第1章 年〜年

武田薬品工業:道修町の薬種商から武田長兵衛商店の自社製造へ

1781年〜株仲間が支えた信用と、洋薬へ事業を拡大した四代長兵衛

大阪道修町二丁目で薬種仲間ができたのは1722年である。同じ年に徳川吉宗は、各地でとれる和薬を江戸・大阪・京都・堺などの問屋組合に通し、組合が検査したうえで売り買いさせる仕組みを設けた。問屋はこれで特権をもつ立場を得た。初代武田長兵衛氏が仲間株を取得して自分の店を開いたのは、その60年後の1781年6月だった。店は道修町堺筋に置き、屋号を"近江屋長兵衛"とした。商いの中身は和漢薬で、文化年間には道修町の中橋筋角屋敷を買って店を移した。この屋敷が後に本社の所在地となり、明治を迎えるまで代々の当主は先代からの家業を受け継いで和漢薬を売り続けた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [1]1722年 道修町二丁目に薬種仲間が形成
    • [4]初代武田長兵衛氏 仲間株を譲り受けて独立営業
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [2]1722年 徳川吉宗が和薬の売買を問屋組合の検査下に置く
    • [3]問屋の特権的地位の公認
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1781年6月 創業、薬種商を開業
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [6]屋号 近江屋長兵衛/道修町堺筋で和漢薬を扱う
    • [7]文化年間 中橋筋角屋敷へ移転(現本社所在地)
    • [8]創業から明治まで和漢薬の販売に従事

享保7年に公許された薬種中買仲間の株は124株で、長崎で落札された輸入薬種を大阪で入札して買い入れるのは、この株を持つ者に限られた。ただし株数は保たれても現業者は減り、宝暦末には100人前後となり、明和5年4月には33人、安永2年7月には46人がまとめて休業した。明和5年に仲間が設けたのが、買出代物内渡銀という制度である。各自の出した銀を合わせて20貫目とし、問屋仲間の三社講組合に1年の期限で預けておき、代銀を払えない中買が出れば問屋がそこから差し引く仕組みだった。前提には切月と呼ぶ節季払いの取引があり、長崎商人への支払いは宝暦2年9月の定めで正月切・6月切・10月切の3節季とされていた。仲間内の資金繰りを滑らかにすると同時に、中買が問屋から信用を得やすくすることが制度の目的だった。

  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「家業の新しい展開」
    • [9]享保7年(1722年) 薬種中買仲間株124株が公許
    • [11]寛延3年に120人、宝暦末には現業者が100人前後へ減少
    • [12]明和5年4月に33人、安永2年7月に46人の休業
    • [13]明和5年 買出代物内渡銀の制度/銀20貫目を1年期限で問屋仲間の三社講組合へ預託
    • [15]制度の狙いは仲間の金融の円滑化と、問屋に対する中買の信用の向上
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「取引と帳簿」
    • [10]長崎で落札された輸入薬種は大阪で中買仲間が入札して買い入れた
    • [14]宝暦2年9月 長崎商人への決済を正月切・6月切・10月切の3節季と定める

明治に入って若くして家業を承継した四代長兵衛氏は、節約に努めて取扱薬品を吟味し、品質の優れた洋薬の輸入を図った。1871年5月には洋薬の輸入買付を開始し、和漢薬の仲買に輸入商としての機能を重ねた。1894年には初めて店内に外国部を設け、ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダなどの輸入にあたっている。ただし輸入薬品は価格が高く、贋造薬も横行したため、四代長兵衛氏は自家製造を計画した。1895年、大阪府下中津の内林製薬所を専属工場として医薬品の製造と研究に着手する。もっとも当時はなお微々たる家内工業の域にとどまった。武田姓を名乗るようになったのも四代目のときである。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [16]四代長兵衛氏 若くして家業を継ぎ節約に努める
    • [18]1894年 店内に外国部を設置
    • [19]外国部の取扱品 ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダ
    • [21]1895年 大阪府下中津の内林製薬所を専属工場化
    • [22]当時はなお家内工業の域
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1871年5月 洋薬の輸入買付を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [20]輸入薬品の高価格と贋造薬の横行が自家製造の動機
    • [23]武田姓を名乗ったのは四代目から
参考文献[1]-[23]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [1]1722年 道修町二丁目に薬種仲間が形成
    • [4]初代武田長兵衛氏 仲間株を譲り受けて独立営業
    • [20]輸入薬品の高価格と贋造薬の横行が自家製造の動機
    • [23]武田姓を名乗ったのは四代目から
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [2]1722年 徳川吉宗が和薬の売買を問屋組合の検査下に置く
    • [3]問屋の特権的地位の公認
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1781年6月 創業、薬種商を開業
    • [17]1871年5月 洋薬の輸入買付を開始
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [6]屋号 近江屋長兵衛/道修町堺筋で和漢薬を扱う
    • [7]文化年間 中橋筋角屋敷へ移転(現本社所在地)
    • [8]創業から明治まで和漢薬の販売に従事
    • [16]四代長兵衛氏 若くして家業を継ぎ節約に努める
    • [18]1894年 店内に外国部を設置
    • [19]外国部の取扱品 ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダ
    • [21]1895年 大阪府下中津の内林製薬所を専属工場化
    • [22]当時はなお家内工業の域
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「家業の新しい展開」
    • [9]享保7年(1722年) 薬種中買仲間株124株が公許
    • [11]寛延3年に120人、宝暦末には現業者が100人前後へ減少
    • [12]明和5年4月に33人、安永2年7月に46人の休業
    • [13]明和5年 買出代物内渡銀の制度/銀20貫目を1年期限で問屋仲間の三社講組合へ預託
    • [15]制度の狙いは仲間の金融の円滑化と、問屋に対する中買の信用の向上
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「取引と帳簿」
    • [10]長崎で落札された輸入薬種は大阪で中買仲間が入札して買い入れた
    • [14]宝暦2年9月 長崎商人への決済を正月切・6月切・10月切の3節季と定める

1904年〜五代長兵衛が据えた製造と研究

1904年に五代長兵衛氏が家業を承継すると、製造と販売の双方へ一段と力を入れた。1909年には従来輸入以外になかった次硝酸蒼塩などの蒼塩製剤の製造に成功し、あわせて約20種の局方医薬品の製造を開始した。1908年には武田薬品試験部と研究部を設け、これが後の研究所の母体となった。五代長兵衛氏が掲げたのは、製薬事業の拡充、生産研究、独創新薬の開発、そして全国各地の問屋と結ぶ販売網の確立という四つの構想である。地方特約店に呼びかけた"サギウロコ会"を組織して流通を集約し、1915年から1918年にかけては現在の大阪工場となる大規模工場を建設した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [24]1904年 五代長兵衛氏が家業を継ぐ
    • [25]1909年 次硝酸蒼塩ほか蒼塩製剤の製造に成功
    • [26]約20種の局方医薬品の製造を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [27]1908年 武田薬品試験部・研究部を設置(研究所の母体)
    • [28]五代長兵衛氏の四つの構想
    • [29]地方特約店による「サギウロコ会」の組織
    • [30]1915〜1918年 大規模工場を建設(現大阪工場)

明治末期の国内生産は薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼといった程度で、大戦前の日本に本格的な製薬事業はまず育っていなかった。盛んだったのはむしろ、古くからの伝統を受け継いで輸入商に転じた薬種問屋の商売のほうである。欧州で1914年に大戦が始まって輸入薬品の流れが断たれると、薬品市場は大混乱となり、洋薬の輸入を柱にしてきた武田は事業の拠り所を失った。武田はまず内林工場の強化に取りかかり、同年8月、市外中津町に武田薬品試験所を開設した。1914年8月には武田研究部も発足している。試験所で研究を指導したのは、五代長兵衛氏の実弟である武田二郎氏だった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [31]明治末期の国内生産品 薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ
    • [32]明治期に本格的な製薬事業はほとんど起こらず
    • [33]輸入商へ発展した薬種問屋の商業活動が盛ん
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [34]1914年 欧州大戦で輸入薬品の供給が杜絶、薬品市場が混乱
    • [35]内林工場の補強
    • [36]1914年8月 市外中津町に武田薬品試験所を設置
    • [38]武田二郎氏(五代長兵衛氏の実弟)が研究を指導
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1914年8月 武田研究部を設置

研究部が置かれた1914年11月、政府は化学工業調査会を設け、翌1915年6月に染料医薬品製造奨励法を公布した。輸入品に依存してきた各社が自力の研究へ向かう機運のなかで、武田二郎氏が主宰した研究部の方針は、製造研究を主体とし、研究の完成をそのまま企業化へ結びつけることだった。最初に取り上げたブロムワレリル尿素の製造法は工業化に成功し、カルモチンの名で発売された。以後もエチル炭酸キニーネはオイヒニン、パラアミノ安息香酸エチルはノボロホルムとして市場へ出た。研究部は高等小学校を出た少年8名を研究生として置き、夜は道修薬学校へ通わせ、のちに薬剤師の免許を受けた者も多かった。武田二郎氏は敗戦後のマルク安を利用してドイツの図書雑誌を買い集め、研究部図書室の基礎をつくった。

  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田研究部の発足」
    • [39]1914年11月 政府が化学工業調査会を設置/1915年6月 染料医薬品製造奨励法を公布
    • [40]輸入依存の諸企業で企業内研究の機運が高まる
    • [41]研究部の方針は製造研究を主体とし「研究の完成即企業化」
    • [42]ブロムワレリル尿素製造法の工業化に成功、カルモチンとして発売
    • [45]高等小学校卒の少年8名を研究生とし夜は道修薬学校へ通わせた
    • [46]武田二郎氏がマルク安を利用して図書雑誌を購入し研究部図書室の基礎をつくる
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田製薬株式会社の創立」
    • [43]エチル炭酸キニーネの工業化に成功、オイヒニンとして発売
    • [44]パラアミノ安息香酸エチルの工業化に成功、ノボロホルムとして発売
参考文献[24]-[46]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [24]1904年 五代長兵衛氏が家業を継ぐ
    • [25]1909年 次硝酸蒼塩ほか蒼塩製剤の製造に成功
    • [26]約20種の局方医薬品の製造を開始
    • [34]1914年 欧州大戦で輸入薬品の供給が杜絶、薬品市場が混乱
    • [35]内林工場の補強
    • [36]1914年8月 市外中津町に武田薬品試験所を設置
    • [38]武田二郎氏(五代長兵衛氏の実弟)が研究を指導
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [27]1908年 武田薬品試験部・研究部を設置(研究所の母体)
    • [28]五代長兵衛氏の四つの構想
    • [29]地方特約店による「サギウロコ会」の組織
    • [30]1915〜1918年 大規模工場を建設(現大阪工場)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [31]明治末期の国内生産品 薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ
    • [32]明治期に本格的な製薬事業はほとんど起こらず
    • [33]輸入商へ発展した薬種問屋の商業活動が盛ん
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1914年8月 武田研究部を設置
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田研究部の発足」
    • [39]1914年11月 政府が化学工業調査会を設置/1915年6月 染料医薬品製造奨励法を公布
    • [40]輸入依存の諸企業で企業内研究の機運が高まる
    • [41]研究部の方針は製造研究を主体とし「研究の完成即企業化」
    • [42]ブロムワレリル尿素製造法の工業化に成功、カルモチンとして発売
    • [45]高等小学校卒の少年8名を研究生とし夜は道修薬学校へ通わせた
    • [46]武田二郎氏がマルク安を利用して図書雑誌を購入し研究部図書室の基礎をつくる
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田製薬株式会社の創立」
    • [43]エチル炭酸キニーネの工業化に成功、オイヒニンとして発売
    • [44]パラアミノ安息香酸エチルの工業化に成功、ノボロホルムとして発売

1915年〜自社製造への転換と株式会社への移行

1915年10月、武田は市外神津村に武田製薬所を創設した。現在の大阪工場が建つ場所で、ここで医薬品の研究・製造・試験にあたった。1918年にはこれら製造部門と研究部門を分離独立させ、資本金100万円の武田製薬株式会社を設立している。当時製造に成功した薬品は約30種に及び、業界で払底していた医薬品の補充にあてられた。1921年8月には大五製薬合資会社を、1922年6月には武田化学薬品株式会社を設立した。前者は1946年6月に日本製薬株式会社へ、後者は1947年10月に和光純薬工業株式会社へ社名を変更した。

  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1915年10月 武田製薬所を開設(現大阪工場)
    • [51]1921年8月 大五製薬合資会社を設立
    • [52]1922年6月 武田化学薬品株式会社を設立
    • [53]1946年6月 日本製薬へ社名変更/1947年10月 和光純薬工業へ社名変更
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [48]神津村=現在の大阪工場所在地
    • [49]1918年 製造・研究部門を分離独立、資本金100万円の武田製薬を設立
    • [50]製造に成功した薬品 約30種

神津村の武田製薬所は1915年12月に従業員50名で製造を始めたが、1918年5月には332名まで増え、敷地は2倍強、電動機は2台から14台になった。武田製薬株式会社は、独立機関だった武田研究部と合資会社武田薬品試験所を吸収し、器具備品一式を買収して、生産・研究・試験の3部門を一つの会社へ統合した。社長には武田二郎氏が就任した。1923年9月の関東大震災では関東代理店の小西新兵衛商店が建物35棟を全焼したが、大阪の本店は在庫からアンチピリンやサリチル酸ソーダ、次硝酸蒼鉛を送り、9月7日から30日までの出荷は合計14万5,000個に達した。東京の同業組合が大阪市場からの共同購入を求めたとき、売り渡しを裁断したのは大阪薬種卸仲買商組合の組合長だった武田長兵衛氏である。

  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田製薬株式会社の創立」
    • [54]1915年12月の製造開始時は従業員50名、1918年5月に332名/電動機2台が14台へ
    • [55]武田研究部と合資会社武田薬品試験所を吸収し生産・研究・試験の3部門を統合
    • [56]武田製薬株式会社の社長に武田二郎氏が就任
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田研究部の発足」
    • [57]1923年9月 関東大震災で小西新兵衛商店が建物35棟を全焼
    • [58]1923年9月7日から30日までの震災向け出荷は合計14万5,000個
    • [59]東京薬種貿易商同業組合の共同購入要請に対し大阪の組合長武田長兵衛氏が売渡しを裁断

大戦が終わって欧州からの輸入が再開すると、品質と採算の両面で輸入品に対抗できない薬品が現れ、一部は製造中止や規模の縮小を迫られた。1925年1月、武田長兵衛商店と、先に分離していた武田製薬とが合併し、資本金530万円で株式会社武田長兵衛商店が設立された。設立日は1月29日で、製造と販売の両部門を持つ法人組織となる。商標として1898年に登録されていたウロコの標章は、魚鱗をかたどり、樹木と同じく年輪を描いて年々大きく丈夫になるという縁起に由来する。この標章は1943年に社名を武田薬品工業へ改めた際、社章として定められた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [60]大戦後の輸入再開で品質・採算に耐えぬ薬品が製造中止・規模縮小
    • [61]1925年1月 武田長兵衛商店と武田製薬が合併、資本金530万円
    • [64]製造と販売の両部門を持つ法人組織
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [62]1925年1月 株式会社武田長兵衛商店を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [63]設立日 1925年1月29日
    • [65]1898年 ウロコの標章を商標登録
    • [66]ウロコ=魚鱗、年輪を描いて大きくなる縁起に由来
    • [67]1943年 社名変更と同時に社章として制定
参考文献[47]-[67]
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1915年10月 武田製薬所を開設(現大阪工場)
    • [51]1921年8月 大五製薬合資会社を設立
    • [52]1922年6月 武田化学薬品株式会社を設立
    • [53]1946年6月 日本製薬へ社名変更/1947年10月 和光純薬工業へ社名変更
    • [62]1925年1月 株式会社武田長兵衛商店を設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [48]神津村=現在の大阪工場所在地
    • [49]1918年 製造・研究部門を分離独立、資本金100万円の武田製薬を設立
    • [50]製造に成功した薬品 約30種
    • [60]大戦後の輸入再開で品質・採算に耐えぬ薬品が製造中止・規模縮小
    • [61]1925年1月 武田長兵衛商店と武田製薬が合併、資本金530万円
    • [64]製造と販売の両部門を持つ法人組織
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田製薬株式会社の創立」
    • [54]1915年12月の製造開始時は従業員50名、1918年5月に332名/電動機2台が14台へ
    • [55]武田研究部と合資会社武田薬品試験所を吸収し生産・研究・試験の3部門を統合
    • [56]武田製薬株式会社の社長に武田二郎氏が就任
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田研究部の発足」
    • [57]1923年9月 関東大震災で小西新兵衛商店が建物35棟を全焼
    • [58]1923年9月7日から30日までの震災向け出荷は合計14万5,000個
    • [59]東京薬種貿易商同業組合の共同購入要請に対し大阪の組合長武田長兵衛氏が売渡しを裁断
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [63]設立日 1925年1月29日
    • [65]1898年 ウロコの標章を商標登録
    • [66]ウロコ=魚鱗、年輪を描いて大きくなる縁起に由来
    • [67]1943年 社名変更と同時に社章として制定

出典・参考

8件
出典・参考
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「家業の新しい展開」
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「取引と帳簿」
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田研究部の発足」
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田製薬株式会社の創立」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)

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