鹿島岩吉
経歴1840〜1884年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1840年主要役職の状況(推定含む目安)1884年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 大岩(個人営業の棟梁。明治に入り鹿島方) | 1840 | 創業 | ||
| 1860 | 横浜で英一番館を施工 | ||||
| 1884 | 死去 |
創業ストーリー
創業ストーリー
鹿島岩吉氏は1816年、武蔵国入間郡上新井村(現在の埼玉県所沢市)で、代々庄屋格の豪農の家に生まれた。生家の鹿島市左衛門家は、江戸の大名屋敷へ木炭を納める請負と金融業を兼ねていた。鹿島岩吉氏は家業とは別の道を選び、江戸に出て大工になろうと志し、四谷の棟梁のもとで徒弟奉公に入った。
- 『鹿島建設 百四十年の歩み』(鹿島建設, 1980年)
- [1]鹿島岩吉は武蔵国入間郡上新井村(現在、埼玉県所沢市)の人で、文化十三年(一八一六年)に生まれた。生家は代々、庄屋格の豪農であったが、岩吉は一念発起し、江戸に出て大工になろうと青雲の志を立て、江戸の棟梁のもとできびしい徒弟奉公に耐えた。天保十一年(一八四〇年)二五歳の若年で独立、「大岩」と称して一本立の棟梁となった。やがて桑名侯松平越中守など三侯の大名屋敷のお出入大工となることに成功し、その竪看板を三枚、店頭に連ねた町方大工として、一流の棟梁となった。江戸の棟梁のなかで新時代の到来を明敏に見抜いたものはいち早く横浜へ進出し、鹿島岩吉もその一人であった。岩吉は英国商社ジャーディン・マジソン商会の支配人ケスウイッキの知遇を受け、万延元年(一八六〇年)、同商会の建物、通称英一番館の建築工事を請負い、みごとに完成した。同館は木造石張り二階建ての建物で、錦絵に描かれもてはやされた。英一番館の跡地には、昭和三十四年、鹿島建設が施工したシルクセンター観光貿易会館が建っている。英一番館に隣接した米国ウォルシュホール商会のアメリカ一番館の建築を請負い、その紹介によって以後、横浜居留地の異人館の建築を相次いで請負った。明治維新を迎えて、岩吉は「大岩」を改めて「鹿島方」を称した。岩吉の長男が岩蔵で、天保十五年(一八四四年)に江戸で生まれた。鼈甲商「幸手屋」に徒弟奉公し、ほどなく外人と商取引を行なうことを志し横浜に進出したが振わず、一方、父岩吉が老齢となり、岩蔵は商人を断念、家業を継いで再発足を図った。明治七年には神奈川県庁の指定請負人となった。父岩吉は明治十七年四月に死去した
- [3]鹿島岩吉は武蔵国入間郡上新井村(現在、埼玉県所沢市)の人で、文化十三年(一八一六年)に生まれた。生家は代々、庄屋格の豪農であったが、岩吉は一念発起し、江戸に出て大工になろうと青雲の志を立て、江戸の棟梁のもとできびしい徒弟奉公に耐えた。天保十一年(一八四〇年)二五歳の若年で独立、「大岩」と称して一本立の棟梁となった。やがて桑名侯松平越中守など三侯の大名屋敷のお出入大工となることに成功し、その竪看板を三枚、店頭に連ねた町方大工として、一流の棟梁となった。江戸の棟梁のなかで新時代の到来を明敏に見抜いたものはいち早く横浜へ進出し、鹿島岩吉もその一人であった。岩吉は英国商社ジャーディン・マジソン商会の支配人ケスウイッキの知遇を受け、万延元年(一八六〇年)、同商会の建物、通称英一番館の建築工事を請負い、みごとに完成した。同館は木造石張り二階建ての建物で、錦絵に描かれもてはやされた。英一番館の跡地には、昭和三十四年、鹿島建設が施工したシルクセンター観光貿易会館が建っている。英一番館に隣接した米国ウォルシュホール商会のアメリカ一番館の建築を請負い、その紹介によって以後、横浜居留地の異人館の建築を相次いで請負った。明治維新を迎えて、岩吉は「大岩」を改めて「鹿島方」を称した。岩吉の長男が岩蔵で、天保十五年(一八四四年)に江戸で生まれた。鼈甲商「幸手屋」に徒弟奉公し、ほどなく外人と商取引を行なうことを志し横浜に進出したが振わず、一方、父岩吉が老齢となり、岩蔵は商人を断念、家業を継いで再発足を図った。明治七年には神奈川県庁の指定請負人となった。父岩吉は明治十七年四月に死去した
- 『鹿島建設の歩み 人が事業であった頃』(1989年)
- [2]鹿島市左衛門家は「明石屋」と称して木炭納人請負と金融業を兼業していた。鹿島岩吉の弟子入り先は四谷の某棟梁。棟梁として店を構えたのは天保十一年(一八四〇)、二十五歳の時。この頃の棟梁の地位は「仲間」(同業組合)の権利株となっていて金銭で譲渡することができ、岩吉は数百両にのぼる株の買収代金を工面した。棟梁は施主の代理となって鳶や石工や左官や瓦屋などまで工程の進行について打ち合わせたり急がせたりしなくてはならず、大工としての腕に加えてマネージメントの能力が要求される時代になってきた。独立してから間もなく岩吉は嫁を迎えた。天保十四年(一八四三)だろうと推定される。新妻は佐藤スマといい、信州飯山藩士の娘である。店を伜に譲って引退した鹿島岩吉は東京に戻り、明治九年頃には京橋木挽町九丁目二八番地に住んでいた
- [4]鹿島市左衛門家は「明石屋」と称して木炭納人請負と金融業を兼業していた。鹿島岩吉の弟子入り先は四谷の某棟梁。棟梁として店を構えたのは天保十一年(一八四〇)、二十五歳の時。この頃の棟梁の地位は「仲間」(同業組合)の権利株となっていて金銭で譲渡することができ、岩吉は数百両にのぼる株の買収代金を工面した。棟梁は施主の代理となって鳶や石工や左官や瓦屋などまで工程の進行について打ち合わせたり急がせたりしなくてはならず、大工としての腕に加えてマネージメントの能力が要求される時代になってきた。独立してから間もなく岩吉は嫁を迎えた。天保十四年(一八四三)だろうと推定される。新妻は佐藤スマといい、信州飯山藩士の娘である。店を伜に譲って引退した鹿島岩吉は東京に戻り、明治九年頃には京橋木挽町九丁目二八番地に住んでいた
1840年、鹿島岩吉氏は25歳で独立し、「大岩」と称して一本立ちの棟梁となった。会社の沿革は、創業の地を江戸中橋正木町としている。当時の棟梁の地位は同業の仲間内で売り買いされる権利株で、鹿島岩吉氏は数百両にのぼる代金を工面して株を取得した。独立して間もない1843年頃には、信州飯山藩士の娘を妻に迎えたと推定されている。江戸の後期には、棟梁が施主の代理として鳶・左官・瓦屋などの職方の工程をまとめる役も担うようになり、大工の腕に加えて現場を管理する力が求められていた。鹿島岩吉氏はやがて桑名侯松平越中守など3家の大名屋敷のお出入大工となり、その竪看板を3枚店頭に掲げる一流の町方大工となった。
- 『鹿島建設 百四十年の歩み』(鹿島建設, 1980年)
- [5]鹿島岩吉は武蔵国入間郡上新井村(現在、埼玉県所沢市)の人で、文化十三年(一八一六年)に生まれた。生家は代々、庄屋格の豪農であったが、岩吉は一念発起し、江戸に出て大工になろうと青雲の志を立て、江戸の棟梁のもとできびしい徒弟奉公に耐えた。天保十一年(一八四〇年)二五歳の若年で独立、「大岩」と称して一本立の棟梁となった。やがて桑名侯松平越中守など三侯の大名屋敷のお出入大工となることに成功し、その竪看板を三枚、店頭に連ねた町方大工として、一流の棟梁となった。江戸の棟梁のなかで新時代の到来を明敏に見抜いたものはいち早く横浜へ進出し、鹿島岩吉もその一人であった。岩吉は英国商社ジャーディン・マジソン商会の支配人ケスウイッキの知遇を受け、万延元年(一八六〇年)、同商会の建物、通称英一番館の建築工事を請負い、みごとに完成した。同館は木造石張り二階建ての建物で、錦絵に描かれもてはやされた。英一番館の跡地には、昭和三十四年、鹿島建設が施工したシルクセンター観光貿易会館が建っている。英一番館に隣接した米国ウォルシュホール商会のアメリカ一番館の建築を請負い、その紹介によって以後、横浜居留地の異人館の建築を相次いで請負った。明治維新を迎えて、岩吉は「大岩」を改めて「鹿島方」を称した。岩吉の長男が岩蔵で、天保十五年(一八四四年)に江戸で生まれた。鼈甲商「幸手屋」に徒弟奉公し、ほどなく外人と商取引を行なうことを志し横浜に進出したが振わず、一方、父岩吉が老齢となり、岩蔵は商人を断念、家業を継いで再発足を図った。明治七年には神奈川県庁の指定請負人となった。父岩吉は明治十七年四月に死去した
- [10]鹿島岩吉は武蔵国入間郡上新井村(現在、埼玉県所沢市)の人で、文化十三年(一八一六年)に生まれた。生家は代々、庄屋格の豪農であったが、岩吉は一念発起し、江戸に出て大工になろうと青雲の志を立て、江戸の棟梁のもとできびしい徒弟奉公に耐えた。天保十一年(一八四〇年)二五歳の若年で独立、「大岩」と称して一本立の棟梁となった。やがて桑名侯松平越中守など三侯の大名屋敷のお出入大工となることに成功し、その竪看板を三枚、店頭に連ねた町方大工として、一流の棟梁となった。江戸の棟梁のなかで新時代の到来を明敏に見抜いたものはいち早く横浜へ進出し、鹿島岩吉もその一人であった。岩吉は英国商社ジャーディン・マジソン商会の支配人ケスウイッキの知遇を受け、万延元年(一八六〇年)、同商会の建物、通称英一番館の建築工事を請負い、みごとに完成した。同館は木造石張り二階建ての建物で、錦絵に描かれもてはやされた。英一番館の跡地には、昭和三十四年、鹿島建設が施工したシルクセンター観光貿易会館が建っている。英一番館に隣接した米国ウォルシュホール商会のアメリカ一番館の建築を請負い、その紹介によって以後、横浜居留地の異人館の建築を相次いで請負った。明治維新を迎えて、岩吉は「大岩」を改めて「鹿島方」を称した。岩吉の長男が岩蔵で、天保十五年(一八四四年)に江戸で生まれた。鼈甲商「幸手屋」に徒弟奉公し、ほどなく外人と商取引を行なうことを志し横浜に進出したが振わず、一方、父岩吉が老齢となり、岩蔵は商人を断念、家業を継いで再発足を図った。明治七年には神奈川県庁の指定請負人となった。父岩吉は明治十七年四月に死去した
- 鹿島建設 公式サイト「沿革」
- [6]1840(天保11)年 鹿島岩吉、江戸中橋正木町で創業。1860(万延元)年 横浜に英一番館、アメリカ一番館を建築。洋風建築に先鞭。1880(明治13)年 鹿島組創立。東京京橋木挽町に本店を構え、鹿島岩蔵が初代組長となる
- 『鹿島建設の歩み 人が事業であった頃』(1989年)
- [7]鹿島市左衛門家は「明石屋」と称して木炭納人請負と金融業を兼業していた。鹿島岩吉の弟子入り先は四谷の某棟梁。棟梁として店を構えたのは天保十一年(一八四〇)、二十五歳の時。この頃の棟梁の地位は「仲間」(同業組合)の権利株となっていて金銭で譲渡することができ、岩吉は数百両にのぼる株の買収代金を工面した。棟梁は施主の代理となって鳶や石工や左官や瓦屋などまで工程の進行について打ち合わせたり急がせたりしなくてはならず、大工としての腕に加えてマネージメントの能力が要求される時代になってきた。独立してから間もなく岩吉は嫁を迎えた。天保十四年(一八四三)だろうと推定される。新妻は佐藤スマといい、信州飯山藩士の娘である。店を伜に譲って引退した鹿島岩吉は東京に戻り、明治九年頃には京橋木挽町九丁目二八番地に住んでいた
- [8]鹿島市左衛門家は「明石屋」と称して木炭納人請負と金融業を兼業していた。鹿島岩吉の弟子入り先は四谷の某棟梁。棟梁として店を構えたのは天保十一年(一八四〇)、二十五歳の時。この頃の棟梁の地位は「仲間」(同業組合)の権利株となっていて金銭で譲渡することができ、岩吉は数百両にのぼる株の買収代金を工面した。棟梁は施主の代理となって鳶や石工や左官や瓦屋などまで工程の進行について打ち合わせたり急がせたりしなくてはならず、大工としての腕に加えてマネージメントの能力が要求される時代になってきた。独立してから間もなく岩吉は嫁を迎えた。天保十四年(一八四三)だろうと推定される。新妻は佐藤スマといい、信州飯山藩士の娘である。店を伜に譲って引退した鹿島岩吉は東京に戻り、明治九年頃には京橋木挽町九丁目二八番地に住んでいた
- [9]鹿島市左衛門家は「明石屋」と称して木炭納人請負と金融業を兼業していた。鹿島岩吉の弟子入り先は四谷の某棟梁。棟梁として店を構えたのは天保十一年(一八四〇)、二十五歳の時。この頃の棟梁の地位は「仲間」(同業組合)の権利株となっていて金銭で譲渡することができ、岩吉は数百両にのぼる株の買収代金を工面した。棟梁は施主の代理となって鳶や石工や左官や瓦屋などまで工程の進行について打ち合わせたり急がせたりしなくてはならず、大工としての腕に加えてマネージメントの能力が要求される時代になってきた。独立してから間もなく岩吉は嫁を迎えた。天保十四年(一八四三)だろうと推定される。新妻は佐藤スマといい、信州飯山藩士の娘である。店を伜に譲って引退した鹿島岩吉は東京に戻り、明治九年頃には京橋木挽町九丁目二八番地に住んでいた
1859年に横浜が開港すると、居留地の建設で建築の需要が急増し、鹿島岩吉氏はいち早く横浜へ進出した。英国商社ジャーディン・マセソン商会の支配人ケスウィックの知遇を受け、1860年に同商会の建物、通称「英一番館」の建築を請け負って完成させた。木造石張り二階建ての洋館で、錦絵にも描かれてもてはやされた。英一番館の跡地には、1959年に鹿島建設の施工したシルクセンターの建物が建っている。続いて隣接する米国ウォルシュ・ホール商会のアメリカ一番館も請け負い、その紹介で横浜居留地の異人館を相次いで手がけた。短い期間で洋風の建築工法を身につけたことで、洋式建築請負の代表的な業者の一人に数えられた。
- 『鹿島建設 百四十年の歩み』(鹿島建設, 1980年)
- [11]鹿島岩吉は武蔵国入間郡上新井村(現在、埼玉県所沢市)の人で、文化十三年(一八一六年)に生まれた。生家は代々、庄屋格の豪農であったが、岩吉は一念発起し、江戸に出て大工になろうと青雲の志を立て、江戸の棟梁のもとできびしい徒弟奉公に耐えた。天保十一年(一八四〇年)二五歳の若年で独立、「大岩」と称して一本立の棟梁となった。やがて桑名侯松平越中守など三侯の大名屋敷のお出入大工となることに成功し、その竪看板を三枚、店頭に連ねた町方大工として、一流の棟梁となった。江戸の棟梁のなかで新時代の到来を明敏に見抜いたものはいち早く横浜へ進出し、鹿島岩吉もその一人であった。岩吉は英国商社ジャーディン・マジソン商会の支配人ケスウイッキの知遇を受け、万延元年(一八六〇年)、同商会の建物、通称英一番館の建築工事を請負い、みごとに完成した。同館は木造石張り二階建ての建物で、錦絵に描かれもてはやされた。英一番館の跡地には、昭和三十四年、鹿島建設が施工したシルクセンター観光貿易会館が建っている。英一番館に隣接した米国ウォルシュホール商会のアメリカ一番館の建築を請負い、その紹介によって以後、横浜居留地の異人館の建築を相次いで請負った。明治維新を迎えて、岩吉は「大岩」を改めて「鹿島方」を称した。岩吉の長男が岩蔵で、天保十五年(一八四四年)に江戸で生まれた。鼈甲商「幸手屋」に徒弟奉公し、ほどなく外人と商取引を行なうことを志し横浜に進出したが振わず、一方、父岩吉が老齢となり、岩蔵は商人を断念、家業を継いで再発足を図った。明治七年には神奈川県庁の指定請負人となった。父岩吉は明治十七年四月に死去した
- [13]鹿島岩吉は武蔵国入間郡上新井村(現在、埼玉県所沢市)の人で、文化十三年(一八一六年)に生まれた。生家は代々、庄屋格の豪農であったが、岩吉は一念発起し、江戸に出て大工になろうと青雲の志を立て、江戸の棟梁のもとできびしい徒弟奉公に耐えた。天保十一年(一八四〇年)二五歳の若年で独立、「大岩」と称して一本立の棟梁となった。やがて桑名侯松平越中守など三侯の大名屋敷のお出入大工となることに成功し、その竪看板を三枚、店頭に連ねた町方大工として、一流の棟梁となった。江戸の棟梁のなかで新時代の到来を明敏に見抜いたものはいち早く横浜へ進出し、鹿島岩吉もその一人であった。岩吉は英国商社ジャーディン・マジソン商会の支配人ケスウイッキの知遇を受け、万延元年(一八六〇年)、同商会の建物、通称英一番館の建築工事を請負い、みごとに完成した。同館は木造石張り二階建ての建物で、錦絵に描かれもてはやされた。英一番館の跡地には、昭和三十四年、鹿島建設が施工したシルクセンター観光貿易会館が建っている。英一番館に隣接した米国ウォルシュホール商会のアメリカ一番館の建築を請負い、その紹介によって以後、横浜居留地の異人館の建築を相次いで請負った。明治維新を迎えて、岩吉は「大岩」を改めて「鹿島方」を称した。岩吉の長男が岩蔵で、天保十五年(一八四四年)に江戸で生まれた。鼈甲商「幸手屋」に徒弟奉公し、ほどなく外人と商取引を行なうことを志し横浜に進出したが振わず、一方、父岩吉が老齢となり、岩蔵は商人を断念、家業を継いで再発足を図った。明治七年には神奈川県庁の指定請負人となった。父岩吉は明治十七年四月に死去した
- [15]鹿島岩吉は武蔵国入間郡上新井村(現在、埼玉県所沢市)の人で、文化十三年(一八一六年)に生まれた。生家は代々、庄屋格の豪農であったが、岩吉は一念発起し、江戸に出て大工になろうと青雲の志を立て、江戸の棟梁のもとできびしい徒弟奉公に耐えた。天保十一年(一八四〇年)二五歳の若年で独立、「大岩」と称して一本立の棟梁となった。やがて桑名侯松平越中守など三侯の大名屋敷のお出入大工となることに成功し、その竪看板を三枚、店頭に連ねた町方大工として、一流の棟梁となった。江戸の棟梁のなかで新時代の到来を明敏に見抜いたものはいち早く横浜へ進出し、鹿島岩吉もその一人であった。岩吉は英国商社ジャーディン・マジソン商会の支配人ケスウイッキの知遇を受け、万延元年(一八六〇年)、同商会の建物、通称英一番館の建築工事を請負い、みごとに完成した。同館は木造石張り二階建ての建物で、錦絵に描かれもてはやされた。英一番館の跡地には、昭和三十四年、鹿島建設が施工したシルクセンター観光貿易会館が建っている。英一番館に隣接した米国ウォルシュホール商会のアメリカ一番館の建築を請負い、その紹介によって以後、横浜居留地の異人館の建築を相次いで請負った。明治維新を迎えて、岩吉は「大岩」を改めて「鹿島方」を称した。岩吉の長男が岩蔵で、天保十五年(一八四四年)に江戸で生まれた。鼈甲商「幸手屋」に徒弟奉公し、ほどなく外人と商取引を行なうことを志し横浜に進出したが振わず、一方、父岩吉が老齢となり、岩蔵は商人を断念、家業を継いで再発足を図った。明治七年には神奈川県庁の指定請負人となった。父岩吉は明治十七年四月に死去した
- [16]鹿島岩吉は武蔵国入間郡上新井村(現在、埼玉県所沢市)の人で、文化十三年(一八一六年)に生まれた。生家は代々、庄屋格の豪農であったが、岩吉は一念発起し、江戸に出て大工になろうと青雲の志を立て、江戸の棟梁のもとできびしい徒弟奉公に耐えた。天保十一年(一八四〇年)二五歳の若年で独立、「大岩」と称して一本立の棟梁となった。やがて桑名侯松平越中守など三侯の大名屋敷のお出入大工となることに成功し、その竪看板を三枚、店頭に連ねた町方大工として、一流の棟梁となった。江戸の棟梁のなかで新時代の到来を明敏に見抜いたものはいち早く横浜へ進出し、鹿島岩吉もその一人であった。岩吉は英国商社ジャーディン・マジソン商会の支配人ケスウイッキの知遇を受け、万延元年(一八六〇年)、同商会の建物、通称英一番館の建築工事を請負い、みごとに完成した。同館は木造石張り二階建ての建物で、錦絵に描かれもてはやされた。英一番館の跡地には、昭和三十四年、鹿島建設が施工したシルクセンター観光貿易会館が建っている。英一番館に隣接した米国ウォルシュホール商会のアメリカ一番館の建築を請負い、その紹介によって以後、横浜居留地の異人館の建築を相次いで請負った。明治維新を迎えて、岩吉は「大岩」を改めて「鹿島方」を称した。岩吉の長男が岩蔵で、天保十五年(一八四四年)に江戸で生まれた。鼈甲商「幸手屋」に徒弟奉公し、ほどなく外人と商取引を行なうことを志し横浜に進出したが振わず、一方、父岩吉が老齢となり、岩蔵は商人を断念、家業を継いで再発足を図った。明治七年には神奈川県庁の指定請負人となった。父岩吉は明治十七年四月に死去した
- [17]鹿島岩吉は武蔵国入間郡上新井村(現在、埼玉県所沢市)の人で、文化十三年(一八一六年)に生まれた。生家は代々、庄屋格の豪農であったが、岩吉は一念発起し、江戸に出て大工になろうと青雲の志を立て、江戸の棟梁のもとできびしい徒弟奉公に耐えた。天保十一年(一八四〇年)二五歳の若年で独立、「大岩」と称して一本立の棟梁となった。やがて桑名侯松平越中守など三侯の大名屋敷のお出入大工となることに成功し、その竪看板を三枚、店頭に連ねた町方大工として、一流の棟梁となった。江戸の棟梁のなかで新時代の到来を明敏に見抜いたものはいち早く横浜へ進出し、鹿島岩吉もその一人であった。岩吉は英国商社ジャーディン・マジソン商会の支配人ケスウイッキの知遇を受け、万延元年(一八六〇年)、同商会の建物、通称英一番館の建築工事を請負い、みごとに完成した。同館は木造石張り二階建ての建物で、錦絵に描かれもてはやされた。英一番館の跡地には、昭和三十四年、鹿島建設が施工したシルクセンター観光貿易会館が建っている。英一番館に隣接した米国ウォルシュホール商会のアメリカ一番館の建築を請負い、その紹介によって以後、横浜居留地の異人館の建築を相次いで請負った。明治維新を迎えて、岩吉は「大岩」を改めて「鹿島方」を称した。岩吉の長男が岩蔵で、天保十五年(一八四四年)に江戸で生まれた。鼈甲商「幸手屋」に徒弟奉公し、ほどなく外人と商取引を行なうことを志し横浜に進出したが振わず、一方、父岩吉が老齢となり、岩蔵は商人を断念、家業を継いで再発足を図った。明治七年には神奈川県庁の指定請負人となった。父岩吉は明治十七年四月に死去した
- 『鹿島建設百三十年史』(鹿島建設社史編纂委員会, 1971年)百三十年の回顧
- [12]初代鹿島岩吉は幕末開国時にいち早く新時代の到来を見抜き、開港で賑う横浜へと進出した。当時の横浜は開港による居留地の建設と新しい街づくりのため建築需要がにわかに活況を呈した。岩吉は当地において短時日に洋風建築工法をマスターするとともに、「英一番館」「アメリカ一番館」など多くの洋風建物を手掛け、まもなく洋式建築請負の代表的業者の一人として数えられるにいたった。岩蔵は井上勝鉄道頭の勧めもあって従来の建築業と訣別し、明治十三年、鉄道請負業一本へと踏みきった
- [19]初代鹿島岩吉は幕末開国時にいち早く新時代の到来を見抜き、開港で賑う横浜へと進出した。当時の横浜は開港による居留地の建設と新しい街づくりのため建築需要がにわかに活況を呈した。岩吉は当地において短時日に洋風建築工法をマスターするとともに、「英一番館」「アメリカ一番館」など多くの洋風建物を手掛け、まもなく洋式建築請負の代表的業者の一人として数えられるにいたった。岩蔵は井上勝鉄道頭の勧めもあって従来の建築業と訣別し、明治十三年、鉄道請負業一本へと踏みきった
- 鹿島建設 公式サイト「沿革」
- [14]1840(天保11)年 鹿島岩吉、江戸中橋正木町で創業。1860(万延元)年 横浜に英一番館、アメリカ一番館を建築。洋風建築に先鞭。1880(明治13)年 鹿島組創立。東京京橋木挽町に本店を構え、鹿島岩蔵が初代組長となる
- [18]1840(天保11)年 鹿島岩吉、江戸中橋正木町で創業。1860(万延元)年 横浜に英一番館、アメリカ一番館を建築。洋風建築に先鞭。1880(明治13)年 鹿島組創立。東京京橋木挽町に本店を構え、鹿島岩蔵が初代組長となる
明治維新を迎えると、鹿島岩吉氏は屋号を「大岩」から「鹿島方」へ改めた。1844年生まれの長男・鹿島岩蔵氏は鼈甲商で修業し、横浜で外国人との商取引を志したが振るわなかった。父の鹿島岩吉氏が老齢となったことから、鹿島岩蔵氏は商人を断念して家業を継ぎ、1874年には神奈川県庁から指定を受けた請負業者の一人に加わった。鹿島岩吉氏は店を鹿島岩蔵氏に譲って引退し、1876年頃には東京の京橋木挽町に住んでいた。
- 『鹿島建設 百四十年の歩み』(鹿島建設, 1980年)
- [20]鹿島岩吉は武蔵国入間郡上新井村(現在、埼玉県所沢市)の人で、文化十三年(一八一六年)に生まれた。生家は代々、庄屋格の豪農であったが、岩吉は一念発起し、江戸に出て大工になろうと青雲の志を立て、江戸の棟梁のもとできびしい徒弟奉公に耐えた。天保十一年(一八四〇年)二五歳の若年で独立、「大岩」と称して一本立の棟梁となった。やがて桑名侯松平越中守など三侯の大名屋敷のお出入大工となることに成功し、その竪看板を三枚、店頭に連ねた町方大工として、一流の棟梁となった。江戸の棟梁のなかで新時代の到来を明敏に見抜いたものはいち早く横浜へ進出し、鹿島岩吉もその一人であった。岩吉は英国商社ジャーディン・マジソン商会の支配人ケスウイッキの知遇を受け、万延元年(一八六〇年)、同商会の建物、通称英一番館の建築工事を請負い、みごとに完成した。同館は木造石張り二階建ての建物で、錦絵に描かれもてはやされた。英一番館の跡地には、昭和三十四年、鹿島建設が施工したシルクセンター観光貿易会館が建っている。英一番館に隣接した米国ウォルシュホール商会のアメリカ一番館の建築を請負い、その紹介によって以後、横浜居留地の異人館の建築を相次いで請負った。明治維新を迎えて、岩吉は「大岩」を改めて「鹿島方」を称した。岩吉の長男が岩蔵で、天保十五年(一八四四年)に江戸で生まれた。鼈甲商「幸手屋」に徒弟奉公し、ほどなく外人と商取引を行なうことを志し横浜に進出したが振わず、一方、父岩吉が老齢となり、岩蔵は商人を断念、家業を継いで再発足を図った。明治七年には神奈川県庁の指定請負人となった。父岩吉は明治十七年四月に死去した
- [21]鹿島岩吉は武蔵国入間郡上新井村(現在、埼玉県所沢市)の人で、文化十三年(一八一六年)に生まれた。生家は代々、庄屋格の豪農であったが、岩吉は一念発起し、江戸に出て大工になろうと青雲の志を立て、江戸の棟梁のもとできびしい徒弟奉公に耐えた。天保十一年(一八四〇年)二五歳の若年で独立、「大岩」と称して一本立の棟梁となった。やがて桑名侯松平越中守など三侯の大名屋敷のお出入大工となることに成功し、その竪看板を三枚、店頭に連ねた町方大工として、一流の棟梁となった。江戸の棟梁のなかで新時代の到来を明敏に見抜いたものはいち早く横浜へ進出し、鹿島岩吉もその一人であった。岩吉は英国商社ジャーディン・マジソン商会の支配人ケスウイッキの知遇を受け、万延元年(一八六〇年)、同商会の建物、通称英一番館の建築工事を請負い、みごとに完成した。同館は木造石張り二階建ての建物で、錦絵に描かれもてはやされた。英一番館の跡地には、昭和三十四年、鹿島建設が施工したシルクセンター観光貿易会館が建っている。英一番館に隣接した米国ウォルシュホール商会のアメリカ一番館の建築を請負い、その紹介によって以後、横浜居留地の異人館の建築を相次いで請負った。明治維新を迎えて、岩吉は「大岩」を改めて「鹿島方」を称した。岩吉の長男が岩蔵で、天保十五年(一八四四年)に江戸で生まれた。鼈甲商「幸手屋」に徒弟奉公し、ほどなく外人と商取引を行なうことを志し横浜に進出したが振わず、一方、父岩吉が老齢となり、岩蔵は商人を断念、家業を継いで再発足を図った。明治七年には神奈川県庁の指定請負人となった。父岩吉は明治十七年四月に死去した
- [22]鹿島岩吉は武蔵国入間郡上新井村(現在、埼玉県所沢市)の人で、文化十三年(一八一六年)に生まれた。生家は代々、庄屋格の豪農であったが、岩吉は一念発起し、江戸に出て大工になろうと青雲の志を立て、江戸の棟梁のもとできびしい徒弟奉公に耐えた。天保十一年(一八四〇年)二五歳の若年で独立、「大岩」と称して一本立の棟梁となった。やがて桑名侯松平越中守など三侯の大名屋敷のお出入大工となることに成功し、その竪看板を三枚、店頭に連ねた町方大工として、一流の棟梁となった。江戸の棟梁のなかで新時代の到来を明敏に見抜いたものはいち早く横浜へ進出し、鹿島岩吉もその一人であった。岩吉は英国商社ジャーディン・マジソン商会の支配人ケスウイッキの知遇を受け、万延元年(一八六〇年)、同商会の建物、通称英一番館の建築工事を請負い、みごとに完成した。同館は木造石張り二階建ての建物で、錦絵に描かれもてはやされた。英一番館の跡地には、昭和三十四年、鹿島建設が施工したシルクセンター観光貿易会館が建っている。英一番館に隣接した米国ウォルシュホール商会のアメリカ一番館の建築を請負い、その紹介によって以後、横浜居留地の異人館の建築を相次いで請負った。明治維新を迎えて、岩吉は「大岩」を改めて「鹿島方」を称した。岩吉の長男が岩蔵で、天保十五年(一八四四年)に江戸で生まれた。鼈甲商「幸手屋」に徒弟奉公し、ほどなく外人と商取引を行なうことを志し横浜に進出したが振わず、一方、父岩吉が老齢となり、岩蔵は商人を断念、家業を継いで再発足を図った。明治七年には神奈川県庁の指定請負人となった。父岩吉は明治十七年四月に死去した
- 『鹿島建設の歩み 人が事業であった頃』(1989年)
- [23]鹿島市左衛門家は「明石屋」と称して木炭納人請負と金融業を兼業していた。鹿島岩吉の弟子入り先は四谷の某棟梁。棟梁として店を構えたのは天保十一年(一八四〇)、二十五歳の時。この頃の棟梁の地位は「仲間」(同業組合)の権利株となっていて金銭で譲渡することができ、岩吉は数百両にのぼる株の買収代金を工面した。棟梁は施主の代理となって鳶や石工や左官や瓦屋などまで工程の進行について打ち合わせたり急がせたりしなくてはならず、大工としての腕に加えてマネージメントの能力が要求される時代になってきた。独立してから間もなく岩吉は嫁を迎えた。天保十四年(一八四三)だろうと推定される。新妻は佐藤スマといい、信州飯山藩士の娘である。店を伜に譲って引退した鹿島岩吉は東京に戻り、明治九年頃には京橋木挽町九丁目二八番地に住んでいた
1880年、鹿島岩蔵氏は鉄道頭の井上勝の勧めもあって、従来の建築業から鉄道請負業一本へと転じた。同年に京橋木挽町に本店を構えて鹿島組を創立し、鹿島岩蔵氏が初代組長となった。鹿島岩吉氏は1884年4月に死去した。鹿島建設は、鹿島岩吉氏が江戸で棟梁として独立した1840年を創業の年としている。
- 『鹿島建設百三十年史』(鹿島建設社史編纂委員会, 1971年)百三十年の回顧
- [24]初代鹿島岩吉は幕末開国時にいち早く新時代の到来を見抜き、開港で賑う横浜へと進出した。当時の横浜は開港による居留地の建設と新しい街づくりのため建築需要がにわかに活況を呈した。岩吉は当地において短時日に洋風建築工法をマスターするとともに、「英一番館」「アメリカ一番館」など多くの洋風建物を手掛け、まもなく洋式建築請負の代表的業者の一人として数えられるにいたった。岩蔵は井上勝鉄道頭の勧めもあって従来の建築業と訣別し、明治十三年、鉄道請負業一本へと踏みきった
- 鹿島建設 公式サイト「沿革」
- [25]1840(天保11)年 鹿島岩吉、江戸中橋正木町で創業。1860(万延元)年 横浜に英一番館、アメリカ一番館を建築。洋風建築に先鞭。1880(明治13)年 鹿島組創立。東京京橋木挽町に本店を構え、鹿島岩蔵が初代組長となる
- [27]1840(天保11)年 鹿島岩吉、江戸中橋正木町で創業。1860(万延元)年 横浜に英一番館、アメリカ一番館を建築。洋風建築に先鞭。1880(明治13)年 鹿島組創立。東京京橋木挽町に本店を構え、鹿島岩蔵が初代組長となる
- 『鹿島建設 百四十年の歩み』(鹿島建設, 1980年)
- [26]鹿島岩吉は武蔵国入間郡上新井村(現在、埼玉県所沢市)の人で、文化十三年(一八一六年)に生まれた。生家は代々、庄屋格の豪農であったが、岩吉は一念発起し、江戸に出て大工になろうと青雲の志を立て、江戸の棟梁のもとできびしい徒弟奉公に耐えた。天保十一年(一八四〇年)二五歳の若年で独立、「大岩」と称して一本立の棟梁となった。やがて桑名侯松平越中守など三侯の大名屋敷のお出入大工となることに成功し、その竪看板を三枚、店頭に連ねた町方大工として、一流の棟梁となった。江戸の棟梁のなかで新時代の到来を明敏に見抜いたものはいち早く横浜へ進出し、鹿島岩吉もその一人であった。岩吉は英国商社ジャーディン・マジソン商会の支配人ケスウイッキの知遇を受け、万延元年(一八六〇年)、同商会の建物、通称英一番館の建築工事を請負い、みごとに完成した。同館は木造石張り二階建ての建物で、錦絵に描かれもてはやされた。英一番館の跡地には、昭和三十四年、鹿島建設が施工したシルクセンター観光貿易会館が建っている。英一番館に隣接した米国ウォルシュホール商会のアメリカ一番館の建築を請負い、その紹介によって以後、横浜居留地の異人館の建築を相次いで請負った。明治維新を迎えて、岩吉は「大岩」を改めて「鹿島方」を称した。岩吉の長男が岩蔵で、天保十五年(一八四四年)に江戸で生まれた。鼈甲商「幸手屋」に徒弟奉公し、ほどなく外人と商取引を行なうことを志し横浜に進出したが振わず、一方、父岩吉が老齢となり、岩蔵は商人を断念、家業を継いで再発足を図った。明治七年には神奈川県庁の指定請負人となった。父岩吉は明治十七年四月に死去した
参考文献3件
参考文献
- 『鹿島建設 百四十年の歩み』(鹿島建設, 1980年)
- 『鹿島建設の歩み 人が事業であった頃』(1989年)
- 鹿島建設 Annual Report 2011 Preliminary「Corporate History」
事実根拠:出所(鹿島建設)