第2章 年〜年

王子ホールディングス:苫小牧工場の竣工と富士製紙・樺太工業の合併

苫小牧の新聞用紙から三社合併の大王子製紙へ

1910年〜苫小牧の抄紙機と樺太材が実現した原料の自給

苫小牧工場を動かし、新聞用紙の輸入を止める

苫小牧工場に据えた抄紙機の幅は百四十二インチで、米国でも最も大きく新しい型と言われた。従来の輸入機は百インチ幅にすぎなかった。工場が完成したのは1910年秋で、日露戦争後の財界不況がもたらした資金難を三井銀行から借りてひとまずしのぎ、前山久吉氏が常務取締役に就いたのを機に人事を刷新して、ようやくこぎつけた。新聞用紙はそれまで輸入頼みだったが、富士製紙の江別工場とこの工場がともに動き出したことで製紙業はその自給を果たし、以後は国内市場から輸入の用紙が完全に締め出されて、新聞業の伸びを支えた。北海道で会社が獲得したのは、工場というより、原料と動力を自分で回す仕組みだった。

  • 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
    • [1]苫小牧工場には142インチ幅の抄紙機が据えられ、これはアメリカでも最大最新式といわれるものだった。従来の輸入抄紙機は100インチ幅であった
    • [2]苫小牧工場には142インチ幅の抄紙機が据えられ、これはアメリカでも最大最新式といわれるものだった。従来の輸入抄紙機は100インチ幅であった
    • [3]日露戦争後の財界不況期における資金難は三井銀行からの借り入れでいちおう解決し、前山久吉の常務取締役就任を機とする人事刷新を経て、明治43年秋に苫小牧工場が完成した
    • [4]江別・苫小牧両工場の運転開始によって、製紙業はそれまで輸入に依存していた新聞用紙の自給を実現した
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
    • [5]明治43年に苫小牧工場が新聞用紙の抄造を開始して以来、国内市場から舶来用紙を完全に駆逐するに至り、新聞業の発達に貢献した
樺太材を尺締五銭の20年契約で押さえる

1911年10月、鈴木梅四郎氏の病気辞任を受けて三井物産木材部長の藤原銀次郎氏が専務に就任した。会社は年来の放漫な拡張策によって第二の危機に瀕しており、藤原氏は根本的な改革に努めた。樺太庁長官の平岡定太郎氏は木材の無償給付を申し出たが、藤原氏はただほど高いものはないとして断り、尺締め五銭で二十ヵ年の契約を結んでいる。1914年7月には樺太大泊の三井紙料工場を譲り受け、さらに豊原工場を設けてパルプの自給と増産を図った。無償の供与を拒んで有償の長期契約を選んだのは、原料を得る根拠を相手の好意から契約へ移すためだったと思われる。

  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
    • [6]明治44年10月、鈴木梅四郎専務の病気辞任を受けて、三井物産木材部長の藤原銀次郎が専務に就任した
    • [7]藤原銀次郎の専務就任時、王子製紙は年来の放漫政策によりあたかも第二の危機に瀕しており、同氏は会社の根本的改革に努めた
    • [9]大正4年7月に樺太大泊の三井紙料工場を譲り受け、さらに豊原工場を設けてパルプの自給と増産を図った
  • 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
    • [8]樺太庁長官の平岡定太郎は藤原銀次郎に木材の無償給付を申し出たが、藤原は「ただほど高いものはない」といって尺締め5銭で20ヵ年の契約を結んだ
大戦の輸入難が原料自給の差を配当に変える

更紙の値段は五百枚につき、1914年7月の二円六十銭から1918年5月には九円五十銭へと、三・八倍に跳ね上がった。背景には第一次大戦がある。開戦とともに洋紙は海外から入ってこなくなって大きく減り、反対に輸出の引き合いが急増した。それまでアジアの市場をほぼ独り占めしていたドイツとオーストリアの生産が細り、日本の輸出は年ごとに二倍から六倍の規模へ膨らんだ。パルプが輸入しにくくなって紙価が上がる中で、自給の体制を整えていた王子・富士・樺太工業の諸社は、他社を上回る利益を手にした。王子製紙は1916年に帝国製紙と印刷局抄紙部の十條工場を買収して上等紙へ広げ、資本金は1914年の1,200万円から1920年には5,000万円へ増えた。明治40年代に四分配当を続けていた同社は、1920年上期に5割の配当を行っている。

  • 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
    • [10]更紙は500枚あたり大正3年7月に2円60銭であったものが、大正7年5月に9円50銭となり3.8倍になった
    • [11]第一次大戦が起きると洋紙の輸入は激減し、一方で輸出需要が激増した
    • [12]アジア市場をほとんど独占していたドイツ・オーストリアなど参戦諸国の紙の生産力が落ち、日本の輸出は年々増加して2倍ないし6倍に達した
    • [13]第一次大戦中のパルプ輸入難に伴う製紙用パルプ値上がりの時期に、パルプの自給体制をとっていた王子・富士・樺太工業系の諸製紙会社は他社にぬきんでた利益を挙げた
    • [16]明治40年代には4分配当を続けていた王子製紙は、大正9年上期に5割という高配当を行うほどの利益を挙げた
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
    • [14]大正5年、帝国製紙および印刷局抄紙部の十條工場を買収して上等紙の製造を開始した
  • 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
    • [15]王子製紙の資本金は大正3年の1,200万円から、大正7年に2,500万円、大正9年に5,000万円と倍増の勢いを示した
参考文献[1]-[16]
  • 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
    • [1]苫小牧工場には142インチ幅の抄紙機が据えられ、これはアメリカでも最大最新式といわれるものだった。従来の輸入抄紙機は100インチ幅であった
    • [2]苫小牧工場には142インチ幅の抄紙機が据えられ、これはアメリカでも最大最新式といわれるものだった。従来の輸入抄紙機は100インチ幅であった
    • [3]日露戦争後の財界不況期における資金難は三井銀行からの借り入れでいちおう解決し、前山久吉の常務取締役就任を機とする人事刷新を経て、明治43年秋に苫小牧工場が完成した
    • [4]江別・苫小牧両工場の運転開始によって、製紙業はそれまで輸入に依存していた新聞用紙の自給を実現した
    • [8]樺太庁長官の平岡定太郎は藤原銀次郎に木材の無償給付を申し出たが、藤原は「ただほど高いものはない」といって尺締め5銭で20ヵ年の契約を結んだ
    • [10]更紙は500枚あたり大正3年7月に2円60銭であったものが、大正7年5月に9円50銭となり3.8倍になった
    • [11]第一次大戦が起きると洋紙の輸入は激減し、一方で輸出需要が激増した
    • [12]アジア市場をほとんど独占していたドイツ・オーストリアなど参戦諸国の紙の生産力が落ち、日本の輸出は年々増加して2倍ないし6倍に達した
    • [13]第一次大戦中のパルプ輸入難に伴う製紙用パルプ値上がりの時期に、パルプの自給体制をとっていた王子・富士・樺太工業系の諸製紙会社は他社にぬきんでた利益を挙げた
    • [16]明治40年代には4分配当を続けていた王子製紙は、大正9年上期に5割という高配当を行うほどの利益を挙げた
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
    • [5]明治43年に苫小牧工場が新聞用紙の抄造を開始して以来、国内市場から舶来用紙を完全に駆逐するに至り、新聞業の発達に貢献した
    • [6]明治44年10月、鈴木梅四郎専務の病気辞任を受けて、三井物産木材部長の藤原銀次郎が専務に就任した
    • [7]藤原銀次郎の専務就任時、王子製紙は年来の放漫政策によりあたかも第二の危機に瀕しており、同氏は会社の根本的改革に努めた
    • [9]大正4年7月に樺太大泊の三井紙料工場を譲り受け、さらに豊原工場を設けてパルプの自給と増産を図った
    • [14]大正5年、帝国製紙および印刷局抄紙部の十條工場を買収して上等紙の製造を開始した
  • 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
    • [15]王子製紙の資本金は大正3年の1,200万円から、大正7年に2,500万円、大正9年に5,000万円と倍増の勢いを示した

1929年〜カナダ紙の安値と富士製紙・樺太工業の合併

穴水要七氏の持株を肩代わりして富士製紙へ入る

1926年の三社の生産高は全国の八十五・4パーセントを占めた。樺太工業は1913年に大川平三郎氏が渋沢栄一氏の助力を得て泊居に設立した会社であり、王子を追われた大川氏は1923年から富士製紙の社長も兼ねるに至った。生産量を増やしてコストを下げ利潤を取る競争は、藤原銀次郎氏と大川氏の角逐そのものになった。1929年1月、富士製紙の専務で事実上の実権を握っていた穴水要七氏が急逝すると、王子製紙はその持株を全部肩代わりして経営参加を求め、常務取締役の小笠原菊次郎氏を送り込んだ。後年の三社合併の第一歩は、この持株の肩代わりで踏み出された。

  • 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
    • [17]1926年の王子製紙・富士製紙・樺太工業3社の生産高は、全国生産高の85.4パーセントを占めるに至った
    • [19]樺太工業を設立した大川平三郎は、大正12年に窪田四郎に代わって富士製紙社長を兼ねるに至った
    • [20]3社は生産量の増加によるコストの低下と利潤の増大をねらい、販売市場と抄造技術で激しい競争を展開し、それは藤原銀次郎と大川平三郎の角逐となった
    • [21]昭和4年1月、富士製紙の専務で事実上の実権を握っていた穴水要七が急逝し、その持株を全部王子製紙が肩替わりしたため、王子は経営参加を要求して常務取締役の小笠原菊次郎を富士製紙へ送り込み、後年の三社合併の第一歩が踏み出された
    • [22]昭和4年1月、富士製紙の専務で事実上の実権を握っていた穴水要七が急逝し、その持株を全部王子製紙が肩替わりしたため、王子は経営参加を要求して常務取締役の小笠原菊次郎を富士製紙へ送り込み、後年の三社合併の第一歩が踏み出された
  • 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
    • [18]大正2年、大川平三郎はみずから樺太に渡り、渋沢栄一の助力を得て泊居に資本金200万円の樺太工業を創設した
カナダ紙の安値に新聞社をつなぎ留める

当時の洋紙業は総生産のうち1割しか輸出しておらず、最大の海外市場である中国でも日貨排斥が激しくなって、輸出を伸ばす見込みはなかった。そこへ1930年初め、カナダの製紙会社が内地紙より2割安い値を示して、朝日・毎日などの大新聞に取引を持ちかけた。新聞用紙を納めてきた王子・富士・樺太工業の三社は、カナダ側が示した値のまま新聞社へ用紙を渡すことを受け入れるしかなく、これで顧客は手放さずに済んだが、値下げが続いた間は最新鋭とされた苫小牧工場でさえ赤字が続いたと伝えられる。日本製紙聯合会は1930年秋、一律三割五分の操短と共同管理法を決めてストックに封印を施したものの、紙価の下落は止まらなかった。藤原氏はこの原因を三社分立の弱さに求め、三井財閥を背にして合併への志を固めた。

  • 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-操短にあけくれ」
    • [23]昭和4、5年の洋紙界は総生産高の1割を輸出していたにすぎず、最大の海外市場である中国では日貨排斥運動が強まって輸出拡大は望めなかった
    • [24]昭和5年初め、カナダの製紙会社が内地紙より2割安い値段で朝日・毎日などの大新聞に取り引きを申し込んだ
    • [25]従来新聞用紙を供給していた王子・富士・樺工の3社は、カナダ側の申し出値通りで新聞社に受け渡すことを承知せざるを得なかった
    • [26]得意先はつなぎ留めたものの、安売り期間中は最新鋭を誇る王子の苫小牧工場も赤字続きだったといわれる
    • [28]王子の首脳者藤原銀次郎は新聞社を失いかけた原因を三社分立の弱さにあると考え、三井財閥をバックに合併への志を固めた
  • 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
    • [27]日本製紙聯合会は昭和5年秋に画期的な一律3割5分の操短を実施し、共同管理法を制定して常備以外のストックに封印したが、紙価はさらに低落した
三社が合併し、資本金1億5,000万円の王子製紙が発足する

大増設と金解禁後の不況で一億数千万円の負債を抱えた樺太工業が最も苦しく、他の二社も苦境に陥った。1932年11月18日に王子製紙と富士製紙が、12月10日に樺太工業が、それぞれ臨時株主総会で合併を承認した。翌1933年5月18日の株主総会で三社合併は正式に承認され、資本金1億5,000万円の大王子製紙が出現した。社長には藤原銀次郎氏が、副社長には高島菊次郎氏が選ばれ、大川平三郎氏は相談役に推された。新会社は34工場を持つ世界屈指の製紙会社となり、1937年には生産高が戦前の最高を示した。1898年の争議で会社を追われた大川氏は、35年をかけて対等の実力まで戻り、そのうえで合併に応じたことになる。

  • 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
    • [29]大増設と金解禁後の不況によって一億数千万円の負債を抱えた樺太工業が最も経営困難に当面し、他の二社も苦しい状態に陥った
    • [30]昭和7年11月18日に王子製紙および富士製紙が、12月10日に樺太工業が、それぞれ臨時株主総会で合併を承認する決議を経た
    • [31]昭和8年5月18日の株主総会で三社合併は正式に承認され、資本金1億5,000万円の大王子製紙が出現した
    • [32]新社長には藤原銀次郎、副社長には高島菊次郎が選出され、大川平三郎は相談役に推された
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
    • [33]三社合併により資本金1億5,000万円・34工場を有する世界屈指の製紙会社となり、昭和12年にはその生産高が戦前の最高を示すに至った
参考文献[17]-[33]
  • 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
    • [17]1926年の王子製紙・富士製紙・樺太工業3社の生産高は、全国生産高の85.4パーセントを占めるに至った
    • [19]樺太工業を設立した大川平三郎は、大正12年に窪田四郎に代わって富士製紙社長を兼ねるに至った
    • [20]3社は生産量の増加によるコストの低下と利潤の増大をねらい、販売市場と抄造技術で激しい競争を展開し、それは藤原銀次郎と大川平三郎の角逐となった
    • [21]昭和4年1月、富士製紙の専務で事実上の実権を握っていた穴水要七が急逝し、その持株を全部王子製紙が肩替わりしたため、王子は経営参加を要求して常務取締役の小笠原菊次郎を富士製紙へ送り込み、後年の三社合併の第一歩が踏み出された
    • [22]昭和4年1月、富士製紙の専務で事実上の実権を握っていた穴水要七が急逝し、その持株を全部王子製紙が肩替わりしたため、王子は経営参加を要求して常務取締役の小笠原菊次郎を富士製紙へ送り込み、後年の三社合併の第一歩が踏み出された
    • [27]日本製紙聯合会は昭和5年秋に画期的な一律3割5分の操短を実施し、共同管理法を制定して常備以外のストックに封印したが、紙価はさらに低落した
    • [29]大増設と金解禁後の不況によって一億数千万円の負債を抱えた樺太工業が最も経営困難に当面し、他の二社も苦しい状態に陥った
    • [30]昭和7年11月18日に王子製紙および富士製紙が、12月10日に樺太工業が、それぞれ臨時株主総会で合併を承認する決議を経た
    • [31]昭和8年5月18日の株主総会で三社合併は正式に承認され、資本金1億5,000万円の大王子製紙が出現した
    • [32]新社長には藤原銀次郎、副社長には高島菊次郎が選出され、大川平三郎は相談役に推された
  • 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
    • [18]大正2年、大川平三郎はみずから樺太に渡り、渋沢栄一の助力を得て泊居に資本金200万円の樺太工業を創設した
  • 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-操短にあけくれ」
    • [23]昭和4、5年の洋紙界は総生産高の1割を輸出していたにすぎず、最大の海外市場である中国では日貨排斥運動が強まって輸出拡大は望めなかった
    • [24]昭和5年初め、カナダの製紙会社が内地紙より2割安い値段で朝日・毎日などの大新聞に取り引きを申し込んだ
    • [25]従来新聞用紙を供給していた王子・富士・樺工の3社は、カナダ側の申し出値通りで新聞社に受け渡すことを承知せざるを得なかった
    • [26]得意先はつなぎ留めたものの、安売り期間中は最新鋭を誇る王子の苫小牧工場も赤字続きだったといわれる
    • [28]王子の首脳者藤原銀次郎は新聞社を失いかけた原因を三社分立の弱さにあると考え、三井財閥をバックに合併への志を固めた
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
    • [33]三社合併により資本金1億5,000万円・34工場を有する世界屈指の製紙会社となり、昭和12年にはその生産高が戦前の最高を示すに至った

1936年〜統制と敗戦が削った34工場

トラスト法の適用を受け、国策に沿って満洲へ展開する

1936年、王子製紙にはトラスト法が適用されることが決まり、業界全体が行政の監督下に全面的に置かれた。その前提には三社合併があり、これによって企業どうしの生産競争はひとまず終わり、第二次大戦が終わるまで製紙業界は王子製紙が独占する形となった。会社はパルプを自給するという国策に応じて満洲へ出たほか、山林・石炭・電力・運搬から紙の販売に至るまで紙にまつわるあらゆる事業を傘下に取り込み、1938年には日満パルプに加え、内地でも日本パルプ工業・山陽パルプ・東北振興パルプを全額出資か合弁で立ち上げた。同じ1938年、藤原銀次郎氏は社長を高島菊次郎氏に譲って会長となり、1940年には米内内閣の商工大臣として入閣した。合併で競争相手を無くした3年後にトラスト法が当たったことで、王子製紙は紙価も増設先も自社の採算ではなく国策のパルプ増産計画に合わせて決めるようになったとみられる。

  • 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
    • [34]昭和11年、王子製紙に対するトラスト法の適用が決定され、製紙業界は行政上の監督を全面的に受けることになった
    • [35]昭和8年の三社合併により企業間の生産競争には一応の終止符がうたれ、製紙業界は第二次世界大戦の終結に至るまで王子製紙の独占形態を採ることになった
    • [36]王子製紙はパルプ自給の国策に呼応して満洲大陸に進出するほか、山林事業・石炭・電力・運搬事業から紙販売業に至るまで紙に関連するあらゆる事業を傘下におさめた
    • [37]昭和13年、王子製紙は満洲に日満パルプなどを設立させ、内地では日本パルプ工業・山陽パルプ・東北振興パルプを全額出資または合弁によって発足させた
    • [39]藤原銀次郎は昭和15年に米内内閣の商工大臣として入閣した
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
    • [38]昭和13年、藤原銀次郎は会長となり、高島菊次郎が社長に就任した
製紙工業整備要項で工場を軍需へ転換する

紙の生産は1940年の155万トン、パルプは1941年の128万トンが最高で、以後は減り続けた。その前段として、1938年4月に国家総動員法が発令され、同年9月には紙類の公定価格が定められて、需給は国の統制下に置かれていた。翌1939年、洋紙は生産を3割超削られ、新聞用紙にも3割の消費制限が法の強制で課された。1942年9月に出た製紙工業整備要項は全国四百に上る製紙工場を整備の対象とし、王子も亀戸など八工場を軍需工場に転じさせて関係会社へ譲渡した。中国で王子が注力した広東省営製紙廠の機械は、1940年設立の大日本再生製紙へ回された。会社は解除を求めて掛け合ったものの、大本営の命令を覆せなかった。苫小牧で木製飛行機を作れという軍の要求に対しては、新聞紙は紙の弾丸だとして断り、江別工場を差し出している。

  • 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
    • [40]紙は昭和15年の155万トン、パルプは昭和16年の128万トンをピークとして生産は下降をたどりはじめた
    • [41]昭和13年4月に国家総動員法が発令され、9月には紙類公定価格が制定された
    • [42]昭和14年、洋紙は3割以上の減産を余儀なくされ、新聞用紙も3割の消費制限が法的に強制実施された
    • [43]昭和17年9月、生産の集中と軍需工場への転換を目的として製紙工業整備要項が通達され、全国400に上る製紙工場が整備された。王子では亀戸工場その他8工場が軍需工場に転換し、それぞれ関係会社に譲渡された
    • [45]軍部が苫小牧工場で木製飛行機をつくることを提案してきたとき、王子は新聞紙は「紙の弾丸」であるとの衿持からこれを拒絶し、かわりに江別工場を飛行機製造工場に提供した
  • 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-操短にあけくれ」
    • [44]昭和15年に設立された大日本再生製紙の企業化のため、王子が力を入れていた中国の広東省営製紙廠の機械が動員され、解除を求めた王子の折衝は大本営命令の前に通らなかった
在外十工場を失い、集中排除の対象となる

1945年の本土空襲では江戸川・十條・王子・都島・神崎の内地工場に加えて苫小牧・釧路・江別の各工場も被害を受け、同年上期の製造高は洋紙で5割、パルプで8割の減産となった。敗戦により樺太と朝鮮の在外十工場および南方の事業場を完全に喪失し、戦争による直接被害は合計4億170万円と集計された。戦災と企業整備による喪失を合わせ、34工場を誇った王子製紙に残ったのは15工場だった。1946年1月、GHQ経済科学局は日本の製紙高の約半ばを生産する王子製紙を、傍系40社とともに会社制限令の適用下に置くと発表した。会社は二分割案を提示したが一蹴され、1947年6月に九分割の指令が発せられた。対日政策が経済の再建へ旋回すると集中排除の対象は王子を含む28社へ縮小され、解体の幅も徐々に緩和された。

  • 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
    • [46]昭和20年の本土空襲で王子製紙の江戸川・十条・王子・都島・神崎の内地工場のみならず北海道の苫小牧・釧路・江別の各工場も被害を受け、昭和20年上期の製造高は洋紙類で5割、パルプでは8割の減産を示した
    • [47]敗戦により樺太の大泊・豊原・落合・知取・真岡・野田・泊居・敷香・恵須取と朝鮮の在外10工場および南方地域の事業場を完全に喪失し、戦争による直接被害は合計4億170万円であった
    • [49]昭和21年1月、GHQ経済科学局は、三井財閥と緊密な関係をもち日本製紙高の約半ばを生産する王子製紙会社を傍系会社40社とともに連合軍総司令部の会社制限令の適用下に置くと発表した
    • [50]王子製紙はGHQの指令にもとづき二分割案を提示したが一蹴され、昭和22年6月に九分割案の指令が発せられた
    • [51]アメリカの対日政策が経済の再建の方向に旋回し、集中排除の対象は結局、王子を含む28社に縮小され、王子の解体も九分割から徐々に緩和された
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
    • [48]終戦時、34工場を有していた王子製紙はわずか15工場となったほか、在外資産のすべてを喪失した
参考文献[34]-[51]
  • 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
    • [34]昭和11年、王子製紙に対するトラスト法の適用が決定され、製紙業界は行政上の監督を全面的に受けることになった
    • [35]昭和8年の三社合併により企業間の生産競争には一応の終止符がうたれ、製紙業界は第二次世界大戦の終結に至るまで王子製紙の独占形態を採ることになった
    • [36]王子製紙はパルプ自給の国策に呼応して満洲大陸に進出するほか、山林事業・石炭・電力・運搬事業から紙販売業に至るまで紙に関連するあらゆる事業を傘下におさめた
    • [37]昭和13年、王子製紙は満洲に日満パルプなどを設立させ、内地では日本パルプ工業・山陽パルプ・東北振興パルプを全額出資または合弁によって発足させた
    • [39]藤原銀次郎は昭和15年に米内内閣の商工大臣として入閣した
    • [40]紙は昭和15年の155万トン、パルプは昭和16年の128万トンをピークとして生産は下降をたどりはじめた
    • [41]昭和13年4月に国家総動員法が発令され、9月には紙類公定価格が制定された
    • [42]昭和14年、洋紙は3割以上の減産を余儀なくされ、新聞用紙も3割の消費制限が法的に強制実施された
    • [43]昭和17年9月、生産の集中と軍需工場への転換を目的として製紙工業整備要項が通達され、全国400に上る製紙工場が整備された。王子では亀戸工場その他8工場が軍需工場に転換し、それぞれ関係会社に譲渡された
    • [45]軍部が苫小牧工場で木製飛行機をつくることを提案してきたとき、王子は新聞紙は「紙の弾丸」であるとの衿持からこれを拒絶し、かわりに江別工場を飛行機製造工場に提供した
    • [46]昭和20年の本土空襲で王子製紙の江戸川・十条・王子・都島・神崎の内地工場のみならず北海道の苫小牧・釧路・江別の各工場も被害を受け、昭和20年上期の製造高は洋紙類で5割、パルプでは8割の減産を示した
    • [47]敗戦により樺太の大泊・豊原・落合・知取・真岡・野田・泊居・敷香・恵須取と朝鮮の在外10工場および南方地域の事業場を完全に喪失し、戦争による直接被害は合計4億170万円であった
    • [49]昭和21年1月、GHQ経済科学局は、三井財閥と緊密な関係をもち日本製紙高の約半ばを生産する王子製紙会社を傍系会社40社とともに連合軍総司令部の会社制限令の適用下に置くと発表した
    • [50]王子製紙はGHQの指令にもとづき二分割案を提示したが一蹴され、昭和22年6月に九分割案の指令が発せられた
    • [51]アメリカの対日政策が経済の再建の方向に旋回し、集中排除の対象は結局、王子を含む28社に縮小され、王子の解体も九分割から徐々に緩和された
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
    • [38]昭和13年、藤原銀次郎は会長となり、高島菊次郎が社長に就任した
    • [48]終戦時、34工場を有していた王子製紙はわずか15工場となったほか、在外資産のすべてを喪失した
  • 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-操短にあけくれ」
    • [44]昭和15年に設立された大日本再生製紙の企業化のため、王子が力を入れていた中国の広東省営製紙廠の機械が動員され、解除を求めた王子の折衝は大本営命令の前に通らなかった

筆者考察

原料を自前で持つ強みは、好況では利益に、不況では合併の圧力に姿を変える。1910年に動き出した苫小牧工場の142インチ抄紙機と、藤原銀次郎氏が尺締5銭20年の契約で押さえた樺太材は、第一次大戦のパルプ輸入難のなかで王子製紙に5割配当をもたらした。ところが同じ自給体制は富士製紙も樺太工業も備えていた。3社で全国生産の85.4パーセントを占めながら互いに増設を競えば、紙価は自分たちの手で下がる。1930年にカナダ紙が2割安で朝日・毎日へ持ち込まれたとき、最新鋭の苫小牧工場までが赤字に転じたのは、その競争が外からの安値に耐える余力を残していなかったからである。

競争相手を無くすことは、経営の自由を得ることではない。1933年の三社合併で資本金1億5,000万円・34工場の王子製紙が生まれ、業界の生産競争は終わった。だが3年後にはトラスト法が適用され、紙価も増設も行政の監督下に入る。1938年の国家総動員法から1942年の製紙工業整備要項までの4年で、王子の工場は軍需品を作る場へ変えられ、8工場が関係会社へ譲渡された。1945年に樺太と朝鮮の在外10工場を失うと、34工場は15工場まで減った。集中排除の交渉で会社が示した2分割案が一蹴されたのは、事業の中身ではなく規模そのものが処分の対象だったからである。三社を合わせて得た85パーセントの地位が、そのまま解体の理由になった。

王子製紙の資本金 1914年の増資から1933年の三社合併まで(万円)

1,200 大戦勃発時の増資 6,591 三社競争期 15,000 三社合併
  • 出所は産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)。

出典・参考

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出典・参考
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
  • 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
  • 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
  • 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-操短にあけくれ」

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