10日 五代目武田長兵衛氏(74歳)が相談役、長男鋭太郎氏(39歳)が六代目を襲名し社長就任
1944年3月の決戦非常措置要綱と企業整備令のもとで企業間の統合が進み、会社は同年7月21日に小西薬品株式会社とラヂウム製薬株式会社を合併した。東京支店と東京工場の基礎になったのは、合併で加わった小西新兵衛商店である。1908年6月に東京日本橋で開業した関東代理店で、小西薬品の前身にあたり、合併と同じ月に資本金は3,570万円へ増えた。1945年3月26日には、大手製薬会社と並んで軍需会社の指定を受けている。占領地が広がるにつれて現地の工場が次々と開かれ、支店・出張所を足場に医薬品の製造と流通、農事関連の仕事が行われていたが、戦争が終わるとそうした海外の事業所はひとつ残らず失われた。国内でも原料と石炭が足りずに生産の効率が落ち、売れ行きもひどく振るわなかった。
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田薬品工業株式会社の誕生」
- [32]1944年3月 決戦非常措置要綱と企業整備令による企業整備統合の推進
- [34]小西新兵衛商店は1908年6月に東京日本橋区本町で開業した関東代理店
- 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
- [33]1944年7月 小西薬品・ラヂウム製薬を吸収合併
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [35]合併で東京支店・東京工場の基礎、資本金は1944年7月に3,570万円
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「戦時の医薬品統制」
- [36]1945年3月26日 大手製薬会社とともに軍需会社に指定
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「終戦までの当社」
- [37]占領地に工場・支店・出張所を開設したが終戦で在外事業場はすべて失われた
- [38]終戦後は原料・石炭の不足で生産能率が低下し販売も不振
参考文献[20]-[38]
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「戦時の医薬品統制」
- [20]1938年1月 医薬行政が内務省から新設の厚生省へ移管
- [21]1938年9月 日本医薬品輸入統制会/1939年3月 全国医薬品原料配給統制会
- [22]1940年3月 医薬品の公定価格を制定、割当制度・切符制度を導入
- [23]1941年5月 厚生省令第15号/同年7月 日本医薬品生産統制株式会社・日本医薬品配給統制株式会社を設立
- [24]1944年1月 8団体が合併し医薬品統制株式会社を創立
- [25]戦時体制下で原材料と労働力の不足に悩みつつ生産活動を継続
- [36]1945年3月26日 大手製薬会社とともに軍需会社に指定
- 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
- [26]1943年8月 武田薬品工業株式会社へ商号変更
- [33]1944年7月 小西薬品・ラヂウム製薬を吸収合併
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田薬品工業株式会社の誕生」
- [27]社名変更の理由は事業の多角化で旧商号が事業全般を表さなくなったこと
- [29]1943年9月1日 機構改革/総務部を3部へ分割、新薬部を学術部へ、検査部・資材部を新設
- [30]本工場を大阪工場、神崎川分工場を神崎川工場、池田分工場を猪名川工場へ改称
- [31]商標はウロコ印・サギ印・フネ印・藤娘印を継続
- [32]1944年3月 決戦非常措置要綱と企業整備令による企業整備統合の推進
- [34]小西新兵衛商店は1908年6月に東京日本橋区本町で開業した関東代理店
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [28]1943年8月10日 五代目武田長兵衛氏(74歳)が相談役、長男鋭太郎氏(39歳)が六代目を襲名し社長就任
- [35]合併で東京支店・東京工場の基礎、資本金は1944年7月に3,570万円
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「終戦までの当社」
- [37]占領地に工場・支店・出張所を開設したが終戦で在外事業場はすべて失われた
- [38]終戦後は原料・石炭の不足で生産能率が低下し販売も不振
1946年〜特別経理会社の指定から株式の公開へ
終戦時の会社は徴用工や学徒動員者、女子挺身隊を抱えたうえに、1946年へ入ると海外事業場からの引揚者と復員者が続々と帰還した。当時一般に行われていた人員整理の方法によらず、旧職に戻れる者は復職させ、戻れない者には適性をみて職場を与える方針が決められた。銀行融資で生産復興資金を充て、引揚者と復員者を大阪工場と神崎川工場へ集中して受け入れたが、資材難・動力難・資金難のため人員の急増には応じきれなかった。その抜本策が新工場と農場の開設で、1946年5月には旧海軍光工廠跡を取得して光工場を設けた。生産設備が戦災を免れたため、所持原料でビタミンB剤・C剤・ブドウ糖注射薬を作り、闇へ流さず正規の経路で供給したことが、世の信用を高めた。
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「終戦直後の当社の対応」
- [39]終戦時の徴用工・学徒動員者・女子挺身隊と、1946年からの引揚者・復員者の帰還
- [40]人員整理によらず帰還者を受け入れる方針(復職と適性配置)
- [41]銀行融資で生産復興資金を充足し大阪工場・神崎川工場へ集中受入れ
- [42]資材難・動力難・資金難で人員急増に対応できず
- 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
- [43]1946年5月 旧海軍光工廠跡を取得し光工場を新設
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
- [44]生産設備が無事だったため所持原料でビタミンB剤・C剤・ブドウ糖注射薬を生産し闇販売にまわさず正規ルートで供給
新旧勘定を切り分ける第44期決算を会社が行ったのは8月10日である。悪性インフレを抑える手として、1946年8月15日には会社経理応急措置法ができ、企業の勘定は確かな資産・負債でつくる新勘定と、凍結される旧勘定に切り分けられた。同じ月、会社は特別経理会社の指定を受けたが、ほかに5,113社が同じ扱いとなった。決算では約3,000万円の利益金が出て、それを充てて2,672万円の在外資産総額をすべて償却した。新勘定の資産総額は1億5,093万4,426円14銭に落ち着いた。その後、同年10月19日に公布された企業再建整備法のもとで、ほかの4,694社と同様に整備計画をつくって認可を得、1948年8月31日の新旧勘定の併合を経て、10月25日に特別経理会社の指定が外れた。1948年2月には過度経済力集中排除法の指定企業者に指定されたが、間もなく制限から解かれた。
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「特別経理会社の指定」
- [45]1946年8月15日 会社経理応急措置法の制定と新旧勘定の分離
- [46]1946年8月 他の5,113社とともに特別経理会社に指定、8月10日に第44期決算
- [47]第44期決算の利益金約3,000万円で在外資産総額2,672万円を全額償却
- [48]新勘定資産総額1億5,093万4,426円14銭、旧勘定資産総額1億8,699万2,468円
- [49]1946年10月19日 企業再建整備法の公布、他の4,694社とともに整備計画を作成・認可
- [50]1948年8月31日 新旧勘定を併合、10月25日 特別経理会社の指定を解除
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「経営再建への道」
- [51]1948年2月 過度経済力集中排除法の指定企業者に指定、間もなく制限から解除
株式は1925年の法人化以来非公開だったが、戦後は公開する方針がとられた。1947年3月から4月にかけて従業員へ分譲し、野村・山一・六鹿その他の証券会社を通じて14万株を市場へ売り出した。1949年5月、会社は東京と大阪の証券取引所に上場した。それに先立つ1948年6月には大蔵大臣の許可を受けて増資し、3,500万円だった資本金を4倍の1億4,280万円にしている。上場後も同年12月に増資して資本金を3億円とした。株主総数は公開時点の1,000名余りから2年後には4,500名まで増え、かつて武田家の一族がほとんどを握っていた株は散らばって、資本金の1割を超えて持つ大株主はいなくなった。1952年12月には、自社のビタミンK製造法を米国のサイアナミッド社へ貸し出した。輸入薬の仲買として始まった会社が、技術を外に供与する側へ移ったのである。
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「株式の公開と増資」
- [52]1925年の株式会社化以来非公開だった株式を戦後に公開する方針へ
- [53]1947年3〜4月 従業員へ分譲、野村・山一・六鹿等を通じ14万株を売出し
- [55]1948年6月 大蔵大臣の許可を得て増資、資本金3,500万円から1億4,280万円へ
- [56]1949年12月 1億5,720万円の増資で資本金3億円
- [57]株主総数は公開当時1,000名余、2年で4,500名
- [58]資本金の1割以上を持つ大株主が消え、100〜500株所有の株主が約70%
- 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
- [54]1949年5月 東京・大阪の各証券取引所に上場
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [59]1952年12月 ビタミンK製造法を米国サイアナミッド社へ技術貸与
参考文献[39]-[59]
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「終戦直後の当社の対応」
- [39]終戦時の徴用工・学徒動員者・女子挺身隊と、1946年からの引揚者・復員者の帰還
- [40]人員整理によらず帰還者を受け入れる方針(復職と適性配置)
- [41]銀行融資で生産復興資金を充足し大阪工場・神崎川工場へ集中受入れ
- [42]資材難・動力難・資金難で人員急増に対応できず
- 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
- [43]1946年5月 旧海軍光工廠跡を取得し光工場を新設
- [54]1949年5月 東京・大阪の各証券取引所に上場
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
- [44]生産設備が無事だったため所持原料でビタミンB剤・C剤・ブドウ糖注射薬を生産し闇販売にまわさず正規ルートで供給
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「特別経理会社の指定」
- [45]1946年8月15日 会社経理応急措置法の制定と新旧勘定の分離
- [46]1946年8月 他の5,113社とともに特別経理会社に指定、8月10日に第44期決算
- [47]第44期決算の利益金約3,000万円で在外資産総額2,672万円を全額償却
- [48]新勘定資産総額1億5,093万4,426円14銭、旧勘定資産総額1億8,699万2,468円
- [49]1946年10月19日 企業再建整備法の公布、他の4,694社とともに整備計画を作成・認可
- [50]1948年8月31日 新旧勘定を併合、10月25日 特別経理会社の指定を解除
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「経営再建への道」
- [51]1948年2月 過度経済力集中排除法の指定企業者に指定、間もなく制限から解除
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「株式の公開と増資」
- [52]1925年の株式会社化以来非公開だった株式を戦後に公開する方針へ
- [53]1947年3〜4月 従業員へ分譲、野村・山一・六鹿等を通じ14万株を売出し
- [55]1948年6月 大蔵大臣の許可を得て増資、資本金3,500万円から1億4,280万円へ
- [56]1949年12月 1億5,720万円の増資で資本金3億円
- [57]株主総数は公開当時1,000名余、2年で4,500名
- [58]資本金の1割以上を持つ大株主が消え、100〜500株所有の株主が約70%
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- [59]1952年12月 ビタミンK製造法を米国サイアナミッド社へ技術貸与
出典・参考
12件
- 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「昭和初期の当社」
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「薬草園の開設」
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「戦時の医薬品統制」
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田薬品工業株式会社の誕生」
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「終戦までの当社」
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「終戦直後の当社の対応」
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「特別経理会社の指定」
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「経営再建への道」
- 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「株式の公開と増資」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)