王子ホールディングス:渋沢栄一の抄紙会社設立と王子製紙への改称
中部工場の損失による王子製紙の三井直轄化
1873年〜紙幣寮の官需に支えられた抄紙会社の開業
大蔵省に在職していた1871年、渋沢栄一氏は洋式の製紙・印刷設備が国内にない状況を政府の事業で補うよう建議したが、否決された。この発想は、1867年に徳川民部卿の随員として欧州を回り、製紙と印刷こそ文明の源泉だと見て帰国したことに発しており、建議が退けられた渋沢氏は、金融を担っていた政府の御為替方、三井組・小野組・島田組に『製紙事業といふものは、西洋学問を応用しなければならぬ事業で、目前の利益は少なからうし、而も十分な資力を伴はなければならぬ。其の上、勇気と見識とが必要である。故に諸君のやうな人々が資本を集めて本気になって、国家社会の為めに此の事業を起すやうにして貰ひたい』と説き、目先の利益でなく資力・勇気・見識を条件に挙げて、株式組織で製紙業を興すよう求めた。三組が歩み寄ったのは1872年11月で、三井治郎右衛門氏ら12名が発起人となって資本金15万円の抄紙会社の創立を出願し、翌1873年2月に認可を得て、政府が担えなかった事業は、政府の為替方を務める商人の資本に移されて立ち上がった。
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [1]渋沢栄一は明治4年に官職にあったころ、洋式製紙と印刷の設備が国内に無いことを補うため政府事業として経営する建議を出したが否決された
- [3]渋沢栄一は政府の御為替方であった三井組・小野組・島田組に、株式組織で製紙事業を起こすよう勧説した
- [4]明治5年11月に三井治郎右衛門ら12名が発起人となって会社創立を出願し、明治6年2月に認可されて資本金15万円の抄紙会社が設立された
- 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
- [2]渋沢栄一は1867年に徳川民部卿の随員として海外を視察し、製紙および印刷事業を文明の源泉と認識した
工場敷地は水利に恵まれた東京府下王子村に定められ、日本で最初の煉瓦造の工場が建てられた。製紙機械は英国製の優秀機を輸入し、技師を招いて1875年6月に米人技師の指導で試運転に入った。渋沢氏は前年に会社の事務担任を委託されたが、第一国立銀行との兼務で多忙なため、谷敬三氏を支配人に据え、16歳の大川平三郎氏を現場掛として製紙の習得に当たらせた。招いた外国人技師の月給が200円から250円だったのに対し、大川氏の初任給は5円である。設備も操作法も外から買うほかなく、開業から1875年までに4万円を超える赤字が出た。手漉和紙の全盛期におびただしい輸入紙が加わる市況では、量を作るほど市価が下がった。
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [5]工場敷地は水利に恵まれた東京府下王子村に定められ、わが国最初の煉瓦造工場が建設された
- [6]製紙機械は英国製の優秀機を輸入するとともに技師を招聘し、明治8年6月に米人技師を教師として試運転に着手した
- [7]抄紙会社は明治7年1月に渋沢栄一へ会社の事務担任を委託したが、銀行との兼務で多忙なため谷敬三を支配人とし、16歳の大川平三郎を現場掛として製紙の勉強に当たらせた
- [10]当時の洋紙の市況は手漉和紙の全盛時代で、おびただしい輸入紙に悩まされ、大量に製造される洋紙は常に生産過剰となって市価を低落させた
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [8]外人技師の月給は200円から250円ほどで、一職工として入社した大川平三郎の初任給は5円であった
- [9]抄紙会社は当時の一流設備と技術を入れて開業したが販売は振るわず、発足から明治8年まで4万円以上の赤字を出した
1876年5月、会社は紙幣寮抄紙局と取り違えられないよう、社名を製紙会社に改めた。行き詰まった経営を立て直したのは紙幣寮から来た地券と印紙類の用紙の注文で、これを境に会社は創立以来の損失を少しずつ取り戻していき、1877年の西南戦争で印刷用紙の需要が一気に膨らむと、洋紙業は初めての好況を迎えた。しかし1880年に地券紙を漉く特典が期限を迎えると業界はまた行き詰まり、会社は同じ年の秋、先頭に立って同業5社と協調のための機関をつくり、紙価の取り決めと輸入紙の抑え込みにあたった。これが日本製紙聯合会成立の端緒である。市場で採算が立たない間、この会社を支えたのは官の注文と同業の価格協定の二つだった。
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [11]明治9年5月、紙幣寮抄紙局との混同を避けるため称号を製紙会社と改めた
- [14]明治13年秋、製紙会社は率先して同業5社とともに協調機関を組織し、紙価の協定および輸入防遏に努めた。これが日本製紙連合会成立の端緒である
- [15]明治13年秋、製紙会社は率先して同業5社とともに協調機関を組織し、紙価の協定および輸入防遏に努めた。これが日本製紙連合会成立の端緒である
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [12]抄紙会社の苦境に活を入れたのは紙幣寮からの地券・印紙類の用紙の注文で、これ以後創立以来の損失をつぐなうことができた
- [13]紙幣寮の注文に続いて西南の役が印刷用紙の需要を急激にふやし、製紙業に最初のブームが訪れた
参考文献[1]-[15]
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [1]渋沢栄一は明治4年に官職にあったころ、洋式製紙と印刷の設備が国内に無いことを補うため政府事業として経営する建議を出したが否決された
- [3]渋沢栄一は政府の御為替方であった三井組・小野組・島田組に、株式組織で製紙事業を起こすよう勧説した
- [4]明治5年11月に三井治郎右衛門ら12名が発起人となって会社創立を出願し、明治6年2月に認可されて資本金15万円の抄紙会社が設立された
- [5]工場敷地は水利に恵まれた東京府下王子村に定められ、わが国最初の煉瓦造工場が建設された
- [6]製紙機械は英国製の優秀機を輸入するとともに技師を招聘し、明治8年6月に米人技師を教師として試運転に着手した
- [7]抄紙会社は明治7年1月に渋沢栄一へ会社の事務担任を委託したが、銀行との兼務で多忙なため谷敬三を支配人とし、16歳の大川平三郎を現場掛として製紙の勉強に当たらせた
- [10]当時の洋紙の市況は手漉和紙の全盛時代で、おびただしい輸入紙に悩まされ、大量に製造される洋紙は常に生産過剰となって市価を低落させた
- [11]明治9年5月、紙幣寮抄紙局との混同を避けるため称号を製紙会社と改めた
- [14]明治13年秋、製紙会社は率先して同業5社とともに協調機関を組織し、紙価の協定および輸入防遏に努めた。これが日本製紙連合会成立の端緒である
- [15]明治13年秋、製紙会社は率先して同業5社とともに協調機関を組織し、紙価の協定および輸入防遏に努めた。これが日本製紙連合会成立の端緒である
- 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
- [2]渋沢栄一は1867年に徳川民部卿の随員として海外を視察し、製紙および印刷事業を文明の源泉と認識した
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [8]外人技師の月給は200円から250円ほどで、一職工として入社した大川平三郎の初任給は5円であった
- [9]抄紙会社は当時の一流設備と技術を入れて開業したが販売は振るわず、発足から明治8年まで4万円以上の赤字を出した
- [12]抄紙会社の苦境に活を入れたのは紙幣寮からの地券・印紙類の用紙の注文で、これ以後創立以来の損失をつぐなうことができた
- [13]紙幣寮の注文に続いて西南の役が印刷用紙の需要を急激にふやし、製紙業に最初のブームが訪れた
1879年〜襤褸から木材へ替えた気田工場の原料転換
欧米の製紙は主な原料を襤褸に頼り、日本の工場もこれにならって、襤褸を集めやすい都市に建てられていた。輸入紙の安さに対抗するため、業界が次に取り組んだのは生産費を下げることで、その苦労は大きかった。会社は1879年に大川平三郎氏を米国へ送って製紙技術を研究させたが、そのころ欧米では襤褸が足りなくなって値が跳ね上がっており、それをしのぐため麦わらを混ぜ込む方法が生み出されていた。大川氏が日本へ持ち帰ったのがこの新しい技法であり、渋沢氏は後年、藁から紙ができるとは切支丹の法かと思ったと話している。原料を安いものへ切り替える道はここで開け、のちに大川氏自身の努力と三井の資本に支えられて、紙価を下げる力になった。
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [16]欧米の製紙はボロを主原料としており、日本もそれにならって工場はボロの集めやすい都市に設けられることが多かった
- [17]安い輸入紙に対抗する次の手として、業界は生産費の切り下げに苦心した
- [19]欧米ではボロの入手が限界にきて値段も急騰したため、打開策として麦わらを混ぜる方法が開発されていた
- [20]大川平三郎が米国出張から持ち帰ったのは麦わらを混ぜる新技法で、渋沢栄一は後年「わらが紙になるなどそれこそ切支丹の法かとその時分は思った」と語っている
- [21]大川平三郎が持ち帰った新技法は、のちに大川自身の努力と三井の資本とを支えにして紙価引き下げに大きな力を発揮した
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [18]明治12年、会社は大川平三郎を米国に派遣して製紙技術の研究に当たらせた
1887年3月、会社は資本金を50万円に増やして第二工場を設け、同年12月には静岡県秋葉山麓に気田工場を新設した。気田と中部の両工場は、1880年代のうちに買い取っておいた天竜川流域の山林を当てにして建てられた。そのうち日本で最初の木材パルプ工場となったものは、製紙の原料が襤褸から木材パルプへ移り変わる節目を画した。1893年11月に社名を王子製紙と改めた会社は、日清戦争をはさんで新聞・雑誌と一般の出版物が急に増えると、自社の生産に四日市製紙から毎月受け取る30万ポンドを加えて、各新聞社の差し迫った需要に応えた。原料を木材へ切り替えた時点で、競争の土俵は襤褸をどれだけ集められるかから、山林と水利を持っているかどうかへ移っていた。
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [22]明治20年3月に50万円へ増資して第二工場を増設し、同年12月に静岡県秋葉山麓へわが国最初の木材パルプ工場である気田工場を新設した
- [24]気田工場の新設は、製紙原料が従来のボロ時代から木材パルプ時代に移った一転換期をなすものであった
- [25]明治26年11月、社名を王子製紙と変更した
- [26]日清戦中戦後は新聞雑誌一般出版物が激増して売上げが上昇し、自社生産のほか毎月四日市製紙から30万ポンドの供給を受けて各新聞社の急需をまかなった
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
- [23]王子ではすでに明治20年代に天竜川流域の山林を買収し、気田・中部の両工場を建設した
需要の増加が続く見通しから、会社は1896年に秋葉山麓へもう一つ新聞用紙工場を建てることとし、200万円の増資案を大株主の三井家に諮った。三井家は専務1名を送ることを条件にこれを承認した。同年9月、米国から帰って技術面を担当していた大川平三郎氏と、三井家からの藤山雷太氏の二名が専務となり、ただちに中部工場の建設に着手した。三井側では中上川彦次郎氏が、この増資を機に渋沢氏の握る実権を三井の手へ納めようと図っていた。中部工場は1899年に操業へ入ったが、天竜川流域の両工場は水害が重なって損失を積んだ。資本を外から入れる判断と、経営の席を譲る判断は、この時点で切り離せなくなっていた。
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [27]需要増加の傾向から明治29年に秋葉山麓へ一大新聞用紙工場(中部工場)を新設することとし、200万円の増資案を大株主の三井家に諮った
- [28]三井家は専務1名を送ることを条件に増資を承認した
- [29]明治29年9月、米国から帰朝して技術面を担当していた大川平三郎と三井家からの藤山雷太の二人を専務とし、ただちに新工場の建設に着手した
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [30]増資の相談を受けた中上川彦次郎は、これを機会に渋沢栄一が握っていた王子の実権を三井の手に納めようとした
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
- [31]中部工場は明治32年に操業を開始した。天竜川流域の気田・中部両工場は、期待に反してたび重なる水害のため損失を重ねた
参考文献[16]-[31]
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [16]欧米の製紙はボロを主原料としており、日本もそれにならって工場はボロの集めやすい都市に設けられることが多かった
- [17]安い輸入紙に対抗する次の手として、業界は生産費の切り下げに苦心した
- [19]欧米ではボロの入手が限界にきて値段も急騰したため、打開策として麦わらを混ぜる方法が開発されていた
- [20]大川平三郎が米国出張から持ち帰ったのは麦わらを混ぜる新技法で、渋沢栄一は後年「わらが紙になるなどそれこそ切支丹の法かとその時分は思った」と語っている
- [21]大川平三郎が持ち帰った新技法は、のちに大川自身の努力と三井の資本とを支えにして紙価引き下げに大きな力を発揮した
- [30]増資の相談を受けた中上川彦次郎は、これを機会に渋沢栄一が握っていた王子の実権を三井の手に納めようとした
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [18]明治12年、会社は大川平三郎を米国に派遣して製紙技術の研究に当たらせた
- [22]明治20年3月に50万円へ増資して第二工場を増設し、同年12月に静岡県秋葉山麓へわが国最初の木材パルプ工場である気田工場を新設した
- [24]気田工場の新設は、製紙原料が従来のボロ時代から木材パルプ時代に移った一転換期をなすものであった
- [25]明治26年11月、社名を王子製紙と変更した
- [26]日清戦中戦後は新聞雑誌一般出版物が激増して売上げが上昇し、自社生産のほか毎月四日市製紙から30万ポンドの供給を受けて各新聞社の急需をまかなった
- [27]需要増加の傾向から明治29年に秋葉山麓へ一大新聞用紙工場(中部工場)を新設することとし、200万円の増資案を大株主の三井家に諮った
- [28]三井家は専務1名を送ることを条件に増資を承認した
- [29]明治29年9月、米国から帰朝して技術面を担当していた大川平三郎と三井家からの藤山雷太の二人を専務とし、ただちに新工場の建設に着手した
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
- [23]王子ではすでに明治20年代に天竜川流域の山林を買収し、気田・中部の両工場を建設した
- [31]中部工場は明治32年に操業を開始した。天竜川流域の気田・中部両工場は、期待に反してたび重なる水害のため損失を重ねた
1898年〜ストライキと資本金半減が招いた王子製紙の実権の移行
二人の専務のあいだには程なく感情の縺れが生じた。1898年、それまで藤山雷太氏とともに専務であった大川平三郎氏は取締役へ格下げとなり、処遇に反対した技術者たちが工員を動かした。同年8月、大川方の現場従業員百五十余名が立ち上がり、日本で最初の大規模なストライキが起きた。争議は渋沢栄一氏と大川氏の辞任によって収拾され、藤山氏が単独の専務として社務を掌握した。創業から25年を担った渋沢氏と、16歳で現場に入った大川氏が、同じ争議で会社を離れたことになる。会社を興した二人が去り、資本を出した三井家が残る決着となった。
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [32]中部工場の建設着手後、大川平三郎と藤山雷太の両専務の間に感情の縺れが生じた
- [34]明治31年8月、大川方の現場従業員150余名によってわが国最初の大ストライキが発生した
- [35]争議は渋沢栄一と大川平三郎の辞任によって収拾され、藤山雷太が単独専務として社務を掌握するに至った
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [33]明治31年、それまで藤山雷太とともに専務であった大川平三郎は取締役に格下げとなり、これを知った技術者たちが大川の処遇に反対して工員をそそのかした
- [36]創設以来この会社に情熱を注いできた大川平三郎は古巣を離れ、渋沢栄一も会社を去った
三井の首脳・益田孝氏が、製紙業にはこりごりしたと嘆いたのはこの時期である。現場員の多くが離れた工場は思うように動かず、1902年4月には藤山雷太氏も職を退き、専務の座は三井銀行神戸支店長だった鈴木梅四郎氏に移った。着任した鈴木氏がまず実態を洗うと、巨額の赤字の出所は1899年稼働の中部工場だった。処理は翌1903年7月で、300万円の資本金を150万円減らし、減らした額と同じだけ新株を出して三井家に持たせた。この処理を境に、以後数十年にわたり会社を動かす力はすっかり三井家の手に移り、損失を大株主が引き受けた形で会社の持ち主が替わった。
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
- [37]日露戦争前は製紙業の経営の基礎が定まらず、三井の首脳益田孝は「製紙業にはこりごりした」と嘆いていた
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [38]多くの現場員が去ったのちの工場は意のごとくならず、藤山雷太専務も明治35年4月に辞任した
- [39]藤山雷太の後任として、三井銀行神戸支店長の鈴木梅四郎が専務に就任した
- [40]鈴木梅四郎は着任早々に工場の実態を調査し、明治32年操業開始の中部工場が莫大な損失を出していることを発見した
- [41]明治36年7月、資本金300万円のうち150万円を切り捨て、同時に同額の新株を発行して三井家の所有とした
- [42]この資本整理によって、爾後数十年間、実権は完全に三井家に掌握されることとなった
天竜川流域の気田・中部両工場は水害で損失を重ねており、局面を打開するために採られたのが北海道進出だった。1904年ごろから工場建設の下準備が始まり、水力発電の開発と原料木材の採取に最も適した地として苫小牧が選ばれた。1906年10月、会社は資本金を一挙に600万円へ引き上げ、北海道支笏湖の水利権を獲得した。日露戦争は新聞・雑誌の発行を著増させ、洋紙業の払込資本金は明治末年までに1903年の約三倍、生産高は二・四倍に増えていた。もっとも苫小牧は難工事で、コンクリート用の砂利を海岸で拾い集めねばならぬほどであり、当初400万円の予算のほぼ二倍を投じる結果となった。需要が伸びる局面で、会社は紙を抄く設備より先に原料と動力を押さえにいった。
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
- [43]気田・中部の両工場がたび重なる水害で損失を重ねたため、局面を打開するために取られたのが北海道進出であった
- [44]明治37年ころから工場建設の下準備を開始し、水力発電の開発と原料木材の採取に最適の地として苫小牧を選び、明治39年に工場建設地を決定した
- [46]明治末年を日露戦争前の明治36年と比べると、製紙業の払い込み資本金は約3倍、生産高は2.4倍に増大し、工場数は33を数えた
- [47]苫小牧はコンクリート用の砂利を海岸で拾い集めねばならないほどの難工事で、当初の400万円の予算のほぼ2倍の費用を投下する結果となった
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [45]明治39年10月に資本金を600万円へ増資し、北海道支笏湖の水利権を獲得した
参考文献[32]-[47]
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [32]中部工場の建設着手後、大川平三郎と藤山雷太の両専務の間に感情の縺れが生じた
- [34]明治31年8月、大川方の現場従業員150余名によってわが国最初の大ストライキが発生した
- [35]争議は渋沢栄一と大川平三郎の辞任によって収拾され、藤山雷太が単独専務として社務を掌握するに至った
- [38]多くの現場員が去ったのちの工場は意のごとくならず、藤山雷太専務も明治35年4月に辞任した
- [39]藤山雷太の後任として、三井銀行神戸支店長の鈴木梅四郎が専務に就任した
- [40]鈴木梅四郎は着任早々に工場の実態を調査し、明治32年操業開始の中部工場が莫大な損失を出していることを発見した
- [41]明治36年7月、資本金300万円のうち150万円を切り捨て、同時に同額の新株を発行して三井家の所有とした
- [42]この資本整理によって、爾後数十年間、実権は完全に三井家に掌握されることとなった
- [45]明治39年10月に資本金を600万円へ増資し、北海道支笏湖の水利権を獲得した
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [33]明治31年、それまで藤山雷太とともに専務であった大川平三郎は取締役に格下げとなり、これを知った技術者たちが大川の処遇に反対して工員をそそのかした
- [36]創設以来この会社に情熱を注いできた大川平三郎は古巣を離れ、渋沢栄一も会社を去った
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
- [37]日露戦争前は製紙業の経営の基礎が定まらず、三井の首脳益田孝は「製紙業にはこりごりした」と嘆いていた
- [43]気田・中部の両工場がたび重なる水害で損失を重ねたため、局面を打開するために取られたのが北海道進出であった
- [44]明治37年ころから工場建設の下準備を開始し、水力発電の開発と原料木材の採取に最適の地として苫小牧を選び、明治39年に工場建設地を決定した
- [46]明治末年を日露戦争前の明治36年と比べると、製紙業の払い込み資本金は約3倍、生産高は2.4倍に増大し、工場数は33を数えた
- [47]苫小牧はコンクリート用の砂利を海岸で拾い集めねばならないほどの難工事で、当初の400万円の予算のほぼ2倍の費用を投下する結果となった
筆者考察
国が起こせなかった事業を民間で興すとき、創業者が背負うのは資金だけではない。渋沢栄一氏が1873年に開いた抄紙会社は、機械を英国から買い、技師を月給200円から250円で招き、操作法まで借りて始めた。同じ工場で製紙を覚えた大川平三郎氏の初任給は5円である。教える側と覚える側の待遇が40倍から50倍も開く事業では、紙が売れても利益は残らない。開業から3年で4万円を超えた赤字はその差の集計であり、これを埋めたのは市場ではなく紙幣寮の地券用紙という官の注文だった。政府事業として起こす建議を否決された渋沢氏は民間へ回ったが、会社を支えた需要は結局のところ政府から来ている。
原料を自分の手に握ろうとする投資は、その会社の持ち主を替えることがある。1887年に気田へ日本初の木材パルプ工場を建てた王子製紙は、襤褸を買い集める商いから、山と水を保有する事業へ移った。保有には襤褸の買い付けとは桁の違う資金が要る。1896年に中部工場の増資200万円を三井家へ諮った時点で、会社は専務1名の派遣という条件を呑んでいた。1898年のストライキで渋沢栄一氏と大川平三郎氏が去り、1903年には資本金300万円の半分を切り捨てて同額の新株を三井家へ渡す。損失を引き受けた者が実権を取るのは資本の道理である。1906年に苫小牧と支笏湖の水利権へ600万円を投じたのは、もう渋沢氏の会社ではなかった。
- 出所は会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」。
出典・参考
4件
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- 日本産業史 第1巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」