渋沢栄一
経歴1873〜1898年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1873年主要役職の状況(推定含む目安)1898年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 抄紙会社(現王子ホールディングス) | 1873 | 設立 | ||
| 1874 | 事務担任(代表取締役として経営を主宰。王子製紙の初代社長と数えられる) | ||||
| 1893 | 取締役会長 | ||||
| 1898 | 会長 退任 |
社長就任までの出自
出自
渋沢栄一氏は埼玉県血洗島村の豪農の家に生まれた。1867年に徳川民部卿の随員として欧州を視察し、維新後は大蔵省に出仕して1873年に34歳で退官した。退官後の本務は第一国立銀行の頭取であり、抄紙会社の経営はこの銀行と兼ねて担った。抄紙会社の最大株主は設立当初から三井家だった。渋沢栄一氏は自らの資本で会社を握ったのではなく、出資者から経営を任された立場だったとみられる。
社長に選ばれた経緯
抜擢
抄紙会社は1873年2月に設立の認可を受け、渋沢栄一氏は同年5月に大蔵省を退くと、第一国立銀行の創立と並行して会社の事務に直接当たった。会社は1874年1月、事務担任を正式に渋沢栄一氏へ委託した。最大株主の三井家も経営を渋沢栄一氏に一任し、渋沢栄一氏は代表取締役として経営を主宰した。前任の経営者はおらず、出資を説いた本人がそのまま経営を引き受けた人事だったことになる。
在任中の主な施策
施策
1880年秋、紙価の下落に苦しむなかで、会社は先頭に立って同業5社と協調機関を組織し、紙価の協定と輸入紙の防遏に当たった。これが日本製紙連合会の端緒である。原料は襤褸から稲藁パルプへ、さらに1887年12月に新設した気田工場で木材パルプへと切り替えた。1896年には中部工場の建設資金を三井家の増資に仰ぎ、三井側はこれを機に渋沢栄一氏の握る実権を移そうとした。在任中の拡張の資金手当てが、そのまま経営権を三井家へ移す入口になったとみられる。
創業ストーリー
創業ストーリー
渋沢栄一氏は1867年、徳川民部卿の随員として欧州を視察し、製紙と印刷の事業を文明の源泉と受け止めて帰国した。大蔵省に在職した1871年、国内に洋式の製紙・印刷設備が無い現状を政府の事業で補うよう建議したが、案は通らなかった。官で興せないと分かった渋沢栄一氏は、政府の御為替方として金融を担っていた三井組・小野組・島田組に、株式組織で製紙会社を起こすよう働きかけた。説得の席では「製紙事業といふものは、西洋学問を応用しなければならぬ事業で、目前の利益は少なからう」と前置きし、資力に加えて勇気と見識を出資者の条件に挙げた。
- 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
- [15]渋沢は慶応3年、徳川民部卿の随員として海外を視察し、製紙および印刷事業は文明の源泉であることを感じていた。三組への勧誘で「製紙事業といふものは、西洋学問を応用しなければならぬ事業で、目前の利益は少なからうし、而も十分な資力を伴はなければならぬ。其の上、勇気と見識とが必要である」と説いた。明治5年11月に歩み寄りがなり、6年2月認可。6年5月に渋沢は大蔵省を退き第一国立銀行を創立するかたわら抄紙会社の経営事務に直接当たった。機械はロンドンのイーストン・アンダーソン社から「米国又は英国其の外の国に於て第一等の器械」を購入し、外人技師を建設・抄紙・化学各1名、3カ年契約で雇い入れた。支配人には益田孝の推薦で谷敬三を招聘。王子村は用水、霊岸島・横浜との舟運、消費地東京に近い点で選ばれた。10月22日に見本を日報社と紙幣寮に提出し、翌日洋紙27万5千枚の注文を受け、明治8年12月16日に落成式を挙行。明治31年9月、会長の渋沢は辞任し、同じ月、大川もまた王子を去った
- [18]渋沢は慶応3年、徳川民部卿の随員として海外を視察し、製紙および印刷事業は文明の源泉であることを感じていた。三組への勧誘で「製紙事業といふものは、西洋学問を応用しなければならぬ事業で、目前の利益は少なからうし、而も十分な資力を伴はなければならぬ。其の上、勇気と見識とが必要である」と説いた。明治5年11月に歩み寄りがなり、6年2月認可。6年5月に渋沢は大蔵省を退き第一国立銀行を創立するかたわら抄紙会社の経営事務に直接当たった。機械はロンドンのイーストン・アンダーソン社から「米国又は英国其の外の国に於て第一等の器械」を購入し、外人技師を建設・抄紙・化学各1名、3カ年契約で雇い入れた。支配人には益田孝の推薦で谷敬三を招聘。王子村は用水、霊岸島・横浜との舟運、消費地東京に近い点で選ばれた。10月22日に見本を日報社と紙幣寮に提出し、翌日洋紙27万5千枚の注文を受け、明治8年12月16日に落成式を挙行。明治31年9月、会長の渋沢は辞任し、同じ月、大川もまた王子を去った
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [16]明治4年、官職にあった渋沢栄一氏は洋式製紙と印刷設備を政府事業として経営することを建議したが否決され、御為替方の三井組・小野組・島田組に株式組織で起こすよう勧説した。5年11月に三井治郎右衛門・小野善右衛門・島田八郎右衛門ら12氏が発起人となり出願、6年2月に資本金15万円の抄紙会社が認可。20年3月に50万円に増資して第二工場を増設、同年12月に秋葉山麓に木材パルプ工場気田工場を新設。26年11月に社名を王子製紙と変更。29年に中部工場新設のため200万円増資案を大株主の三井家に図り、三井家は専務1名を送ることを条件に承認、同年9月に大川平三郎氏と藤山雷太氏の2人を専務とした
- [17]明治4年、官職にあった渋沢栄一氏は洋式製紙と印刷設備を政府事業として経営することを建議したが否決され、御為替方の三井組・小野組・島田組に株式組織で起こすよう勧説した。5年11月に三井治郎右衛門・小野善右衛門・島田八郎右衛門ら12氏が発起人となり出願、6年2月に資本金15万円の抄紙会社が認可。20年3月に50万円に増資して第二工場を増設、同年12月に秋葉山麓に木材パルプ工場気田工場を新設。26年11月に社名を王子製紙と変更。29年に中部工場新設のため200万円増資案を大株主の三井家に図り、三井家は専務1名を送ることを条件に承認、同年9月に大川平三郎氏と藤山雷太氏の2人を専務とした
三組の足並みはすぐには揃わず、歩み寄りが成ったのは1872年11月である。三井治郎右衛門氏・小野善右衛門氏・島田八郎右衛門氏ら12名が発起人となって資本金15万円の抄紙会社の設立を出願し、1873年2月に認可を得た。渋沢栄一氏は同年5月に大蔵省を退き、第一国立銀行の創立と並行して抄紙会社の事務を自ら引き受けた。機械はロンドンの業者から英米で第一等とされる器械を買い入れ、建設・抄紙・化学の外国人技師を3年契約で雇った。支配人には益田孝氏の推す谷敬三氏を迎え、工場の用地には、用水を引けて舟で資材と製品を運べ、消費地の東京にも近い王子村を選んだ。
- 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
- [19]渋沢は慶応3年、徳川民部卿の随員として海外を視察し、製紙および印刷事業は文明の源泉であることを感じていた。三組への勧誘で「製紙事業といふものは、西洋学問を応用しなければならぬ事業で、目前の利益は少なからうし、而も十分な資力を伴はなければならぬ。其の上、勇気と見識とが必要である」と説いた。明治5年11月に歩み寄りがなり、6年2月認可。6年5月に渋沢は大蔵省を退き第一国立銀行を創立するかたわら抄紙会社の経営事務に直接当たった。機械はロンドンのイーストン・アンダーソン社から「米国又は英国其の外の国に於て第一等の器械」を購入し、外人技師を建設・抄紙・化学各1名、3カ年契約で雇い入れた。支配人には益田孝の推薦で谷敬三を招聘。王子村は用水、霊岸島・横浜との舟運、消費地東京に近い点で選ばれた。10月22日に見本を日報社と紙幣寮に提出し、翌日洋紙27万5千枚の注文を受け、明治8年12月16日に落成式を挙行。明治31年9月、会長の渋沢は辞任し、同じ月、大川もまた王子を去った
- [21]渋沢は慶応3年、徳川民部卿の随員として海外を視察し、製紙および印刷事業は文明の源泉であることを感じていた。三組への勧誘で「製紙事業といふものは、西洋学問を応用しなければならぬ事業で、目前の利益は少なからうし、而も十分な資力を伴はなければならぬ。其の上、勇気と見識とが必要である」と説いた。明治5年11月に歩み寄りがなり、6年2月認可。6年5月に渋沢は大蔵省を退き第一国立銀行を創立するかたわら抄紙会社の経営事務に直接当たった。機械はロンドンのイーストン・アンダーソン社から「米国又は英国其の外の国に於て第一等の器械」を購入し、外人技師を建設・抄紙・化学各1名、3カ年契約で雇い入れた。支配人には益田孝の推薦で谷敬三を招聘。王子村は用水、霊岸島・横浜との舟運、消費地東京に近い点で選ばれた。10月22日に見本を日報社と紙幣寮に提出し、翌日洋紙27万5千枚の注文を受け、明治8年12月16日に落成式を挙行。明治31年9月、会長の渋沢は辞任し、同じ月、大川もまた王子を去った
- [22]渋沢は慶応3年、徳川民部卿の随員として海外を視察し、製紙および印刷事業は文明の源泉であることを感じていた。三組への勧誘で「製紙事業といふものは、西洋学問を応用しなければならぬ事業で、目前の利益は少なからうし、而も十分な資力を伴はなければならぬ。其の上、勇気と見識とが必要である」と説いた。明治5年11月に歩み寄りがなり、6年2月認可。6年5月に渋沢は大蔵省を退き第一国立銀行を創立するかたわら抄紙会社の経営事務に直接当たった。機械はロンドンのイーストン・アンダーソン社から「米国又は英国其の外の国に於て第一等の器械」を購入し、外人技師を建設・抄紙・化学各1名、3カ年契約で雇い入れた。支配人には益田孝の推薦で谷敬三を招聘。王子村は用水、霊岸島・横浜との舟運、消費地東京に近い点で選ばれた。10月22日に見本を日報社と紙幣寮に提出し、翌日洋紙27万5千枚の注文を受け、明治8年12月16日に落成式を挙行。明治31年9月、会長の渋沢は辞任し、同じ月、大川もまた王子を去った
- [23]渋沢は慶応3年、徳川民部卿の随員として海外を視察し、製紙および印刷事業は文明の源泉であることを感じていた。三組への勧誘で「製紙事業といふものは、西洋学問を応用しなければならぬ事業で、目前の利益は少なからうし、而も十分な資力を伴はなければならぬ。其の上、勇気と見識とが必要である」と説いた。明治5年11月に歩み寄りがなり、6年2月認可。6年5月に渋沢は大蔵省を退き第一国立銀行を創立するかたわら抄紙会社の経営事務に直接当たった。機械はロンドンのイーストン・アンダーソン社から「米国又は英国其の外の国に於て第一等の器械」を購入し、外人技師を建設・抄紙・化学各1名、3カ年契約で雇い入れた。支配人には益田孝の推薦で谷敬三を招聘。王子村は用水、霊岸島・横浜との舟運、消費地東京に近い点で選ばれた。10月22日に見本を日報社と紙幣寮に提出し、翌日洋紙27万5千枚の注文を受け、明治8年12月16日に落成式を挙行。明治31年9月、会長の渋沢は辞任し、同じ月、大川もまた王子を去った
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [20]明治4年、官職にあった渋沢栄一氏は洋式製紙と印刷設備を政府事業として経営することを建議したが否決され、御為替方の三井組・小野組・島田組に株式組織で起こすよう勧説した。5年11月に三井治郎右衛門・小野善右衛門・島田八郎右衛門ら12氏が発起人となり出願、6年2月に資本金15万円の抄紙会社が認可。20年3月に50万円に増資して第二工場を増設、同年12月に秋葉山麓に木材パルプ工場気田工場を新設。26年11月に社名を王子製紙と変更。29年に中部工場新設のため200万円増資案を大株主の三井家に図り、三井家は専務1名を送ることを条件に承認、同年9月に大川平三郎氏と藤山雷太氏の2人を専務とした
1875年6月に工場が落成して機械を回したが、紙はほとんど出ず、出てもすぐに切れた。紙らしいものが流れ出たのは同年8〜9月で、それも荷造りに使う厚手の粗い紙だった。同年10月に白紙の見本を紙幣寮へ出すと翌日に洋紙27万5,000枚の注文が入り、12月16日に開業式を挙行した。それでも年末までに試運転の損耗は4万円を超えた。渋沢栄一氏は回顧談で、この事業を「外国から機械を仕入れ、技師まで傭うて工業を起したのは、日本に於ては殆ど此が始めてである」と位置づけている。
- 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
- [24]渋沢栄一回顧談:明治8年6月に落成し運転を始めたが、紙はほとんど出ず、出ても長く続かず切れた。紙らしいものが流出したのは8年の8、9月で、荷包みをするような粗末な厚い紙だった。8年末までに営業試験費等の損耗がおよそ4万円以上になった。「外国から機械を仕入れ、技師まで傭うて工業を起したのは、日本に於ては殆ど此が始めてである」
- [25]渋沢栄一回顧談:明治8年6月に落成し運転を始めたが、紙はほとんど出ず、出ても長く続かず切れた。紙らしいものが流出したのは8年の8、9月で、荷包みをするような粗末な厚い紙だった。8年末までに営業試験費等の損耗がおよそ4万円以上になった。「外国から機械を仕入れ、技師まで傭うて工業を起したのは、日本に於ては殆ど此が始めてである」
- [26]渋沢は慶応3年、徳川民部卿の随員として海外を視察し、製紙および印刷事業は文明の源泉であることを感じていた。三組への勧誘で「製紙事業といふものは、西洋学問を応用しなければならぬ事業で、目前の利益は少なからうし、而も十分な資力を伴はなければならぬ。其の上、勇気と見識とが必要である」と説いた。明治5年11月に歩み寄りがなり、6年2月認可。6年5月に渋沢は大蔵省を退き第一国立銀行を創立するかたわら抄紙会社の経営事務に直接当たった。機械はロンドンのイーストン・アンダーソン社から「米国又は英国其の外の国に於て第一等の器械」を購入し、外人技師を建設・抄紙・化学各1名、3カ年契約で雇い入れた。支配人には益田孝の推薦で谷敬三を招聘。王子村は用水、霊岸島・横浜との舟運、消費地東京に近い点で選ばれた。10月22日に見本を日報社と紙幣寮に提出し、翌日洋紙27万5千枚の注文を受け、明治8年12月16日に落成式を挙行。明治31年9月、会長の渋沢は辞任し、同じ月、大川もまた王子を去った
- [27]渋沢栄一回顧談:明治8年6月に落成し運転を始めたが、紙はほとんど出ず、出ても長く続かず切れた。紙らしいものが流出したのは8年の8、9月で、荷包みをするような粗末な厚い紙だった。8年末までに営業試験費等の損耗がおよそ4万円以上になった。「外国から機械を仕入れ、技師まで傭うて工業を起したのは、日本に於ては殆ど此が始めてである」
- [28]渋沢栄一回顧談:明治8年6月に落成し運転を始めたが、紙はほとんど出ず、出ても長く続かず切れた。紙らしいものが流出したのは8年の8、9月で、荷包みをするような粗末な厚い紙だった。8年末までに営業試験費等の損耗がおよそ4万円以上になった。「外国から機械を仕入れ、技師まで傭うて工業を起したのは、日本に於ては殆ど此が始めてである」
原料の手当てでは、現場の技術者の提案を経営の判断に取り込んだ。1879年、抄紙技師に育った大川平三郎氏が経営の改善を説く建白書を出すと、渋沢栄一氏はこれを読んで大川平三郎氏の米国派遣を決めた。1880年10月に帰国した大川平三郎氏は稲藁のパルプで洋紙を抄き、量産のための藁釜の新調案は渋沢栄一氏以下の全株主の承認を得て、1883年2月に日産1万ポンドの設備となった。1887年には資本金を50万円へ増やして第二工場を設け、同年12月には静岡県の秋葉山麓に木材パルプの気田工場を新設した。1893年11月に社名を王子製紙と改めた同社で、渋沢栄一氏は取締役会長に就任した。
- 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
- [29]明治12年、大川平三郎が会社に長文の建白書を提出し、これを読んだ渋沢が大川を外国に派遣することを決めた。大川は13年10月に帰国してワラパルプの製造に成功し、量産のための「藁釜新調意見書」は渋沢以下全株主によって承認され、16年2月に日産1万ポンドを実現した
- [30]明治12年、大川平三郎が会社に長文の建白書を提出し、これを読んだ渋沢が大川を外国に派遣することを決めた。大川は13年10月に帰国してワラパルプの製造に成功し、量産のための「藁釜新調意見書」は渋沢以下全株主によって承認され、16年2月に日産1万ポンドを実現した
- [31]明治12年、大川平三郎が会社に長文の建白書を提出し、これを読んだ渋沢が大川を外国に派遣することを決めた。大川は13年10月に帰国してワラパルプの製造に成功し、量産のための「藁釜新調意見書」は渋沢以下全株主によって承認され、16年2月に日産1万ポンドを実現した
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [32]明治4年、官職にあった渋沢栄一氏は洋式製紙と印刷設備を政府事業として経営することを建議したが否決され、御為替方の三井組・小野組・島田組に株式組織で起こすよう勧説した。5年11月に三井治郎右衛門・小野善右衛門・島田八郎右衛門ら12氏が発起人となり出願、6年2月に資本金15万円の抄紙会社が認可。20年3月に50万円に増資して第二工場を増設、同年12月に秋葉山麓に木材パルプ工場気田工場を新設。26年11月に社名を王子製紙と変更。29年に中部工場新設のため200万円増資案を大株主の三井家に図り、三井家は専務1名を送ることを条件に承認、同年9月に大川平三郎氏と藤山雷太氏の2人を専務とした
- [33]明治4年、官職にあった渋沢栄一氏は洋式製紙と印刷設備を政府事業として経営することを建議したが否決され、御為替方の三井組・小野組・島田組に株式組織で起こすよう勧説した。5年11月に三井治郎右衛門・小野善右衛門・島田八郎右衛門ら12氏が発起人となり出願、6年2月に資本金15万円の抄紙会社が認可。20年3月に50万円に増資して第二工場を増設、同年12月に秋葉山麓に木材パルプ工場気田工場を新設。26年11月に社名を王子製紙と変更。29年に中部工場新設のため200万円増資案を大株主の三井家に図り、三井家は専務1名を送ることを条件に承認、同年9月に大川平三郎氏と藤山雷太氏の2人を専務とした
- 製紙業の100年 紙の文化と産業(1973年)「王子製紙の人びと」
- [34]明治26年に商法会社編が施行されると、商法の規定に基づいて王子製紙株式会社と改称し、渋沢は同社の取締役会長となった
会社の形を変えたのは、1896年の中部工場建設に伴う増資である。200万円の増資を大株主の三井家に相談すると、三井家は専務1名の派遣を承認の条件とし、同年9月に大川平三郎氏と三井家の藤山雷太氏が専務に並んだ。三井側で増資を動かした中上川彦次郎氏は、これを機に渋沢栄一氏の握る実権を三井へ移そうとしていた。1898年8月、大川平三郎氏の専務からの格下げに反発した従業員がストライキに入り、争議は渋沢栄一氏と大川平三郎氏の辞任で収拾された。渋沢栄一氏は同年9月に会長を辞任し、同じ月に大川平三郎氏も王子製紙を去った。
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- [35]明治4年、官職にあった渋沢栄一氏は洋式製紙と印刷設備を政府事業として経営することを建議したが否決され、御為替方の三井組・小野組・島田組に株式組織で起こすよう勧説した。5年11月に三井治郎右衛門・小野善右衛門・島田八郎右衛門ら12氏が発起人となり出願、6年2月に資本金15万円の抄紙会社が認可。20年3月に50万円に増資して第二工場を増設、同年12月に秋葉山麓に木材パルプ工場気田工場を新設。26年11月に社名を王子製紙と変更。29年に中部工場新設のため200万円増資案を大株主の三井家に図り、三井家は専務1名を送ることを条件に承認、同年9月に大川平三郎氏と藤山雷太氏の2人を専務とした
- [36]明治4年、官職にあった渋沢栄一氏は洋式製紙と印刷設備を政府事業として経営することを建議したが否決され、御為替方の三井組・小野組・島田組に株式組織で起こすよう勧説した。5年11月に三井治郎右衛門・小野善右衛門・島田八郎右衛門ら12氏が発起人となり出願、6年2月に資本金15万円の抄紙会社が認可。20年3月に50万円に増資して第二工場を増設、同年12月に秋葉山麓に木材パルプ工場気田工場を新設。26年11月に社名を王子製紙と変更。29年に中部工場新設のため200万円増資案を大株主の三井家に図り、三井家は専務1名を送ることを条件に承認、同年9月に大川平三郎氏と藤山雷太氏の2人を専務とした
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)
- [37]中上川彦次郎は増資問題を機会に渋沢栄一が握っていた王子の実権を三井の手に納めようとした。明治31年に大川は専務から取締役に格下げとなり、技術者たちが工員とともにストライキに立ち上がった。この争議は渋沢、大川の辞任によって収拾された
- [38]中上川彦次郎は増資問題を機会に渋沢栄一が握っていた王子の実権を三井の手に納めようとした。明治31年に大川は専務から取締役に格下げとなり、技術者たちが工員とともにストライキに立ち上がった。この争議は渋沢、大川の辞任によって収拾された
- 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
- [39]渋沢は慶応3年、徳川民部卿の随員として海外を視察し、製紙および印刷事業は文明の源泉であることを感じていた。三組への勧誘で「製紙事業といふものは、西洋学問を応用しなければならぬ事業で、目前の利益は少なからうし、而も十分な資力を伴はなければならぬ。其の上、勇気と見識とが必要である」と説いた。明治5年11月に歩み寄りがなり、6年2月認可。6年5月に渋沢は大蔵省を退き第一国立銀行を創立するかたわら抄紙会社の経営事務に直接当たった。機械はロンドンのイーストン・アンダーソン社から「米国又は英国其の外の国に於て第一等の器械」を購入し、外人技師を建設・抄紙・化学各1名、3カ年契約で雇い入れた。支配人には益田孝の推薦で谷敬三を招聘。王子村は用水、霊岸島・横浜との舟運、消費地東京に近い点で選ばれた。10月22日に見本を日報社と紙幣寮に提出し、翌日洋紙27万5千枚の注文を受け、明治8年12月16日に落成式を挙行。明治31年9月、会長の渋沢は辞任し、同じ月、大川もまた王子を去った
参考文献6件
参考文献
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(東洋経済新報社、1955年)「王子製紙工業」
- 製紙業の100年 紙の文化と産業(1973年)「王子製紙の人びと」
- 産業フロンティア物語 製紙〈王子製紙〉(ダイヤモンド社、1965年)
- 紙パルプ三国志(1960年)
- 王子製紙(現代企業研究会、1963年)
事実根拠:出所(王子ホールディングス)