武田長兵衛(初代)
経歴1805〜1805年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1763年主要役職の状況(推定含む目安)1805年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 近江屋喜助(薬種中買) | 1763 | 入店 | ||
| 1773 | 通い番頭(長兵衛と改名) | ||||
| 1777 | 近江屋福松の代判 | ||||
| 1779 | 薬種中買株を譲り受け(近江屋喜之助の手代名義) | ||||
| 武田薬品工業(旧・近江屋長兵衛) | 1781 | 開業 | |||
| 1792 | 薬種中買仲間 夏小組行司 | ||||
| 1805 | 隠居 |
社長就任までの出自
出自
1750年、大和国広瀬郡薬井村の竹田徳兵衛家に次男として生まれ、幼名を長三郎といった。14歳で道修町2丁目の薬種中買商・近江屋喜助氏の店へ丁稚として入り、24歳で通いの番頭となって長兵衛を名乗った。1781年6月、32歳で主家から暖簾を分けられて薬種中買を開業した。この店がのちの武田薬品工業となるが、本人は株式会社の社長には就任していない。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
武田長兵衛(初代)氏は、6歳で大阪博労町の綿商・河内屋武兵衛氏の養子となった。1763年に養父が亡くなると家業を続けられず、14歳で道修町2丁目の薬種中買商・近江屋喜助氏の店に丁稚として入った。10年勤めて1773年に通いの番頭となり、1777年には主家一族の幼い当主・近江屋福松氏の代判に選ばれた。代判は当主に代わって商いと金銭の出し入れを預かる後見役で、28歳での抜擢だった。
- 武田二百年史 本編(1983)「初代近江屋長兵衞の創業」
- [5]宝暦5年(1755)6歳で大阪博労町の綿商河内屋武兵衛の養子。宝暦13年10月武兵衛死亡、長三郎14歳。家業の継続が困難で道修町2丁目の薬種中買商近江屋喜助方へ丁稚奉公。10年勤めて安永2年(1773)24歳で通い番頭
- [6]宝暦5年(1755)6歳で大阪博労町の綿商河内屋武兵衛の養子。宝暦13年10月武兵衛死亡、長三郎14歳。家業の継続が困難で道修町2丁目の薬種中買商近江屋喜助方へ丁稚奉公。10年勤めて安永2年(1773)24歳で通い番頭
- [7]宝暦5年(1755)6歳で大阪博労町の綿商河内屋武兵衛の養子。宝暦13年10月武兵衛死亡、長三郎14歳。家業の継続が困難で道修町2丁目の薬種中買商近江屋喜助方へ丁稚奉公。10年勤めて安永2年(1773)24歳で通い番頭
- [8]安永6年(1777)主家一族の近江屋平兵衛が死亡し実子福松が8歳で相続、一統のなかから長兵衛が代判に選ばれた(28歳)。代判は当主に代わり事業の経営・金銭出納の責任を負う、支配人と後見人を兼ねた地位
- [9]安永6年(1777)主家一族の近江屋平兵衛が死亡し実子福松が8歳で相続、一統のなかから長兵衛が代判に選ばれた(28歳)。代判は当主に代わり事業の経営・金銭出納の責任を負う、支配人と後見人を兼ねた地位
独立の前提は、主家の不祥事で一度崩れかけた。1778年9月の不正唐物一件で近江屋喜助氏は仲間株を取り上げられ、奉公人を仲間に入れる手続きを自ら取れなくなった。そこで一族の近江屋喜之助氏の名義でいったん株を受け、1779年4月に長兵衛氏が喜之助氏の手代として譲り受けて、薬種中買の資格を得た。資格を得たあとも開業は急がず、1780年9月まで福松氏の代判を務めた。
- 武田二百年史 本編(1983)「初代近江屋長兵衞の創業」
- [10]安永7年9月の不正唐物一件で主家近江屋喜助が株を取り上げられ仲間外となり、長兵衛を仲間入りさせる手続をとれなかった。一族の近江屋喜之助名義で株を受け、安永8年4月に長兵衛が喜之助の手代として譲り受けた。すぐには開業せず福松の代判を続け、翌安永9年9月に福松の母の入夫が平兵衛を襲名したため代判から退いた。天明元年4月に喜之助の代判作兵衛が病死し、長兵衛が代判を勤めた
- [11]安永7年9月の不正唐物一件で主家近江屋喜助が株を取り上げられ仲間外となり、長兵衛を仲間入りさせる手続をとれなかった。一族の近江屋喜之助名義で株を受け、安永8年4月に長兵衛が喜之助の手代として譲り受けた。すぐには開業せず福松の代判を続け、翌安永9年9月に福松の母の入夫が平兵衛を襲名したため代判から退いた。天明元年4月に喜之助の代判作兵衛が病死し、長兵衛が代判を勤めた
- [12]安永7年9月の不正唐物一件で主家近江屋喜助が株を取り上げられ仲間外となり、長兵衛を仲間入りさせる手続をとれなかった。一族の近江屋喜之助名義で株を受け、安永8年4月に長兵衛が喜之助の手代として譲り受けた。すぐには開業せず福松の代判を続け、翌安永9年9月に福松の母の入夫が平兵衛を襲名したため代判から退いた。天明元年4月に喜之助の代判作兵衛が病死し、長兵衛が代判を勤めた
- [13]安永7年9月の不正唐物一件で主家近江屋喜助が株を取り上げられ仲間外となり、長兵衛を仲間入りさせる手続をとれなかった。一族の近江屋喜之助名義で株を受け、安永8年4月に長兵衛が喜之助の手代として譲り受けた。すぐには開業せず福松の代判を続け、翌安永9年9月に福松の母の入夫が平兵衛を襲名したため代判から退いた。天明元年4月に喜之助の代判作兵衛が病死し、長兵衛が代判を勤めた
1781年6月12日、長兵衛氏は道修町2丁目堺筋の南西角の借家へ移り、年行司に営業の開始を届け出た。奉公から19年目の暖簾分けで、主家からは約銀2貫目の元手と、得意先として秋田地方を分けられた。屋号は近江屋で、略して「近長」とも呼ばれた。同じ年の4月からは喜之助氏の家の代判も引き受けており、自分の店と主家筋の後見を同時に担う開業であった。天明の飢饉で米価は1784年までにほぼ2倍となり、大阪の町人には御用金も課されていた。
- 武田百八十年史(1962)「第一章 初代のころ 二 創業と経営状態」
- [14]天明元年(1781)6月、道修町2丁目堺筋南西角の近江屋喜兵衛借家へ転居し、12日に年行司当番へ営業開始を届け出た。奉公から19年目、喜助家の別家としての暖簾分けで、約銀2貫目の元銀と得意先として秋田地方を分けてもらった。屋号は近江屋、略して近長
- [15]天明元年(1781)6月、道修町2丁目堺筋南西角の近江屋喜兵衛借家へ転居し、12日に年行司当番へ営業開始を届け出た。奉公から19年目、喜助家の別家としての暖簾分けで、約銀2貫目の元銀と得意先として秋田地方を分けてもらった。屋号は近江屋、略して近長
- [16]天明元年(1781)6月、道修町2丁目堺筋南西角の近江屋喜兵衛借家へ転居し、12日に年行司当番へ営業開始を届け出た。奉公から19年目、喜助家の別家としての暖簾分けで、約銀2貫目の元銀と得意先として秋田地方を分けてもらった。屋号は近江屋、略して近長
- [18]天明元年(1781)6月、道修町2丁目堺筋南西角の近江屋喜兵衛借家へ転居し、12日に年行司当番へ営業開始を届け出た。奉公から19年目、喜助家の別家としての暖簾分けで、約銀2貫目の元銀と得意先として秋田地方を分けてもらった。屋号は近江屋、略して近長
- 武田二百年史 本編(1983)「初代近江屋長兵衞の創業」
- [17]安永7年9月の不正唐物一件で主家近江屋喜助が株を取り上げられ仲間外となり、長兵衛を仲間入りさせる手続をとれなかった。一族の近江屋喜之助名義で株を受け、安永8年4月に長兵衛が喜之助の手代として譲り受けた。すぐには開業せず福松の代判を続け、翌安永9年9月に福松の母の入夫が平兵衛を襲名したため代判から退いた。天明元年4月に喜之助の代判作兵衛が病死し、長兵衛が代判を勤めた
- 武田二百年史 本編(1983)「初代長兵衞の経営」
- [19]天明2年以来の不作で3年・4年の大飢饉、米価は天明元年の石当り58匁8分が4年に111匁2分。天明5年12月に大阪町人に御用金
武田家に残る店卸の帳簿は1784年分から始まり、その年の差引残高は銀7貫260匁であった。1787年から1789年にかけては本家から年8貫〜18貫目を借りて資金を回しており、主家の後ろ盾を受けながら商いを広げた。1790年8月に代判の務めを離れると、1792年には仲間の夏小組行司に就任し、同業の役を担う立場になった。1797年には道修町2丁目の中ほどの借家へ店を移し、1798年ごろには別家の近江屋治兵衛氏を出している。貸銀の勘定は1784年の帳簿にすでにあり、金融の商いも初代のころから手がけていた。
- 武田二百年史 本編(1983)「初代長兵衞の経営」
- [20]武田家には天明4年以後の店颪帳が残る。天明4年の差引残高(正味銀)7貫260匁余、資産の部に当座かし(貸銀)。天明7年約8貫目、8年約8貫500目、寛政元年18貫目を本家から借銀
- [21]武田家には天明4年以後の店颪帳が残る。天明4年の差引残高(正味銀)7貫260匁余、資産の部に当座かし(貸銀)。天明7年約8貫目、8年約8貫500目、寛政元年18貫目を本家から借銀
- [22]寛政2年(1790)8月に喜之助の代判を退く。寛政4年(1792)仲間の夏小組行司、8年に再び同行司。寛政9年(1797)道修町2丁目難波橋筋西入る南側の借家へ移転。寛政10年ごろ別家近江屋治兵衛を出す
- [23]寛政2年(1790)8月に喜之助の代判を退く。寛政4年(1792)仲間の夏小組行司、8年に再び同行司。寛政9年(1797)道修町2丁目難波橋筋西入る南側の借家へ移転。寛政10年ごろ別家近江屋治兵衛を出す
- [24]武田家には天明4年以後の店颪帳が残る。天明4年の差引残高(正味銀)7貫260匁余、資産の部に当座かし(貸銀)。天明7年約8貫目、8年約8貫500目、寛政元年18貫目を本家から借銀
- 武田薬品工業200年の秘密 世界のタケダへダッシュする(1982)「初代近江屋長兵衛と創業」
- [25]二代目は薬種仲買業のほか初代から始めた金融業を拡大し、貸家・貸店・貸土蔵などを伸ばした
1805年10月、56歳で次男の熊三郎氏に株名前を譲って隠居し、長四郎と名を改めた。その年の残高は110貫目で、元手を2貫目とみれば55倍にあたる。隠居後もおよそ10年は二代目の後見を続け、1821年7月10日に72歳で没した。長兵衛氏が営んだのは株式会社となる前の個人の店で、武田薬品工業の社長職には就任していない。歴代の当主が「長兵衛」の名を襲名する慣行は、六代目まで続いた。
- 武田二百年史 本編(1983)「初代長兵衞の経営」
- [26]文化2年(1805)10月、56歳で次男熊三郎に株名前を譲り隠居、長四郎と改名。同年の店おろし残高110貫目、開業時の資本金2貫目の55倍。約10年二代目の後見的立場。文政4年(1821)7月10日72歳で永眠
- [27]文化2年(1805)10月、56歳で次男熊三郎に株名前を譲り隠居、長四郎と改名。同年の店おろし残高110貫目、開業時の資本金2貫目の55倍。約10年二代目の後見的立場。文政4年(1821)7月10日72歳で永眠
- [28]文化2年(1805)10月、56歳で次男熊三郎に株名前を譲り隠居、長四郎と改名。同年の店おろし残高110貫目、開業時の資本金2貫目の55倍。約10年二代目の後見的立場。文政4年(1821)7月10日72歳で永眠
- [29]文化2年(1805)10月、56歳で次男熊三郎に株名前を譲り隠居、長四郎と改名。同年の店おろし残高110貫目、開業時の資本金2貫目の55倍。約10年二代目の後見的立場。文政4年(1821)7月10日72歳で永眠
- 武田薬品工業200年の秘密 世界のタケダへダッシュする(1982)「初代近江屋長兵衛と創業」
- [30]武田の事業は天明元年(1781)初代近江屋長兵衛に始まる。当主は代々屋号の近江屋を冠して近江屋長兵衛を名乗り、六代にわたって長兵衛を継いだ
- [31]武田の事業は天明元年(1781)初代近江屋長兵衛に始まる。当主は代々屋号の近江屋を冠して近江屋長兵衛を名乗り、六代にわたって長兵衛を継いだ
参考文献2件
参考文献
- 武田二百年史 本編(1983)「初代近江屋長兵衞の創業」
- 武田百八十年史(1962)「第一章 初代のころ」
事実根拠:出所(武田薬品工業)