鹿島建設:建設業界初の技術研究所の設立と霞が関ビルの完成
技術研究所から霞が関ビルへの技術の資産化
1947年〜改称と共同企業体の導入による資金制約の回避
戦後の数年間、鹿島組が手がけた工事の中心は戦災復旧と駐留軍向けだった。戦時の主な収益源だった軍需工場と外地の工事がなくなった分を、この2つが補った。社名を鹿島建設株式会社に改めたのは1947年12月で、業界で長く通っていた鹿島組の名はここで退いた。情勢が変わったのは1950年の朝鮮動乱で、経済界が活気を取り戻した。電源開発を先頭に港湾整備や輸送力増強の工事が盛んになり、都市部には空前のビルブームが訪れた。九州電力の上椎葉ダムは日本初のアーチダムで、鹿島建設は1952年末から施工に当たった。1954年2月には資本金が2億5,000万円に増えた。朝鮮・台湾にまで及んだ戦前の水力発電工事の経験は、戦後の電源開発の需要にそのまま生かされたとみられる。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「鹿島建設」
- [1]戦後の数年間は復旧工事と駐留軍工事が主体だった
- [2]1947年12月 鹿島組の名称を鹿島建設株式会社へ変更
- [3]1950年の朝鮮動乱を機に電源開発・港湾整備・輸送力増強の工事が活発になり、都市では空前のビルブームが始まった
- 会社銀行八十年史(1955年)「鹿島建設」
- [4]1952年末から施工した九州電力の上椎葉ダムは日本で最初のアーチダム
- [5]1954年2月 資本金を2億5,000万円へ増資
朝鮮事変の少し前、沖縄で大規模な土木建築工事が発注された。当時の日本は資金が不足しており、1社では請け負えないという判断に至った。資金は無いが技術者と資材はあるという前提に立ち、日米合同で引き受ける方式を探した。日本側は大林組・清水組・大成建設・竹中工務店の4社へ協力を求めたが、清水組は他に提携先があるとして、大成建設は外国人との共同作業は難しいとして降り、日本側は3社となった。米国側はモリソン・クヌードセン社1社となり、1950年に提携が成立して沖縄の米軍工事を共同企業体方式で施工した。建設業界でこの方式を日本へ最初に導入したのは鹿島守之助氏だという。
- 歴史をつくる人々(1965年)鹿島守之助「事業経営の目標」
- [6]朝鮮事変の少し前、沖縄に非常に大きな土木建築工事があった
- [7]当時の日本は資金が不足しており単独では請け負えなかった
- [8]金は無いが技術者と資材はあるとして日米合同で引き受ける案を立てた
- [9]大林組・竹中工務店は応じ、清水組は他に提携先があるとして、大成建設は外国人との共同作業が難しいとして辞退し、日本側は3社になった
- [10]米国側はモリソン・クヌードセン社1社となった
- [12]鹿島守之助氏は、建設業界でジョイント・ヴェンチュアを日本へ最初に導入したのは自分だと述べた
- 会社銀行八十年史(1955年)「鹿島建設」
- [11]1950年 米国モリソン・クヌードセン社との提携が成立し、沖縄米軍工事をジョイント・ヴェンチュア方式で施工
戦後に手がけた主な工事には、小河内や五十里などのダム、東京と大阪の地下鉄、そして厚木・松島・鹿屋の飛行場工事があった。共同企業体を組んだモリソン・クヌードセン社は、損失をクレームで回収するために弁護士を立て、最後は米国上院まで持ち込む会社だった。日本の業者が損をすることもあると片づけてきた場面で、契約上の請求権を最後まで行使する構えだった。鹿島建設も厚木と松島の飛行場工事で工事関係のクレームを申し立て、上訴は受理されて厚木は40%、松島は90%が認められた。回収額は約7,000万円で、大林組の約4,000万円、日本鋪道の約3,000万円と合わせて合計約1億4,000万円が戻った。帳簿の上では既に損失として処理されていた資金だった。
- 会社銀行八十年史(1955年)「鹿島建設」
- [13]戦後の主な施工に小河内・五十里などのダム、東京・大阪の地下鉄、厚木・松島・鹿屋の飛行場工事がある
- 歴史をつくる人々(1965年)鹿島守之助「事業経営の目標」
- [14]モリソン・クヌードセン社は損失をカバーするため弁護士を雇い、最後は米国上院まで持ち込んだ
- [15]日本の業者が「損をすることもある」と片づける場面で、米国側は損をしない努力を最後まで行った
- [16]上訴が受理され、工事関係クレームは厚木40%・松島90%が認められた
- [17]回収額は鹿島約7,000万円・大林組約4,000万円・日本鋪道約3,000万円の合計約1億4,000万円
- [18]回収した資金は帳簿上すでに損失として処理されていた
参考文献[1]-[18]
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「鹿島建設」
- [1]戦後の数年間は復旧工事と駐留軍工事が主体だった
- [2]1947年12月 鹿島組の名称を鹿島建設株式会社へ変更
- [3]1950年の朝鮮動乱を機に電源開発・港湾整備・輸送力増強の工事が活発になり、都市では空前のビルブームが始まった
- 会社銀行八十年史(1955年)「鹿島建設」
- [4]1952年末から施工した九州電力の上椎葉ダムは日本で最初のアーチダム
- [5]1954年2月 資本金を2億5,000万円へ増資
- [11]1950年 米国モリソン・クヌードセン社との提携が成立し、沖縄米軍工事をジョイント・ヴェンチュア方式で施工
- [13]戦後の主な施工に小河内・五十里などのダム、東京・大阪の地下鉄、厚木・松島・鹿屋の飛行場工事がある
- 歴史をつくる人々(1965年)鹿島守之助「事業経営の目標」
- [6]朝鮮事変の少し前、沖縄に非常に大きな土木建築工事があった
- [7]当時の日本は資金が不足しており単独では請け負えなかった
- [8]金は無いが技術者と資材はあるとして日米合同で引き受ける案を立てた
- [9]大林組・竹中工務店は応じ、清水組は他に提携先があるとして、大成建設は外国人との共同作業が難しいとして辞退し、日本側は3社になった
- [10]米国側はモリソン・クヌードセン社1社となった
- [12]鹿島守之助氏は、建設業界でジョイント・ヴェンチュアを日本へ最初に導入したのは自分だと述べた
- [14]モリソン・クヌードセン社は損失をカバーするため弁護士を雇い、最後は米国上院まで持ち込んだ
- [15]日本の業者が「損をすることもある」と片づける場面で、米国側は損をしない努力を最後まで行った
- [16]上訴が受理され、工事関係クレームは厚木40%・松島90%が認められた
- [17]回収額は鹿島約7,000万円・大林組約4,000万円・日本鋪道約3,000万円の合計約1億4,000万円
- [18]回収した資金は帳簿上すでに損失として処理されていた
1949年〜業界初の技術研究所という研究投資
土木も建築も技術の進歩は速く、新工法を編み出しても気を抜けばすぐ古い工法になってしまうという見方があった。そこで基礎的で先駆的な研究こそが先々の伸びを生むとして、1949年4月、業界に先がけて鹿島建設技術研究所を設けた。調布市に最新の研究施設を備えて1958年10月に新築された研究所には、厚木・松島のクレームで返ってきた約7,000万円のおよそ半分が充てられた。研究所の役目は基礎研究だけでなく、新工法・新材料の調査研究や、忙しい現場が手に負えない施工上の技術支援にも及んだ。研究の成果である特許と実用新案は、1965年までに約100件以上へ達した。
- 歴史をつくる人々(1965年)鹿島守之助「事業経営の目標」
- [19]新工法を開発しても油断すればたちまち旧工法になるため、日常の研究以外に追いつく方法は無いと判断した
- [22]1958年10月 最新の研究施設を完備した研究所を調布市に新築
- [23]調布の研究所の費用は、クレームで戻った約7,000万円のほぼ半分を充てた
- [24]研究所は基礎研究のほか新工法・新材料の調査研究と、現場がさばききれない施工面の技術支援を担った
- [25]研究の成果である特許・実用新案は1965年までに約100件以上に及んだ
- 会社銀行八十年史(1955年)「鹿島建設」
- [20]1949年4月 建設技術の進歩向上のため鹿島建設技術研究所を設立
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「鹿島建設」
- [21]技術の基礎的・先駆的研究が将来の発展の原動力になるとの認識から、業界に先がけて技術研究所を設立した
業界では「新しいもの好き」と呼ばれた。原子力が国内へ導入されると直ちに原子力室を設け、技術研究所では国の補助金を受けて建設関係の原子力に関する研究を進めた。日本原子力研究所の東海村第一号原子炉は、鹿島建設と清水建設の共同企業体が施工した。モノレールでは日立製作所と提携し、羽田と浜松町を結ぶ区間で最も多くの工区を手がけた。超高層建築についても、早くから電子計算機を導入して構造計算の研究を重ねた。1966年春に完成した電子計算センターのHITAC-5020は、耐震設計計算・地震応答解析・工程管理に用いられた。市場が立ち上がる前に技術を持つことが、実績の無い分野で特命を取る条件だったのだろう。
- 証券アナリストジャーナル 1965年3巻1号
- [26]業界では「新しいもの好き」と呼ばれていた
- [27]原子力が導入されると直ちに原子力室を設け、技術研究所で国の補助金を受けて建設関係の原子力研究を進めた
- [28]東海村の第一号原子炉は鹿島建設と清水建設のジョイント・ベンチャーによる施工
- [29]モノレールでは日立製作所と提携し、羽田〜浜松町間で最も多くの工区を手がけた
- [30]超高層ビルについても早くから電子計算機を駆使して研究を重ねた
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「鹿島建設」
- [31]1966年春に完成した電子計算センターのHITAC-5020を耐震設計計算・地震応答解析・工程管理に用いた
東京・日比谷の三井ビルの工事は三井不動産からの特命で、戦後に三信ビル改修、三井別館、大阪三井ビル、三井本館増築と相次いで納めてきた信用が土台にあり、1957年9月の着工から3年をかけたこの工事では、基礎工法や型枠、高度な金属仕上げの分野で多くの新技術が生まれた。完成したビルによって、建築部門も土木部門と肩を並べて業界の最高位にあると見られるようになった。資本市場とのつながりも変わり、1961年9月1日の増資を機に株式を公開した。1963年には年間受注高1,368億円を計上し、世界の首位にあった米国モリソン・クヌードセン社の1,115億円を上回った。
- 歴史をつくる人々(1965年)鹿島守之助「事業経営の目標」
- [32]三井不動産からの特命受注は、戦後の三信ビル改修・三井別館・大阪三井ビル・三井本館増築などを完成させた信用による
- [33]日比谷の三井ビルは1957年9月着工・3年で完成し、基礎工法・型枠・高度の金属仕上げで新技術が数多く開発された
- [34]三井ビルの完成で建築部門が土木部門と同様に業界最高の地位を占めたと認識された
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「鹿島建設」
- [35]1961年9月1日の増資にあたり株式を公開
- [36]1963年の年間受注高1,368億円は、世界首位だった米国モリソン・クヌードセン社の1,115億円を上回った
参考文献[19]-[36]
- 歴史をつくる人々(1965年)鹿島守之助「事業経営の目標」
- [19]新工法を開発しても油断すればたちまち旧工法になるため、日常の研究以外に追いつく方法は無いと判断した
- [22]1958年10月 最新の研究施設を完備した研究所を調布市に新築
- [23]調布の研究所の費用は、クレームで戻った約7,000万円のほぼ半分を充てた
- [24]研究所は基礎研究のほか新工法・新材料の調査研究と、現場がさばききれない施工面の技術支援を担った
- [25]研究の成果である特許・実用新案は1965年までに約100件以上に及んだ
- [32]三井不動産からの特命受注は、戦後の三信ビル改修・三井別館・大阪三井ビル・三井本館増築などを完成させた信用による
- [33]日比谷の三井ビルは1957年9月着工・3年で完成し、基礎工法・型枠・高度の金属仕上げで新技術が数多く開発された
- [34]三井ビルの完成で建築部門が土木部門と同様に業界最高の地位を占めたと認識された
- 会社銀行八十年史(1955年)「鹿島建設」
- [20]1949年4月 建設技術の進歩向上のため鹿島建設技術研究所を設立
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「鹿島建設」
- [21]技術の基礎的・先駆的研究が将来の発展の原動力になるとの認識から、業界に先がけて技術研究所を設立した
- [31]1966年春に完成した電子計算センターのHITAC-5020を耐震設計計算・地震応答解析・工程管理に用いた
- [35]1961年9月1日の増資にあたり株式を公開
- [36]1963年の年間受注高1,368億円は、世界首位だった米国モリソン・クヌードセン社の1,115億円を上回った
- 証券アナリストジャーナル 1965年3巻1号
- [26]業界では「新しいもの好き」と呼ばれていた
- [27]原子力が導入されると直ちに原子力室を設け、技術研究所で国の補助金を受けて建設関係の原子力研究を進めた
- [28]東海村の第一号原子炉は鹿島建設と清水建設のジョイント・ベンチャーによる施工
- [29]モノレールでは日立製作所と提携し、羽田〜浜松町間で最も多くの工区を手がけた
- [30]超高層ビルについても早くから電子計算機を駆使して研究を重ねた
1964年〜霞が関ビルと合理化が導いたエンジニア・コンストラクターへの移行
1968年3月に完成した三井不動産の霞が関ビルは、日本で最初の本格的な超高層ビルとなった。この工事では、施主の三井不動産、設計事務所、鹿島建設の三者で企画委員会を作り、基本的なプランニングの段階から参画した。当初は9階建ての計画だったが、周辺の交通問題・日照・人の動線を検討した結果、最終的に36階建てとなった。構造設計では早くから導入していたコンピュータを使い、新理論・新手法による構造計算を成立させた。施工は超高層が初めてだったため極力プレハブ化して現場で組み立て、工期の短縮と安全の確保を図り、坪当たり30万円程度で仕上げた。計画から設計・施工まで一貫して参画すれば合理化の余地が生まれるという認識は、この工事で初めて得られた。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「鹿島建設」
- [37]1968年3月に完成した三井不動産・霞が関ビルは日本で初めての本格的な超高層ビル
- 証券アナリストジャーナル 1970年8巻3号
- [38]施主の三井不動産・設計事務所・鹿島建設で企画委員会を作り、基本的なプランニングの段階から参画した
- [39]当初9階建ての計画が、交通問題・日照・人の動線の検討を経て最終的に36階建てとなった
- [40]早くからコンピュータを導入して研究を進めており、新理論・新手法による構造計算に成功した
- [41]超高層は初めての施工のため極力プレハブ化して現場組立てを行い、坪当たり30万円程度で仕上げた
- [42]建設工事へのシステム的な取り組み方を初めて経験できたのが霞が関ビルだった
合理化の焦点は現場労務者のアイドルタイムで、一つの仕事から次の仕事へ移るときに段取りが整っていないと手待ちが生じ、一般の建設業では多いときに3割前後へ及んだ。1966年に社長へ就任した渥美健夫氏は、就任以来この問題を細目にわたって追及する姿勢を取った。現場労務者が最も多かったのは東京オリンピック関連工事の1964年で1日平均5万2,000人だったが、1969年には工事量が1964年の1.9倍へ増えた一方、労務者は4万1,000人まで減った。1969年11月期の受注工事高は1,559億円で、土木540億円・建築1,019億円と両分野が業界で初めて500億円と1,000億円の大台に乗り、特命比率は72%に達した。
- 証券アナリストジャーナル 1970年8巻3号
- [43]現場労務者のアイドルタイムは一般の建設業で多いときに3割前後に及ぶといわれた
- [45]渥美健夫氏は社長就任以来、合理化問題を細目にわたって追求する姿勢をとった
- [46]現場労務者は1964年の1日平均5万2,000人に対し、1969年は工事量が1.9倍でも4万1,000人に減った
- [47]1969年11月期の受注工事高1,559億円(土木540億円・建築1,019億円)で両分野とも業界初の大台に乗せた
- [48]1969年11月期の特命比率は72%で業界最高
- 日経ビジネス 1973年8月20日号
- [44]渥美健夫氏は1966年に取締役社長へ就任
1970年の株主総会で定款を一部改正し、英文名を「カジマ・コンストラクション・カンパニー・リミテッド」から「カジマ・コーポレーション」へ改めた。米国でコンストラクション・カンパニーは、与えられた図面に従って施工だけを行う会社と受け取られており、その名では実力を低く評価されるという判断だった。海外工事は1954年に始めており、1970年初めまでに34件・238億6,000万円を積んでいたが、全工事量に占める比率は2%弱にとどまっていた。1977年には、企業化調査から施工までを一括で請け負うエンジニア・コンストラクターへの移行を掲げ、子会社19社の合計売上高802億円というグループの総合力が問われる段階に入った。看板の書き換えに実体が追いつくかどうかが、この時点の課題だった。
- 証券アナリストジャーナル 1970年8巻3号
- [49]1970年の株主総会で定款を一部改正し、英文名をカジマ・コンストラクション・カンパニー・リミテッドからカジマ・コーポレーションへ変更
- [50]米国でコンストラクション・カンパニーは図面に従って施工のみを行う会社と受け取られ、実力を低く評価されるとの判断があった
- [51]海外工事は1954年に開始し、1970年初めまでに34件・238億6,000万円。全工事量に占める比率は2%弱
- 日経ビジネス 1977年2月28日号
- [52]企業化調査などのコンサルティング業務から施工までを一括受注するエンジニア・コンストラクターへの道を模索し始めた
- [53]子会社は19社で合計売上高は802億円、本社の14%強にとどまっていた
参考文献[37]-[53]
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「鹿島建設」
- [37]1968年3月に完成した三井不動産・霞が関ビルは日本で初めての本格的な超高層ビル
- 証券アナリストジャーナル 1970年8巻3号
- [38]施主の三井不動産・設計事務所・鹿島建設で企画委員会を作り、基本的なプランニングの段階から参画した
- [39]当初9階建ての計画が、交通問題・日照・人の動線の検討を経て最終的に36階建てとなった
- [40]早くからコンピュータを導入して研究を進めており、新理論・新手法による構造計算に成功した
- [41]超高層は初めての施工のため極力プレハブ化して現場組立てを行い、坪当たり30万円程度で仕上げた
- [42]建設工事へのシステム的な取り組み方を初めて経験できたのが霞が関ビルだった
- [43]現場労務者のアイドルタイムは一般の建設業で多いときに3割前後に及ぶといわれた
- [45]渥美健夫氏は社長就任以来、合理化問題を細目にわたって追求する姿勢をとった
- [46]現場労務者は1964年の1日平均5万2,000人に対し、1969年は工事量が1.9倍でも4万1,000人に減った
- [47]1969年11月期の受注工事高1,559億円(土木540億円・建築1,019億円)で両分野とも業界初の大台に乗せた
- [48]1969年11月期の特命比率は72%で業界最高
- [49]1970年の株主総会で定款を一部改正し、英文名をカジマ・コンストラクション・カンパニー・リミテッドからカジマ・コーポレーションへ変更
- [50]米国でコンストラクション・カンパニーは図面に従って施工のみを行う会社と受け取られ、実力を低く評価されるとの判断があった
- [51]海外工事は1954年に開始し、1970年初めまでに34件・238億6,000万円。全工事量に占める比率は2%弱
- 日経ビジネス 1973年8月20日号
- [44]渥美健夫氏は1966年に取締役社長へ就任
- 日経ビジネス 1977年2月28日号
- [52]企業化調査などのコンサルティング業務から施工までを一括受注するエンジニア・コンストラクターへの道を模索し始めた
- [53]子会社は19社で合計売上高は802億円、本社の14%強にとどまっていた
筆者考察
1949年に技術研究所を建てた時点で、鹿島建設に超高層ビルの受注は1件も無かった。研究所を調布へ新築したときの費用に充てたのは、厚木と松島の飛行場工事で申し立てたクレームが認められて戻った約7,000万円のうち、およそ半分である。帳簿の上では既に失われていた金であり、使わなくても損益は動かない。その金を研究設備へ入れた判断が、東海村第一号原子炉の施工、羽田と浜松町を結ぶモノレール、そして霞が関ビルの構造計算へ順に接続した。受注の実績が無い分野で先に技術を持つことが、建設業では特命で仕事が回ってくる条件になる。
建設業は、図面を渡されてから始まる商売である。その順番を崩したのが霞が関ビルだった。施主の三井不動産と設計事務所と鹿島建設が企画委員会を作り、当初9階だった計画は検討を重ねて36階になった。構造計算も施工方法も、計画が固まってから割り当てられたのではなく、計画そのものを決める過程のなかで選ばれている。渥美健夫氏はこの工事を、建設業が本来持っていたシステム産業としての性格を初めて自覚した場面として語った。1970年に英文名をカジマ・コンストラクション・カンパニーからカジマ・コーポレーションへ改めたのは、施工だけを請け負う会社という看板を自ら下ろす手続きだった。
- 棒はすべて単体。1963年11月期から1969年11月期は手元に数値が無い。
- 出所は1962年11月期までがダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、1970年11月期以降が会社年鑑 1976年版。いずれも上下期の合算。
1947年〜1977年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年11月期 | 単体 | 264 | n/a | n/a | 7 | 3.0% | n/a | n/a |
| 1958年11月期 | 単体 | 310 | +17.3% | n/a | 9 | 3.0% | n/a | n/a |
| 1959年11月期 | 単体 | 379 | +22.3% | n/a | 11 | 2.9% | n/a | n/a |
| 1960年11月期 | 単体 | 471 | +24.1% | n/a | 19 | 4.2% | n/a | n/a |
| 1961年11月期 | 単体 | 714 | +51.7% | 39 | 38 | 5.5% | 22 | n/a |
| 1962年11月期 | 単体 | 912 | +27.8% | 52 | 50 | 5.6% | 29 | n/a |
| 1963年11月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年11月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年11月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年11月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年11月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年11月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年11月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年11月期 | 単体 | 3,024 | n/a | n/a | 206 | 6.8% | 116 | n/a |
| 1971年11月期 | 単体 | 3,374 | +11.6% | n/a | 225 | 6.7% | 129 | n/a |
| 1972年11月期 | 単体 | 3,624 | +7.4% | n/a | 231 | 6.4% | 131 | n/a |
| 1973年11月期 | 単体 | 4,415 | +21.8% | n/a | 269 | 6.1% | 146 | n/a |
| 1974年11月期 | 単体 | 5,567 | +26.1% | n/a | 281 | 5.1% | 131 | n/a |
| 1975年11月期 | 単体 | 5,604 | +0.7% | n/a | 326 | 5.8% | 151 | n/a |
| 1976年11月期 | 単体 | 5,609 | +0.1% | n/a | 315 | 5.6% | 154 | n/a |
| 1977年11月期 | 単体 | 5,256 | ▲6.3% | n/a | 256 | 4.9% | 132 | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑 1976年版、会社年鑑
出典・参考
7件
- 会社銀行八十年史(1955年)「鹿島建設」
- 歴史をつくる人々(1965年)鹿島守之助「事業経営の目標」
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「鹿島建設」
- 証券アナリストジャーナル 1965年3巻1号
- 証券アナリストジャーナル 1970年8巻3号
- 日経ビジネス 1973年8月20日号
- 日経ビジネス 1977年2月28日号